ローマ人への手紙1章14〜16a節
1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥とは思いません。
98.07.12. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
恥のない負債
1章14〜16a節
14私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。15ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。16私は福音を恥とは思いません。
ローマ人への手紙の導入部は、成長したクリスチャンの在り方を示すことが主な目的ではないが、私たちはパウロの書簡において使徒自身について多くのことを学ぶ。そして、それはとても重要なことなのだ。パウロは自分のことを私たちにとって成長したクリスチャンの模範であると教えているからである(コリント人への第一の手紙11章1節)。この14〜16a節の箇所は、「負債」と「恥」の二語で言い表すことができる。
両方とも現代社会の状況に相応しい言葉だと言える。負債のために国々は破綻し、負債のない国は存在しない。私たちは今そのような時代に生きている。個々人はその指導者たちに倣い、負債は企業にとっても個人にとっても大きな社会問題となっている。「負債」がはびこっているのに、「恥」は消えつつある。少なくとも「ある種の恥」についてはそうである。50年前の普通のアメリカ人なら誰でも深く恥じ入るような事柄が、今日では日常の当たり前の現実として受け入れられている。それで、負債と恥の両方の概念について、パウロと現代社会という対比以上に大きな対比は考えられない。
すべての人に返さなければならない負債
パウロはローマに行くことを熱心に求めていた。何度もローマに行くことを計画したが、どうしても思うように計画は進まず、まだその計画は実現していなかった。そのことについてパウロは1章と15〜16章の所で説明している。なぜローマに行きたいのかというと、そこで「実を結ぶ働きをしたい」からである。ローマは異邦人の世界の中心なので、そこで実を結ぶことによってもっと広く異邦人に福音を伝えたいのだ、と13節迄のところで説明している。14節からの箇所はその説明の続きである。
パウロは、「ギリシャ人にも未開人にも負債を負っている」と語るが、その負債とは、人間に対するものではなくて神に対するものだということは明らかである。異邦人に福音を伝えたいパウロの思いの最も深いところにあるのは、神に対する義務である。心からローマに行きたい。その思いを9節及び11節のところで強い表現をもって語っている。「私はあなたがたのことを思わぬ時はない。いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたの所に行けるように願っている。私があなたがたに合いたいと切に望むのは....」とその願いの強さと深さを率直に宣べている。
「会いたい、ローマに行きたい」という思いが何に基づいてあるのかというと、「ローマがすばらしい町だから、幼少の時から憧れていて行きたいと思っていた」というような話ではない。また、自分の為に行きたいわけでもない。そこには「義務」がある。強い義務を表わす言い方として「負債を負っている」とパウロは言う。「返さなければならない負債を負っている」のだ言っている。ローマ人やギリシャ人に対して実際に負債を持っているというのではなくて、その人たちに返さなければならない負債を「神に対して」負っている。つまり、神がそのことを要求しておられるとパウロは考えている。
パウロは、その使命を負債のように感じている。負債を負っている人ならパウロの気持ちが良く解るであろう。それが常に重荷となってのし掛かってくる。「返さなければならない」というプレッシャーを毎日全身に重く感じるのである。ローマに行って福音を伝えたい思いは、パウロにとってはそのような負債のように思えるのである。ローマで福音を伝えることができるならば、もっと神の御言葉をローマ帝国の中で、更にそれ以外の未開人にも広く宣べ伝えることができるので、切にそれを願っているのである。
つまり、パウロの最も深い動機は、神に対する義務から来ているものである。権利から来るものではないし、気持ちから来る思いでもない。自己中心的な思いや計画から来るものでもない。ここに、クリスチャンの有るべき姿がよく表われていると思う。「私は何をしたいのか。私はどこに行きたいのか」と、自分の個人的な理由で「これをしたい。あれをしたい」ということで一生が終わってしまう人間はたくさんいる。自分の思い通りにはいかないのが普通なので、だんだん歳を取るにつれて怒りっぽくなったり心が曲がってしまう人もいる。自分の思うように行くと、どんどんむさぼる心が深くなっていく人も多い。
だから、「何をしたいのか」という思いを心から強い言葉をもって伝えようとする時、パウロは、「それは神の御前での私の義務だからである」と説明するのである。その意味が解るだろうか。現代の人にとって「義務」と「したい事」とは相反するものだと考えられている。「私はあれをしたい。けれども、これが私の義務だから...」というのである。「本当はこうしたいのだけれども、義務だからああしなければならないのだ」というような話ばかりになる。義務を神から与えられたものとしてパウロは考えている。神を喜ばせること以上に大切なことはなく、神から与えられた義務以外にしたいことはパウロにはないのである。自分のしたいことと神の御前での義務が一致していなければ、自分の心と神の御心が一致していないということはよく解ると思う。
