HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙1章26〜32節


    1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

    1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

    1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

    1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

    1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

    1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

    1:32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

    98.08.30. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    愚かな者の取り扱い

    1章26〜32節

    26こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

       ローマ人への手紙1章24〜32節の全体的な神学的要点は、神は罪人を彼ら自身が選び求めたものを与えることによって罰される、というものだ。これは聖書の中の歴史物語と教えの両方の部分においてしばしば教えられるところである。私たちはこの原則をホセア書の言葉の中から見ることができる。罪人は、神の裁きがどのように自分の行ないの過程に介入するかを考えない。神の裁きの介入を無視したその行ないによってこの原則を簡潔に述べることができる。「あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行ないや、多くの勇士に拠り頼んだからだ」(ホセア書10章13節)。パウロはそのよく知られている警告の中で、ホセアを暗喩しつつ、しかも神の裁きの現実をもそこに含めて語っている。即ち、

    思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7節)

    と警告しているのである。罪人が自ら蒔いたものを刈り取るという事実、また彼らの悪への罰となるのはまさしく彼ら自身の行ないの実であるという事実は、神が定めた道徳的因果関係の原則に基づいているものなのである。

     

    神は彼らを引き渡された

       ローマ人への手紙1章の18〜32節までの箇所で、パウロは「神の御怒りが啓示されている」というところから話を始めている。パウロはまず、なぜ神はこの世に対して怒っておられるのかを説明する。それは、「神を知っていながら、神を求めず、神を無視して生活を送っているからだ」とパウロは言う。創造主で愛なる神を憎んで罪の中に生きているので、その罪に対して、神の御怒りが天から啓示されているのである。そして、21節から25節でパウロは偶像礼拝について説明する。罪人は、神を知っていながら、神を捨てて、偶像を礼拝する。その偶像礼拝の論理的な結果がどのようなものかは先週いっしょに学んだところである。26節から32節までの箇所でも、パウロは続けて偶像礼拝の話をしている。24節から終りまででパウロは、神が彼らをその欲望、恥ずべき情欲、良くない思いに引き渡したと、三回繰り返し言っている。神は、その罪人が自分で選んだ道を行くのを許すことによって、その人を裁き給うのだ。その原則が、この短い箇所で三回も出てきている。悪を求める者に、その悪いものを与え給う。これはある意味で最も厳しい裁きといえよう。

       パウロがここで述べていることの深さを正しく把握するには、神がその御恵みをもって常に罪人がその本当の姿を表わさないように抑制しておられることを覚えなければならない。クリスチャンではなくても、誰一人自分の堕落を完全に表わした者はいない。神は、罪人の心の悪にくつわをかけ、それが勝手に暴走してこの世を滅ぼしてしまわないようにされるのである。

       このことは、子供たちにもよく聞いて理解してほしいところである。子供たちは、欲するままに親に「あれがほしい。これがほしい」と言って求める時、親は「いいえ。だめですよ」と言う。幼い子供が最初に学ぶ言葉は「だめ!」という言葉になってしまいがちなほどである。実は、親の愛を表わす言葉としてこの「だめ」以上の言葉はないと言えるほど、そう言われるのは大切な恵みなのである。子供は自分をだめにしてしまうものを自然に求めてしまうからだ。無知なので、電気のコンセントで遊んだり、ガスをいじったり、火遊びしたりするし、罪人なので自然に罪を求めてしまう。「だめ」という言葉は、子供が愚かなゆえに自分で選ぶ道を阻止するためのものである。停めてくださるのは御恵みである。「どうか私が自分の選んだ道を歩まないように、私の愚かさを停めてください」という祈りは罪人には相応しいものである。神が停めてくださらなければ、私たちは滅んででしまうからである。

       神が、「なんでも好きにしなさい」と言う時、それはその人を裁きに委ねたということになる。それこそ裁き方として最も厳しいものであり、身から出た錆という話になるわけだ。神の裁きとはそのようなものである。それで、最終的な裁きを受ける時に、罪人は「でも...、でも...」と言うことは何もできない。「これはあなたが好んで選んだ道ではないか」と言われる時に、認めざるを得ないのだ。罪人は、神の裁きによって永遠の地獄に行く時に、「私は無実なのに...」と言うことはできない。それは、自分が選んだ道だということが十分に証明されて、その罪のすべてが明るみに出されて、その人は「自分が選んだ道に行く」ということになるのである。

       ただ、アダムとエバがそうしたように、罪人は自分が選んだことの結果が悪いとなれば、他の者のせいにするのである。「でも、あの人がこれをしなければ、私はこの道を選ばなかったのだ」と言って、結局は神のせいにしようとする。地獄に行く罪人は、自分がその道を選んだということを認めざるを得ないが、同時に、すべてを神のせいにして、ますます神を憎み、他の人をもますます憎むようになる。罪人の裁きは罪人の心から生まれてくるものである。それ故、「目には目を。歯には歯を」という裁きこそ最終的なものであり、その者に相応しいのである。これこそ、恐るべき裁きであり、逃がれることのできない神の裁きである。その事をこの箇所から教えられる。その事を私たちもよく覚えなければならない。

