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    ローマ人への手紙1章9節


    1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、

    98.07.05. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    パウロの誓い

    1章9節

    私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく.... 

       私は、1971年に大学を卒業した。まだベトナム戦争中であったので、軍に入らなければならなかった。まだ大学院に行くことも考えていたので、そのための特別な方法で軍に入ろうかと試行錯誤していた時に、一枚の誓約書を突きつけられて「私は誓います」と書いてあるところに署名するように要求された。その前の週に私は新約聖書を読んでいた。アメリカ人らしく、創世記からではなくてマタイの福音書から読んでいた時に、キリストの山上の説教の中で「誓ってはならない」という箇所を読んだので、「もし、キリストに従って生きるならば、ここに署名なんかできない」と思った。

       その誓約書をもう少し詳しく読んでみると、「誓いをすることのできない者は『私は約束する』と書いてあるところに署名しなさい」と書いてあった。「ああ、そうか」と思ってその約束の箇所に署名してしまった。署名してから、「これではまるでパリサイ人と同類ではないか。その誓いと約束は同じ意味になるし、法的にも同じことではないか。本質的な違いはないではないか」と思って非常に迷ってしまったことを覚えている。キリストの教えの意味はいったい何なのか。「誓い」とはどういう行為なのか。その時は混乱してしまって不安な思いは更に一年以上も続いたことを今でもはっきり覚えている。

       先週も見たように、ローマ人への手紙の1章のところでパウロは誓いをしている。パウロは、ローマの人々のために祈っていること及び彼らを訪問するという願いについて、なぜ「神がその証人である」と言うのだろうか。何か二次的な事柄についての誓いのようにも聞こえるし、更に重要なことに、信仰と行ないの関係についてもそうであったように、パウロがヤコブの教えと矛盾しているようにも見える箇所である。主イエス・キリストの山上の説教の教えとヤコブの手紙の中にある教えと、このパウロの誓いとの関係はどういうものなのだろうか。クリスチャンにとって誓いとはどういうものなのか。その事を、ローマ人への手紙の1章の箇所をベースに、今日はトピックとして「誓い」について考えたい。これはローマ人への手紙の理解においても非常に大切な問題であるからだ。誓いのほんとうの意味を理解しなければ、私たちはいろいろな点で誤解してしまうに違いないからである。

     

    キリストの教え

       ヤコブの教えはもちろんこの山上の説教で誓いを禁じたキリストの教えに基づいたものであった。それ故、まずキリストの説教を見なければならない。マタイの福音書5章33〜37節でキリストは次のように教えている。

    『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

       キリストは、誓ったことを主に対して果たすべきだという昔からの教えと御自分の教えを対比させており、その言い方はかなり明確で強い言い方であった。殺人や姦淫に関する生活から心の領域への命令と適用の教えとは異なり、誓いに関するキリストの教えは旧約聖書そのものに矛盾するように見える。ヤコブ書5章12節では、ヤコブはキリストの山上の説教の教えを繰り返して次のように簡潔に書いている。

    私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

       ここで、主イエス・キリストは「誓ってはならない。天を指しても、地を指しても、何を指しても、誓ってはならない」と教えて、キリストの兄弟のヤコブもその教えを繰り返し私たちに教えている。それだから「クリスチャンは誓いを立ててはならないのだ」と解釈したり教えたりするようになりやすい。実際そのように教える教会があるけれども、ここには二つの根本的な問題がある。その一つは、そのように教えた後で主イエス・キリスト御自身が誓いをしているということである。パリサイ人たちの前で大祭司が主イエス・キリストに「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。答えなさい」と命じた(マタイの福音書26章63節)。大祭司のそのような命令に答えるならば、その答えは誓いの他の何ものでもないのである。「生ける神の御名によって答えなさい」と命じられた場合、「イエス」と言っても「ノー」と言っても、それは誓いとなる。

       キリスト御自身が大祭司の命令に応えてユダヤ人の告発者たちの前で誓ったという事実によって、この問題は更に増大する。そのように大祭司に命じられた時に、主イエス・キリストは「私は誓いを一切しないのだから、答えることはできない」とは言わずに、きっぱりと「あなたの言うとおりです」と言って誓って答えておられる。パウロも、この1章9節で単純に誓っているだけではない。9章1節のところで、パウロは誓って「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によって証しています」と言っている。「キリストにあって真実を言う」ということも誓いを意味するし、「私の良心も、聖霊によって証している」というのも誓いの言葉である。

       他にも、コリント人への第二の手紙の1章18節でパウロは誓いをしている。「しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちの言葉は、『しかり。』と言って、同時に『否。』と言うようなものではない」と言っている。「神の真実にかけて言う」は誓いの言葉である。同じく23節でも「神の真実にかけて言いますが...」と誓っている。同じくコリント人への第二の手紙11章31節でも「主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです」とあるが、これも誓いの言い方である。ガラテヤ人への手紙1章20節でも、「私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません」と言っているし、ピリピ人への手紙1章8節でもパウロは「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証をしてくださるのは神です」と言っている。

