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    ローマ人への手紙1章16節


    1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

    98.07.19. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    救いを得させる力

    1章16節

    私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

       16〜17節はローマ人への手紙の導入部の最後に当たる部分である。16節でパウロはまず「福音を恥とは思わない」と言う。そして、なぜ福音を恥とは思わないのかを16節後半から17節で説明している。この部分はローマ人への手紙全体のテーマを宣言しているため、特に注目すべきである。パウロはここで主イエス・キリストの御言葉を指しているのである。マルコの福音書8章38節でキリストは次のように言っておられる。

    このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時には、そのような人のことを恥じます。

       パウロは、福音を少しも恥とは思わないどころか、福音を誇っている。なぜなら、福音は「救いを得させる神の力」だからである。神御自身が働いて下さって、人間に救いを与えるものである。それが恥であるはずはない。パウロはキリストのみを誇り、その御言葉を誇るのである。そのことをパウロは論理的に説明している。この部分の一言一言は非常に大切なので、時間をかけて一つ一つ見ていきたい。

       16節後半では、なぜ福音を誇っているのかを説明する。その説明には三つの大切な要素が含まれる。第一に、パウロがなぜ14節で紹介したギリシャ人対未開人という区別を使わずに、新たにユダヤ人とギリシャ人という区別を用いるのかを考える必要がある。第二に、「救い」という言葉によってパウロは何を言おうとしているのかを考えなければならない。最後に、神の御力としての福音という概念をよく考える必要がある。

     

    ユダヤ人とギリシャ人

       まずパウロは、「ユダヤ人をはじめギリシャ人にも」という言い方をしている。原語ではこれは16節の最後に来る言葉であるが、日本語では先に来ているので、この言葉から考えたい。「ユダヤ人をはじめ...」という言い方をどうしてするのか。どうして福音はユダヤ人と特別な関係があるのか。この言い方は、私たちが読んでいる新約聖書が古い契約から新しい契約への移行期に書かれたことを思い起こさせる。主イエス・キリストは紀元30年頃に十字架につけられ、復活し、天に昇り、神の右に座して王の王としての栄光をお受けになった。しかし、ユダヤ教の神殿はまだ建っていたし、旧約のモーセの時代からイスラエルに与えられた神殿制度は、紀元30年から紀元70年まで続いていた。主イエス・キリストは、十字架上で死ぬ前に、「神は必ずこの神殿を裁く」と明確にイスラエルに宣言していた。40年以内に裁きが来る。

       福音を聞いて信じたユダヤ人たちは、エゼキエルの事を思い起こしたりして、「今の時代は昔のバビロン時代のようなものだ」と思ったに違いない。神がイスラエルを裁く時、まず御霊が神殿から離れて行くのをエゼキエルは見た(エゼキエル書7〜10章)。神は、だんだん神殿から離れて行ってしまわれた。神が離れてしまわれると、バビロン軍がエルサレムを占領し、最終的にはエルサレムを破壊して神殿も完全に破壊されてしまったのである。神が神殿に住まわれるかぎり、バビロン軍は神殿を破壊することはできない。しかし、神が離れたなら、それは単なる建築物にすぎない。もはや特別な意味を持たないものになる。紀元30〜70年の間に、神はイスラエルに悔い改めの機会を特別に与えてくださった。その40年間で古い契約はある意味で終わるところであった(同時に、ある意味において古い契約は継続して新しい契約に移行されようとしていた)。

       この移行期においては、ユダヤ人が神殿を特別な場所と認めて、そこで礼拝をささげることは悪いことではなかった。使徒たちも神殿を正しい礼拝の場所として認めていた。五旬節の日に大勢のユダヤ人が改心した後、彼らはクリスチャンとしての交わりをして共に聖餐を行ない、同時に神殿を訪れて、そこで日々礼拝をささげていたのである(使徒行伝2章46節)。ペテロとヨハネは祭司たちに捕われるが、それは神殿に祈りに来たところ(使徒行伝3章1節)、結局そこで癒しを行なったり福音を宣べ伝えたりしたためであった(使徒行伝3章2節以下)。御使いが牢の扉を開け、使徒たちを救い出した時、その御使いは神殿に行って御言葉を宣べ伝えるように彼らに命じた(使徒行伝5章20節)。ユダヤ教指導者たちによる正式な福音の拒絶として、彼らはキリストを宣べ伝えないようにと使徒たちに命じた。それでも、使徒たちは毎日神殿で教え続けたのである(使徒行伝5章42節)。

       神殿に係るそれらの出来事が使徒行伝の初めの方に記されているが、何年かの後に、パウロも誓いをし犠牲をささげるために神殿に来ている(使徒行伝21章26節)。パウロは、ユダヤ人らの偽りの訴えに対して弁明した時、自分が神の宮に対して何の罪も犯していないと主張したのである(使徒行伝25章8節)。