       神が人をその罪のゆえに罰される時に採られる方法の一つは、御恵みの抑制を部分的に取り除くことにより、その罪人が自らの罪の道に進むことを許されるというものである。ところが、罪の道は人間とこの世の道徳的構造と矛盾し、悲惨な結果を生んでしまう。重力の法則に逆らってビルから飛び降りればその代価を払うことになるのと同じように、神の契約の律法に逆らう者もまた、同時に自分自身とその周りの世界に矛盾することになり、そのために苦しむのである。しかし、神が彼らを「引き渡される」と言うとき、パウロは「道徳の領域における原因と結果のつながりは神御自身にある」と述べるに留まらず、神の裁き方において、人間が神の似姿であり、それゆえに道徳的選択について責任あるものとして取り扱われる点をも示しているのである。

       人が苦しむなら、それは彼らが苦しむことを選んだからである。人間は罪の欲によって盲目となり、自分を騙し、その滅びの実を何よりも美味しいものとして求めて選ぶのである。もし人が永遠の罰を受けるなら、それは彼らが祝福よりも地獄を選んだからである。罪人が自由に悪を選んだことがその苦しみの源なのである。もしも、放蕩息子がそうであったように、罪人が、自分で蒔いたものを自分で刈り取っているに過ぎないのだということを悟って悔い改めるならば、救われるのだ。ところが、ほとんどの罪人はますますその不正に没頭していくのである。その苦しみは、彼らを悔い改めに導くどころか、むしろひたすらにその心をかたくなにするので、彼らはさらに勢いを増して愚かさの道を突き進むのである。

     

    歴史的例

       先週指摘したように、人間は偶像を礼拝すると自分自身の欲望を神にし、その欲望はさらに礼拝されることによって激しさを増すものである。罪人は、いや増す堕落の悪循環の中に捕らえられており、神の御恵み以外にそこから罪人を救い出せるものはない。偶像礼拝が性的不道徳をもたらすことにパウロが言及するとき、異邦人の歴史を指しているように思われる。ギリシャとローマの歴史はこの点において数多くの証拠を示している。聖書の中ではソドムとゴモラの町が、神の裁きがもはや留められないほどに甚だしい性的不道徳に陥った最初の例である。それから四百年の後に、カナンの地全体が基本的に同レベルにまで腐敗したので、イスラエルはその地の男女および子供までをも焼く尽くす火となるように命ぜられた。

       私たちをひどく落胆させる荒野でのイスラエルの背教という有名な歴史的記録ほど偶像礼拝と性的不道徳の間にある論理的そして心理的関連性を明白に表わすものはない。神がエジプトで大いなるしるしと不思議とを示されたちょうどその時、神はイスラエルを奴隷状態から贖い出し、彼女を御自身のものとするために荒野に導き出された。ちょうどその時、そして更に悲劇的なことに、神が御恵みをもってイスラエルの知恵と栄光となるべき律法をモーセを通して与えられた時に、イスラエルはシナイ山のふもとでアロンを説得し、金の子牛の像を鋳造させて偶像礼拝に走って姦淫を犯したのである。人が神を心に抱き続けることを好まず、神に従おうとせず、神に逆らい、偶像礼拝に走る時、神は彼らが自ら選ぶもの、即ち、極度の堕落でその心を満たすのを許し給う。

       祈る時に私たちは「主イエス・キリストの御名によって...」と祈るが、その意味は「私の求めるところではなく、あなたの御心に適うように、どうか神さま、すべてのことを導いてください」ということである。「神の御心なら...」という意味が「キリストの御名によって」という言い方の中にあるのだ。「キリストの御名によって、私の祈りに応えてください」と祈る時、それはキリストの御心に適うように、主イエス・キリストの栄光が表わされるように、神が祈りに応えてくださることを私たちは祈っている筈である。神の御心は自分の思いや願うところよりも遥かに良いということを、心から認めて祈っている筈である。そうでないならば、私たちは偶像礼拝をしている人たちと同じように、ただ神を利用しようとしているだけに過ぎない。それは本当の祈りではない。自分が求めるものだけが欲しいというなら、偶像礼拝でもすればよいのだ。その結果、最終的に自分が欲するものを手に入れるかもしれない。それが与えられれば与えられるほど、偶像の奴隷となり、自分の罪の奴隷になっていく他ない。それは永遠に続き、永遠に激しくなっていき、永遠に苦しむことになる。

