ローマ人への手紙1章21節
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
98.08.16. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
礼拝と知識
1章21節
ローマ人への手紙1章18節からパウロは神の怒りについて話している。なぜ神は罪人に対して怒っているのかをずっと3章20節まで詳細に説明している。人間の罪は神の怒りを招く。罪人が真理を阻んでいることに対して神の怒りが啓示されていると述べた後(18節)、クリスチャンでもない彼らが真理を知っているとパウロは言っているが、どういう意味でそう言えるのかということを19〜20節で説明している。神は御自分をすべての人間に明らかに示してくださった。すべての人間は神によって造られた被造世界の中で神の真理に取り囲まれており、人間の互いの影響を通して常に神の真理に直面しており、生まれながら自分の心の中でも神の真理に気付いている。
それゆえ、神を知らない者は誰一人いない。すべての罪人も神を知っている。知っていながら、その知識を何とか消し去ろうとする。しかし、神の似姿として作られた人間は、その知識を100%取り消すことは絶対にできないのである。罪人はそこまで神を憎み、神に逆らい、神から逃げようとするので、神の怒りを招くというのが全体の話である。21節から1章の終りまででパウロは、神を知っていながら拒むということがどういうことなのか、そして結果としてどうなるのかを説明する。罪深い人間は、「自分たちが神を知らない」と言うことができるほどに、その知識を巧みに拒絶しているのである。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
人間の歴史
この箇所で、神の真理をすべての被造物から教えられているのに、それに対して正しく反応しない罪人の姿が示されている。正しい反応をしないので、その思いはむなしくなり、その心は暗くなる。この箇所を歴史的に考察するならば、これはアダムとエバの時から既にそういう話になっていることがわかる。アダムとエバはエデンの園に置かれた。エデンの園が造られたばかりの時にはまだエバは創造されておらず、神から直接命令を受けたのはアダムであった。エデンの園は地球で最も美しい素晴らしい場所として造られ、神が特別な住まいとしてアダムに与えられた。それで、アダムは、エデンの園が特別に自分のために造られた場所であることをよく認識していた。心からの感謝をもってエデンの園にいる筈であった。
エデンの園にはあらゆる種類の美味しい果樹が実っており、樹から取れば簡単に食べることができた。汗を流して食べ物を得なければならないような状況は何もなかった。園のどこにでも食べ物が満ち溢れていて、手を伸ばせば好きな時に好きなだけ自由に取って食べることができた。電子レンジも必要ない。細菌もいないので、洗う必要もなかった。すべてそのままで食べられるものとして与えられていた。非常に豊かで祝福された環境にアダムは置かれていた。そのエデンの園がアダムの住まいとして与えられていた。豊かな緑と土の茶色という色彩も憩いとくつろぎを与えるものであった。緑色と茶色が基本色となっていて、その中に赤や桃色や黄色等の色とりどりの果物が樹木を飾っていた。それは最高に安息を与えてくれる環境であった。神は、その園を特別に備えてくださった。それから、特別に助け手としてのエバを創造してアダムに与えた。妻も与えられ、すべてが理想的な状態でアダムに与えられたのである。感謝に満ちている筈であった。感謝に満ち、神の愛を深く知って、神の御名を賛美し、創造主と被造物の絶対的な違いを深く認識していた筈である。アダムとエバは創造主なる神を賛美し、感謝をささげる者としてエデンの園にいた。
そこにサタンが来て彼らを誘惑した。サタンの誘惑は、神の言葉が本当かどうかを試してみようという誘いであった。サタンはエバに向かって言う。エバは創造されたばかりで無知であったし、直接命令を受けてもいなかったので、「神は本当にそう言ったんですか」と言われても、サタンの意図にはピンとこなかった。というのは、パウロが「エバは惑わされてしまったが、アダムは惑わされなかった」と言っているからである(テモテへの第一の手紙2章14節)。アダムもその場にいた。サタンの誘いを聞いて、エバが惑わされていることもアダムにはわかっていた。サタンが言っていることは神の御言葉を試みるものだということもアダムにはわかっていた。にもかかわらず、アダムはサタンの偽りを受け入れ、エバを利用して神の言葉を試みたのである。本当に死ぬかどうか、見てみようと思ったのだ。
エバはサタンの誘いを聞く時に戸惑ってアダムの方を見たりするけれども、アダムは何もせず、何も言わない。夫が黙っているのでエバがサタンに答えた。アダムの頭の回転は速かった。自分の妻が惑わされるのを意図的に黙認して、目を見開いて事の一部始終を観察していた。質問はエバに向けられていたので、エバは誘惑されて過ちを犯してしまった。罪の堕落は、アダムが自分の妻を守らないことを心に決めた創世記3章の1節と2節の間で既に起こっていた。エバが騙されるようにとアダムはエバを放置しておいたのだ。騙されることもわかっていたし、サタンの意図もはっきりわかっていたし、エバを利用して神を試してみようと思ったのである。
木の実を食べてもエバは肉体においては死ななかった。しかし、その時、罪をコミットしたアダムは既に愚かになっていた。愚か者のように考えるようになっていた。アダムの心はその時点で暗くなっていた。確かにサタンに誘惑された時のエバの反応は正しくなかったと指摘することはできる。しかし、本当ならば、サタンの誘惑が来たその瞬間に、夫であるアダムが、神への感謝の言葉をもってサタンに応えるべきであった。アダムは感謝の言葉を盾にして自分の妻を守る筈であった。神を賛美し、礼拝の言葉をもって、サタンの攻撃から自分の妻を守るべきであった。もちろん、エバも感謝の言葉をもってサタンの誘いを退けるべきであった。何が何だかわからないような状態の中で惑わされて、最初の間違った答えからだんだんと騙されていく。それ故、エバには何も罪がないと言うことはできない。けれども、アダムの方があからさまに罪を犯したのである。アダムの罪こそ決定的なものであった。