       しかし、神殿が破壊されてからはぜんぜん違う話になる。神殿はもはやイスラエルにはないので、神殿における礼拝は紀元70年以降は不可能となった。紀元70年に、神がキリストの預言を成就され、ローマ軍によって神殿を破壊させられたからである(マタイの福音書24章参照)。その時以来、本当のユダヤ教というものは存在せず、また存在し得ないのである。イスラエルのすべての礼拝は神殿制度に基づいたものであるからだ。神殿と犠牲制度は旧約聖書の契約においてすべての中心であったのだ。民法さえも神殿と犠牲に根差したものであった。従って、神殿の喪失はユダヤ教の正式な最期であった。今日残っているユダヤ教の抜殻は、聖書の教えの異端的な歪曲でしかない。神殿は破壊され、それ以後その神殿は再建されない。代わりにイスラム教徒がパレスチナに入り、神殿があった場所にモスクを建設してしまった。今そのモスクはイスラム教徒にとっては最も聖なる場所の一つとなっている。

       ユダヤ人とイスラム教徒の摩擦の大きな原因の一つとしてその神殿の場所があげられる。敬虔なユダヤ人は、そのモスクを破壊して昔の神殿の場所にもう一度神の神殿を再建したいという願いを持っている。当然イスラム教徒はそれを許さない。しかし、聖書をよく知っているユダヤ人たちは、その神殿の存在がないかぎり、真の意味でユダヤ教は存在しないということをよく理解している。ちょうどイスラム教徒にとってメッカが破壊されて他の異邦人に占拠されてしまったならイスラム教は消滅してしまうのと同じである。メッカが破壊されて奪われてしまえば、年に一度或は一生に一度そこへ巡礼の旅に行くことはできなくなり、礼拝はだめにされてイスラム教は成り立たなくなる。同じように、神殿制度が無いユダヤ教は成り立たないのである。ユダヤ人もそのことをよく知っている。そのことはユダヤ人の間でも議論されているところである。

       ともかく、紀元70年迄の40年間はまだ神殿がエルサレムにあった。神殿が建っているかぎり、ユダヤ人がそこで神を礼拝することは正当であった。そこは神の家であったからだ。神殿が建っているかぎりは、イスラエルは神のご計画の中で特別な位置を占めており、福音はまず第一に、世に対して証しするために神に任命されていた祭司の民としての彼らの為のものであった。ユダヤ人は福音を異邦人のところに携えて行き、世に救いをもたらすために神に任じられていた。パウロもユダヤ人なので、その神殿で礼拝をささげることができた。ペテロたちもそこで説教をした。神殿だけでなく、パウロは訪れたすべての町で、まずユダヤ人が集まっている会堂に行ってユダヤ人に福音を伝えた。そこから追い出されてから異邦人のところへ向かったのである(使徒行伝13章5節、14節以下、14章1節、17章1〜2節などを参照)。

       「ユダヤ人をはじめ...」という言い方には、まだユダヤ人には神の契約の民としての特権が残っていた時代だという事実が背景にある。教会の中ではユダヤ人も異邦人も同じように座ることができたし、区別はなかった。しかし、福音を伝えることにおいては、先にユダヤ人に伝えなければならない責任があった。それ故、パウロはシナゴーグ(会堂)の所でユダヤ人と一緒に礼拝をささげたりしていた。

       今日の私たちがユダヤ教の会堂へ行ってユダヤ教徒と共に礼拝をささげることは許されない。なぜなら、ユダヤ教は紀元70年に破壊され、神の民ではなくなるという最終的な裁きを受けたので、もはやユダヤ教の礼拝も認められないことになったからである。それだから、1981年の時、私が来日した時に、まずユダヤ教の会堂へ行って福音を伝えたりして、そこから追い出されてから皆さんに福音を伝えるようなことはしなかった。たとえそうしたとしてもすぐに追い出されるから時間的な違いはないのだが...。

       紀元70年の裁きが終わった時点で、神の特別な契約の民という特権はもうイスラエルにはないのである。そういう意味で、新約聖書はその40年間の間に書かれたものであるから、直接的にはその時代のことを取り扱っているのは事実である。それだから、パウロは異邦人のために遣わされた使徒であったにもかかわらず、優先してユダヤ人に福音を伝えてから異邦人に福音を伝えたのである。キリストの復活の後、もう一度ユダヤ人たちが神に立ち帰ってクリスチャンとしての使命を果たす機会を与えているわけである。

       この区別が成り立つのは、ある意味でそれはまだ古い契約の時代の中にいたからである。しかし、今日では、相手がユダヤ人であってもある意味で私たちにとって特別な意味はない。イスラム教徒であれ、インド人であれ、南アメリカの人たちも、私たちにとってはユダヤ人と同様に福音を伝えなければならない相手なのである。「信じるすべての人にとって、福音は救いを得させる神の力である」というところでパウロは、「福音は神の力だ」と言っている。これは非常に大切なポイントであり、私たちはこれを正しく理解しなければならない。

     