       神を神として愛し信じる者は、自分の罪を素直に悔い改めて、神の御心を求めるものである。神の御心を第一にする。神は御自分の御言葉の中で何回も言っておられることだが、神は私たちを愛して、私たちに本当の意味での祝福を与えようとして命令を与えてくださるのだ。その神の御心以上に私たちにとって祝福となる道はないのである。神の御心が行われることこそ、私たちにとっては幸いであり、喜びの道なのだ。それを悟るのは知恵である。偶像礼拝は、表面的にはある意味で賢いように聞こえるかもしれない。「どうしてもこれが欲しい」と叫ぶ者の前に、その欲しいものを手に入れる道が開かれている。その道を行くことが偶像礼拝である。結局、それは自分を神にしているのであり、自分で善と悪を決めているのである。

       パウロは、その非常に深い大切な原則を私たちに教える時に、自分の心が偶像礼拝の心なのか、それとも唯一絶対なる神を愛し信じてその神に従う心なのか、どっちなのかを私たちに問いかけている。偶像礼拝をし始めると、その道は非常に大変なものになるということをパウロは説明している。これは個人の話でもあるが、個人の場合には例外や個人差があるのは事実である。大きなグループになると、この事はもっとはっきりしてくる。個人の場合は、自分の育ちや環境の影響もあるが、自分にとって何が有利かを考えて表面的には悪い事をしないで栄誉を求める人もクリスチャンではない人々の中には沢山いる。それは様々である。しかし、社会全体を見るならば、流れは一目瞭然となるのである。

     

    我々の時代

       私が子供だった1950年代の時のアメリカは今とはまるで違う国であった。嘘は悪いことだというのは常識であった。姦淫も悪いことだと誰もが思っていた。離婚の話は、私の周りではほとんど聞いたこともない。そして、離婚の理由もそれほどなかった。私の祖母の家の門には鍵はあっても何年も鍵をかけたことがない。「なぜ鍵をかけるのか。隣の人が夜何か急用があって入りたくても、鍵がかかっていたら入れないじゃないか」という感覚だったのだ。車の鍵も、常時車の中にさしたままにしておくのが常識だった。その方が探さなくてもいいので便利だったからだ。祖母の町では、盗みは十年に一回あるかないかくらいのことであった。子供たちの間でも万引きもないし、他人の物を盗むことなど考えもつかない社会であった。

       1960年代になると、社会は急激に変わっていった。驚くほどに早く悪くなっていったのだ。65年、66年のことも脳裏に焼き付いていてよく覚えている。私が大学に入った67年の秋になると、もうかなり悪くなっていた。それでも、67年の最初の一学期は生徒たちはYシャツにネクタイをして登校するのが当たり前であった。次の68年の秋には、Tシャツとブルージーンズだらけになっていた。普通のシャツを着てくる奴は変な目で見られるようになった。僅か一年なのに、社会の変化は激しいものであった。67年の秋では麻薬やマリファナについては「聞いたことはある」という程度だったのが、68年の秋には学生寮などではマリファナは石鹸とか水のようにどこでも手に入るものになっていた。

       アメリカはそれから加速的に狂ってしまった。大学ではそうであっても高等学校はまだ別世界だった。しかしその数年後には、道行く高校生の話を聞くと、男生徒も女生徒もあまりにも程度が低い話を楽しんでいた。マリファナは高校生の間でも当たり前になっていた。それが、すぐに中学生に波及し、小学生にまでもまん延したのである。シカゴ等の都市では、小学生たちが恐るべきギャングになっている。小学生ギャングは悪い大人にとっては格好の道具であった。彼らは死ぬことの怖さを知らないし、平気で銃をもって人を殺す。麻薬の売人も子供たちにやらせる。捕まっても刑務所には入れられない。その子供たちをいいように利用する大人たちがいるのである。そういう社会になってしまった。これは50年代では考えられないことであった。映画の中でさえ見せることは許されなかったし、想像だにしなかった社会である。子供たちがシカゴの街の中で、麻薬を売る権利のために殺し合いをするとは、誰が想像しただろうか。

       その頃から、神を捨てて、神に逆らい、神を憎むことを大胆にやってのけるようになった。それを教育の中にも取り入れていった。学校の中で祈ってはならないという法律が作られたのも1960年代であった。私がクリスチャンになったのは70年頃だったが、大学の中の教会で副牧師をしていた時に、高校教師で聖書研究会もしていた一人の教員は、授業時間外であっても学校で聖書を教えることを禁じられた。しかし、クラスの中で魔術を教えることは禁じられていないのだ。悪いことや淫乱なことについて話してもいっこうに構わない。悪いことを教えても禁じられることはない。しかし、聖書を教えることだけは絶対に許されないのだ。しばらくすると、学校で実際に、文化人類学や歴史やいろいろなクラスの中で聖書が公に攻撃されるようになった。

