ローマ人への手紙1章22〜25節
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
98.08.23. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
愚かさ、偶像礼拝、不道徳
1章22〜25節
「神の怒りがすべての罪人に対して天から表わされる」ということについて数週間一緒に考えてきた。「クリスチャンではない人たちも、心の深いところにおいては神が誰なのかを知っているのだ」とパウロは教えている。心の中では本当の神を知っているのに、神を礼拝せず、感謝もささげないので、その罪を神は取り扱う。神はそのような罪人に対して御自分の御怒りを表わし給う。このローマ人への手紙の1章の中でパウロは、クリスチャンではない人たちの罪について話す時、「神として崇めず、感謝もしない」ということがすべての問題の始まりだということを教えている。礼拝が生活においてどんなに大切なものなのか、礼拝をしない罪がどれほど大きな罪なのかをこの箇所から見ることができる。普通の人が考えるのは後の結果の罪の方である。パウロは続いて、「神を正しく礼拝しないので、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡された」と言っている。そこには暴力の罪もあるし、性的な罪もあるし、盗みの罪もある。それらの罪は後に来るわけである。一番大きな問題は礼拝にある。礼拝がどうなっているかということこそ最初に取り扱われるべき問題なのだ。
モーセの十戒の一番目、二番目、三番目、四番目の戒めは、六番目以降にある戒めよりも先にあって大切にされる理由もよくうなずけるわけである。真の神を神として信じ、その神のみを礼拝するというのが第一の戒めである。第二の命令は、神が私たちに命じたやり方で礼拝をささげなければならないというものである。偶像を通して神を礼拝することは許されない。三番目の戒めは、神の御名を正しく唱えなさい、正しく誓いをしなさい、というものである。そして四番目の命令は、安息日を正しく守りなさい、というものである。このようなところがモーセの十戒において強調されている。正しく礼拝をすることによって、他の生活が守られる。それで、パウロは同じことを逆から説明しているのである。「こういう点において罪を犯してしまえば、こういう結果になるぞ」ということを私たちに教えている。礼拝が正しくなければ、すべてが駄目になる。そのことを1章の18節から32節までにおいて見ることができる。今日は、1章22〜25節の箇所を見たいと思う。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
知者であると言いながら
ここでパウロは、大きなテーマとして考えるならば三つのことを取り扱っていると言える。一つは、知恵の問題である。次に、偶像礼拝の問題。もう一つは、不道徳の問題である。神に感謝せず、神を神として崇めず、礼拝を正しくささげないために、思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった、ということが21節で説明された。22節では、「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となる」とある。ここでパウロは、知恵と愚かさの問題について話す。この世の愚かさと知恵の秤りとクリスチャンの愚かさと知恵についての考えの違いが明らかにされている。見方が根本的に違うことがよくわかる。
アダムとエバは、善と悪の知識の木で罪に墜ちた。彼らは、その木が自分たちを賢くすると思い、それを求めた。ある意味で、確かにそれは彼らを賢くしたと言える。彼らは善と悪の区別を瞬く間に学んだのである。しかし、彼らがそれを学んだ視点が間違っていた。彼らは罪の奴隷に成り下がった者として善と悪を知ったのである。罪の奴隷として、もう一種類の“知恵”、即ち、神から逃げる知恵を獲たのである。私たちはこの知恵を「いちじくの葉の知恵」、或は「この木の陰に隠れれば神は我々を見つけることはできない知恵」と呼ぶこともできるだろう。聖書はこの知恵を「愚かさ」と呼ぶが、それはまさしくこの世の知恵の本質なのである。
この世の人々は「自分には知恵がある」と思い込んでいる。これはアダムとエバのところに遡って考えればよくわかることである。アダムとエバの時から今に至るまで、人間の間にある最も根本的な争いの一つはこの「知恵」についての争いであった。神を否定し、神の人間に対する愛を否定する蛇の知恵はこの世では優勢な知恵である。エバとアダムは、蛇の言葉を聞いてそれに従った。神が禁じた木の実は知恵を得るのに実によいものだと思って、それを取って食べたのである。神に逆らうことによって特別な知恵を得ることができると思った。単純に言えば、この世の知恵の方法とはそのようなものである。「とても直接的な方法ではないか。善と悪の知識の木という名の木の実を取って食べれば知恵を得るということではないのか。その木の意味はその名のとおりではないか」と考えた。蛇も「なぜ、神はそれを禁じるのか。おかしいではないか。神はあなたを苛めているのだ。意地悪をしているのだ。絶対に大丈夫だから、取って、食べてみなさい」と言ってアダムを誘惑する。その所でアダムとエバは、聖書の知恵とこの世の知恵を完全にひっくり返してしまったのである。
つまり、本来人間は神の下に立ち、そして動物の上に立つべきである。それは、神が与えてくださった上下関係であった。神と人間との間には無限なギャップがある。神は超越した絶対なる神であられるからだ。また人間と動物の間にも限りないギャップがある。人間だけは神の似姿に創造され、動物は人間の下にあるものとして創造されたからである。人間は、動物を正しく管理し、支配することによって、神の御栄光を表わすべき存在であった。それは神が与えた秩序であった。しかし、神に逆らうように蛇がアダムとエバを誘った時、アダムとエバは自分を蛇の下に置き、神をアダムとエバの下に置いたのである。つまり、アダムとエバは、神を試みたのである。神の命令が本当かどうかを試してみた。そうすることによって神を自分たちの下に置いた。聖書の上下関係は、神→人間→動物である。ところが、エデンの園でのアダムの話は全部が逆になってしまって、動物→人間→神というものになってしまった。それ故「この世の知恵とクリスチャンの知恵とは、その上下関係(秩序)においてはっきり表わされる」という言い方もできる。