    救い

       「救いを得させる力」という時、この「救い」という概念によってパウロは何を言わんとしているのだろうか。昔のユダヤ人もギリシャ人も、あらゆる種類の問題からの救いを求めているという点で現代人と何ら変わりはなかった。しかし、パウロが言わんとしているのは、神との関係のことなのである。聖書の「救い」の概念は、昔のローマ帝国や現代の私たちの周りの人々の考え方とは全く違うものである。英語の「救い(Salvation)」という言葉はあまりにも聖書的な言葉なので、クリスチャンではない人たちはあまり使おうとしないほどである。普通にはなかなか使われないで、違う言葉を使おうとする。

       現代の多くの宗教グループが肉体の癒しを約束するように、古代ローマ帝国の時代でも、救いを考える時に人々は身体の健康のことを考えたりする。それで、古代世界のほとんどの宗教は、彼らの神には癒しの力があることを約束した。人間は病に陥ると必死に助けを求めるものである。必死に飛び回って、どんな莫大な費用であってもお金を投げ打って身体の救いを求めるものである。その救いを与えることの出来る者を救い主のように考えたりする。

       また人間は、社会の秩序を守ることをも救いとして考えるものである。つまり、政治家たちの働きも、昔のローマ帝国の皇帝がそうであったように救い主のような存在になり得るのである。アメリカ人は今世紀の1930年代にルーズベルト大統領を救い主のように考えた。宗教的な意味においてではないにせよ、人々は「ルーズベルト大統領のおかげで自分たちは救われた」と思い込んでいた。皮肉なことに、ルーズベルト大統領のために大恐慌はもっともっと大変な状態に落ち込んでいったのであるが、ほとんどの人はそれに気が付かずにルーズベルトが自分たちを救ったと思い込んでいた。

       1930年代の時になぜヒットラーが選挙で圧倒的な勝利をもって選ばれたのかというと、「ヒットラーこそ自分たちを救う者だ」とドイツ国民が考えたからに他ならない。事実1936年頃にアメリカ人によって書かれた歴史書はヒットラーを「ドイツの救い主」と称してあらゆる角度からヒットラーの素晴らしさを賛えていた。オートバイの生産性を高め、人々に仕事を与え、退廃した経済を建て直し、軍を強化し、あらゆる意味で国家に救いをもたらしたということで、ドイツ人もアメリカ人も他の国々の人々もみな「ヒットラーこそ救い主」と惜しげもなく賛えていたのである。

       第二次世界大戦の時にはチャーチルもまたイギリスにとっては救い主のような存在として賛えられたりした。政治的に、経済的に、あるいは軍事的に大きな働きをする者を救い主だと思うのである。結局のところ自分を肉体的な問題から救うことのできる者を救い主と思うような考え方なのである。自分が何か個人的な問題を抱えている時に助けてくれる者は救い主なのだ。家族の問題、会社の問題、国家の問題等を解決してくれる者が救い主なのだ。人々は普通そう思うのである。

       そこで問題となるのは、福音は私たちの身体を健やかにし、心の問題を解決し、友人や家族との良い関係を回復し、国家の政治的・経済的困難に終止符を打ち、国際的な平和をもたらし、そして最終的に長生きできると約束しているかということである。そういう意味で聖書の神は救いを与えてくださるのかどうかという問いに対する聖書の答えは「然り」である。福音は必ずしも罪深い人間が欲するようなやり方で解決を提供はしない。罪人が望むのは、自分たちの側には一切の努力も倫理的な自己改革も強いられないような即席(インスタント)な解決である。

       一言で言えば、罪人が欲しいのは「魔法」なのだ。指を鳴らせば与えられるような魔法的な解決は根本的な変化を要求することもなければ、長い時間を要する文化的成長に向かって週の六日間を汗流して働くように命じたりもしない。しかし、福音によって約束されている救いは、まず第一に倫理的である。福音がもたらすその他の祝福は、その主たる変化によってもたらされる二次的結果なのである。

       神が与える救いはすべての問題を解決するものであるけれども、そこには二次的なものと一次的なものとの区別はあくまでもある。復活の日に身体の救いは完全なものとして与えられるということが福音のメッセージである。身体の問題があって今たとえそれが癒されたとしても、また身体の問題は次から次へと出てくる。身体の問題の最終的で完全な救いはこの世にはないということは明らかである。ラザロが死んで、キリストは彼を甦らせたが、それはラザロにとってもマルタとマリヤにとっても素晴らしい事ではあったけれども、ある意味では大変なことでもあった。同じ人の葬式を二回もしなければならなかったのである。ラザロは二回死ななければならないことになる。死ぬのは一回で十分だと思うのだが、ラザロがキリストに救われたのは、そういう意味で大変なことだったのだ。

       だから、ラザロの為にラザロを甦らせたのではない。私たちの為にこそ、主イエス・キリストはその奇跡を行なってくださったのである。主イエス・キリストは、この肉の身体をも救うことのできる力を持っておられることを私たちに知らせる為である。それは、本当の救いが復活にあることを私たちに教えるためであった。