       更にテサロニケ人への第一の手紙2章5節では「ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です」と誓っている。同じ2章10節でもまた「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないように振る舞ったことは、あなたがたが証し、神も証してくださることです」と言っている。「神が証してくださる」というのも誓いの言葉である。このように、パウロは彼の書簡の中で実によく神を証人とし、或は神の御名によって、誓いをしているのである。多くの誓いをしており、その誓いの内容もいろいろである。「何を指しても誓ってはならない」と主イエス・キリストは教えた。一方で、パウロはその書簡の中で少なくとも10回は誓っているし、キリストも誓っている。この二つの事をどのように一緒に考えたらいいのだろうか。これが一つ目の根本的な問題である。なぜこれほど多くの誓いがあり、なぜそれらは必要なのだろうか。

       誓いに関しては二つの根本的な問題があると言ったけれども、もう一つの根本的な問題は、「聖書の宗教そのものが契約的な宗教である」ということである。キリストによる誓いの禁止は、聖書の宗教のまさに本質に触れる問題なのである。「契約」というとき、「誓い」がなければすべてが無意味となる。聖書では、礼拝は契約の更新であり、それは神への私たちの誓いの更新を意味している。それ故、聖餐式は誓いである。バプテスマも誓いである。それは誓いの儀式である。クリスチャンとして生きることのすべては誓いに基づいている。神の御前における結婚も誓いである。それ故、結婚関係は誓いに基づくものである。契約の関係はすべて誓いによる関係なので、どうして誓いを止めることができようか。もし、誓いが一律に禁じられたのなら、教会は如何にして大宣教命令を成し遂げるのだろうか。誓いなくして、私たちは如何にしてキリスト教の礼拝を行なうことができようか。

       「誓ってはならない」と言われた主イエス・キリストの教えの意味はいったい何だったのかということを、私たちは聖書に従って注意深く考える必要がある。ほとんどの注解書はローマ人への手紙の1章の箇所とキリストの教えとの対立関係に言及はしているけれども、パウロがこんなに何回も誓っているという事実だけを見ても、キリストの教えの意味は「絶対に誓ってはいけない」という意味ではないのだということは明らかである。私が若いクリスチャンであった時、そこまでは何とか理解できたけれども、それならばキリストの教えの意味は何なのか、「誓い」の意味は何なのか、なぜパウロはこんなに数多くの誓いをするのかなどについては、当時はまだなかなか理解できなかった。クリスチャンとして誓いを正しく考えることも十分にはできていなかった。どうして主イエス・キリストはそこまで厳しい言い方で「誓ってはならない」と教えたのか。キリストが何を言わんとしていたのかを理解するためには、私たちは聖書全体の光に照らしてそのことを再考しなければならないのは明らかである。

     

    キリストの言葉の意味

       私たちのキリストの教えの意味を理解しようとする時、私たちはまずマタイの福音書23章16〜22節の箇所をもう一度注意深く読まなければならない。

    忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』 愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらが大切なのか。また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらが大切なのか。ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのである。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのである。

       表面的で主観的な第一印象は正確な解釈とは成りえない。使徒パウロが御霊の霊感によってそうしたように、主イエス・キリスト御自身も表面的な印象とは逆の内容を教えたもうからである。正しい理解のためには、二つのことをしっかりと念頭に置かなくてはならない。第一に、山上の説教全体が聴衆を意図的に驚かせるような表現で満ちていることに注目すべきである。この言葉は誰に向けて語られているのだろうか。明らかにパリサイ人たちに対して語られたのである。主イエス・キリストの時代のパリサイ人や律法学者たちには特別な問題があったことは、この箇所を読めばすぐにわかる筈である。キリストが説教している相手は、御自身が彼らについて他の時に宣べておられるように、「心が鈍くて耳の遠い」人々であった(マタイの福音書13章1節以下)。キリストは、御自分を信じていない者たち(つまり旧約聖書をも律法をも正しく信じてはいないユダヤ人たち)がつまずくように、敢えて難解な言葉をもって真理を教えたのである。

       例えば、ヨハネの福音書6章53節でキリストは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません」と言われた。これを聞いた自称クリスチャンであるユダヤ人たちの多くの者がキリストから離れて行ったのである(ヨハネの福音書6章66節)。キリストの教え方はいわばショック治療であった。ショック治療でもしないことには、聖書を聞くのに慣れてしまって鈍感になっていたユダヤ人たちは、本当にキリストのメッセージを聞いてその意味を深く考えたりはしないのである。彼らは、キリストもまた本質的には他の教師たちと同じことを言っているとでも思っていたのだろう。しかしキリストの教え方は彼らの聞くものとは違うものであって、その教えは新しいものへと招くものであることを彼らに悟らせようとするものであった。

       誓いについて考える時に、二つ目の重要な要素を見過ごしてはならない。ユダヤ人たちは、日常生活の中の些細なことでもよく誓ったりしていた。しかし、キリストの時代のユダヤ人の習慣は、誓いのやり方をあまりにも歪曲してしまっていたために、問題は極度にまで達していた。彼らは、巧妙な誓いのテクニックをもって無知な相手を騙すようになっていた。例えば、彼らは、神殿を指して誓ってもその誓いを果たす必要はなないが、神殿の中の黄金を指して誓ったなら、その誓いを果たさなくてはならないという区別を設けたりした。祭壇を指して誓っても、それは何もないが、祭壇の上にあるささげ物を指して誓うならば、その誓いを果たさなければならないのだと教えた(マタイの福音書23章16節以下)。