神を神として崇めず、感謝もしなかったのはアダムであった。神に栄光を帰するよりも、彼は悪魔に道を開いた。感謝という覆いをもって家庭を守るべき時に、アダムは妻が堕落するのを許したのである。だから聖書は、アダムの罪によって全人類が堕落したと説明している。「エバが罪を犯したために、可哀想にアダムも誘惑されてしまい、エバの罪によって全世界は駄目になった」というような考え方が西洋文化の中にはあるが、そんな話は聖書のどこにもない。重い罪を犯したのはアダムの方である。
結婚式のメッセージでも話したと思うが、結婚したら、どんな問題があっても男性の責任である。奥村さんの結婚式でも言ったと思う。亀井さんの時にも言ったと思う。どんな問題があっても、男性の方が答えなければならない。男性の方が問題に向かわなければならない。アダムたちが全責任を負わなければならない。アダムたちの方が、感謝と賛美の言葉をもって自分の家を守らなければならないのである。たとえエバたちがぶつぶつ言っても、アダムたちは、それを乗り越えて、神への感謝と賛美をもって家を守らなければならない。自分の妻を守らなければならない。だからといってエバたちは、「じゃあ、甘えてもいいんだ」などと考えてはいけない。今はアダムたちについて話しているのだから。
感謝と賛美の心をもって神に応答しなければ、私たちは神の御怒りを招くことになる。神は(人間的な言い方をするけれども)、心を尽くして、愛を尽くして、私たちにすべてを与えてくださる。それに対して、アダムとエバはその愛を試そうとした。その愛を信じることをせず、感謝もしない。神を崇めない。そういう心で神を試みたのである。それで、その思いはむなしくなり、考えは愚か者の考えになってしまう。頭が良くて回転が速ければよいわけではない。頭が速ければ速いほど、悪い方向に行くのが速くなるだけの話である。結論まで一気に行ってしまう。ますます速く悪くなるしかない。頭の速い人はよく注意するがよい。
この話の続きは、罪深い思いのむなしさと彼らの心の暗さをよく表わしている。その思いが虚しくなって、心は暗くなってしまう。思いが虚しくなることは堕落後すぐに見られた現象である。アダムとエバは木の葉で自分の裸を隠して神から逃げようとした。実に彼らの思いは虚しくなっていた。いったいどこに隠れて全知全能の神から逃れるというのか。「神から逃げてどこかに隠れよう」という考え方自体あまりにもばかげていて笑わずにおれないことなのだ。いったい何を考えているのか。まさしくその思いは虚しくなり、真の現実から離れてしまっている。逃げられないのに、逃げようとする。それで、心は暗くなる。ダビデは詩篇139篇7〜12節で次のように言っているではないか。
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。たとい私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。たとい私が『おお、闇よ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。』と言っても、あなたにとっては、闇も暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。
愚かにも、無所不在の主なる神から逃れ得る道でもあるかのようにアダムとエバは、園で木の葉で裸を隠し、神から身を隠そうとした。彼らは嘘をつき、自分の犯した罪を神のせいにしようとした。憎悪でいっぱいになり、互いを責め合う。
憎悪の心はアダムとエバにおいてはっきりと見られる。神はアダムに「あなたが裸であるのを、誰があなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか」と聞くと、アダムは悪しき計りごとに従って全部をエバのせいにしようとする。実際にエバに対する憎悪の心がよく表われている。そして、神に対する心も醜いものになっていた。「あなたが私のそばに置いたあの女が...」とアダムは答える(創世記3章12節)。つまり、「あなたのせいだ。あなたが与えたあの女のせいだ。私は哀れな被害者なのだ」というわけである。あの女を与えた神が悪いのだ。木から取って私にくれたあの女が悪いのだ。その心は神とエバに対する憎悪に満ちて実に暗くなっていた。そして、自分の罪をどうしても認めようとはしない。神の愛に対する感謝も消えてしまっている。自分はとにかく被害者なのだと言いたいのだ。「私は可哀想だ。私は大変だ。皆が悪い。確かに私もいけない事をしてしまったかもしれないけど、本当は被害者なのだ」と言う。
神がエバに「あなたはいったいなんとうことをしたのか」と言うと、エバは「いや、私の方がもっと可哀想な被害者なのです」というような答えをする。直接激しい言葉を使ってはいないが、言わんとしているのは「神さま。あなたがこの園に置いたあの蛇が私を惑わしたのです」ということに他ならない。アダムは男なので攻撃的な言葉を使うが、エバはもっと軟らかい言い方をしている。しかし、言っているポイントに変わりはない。結局は、二人とも神のせいにしているのだ。「あなたがあの蛇を創造したからいけないのだ。あなたがあの蛇を創造してエデンの園に置くようなことをしなければ、こんなことにはならなかったのだ。私を責めるのはおかしい。蛇を造った者こそ責められるべきだ」と言っているのである。実にその心は暗くなっている。感謝と賛美の心を捨てて神に逆らい、堕落の責任を神のせいにしようという心に変わっている。互いの関係においても愛が失われて憎しみに変わっている。