       救いという時、政治的なことについても経済的なことについても、健康のことも、この世の中での助けも含まれている。けれども、最終的には、経済的な救いや政治的な救いなどは、身体の救いとともに、新しいものに変えられなければならない。新しい社会、新しい王、新しい都に住まわなければならない。公害のない、税金を課せられることのない所に自分の永遠の住まいを持たなければならない。そこに救いのすべてがある。そういう意味で、クリスチャンの最終的な救いは復活にある。それは天において与えられる。その完全な救いは、主イエス・キリストを通して私たちに与えられている。それは、この世の中で最終的に与えられることはない。私たちは、もしもキリストを信じてただこの世の中だけでクリスチャンとして生きるというなら、つまり復活がないなら、私たちはすべての人間の中で最もみじめな者である。

       パウロも「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」と言っている(コリント人への第一の手紙15章19節)。救いはこの世の中にあって与えられるものではない。救いは、主イエス・キリストにあって、そして復活によって与えられるものである。これが聖書の救いの約束である。

       だから、その救いを頂いているクリスチャンは、この世の中で迫害されても気にはしない。復活の約束を信じているからである。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。この世で自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイの福音書16章24〜25節)と主イエス・キリストは教えている。これが福音のメッセージである。この世での命、そしてこの世の中のことを二次的なものとして考えないならば、本当の意味での救いを知ることはできないのだ、と主イエス・キリストは教えている。そういう意味で、主イエス・キリストを信じてキリストに従って生きるということは、この世での命を捨てて神に従って歩むことである。

       救いについて語る時、この世の救いを語るならば問題は決して解決されない。次から次へと問題は出てくる。この世にあっては自分の心は完全にはならない。自分の悩みは自分の心の中にある。罪人は、自分の問題を周りの環境とか相応しい能力の欠如、他の人々の影響や悪運などの結果と見做す。彼らは、その問題が自分自身の罪と罪深さの結果から来ているという事実に直面したくはないのである。私たちの問題は周りから来るのではなくて、基本的に自分の心から出てくるものである。国際的な問題であろうと心の問題であろうと、すべては一つの根本的な源、神の御心に対する反逆から生じているのである。一番の敵は心の中にある。それは皆さんもよく知っていることだ思う。

       結婚している人なら、自分自身だけでなく周りも同様に不完全であることに気が付いているであろう。子供たちが生まれたら、最初の2〜3分は自分の子供は完全だと思ってしまう親バカはいるかもしれないが、1〜2年も経つと、自分の子供も罪人なのだということに気が付く。そして、そのことを痛いほど理解することになる。周りのすべての人間は罪人であり、自分もまた罪人である。この世で生きている間は、救いは完全なものとしては表わされないことは、皆さんが知っているとおりである。この世での救いだけを求めているのであれば、その救いのすべてが与えられることを期待するのは大間違いである。神の最後の審判が今の時代を終わらせ給う歴史の終りまでは、私たちはその完全な意味での救いに本当の意味で入ることはない。

       キリスト教の救済観は決定的に終末論的なものなのだ。しかし、それは将来の完全な救いが今の時代と無関係だという意味ではない。将来の確固たるビジョンほど現在において人々に影響を与えるものはない。その約束を信じ、待ち望み、それを求めて今を生きるのである。もしも私たちが本当に天の都を全き喜びと栄光として求めているのであれば、その最終ゴールは、今この世で私たちの日常生活に最も力強い影響力を発揮するであろう。

       だからパウロは8章のところで、クリスチャンの「信仰」と「望み」のことについて教えるのである。クリスチャンの信仰は「望み」を持つ信仰である。望んでいるものが既に全部与えられて既に経験しているのであれば、更に望むことはしない。しかし、私たちは、望みを持ってキリストを待つのである。そのことをパウロは8章で話している。神が私たちに与えてくださる。そして私たちはそれを求めている。私たちが待ち望んでいる救いはこの世にあるのではなくて、復活の新しいエルサレムにある。それならばこの世の中で生きる意味はないのではないかと思う人もいるかもしれないが、決してそうではない。この世に生きている間は多くの問題にぶつかり、いろいろな事で躓いたり、大変な試練にあったりするが、そのような時にこそ、私たちは救いの意味はどこにあるのか、救いとは何なのかを覚えて、がっかりせずに神が与えた望みを深く抱いて歩み続けることが大事なのである。そのように歩む者の歩みのすべては益であり、その実は失われることはない。

       救いは、新しいエルサレムにあると言う時、それはこの世で生きる意味をも与えるものである。それを求めて生きるということは、主イエス・キリストが教えてくださった主の祈りにも出て来るけれども、御父の栄光が表わされるように切に求める生き方なのである。それは最終的には新しいエルサレムで完全に表わされるものであるが、毎日それを求めて祈る時に、自分と自分の周りにおいて神の栄光が表わされるように真剣に求めるならば、ある程度それは表わされる。神の御国が来るようにと祈る時、確かに私たちは最終的に新しいエルサレムを求めているのである。しかし、自分と自分の周りの人間関係において、自分が影響を与え得るかぎり神の御国の影響を与えることができるように助けてくださることを神に祈りつつ、今を歩むのである。