義務は神から与えられる。もちろんこの世的な義務というものはある。国に税金を支払うのは義務だけれどもそれは一番したい事ではないことはよく理解できるが、今はその義務について話すつもりはない。それにしても、税金も神から与えられた義務として考えて支払わなければならないのは確かである。どのことにおいても神の御心を求め、神を喜ばせたいということが第一であれば、義務としたい事は一緒になる筈である。私たちがクリスチャンとしてどんなに未熟なのかは、このポイントにおいてよくよく表わされてしまうものである。
パウロがローマ人に対してもギリシャ人に対しても、未開人に対しても知恵ある者たちに対しても「返さなければならない負債を負っている」という心を持つのは、神に対する義務から出ている。その義務を喜びとして、すばらしいものとして、感謝として考えているのである。この義務と負債の話はローマ人への手紙の中で何回も出てくる話である。動詞や名詞の変化はあるけれども、「負債を負う」という言い方は一回、「借りがある」というような言い方が一回、「しなければならない」という訳で「払わなければならない」という言葉が一回使われている。そのように負債を表わすような言葉は七回ほどこのローマ人への手紙で使われている。これはパウロの他の書簡でもよくよく使われている表現である。
日本語の翻訳がどうなっているかはわからないが、家に戻ったらコンコルダンスで「権利」という言葉を探してみてほしい。多くはないはずである。ギリシャ語のコンコルダンスで権利という言葉を探すと一つもない。現代人は「権利、権利、権利」ということをいつも考えてばかりいる。しかし、聖書の中ではいつも義務と責任のことを教えている。責任は祝福であり、祝福は責任である。けれども、私たちはこの周りの社会から大変な影響を受けたりしているので、「私の権利は何なのか」みたいな思いをすぐに持ってしまう。「私にはこれをやる権利があるではないか。なぜやってはいけないのか。私にも権利があるはずだ」みたいな言葉が口からぽんぽん出てくる。
言葉だけでなく、そういう気持ちを強く持ったりする。しかし、自分の義務について深く思い、その義務を神が与えた素晴らしいものとして思う心はなかなか持たないのではないか。今、私はアメリカ人に説教しているのかもしれない。アメリカは権利ばかりを考えてしまう社会である。その影響はかなり日本にも及んでいると思う。そのような考え方や気持ちが私たちの頭の中にも、生活の中にも、深く入り込んでしまっているという前提で今私は話している。
義務は、聖書の観点からすれば素晴らしいものとして考えるべきものである。責任が与えられているのは「認められている」ということでもある。皆さんは、カエルや鳥や犬などのペットに責任を与えたりはしないであろう。カエルに毎日買い物をしてもらうようなこともないだろう。犬は新聞配達をしたりもするけれども、それ以上の責任はあまり犬には要求しないだろう。動物はそれほど劣ったものであるので責任は与えられない。知恵遅れの人にそれほど責任を負わせることはしないが、その人が自分で歩けるまでに成長するためには、本当は言葉を使ってしゃべったり、軽い仕事を与えたりして、少しでも責任を負わせることができれば予想以上に成長するという事実はいろいろな関連書物の中に記録されている。
私たちも、責任と義務を高い素晴らしいものとして考えるならば、人間としてクリスチャンとして成長することになる。子供たちに仕事を与える時に、それを忘れたり、目茶苦茶にやったりする。責任を、実に楽しくない事のように考えるからだ。「嫌だけど、やらなきゃいけないのか」という思いでやる。小さい時から、責任が与えられることを感謝として考えることを学べば、人間として必ず成長する。
パウロの手紙から少し横道に逸れてしまったが、自分に与えられた仕事は神から与えられたものだということを認める時に、本当の意味でクリスチャンとして成長し、本当の意味で感謝と喜びの心をもって生きることができるようになる。すべての状態が自分の都合に合致する時に初めて喜ぶことが出来るような人は、自己中心的で赤ちゃんのような心しか持たない愚かな者である。その心を変えなければ、その人は地獄の道を歩んでいるのかもしれない。その心は、実にとんでもない心なのだ。すべての事は決して私たちの思う通りにはいかないものである。
神は神であられて、私たちは神ではない。「すべて私のしたいように、私を中心に、私が思うとおりにいかなければ、私は嬉しくない。喜べない。おもしろくない」という心は、自分を神とする心に他ならない。「神から与えられた働き、神から与えられた状態、私に出来ることとして神が私に与えてくださった仕事を、神のために、神を喜ばせるためにやる」という心を持つ時に、私たちはパウロのようなクリスチャンになっていると言える。その働きのレベルは違うし、実を結ぶ力も確かに違うけれども、ここに表現されているパウロの心が理解できるし、同じ心をもってクリスチャンらしく生きているということになる。荒野の中にいたイスラエルは、いつも自分の思うように行かないので、ぶつぶつ言ってばかりいた。「あなたがたは神に逆らっているのだ。私にではない」とモーセは何度も言っている。それとは正反対の心がここにある。