これは堕落の歴史を表わす箇所としてよく覚えておくべき一節である。神の愛と御恵みに対する感謝の心を失ってしまうなら、その思いは虚しくなり、変に曲がったものになり、その心は暗くなってしまう。そして、被害妄想狂に陥って、自分こそ可哀想な者なのだと思い込んで、ますます感謝の心は失われていき、心の中はますます深い暗雲に覆われて、毎日風雨と雷ばかりの状態に陥っていく。雲の上に行けば陽がさしているのに、感謝の翼を駆って昇ることをしないので、太陽を見ることができないのである。
そういうわけで、ここにアダムとエバの堕落の歴史の話があるのを見ることができる。アダムが罪を犯して、人間が堕落してしまった後、同じ話は繰り返し繰り返し旧約聖書に出てくる。カインも、神の御恵みを受けながら感謝もしないし、神を正しく礼拝しようとしない。それで神の懲らしめを受けた。その懲らしめは本当は恵みなのだ。叱られて懲らしめられるのは実に恵みなのだ。つまり、叱られた時に、目覚めて自分を直すことが出来るからである。どんなに叱っても学ばない人に時間かけて叱る意味はない。日本語を一生懸命ネズミに教えようとする人はいない。学ぶことが不可能なので、教えたりはしない。叱責を受ける時、それは自分を直す最良の機会なのだ。感謝して、叱責を正しく受け入れるならば必ず成長する。カインはもう大人になっているのに、それがわからない。それで、カインは神に逆らい、その思いはむなしくなり、弟アベルを殺し、その心は暗くなった。それでどんどん神から逃げるような人生を送るようになる。その虚しい思いと暗い心は、代々続いて増大して一つの文化を形成していった。文化的なレベルに至るまで、思いと心は曲がった暗いものになっていき、ついにノアの大洪水の時代に突入するのである。
大洪水の後、ノアから新しい人類が始まった。ノアは、神に対する感謝と礼拝の心に満ちていたけれども、時間が経つにつれてノアの子らは感謝を忘れ、神を正しく礼拝するのを止めて再び人間崇拝に向かっていった。そのために再び神に裁かれた(創世記11章1〜9節)。神は新しいアダムともいうべきアブラハムを起こし、新しい神の祭司の民を起こされた。それもモーセの時代の少し前になると堕落してしまって偶像礼拝をするようになって神から離れ、思いは虚しくなり、心は暗くなり、またもや神の裁きを受けることになった。
それでも神は再び御恵みと力ある腕とをもって彼らをエジプトから救い出された。繰り返し繰り返し大いなる奇跡を彼らに見せた。イスラエルは出エジプトにおいて神からの豊かな祝福と守りを受け、荒野にて神の御臨在という更なる祝福が与えられていた。それでもイスラエルは感謝せず、神に栄光を帰そうとせず、ぶつぶつ言って(出エジプト記17章3節)神に逆らい通しであった。それでその心は虚しくなり、またも偶像礼拝に陥ってしまった(出エジプト記32章1節以下)。神に対する感謝の心がない。どんなに豊かな御恵みが与えられても、感謝できないイスラエルの姿を私たちは荒野のイスラエルの中に見出すのである。結局、荒野で死ぬという裁きに終わる他なかったのである。
ヨシュアの時代には、恐るべき神の裁きを見た者たちは感謝の心をもって神に仕えたけれども、その後の士師記の時代になると、またもや感謝の心を捨てて神に逆らい、偶像礼拝の道を歩むようになった。そのイスラエルはまた神の裁きを受けなければならなかった。そこから救い出されたダビデとソロモンの時代のイスラエルは大いに恵まれたけれども、ソロモン自身が死ぬ前に罪を犯したために、国はイスラエルとユダに分裂してしまった。北のイスラエル王国は堕落してその二百年の歴史において一度も悔い改めることはなかった。南のユダ王国は、良くなったり悪くなったりの繰り返しであったが、最終的に裁かれてバビロンの捕囚となるのである。
そこからも救い出されてバビロンの捕囚から帰還した者たちにイスラエル再建の恵みが与えられた。しかし、キリストの時代には再び神に対して感謝せず、神の御名を崇めることをしないものになっていた。イスラエルはアダムの堕落を繰り返した。彼らは神に対する感謝を保つことができなかったからである。キリストはヨハネの福音書5章で「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」と言っている。神からの栄誉を求めず、神に栄光を帰することを求めない者が、どうして御言葉を理解できようか。アダムとエバの堕落が歴史においてこれほど何度も繰り返されているのを見るとき、私たちはここに極めてはっきりした真理が示されていること、そして見失ってはならない生活の根本原則が与えられていることを学びとるべきである。
知識と生活
この箇所でパウロの教えから明らかな事の一つは、知識のことである。知識を、生活の他の部分によっては影響を受けない人間理性の特別な機能と考えることはできないということである。むしろ、知るという行為は、私たちの全人格に係わることなのだ。私たちは心理的に一つである。即ち、知性、感情、意志はきれいに分離できるものでも個別に機能するものでもないのである。私たちは考える際に感情的な要素を捨てて考えることはできない。罪人は、神に対する故意な反抗を避けることによって客観的且つ明瞭に思考することはできない。創造主なる神への感謝の欠如は、人間から真の知識を奪ってしまうからである。
礼拝と知識
罪人は、まず礼拝において罪を犯すものである。即ち、神に対する感謝の心を持たず、心からの賛美を神にささげない。すべての問題はそこから始まる。問題は知識から始まるのではない。礼拝がおかしくなったので、その思いは虚しくなり、心は暗くなるのだ。神を賛美し、感謝をささげる、その心を失った時に、頭の思いも心の在り方も歪んでしまうのである。そうなると、問題や試練その他すべての事柄において、受けとめ方、感じ方、解釈がみな違ってしまうのである。その心は暗くなり、すべてがおかしくなってしまうのである。礼拝が駄目になっているので心も思いもすべて駄目になる、ということが歴史で実際に繰り返されている。これが罪人の心の状態なのだ。