今でも、異教の文化や考え方は、動物→人間→神ということになっている。もちろん今日では動物というよりは自然を第一にする。人間は自然に合わせなければならないと考える。それが現代の異教の考え方である。自然は第一である。人間はそれに従い、それに合わせるようにして生きる。そして、神のことは人間の下に置かれるのである。この世では、神についての考え方は文化によって違ってもよいものと考えられ、文化によって、グループによって、また場所によっては、宗教は違ってもよいのである。宗教は相対的なものだと考えている。それは人間が自分で決めればよいものだという考え方なので、実質的に神は一番下になっている。人間が決めるからである。数学は絶対的なものとして学校で教えられる。けれども、神のことについてどんな意見があっても構わないのである。神はあなたの下に置かれている。それはプライベートな事であって、あなたが自分で決めればいいことなのだ。そのように、上下関係は全く逆さまになっている。
それが、この世の知恵である。自然が第一であり、神は二の次なのである。神よりも自然法則の方が絶対なのだ。だから、神と人間と被造物との関係についての捉え方の違いというものは、現在でもエデンの園の時と同じように、神を信じない人々の中にある。その為に、知恵の原則も完全に逆になっている。何が知恵で、何が正しいのか、何が善いのかということについて、彼らはことごとく逆に考えるのである。多少オーバーラップしてるように見える部分もあるけれども、基本的に、そして結果的にまったく逆なのである。「なぜ」という問いに対するすべての答えが根本的に違うものである。
簡単な例で言えば、なぜ1+1=2なのかと問われる時に、クリスチャンではない人たちは幾つかの異なる答えをするであろう。しかし、「三位一体なる神が、そうなるように万物を創造して御自分の本質を表わしておられるからである」という答えには絶対にならない。だから、1+1=2について深く考えるならば、クリスチャンの場合は三位一体論のところに答えを見出すけれども、クリスチャンではない人々は、人間の脳の話になったり、論理学や人間が定めた約束ごとのような話になってしまうのである。或は、偶然の中から生まれてきた自然原則だと思ったりする。そのような単純な事柄においてさえ、全く違ってしまうのである。
それで、生活の中で一番大切なことは何なのかについて考える時に、クリスチャンではない人の場合、「創造主なる神を神として礼拝する礼拝こそ何よりも大切である。神を礼拝し、感謝の心に満たされて神の御名を賛美する。それがすべての生活の中心である。そこからすべてが生まれて来る」というような考え方はない。そのような考えを嫌うのである。しかし、神が創造主であられるならば、神御自身との関係は、どんな人間関係よりも大切なものである。自分の気持ちよりも大切である。自分のしたい事よりも大切なものである。そのような考え方は彼らにはない。神との関係においては絶対に妥協しないという聖書の知恵は、クリスチャンではない人々にとっては何よりも愚かなものなのだ。知恵と愚かさについての考え方は、そういう意味で全く逆になっている。
キリストにある神の知恵は、いつの日かこの世の知恵に完全に打ち勝つが、様々な理由で神を信じない者にとっては愚かさにしか見えない。このことは細かい事においても表わされる。コリント人への第一の手紙の1章のところで、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力である」とパウロは言っている。古代ローマ人にとって、神といえばただ力の話にしかならない。しかし、主イエス・キリストは、犯罪者としてローマ帝国によって死刑にされたのだ。「それによって救われるというのか。そんな話は馬鹿げた話だ」とローマ人は考える。彼らには、世の救い主がローマ帝国によって犯罪者として十字架で死刑にされることは全く理解できない。彼らを救う筈のメサイアが、ローマ帝国によって死刑にされて死ななければならないことがどうしても理解できなかったのである。
あらゆる地域と文化における現代人にも、それぞれ独特の言い訳があるが、神の知恵がこの世にとっては愚かさであるという事実は歴然として残る。インド人に、「神がこの世に来て人間となってくださった」と言えば、少しもおかしいとは思われないだろう。何回も何回も神は人間になっては表われるとインド人は考えているからである。しかし、「神は大工になった」と言うと、そんなことをとても信じることはできない。インド人にとって、大工はカースト制度において最も低い方の身分になるからだ。「大工さんを救い主として信じる?とんでもない話だ」ということになるわけである。
私たちを罪と永遠の滅びから救うためにキリストが身代わりとなって死ななければならないということも、一般的に異教の宗教は受け入れることができない。裸な力だけが受け入れられるからである。「力ある者がとにかく頭になる。それだけの話だ」ということになってしまいがちなのである。聖書は、昔のすべての文化が使わず、考えず、認めてもいない概念を、十字架において尊んでいるのである。そこに神の愛がある。昔の仏教の中にも、昔のヒンズー教の中にも、愛という概念はなかった。愛という話もなかったのである。仏教にも今ならば慈愛という話は出てくるが、それは紀元一世紀頃になって初めて出てきたものである。つまり、キリスト教が使徒トマスによってインドにもたらされたことによって初めてその概念は仏教の中でも使われるようになったのだ。しかし、彼らの慈愛という概念も「愛」というものではない。愛とはほど遠いものである。
「創造主なる神は愛なる神である」という概念は、聖書以外のすべての昔の宗教には出てこないものである。今それを聖書から盗んで使っている宗教は多いが、それを曲げて変なものにしている。「十字架において神の愛が表わされる」と言っても、結局彼らには通じないのである。そして、リベラルなクリスチャンも十字架の意味を完全に否定する。