       最も興味深かった攻撃はなんと聖書のクラスで起こった。旧約聖書を教えている長老教会の長老で哲学博士だった教授がいた。私の六冊の哲学百科事典の編集者であり、大学では私の顧問教師であった。その人が旧約聖書の教授であったが、最初の八週間で、立て続けに旧約聖書がどんなに馬鹿げたとんでもない話なのかを熱心に教えたのである。最後の二週間では「マルクスこそ本当の救い主だ」と教えたのである。それが、オハイオ大学の旧約聖書の授業であったのだ。そのような教育をやった結果、はっきりと目に見える速度で社会全体がどうしようもない状態に墜ちて行ったのである。

       今のアメリカの犯罪率、諸々の社会問題、極度な倫理の廃退、それは昔には無かったものであり、想像だにしなかったものである。明らかに、神を捨てて偶像礼拝をするようになる社会がどうなるかということを歴史は証明している。それはアメリカのシカゴ等の都市において顕著に見られる事である。誤解しないために付け加えておくけれども、アメリカの映画を見て、それが実際のアメリカの現実だと思わないでいただきたい。そういう訳でもない。日本のテレビで刑事番組で、東京の街の真ん中でやたら銃を撃ち合ったり、ヤクザ同士が殺し合ったりするドラマを見て、それが東京の現実だと思ったら大間違いである。それはアメリカでも同じである。それでも、毎年銃で殺される人間の数を聞かされる時に、その数に驚かされる。祖母の街はこの50年間、今に至るまで殺人事件は聞いたこともない。しかし、そのような田舎町でも麻薬は浸透してしまっている。60年代に、アメリカははっきりと神を捨てた。実は、アメリカは十九世紀からはっきりと神に逆らう道を歩むようになっていた。

       神に逆らう運動は十八世紀から始まっていたと言ってよい。ジョージ・ワシントンは毎週教会に行っていたので表面的には倫理的に立派なクリスチャンだったと思われている。しかし、彼は絶対に聖餐式には参加しなかった。トーマス・ジェファーソンは、聖書の中の自分が嫌いな箇所を全部切り捨てて、自分好みの聖書を作った。聖書は倫理のためには良いものであるとは認めるが、自分の嫌いな箇所はすべて捨ててしまったのである。ベンジャミン・フランクリンは、神は信じないけれども、大変な時にはよく祈った。そのように、アメリカのかつての偉人と呼ばれる人たちも、真のクリスチャンではなかったのである。アメリカ憲法を制定した時、その人たちは「神の言葉は本国において権威をもってはならない」と、はっきり憲法の条文に定めていた。当時、それは大変な闘いとなったが、その時すでにに、合衆国中央政府は神を捨ててしまっていた。

       しかし、当時のアメリカでは州政府の方が合衆国政府よりも力があった。2、3の州を除くほとんどの州では、州政府のすべての憲法に「三位一体の神への信仰を告白しなければ政治家にはなれない」とか、「聖書の御言葉を信じなければリーダーにはなれない」等の規定があった。そのために、中央政府だけがそれを認めなくても、何とかなるのではないかという甘い見方があったのは事実である。結局、時間が経つにつれてアメリカ合衆国憲法に基づいてすべての活動がなされるようになり、「神を信じるか」とか、「聖書を信じるか」というようなことで政治家を評価してはならないという考え方が、すべての州憲法にも織り込まれるようになったのである。それで、神を信じ、神を恐れ、聖書の御言葉に従うことを誓うことは、アメリカの政治から姿を消した。

       現行アメリカ合衆国憲法以前の憲法では、神を信じる信仰と御言葉に従う信仰の告白がなければ、指導者になることは許されなかった。神を信じ、神を恐れるかつてのアメリカは、今のような神に逆らうアメリカに堕落してしまった。今では、リーダーは神を信じる信仰を告白してはいけないことになっている。例外が一つだけある。それは、選挙活動などにおいて、クリントンのように一生懸命、神の名前を唱えることである。選挙ではできるだけ多く神の名を利用するのである。「神の祝福があなたがたの上にあるように」、「神の祝福がこのアメリカ合衆国の上にあるように」と、毎日のように叫ぶのである。聖書を手にしっかり持って活動する。しかし、その実は、はっきり神を憎み、国家の代表として選ばれるやいなや、先ず同性愛者の自由の為に闘い、中絶を奨めるように闘うのである。

       神を捨てて偶像礼拝に走るそのようなアメリカ社会は、明らかにローマ人への手紙に書いてあるように、「それを行なっているだけでなく、それを行なう者らに心から同意しているのである」(32節)。それを行なう者を賛美し、誉めるのである。それを許し、それを喜ぶのである。社会におけるこの動きは、ある意味でゆっくり進行していると言ってよい。「200年間もかかった」と言えないことはない。しかし、50年代から60年代の終り迄の僅か10年前後の変化というものは、すべての社会学者がその変化について語らずにおれない程に大きく、速く、激しいものであった。この変化は、社会においてはっきり見ることのできるものである。