この箇所のパウロの教えには、「人間の知識は神との正しい関係に根ざしたものである」という命題が含まれている。知識は感情や意志から切り離すことができないだけでなく、礼拝からも切り離すことはできない。これは極めて重大な事実である。このことはクリスチャンの観点から真の知識を定義するときに不可欠なものである。クリスチャンにとって、真の知識とは神との関係において事柄を正しく知ることであり、ヴァン・ティルが述べたように「神の思想を神が考えておられるように考える」ことを意味する。
知識は抽象的なものでもなければ、単なる機械的な行為でもない。神が創造されたこの世界は、余すところなくすべてが人格的である。単純な算数の事実も含めて、非人格的で抽象的で単に数学的な事実というものは存在しない。この世に存在するすべての事実は神の聖定によってそうなったのであり、すべての事実が三位一体なる神を語り告げているのだ。それ故、知識と礼拝とは密接に関っている。神を神として認めて愛するのでないかぎり、人は何一つ正しく見ることはできないのである。
またパウロが罪人について、「神を神としてあがめず、感謝もしない」と述べる時、このことを毎週の礼拝式に適用すべきではないかと思うのである。エデンの園にいたアダムとエバは確かに個人的にも公的にも神を礼拝すべきであった。そして、礼拝の本質は、その当時でも今日でも、神を神として崇め、キリストにあって賜わるその慈しみに対して感謝をささげることである。「神を神として崇める」という概念をただ公で公式な礼拝式に限定したくはないが、一方で、この箇所の観点をもって公の礼拝式を排除することは重大な誤りであることは大いに強調されなければならない。実にそれは、現代の多くのクリスチャンが既に陥っている誤りだと言ってよい。個人として神を信じ、礼拝もささげるけれども、正式に地域教会に属する者として礼拝式を正しく守ることを軽く考える人が増えている。正しい礼拝式をもって神を崇めることはよくて二次的な責任だというように考える人は少なくない。礼拝式が、自分の全生活に重大な関わりを持つ行為だとは思わないクリスチャンは少なくないのだ。彼らは甚だしい間違いを犯している。人間の考えや思いは、人間の考え以上の事柄から成立っているということを私たちは知らなければならない。
礼拝は私たちを誤った道から連れ戻し、心と思いを矯正し、私たちの基本的な人生観を神にある信仰とその慈しみに対する感謝の人生観に変えてくれる。このような心の態度を身に付けるためには、ただ考えたり勉強したりすればよいわけではない。心を正すためには、膝をかがめなければならないのである。礼拝という行為の中で、神に対して自分自身を正式に服従させることによって、心は矯正され、理性に正しい枠組みが与えられるのである。それ故、子供たちを公の礼拝に連れて来て、正しい態度で礼拝に参加するように導くことはキリスト教教育の最も大切な側面の一つである。
私たちはここに「礼拝」と「認識論」の関係を見ることができる。「認識論」に言及する時、普通それを「礼拝」と関連づけて考える人はいない。認識論は哲学の問題であって、哲学はすべて頭の中で論理的に解決されるものだと思われている。論理学的に問題なければ、それで何とかなるものだと考えられているけれども、決してそうではない。人の心は一つしかない。心は気持ちのこと、頭は思いのこと、そしてそのどちらとも別に意志というものがある、というような考え方は聖書の中にはない。意志も、気持ちも、感情も、思いもすべては心のことである。私たちは「一つ」なのである。
身体と魂は、二つの全然異なった物質を無理矢理一つにくっつけたというようなものではない。精密な機械の中に幽霊が宿っているようなものではない。私たちは、肉体を持った魂であって、その関係を100%明らかに説明することはできないが、身体と心、身体とマインド、身体と魂とは一つなのである。心は一つなので、感情、意志、思いは全部一緒に働く。一つがおかしくなれば全部がおかしくなる。どれが先におかしくなったかは言えない。すべてが一緒に同時に動いているからである。それを分析しようと試みても無駄なことだ。先に自分の意志で「こうしよう」と思ってから神に逆らったのがアダムの罪の始まりだろうか、と考えても仕方ないのだ。先に「やるぞ」と決めてから、感情も思いもそれに引っ張られて罪を犯すのだと考えても構わない。感情から始まったと解釈する人はそう解釈すればよい。思いから始まったのだと考えても事実になんら変わりはない。それは結局いろいろな観点から同じ「一つの心」を見ているにすぎない。生ける真の神に対する礼拝を正しくしなければ、その人の認識論はおかしなものになる。思いは虚しくなる。考え方は狂ってしまうのである。
知識と礼拝の関係について、パウロがこの箇所で述べたことから以下の命題が示唆されていると思う。それらを簡単に列挙してみよう。
1) 通常、礼拝から離れては自分や神についての真の知識はあり得ない。
2) これは、個人的な礼拝のみならず、洗礼式、聖餐式を含む公の礼拝式においても、感謝、賛美、祈り、従う心をもって神の御言葉に耳を傾けることにおいても、罪の悔い改めにおいても、これらすべてが神と自分についての真の知識を持つためには通常不可欠なものである。(それ以前の旧約の様々な時代における他の形態の礼拝式も当然不可欠である。「通常不可欠」とは控え目な言い方であって、十字架上の強盗のような例外もあるという意味である。)
3) 私たちが神への礼拝を通して得る神と自己についての知識は、単なる個人的知識ではない。それは契約的な共同体における知識なのである。第一に、それは御霊の内在と、礼拝のために集められた民への神の特別な祝福による神との契約関係における知識である。第二に、それは神の民との契約的共同体としての知識である。そこには、普遍的な教会の在り方を形作ってきた過去の世代も含まれている。
4) そういうわけで、知識と理解と知恵とは、神の御前にその民として膝をかがめる者たちへの神からの賜物なのである。