福音を負債として持つというのは、それを伝える時に支払うことになる。もちろん、死ぬ日まで絶対に伝え終わることがないので、パウロはその義務をずっと生涯持ち続けて伝えていかなければならない。「ギリシャ人にも未開人にも」という言い方は、異邦人のすべてを指している。ギリシャ人とは、古代ギリシャ・ラテン文明を持つすべての人々のことである。未開人とは、それ以外の人たちである。パウロは、異邦人に福音を伝えるために特別に選ばれた使徒である(5節)。それでパウロは、当時の異邦人世界の日常的な表現を借りてすべての異邦人を指して語っている。その言い方自体には特別な意味はない。中国にいたならば「中国人にも未開人にも」という言い方をしたであろう。
ギリシャの文明を持つ人たちとそうではない人たちという言い方をすれば、それはすべての異邦人を意味しているということをローマの人々は理解するものであった。ローマ人とローマ帝国全体をギリシャ人と呼び、ローマ帝国以外の人(ローマ法や洗練されたギリシャの習慣に従っていない人)は未開人と呼ばれた。パウロは、スペインを訪れてヨーロッパの人たちにも福音を宣べ伝えることを計画していた(15章24節)が、彼らを「未開人」と呼んでいる。この言い方は異邦人のすべてを指すものであった。「知識のある人にも知識のない人にも」という言い方もそうである。「ギリシャ人にも未開人にも」という言い方は大きな文化的なグループを指しているが、「知識のある人と知識のない人」という言い方は社会を広くその個人において捉える言い方である。ギリシャ人の中にも愚か者はいるし、未開人の中にも知恵ある者がいることはパウロには当然分かっていた。どちらのグループに福音を伝えるにせよ、それぞれに問題はある。
知識のある人たちと知識のない人たちに福音を伝えるということは、ある意味で二つの大変なことを指している。知識ある人たちに福音を伝える時、この人たちはなかなか心が頑なで神に逆らう者であって取り扱いにくい人たちだという意味が含まれる。それは、コリント人への第一の手紙1章の箇所や使徒行伝の17章にあるパウロの説教に対するアテネの人々の反応においても出てきているし、キリスト教の歴史においても頻繁にあったことである。「この世の知恵ある人たちはあまり救われない」とパウロはコリント人への第一の手紙のところで説明している。彼らは自分の知恵を誇り、プライドが高い。
「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とキリストも言っておられる。彼らが救われることはとても難しい。なぜなら、自分で自分を誇り、十分満ち足りていて、自分のしたいことはだいたい何でもできるので、自分を神にすることにほぼ成功しているからである。自分は神ではないことを悟ろうとはしないからである。もっと何かを得たいと思うにしても、自分の力で何とかなる、要求すればだいたいかなえられるというような生活を送っているので、自分の弱さ、愚かさ、罪深さに気が付かずに浅はかな心をもって最後まで生きてしまうのである。知識ある人たちはある意味では富んでいる。他の人たちよりも理解力が高く、他の人々が努力しても得られない知識を自分はすぐに得てしまう。他の人たちには出来ない多くのことが自分には出来てしまうので、「自分は優っている」という気持ちになって、その傲慢さはますます深くなってしまう。
アカデメイアにあったプラトンの学校の門の上には「知恵ある者以外入るべからず」と書かれてあった。彼らは知恵に傲った者たちであった。自分の知恵を傲り、自分を優れた者と考えて他人を見下す。アメリカやヨーロッパではインテリ派がよく社会主義者になる傾向があるが、二十世紀で最も認められている経済学者の一人であるフォン・ハイエクはその現象について記事を書いている。「インテリは傲慢だ」とハイエクは言い切る。「彼らは自分が他人よりも優れていると確信しているが、社会の中で彼らはさほど認められた存在ではないのだ」と言う。大学教授の生活は悪くはない。しかし、実業家と比べれば何も持たないに等しい。小学校も出ていないような人間が、誰も聞いたこともないような小さな会社を作り、それが成功すれば、どんな大学教授よりも裕福な者になれる。インテリたちは、「私の方があの無知な馬鹿者たちよりもずっと優れているのに、私は小さな家に住んで貧しく生きている。私は自分の知恵に相応しい扱いを受けていない」と考えて被害意識に陥ったりしやすい。
中古車販売の会社を経営している無学な人間でも、成功すれば自家用飛行機を持って(アメリカの話だけども)飛び回り、御殿のような家に住んで王様気取りの生活をしているというような話はそこらじゅうに幾らでもある。大学の教授やインテリにとって、それは望むべくもないことである。それで、インテリたちは「社会のシステムが悪いのだ」と考えるわけである。「システム自体が悪いのでなければ、なぜ我々のような優れた者が裕福にはなれないのか」と考えて、社会主義に走る。それで、社会主義は誰が支配するかというと、インテリ派たちが支配しているのである。その社会システムによって、インテリたちにお金が入るようになる。単に工場や小さな会社を経営している者には僅かなお金しか入らなくなる。そのインテリ支配が実に傲慢に満ちたものであることをフォン・ハイエクは暴露しているのである。実際に大学で牧師として働いた事もあるけれども、インテリたちは実に傲慢で、実に取り扱いにくい人たちであることを私も認める。