そのように、知恵と愚かさの原則は、聖書とこの世の人々の考え方とにおいて全く異なっている。まったく、完全に、逆になっている。そのことをしっかり覚えて生活を送らないならば、私たちはこの世に馬鹿にされるのを気にしすぎて妥協してしまうことにもなる。「そんな事したら、皆に笑われてしまう」と思って妥協したりする。しかし、クリスチャンとして忠実に生きるならば確かに笑われたり、迫害されたりする。キリストもそう教えている。だからこそ、パウロは16節で「私は福音を恥とは思わない」と言うのである。この世は自らを知者とし、その知恵を真理の基準と見做すだけでなく、その基準に同意しない大胆不敵な者には力づくで反対し、戦うものである。
従って、クリスチャンがこの世の知恵を愚かと見做すならば、犠牲を招くことになるのは事実である。少なくとも、クリスチャンは侮られ、あざけられ、軽蔑される。死に至るほどの迫害も含め、諸々の迫害はこの闘いにおいて珍しいことではない。キリストの十字架の知恵を告白するなら、それは即ち、自分の十字架を負ってキリストに従っていくことを意味しているのだ。この世の人々にとって、クリスチャンとして生きることは何よりも愚かなことである。そして、何よりも悪いことだとさえ思うのである。
ローマ帝国でクリスチャンに反対した人々は、「クリスチャンは悪そのものだ」と、実際に言っていた。「ローマ帝国の社会原則に従って生活しようとしないこの者たちこそ問題なのだ」と考えた。「ローマ皇帝を礼拝しない。それは無政府主義的な行動である。問題を起こしているのはこの連中だ」と思っていた。ローマ帝国の中では大きなスタジアムが多く建設されて、そこでゲームが行われる。ゲームをする時、いつもそれは偶像礼拝につながるものであったので、クリスチャンたちはゲームに参加もせず行くこともしなかった。それで「こいつらは実に非社会的な奴等だ。すべての人間を憎んでいるのだ。こいつらは我々の社会を駄目にする奴等だ。彼らを除いてしまえ」と言って、あらゆる残酷な方法でキリスト教の教会を迫害したのである。この世の人々にとって、クリスチャンの生き方は悪であり、愚かで堪えられないものである。
もちろん私たちにとっても、ローマ帝国の生活の在り方は愚かで悪いものである。彼らにとって中絶は大したことではない。中絶だけでなく、子供が生まれた後でも、いつでも父親はその子供のいのちを奪い去ることが許されていた。子供のいのちは父親の権利に含まれるものであった。だから、中絶もするし、生まれた後でも気に食わなければ子供を捨てたり殺したりする。それは聖書的には殺人であるけれども、ローマ帝国の場合、それは生活の知恵として許されていた。「生まれてきた子供に何かの問題があれば、捨てた方がよいではないか。嫌なら捨てた方がよいではないか。欲しくもないのに生まれてしまったものなら捨てればよいではないか。」それがローマ帝国の知恵である。生活におけるローマ帝国のすべての考え方はクリスチャンの考えとは全く本質的に違うものである。
パウロはローマ帝国の政治に触れていないけれども、「結婚生活はこうあるべきだ」と書く時に、パウロはローマ帝国のすべてのリーダーたちの罪を公然と訴えているようなことになる。ローマ人もそのことについてはとても敏感である。聖書によれば、ローマ帝国のような生活をする者は死刑にしなければならないというような話にもなる。殺人の問題、性的な問題、偶像礼拝や他のすべての問題においても、彼らの生き方はどうにもならない罪深いものであったのだ。だから、聖書に書いてあることに彼らは堪えられない。まったく異なる二つの知恵の考え方が、真っ向からぶつかっていたのである。
時の権力はローマ帝国にあったので、教会への迫害はエスカレートする。そんな時、クリスチャンはどうしたらよいのか。ローマ帝国から少し離れた所に皆で移住して、そこでどんどん人数を増やし、武器を作ってローマ帝国を倒そうとするだろうか。断じてそうではない。迫害されても、迫害されても、その中にあって神の御言葉を守り、敵を愛し、自分を憎む者に善を行ない、侮辱する者のために祈り、証しをし、どんどん殺されてもそれを続けるのである。あくまでも神の前に正しく生き、殺されることによって勝利を得る。そんな考え方がこの世にあるだろうか。しかし、それが「十字架」の話なのだ。
私たちもクリスチャンになった時に、キリストの招きを受け入れたのだ。「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」とキリストは招いてくださった(マタイの福音書10章38節、ルカの福音書14章27節)。この十字架は、実に殺されるための道具なのである。「楽しい生活をしたければ、わたしについてきなさい」というような福音の招きはない。「十字架を負って、ついてきなさい。」それがクリスチャンの知恵である。この世の人の知恵の考え方とクリスチャンの知恵の考え方は、根本的に、真っ向から、相反するものだということを、私たちはしっかり覚えなければならない。「自分には知恵があると言いながら、愚かな者になっている」とパウロが言う時、それは、神の側から、聖書的な観点から、クリスチャンの側から見て、彼らこそ愚か者になっているのだけれども、彼ら自身はそれに気付いているわけではない。愚か者になればなるほど、自分の知恵に対する確信が深められるばかりなのだ。そこに愚か者の悲劇がある。
偶像礼拝の本質
そこからパウロは偶像礼拝の話をする。パウロは偶像礼拝について、まさにその本質を指し示す語り方をしている。
まず第一に、偶像礼拝とは、神の御名を傷つけること、神からその栄光を盗もうとする試みである。彼らは、愚か者となって、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、這うもののかたちに似た物と代えてしまった」とパウロは言う(23節)。また25節でも、「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからだ」と言って、偶像礼拝の中心的な問題を扱っている。