       そのような教えは聖書の中には決して見られないものである。そのあまりにも馬鹿げた教えの目的は、誓いを守る義務から逃れるための道を開く一方で、誓いの言葉の力強さを通して人に保証を受け入れさせることができるという点にあったようだ。それは特に金銭的なことが中心になっていた。簡単に言えば、パリサイ人は、人々を欺くために誓ったのである。それは律法の詳細を知らないユダヤ人を扱うのに都合がよかったからであろう。人間の言い伝えを聖書に付け加えたりすると、このような全くおかしな矛盾だらけの話になってしまうものである。

       パリサイ人はいろいろなユダヤ人の伝統をたくさん旧約聖書に付け加えて、神の律法の教えを曲げていた。異邦人とビジネスをする時に神殿を指して誓ったり、祭壇を指して誓ったりする。異邦人にはわからないから、「神を恐れる民であるユダヤ人が神の神殿を指して誓ったんなら多分大丈夫だろう」と思って信じたわけである。ユダヤ人ほど宗教熱心な民はいないと思われていたからである。異邦人でさえ、神殿を指して誓えば、ローマ人であれギリシャ人であれ、それを厳粛なものとして考えていた。ユダヤ人は自分たちよりも宗教熱心だから神殿を重んじているはずだというのが異邦人のユダヤ人に対する一般的な認識でもあった。

       異邦人の中には半分ユダヤ人になっていた人たちが少なくなかった。なぜなら、異邦人の宗教はあまりにも程度の低いものであったので、ユダヤ教の教えに興味を持って、その知恵に魅かれたからである。だから、使徒行伝の中で、異邦人で旧約聖書を読んで神を信じるようになった人々のことを「神を恐れる人々」と呼んでいる。彼らはまだユダヤ人になりきってはいないし、信仰もまだはっきりしてはいないが、イスラエルの神を恐れていた。だから、ある意味で、ユダヤ人は異邦人の中で尊敬を受けていた。ユダヤ人は異邦人よりも宗教的に熱心で真剣であることは広く知られていた。そのパリサイ人たち、そのユダヤ人の指導者たちが、誓いによって相手を騙す方法を考え出したのである。そして、毎日の生活の中で何でもかんでも誓いをすることが慣わしになっていた。

       これは、恐らく日本には無い現象ではないかと思う。ヤクザの世界ならいざ知らず、一般の人々の中で何でもかんでも誓いをするような習慣はまずないと思う。たいした意味もなしに「神に誓って(swear to god)」という言葉をやたら使ってしゃべる人間は確かにいる。高校の時のある同級生は何を話すにしても必ず "swear to god"という言葉を付ける癖があった。彼がその言葉を使う時にはだいたい嘘なんだとみんなが思っていたほどに頻繁に使うのである。だから、そのような使い方は昔のイスラエルだけにあったわけではないのは確かである。しかし、なぜイスラエルは何でもかんでも誓うようになってしまったのかというと、イスラエルの宗教は契約的な宗教だったので、誓いの意味とか、誓いの素晴らしさ、誓いの意味の深さというものがよくわかっていたからである。

       その卓越した素晴らしい誓いというものを、ユダヤ人たちは曲げて醜いものにしてしまったので、キリストは、完全に誓いを止めるように命じて彼らを叱責したのである。誓いの意味がもう失われていたからである。ヤコブ書もユダヤ人に対して書かれたものであった。ユダヤ人に対して、ヤコブもキリストも「完全に誓いを止めなさい」と命じたのである。それを聞いたユダヤ人たちの驚きは大変なものであった。「誓いを止める? いったいどういうことなのか」と、ユダヤ人は考えずにはおれなくなる。「天を指して誓ってもいけない。地を指して誓ってもいけない。自分の頭を指して誓ってもいけない。誓うことを一切止めよ。『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言え。それ以上のことは悪いことである」と言われる時に、ユダヤ人たちは深く考えさせられる。

       実は、山上の説教のいろいろな箇所についても同じことが言える。キリストは、強い、ある意味で極端な表現を敢えて使って、聞くユダヤ人にショックを与えようとしているのである。ショックを与えなければ何も気が付かない相手なのである。だから、逆説的に聞こえるような言い方をキリストは敢えて使うのである。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」とキリストは教えるけれども、それもユダヤ人には驚くべき教えであった。「敵を愛しなさい」と言われるのも大変ショックなことであった。ユダヤ人は、ローマ人に虐げられていて、ローマ人を敵として考えていたからである。

       山上の説教はユダヤ人にとってはショックだらけであった。その教えが、旧約聖書の教えと矛盾しているかのように彼らには見えた。しかし、前後関係と文脈を注意深く見るならば、少しも矛盾していないことがわかる。むしろ、旧約聖書の教えの要点が明確に強調されているのである。キリストの言葉の全体の流れを注意深く聞くならば、キリストは旧約聖書にではなくて、パリサイ人に反対していることがよくわかる筈である。けれども、非常に強烈で逆説的でショックを与えるような言い方でキリストはユダヤ人たちに教えていた。ユダヤ人たちはいつも御言葉を聞いていたので、却って耳も心も鈍感になって、聖書が教えている真理に対して反応しなくなっていたのである。