       神と新しいエルサレムの栄光が、その御国の栄光が、今この世にあってある程度表わされることを真剣に祈り求めて積極的に行動する時、それはある程度表わされる。そして、その影響は広がり、大きくなっていく。神の御心が天で完全に行われているように、この世でも表わされるようにクリスチャンたちが切に祈り求めて生きる時、それはこの世にあってもある程度実現されて行くのである。

       永遠の救いが100%この世において表わされることはない。けれども、繰り返し話しているように、実に罪人でしかない私たちでも、自分の罪を感じて毎週集まって正式に悔い改めなければならないほど罪深い私たちであっても、もし日本の社会全体がこの私たちの教会と同じような倫理的なレベルになれたなら、どうなるだろうか。殺人、姦淫、離婚、盗み、偽りの契約等々は激減するはずだ。日本全国が、たとい私たちのような実に足りないレベルで倫理的に生きるならば、全く違う社会に変わるであろう。1960年代の後半まで、私の祖母の家ではドアに鍵をかけることなどなかった。80年間もその家では鍵をかけようと思うこともなかったのである。 泥棒という概念も生活の中にはなかった。

       日本でも、昔は人の家に入る時は、ドアを開けて玄関から中に入ってから「ごめんください」とか「どなたかいますか」とか言って声をかけたものである。鍵を三つくらい設けて、それでも出かけるのが不安だという状態はおかしいのである。私の子供の頃でもそんな時代ではなかった。だから、この世にあっても、神の救いの力を経験することは社会のレベルにおいても出来るわけである。

       健康も有る程度まで守られるであろう。箴言にあるように、心に喜びがあれば身体も健やかになるのである(箴言15章13節)。心に感謝と喜びを持つだけでも、全然違うのである。多くの病は心から来るものである。他の多くの事柄においても、神の救いの力はこの世においても表されるものである。心の中でも、家庭の中でも、教会の中でも、職場でも、神の救いの力は大きな助けとして経験できるものである。大人のクリスチャンであれば、クリスチャンになる前の自分とクリスチャンになった後の自分がどれほど違うかがよくわかる筈である。キリストを信じて、救われて、自分の心が変えられたことを知っている。生活が変わったことを経験するものである。しかし、それらはすべて二次的なことであって、私たちは今も救いを待ち望んでいる。完全な救いを待ち望んでいるので、実生活においても真剣に求めるのである。その完全なものを目指して今を生きるのである。

       救いの中心は、神との関係が正しい関係になったということである。神を憎む者が神を愛する者になった。その心の変化が救いにおいて中心的なことなのである。救いは、何よりもまず神との正しい関係の回復でなければならない。復活、新しいエルサレム、新しい秩序ある社会も、すべてその神との正しい関係の表われに過ぎない。他のすべての祝福もこの源から流れ出てくる。神との関係が正しくされなければならない。神を無視し、神は存在しているのか存在しないのかという問題に興味も持たずに生き、或は神を認識していても逆らい続けて神を憎んで生きている者が、心を変えられて神を愛する者となったのである。神の御心を求め、神の目に正しいことを行なおうとする者に変えられたのである。その神との関係が100%完全になる日を待ち望み、神ご自身を求めて生きることによって、この世においても神の救いの力はいろいろな二次的な事柄において表されていくのである。

       二次的なものを求めることによっては二次的なものは与えられない。これは、ビジネスの世界においてもよく言われることである。成功した実業家はみなこの認識をもっている。お金ばかりを求めるだけでは事業は成功しない。何を求めているのかというと、顧客を喜ばせることとか、誰からも認められ信頼される質の良い製品を作って顧客に供給するとか、そのような優良なサービスを求めた結果として二次的にお金が入ってくるのである。二次的なものばかり求める者には結局何も与えられはしない。だからキリストはこう言っておられる。「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」(マタイの福音書6章25節)。

       神ご自身、神の御国とその義を第一に求めよとキリストは命じている。そうすれば、二次的なものはすべて与えられると約束しておられる。神によって約束された救いは倫理的なものであるので、それには私たちの心と生活の変革が伴う。私たちは罪に留まるために救われたのではなく、罪から救い出されたのである。また私たちは神の似姿であるので、その救いは全体主義的な命令によって外から押し付けられるようなものではない。神は、私たちのうちにおられて私たちを通して働いてくださり、「神のような」被造物として創造された人間の特徴に調和した方法で私たちを変えるように働いてくださるのである。

       インスタントの、外からの強制による生活の変化は、人間を単なるロボットにするものであって、神の栄光にも人の栄光にもならない。神の救いは、神との関係を正しい関係に変えてくれるものなので、救われた私たちは神ご自身を求める者となる。そのように生きる者は、この世での二次的な事においても確かに救いを経験することになる。その心は、ますます信仰において成長して神を喜び、感謝に溢れるようになるが、その満足はまだ完全ではない。完全な喜びと完全な満足は新しいエルサレムにあり、それは神の約束として既に与えられている。