偶像礼拝がなぜいけないのか。偶像礼拝の根本的な問題は何なのか。まずそれは「神の栄光を、滅ぶべき人間や動物に似た物に代えてしまった」という点にある。問題は、神を表わすのに被造物が不適切だということではない。むしろその逆であって、神は万物を御自分の本性を表わすために創造されたのである。しかし、人が偶像を作る時、神の栄光を表わすものとしてそれを作ることは絶対に不可能である。それは神の栄光を汚すことにしかならない。それが偶像の根本的な問題の一つである。礼拝は、神のみに栄光を帰する行為である。偶像を通して神を礼拝することは不可能である。なぜなら、神は生きておられる神であり、偶像はいのちなく死んだものであるので、偶像を作るだけでも神の栄光を汚すことになるからである。
木や石や金属などで造った動物や人間の像は、生き物のようには神を表わすことはできない。神は霊であられて、目に見ることの出来ない御方である。しかし、偶像は目で見ることのできるものである。確かに生きた動物は神の栄光を表わしている。そして、すべての被造物は創造主なる神の栄光を表わしている。けれども、それは生きていて、その一つ一つが違う意味において神の栄光を表わしているのである。だからといって、そのものを拝むようには作られていない。多くの被造物を見ることによって、私たちをお造りになった神がどんなに偉大な御方なのかを知り、その神に礼拝をささげることを教えられる。霊なる神のみに、礼拝をささげるのである。いのちなる神、霊なる神、その栄光を、何かの偶像をもって表わすことは絶対に不可能である。どんな物を作っても、いかに巧みに作っても、それは神の栄光を汚すものにしかならない。
そして、人間が生きた動物や草木を拝むことも神の似姿を汚し、その栄誉を奪うことになる。しかも、人間が人や獣の形に造られた単なる岩や木の一片を拝む時、彼らは神の御名を甚だしく汚しているのである。それ故、偶像がいかに完全に最初の創造における秩序を逆転させているかに注目すべきである。神はエデンの園における主であられた。人間はその代表であり、獣たちは人間の権威の下に置かれていた。それが、堕落にあって、神は裁判にかけられ、人間は人間以下の蛇の言葉に自らを従わせて獣を自らの上に置き、神は人間の下に置かれてしまった。正しい上下関係のこのような逆転こそ、偶像礼拝が神の栄光を奪って被造物に与えようとする試みなのである。
第二に、偶像礼拝は偽りであるゆえに神の栄光を汚すものである(25節)。偶像は人間によって作られるということである。人間が作る物なので、結局「私が作った物だから私の下にある」ということになる。これも完全に神が定めた上下関係をひっくり返してしまう行為である。偶像を作って、どこかに備えて置いて、礼拝する対象や道具として用いる時、結局は神を人間の下に置くことをしているので、これも神の栄光を表わすことにはならない。
25節でパウロは、偶像礼拝について話す時に、「神の真理を偽りと取り代える」と言っている。「偶像は偽りである」ということは旧約聖書の中で何回も繰り返し言われている(イザヤ書44章20節、エレミヤ書10章8節、同14節、51章17節〜18節、ホセア書4章12節、ハバクク書2章1節など)。偶像の別の呼び名が「偽り」そして「嘘」である。なぜ偶像は偽りなのかというと、一つには先に言ったように、それは神の栄光を表わさないからである。それは神の栄光を取り去ると同時に、神の本性について礼拝者を騙し、偽るのである。
人間が偶像を作る時、必ず自分の欲に従って偶像を作るものである。例えば、戦争をする者たちは戦の神の偶像を作る。その戦の神を礼拝することによって戦争に勝とうとする。つまり、神は人間の為に存在しているのであって、御利益のためのものでしかない。農業を営む者も穀物の豊かな実りを求めて豊穰宗教のような偶像を作る。豊穰宗教の性的関係を表わす礼拝をささげることによって、神は自分たちの要求に従って役に立つものとなって豊作が得られると考えるのだ。神はただただ自分たちの利益のために存在するということになる、等々である。
つまり、人間が偶像を作る時、自分の役に立つように神を定義してそれを作り、その神を礼拝するわけである。これは完全な偽りである。そして、偶像の神は何も語ることはしない。作った人間が偶像に言葉を持たせるのである。偶像を礼拝する者も頭の中で勝手に想像することもあれば、悪霊にとらわれて声を聞くこともある。しかし、偶像そのものは決してしゃべりはしない。その“神”は、旧約聖書で何度も強調されているように、語ることはない。神も、その偶像を通して語ることはなさらない。目による礼拝は礼拝する本人が支配的になる。言葉は自分が作り出すことになるからである。そこでは礼拝者自身あるいは祭司がその語らない神に代わって語らなければならない。いずれにせよ、その神を支配するのは人間の言葉であって、人間を支配したもう神の御言葉ではない。これはまさにアダムがその罪を通して求めたものであった。つまり、自分が神のようなものになること、善と悪を自分で決めることであった。
神が語らず、人間の満足に仕えるためにだけ存在する時、人間は自らを神としたのである。このようなことが行われる時、その神が語りうる唯一の言葉は“偽り”である。そのような“神”は、自らを真の現実から切り離し、真の現実を自らの最大の敵と見做すからである。
このポイントにおいて認識すべきもう一つ大切なことは、聖書の宗教では、「神が語り給う」ということである。神が御自身を定義される。また、人間がいかにして御自身に近づくかを、神が定め給う。単純な言い方をすれば、「目」で礼拝する者は、目を閉じれば神は消えてしまう。聖書の中で礼拝について語る時にはいつも「耳」が強調されている。申命記4〜5章を読めば、それは繰り返し出てくる。「主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった」(申命記4章12節)。「主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである」(申命記4章15節)。 神の声を聞いたけれども、神の姿は見なかった。神の命令を聞いたけれども、形は何も見ていない。