       ちょうど、今のアメリカに行って神の愛について語るのと同じようなものである。聞く者は、半分寝てて「そう、そう」と頭を縦てに振っているようなことになってしまう。もう聞きすぎて新鮮味が無くなって、もう聞こうともしなくなっているのである。聞く耳を持たなくなっている。聞く耳を持たないということは、慣れてしまったので、御言葉の教えに対して「また、いつものことか」という程度の反応しかしなくなっているのである。それで、キリストは、その鈍感になって神の御言葉を求める心を持っていないユダヤ人には間違いかのように聞こえることを言う。そうすることによって、人々の目を醒すのである。何かの間違いではないか、どうしてそんな事を言うのかとか、いろいろな事を考えながら聞くようになるのである。

       キリストは、何回も繰り返し繰り返し、聞くユダヤ人にとっては聞きづらく、難解でショックな事を語っている。山上の説教は、その前後関係、文脈全体、そしてその歴史的な関係の中にあって考えなければならないものである。そうすれば、キリストが教えている意味がよく理解できるはずである。誓いは尊いものであるからこそ、それを汚すならば、100%止めなさい、ということである。誓いが、自分の都合のために欺きの手段となってしまった時、それを扱う唯一の方法は誓いの全面的な禁止であろう。

       それ故、誓いについてのキリストの教えは、礼拝についてのマラキの教えに似ている。「あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。――万軍の主は仰せられる。――わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない」(マラキ書1章10節)とある。神は、神殿の扉を閉ざし、すべての礼拝を止めさせる者を求めておられるのだ。これを文字通りの意味でとるならば、イスラエルはたとえ従順であっても祝福を相続できないことになる。また、ある意味でこの全面的禁止の言い方は、ヨシュアのイスラエルに対する説教に似ている。「冷たいか、熱いかであってほしい」という言い方が黙示録3章にあるけれども、ヨシュアも「主に従うか、他の神々に従うか、どちらかにしなさい」という言い方でイスラエルを取り扱った(ヨシュア記24章14〜28節)。

       ヨシュアの言っている意味は、つまり「はっりしなさい。主に従うならば、主を恐れて、心から御言葉に従い、誠実と真実をもって主に仕え、自分を主にささげなさい。真剣に真実をもって神に仕えることが気に入らないなら、異邦人の神々のところへ行って礼拝しなさい。半分を神にささげて、半分をこの世の偶像にささげるような生き方をするのは止めよ。どちらかを選べ」ということである。「中途半端にやるな。止めるんなら、完全に止めろ」ということである。黙示録3章でキリストは教会に対して同じことを言っている。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」とキリストは言う。「冷たくもなく、熱くもないものをわたしは忌み嫌う。熱くならないなら、むしろ冷たい方がいい」とキリストは言っているのである。

       山上の説教でのキリストの教え方もそれと同じものである。心が鈍感になって神の命令を守らない者たちに対する言い方なのである。それでも、ある意味でキリストとヤコブが言っていることは文字通りそのままの教えだとも言える。ユダヤ人は、自分から誓わなくてもいい時に何でもかんでも誓っている。つまり、自分が誓いをしたい時に誓っている。そのユダヤ人に対して、「自分から誓いをしないで、他から誓いを強いられた時にのみ誓いをしなさい」と教えているようなものである。「誓いを強いられても誓うな」ということではなくて、自分から勝手に何でも「神に誓って...」というような言葉を使って誓うようなことは一切するな、という意味なのである。それは、権威ある者に要求されて誓うこととは全く別な問題である。「プライベートな個人としての誓いをするな」という理解でもよいと思う。個人としては、誓いをしなくてもいいことにおいてはどんな事であれ、誓ってはならない。それがキリストの教えの要点の一つである。

       もう一つのことは、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことである」とキリストが言うとき、キリストは誓いを悪用しているユダヤ人に反対しているのである。つまり、「正しく誓うならば誓ってもよい」という意味を簡潔に説明しているのである。「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言えばよいのである。日常生活の中で何でも誓っていいというものではなくて、誓いは稀なことであり、誓いをしなければならない時にのみ正しい心で誓いをするものである。ある意味で、要求される時にのみすることである。従って、キリストの教えを真剣に受けとめた者は、誓いをすべて拒むわけではなく、国家、教会、家庭(結婚)によって誓いを課せられる時にのみ誓いをするのである。こうして、誓いは、その適切な聖書的位置へと回復されるのである。

     