       それで、救われた者は、どんな状況にあっても続けて神ご自身を求めざるをえない心を持っている。それがクリスチャンである。神を常に求めないではおれない、その思いが自分の心の一番深いところにある。その思いは取り消すことも否定することもできない現実となっている。それが、救われた状態である。罪からの解放は救いの否定的な一面といえよう。キリストに似た者となり、神を喜び、栄光が与えられるなどは、救いの肯定的な一面である。救いの中心は、神との関係が正しくされることにある。復活によってそれは完全に与えられる。この救いは、神の御言葉のみによって与えられ得るのである。聖書的に見れば、救いはこの世において始まったばかりに過ぎない。キリストとともに甦るまでは、私たちの肉体の病のすべてはなくならず、天国に行くまでは私たちの人間関係や内面的な心の習癖は完全に癒されることはない。復活の時に、私たちは天の都に住む者となる。

     

    神の力

       「」と訳されている言葉はギリシャ語で「ドゥナメス」という言葉であり、英語の「ダイナマイト」の語源である。これは裸の力、大いなる力を意味する言葉であるが、「神の力」という時、それは無限な力を意味している。それは人を罪から御子の王国へと吹き飛ばす。それ故、「福音は、救いを得させる神の力である」と宣言する時、パウロは驚くべきことについて語っているのである。というのは、福音はへりくだった人目につかない方法で働くからである。福音は、この世の人々にとっては神の力ではなく、ユダヤ人にとっては躓きであり、ギリシャ人にとっては愚かなものでしかない。その同じ福音が、信じるすべての者にとって救いを得させる神の力なのだ、と言っているのである。全能の神の御救いの力は、御言葉を通して私たちの中に“爆発”する。

       ユダヤ人にとって福音が躓きなのは、主イエス・キリストがメサイアだというところにある。福音とは、この世に来られ、十字架上で私たちの罪を負いたまい、死に勝利して復活された神の御子であるキリストの物語である。福音は、主イエス・キリストが救い主であること、そのキリストは死から復活して万物を支配しておられる王、メサイアであられることをユダヤ人に宣言する。けれども、このメサイアはユダヤ人の所に来たのにユダヤ人は彼を信じないで、彼を憎み、彼を十字架につけ、実にユダヤ人が彼を殺すことによって彼は救い主となられたのだということに、ユダヤ人は躓くのである。これを認めるならば、自分たちが酷い罪人だということを認めなければならないからだ。ユダヤ人にとってこれは大変な躓きとなる。

       更に、「ユダヤ人と異邦人に違いはない、ユダヤ人も異邦人も同じように救われる」ということにも躓く。自分たちは異邦人よりも特権を持っているし、異邦人よりも良くて優れたものであると考えているからである。それが全く同じように救われるということは、ユダヤ人にはとても受け入れられないことであった。ユダヤ人にとって福音は「神の力」というよりも、躓きであり、耐えられない屈辱であり、自分たちを否定して破壊するメッセージに聞こえるのである。異邦人にとっても、十字架上で処刑されたキリストがメサイアで救い主であるというメッセージはあまりにも愚かで馬鹿げたものに思えた。なぜならば、異邦人が「力」について語る時、あくまでも軍事的な力を考え、この世の栄光を考えるからである。その観点から福音を考える時に、とても福音を神の力として考えることはできない。

       たとえば、ローマ帝国ではカイザルを救い主と呼んでいた。昔のローマ帝国の金貨にも「カイザルは救い主」と刻まれていた。カイザルは救い主という時、彼はお金を出し、軍を出し、栄光があり、逆らう者はただちに滅ぼされるというものであった。危険があればカイザルに助けを求めれば、カイザルは軍を送って野蛮人から救ってくれたりする。防衛と法秩序を与えるという意味でカイザルは救世主であった。救い主とは、この世にあって栄光があり、権威を帯びた偉大な人物でなければならなかった。パウロがギリシャ人やローマ人に福音を伝える時、パウロが救い主として宣言している王なるキリストは、ベツレヘムの飼い葉桶の中に生まれ、貧しいナザレで育った大工の子で、ユダヤ人さえも彼を受け入れずに憎んで殺してしまった人物である。そして、ローマの法廷で、ローマ帝国に逆らう犯罪者として死刑にされた人物である。それが救い主、救いの力だというのか。そのキリストがいったいどうやって自分たちを救うというのか。ローマ人やギリシャ人にとって、それはあまりにも馬鹿げた話であった。

       救い主なら、どうして自分さえ救うことができなかったのか。十字架にかかる時、ユダヤ人もキリストに向かって「あなたが救い主ならば、十字架から降りて来なさい。その力を示してみなさい。自分さえ救うことも出来ない者が、どうして自分は救い主だというのか」と嘲った。「死刑にされる男が救い主なのか。自分の民からも王と認められない人物が王の王だというのか。とても信じられない。」それが異邦人の見方であった。異邦人にとってもユダヤ人にとっても、この福音を「神の救いの力」のメッセージとして考えることはとてもできなかった。全く信じられないことであった。