言葉の場合は、御言葉の朗読と説教は耳から入って心において支配的なものとなる。耳を閉じることはそれほど容易ではない。目を閉じてしまえば何も見えなくなる。耳を閉じて、今私が言っていることを聞かないようにしてごらんなさい。それは簡単ではない。神ははっきりした言葉で命令を与える。神の御言葉に耳を閉ざそうとしても、それは雷鳴に耳をふさぐ程度にしか効果はない。その御言葉は、私たちの上にある。それが私たちの耳に入ると、神の声は支配的になり、私たちはそれに聞き従うものとなる。旧約聖書の「命令を守る」という言葉は、「聞き従う」ことを意味する言葉である。
聖書の宗教の際立った特徴の一つは、御言葉を語る口とそれを聞く耳を強調している点である。偶像礼拝は人間が自分ですべてを定義するものであって、それは偽りである。私たちの宗教は言葉の宗教であり、神御自身が紛れの無い明白な言葉で語られる宗教である。その言葉は永遠に変わることのないものとして書き記され、そして封印された。それは偶像礼拝の偽りとは違って、永遠に変わることのない絶対的真理を私たちに提供する。聖書の礼拝は、神の御言葉を中心とするものであって、霊なる神は言葉で御自分を表わしてくださる。私たちはその御言葉を聞き、その言葉をもって神を賛美するのである。神御自身の御言葉を教えられた私たちは、神の約束を信じ、悔い改めて神を求めるのである。真理なる神は、御言葉を通して私たちに真理を与えてくださったので、礼拝は御言葉を中心にした礼拝でなければ、それは真理の礼拝ではなくて偽りの礼拝となる。偶像礼拝はすべて偽りの礼拝である。
第三に、偶像礼拝は創造主と被造物の区別を消すものである(25節)。造り主の代わりに造られた物を拝むことによって、その区別を無くしてしまう。偶像礼拝は、造り主と造られた物との区別を否定する礼拝である。クリスチャンのすべての考え方と生活の根本は、超越なる神を信じるところにある。超越なる神と被造物との絶対且つ無限なギャップは、私たちの考え方と生活の基盤である。神は神であられる。私たちは被造物に過ぎない。この区別は永遠のものである。だから、私たちを創造した神に目を留めて、神を愛して、神に従うのである。そうしない生活はすべて偶像礼拝である。
聖書の宗教の最も根本的で顕著な特徴の一つは、この創造主と被造物との区別にある。エデンの園における人間の罪は、自分を神にするという試みであった。アダムが神を試みようと心に決めた時、彼はもはや神と人との間にある無限の違いも、被造物の創造主に対する絶対義務をも否定してしまった。偶像礼拝がその酷い形態で創造主と被造物との区別を否定するかぎり、このアダムの罪の根本的な側面を更に誇張するものとなっている。人間が自分を創造したお方の前にへりくだって跪くことをせずに勝手な神を作り上げる時、神の主権を傷つけ、その栄光は汚されるのである。パウロは新約聖書の中で偶像礼拝の定義をかなり広い意味で説明している。むさぼる心は偶像礼拝である。真の神を神として愛して、その神の命令に従うのでなければ、偶像礼拝の生活をすることになる。実際に何か大きな樹に向かって拝まなくても、石を拝んだりしなくても、生活そのものが偶像礼拝となるのだ。
創造主、絶対なる神のみを礼拝し、被造物を拝んだりしてはならない。それが旧約聖書の教えであり、また新約聖書の教えでもある。「礼拝」という言葉は、ローマン・カトリックでは次のような意味に変えられてしまっている。例えば、像を通して神を礼拝する時に、それはその像自体を礼拝しているのではなく、ただそれに対して尊敬を払っているだけなのだ、と言う。究極的には神御自身だけが礼拝の対象なのだ、と言う。しかし、それはすべての異教徒が教えているようなことに他ならない。それは聖書の教えとは違うものである。聖書は「それを拝んではならない」と命じているのである。つまり、偶像等の前でお辞儀してはならない、合掌してはならないということである。
人間は、人間以外のものに対して拝んではならないのである。人間以外の被造物に対してお辞儀などしてはならない。動物だけでなく、その他の被造物で人間よりも低いものもさまざまなかたちで神を表わしているとはいえ、人間より低いものを拝むことは絶対に許されない。なぜなら、人間は神の特別な似姿であり、栄光であるからだ。人間は神の似姿なので、樹や石、牛やきつね、犬や猫に対してお辞儀したり手を合わせたりすることは、自分をその物の下に置くことになるのだ。お辞儀という行為は、そういう意味で、人間以下の物に対してすることは聖書では禁じられている。気持ちがどうであれ、それは禁じられていることである。だから、ダニエルの友達はネブカデネザル王の像の前でそれを拝むように強いられた時、当然のこととして「それを拝むなら殺された方がいい」という答えになるのである。「ネブカデネザルの像の前で、ただ身体だけはお辞儀するけれども、心の中では真の神の事だけを覚えよう」というようなことは考えもしないし、そんなことは絶対にしないのである。その友人たちは頭が悪いわけではない。聖書において明らかに禁じられていることだからしないのである。
「神以外を拝んではならない」と、申命記にはっきり書いてある。生きた人間に対してならば、お辞儀しても構わない(拝むのではない)。人間だけは神の似姿に造られたからである。人間は特別に神の栄光を表わす存在として創造された。だから、人間同士がお互いにお辞儀することは、神の栄光を表わすことなのだから、一向に構わないことである。相手が神の似姿だということを認めて尊敬を表す意味でお辞儀するということだからである。そのような礼儀は人間にとって相応しいことであり、良いことである。聖書の中でも、人間と人間の挨拶の一つの形としてお辞儀をしている。それは礼拝行為ではない。挨拶である。絶対なる神と被造物の違いをよく覚えて神のみを礼拝しなければならない。それを覚えない礼拝あるいは行為はすべて偶像礼拝なのである。そういうわけで、偶像礼拝を定義するには三つのポイントがある。
1)偶像礼拝は神の栄光を汚すものである。
2)偶像礼拝は偽りの礼拝である。
3)偶像礼拝は神の超越を否定するものである。
「神の超越を否定する」というのは、神を絶対なる創造主として礼拝しないからである。根本的にこの三つのことをパウロは話しているのだ。それ故、偶像礼拝は厳しく禁じられている。神はこれを忌み嫌い給う。このことは、日本でクリスチャンとして生活する者たちにとっては深く理解して人に説明できなければならないことでもある。日本のほとんどの教会は偶像礼拝との闘いにしっかりと立たないために、未だに教会として非常に弱い。それは宣教師たちの責任でもある。