5) 自己と神についての知識は、従って、契約的なものである――つまり、知識は、契約関係においてしか理解できないものだということになる。神とその民との正しい人格的な関係に依存するものであるために、知識は全く人格的なものである、とも言える。
6) 契約的知識は論理的な知識である。それは神と神の民に仕える義務を伴う知識である――即ち、神とその民に仕えるという目的を持った知識なのである。
7) 契約の神についての正しい知識は、この世についての正しい知識と、その知識を用いるための正しい態度とを含むものである。産業、経済、農業、科学等における知識は従って、礼拝に根ざしているものである。礼拝は、人間が管理者であるこの世界に対して人間を正しく適応させるものである。それによって、人間は歴史におけるその働きを神にささげることができるのである。
8) 礼拝はまたキリスト教社会の土台でもある。なぜならば、それは人々をその誓いを守るように矯正するからである。礼拝は、人を良い子供、優しくて正しい夫、父親、妻、また母親になるように教える。家庭を、そして地域教会を、正しい知識へと矯正することにより、礼拝は社会を全体として再創造する。人間生活の中心的行為としての礼拝は、各個人と各集団の全生活を信頼と感謝と賛美の生活へと造り変えてくれるものである。
礼拝の欠如と無知
神を知っていながら、霊とまことをもって正しく神を礼拝しないので、その結果、狂ってしまうのである。「狂っている」とは、つまり現実離れしているということである。真の現実から逸脱している。自分を真の現実から切り離し、頑なに自分たちで勝手に作り上げた悪夢のような世界に住む。自分の本当の姿を認めていない。この世はいったい何なのかを正しく認めていない。人間の生きる意味もすべて正しく認めることができない。その生き方と思いは本当の意味で現実離れしていて狂っている。それは真の自分を見失った者が作った幻想の世界の中に生きているようなものである。この状態を「狂っている」と言わずに何と言おうか。罪人が神に対する反逆において一貫していればいるほど、彼はその思いと生活において正気を失うのである。
それ故、福音について非キリスト者に語ることは、決して単なる抽象的な論理や雄弁な議論ということにはならない。御霊なる神のみが彼らの目を開くことができるのである。「ハムレット」の中で、自分が狂っていると見せ掛けているのか本当に狂ってしまったのかはともかくとして、ハムレットが変な事を言い出す場面がある。現実と一致しないことをいろいろ言えば、「この人には現実が分かってない、頭が狂ったのではないか」と、誰もが思うはずである。そういう意味で、現実離れした生き方をすれば、それは「狂っている」のである。
自分の造り主である神を神として認めず、礼拝もしない者は、確かに狂っている。自分の罪を素直に認めて悔い改めることをしない者も現実離れしているのだ。素直に、神から与えられた恵みを喜んで感謝しないことも現実離れである。そういう意味でクリスチャンではない者は狂っている。正気ではない。私たちも皆罪人で、往々にしてそういう現実離れした方向に走りやすいのだから、ある程度まで狂っていると言わざるを得ない。自分の本当の姿を認めたくない。神への礼拝においても非常に足りない。私たちはそういう者なのである。
それ故、礼拝と認識論のつながりがここにある。「神を恐れることは知識の初めである」とソロモンが箴言で言っているのもこの同じポイントである(箴言1章7節、9章10節)。そこで、私たちは覚えておかなければならない。神への礼拝とその御恵みに対する感謝は、私たちの弁証学にとって重要であるばかりでなく、福音の宣教にとっても大変重要なものなのである。なぜなら、議論や宣教は、私たちの礼拝する神が私たちの祈りを聞いてくださり、御自身の御霊によって人を動かされる時に、初めてそれは通じるものとなるからである。
礼拝の時、私たちは自分に対しても子供たちに対しても、このような罪人の心から解放されることを求めるものである。日曜日の礼拝で私たちがここに集まって神に礼拝をささげる時、その行為には非常に大きくて深い意味がある。一つには、礼拝は神御自身に会うことである。私たちは礼拝に集まる時、主イエス・キリストの約束を忘れてはならない。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」とキリストは約束してくださった(マタイの福音書18章20節)。主イエス・キリスト御自身が私たちの礼拝の真ん中におられるのだ。
もっと厳密に言うならば、私たちは礼拝する時に天に昇って神の御前にいるのである。礼拝は、主イエス・キリスト御自身の御前にあって行われていることなのだ。私たちはひどく鈍感で愚かなのでそれを十分に感じないかもしれないが、霊とまことをもって礼拝しているならある程度は感じる筈だ。時によっては非常に強く感じることもある筈だ。普通はあまり深く感じなくても、時に神のご臨在をとても深く感じる(あるいは知る)ことがあると思う。「主なる神がここにおられる」ことを深く知るのである。それは礼拝の非常に特別な一面であり、キリストの約束に基づくことである。主イエス・キリストが共におられる。
子供たちを礼拝に連れてくる時、子供たちは毎週キリストに会っているのだ。頭の中でまだそれが分からなくても問題ではない。幼い子供たちはそう言われてもよく分からないかもしらない。分からなくても、事実キリストは私たちと共に今ここにおられるのである。福音書の中にも、母親たちが皆幼い自分の子供たちをキリストの御前に連れてきて祝福を求めたことが記されている。弟子たちは子供たちを止めようとしたが、キリストは幼子たちを呼び寄せて「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と言われた(マルコの福音書10章14節)。今日でもクリスチャンの母親たるものは同じ思いでなければならない。積極的に幼子たちをキリストの御前に連れてくるのである。