しかし、反対に、知恵の無い人たち(私も含めてだけれども)の問題もまたやっかいなものである。私は、救われた時、長時間読書する習慣のない人間であった。大学はちゃんと卒業したし、試験のための勉強はできたのだが、試験やプレッシャーがなければ自分で本を読んで真理を求めるような心も習慣もなかったのである。聖書を読み始めたころは、目覚まし時計を1時間にセットして読んだものである。5分も経つと時計を見て「まだ時間が経ってないのか」と思ったりしながら読んだりした。プレッシャーがないので、30分も読むと眠ってしまったり、読んだ後も心にも頭にも何も残らないような21歳の子供であった。それでも、本当に心から真理を求めなければならないということは強く感じていた。それで、寝る前に聖書を読むわけだが、眠ってしまう前に「主よ。どうか教えてください。私は真理を求めています」というような立派な祈りをしてから、読み始めると眠ってしまうのである。それほどに頭が読むことに慣れていなかった。それだけ真理を求める心が深くなかったのである。真理を楽しむ心も深くないし、真理を喜ぶ心が育っていなかった。私は、そんなレベルから始めた者の一人である。皆さんもクリスチャンとしていろいろなレベルでの経験があると思う。神の御言葉そのものを喜ぶことが出来なければ、クリスチャンとして成長することは本当に難しい。
パウロがここで語っている「未開人」とは、文字さえ書けない人たちを含むものであった。いわゆる野蛮人であった。その人たちの所に行って一緒に食事する時、彼らは人の頭蓋骨に飲み物を入れて勧めたりする。一緒に食事するだけでも大変な人たちであった。その人たちに福音を宣べ伝えようとするのは実に生易しいことではなかった。状況を理解するためには、彼らの生活習慣等について非常に細かいことに至るまで説明しなければならないのだが、この人たちは聖書を読むことすらできなかったのである。宣教の働きが祝福されて、教会堂が建てられたりしても、初期の頃の教会の中では座って礼拝もできなかった。会衆は立っていて、何時間でも聖書の朗読を聞いたのである。説教もあったけれども、何時間も何時間も聖書を読まなければ、他に聖書との接触を持つ機会もなかったからである。
想像して見てほしい。自分が文盲で本も読めないとしたら、聖書も読めないし、テープカセットもない。それで、一週間に一回だけ御言葉が一時間とか二時間読まれるのを聞いて、それから説教を聞くが、それ以外には何もないのである。しかも、生活の背景は野蛮人であった。だから、ヨーロッパの文化的なレベルが高まるのにどうして何百年もかかったのかということも理解できるわけである。私たちも知恵の無い者であるけれども、今の私たちの文化レベルは、神の御恵みによって、非常に高いものになっている。ほとんど100%に近い普通の人が本を読むことができる。これは西洋の文明の基準では決してない。キリスト教の文明基準の影響の結果なのである。ギリシャ文明の基準によるのではない。ローマの基準ではない。聖書を信じるイスラエルの基準であったのだ。誰でも読むことができた。「女性でも」という言い方をすると躓く人もいるかもしれないが、普通の歴史を見るがよい。女性に読むことを教えはしなかったのである。
イスラエル(キリスト教)の文化基準として、すべての人間は神の御言葉を読むことが出来るようにならなければ人間として(クリスチャンとして)成長することはできないので、読み書きは非常に大切で基本的な生活条件であったのだ。子供たちに必ず読み書きを教えたが、すべては神の御言葉である聖書を読む為であった。簡単に言うならばそういうことである。新聞は読んでもいいが、読まなくても罪にはならない。小説は読んでもいいし、読まなくても罪にはならない。しかし、聖書を読むために読み書きを学ぶのだということを子供の教育において私たちも覚えるべきである。それで、知恵の無い私たちも、ある程度までは知恵ある者に成り得るのである。
ヤコブの箴言30章にあることも忘れてはならない。年老いた時のヤコブの告白がそのまま私たちの告白でなければならないと思う。即ち、「確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学んではいないけれども、聖なる方の知識の初めはある」と言っている。私たちは、知恵において本当に未熟で足らない者であるのは事実だ。しかし、本を読むことを教えられた私たちは、自分で神の御言葉を学ぶことができる。クリスチャンとして何が正しいのか何が正しくないのかを御言葉に照らして考え、自分の心を変えて、神が与えてくださった義務を喜んで果たし、喜びと感謝をもって責任を負うことができるその祝福が私たちには与えられている。つまり、聖なる御方であられる神を知っており、その御言葉が与えられているのであるから、それに従って生きることができる祝福が私たちには与えられているのである。