       日本に住む私たちは今、いわば「半分クリスチャンの社会」に生きているために、その実体を深く感じることができなくなっているのではないか。「半分クリスチャンの社会」に住んでいるとはどういう意味かというと、十九世紀からの歴史を見ると、日本とアジア諸国には大きな違いがあった。アジア全体は西洋に対して頑なに拒み、西洋が入って来ないように戦った。それで文化的にも技術的にも、また軍事的にも大きく遅れをとってしまった。日本だけは違っていた。日本は西洋からできるだけ取ることに国をあげて励んだ。取れるものはすべて取って、それで自分たちを守ることを考えた。西洋の武器を借りて自分たちを守ったりした。文化的な武器であれ、教育の武器であれ、戦争の武器にしても、とにかく西洋のものを取り入れた。そして、それは功を奏して著しい発展を遂げることができた(ある意味で、それこそ失敗だったという見方もできないことはないが...)。日本は、すべての国民に教育を与える考えを西洋から輸入した。

       なぜ西洋人はすべての子供たちに教育を受けさせたのか。これは皆さんも分かっていると思うが、1800年頃の子供たちの読解力は今の子供たちよりもずっとレベルが高かったのである。1800年にはまだ公立学校はなかった。学校制度がない時の話である。なぜ子供たちはみな本を読むことができたのか。どうして親はみな子供たちに教育を与えたのか。それは、「子供たちみんなが聖書を読むことができなければ、どうやってクリスチャンとして生きることができるのか」ということが問題であったからだ。クリスチャンとして生きることが根本的な動機としてあった。

       計算ができなければ、金銭や財産の管理はできない。今の西洋簿記の基本は清教徒からきたものだということは御存知だろうか。清教徒たちは管理者として金銭を正しく取り扱うために、数学を学んだ。それは、神から与えられた賜物をよき管理者として正しく管理するためであったのだ。その清教徒たちが、今日の簿記学において決定的な影響を西洋に与えたのである。数字を学ぶのも、読み書きを学ぶのも、すべて成長したクリスチャンとして生きるために大切なことだと考えたのである。それで、親たちは、すべての子供に教育を与えたのである。日本は、そこから始まった方法を取り入れはしたけれども、その本来の目的を無視して形だけを取り入れた。それでも、そこからくる祝福がこの日本社会にも豊かに与えられたのである。

       「日本の唯一の資源は日本人である」と言ってよいと思う。他の国々の人たちよりも高い教育を受けており、勤勉で技術的に高度なものを持っている。たとい全部が駄目になったとしても、日本人の頭脳と知識は株式市場のように下落したりはしないであろう。知識は残る。たとえ円通貨が駄目になっても、頭の中に刻まれた知識は波状的に下落することはまず有り得ないので、それが日本という国の資源である。それはどこから来たのかというと、神道の信仰から出たのでもなければ、仏教から出たものでもないし、孔子の教えから出たものでもない。それはキリスト教の影響が広まった西洋から来たものであった。「自由市場」という考え方も、それを完全に取り入れたとは言えないにしても、それを持っている限りにおいてそれは西洋から借りてきたものである。借りたものによって日本は表面的な祝福を多く持つようになった。

       それを持つようになると、かつての自分の偶像礼拝の論理的な結果はどこにあるのかが分からなくなってしまった。今の表面的な祝福や平和は、自分の偶像礼拝からきたものであるかのように、すっかり錯覚してしまっている。すべては世俗的な教育のやり方から出て来たかのように錯覚している。大変な思い違いである。それで、正しい因果関係、霊的な因果関係というものが完全に分からなくなってしまった。しかし、歴史全体を見れば、それはあまりにもはっきりとした事実なのである。倫理的な因果関係、その偶像礼拝の結果が何なのか、偶像礼拝がどういう社会を生み出すのかは極めて明白である。

       しかし、日本ではすべてが曖昧になっている。日本の学校で教える歴史そのものもぜんぜん話が違っているわけである。今の学校教育の中で本当の昔の日本の有様を学ぶことはできない。本当に多くの専門的な歴史書を調べたりしなければ、それらがどういうものだったのかは全く分からなくなってしまっている。日本においてシャーマニズムがどんなに有触れたものだったか。そのシャーマニズムのとんでもない程度の低さとそれがもたらす苦しみがどれほど深刻だったかを知る者も、今ではほとんどいない。それは文字通り、このローマ人への手紙の1章に書いてある通りのものであったのだ。「偶像礼拝はそのようなものになる」ということは普通の歴史書を調べてみれば、はっきりとわかることである。