実に、今世紀の最初から、そのことが問題になった時にほとんどの宣教師たちははっきりした教えを与えなかったのは免れない事実である。礼拝について深く考えない。福音の内容と礼拝のつながりについてもそれほど深く考えていない。その為に、クリスチャンになってもバプテスマを受けるかどうかについてさえ別の話をするのである。また、バプテスマを受けたとしても、正しい礼拝につながらないことが多い。神を礼拝するにしても、他の礼拝を止めるかどうかさえはっきりしない。その信仰は実に断片的で曖昧なものになっている。“信仰”は持つけれども、聖書的な世界観をはっきりと持って、すべてにおいて神のみを神として崇めて感謝するものにはならない。
このことは日本だけでなく、アメリカのキリスト教の弱いところでもあるのだ。しかし、アメリカの場合は、社会全体が偶像礼拝を強いるようなことはないので、闘いがどこにあるのかに気が付くことも少ない。少なくとも60年代まではそうであった。60年代以降になって、闘いがどこにあるのかはだんだんと明確になってきた。それ以前は、表面的に捉えれば、皆同じであったと言ってよいだろう。ところが日本の場合はそうではない。闘いは極めてはっきりしたものである。偶像礼拝と妥協しないでクリスチャンとしてしっかり立って生活すれば、それははっきりした証しとなる。
「証しになる」と言っても、相手が喜んでくれるような証しでない場合が多いのは事実である。その生き方がはっきりした違いを示し、はっきりとした区別を設けることになるからである。しかし、その点で妥協しないことが私たちの知恵である。だが、この世の人々にとって、その知恵は愚かさでしかないのだ。巧く説明してあげれば理解してくれて喜んでくれるだろうと期待することは困難である。中には認めてくれるケースもないとは言えないが、基本的にそれはとても困難なことなのである。それでも、私たちは、神の御霊の働きを求めて立つべき所にしっかり立つのである。御霊の特別な働きがなければ、何も変わりはしない。そして、はっきり言えば、その社会でクリスチャンたちが迫害に遭うようになるまでは、その社会全体が変わることはないであろう。それは歴史の至る所で見ることができる原則のようなものである。
日本の教会はそこまではっきりと妥協せずに立つことはしていないので、迫害もはっきりしない。その社会と妥協する者に迫害は来ない。言い換えるならば、私たちが、日本に住むクリスチャンとして十字架を負ってキリストと共に死ななければ、日本は贖われないのである。そのような原則があるように私には思える。日本のクリスチャンがはっきりと信仰に立つならば、迫害があっても教会は必ず成長するだろう。今の中国ではクリスチャンに対する迫害が日増しに大きくなってきている。中国の教会は聖書もなく教師も少ないので教理的には非常に弱いけれども、大胆に迫害に耐えて、全国至るところで爆発的に成長している。「血を流すことによって成長がある」ということになるわけである。そのコミットメントがなければ、教会はあくまでも弱いままなのである。
道徳的退廃
24節で、パウロは一言だけ偶像礼拝のことについて話している。26節でもっと細かく説明するけれども、24節に「神は、彼らをその心の欲望のままに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」とある。偶像礼拝は必ず道徳的荒廃をもたらす。ここには確固とした論理的なつながりがある。偶像礼拝と不道徳の関係は心理的でもあり神学的でもある。偶像礼拝と不道徳の論理的なつながりとは次のようなものである。人間は自分の神々を作るとき、罪に汚れた心の最も深い欲望を満たすための神々を作る。即ち、血への欲望と権力とこの世の栄光の曲がった喜び、肉欲の渇望などである。そして、魂の中に噴出する恥ずべき情欲のすべてを満たすために特別に作られた神々を礼拝する時、人は情欲の渇望を更に強めるだけである。自分が求めていることや願いのために役に立たなければ、火に投げ込んでまた別の像を作ればいいのである。
英語に「火に投げ入れれば、少なくともホットドッグができる」という諺があるけれども、少なくとも、そんなやり方で偶像を自分のために役に立つものに作ればいいわけである。偶像は、役に立たなければ捨てられるもの、或は忘れ去られるものである。役に立てば、それを熱心に拝む。今日でも、受験生たちやその親は大学受験合格のためにいろいろな所に行って拝み、祈願する。結果が不合格ならば、そこをやめて別の所を探して他の偶像を拝むわけである。どれが役に立つかを探すのである。実際に拝む者たちもそのことをはっきりと公言してはばからないのである。自分の為に役に立つものを作るのであれば、人間の心にある欲望がその偶像を決めることになる。それに基づいてすべてを飾り立てるのだ。そして、一番強い欲望が偶像の在り方を決めることになる。そうして、彼らはますます自らでは御し得ない欲求の奴隷となっていくのである。
昔の偶像を見れば、だいたい愛の神(その愛は比喩的な言い方になるが)とか、豊穰宗教のような豊作や豊かさを与える神、それから、戦争の神、商売繁盛の神などが一番中心的なものであった。人間の最も強い欲望を満たすような神を作って祭るのである。そしてもっともらしくそれを礼拝する。華人社会やインドでは自分を儲けさせてくれる福の神を、家の中の最も大切な場所に祭って拝む。自分の欲を満たしてくれるために役に立つものとして神々は存在する。それで、欲望はもっと強くなるし、欲望がますます中心的なものになる。それで、暴力も、性的な罪も、盗むことも増大する。その悪循環に人々は陥っていく。それぞれが、自分の欲望を満たすために神々を作る。その神を礼拝して、その欲望は一層深まる。深くなればなるほど、もっと熱心にその神に求める。求めれば求めるほど、その欲望は深まっていく。その結果として、異教の社会が道徳的にどうにもならないほどに低いという事実は歴史のどこにでもはっきりと見られることである。
そういう意味で、偶像礼拝の論理的な結果として不道徳は増大する。偶像礼拝は、ゆっくりとは限らないが、情欲への中毒に人々を誘う。その情欲は、人の腹の中にいる神々を満足させるために激しい刺激をどんどん増していくことを、ますます切望するのである。