14節と15節の関係に注目すればわかることだが、パウロの表現は、成長したクリスチャンとしてのものであった。パウロはすべての人に対して負債を負っている。そのためにローマで福音を伝えることを切に求めているのである。ここに、パウロの使命感の深さ、そして彼の個人的な願いもその使命感によって形作られていることがよく表わされていると思う。パウロは、すべての異邦人に福音を伝え、彼らに御言葉を教えて、彼らがクリスチャンらしく信仰に立って生きることができるようになることを望んでいるのである。だから、ローマの人々に福音を伝える事を切に求めているのである。福音を伝えたい相手は、クリスチャンではない人々だけではないということは15節を読めばよくわかる。「ローマの人々」という時に、教会の信者たちも含まれているのは明らかである。
私たちは、毎週々々福音を聞いている。福音のすべては、創世記から始まって黙示録で終わっている。それは簡単なトラクトで書き表せるようなものではない。聖書のすべては、神からの良い知らせである。パウロはそれをローマの人々に伝えたい。御言葉を彼らに教えたい。理由は16節にある。この言い方は、ある意味で変に聞こえる。ここでパウロは「私は福音を恥とは思わない」と言っている。原文では「なぜなら」という言葉で始まる文章である。「福音を恥とは思わない」という時に、なぜこれが変に聞こえるかというと、パウロが福音を恥と思っていないのは当然だからである。なぜ敢えて言うのか。それとも福音は、何か恥につながるものなのだろうか。パウロの言葉の意味をもう少し考えることは私たちにとって有益である。
聖書の昔の英訳では、「権利」という人気ある現代語が現代的な意味をもって使われることはまずない。この言葉は、法によって政府機関から来るものであれ、社会の伝統によるものであれ、人間に当然与えられるべきもの、或は“自然”によっても当然与ええられるべきものという抽象的な概念を指している。但し、昔の英訳でも「権威」というギリシャ語を訳すのに「権利」という言葉が使われている例外箇所が若干見られる(コリント人への第一の手紙8章9節、9章4節、5節、6節、12節、18節、テサロニケ人への第二の手紙3章9節、ヘブル人への手紙13章10節、黙示録22章14節を参照)。(新アメリカ改訂標準訳[NRSV]のような現代訳では「権利」という言葉を聖句の象徴を台無しにするような使い方で用いるばかりでなく――申命記22章30節において「翼」というへブル語の訳も「権利
(rights) 」になっている――、第一サムエル記10章25節、詩篇82篇3節、箴言29章7節、31章5節、8節、9節、イザヤ書5章23節などのようなはっきり誤解を招くような箇所にも「権利」という言葉を敢えて挿入している。このローマ人への手紙1章14節と関係の深い義務を表わす言葉をパウロはコリント人への第一の手紙7章3節のところで用いているが、NRSVはその「義務」という昔の訳を「権利」と改訳している。)それでも、「権利」という概念、つまりある国の国民であるとか、人間であるから、男性だから、などの理由で何かが自分には当然与えられるべきだというような概念が現代世界のように事実上中心を占めるほどに強調されるようなことは決してないのである。
他方で、義務の概念は契約的概念であるため、聖書の世界観においては明らかに中心的な概念である。聖書では、神が人間に命令を与えておられる。人間の生活は、神に従うという義務において特徴づけられるものである。このことは、パウロが異邦人に福音を伝えるという神からの使命を受けているのと同じように、人間関係において果たすべき神への義務をも含むものである。しかし、義務は、たとえそれが他の人とどのように関係を持つべきかということについて述べる場合であっても、「権利」という言葉に置き換えることはできない。
仮に、パウロが「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知恵ある人にも知恵のない人にも、果たすべき権利を持っている」と書いたとしたら、それはパウロが実際に書いた言葉とはかなり異なった神学的含意を伴うことになる。そして、そのような意味のものを、私たちは現代の社会において実際に見ることができる。そこでは、人は、まず神と人に対する自分の義務が何なのかを問うことはしない。社会、他の人々、或は“自然”が自分に対して何をしなければならないのかをまず問うのである。自分自身に要求するのではなくて、他に対して要求するのである。神の御心を行なうことを求めるのではなくて、自分が当然受けるべきと信じているものをどうにかして手に入れることに関心が集中する。なぜなら、現代人にとっては、自分の義務よりも権利によって物事を考えるので、与えるよりも受ける方が幸いと思っているからである。
パウロの時代の人々も同じ種類の罪を犯したことに疑いの余地はない。けれども、今日の私たちの時代ではそれが社会の標準となっており、広く認められた“宗教”となっている。これは社会の調和と生産性を破壊する宗教であるが、恐らくその最悪の実は深い感謝の心の破壊だろうと思う。感謝の心がどんどん失われてしまっている。福音はすべての人間の「権利」であると考えるならば、人々は恵みのゆえに神に感謝するどころか、恵みをほとんど理解できなくなってしまうであろう。パウロにとっては、「義務」という契約的カテゴリーをもって考えるだけでなく、自分の意志が神の律法に従っているがゆえに、神が自分に要求することを行なうことが喜びであり、心からの願いなのである。