       最近、私はインターネットに紹介されていた"Spirit of the rainforth"という本を買って読んでみた。これは南アメリカにあるヤノマノ族について書かれた書物である。著者はアメリカ人で、彼は現地でヤノマノ族のシャーマンにずっとインタビューをしたり、他の人達ともインタビューして、この本を書きあげた。彼個人の証として、それは半ば小説のように書かれている。しかし、ほとんどの内容は実際のインタビューから得たものであった。ヤノマノ族はシャーマニズム社会を営み、シャーマンが全部族を支配している。通常、族には二人以上のシャーマンがいる。幼い時から特別に霊力がある子を子供たちの中から見つけて、その子を小さい時からシャーマンになるように教えるのである。シャーマンは霊と通じるために南アメリカのジャングルで精製された麻薬を吸い、麻薬に酔った状態で霊は彼に入ると考えられている。霊が彼の中に入ると、シャーマンは霊の世界に入って霊と一緒に踊ったり、自分の身体から離れて霊と一緒に自分が行ったこともないような所に飛んでいったりするという。それは実際にあることだと思うが、そのシャーマンが自分の経験について語っている。

       一つの村の中で誰かが死ぬと、あくまでもそれは他の村のシャーマンの仕業だと考える。人が死ぬ時に、必ずそれは誰かに殺されたのだと考える。病死であっても衰弱死であっても、老齢で自然に死んだとしても、とにかく「誰かに殺された」という考え方になるので、死人が出るとシャーマンは麻薬を飲んで霊の世界に入り、殺人者が誰なのかを見つけようとする。それを見つけると、兵士はその村に行ってその殺人者を殺して戻ってくる。こんどは殺された者の村では、その報復としてこの村に来て誰かを殺さなければならない。それが永遠に続くので、ヤノマノ族のすべての村は他の村々と常に戦争状態にある。その戦争状態は複雑に変化する。今日の敵は明日一緒に戦う者になるかもしれない。戦って勝った後が一番恐ろしいのだと言う。必ず復讐する者が襲ってくることを知っているからである。じっとそれを待つしかない。いつも憎しみと恐怖に支配されて生活を送っている。

       一応家庭という概念はあるが、一夫多妻で、他の村と戦った時にそこの妻を盗んだり奪ったりして自分のものにしたりする。他の村と戦って勝つと、そこの村の女性たちをレイプし、大人の女性を殺し、若い女の子たちは皆自分のものにする。他のどこかの村にその親戚がいたりするので、奪い返すために襲撃してくるかもしれない。隣村の知人に会いに行く途中で女性に出会う時、周りに男がいなければ、それが子供であってもレイプするのが普通である。それが、その族の昔からの風習なのだ。その生活は、互いを憎みあい、恐怖と憎しみに支配されて、殺し合うだけでなく、すべての悪に満ちている。彼らは裸で生活している。相手を威嚇するために、身体中に入れ墨をしている。実にとんでもない文化である。

       その中に宣教師が入って福音を伝えるのだが、ヤノマノ族には福音は通じない。服を見ると、服を欲しがる。服が欲しくないから裸なのではない。本当に生きるか死ぬかの瀬戸際に立って彼らは生きているのだ。毎日の食料にも不足し、飢えて死ぬ子供は後を絶たない。それで服も無いのだが、宣教師が来て衣服を与えると、喜んでそれを着用する。ナイフや金属の道具を与えると、木を切り倒して家を建てたりする。狩猟ももっと効果的に出来てもっと食料を得るようになる。宣教師は彼らに、戦争を止めるよう説得し、殺し合いを止めるように教える。それを止めると、襲われることもなくなり、平和になる。それで、宣教師はそこに教会を建てて聖書の御言葉を教えるが、彼らの言葉で伝えられるようになるには非常に長い年月をかけなければならない。

       その村の一つは神を信じたが、「半分のクリスチャンになっている」としか言いようがない。表面的には昔の生活を止めて、服を着て、家族ごとに家も建てて住むようにはなった(その前は、皆が一つの長い屋根の下で共同生活をしていた)。子供にも教育を与えるようになり、宣教師が書いた聖書を少しは読めるようにもなった。そこから生活は急速に変わっていった。すると、そこへ西洋から来た文化人類学者たちが現われて、「直ちにこんな生活を止めなさい。そして、昔の本当のヤノマノの生活に戻りなさい」と要求し、事もあろうにヤノマノ族たちが殺し合いの生活に戻るように扇動するのである。そこで、一つの事件が起こった。すべての村は何かの親類関係にあった。近くの村の有力者が、この半分クリスチャンになった村の10歳の娘を妻として要求した。相手は有力者なので断れば大変なことになることは承知していたが、それでも断った。直ちに戦争の雰囲気になったが、その文化人類学者は「やれ。戦うのだ。奴等を殺して、その娘を奪い、昔のようにやるのだ」と煽りたてた。本にはその人類学者の実名も載っているが、一緒に裸になってペンキを身体に塗り、麻薬を飲み、一緒に踊って、戦うように扇動したのである。実際に悪霊が自分の心に入るように祈ったりもした。この学者は西洋ではヤノマノ族に関する論文を書いたりする有名な文化人類学者である。