    クリスチャンにとっての誓い

       誓いが、聖書の宗教において重要な部分であることに変わりはないことは理解できたと思う。旧約聖書の中で誓いがどのようなものであるのか、どのように使われていたのかをよく調べれば、私たちも誓いをどのように考えるべきかがわかる筈である。イスラエルの神への信仰と真の神礼拝の意味において誓いが不可欠な部分であったように(申命記6章13節、10章20節)、主イエスに対する忠誠の誓いも新しい契約の宗教には不可欠である(ピリピ人への手紙2章9〜11節、イザヤ書45章23節)。洗礼と聖餐は神が私たちに課せてくださった誓いであって、人が自律的に行なう誓いではない。国家が課する誓いや結婚の誓いについても同じである。いずれもクリスチャンが自分の言動が本当だということを説得するための道具ではない。これは、その存在自体が誓いに基づいている契約的組織としての教会、家庭、国家の性質のゆえに、クリスチャンに課せられた誓いなのである。

       旧約聖書の誓いも同じカテゴリーに入る。申命記6章の箇所を見てみよう。6章から11章のところでモーセは、十戒の最初の戒めの意味を深く広く説明している。つまり、唯一絶対なる神をまことに神として信じるとはどういうことなのか、ということを説明している。6章の3節でモーセはこう命じている。

    「イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

       これが旧約聖書の第一の命令であり、最も大切な命令である。そして、私たちの義務に関する聖書の中心的な教えである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして唯一絶対なる神を愛しなさい。神が私たちを愛してくださる。私たちは神の愛に真実な愛をもって応答するものである。それが聖書の倫理の中心であって第一に来ることであることをモーセは教えている。続いて「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい」と命じている。神を愛するとは、神の御言葉を心に刻むことなのである。他の人の心に刻むのではない。まず自分の心の中に刻まなければならないのである。御言葉を尊び愛することは、主なる神を愛することである。御言葉を求めず、御言葉を大切にしないなら、真の飢え渇きをもって御言葉を心に刻んでいないなら、それは神を愛さないことである。この事は単純明快に受け取られなければならない。「御言葉のための時間がない」ということは「神のための時間なんかない」ということに他ならない。神をそれほどには愛していないということに他ならないのである。言い逃れの余地はどこにもない。

       続いてモーセは「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」と命じている。まず自分の心に刻み、それを子供たちに知恵をもってよくよく教え込まなければならない。どのように教えるかというと、「あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これを印としてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい」と命じられているのである。つまり、毎日24時間、いつでも何処でもすべてを「御言葉の環境の中」で、「御言葉との係りの中」にあって生きるということである。神の御言葉を生活のすべての枠組みとして子供たちに与えなければならない。これは、神に対する愛のことなのである。

       それから10節と12節で「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」と命じている。つまり、すべての祝福が与えられた時、人間は祝福を与えて下さった神を忘れるものである。それが罪人の心である。「それを忘れるな」と命じている。「神を愛する」ということは、「祝福が与えられた時に神を覚える」ということである。

       神の命令を愛して、それを心に刻んで子供たちによく教え込む時に、その人は祝福されてしまう。祝福された時に、神を忘れるな。続けて神を覚え、今まで以上に神を愛するのである。アメリカの問題はこのところにおいてはっきり表われている。最初にアメリカ大陸に渡った世代は、神を恐れて、神を愛して、クリスチャンの国を作ろうという心を持って17世紀にアメリカに渡った。そこで、祝福されて豊かになり、自由になり、ますます祝福が大きくなると、アメリカはどんどん神から離れて行ったのである。祝福された者たちが神を忘れたので、今の状態に陥っているのである。昔のイスラエルも繰り返しその事を経験した。問題は次の箇所である。13〜14節でモーセはこう命じている。

    「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。」

       つまり、まことの神を礼拝し、まことの神を恐れる、まことの神を愛する者は、「神の御名によって誓わなければならない」のである。これは、神を信じる信仰の中で非常に大切なことの一つなのである。そして、人はすぐにこのことをおろそかにして忘れてしまう。神を愛して御言葉を守るという話の中にあってモーセはこのことを命じているのである。誰かを愛するならば、その人の名前を大切に扱うであろう。憎んでいるならば、その名前を軽んじてみだりに使うであろう。申命記10章16〜20節の箇所も見てほしい。

    「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。」 

       唯一まことの神が、どのようにあなたがたを救ってくださったかを覚えなさい。主は偉大なる神、義を行なう神であられる。イスラエルは奴隷の身となってエジプトにいた。その苦しみの中からのイスラエルの叫びを神は聞いてくださって、救いを与えてくださった。神は、弱くて虐げられている者の祈りを聞いてくださる神であられる。その神を愛するならば、弱い者に対しては特別に心を配って彼らを顧みなさい。弱い者を助けなさい。

       英語には"bully"という言葉がある。「苛めっ子」というような意味の言葉だけども、日本語の「苛めっ子」という言葉にはちょっとかわいらしさの余韻があるが、"bully"はもっと悪質で傲慢で悪意をもって人をいじめる悪党を意味する言葉である。世の中には、自分よりも小さくて弱い者を苦しめて潰すことを楽しむような人間がいる。ヤクザ世界によくある話である。自分より弱い者を見ると兎に角いじめたがる。自分よりも強い者には恐れてしっぽを巻くのである。本当に立ち向かうと、避けてしまう。苛めるのは好きだけども、戦うことは嫌う。そういう人間がいる。神はそのような人間を忌み嫌う。神は、弱い者に対して特別に心を注いで助ける御方である。神を愛するならば、私たちも神がするようにしなければならない。