ここに私たちは成長したクリスチャンの姿を見ることができる。自分はそうすることを望んでも喜んでもいないのにその義務を果たすならば、それは確かに人にとって栄誉あることだ。しかし、たとえ個人的には快くは思えないとしても、何よりも「神が自分に与えてくださった義務」だからそれを果たすことを喜びとするのは真のクリスチャンの聖さなのである。他のどのような事柄よりもまず神の御心を喜ぶことこそ、次のように仰せられた私たちの主に倣うことである。キリストは、「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです」と言っておられる(ヨハネの福音書8章29節)。
恥ではない
恥を「罪意識」という言葉と対比して考えるならば、今の世界は実に実に恥に満ちた世界である。現代人は、サムエルが罪についてサウロ王に迫った時のサウロ王のようであり(第一サムエル記15章24〜25節、30節)、神が自分をどうご覧になっているかよりも他の人々が自分をどう思っているのかを気にしている。聖書の世界観に立つならば、神の御前で罪意識を持つのは罪人である人間には根本的な問題であるのに対して、人前での恥はまったく二次的なものである。神の御前で罪を意識することは罪人の生涯における根本的な戦いである。現代の西洋では、その罪意識のほとんどを捨てて、今や人間が人間の裁判官となっている。心にかけることは見かけでしかない。このように、恥は100年前よりもはるかに重要な役割を果たすものになっている。
けれども、別の観点から見れば、現代の私たちは恥の感覚を失ってしまっている。かつては人を恥じ入らせた言葉や行為は今では公に受け入れられている。他方では、恥ずべきではないことが今ではタブーになっている。例えば、アメリカでクリスチャンが政治の領域に入ることは躓きである。それはアメリカのクリスチャンの権利によって聖書を政治に適用しようと絶え間ない試みが続けられているからではない――そのような試みを彼らは全くしておらず、多くの人たちはクリスチャンの政治が何を意味するのかさえ全くわかっていないのである。彼らにとっての躓きは、実際に公開討論の場でキリスト、聖書、祈りについて、個人的に真剣に語ることなのである。それが彼らには恥ずかしいことなのだ。そうであれば、現代の世界はパウロの時代の世界と非常に似ていると言わなければならない。
なぜなら、ユダヤ人は十字架を躓きの石とし(ローマ人への手紙9章32節、ペテロの第一の手紙2章8節)、異邦人は愚かだと考えたからである。それ故、パウロがここに書いた事柄の重要性は、今日の私たちの世界と比較することによって一層明白になる。キリストを告白することは、今日と同じように人々の嘲りを招いた。パウロがこのローマ人への手紙を書いてからほんの数年の後に、キリストを告白することは迫害と憎悪を意味するようになる。パウロの言葉を借りるなら、クリスチャンは「この世の屑、ちり芥」と見做された(コリント人への第一の手紙4章13節参照)。反対の激しさはこれから増すであろうが、パウロがローマの人々に「クリスチャンはキリストの福音を恥じるように誘惑される」と書いた時、すでにそれは現実であったのだ。それ故、パウロは、「自分はキリストと福音を恥じていない」と大胆に告白する。
この16節には二つのことがある。一つには、「福音を恥とは思わない」という言い方には「誇りに思う」という意味が含まれていると言えなくもない。パウロはキリストを誇っており、福音を誇っていることは明らかである。「キリストの十字架に自分の誇りのすべてがある。主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは断じてあってはならない」ということである(ガラテヤ人への手紙6章14節)。そして、この16節で、パウロは主イエス・キリストの教えを暗示しているのではないかと思われる。主イエス・キリストは、御自分がエルサレムに上らなければならないこと、そして十字架につけられなければならないことなどを弟子たちに教えている。ルカの福音書9章の22節からのところであるが、特に24〜26節に注目したい。
22そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」 23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。25人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。26もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。
キリストもここで「恥」という言葉を使っている。この箇所を読めばポイントがはっきりすると思う。主イエス・キリストを信じる者はどこまで反対されるかというと、いのちを奪われるほどに世に憎まれることがあるのだ。そこまでの話になると、当然恐れとか恥の話になってくる。実のところ、憎しみを持つ人間は相手を殺すだけでは満足しないものである。そのことは十字架そのものの意味において最もよく表わされている。ただ殺人したいのであれば、ローマ人は剣の刃で相手の首を落とせばいいのに、十字架の殺し方はそんなものではない。十字架は、相手を侮蔑し辱めるための刑であった。裸にされて高い木にかかげられるのである。公然な場所で裸にされるだけでもとにかく恥ずかしいことなのに、十字架の刑は、拷問を受けてから長い時間をかけて裸のまま公然とさらされるのである。拷問の形としては実によく考え抜かれた刑だと言われている。