       その考え方は今日に至るまで少しも変わってはいない。ユダヤ人にキリストの福音を伝える時に、彼らは憤慨する。20世紀になっても、ユダヤ人はキリストの名を口にする時に唾を吐く。それによって、キリストを憎んでいることをはっきりと表わすのである。私もアメリカでユダヤ人に福音を伝えたりしたが、実に彼らの躓きは大きなものである。福音を聞き入れることはとてもできないで、すぐに感情的になってしまうものであった。インターネットを見ても、異邦人たちはこぞってキリストを馬鹿にしている。インターネットにクリスチャンではない人々によるホームページがあるが、それらのホームページの唯一の目的はクリスチャンを馬鹿にすることである。その中には沢山の論文があって、聖書をあらゆる観点から攻撃してキリストを馬鹿にしている。

       バートランド・ラッセルという有名な哲学者も「なぜクリスチャンではないのか」という有名な著書の中で、「キリストは偉いかもしれないが、釈迦牟尼の方がいい」と話している。主イエス・キリストを馬鹿にすることが異邦人の一貫した反応であって、それは今日も変わらない。しかし、人がこの福音の単純なメッセージを信じるとき、それはその者の魂に革命を引き起こす。彼は新しく造られ、別人となる。かつてその人生は神への憎しみと無視と反逆がその特徴であったのに、今や彼は神を愛し、信じ、その栄光を求める者となったのである。この根本的な変化は人の考え方や生き方の中で時間をかけて成し遂げられるが、そのことは、御言葉をもってこの世を創造した時の神の御業と同じように、神の奇跡的な御業なのである。

       なぜ、福音は神の力なのかということをパウロは17節で深く説明しているが、「」という言葉についてもう少し考えたいと思う。「神の力」とパウロが言うとき、言葉について話しているのである。福音はただのメッセージである。キリストは神であられる。神であるキリストは、人間となって世に来てくださり、私たちを愛して十字架上で私たちの身代わりとなって罪の罰を受けてくださった。そして、甦られて、天に昇り、キリストを信じるすべての者を救い給う。このメッセージは言葉をもって伝えられるものである。聖書の中では、「ことば」こそ神の力を表わすということは創世記の最初から一貫して教えられている。そのことをしっかり覚える時、ユダヤ人にとっては躓きで異邦人には愚かであるそのメッセージが、実に不思議な神の無限の力であるということを理解するようになる。神の力、創造の力、万物を創りだす大能の力は言葉によって表わされるのである。

       創世記1〜2章のところで、神が天と地と万物を創造されたことが記されているが、そのところで神は十回言葉を発せられた。「光よあれ」と神は宣言すると、光は存在するようになった。その創造の話の中で、「...と仰された」という言葉からなる十の言葉を発せられて、天地万物は創られた。神が語ると、創造が行われる。神の口から発せられる言葉だけで万物は存在するようになった。初めから、創造の無限な力を神は言葉を通して表わしたのである。これと同じ意味において言葉を語る神という概念は他の宗教にはない。

       旧約聖書の中で、神は約束し、その約束を守られる。事柄が起こる遥か以前に神は言葉を語り、その言葉を預言者たちを通して語り、そして歴史のすべてがその神の言葉の通りに成就されたのである。その事を表わす最も顕著なことは、主イエス・キリスト御自身についての預言である。旧約聖書の中にはキリストに関する預言が200以上もある。旧約聖書の最後の書物はキリスト生誕の400年も前に書かれたものであった。キリスト生誕の2000年も前の預言も記されている。すべての細かい記述はキリストの生涯において完全に成就されている。

       また、ダニエルは将来起ころうとしている歴史について預言した。神はバビロン帝国の時代に生きたダニエルに語り、ダニエルはバビロン帝国がペルシャによって倒されることを預言した。これは、ソビエト連邦がロシアに戻り、ソビエト連邦は崩壊することを50年代に預言するようなことである。バビロンがペルシャの攻撃を受けてペルシャ帝国の時代が来ることを誰が予想し得ただろうか。それに止まらず、ペルシャ帝国の後にアレキサンダー大王がギリシャの帝国を広げてギリシャ帝国の時代が到来することをもダニエルは細かく預言している。ダニエルはアレキサンダー大王が生まれる約200年前に死んでいる。アレキサンダーの帝国の次にローマ帝国が起こるわけだが、そのことをもダニエルは預言した。「今から500年後にはこうなる」と細かく書き記して、政治家たちの行動を細かく預言したりするようなものはない。しかし、神は、ダニエルを通して歴史の流れをすべて預言し、歴史は神の御言葉のとおりに動いたのである。