西洋では、はっきりと神を捨てて不道徳に陥っていくのを見る。例えばドイツでは、十九世紀に神を捨てた。それで二十世紀に入ると神秘主義、シャーマニズム、そして仏教の禅宗のような思想がドイツで非常に流行った。後のナチズムの背景はそこから生まれている。十九世紀に神を捨て、二十世紀には二度も大戦争を起こしてどうにもならない事になる。
60年代のアメリカもはっきりと神から離れた。その前に既に神から離れていたのは事実であるが、それほどはっきりはしていなかった。60年代になるとはっきりと神を拒絶し、神から離れた。それで、その後の30年間、はっきりと目に見えて堕落していった。その駄目になっていく過程は非常に速く、はっきりと目で見ることができる。神を信じない、神から離れてしまうことは、生活においてもはっきりと表わされている。神を信じるならば生活も良い方向に向かうが、それが罪に向かうほどには速くはないのは悲しむべき事実である。まことに人間は罪人だということである。
人間は罪人なので、悪くなるのは実に速く、いとも簡単に悪くなるのである。ちょうど険しい山を登るようなものである。登るのは大変だが、山から転がり落ちるのはいとも容易いことである。罪の道に歩むのは、ちょうど崖から飛び降りるようなことであり、崖から落ちるスピードは登るよりもずっと速い。クリスチャンとして成長するのは、逆にその崖を登っていくようなものである。それは遅くて時間のかかることである。しかし、悪くなるのは実に速いのである。
私は1950年代に少年時代を過ごしたので、二つのまるで違うアメリカを体験している。その論理的なつながりは、たとい実際に礼拝行為としての偶像礼拝をしなくても(樹や石を拝まなくても)、神を捨ててからは道徳的に非常な速度で悪くなって行ったのをこの目で明らかに見ることができる。
従って、異教にもロジック(論理)があることがわかる。人または文化がひとたび聖書の神を拒むなら、そこには不信仰の愚かさを源泉にして想像し得るかぎりのあらゆる類の悪に至るまで不可避的な進展、否、後退があるのだ。不信仰の愚かさが生活様式においてその不信仰の姿を現わすには少し時間がかかる――とは言え、建物を壊す方が建てるよりもずっと速いのと同じで、信仰の知恵が信仰の行ないへと成熟するほどには時間はかからない。しかし、どんなに時間がかかろうとも、愚かさと偶像礼拝という内的論理と神の裁きとの両方によってその後退は保証されている。その後退は確実に進むのである。
そこには論理的なつながりがある。それは単に心理的なものではない。神学的なつながりもある。つまり、人間は誰も自分の心の中にある罪に従って生きてはいない。怒って相手を憎むことは殺人と同じ罪だと主イエス・キリストは教えている。確かに義憤をもって怒る場合もあるが、悪い怒りは殺人につながるものだ。もし私たちが怒る時に、悪い怒りを心のあるがままに行ないにおいて表わすならば、何度も殺人をしてしまったであろう。通常人間の心にある罪が熟して実際の行為として表わされることがないようにと、神が私たちを抑制してくださっておられる。それはとても大きな恵みである。罪人がその汚れた心の好色な衝動を実現させることのないように、神は抑制し給うのである。神を礼拝する者の心の中にあって神の御霊は働いてくださる。
しかし、神を礼拝せず、逆らって神から離れ、偶像礼拝を犯すならば、神は彼らが自分自身を抑制できないほどの情欲の支配に引き渡すこともなさるのだ。「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになった」(24節)とある。神を憎んで神から離れる者がどんどん駄目になっていくことを、神は許すのである。なぜ、それを許すのか。答えとして基本的に二つの事があると思う。
第一に、それは「神の御怒り」である。神の裁きで最も恐ろしい裁きは、その人を自分の欲望のままに任せるのを許すことである。むさぼって欲するならば、取るがよい。あくまでもそうしたければ、そうするがよい。それを許す時、その者はどんどん悪の道にはまっていく。これは裁きの一つのあり方である。あくまでも離れて行きたいなら、離れていくがよい。もう留めはしない。それで、その人はとんでもない状態にひたすら陥っていくようになる。神が人間を罪に引き渡される時、それはしばしば取り消すことのない裁きの行為である。それほどまでに自らの情欲の奴隷となってしまった者は、普通は神に背を向け、二度と再び神を求めることがないからである。彼らの心はすべての抑制から解き放たれ、それゆえ神に対する彼らの憎しみは留まるところを知らない。彼らは、永遠の断罪を受けて地獄に投げ落とされた者らの激情にも似た思いをもって、神に対して憤るのである。
しかし、常にそうだとは限らない。即ち、第二に、それは神の恵みでもあるからである。自分が神の御恵みを必要としているのを見るためには、自分の悪の泥沼に深く沈まなければ悔い改めに導かれないほどの愚か者もいる。そのような菖を神が見放す時、初めてその人はどれほど深く自分が忌まわしさの中に沈んでいるのかに気付き始めるのだ。人の魂が不自然な快楽を切望してその邪悪にふけっても解放がないのを見出だす時、人は、娼分が罪に縛られていることの意味を――ある程度――知るようになる。
放蕩息子の話を思い出してほしい。感謝もせず逆らう息子を乗り扱うその父親の取り扱い方がこれであった。その息子は家でどんどん問題を起こし、最終的に娼分が相続する財産の分け前を要求した。分け前をもらって家を出ていくと言い出す。父親は、それ以上その息子を取り扱うことができないので、要求された財産を与えて息子が出ていくのを許した。けれども、そうしたのはその父親が息子の滅ぶのを望んだからではないのは明らかである。その放蕩息子は、財産の分け前を手にして喜び勇んで放蕩の旅に出た。放蕩して財産を湯水のごとく使い果たし、飢饐の中で飢え死にしそうになった時に、やっと自分の愚かさと罪に気付き、ついに父の家に帰る決心をして家に向かった。父の家で奴隷になってもいい、それでも父の元に帰って父の赦しを求めようと決心した。父親は、家を出た放蕩息子が帰ってくるのを毎日祈って待っていた。