       だからモーセは命じるのである。神を愛し、神に倣う者になりなさい。そして、「神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない」のである。誓うことは、神の御名を大切にすることなのである。主なる神を唯一の神として信じる。偉大にして愛なる神を心から愛して、その御名によって誓わなければならない。これが律法の教えである。そういう意味で、旧約聖書の律法の教えはキリストの教えと完全に一致している。何も変わってはいない。神殿を指して誓ったなら誓いを果たさなくてもよいというような教えを旧約律法から引き出すことは不可能である。

       イザヤ書45章23節で、神は「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある。』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る」と言っておられる。ここで、イスラエルを救うことを神は御自分に誓っておられる。

       旧約聖書の中で実際に誓いはどのように使われていたのかというと、裁判の時などに使われていた。アメリカや西欧諸国で裁判の法廷で誓いをする慣わしは旧約聖書に基づいている規定である。例えば、誰かが自分の財産を預けて旅に出かけたとする。昔はちょっとした旅でも何ヶ月もの旅になるので、家財や家畜を誰かに任せるわけである。旅から戻ってみると、家畜が死んだり、財産が盗まれたとかの話になると、疑うならばその任せられた人間がしっかり管理しなかったからだとか、その人が盗んだに違いないとかいうことになってしまう。そんな時に誓いを立てさせるのである。「絶対に盗んでいない」と誓わせるのである。誓うならば、それは認められた。財産をめぐる争いに係る誓いは、さばき司の前の誓いであった(出エジプト22章8〜11節)。

       それゆえ、ヘブル人への手紙6章16節のところに「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓う。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせる」とあるが、誓いによって問題は解決されたのである。そのような問題を取り扱うには、法廷を滞らせて社会を腐敗させる果てしない訴訟よりも誓いは遥かに良い方法である。また、姦通の嫌疑がかけられた女性のための誓いは、宗教的権威の前でなされるものであった。妻が姦淫していると疑っている男性は、妻を神殿の祭司の所に連れて行って確証のための誓いをさせた。身を汚しておらず、きよければ、その妻は害を受けずに祝福されるが、身を汚していたならば、彼女は誓いを通して呪いを受けた(民数記5章12〜31節)。これは、キリストに対する教会の忠実さの問題を指す象徴的な意味をもつ定めであった。だから、誓いは問題を解決するものであり、裁判官のような効果として誓いを使うこともあった。

       直接誓うのとは異なるけれども、男性が妻を嫌って口実を構えて彼女の悪口を言いふらしたりすれば、その男性が訴えられることもあった(申命記22章13節以下)。大変な事に発展しかねないので、疑いだけで何度も妻を祭司の所に連れて来れるわけでもない。根拠がなければできないことであるのは事実であるが、誓いによって祝福され、また誓いによって呪われるというものであった。ヨシュアは、神との契約を破って聖絶のものから盗みをしたアカンに誓って告白させ、裁いたのである(ヨシュア記7章)。

       また、ダビデとヨナタンは互いに特別な友情の誓いを立てた(第一サムエル記18章3〜4節、同20章12〜17節)。この場合のダビデとヨナタンの誓いは、教会、国家、家庭に課せられる時にのみ誓いをするという原則からすれば例外に見えるかもしれないが、二人は本質的に兄弟の誓いを立てたのであり、互いに家族として認め合い、家族としての義務を負うという養子の誓いに適合するものであるように思われる。同時に、二人とも政治的権威を持っていたのだから国家としての誓いにも係っているかもしれない(詩篇55篇20節参照)。また、兄弟同士の契約は、イスラエル人であることの延長でもあったし、宗教的契約の一部として見ることもできた。いずれにしても、二人の誓いは単に個人的な誓いではないのは明らかである。

       それから、深刻な罪を犯してしまってその罪を取り扱う時に、誓いが要求された。イスラエルがバビロン捕囚から戻って神の宮を再建した時、神に祝福されていると思っていた矢先に、イスラエルの男性たちが、しかも司や代表たちが中心となって、自分の妻を捨てて異邦人の女性と結婚していたという問題が発覚した。エズラは立ち上がって民を集め、異邦人の女をめとった罪過を指摘して、外国の女から離れるように命じた。クリスチャンではない妻たちと子供たちと離縁し、自分たちの家に帰らせ、そして誓わせた(エズラ記9〜10章、特に10章5節)。この罪に対して真剣に悔い改めないならば、その者は特別に呪われるように神に求める誓いであった。だから、深刻な罪を取り扱う時に、特別な誓いが要求された。

       そのように、いろいろな状況の中でいろいろな形で旧約聖書の中では誓いが行われていた。旧約聖書の礼拝制度も、誓いによる礼拝制度であることは皆さんも知っているとおりである。礼拝の中心は誓いである。まことの神への礼拝は、契約的な礼拝であるからだ。男性は、いけにえを持ってきて、テーブルの上でその動物をほふるが、いけにえを殺す前にまずその頭の上に手を置いて自分の罪を悔い改めてからほふるのである。神の御前に立ち、「私こそさばきを受けるべき者である」と告白して身代わりの象徴としてのいけにえを捧げ、契約を結ぶかたちで礼拝をささげるのである。礼拝をささげることは誓いを立てることであったのだ。