公衆の面前でまず拷問する。拷問している間も、その人を嘲ってできるかぎりの屈辱を与える。それは、社会全体に対する見せしめでもあり、ローマ人に逆らうことがどれほど恐ろしいことなのかを肝に銘じて思い知らせるためでもある。心の底からその受刑者を憎んでいるので、その人を最大限に苦しめるという意味もある。レイプという罪もだいたいその人を辱めるための行為であり、憎しみから生まれてくるものだと言われている。他にも、教会を迫害するとき、この世は出来得る限りの憎悪を尽くしてクリスチャンを辱めるのである。それは、昔のローマ帝国でも今世紀の教会迫害においてもそうであった。とにかく辱めようとする。だから、自分のいのちを守ろうと思えば、そして恥を避けようと思うならば、この世の中では主イエス・キリストを恥と思って逃げ回らなければならなくなる。
もちろん、生命のことだけでなく、日常生活の中の些細なことにおいても言えることである。「人に笑われるのは嫌だ」と思うものである。よく母親が「人に笑われないようにしなさいよ」と子供を教えているのを見かける。「そんな事したら、人に笑われますよ」と子供に言っている。これは、とんでもない教育である。皆さんは絶対にそんな教育をしないでいただきたい。むしろ笑われることに慣れるように教えなさい。笑われることが問題なのではない。正しいのか正しくないのかということこそ大切なのだ。笑われることを恐れるな。正しさを行ないなさい。自分のやっている事が正しければ、たとい全世界に笑われても動じる必要はないのである。
「でも、笑われることが怖い。嘲笑は耐えられない屈辱だ」という気持ちを持つ大人は実に多いのだ。そんな教育を小さい時から受けたせいか知らないが、それは完全に間違った思いである。「私は小さい時にこういう事をされたから...」というような理屈を言うのは20歳や30歳になったらもういい加減止めた方がよい。20歳以上にもなって、「私は小さい時にこういうことがあったから、私は被害者です」というような思いを持つことは愚かなことだ。結局、それは自分の罪のために口実を作っているに過ぎないのである。「何が正しいのか」を考えて生きることを子供に教えなくてはならない。義を行なわないことこそ恥ずかしいことなのだ。笑われたら楽しくはないし、馬鹿にされて嬉しくないのは当たり前である。人間は神の似姿に創造されたものである。御父、御子、御霊は、互いの栄光を求めあう。正しい意味においてお互いを誉めあうものである。へつらいではない。真実の言葉をもって互いに誉めるのである。そういう意味において神の似姿としての栄光を求めるものとして創造されたという事実を私たちは認識すべきである。正しく栄光を求めるならば問題はない。どこから、そしてどのようにそれを求めるのかが問題なのである。
キリストの話にも出てくるけれども、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」とキリストはパリサイ人に対して言っている(ヨハネの福音書5章44節)。お互いをへつらい合うような生き方をする人間は、神からの栄誉を求めはしない。人からの嘲笑を免れようとして互いにへつらうが、正しさを求めはしない。それが彼らの栄誉の求め方である。終りの裁きの日に、神がすべての人を裁き給う。その時、私たちは神が私たちを受け入れてくださることを知っている。クリスチャンは、その裁きの日に、神から与えられる栄誉を心から求めて今を生きるのである。それが栄光の正しい求め方である。それを求める者は、正しさを第一に求める。たといこの世でそれが恥と思われても、自分のいのちを捨てて、この世の恥の象徴である十字架を負って生きることができる。クリスチャンとして生き、この世とは逆の道を歩む。即ち、神の目に正しいと見られる道を歩むのである。その為に、いろいろな事において馬鹿にされたり辱めを受けたりするかも知れない。ひどく嫌われることもあろう。それは、主イエス・キリストに従っていく意味の中に含まれていることなのだ、と主イエスは教えている。
だから、パウロも主イエス・キリストの言葉を借りて、「私は福音を恥とは思わない」と宣言するのである。つまり、「私はキリストに従っていく」と言っているのである。「まるで私は愚か者であるかのようにこの世の人々に見られるけれども、恥とは思わない。私は、大胆に、そして忠実に福音を宣べ伝える」と言っているのである。「この世の人に馬鹿にされて嘲笑されるとしても、私は大胆に神に従って生きる」と私たちに宣言しているのである。これは、すべてのクリスチャンに要求されていることでもある。もし、私たちが主イエス・キリストを恥だと思うならば、裁きの日に主イエス・キリストは私たちを恥と思い、私たちを外に追い出すであろう。何が恥なのか。何が栄誉なのか。それを大人のクリスチャンとしてしっかりと認識しなければならない。そして、子供たちにも、正しい栄誉を求めるように教えなければならない。