では、大人になったらどうなのだろうか。先ず自分を連れてきなさい。喜びと感謝いっぱいに先ず自分がキリストの所に来るのである。主イエス・キリストは私たちと共におられる。信仰をもって、主の御臨在を心に覚えて礼拝に来るならば、もっと深く経験することになるであろう。礼拝は実に人格的なものである。神御自身が共におられるという事実が第一の事である。
もう一つの大切なことは、礼拝にははっきりした「構造」があるということである。つまり礼拝は、誓いを新たにする「契約的な儀式」である。旧約聖書の中で契約を結ぶ時に、いつも儀式を行なっていた。契約的な儀式はそういう意味で非常に良いものである。無教会主義のように、ただ聖書を読む勉強会のようなものとして集まってもそれは礼拝ではない。そのような集まりでは神に対する本当の心や知識を持つ者にはならない。神を神として崇めて、感謝して、神が要求しておられる正しい礼拝を行なってはいないので、主イエス・キリストも共にいてはくださらない。つまり、それは御座の前での礼拝ではないので、礼拝の結果として神との契約を新たにすることにもならないのである。
神との契約を新たにする時、私たちは、神を「主」として礼拝する。礼拝に集まる時、私たちは自分を神の下に置いて跪くのである。祈る時も神に向かって「アーメン」と言うし、賛美する時も神を神として崇めて歌うのである。その礼拝式のすべてが、神を絶対なる神として見上げて自分をその下にへりくだらせることなのだ。これは他でもない契約の五つのポイントの第一番目のポイント(神の超越)である。
礼拝において、長老たちは礼拝を導く。それによって私たちは神の代表を認めて、その定められた代表の下に立って神に近づくということを行なっているのである。これ即ち契約の二番目のポイント(上下関係)である。
礼拝に集まる時にペンテコスト派みたいに無秩序に勝手に振る舞うような人たちもいる。牧師もリーダーも無く、ただ一緒に集まって聖書を読み、それから狂ったように騒ぎだすような集まりもある。それは礼拝ではない。それは神との契約を新たにするものにはならない。「静まれ」と神は仰せられる(詩篇4篇4節、イザヤ書41章1節、ハバクク書2章20節、ゼパニヤ書1章7節、ゼカリヤ書2章13節)。礼拝においては厳正なる言葉がある。礼拝で神の聖い御言葉を朗読したり歌ったり、神の御言葉を解き明かし、善と悪について神の御前で神の代表を通して取り扱われる時に、私たちは罪を悔い改めて神が定めた善と悪の基準を認めて、自分をその下に置くことを行なっているのである。これ即ち契約の第三のポイント(倫理)である。
そして、礼拝の中で聖餐式が執り行われる。聖餐式は誓いである。子供たちも毎週一緒に礼拝と聖餐式を受けているので、子供たちもよくよく耳を立てて聞いてほしい。誓いをする時に、私たちは誓いの祈りを捧げている。それは、「主よ。私がこの誓いを破っているならば、私をどうか呪ってください」という祈りなのだ。そういう意味で、誓いの祈りは、自分を呪う祈りである。「私がこの誓いを破るならば、私を呪ってください。私がこの誓いを守るならば、私を祝福してください。神よ。御恵みをもって私をさばいてください」という祈りを捧げているのだ。祝福と呪いを、自分の行動において求めている。これ即ち契約の四番目のポイント(祝福と呪い)である。
礼拝のやり方においてこれらは非常に重大なことである。それを正しく行なうことによってはじめて契約を新たにする礼拝となるからである。そして、契約の五番目のポイントは相続(或は継続)であるが、子供たちを礼拝に連れてきて、幼い時から正しく礼拝に参加させることは祝福を代々相続していくことにつながる。もちろん、クリスチャンではない人々に福音を宣べ伝え、御言葉を広めることにもつながる。私たちは種を蒔き、その実が結ばれることを求めている。礼拝はそのことにつながる活動でもある。礼拝は、契約を新たにする明確な構造を持つものなのである。
礼拝に集まる時に、私たちは、その契約の構造の中にあって礼拝を行なっているのだ。そのように礼拝を正しく守るならば、私たちにとって一週間の中で一番大切な時間は主イエス・キリストと共に過ごすその時間だということになる筈だ。これは何よりも大切な時間である。この時に、私たちの心は取り扱われて成長する。神との契約の構造の心を持つようになるために、礼拝もその構造に従って行われなければならない。これは、クリスチャンにとって非常に大切なことである。
三番目に大切なことは「神の力」である。私の表現が足りないために、これが最初に話した「主イエス・キリストが共におられること」と同じように聞こえるかもしれない。三つの事の関係は、キリストがここにおられる、私たちはここに来て誓いを新たにする、それを神は真剣に受けとめてくださって、実際に御自分の契約に従って私たちを取り扱ってくださるというものである。礼拝を行なう者に対して、神は影響を与え、その者の心を取り扱い、祝福したり、呪ったり、懲らしめたりしてくださる。礼拝を行なう者は結果がゼロに終わることはない。プラスかマイナスかのどちらかである。もちろんプラスのために集まるのだけれども、マイナスになってしまう危険性もなくはないことを知るべきである。だから、神を信じない人はそのことを感じて逃げてしまう。マイナス、即ち呪いの可能性もあるというなら、そんな礼拝なんかいらないと思うからだ。「そんなのはもう止めよう。危険だから、もう嫌だ。とにかくいらない」と言って去っていくのである。
福音書にタラントの譬え話がある。ある主人がしもべたちに、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡して旅に出た。一タラントをもらったしもべはマイナスになる可能性もあることが分かっていたので、恐れて、その責任から逃げようとする。そのように思って行動することは主人を憎むことに他ならないのだ。神を憎んでいるのである。