       それ故、クリスチャンにとって最も基本的な誓いは、国家に対する誓い(例えば、法廷で裁判官の要求により誓って証しなければならない時のもの)、家庭に対する誓い(これは結婚する時に神の御前で誓うもの)、そして教会での誓い(これはバプテスマと聖餐式である)、この三つである。私たちが法廷で誓うことは極めて稀なことであると思う。私たちは、国家に対して誓って何か言うことはほとんどない。実は、国家が要求する誓いとしては他にも幾つかある。国民になった時に誓いをしなければならない。また、政治家がその職務に就くときには誓いをしなければならない。

       何度か説明したことがあるが、昔アメリカでは大統領に就任する時、申命記の28章を開いてそこに手を置いて誓ってから大統領の職務に就くというものであった。その箇所は祝福と呪いの箇所であり、もし神の命令を守らなければ、私は呪われてもよい。もし神の命令を守るならば、私は祝福される。そういう大変な意味のある箇所に手を置いて誓ってから職務に就くのである。今では、クリントン大統領は聖書を閉じて、閉じられた聖書の上に手を置いて誓っている。実に象徴的な意味がそこにはあると思う。つまり、「神を利用するけれども、神の命令の内容は無視する」ような誓いの形になってしまった。

       それはともかくとして、私たちには国家に対する誓いがあり、家庭に対する誓いがあり、教会に対する誓いがある。毎週の礼拝の中心は誓いであることを忘れてはならない。私たちがここに集まったのは、王なる神の命令によって集まったのである。王に招かれてここに来ている。王の招きは命令でもある。招かれて、王の前に立ち、自分の罪を悔い改めて、罪を捨てて、誓いを新たにする。それが礼拝の中心である。そういう意味で、私たちは誓いを真剣にとらえてこれを大切にしなければならない。ただし、昔のイスラエルのように誓いを軽く考えてしまう危険性はあくまでもある。だから、私たちは、誓いの意味を繰り返し繰り返し教えられて、考えさせられる必要がある。そして教会は、神の御前に出て、本当に罪を悔い改めて、心から誓いをすることの大切さを、繰り返し教えなければならない。このことを決して忘れることがないように、私たちは気をつけなければならない。

       それにしても、なぜパウロはこれほどに何回も誓いをするのか。今までの説明ではまだパウロの誓いに関する問題が解決されていないように思えるのではないだろうか。それは、パウロの誓いが、国家、家庭、教会での誓いとは違って極めて個人的なもののように見えるからである。パウロは、宣教の働きにおける自分の誠実について(ガラテヤ人への手紙1章20節、テサロニケ人への第一の手紙2章5節と10節)、諸教会を訪れるか否かについて(ローマ人への手紙1章9節、ピリピ人への手紙1章8節、コリント人への第二の手紙1章18節、23節)、イスラエルの救いを求める彼の願いについて(ローマ人への手紙9章1節)、他にも上述した枠組みの外にあるように見える事柄について誓っているのである。なぜ、こんなに多くの誓いをしたのかというと、まずパウロがどのような者であり、何の為に神は彼を召したのかという文脈の中で理解されなければならない。使徒行伝1章8節にこう書かれている。

    「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

       これは主イエス・キリストが弟子に対して語っている言葉であるが、「使徒」は、キリストの復活に関してこの世の前で法的に正当な証言をするために神に特別に任命された特別な「証人」であった。広い意味では私たちもそのような者である。広い意味で、すべてのクリスチャンは神の証人であると言うことができる。証人とは、自分が見たこと聞いたこと、そして経験したことを、神の御前で誓って語る者である。証人とは、そのような重い厳粛な意味を持つものである。私たちは、神の御恵みを経験した者として、証人として他の人々に語ることができる。それはすべてのクリスチャンについて言えることである。しかし、使徒たちはもっと特別な意味での証人である。キリストが復活した後に、弟子たちに御自分を現わして、ずっと40日間一緒にいて彼らを教え、励ました。

       パウロはその中でもユニークな使徒であった。復活の数ヶ月後にキリストは特別にパウロに現われてくださり、パウロは復活のキリストを見た。復活のキリストを直接見ていない者は使徒になることはできない。つまり、法的な権威をもって証できる証人になることはできないのである。だから、私たちが使徒になることはあり得ないわけである。しかし、パウロは、直接復活のキリストに会って直接任命された使徒、キリストの証人であった。それ故、パウロが伝えている福音が反対される状況の中で、パウロには誓いをしなければならない状況がいろいろあった。福音の証人として、特別な意味で福音の証をするために任命された者として、パウロはこのように何回も誓いをする必要があった。パウロの誠実さや働きに対する攻撃は、キリストの正当な証人という立場に対する攻撃に他ならなかったからである。パウロは、自分が宣べ伝えている福音を弁護するためには、自分自身を弁護しなければならなかった。誓いは、偽りの非難を取り扱うための相応しい聖書的な手段であるのみならず、そのような状況下では唯一可能な方法でもあった。使徒としての権威と立場が危うくされていたのである。