「パリサイ人たちは互いの栄誉を求める」とあるけれども、本当にクリスチャンではない社会ではへつらうことは日常茶飯事である。いつでも、誰でも、どこでも、人々はへつらうばかりである。この世はへつらいで成り立ってしまいがちなものである。それ故、教育において気をつけなければならない。子供たちの教育において、私たちは、神からの栄誉を求めるようによく教える必要がある。義を行なうことを教えなければならない。正しさが行われたなら誉めるのも良いことではあるが、そのことも、気を付けないとへつらいを求める心を育ててしまうことになる。へつらいを受けることを楽しみ、へつらわれると喜ぶような心を決して育ててはならない。本当に、神からの栄光を求めることがどんなに大切なのかを深く認識しなければならない。正しさのために生きる心、義務を喜ぶ心を育てることこそ教育において最も基本的なことなのである。
クリスチャンになる以前に、私の父と母は私に良い事をしてくれた。私は、家の中では長男だが、従兄弟の中では最年長ではなかった。それで、いつも彼らの古着をもらって着なければならなかった。常にファッション遅れだし、汚れが付いてたりした。サイズも大きすぎたりする。小学校まではまだ気にしなかったが、中高生にもなると「恥ずかしい。嫌だ」と思うようになる。それで、「みんながこうしてるんだから、ぼくもこうしたい」と親に不満をぶつけたりした。その度に、父は同じことを言っていた。「みんなが崖から飛び降りたら、おまえも飛び降りるのか」と言って、無視されてしまうのである。私の父はスタイルとかファッションには全く無頓着だったので、そんな事は気にもしなかった。服は裸を隠せればそれでいいんだと考える人であった。それで、私はいつも恥ずかしい思いをして学校に行ったものである。
しかし、それが私にとっては良かったのである。その当時は絶対に理解しなかったけれども、大人になってから、社会全体はまさに崖から飛び降りるような事をするものだということが歴史書などを読んだりするとだんだんと解るようになったのである。ヨーロッパの中でドイツは優秀な民族である。そのドイツ全体がヒットラーを神にしてそれに喜んで従って行くのである。この世の知恵ある者が、一番の愚か者になり得るのだ。ヒットラーは公に選挙で選ばれた人間であったのだ。圧倒的な人気があった人物なのだ。今の社会を見てもそうである。社会全体が狂っていて、歪んでいる。だから、社会全体が良いと思っているからといって私たちは良いと思ってはならない。また、社会全体が嫌って恥と思うことを私たちはすぐさま社会と一緒になって恥と思うべきではない。テレビの影響、子供たちが読む本からの影響、周りの社会からの影響において、何が栄誉なのか、何が素晴らしいのかということを決して思い違いしないようによくよく気を付けなければいけない。
子供たちは、栄光を求めることにおいて自然に社会の方向に流されやすいものである。大人だって例外ではない。神が与えてくださる栄誉を求めて生きる心を育てないならば、結局は福音を恥ずかしいものと思うようになってしまう。福音を恥と思って生きるようになる。もちろん、パウロが「福音を恥とは思わない」と言う時、ローマの人々も同じ思いを持たなければならないものである。パウロは、死ぬ直前に同じことをテモテにも話している。「福音を恥とは思わないで、大胆に福音のために生きる」ようにテモテに教えている(テモテへの第二の手紙1章8節)。神が与えてくださった義務を喜ぶパウロの心がよく表われている。福音を恥とは思わず、却ってそれを誇りに思っている。そして、罪を恥だと思っているのである(ローマ人への手紙8章)。その心は、この世の人々とは正反対である。
クリスチャンとして成長することにおいて、また子供たちを教育することにおいて、私たちはこのようなパウロの思いと心から熱心に学ばなければならないことは本当に沢山あると思う。パウロの時代のローマの人々は、キリストと共に世に逆らって立つか、世と共にキリストに逆らって立つかのどちらかを選択しなければならなかった。前者は恥に満ちた取り扱いを受けることを意味し、後者は人の嘲りから逃れるが神の御前では永遠の恥を意味した。その同じ選択に私たちは今直面している。そして、この問題において何をすべきなのかを私たちは知っているはずである。
聖餐式の時、私たちは福音を恥ずかしいとは思わないで福音を喜び、福音が神の栄光を表わすものだということを覚えて受けるものである。この時に、私たちは本当にクリスチャンの思いと心に戻らされる。義務を愛し、福音を喜びと思うのである。その福音を本当に喜びだと思っているのであれば、私たちはパウロのように福音を伝えたいという心を当然持つ筈である。なかなか証しをする機会がないのは、なかなか証しする機会を求めないことから来ている場合が多いのである。心の中のどこかに、福音を恥ずかしいと思っている部分があることが妨げとなっているのではないか。福音を喜びだと思うならば、自分が喜びと思っているそのことを他の人に話せないとは思わない筈である。真に喜ぶ事があれば、喜んでそれを伝えることになるからである。福音を喜び、自分に与えられた働き、自分に与えられた責任、自分に与えられた義務を感謝して果たすのである。神を喜ばそうとするその心に戻るために私たちは聖餐式を守るのである。そのことをよく覚えて、一緒に聖餐式を受けたい。
――1998年7月12日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com