事実、神を愛し、感謝と信仰の心を持っているならば、マイナスに終わることは不可能である。なぜマイナスになるのか。能力が足りないからだろうか。そうではない。もし能力を問うならば、パウロも含めたすべての人間は何かの意味で能力は欠けている。罪深いからマイナスになるのだろうか。否である。すべての人間は罪深いのだ。私たちの心は、自分で知っている以上にずっと恐ろしい程に罪深いものなのだ。罪深いからマイナスになることはない。愚かだからマイナスになるのでもない。誰もが皆愚かなのだ。マイナスになるのは、罪を悔い改めず、感謝もせず、神の御名を崇めることをしないからである。自分の罪を素直に認めて、神の御恵みを覚えて感謝し、神の御名を賛美するならば、決してマイナスに終わることはないのだ。
それは愚かで罪深い者にも出来ることである。難しいことは何もない。険しい山に昇らなければだめだということはない。荒れた海を渡らなければならないこともない。ただ素直に罪を認めて、悔い改めて、神に感謝し、神を礼拝する。そうすれば必ずすべてはプラスとなる。すべては益となる。神がそのすべてを働かせて益としてくださるのだ。ローマ人への手紙8章28節にある通りである。それが「契約を新たにする」ことなのだ。しかし、神を憎む者は、マイナスになるかもしれないと思って恐れてカインやエサウのように逃げる。それで、自分の上に神の御怒りを招くのだ。その一タラントを預かったしもべは、「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私は怖くなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」と言い訳をした。それを聞いた主人は、怒って彼からそのタラントを取り上げ、それを十タラント持っている者に与えた(マタイの福音書25章14〜30節)。なぜその悪いしもべはそのように主人を見ていたのかというと、主人を憎んでいたからである。そして、その憎悪の心に相応しく彼は裁かれたのである。
だから、三つの事を覚えよう。礼拝は神御自身ご臨在する場であること、契約の構造に従った礼拝であること、そして、神の力、即ち神が実際に裁きを行ないたもうことを礼拝の中心として考えなければならない。それで、礼拝と生活、礼拝と知識、礼拝と心のつながりがわかってくる。クリスチャンではない人々は、神を知っていながら、正しく礼拝をささげないので、心は狂ってしまって暗くなる。だからパウロは、「彼らは神を知っているのに神を知らない」と言う。知っていながら礼拝しないので、その心は暗くなって本当の意味で神を知らない者になっている。自分で真理を阻んで自分の心を暗くしてしまったので、無知な心を持つようになったのだ。
イエスの弟子たちを見れば、その「知っていながら、知らない」という意味も理解されよう。弟子たちは三年以上もイスカリオテ・ユダと毎日を朝から晩まで一緒に行動した。そういう意味で、よく知っていた。イスカリオテ・ユダは優れた能力のある人間であった。見た感じでは非常に素晴らしい人間だった。だから、弟子たちの中でもリーダー格であり、金銭を全部任せられていた。人間的に素晴らしくても、能力がなければ金銭を任せるわけにはいかないからである。能力もあり、信頼もできるしっかり者だったから任せたのである。そして、どんな状況の中でも弟子たちはイスカリオテ・ユダを素晴らしい人間と思っていた。ずっと一緒に生活していたのに、知っていながら、知らなかったのである。キリストを裏切った時に初めて彼を知ったのだ。
最後の晩餐の時も、イスカリオテ・ユダは一緒にいてキリストを売る計画を実行に移そうとしていた。ユダがその部屋から出る直前にキリストは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」(マタイの福音書26章21節)と言った。その僅か2〜3分後にユダはその部屋を出た。その時でさえ、誰一人イスカリオテ・ユダを疑う者はいなかった。弟子たちはイスカリオテ・ユダを知っていながら、知らなかったのだ。彼が金銭をいつも盗んでいたことも誰も知らなかった(ヨハネの福音書12章6節)。イスカリオテ・ユダを兄弟として愛し、信じ、彼が行なうことはみな良い方に解釈して受け入れていた。裏切りの罪が明るみに出た後で初めて弟子たちは本当の意味でイスカリオテ・ユダを知った。
罪人はちょうどそれと逆の状態にある。つまり、神は愛なる義なる神であるのに、その神を、あたかも悪者であるかのように解釈する。知っていながら、知らないのである。それで、神が何をするにしても罪人の神に対する解釈はまるで悪者に対する解釈のようなものになる。例えば、ある考古学者がイスカリオテ・ユダの伝記を見つけたとする(そんな事は有り得ないことだが...)。その伝記の最後の一週間は空白になっている。その伝記は彼の素晴らしい人物像を表わしており、それを読む者は感激せずにおれないだろう。しかし、クリスチャンがその伝記を読めば、それがすべて表面的であって、イスカリオテ・ユダの本当の心ではないことがすぐにわかる。キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダを知っているので、私たちは本当の解釈ができるからである。
罪人は神のやることがことごとく悪いものに見える。地震を与えたり、洪水や飢饉、いろんな裁きを人間に与える。先日アウシュビッツの記録のビデオを見たが、多くのユダヤ人がインタビューを受ける時に「神はいったい何をしているのか」と憤慨して語っていた。それはヨハネの黙示録に書いてある通りである。神が裁きを与えると、彼らは更に神に逆らうようになる。もっと神を憎むようになる。悔い改めて「私たちの罪の故に、神の裁きが下されたのだ」と言う人はインタビューの中には一人もいなかった。ユダヤ人だけでなく、ヨーロッパ全体が「どうして神はこんな事を許すのか?」と叫んだ。それは実に良い質問である。しっかりと自分の質問の答えを考えてほしい。どうしてそんな事になったのか。