       ヤノマノで戦争になりそうになると、人類学者たちは急いでカメラを取出して記録に奔走するのである。殺し合いをやっているのに...。宣教師は間に入って争いを止める。クリスチャンになったインディオたちも間に入って止める。それでも人類学者らは写真を撮るのに懸命で、「もっと戦え。もっと戦え」と煽るのである。「もっとやれ。もっとカメラに近づいて来てやれ」と叫んだりする。実にとんでもない悪夢のような情景である。他の人類学者は片っ端から男の子たちをレイプして名をあげた。西洋から来たクリスチャンではない学者たちは、インディオにとっては何よりも酷い呪いとなっているのである。

       これは過去の話ではなく、今現在起こっていることなのだ。真の神を捨てたアメリカ人たちは、普通に偶像礼拝をしているインディオたちよりもずっとずっと程度が低くて汚れている。しかし、すべては、パウロがここに書いてある通りのことである。パウロがここに書いた事を一つ一つ語るよりも、この現実に起こっている出来事によって、パウロが話していることが本当なのだということを皆さんに知ってほしいと思う。それは、南アメリカのヴエネズエラの山奥のインディオの中でも同じだし、ヨーロッパの第一次世界大戦と第二次世界大戦も偶然のことではない。神を捨てたヨーロッパの身から出た錆なのである。神を憎む者は、必ずローマ人への手紙1章の道を歩むことになる。文化人類学者たちは、人殺しを喜ぶ。姦淫を喜ぶ。誘拐を喜ぶ。それを楽しむのである。神を捨てた者はそのようなものになる。

       私たちは、社会の腐敗が増大している時代に生きている。背教と本物のキリスト教が極端なかたちで対峙し、中絶問題では殺人の定義について戦ってきている。フェミニストと同性愛者らは、聖書が情欲の奴隷また神に対する反逆と呼んでいるものを“自由”として主張する。クリスチャンは、啓蒙運動とヒューマニズムの根底にある偶像礼拝の原則を見抜き、今の時代の問題を聖書的な認識に立って理解し、神とその御国のためにもっと大胆な立場を採らなければならない。もしも周りの流れに対して戦うことをしないなら、洪水の中でこの世に押し流されてしまうであろう。肝心な事柄についてキリストを大胆に告白する者たちにとって、主イエス・キリストのみが唯一の箱舟なのである。まず自分の心の中で、次に家庭と教会で、最後にこの世に対して戦うのである。

     

    三位一体なる神に対する反逆

       人が神を捨てる時、そして偶像礼拝に陥る時、彼らは自ら極度の堕落で心を満たす道をひたすら歩くようになる。神はそれを許し給うのである。このローマ人への手紙1章の「偶像礼拝はこのような結果に至るぞ」と教えるところで、パウロは大変長いリストを掲げている(29〜31節節)。他の箇所のリストにはこの箇所で述べられていない特定の罪が含まれているので、このリストがすべてを網羅するように意図されていないことは明らかである。注解書記者たちの多くも、「パウロはこのリストにおいて特に体系的に言葉を配列しているわけではなく、“自由に連想する”かたちで書かれているために、これらの言葉を類別しようと試みるいかなる分析もこじつけでしかない」と結論づけている。しかし、パウロが用いている言葉にもその順序にも、何か特別な構造があるのを私は感ぜずにはおれない。何かの理由以上のものがあると考えているが、まだその“鍵”を見出したという確信に至ってはない。

       なぜそういう構造になっているのか、その構造の論理や根拠について、私はまだ十分に把握できてはいない。だが、はっきりとしているところだけを述べてもよいと思う。パウロによる悪徳のリストは三つのグループに分類されている。第一に、「不義と悪とむさぼりと悪意」という四つの抽象的な名詞があって、それらがギリシャ語では「あらゆる・・・に満ちた」という句に従属している。次に「・・・でいっぱいになった」という言葉に従属している「ねたみと殺意と争いと欺きと悪巧み」という五つの名詞が続く。三番目には十二項目が列挙されており、最初の七つ「陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者」は、ギリシャ語では積極的であり、最後の五つ「親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者」は、ギリシャ語では消極的である。公認本文(textus receptus)には、このリストにもう二つの言葉があり、最初のグループは「不品行」、そして最後のグループでは「和解しない者」という言葉が入っているのである。

       以上から、もしかすると、このリストは三位一体が土台となっていると言えるかも知れない。最初の罪のグループは悪の比較的広い描写となっているが、おそらく「・・・に満ちた」という言葉によってその罪の深さが強調されており、「あらゆる」という言葉でその罪の広範さが強調されているのではないかと思われる。従って、この罪の発展が御父なる神に対する拒絶を指している。そして、二番目の罪のグループは全く兄弟の兄弟に対する憎しみ、即ち、私たちの兄弟となられた三位一体の第二人格に対する罪に集中しているのではないかと思われる。三番目の言葉のリストは傲慢の罪、忠実さや愛の欠如した罪に集中している。これらは特に愛と謙遜の御霊であられる聖霊なる神に対する罪である。堕落した心は御父、御子、御霊に対して逆らい、神の各ご神格に対して自分の不敬虔を発展させるものであることを明らかにしている。