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それなのになぜ息子を罪に引き渡したのかというと、愚か菖は完全に駄目にならなければ、自分の本当の姿や状態に気が付きはしないし認めもしないからである。「外がきれいなら中もきれいだ」と思い込んでしまう。それで、外も中と同じように汚くなることを神は許したもう。それによって、自分がどんなに救いがたい罪人なのか、どんなに罪に汚れているのかということに、初めて気が付かされるのである。それを悟るならば、悔い改めて帰ってくることも可能となるからである。まさしくそれは放蕩息子の話なのだ。放蕩の結果がどういうものなのかを全部詳細に説明して、彼が放蕩に走るのを無理矢理引き留めても、その愚かな息子は決して悟りはしない。悟ろうともしない。全部を失わなければ、絶対に学びはしない。本当の痛みと苦しみがなければ決して学ばない。それが罪人の愚かさ、心の鈍さなのだ。
そこまでの「代価」が払われなければ、結局ピンとこない。そういう人間が少なからずいる。罪に引き渡されて、その結果の苦さを味わった時にやっと気がつかされて、悔い改めに導かれる。飢えて、死を目の前にして、やっと気が付くのである。「もう息子と呼ばれる資格はない。父の家に戻って奴隷になった方がここで野垂れ死にするよりは遥かにいい」と思って、放蕩息子は帰る決心をした。ずっと息子の帰りを待っていた父親は、まだ家まではかなり遠かったのに、彼を見つけると、自分から息子の方に走り寄って彼を抱きしめ、口づけし、指輪を与え、靴を履かせ、急いで肥えた子牛をほふって祝宴を設けてその息子の帰りを喜び、食べて祝ったのである(ルカの福音書15章11〜32節)。
父親はそのどうしようもない愚かな放蕩息子をどんなに愛していたことか。欲望に引き渡すことによって、息子が自分を駄目にした時に目覚めて帰ってくるのを、ずっと待っていたのである。アメリカでは実際にこの原則を家庭内の問題に適用する人が増えている。子供が言う事を聞かず、あくまでも親に逆らい、どうにもならない場合には、その子が立ち治るために、「あくまでも自分でその悪の道を行きたいなら、いくがよい」と言って追い出してしまう。教会も家族もその子供が駄目になるのを祈りにおいて求め、そしてあの放蕩息子のように心から悔い改めて戻って来るように祈り求めるのである。
これは実際に、どうにもならない悪い子供を乗り扱う一つの方法となっている。これはローマ人への手紙のこの箇所の原則でもある。イエスに従ってきた者たちの中にもこの放蕩息子のような状態にあった人々が多くいたために、パリサイ人たちはつまずいた。しかし、キリストはその罪人たちを哀れんでくださった。神が人々を彼ら自身の情欲に支配されるように引き渡される時、それは彼らを引き寄せて服従させるため、ということもあるのだ。そのような状態にある者を見る時、私たちはその惨めさが彼らを悔い改めに導くのに用いられるよう神に祈るべきである。
クリスチャンではない日本人に福音を伝える時によく経験することがある。相手は、「私は、妻を愛しているし、すごく楽しく一緒に暮らしているし、仕事にも恵まれていて、お金にも困っていない。赤ちゃんも与えられ、何不自由なしに生活している。あなたのクリスチャンの世界観とか、おっしゃっていることはみな素晴らしいとは思うけれども、私は別にクリスチャンにならなきゃならないとは思わない」というようなことをきっぱりと言う。自分が罪人だとも感じてはいないのである。何も悪いことはしないし、人に迷惑かけるようなこともしない。だからクリスチャンになる必要はないのだと言う。
それは、キリストが祭司長やパリサイ人に話したことと同じである。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです」(マタイの福音書21章31〜32節)。自分の罪が赦される必要がわからない人は神を愛さないし、決して神を受け入れはしない。自分の罪が赦されたのを深く覚える者(取税人や売春婦たち)が、神の御恵みをパリサイ人たちよりも深く理解したのである。そういうこともある。
だから、個人も文化も崩壊して駄目になるのを神は許し、その欲望のままに引き渡してしまわれる。これは「裁き」である。しかし、それは恵みに終わる裁きにも「成り得る」のである。ここに私たちはその原則を見ることができる。論理的にも、偶像礼拝の結果は不道徳に至る。偶像に向かって如何に信心深く振る舞うとしても、結局のところ人間の欲求を満たすために偶像を作るからである。神学的にも、神は偶像礼拝をする者の心を引き留めることはあまりなさらない。その人がそれによって悪くなっていくのを神は許したもう。それによって、その人があるいは自分の犯している悪に気が付くかもしれない。
ローマ人への手紙1章のこのような箇所を考える時に、私たちはそれが自分とは無関係だと思ってはならない。その事に鈍感になってはならない。確かにこの箇所において私たちはクリスチャンではない人たちのことを見る。パウロが、真の神を信じないで偶像礼拝をしてしまうこの世に対する裁きについて話しているのは事実である。しかし、偶像礼拝は感謝しない心にもある。むさぼる心、ぶつぶつ呟く心。すべて感謝のない心は結局のところ偶像礼拝なのである。感謝しなければ、神から与えられた導きに不満を覚え、不公平だと思ったりして不平を鳴らす。そして、もっと要求するのである。「これが欲しい、あれが欲しい」と。結局自分が神に命令を与えるようなことになる。感謝の心を持っていなければ、偶像礼拝のような心を持つことになるのである。
私たちは礼拝において、自分の罪を悔い改めて捨てるならば、罪の道を歩んでいく過程を阻止することができる。ここで偽りの悔い改めをして、偽りの心をもって聖餐式を受けたりすれば、神の御怒りを招くことになることを忘れてはならない。私たちはもっと厳しい神の取り扱いを受ける筈である。偶像礼拝の心に気を付けて、偽りの悔い改めをしないで、本当に心から悔い改め、神に感謝をささげて一緒に聖餐式を受けたいと思う。どうか、私たちが神の御前に誓った誓いを果たすことができるように、更に豊かに御霊の御恵みを私たちの上に注ぎ出してくださいますように、主イエス・キリストの御名によって祈る。
――1998年8月23日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com