神は、善なる愛なる神である。愛なる義なる御方がここまで激しい怒りをくだす理由はいったいどこにあるのか。それは、あなたにあるのではないか。罪人はそこまで考えようとはしない。考えたくもないのだ。アダムとエバと同じように、感謝がないためにその心が暗くなってしまっているので、すべてを神のせいにする。「神が悪いからこういう結果になるのだ」と叫ぶ。「他の説明は有り得ない」と彼らは考える。「あなたがこの女を与えたので私は罪を犯してしまった。悪いのはあなただ。そしてこの女が悪いのだ」と罪人たちは言い訳をするのである。これが既に心が暗くなってしまった者の一様な解釈なのである。愛である義なる恵みなる神を信じて考えるならば、解釈は全く違ったものになる。表面的に理不尽で悪く見えるようなことであっても、それが義なる神の御手によることを知ってクリスチャンは感謝する。神への感謝が思惟の出発点なので、意味を正しく解釈することができる。そして、感謝は礼拝から始まるのである。
感謝とは、「今日も天気がよくて、よかったね」というようなものではない。永遠に滅ぶべき罪人が、主イエス・キリストの十字架と復活によって永遠の地獄から救われた。これが感謝の始まりである。感謝の心を失っている時は、神の素晴らしい無限な御恵みを軽んじ、はっきり啓示されているのに、それを見下し、感謝を忘れ、感謝の心から離れてすべてのことを見て解釈している。
ローマ人への手紙8章を見てほしい。これは感謝の論理学である。31節に「では、これらのことからどう言えるでしょう」とある。「これらのこと」とは、神の永遠の御惠みのことである。神の救いの御惠みを知っているのなら、どのように考えるべきなのか。これは御惠みの論理学、感謝の論理学である。では、どう言えるのだろうか。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とパウロは言う。神が私の味方である。すべての事において、神は、私たちの味方である。あなたは被害者なんかではない。とんでもない。それどころか、圧倒的な勝利者なのだ。神があなたの味方なのだ。損も負けもない。可哀想だということもない。神が味方であるなら、誰が敵対できようか。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(32節)。神は、「すべて」を私たちに与えてくださった。惜しまずに、喜んで、愛をもってすべてを私たちに与えてくださった。
「すべて」とはキリストのことである。「でも、現実に私にはこんな大変な試練があるではないか。私は70年間この世に生きて、経験したことといえば苦しみばかりだった。この問題もある...あの問題もある...」と不平を鳴らす者は誰か。それなら天秤を持ってきてその70年間を天秤にかけてみよ。そして、永遠の無限な祝福を片方の皿に入れて計ってみるがよい。どちらが重いだろうか。更に、その苦しみは何のためにあるのかといえば、あなたを祝福するためにこそあるのだ。あなたの徳を高め、へりくだらせ、神の恵みと祝福を覚えさせて成長させるためにある。あなたが残る実を結ぶためにこそあるのだ。そう考えるならば、その試練は、むしろ天秤の祝福の皿の方に入れなければならない筈である。マイナスになることは有り得ない。すべては益となるのだ。
何を根拠にあなたは不満を並べ立てるのか。寇ママは今79歳になり、御主人を失い、身体にも痛みがあって、今はしたいことを自由にできない。そんなのが神の御恵みなのかというと、もちろん「然り」である。御主人や家族を失うような大変な試練があっても、それでも神の御恵みだと言うのか。全く「然り」である。試練の中で感謝していないなら、神を神として認めていないのである。「でも、私はこの点で他の人よりも大変なんだ」と理屈を言いたいなら、それは例外無しに誰もが言えることである。何かの事で自分は誰よりも大変だと、皆が思っている。罪人である私たちは、自分を哀れむものである。被害者意識に陥りやすいものである。簡単に、いつも、すぐに被害者になろうとする。愚かな罪人は、「すべて」を神から与えられたということを結局心の深いところで信じてはいない。だから感謝も足りない。
私たちは毎週日曜日に礼拝に集まり、罪を悔い改め、キリストの十字架の御恵みを覚え、御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された神に感謝する。その聖餐式の感謝の心をもって生活を送るならば、私たちは実に圧倒的な勝利者となる。私たちの生活の中の弱いところ、足りないところ、それはすべて聖餐式の感謝の心から離れて生活を送るところから来ているのである。神の御恵みに対する感謝の心がないので、力もない。思いは虚しくなったり、心は暗くなったりする。それだから、私たちは毎週の日曜日に集まって聖餐式を行なわなければだめなのである。聖餐式はそういう意味で大きな祝福として与えられている。自分は駄目だとか言って落ち込んだりするのは、神に信頼して神の御前に生活を送っていないからである。神と一緒に歩むことをしていないからである。神が私の味方だということを忘れているのだ。それは、すべてを与えてくださった神の御顔を仰ぎ見て生活をしていないということになる。
聖餐式の時、私たちは神の御恵みを覚えて感謝をささげ、神を礼拝する。神に対する感謝の心に戻るのである。そこから知恵は出てくる。正しい思い、明るい心、それは主イエス・キリストの十字架に対するまことの感謝の心から出てくるものなのだ。十字架に対する感謝によって私たちの心は守られ、祝福される。家庭も守られ、祝福される。互いの関係も守られて、祝福されたものとなる。だから、聖餐式は、私たちのすべての生活にとって決定的に重大な意味を持つものである。ここに来て、私たちは、真剣に罪を悔い改めて、神への感謝の心に戻るのである。アダムのように、カインやイスラエルのようにならないで、本当に神を知っている者として神に礼拝を捧げ、感謝を捧げる。それによって思いは正しくされ、心は明るくされるのである。そこから新しく力が与えられて新しい出発ができる。そのことを覚えて一緒に聖餐式を行ないたい。
――1998年8月16日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com