       そういう意味で、私たちは、誤解されたらすぐにパウロのように誓いを立てるというような習慣を身につけるべきではない。パウロの誓いは「使徒としての特別な証言」の意味を持つものであって、個人的なものではないからである。私たちは、問題が教会や国家の法廷で取り上げられて誓いが課せられたのでないかぎり、困難な状況の中で自分自身を弁護するためにパウロの誓いを模倣すべきではない。それ故、パウロの誓いは教会における誓いであることは明白である。召命を受けて牧師になる時には誓いをしなければならない。塩光長老と堺長老と私は三人ともその特別な誓いをした。パウロの場合は、使徒としての誓いを繰り返し行なっているようなものである。いろいろな所に行って、いろいろな問題に対して、牧師としての誓いをしなければならない状態にあった、というような意味での誓いであった。

       私たちはパウロの誓いの意味において繰り返し誓いを立てたりはしない。しかし、私たちも礼拝においての誓いを毎週行なっている者である。誓いの性質と重要性を理解するならば、何よりも聖餐式を真剣に受けることを教えられる。毎週の聖餐式を行なうということは、そういう意味で非常に大切なことである。私たちは、すぐに誓いを忘れて御言葉から離れたりする。だから、もう一度神の御前に来て心を新たにする必要がある。説教を聞く時に、いろいろなことを思い起こしたり考えたりする筈である。詩篇を読む時にも、御言葉を歌う時にも、祈る時にも、御霊は私たちの心を取り扱っておられる。御霊が私たちの心を取り扱う時に、私たちはその場で自分の罪を深く感じたりするものである。ただ讃美歌を歌うだけで帰ってしまうならば、その感じたことは何も取り扱われない。確かに感じたけれども、それは心に刻まれず、それは実際の活動につながりはしない。本当に祝福を得るために、真剣な取り扱いが私たちには必要なのだ。惰性の生活とその罪の状態が変えられるような取り扱いが絶対に必要なのである。

       それで、御言葉を聞き、御言葉を歌い、心が取り扱われたならば、更に真剣にそのことは取り扱わなければならない。自分の罪を悔い改めて、その罪を捨てて、喜んで主イエス・キリストに感謝をささげなければならない。礼拝の中心としてそれを行なう時、私たちはその場から逃げることはできなくなる。「罪だということはわかっているけれども、そのままでいい。また来週考えることにしよう」というわけにはいかない。聖餐式を受ける時に、この場で主イエス・キリストの御身体を表わすパンを受け、この場で主イエス・キリストの血を表わす杯を受けるのである。これは、民数記の中に書いてあること、即ち、妻を疑う時に神殿の祭司の前に連れてきて誓わせるということだが、そのことを私たちは聖餐式において神の御前で行なっている。

       教会はキリストの花嫁である。教会が罪を犯して正しく神に従っていないならば、聖餐式は呪いを招くことになる。もし、私たちは神を恐れて、真剣に悔い改めるならば、私たちは祝福を受ける。何も反応がないということには決してならないのである。良くなるか、悪くなるか、そのどちらかである。決して中途半端なものではない。私たちは、神の御前に出て、キリストとその御言葉に従うことを「誓う」のである。ユダヤ人のような偽りの愚かな誓いに対して憤られた神は、もし私たちが考えもなしに破るような軽々しい誓いで御名を汚すならば、それを軽くは見たまわない。聖餐式はそういう意味で、私たちが真剣でなくても、或は私たちが大切にしなくても、神が大切にしておられる行為である。聖餐式を受ける時、そういう意味で私たちは実に恐れおおいことを行なっているのは事実である。

       そのことを覚えて聖餐式を受けなければならないので、コリント人への第一の手紙の11章を毎週読んでいる。けれども、あまりにも毎回この箇所を読んでいるので、もう慣れっこになってしまい、惰性的に聞いてしまって、もう聞いているのかどうかもわからなくなっているのではないかということが不安になる。私も例外ではない。読み慣れてしまって、読む時に十分に言葉に気をつけていないのではないか。その事を吟味せずにおれない。

       けれども、この箇所を読むのは、聖餐式で行なっていることの重大さと深さを覚えるためなのである。聖餐式で新たにされるバプテスマの誓いほど重大な意味を持ち得る言葉はない。同時に、聖餐式は感謝であって、主に対する感謝を深めるために与えられているものである。苦しい、辛い、逃げ出したくなるような、いつも強いられてやるようなものである筈はない。永遠にして完全な救いを与えてくださったことを心から主イエス・キリストに感謝して、喜ぶためにこそある。実に喜ばしいことなのである。私たちは、その重い感謝に溢れ、深い意味のある喜びに満たされて、主の聖餐式を受けることができる筈である。今一度そのことを覚えて、一緒にコリント人への第一の手紙11章の箇所を読んで、聖餐式にあずかりたいと思う。 

     

    ――1998年7月5日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com

     

    ローマ人への手紙1章8〜13節

    ローマ人への手紙1章14〜16a節

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