       詩篇の中で、神の御言葉は被造物のすべてを支配していると書いてある。嵐も、太陽の動きも、野の獣の食物のことさえもすべて神の御言葉が支配しておられると詩篇は教えている。神の御言葉は絶対的である。神の御言葉と神御自身はどこまで深い係りがあるのかというと、主イエス・キリストの名が「ことば」である。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は...」とヨハネの福音書1章に書いてある。キリストが、三位一体なる神の第二人格として「ことば」という名を持つということは、神御自身とその御言葉を切り離すことはできないことを表わすものである。比喩的な言い方になるけれども、三位一体なる神において御父が語り、その語られた御言葉が御子であり、その御言葉を行き渡らせる息が御霊である。理解のために、そのように比喩的に考えてもよいと思う。そこまで、言葉という概念は三位一体なる神において本質的なものなのである。

       神が語る御言葉には無限な力があって全歴史を支配しておられる。被造物すべてを支配しておられる。神の力を表わしている。そして、御言葉は、神御自身の顕現でもある。その点がはっきりすれば、「福音は神の救いの力である」という言い方を聞く時、神が与えてくださる言葉に絶対的な力があるということがわかる。パウロはここで、旧約聖書の神の契約の御言葉を福音において宣言している。「福音」は「救いを得させる神の力」なのである。

       その福音のメッセージは、異邦人には愚かであり、ユダヤ人には躓きとなる。しかし、このメッセージは、信じる者には神の力である。「信じる者にとって神の力である」という時に、それなら信じる者はユダヤ人や異邦人よりも賢いのかというと、そうではない。信じる者はユダヤ人や異邦人よりも何か特別なものを持っているのかというと、そうでもない。パウロは、信仰は福音から来るということをローマ人への手紙10章のところで説明している。御言葉によって、その福音のメッセージによって、信仰は生まれる。信仰によって救われるけれども、その信仰を与えるものは福音である。そういう意味で、福音のメッセージは逆説的で、人間の考え方に矛盾する弱いもののように見える。しかし、その弱いものに見えるからこそ力を持つのだと言ってよい。

       神は、福音を受け入れる者に、本当の救いをお与えになる。誰もそれを盗んだり奪ったりすることはできない。誰も私たちから取り上げることのできない救いを、神は与えてくださる。信じる者は救われる。神の御言葉のうちにある「救いの力」を、パウロはローマ人への手紙の最初のところで宣言しているのである。後に17章でパウロは、どうしてこのメッセージはそのような力を持ち得るのかを説明している。そして、1章18節からパウロはずっとその福音の力について深く説明している。福音は栄光に満ちた救いを人々に与える神のみわざであるゆえ、パウロはこれを恥じることは出来ない。それどころか、福音は栄光であり喜びである。それは、イエス・キリストにある神の救いと哀れみを経験した者すべてにとってもそうでなければならない。なぜなら、彼らは単なる肉に過ぎない人間によって語られた単純な言葉を通して働く無限の力の奥義を知っているからである。

       なぜ福音に力があるのかを簡潔に言うならば、福音は主イエス・キリストについてのメッセージだからである。キリストが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった。キリストが初穂として甦ってくださり、信じるすべての者に永遠のいのちを与えてくださる。私たちは聖餐式を行なう時に、主イエス・キリストを信じる信仰を告白し、福音によって救われたことを感謝して神との契約を新たにするものである。福音のすべては、そういう意味で聖餐式の中にある。聖餐式を私たちに与えてくださるのは神ご自身である。長老たちは神の代表として、神が与えてくださるパンと坏を教会員に配るけれども、そのパンとその葡萄酒を真に聖餐の意味を持つものとして与えることができるのは神のみである。単にパンを食べるのではなく、また単に葡萄酒を飲むのでもない。そのパンはキリストの契約を代表するものであり、その杯もキリストの契約の代表である。そのパンを食べ、その杯を飲むことは、キリストご自身を受け入れるのである。そういう意味で、神ご自身が、聖餐式によって御子キリストを私たちにお与えになるのである。

       聖餐式の時に、私たちは「アーメン」と言って聖餐のパンを受け、「アーメン」と言って聖餐の葡萄酒を受ける。福音と私たちの契約的な反応のすべてが聖餐式の中にある。神が私たちを愛して私たちを招いてくださった。私たちはその招きに応えて、日曜日に教会に来て御言葉を聞き、神との契約を聖餐式において新たにするけれども、これは、福音の卓越した救いの力を持つ神の御恵みのところに毎週戻ることである。私たちはここに戻り、ここで神は救いの力を更に豊かに与えてくださる。聖餐式において、神の御霊が私たちの心に働いてくださり、弱ったりする信仰を強くしてくださる。主イエス・キリストに忠実に従う誓いを、御霊は新たにしてくださる。聖餐式の時に、自分の罪から離れて、その罪を捨てる誓いを新たにする。そういう心をもって聖餐式を受けるのである。毎週毎週それを行なうことは、福音を初めて聞いた時のように、神に「はい」と応えて、罪を悔い改めて、キリストを信じて、救われることでもある。聖餐式は、そういう意味で、福音の力、福音の喜び、福音に対する感謝を私たちに与えるものでもある。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1998年7月19日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com

     

    ローマ人への手紙1章14〜16a節

    ローマ人への手紙1章17節

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