       この長いリストで、大変な罪が次から次へと連鎖していく。偶像礼拝の社会とはこのようなものである。パウロは「よくない思い」を特徴づける罪を列挙する。この恐ろしいリストの中でのパウロの言い方は、非常に大きな警告を私たちに与えるものである。殺人、姦淫などといった極端な罪とともに、舌の罪である「陰口を言う者、そしる者」なども挙げられていることに注目すべきである。口をもって、人の祝福を求めるのではなくて、呪いを与えるような話し方や言葉は、同様に程度の低い偶像礼拝の一部分であり、社会を駄目にするものである。勿論、教会をも駄目にするものである。祝福を与える言葉が口から出てこないならば、黙っている方がよい。パウロは、私たちが愚かな言葉で罪を犯す時、私たちは聖霊を悲しませているのだと別の箇所で教えている。このようなリストの中での位置付けを考えるならば、私たちはもっと舌の罪というものを真剣に受け止める必要があるのは明白である。

       また、ある人々から見れば、ひどい堕落の罪のリストに含めるには不適当と思えるかも知れないもう一つの罪は「親に逆らう者」である。すべての子供は多かれ少なかれ父母に逆らうが、パウロがここで言っているのは生活習慣のことである。自分の父と母を敬わず、父と母の教えを守らない子供は、偶像礼拝の道を歩み始めている。箴言の中で、なぜあれほどに厳しいことを子供たちの教育について教えているのかというと、子供がまだ大人になる前なら、親はまだその罪と愚かさを止めることができるからである。もし、小さな子供に「自然に、ありのまま、自分で行きたい道を行くがよい」と言って好きに任せてしまえば、子供たちは偶像礼拝の道を歩むようになる。激しく最後まで悪しき道を突っ走っていく者もあれば、ゆっくりその道を歩む者もいる。子供たちに失礼な事を言っているように聞こえるかもしれないが、子供たちは罪人として生まれ、自然に罪の道を歩んでしまうものである。父と母には、それを停める責任が神から与えられている。停めるだけではない。積極的に正しい道を歩むように教えなければならない。この世の父に逆らう者は、天の父にも逆らうようになってしまうので、親に逆らう者はこのどうしようもない大変な悪者のリストの中に含まれるのだ。

       子供たちは、幼い頃からこの事をよく認識しなければいけない。子供たちには良く聞いてほしい。自分に与えられたこの世の父と母に従わないということは、神御自身に逆らう事なのだ。それは神の裁きを招くことである。「それでも、ぼくはどうしてもこの道を行くんだ」と言ってその道を歩むならば、必ず神の裁きを自分の上に招くことになる。親たちは、当然この事を家で教えているはずだと思う。両親は、子供たちの中にある罪への自然な傾向に対して必死に戦い、不従順と関わっている傲慢の罪が発展してしまうことから彼らを救い出すために、その若いうちに訓練してあげなければならないのである。

       モーセの十戒の五番目の命令は、契約の五つのポイントの構造からして、それは未来に関係するものである。子供たちの未来を決める基本は「父と母を敬う」ことにあるのだ。それが子供たちの未来を決めるのである。それ故、父と母は一生懸命、子供たちに従順な者となる訓練を与えなければならない。「私の言うことを聞きなさい。従いなさい」ということを父と母が言う時、怒りのために正しくない心がどこかに潜んでいたりするのは事実である。しかし、親にとってそれは「私に従うため」ではないのだ。聖書を知っている両親であれば、子供たちが父と母に従うことを学ばなければ、大人になった時に駄目になってしまうことが分かっている。だから一生懸命、真剣に教えるのだ。自分のために子供たちに要求するのではない。子供のために要求するのである。子供が祝福されるために、親はその事を一生懸命、子供に教えなければならない。だから、ヘブル人への手紙12章5〜11節では次のように教えている。

    そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

    神は、私たちを愛しているからこそ、私たちを厳しく取り扱ってくださるのだ。ヘブル人への手紙を受け取ったクリスチャンたちは大変苦しい状態の中にあった。「どうして神は私たちをこのように取り扱われるのか」と思ったことだろう。答えは、「愛しているから」である。少しでも知恵のある大人なら、その意味が理解できるはずである。分からない筈はない。自分も子供たちを愛しているので、彼らが悪の道に行かないように厳しくする。また、彼らが成長するように訓練したりする。だから、神も自分を愛してくださるからこそ、厳しく取り扱ってくれ、訓練を与えてくださるのだということが、分かる筈である。

       教会として、日本の国家として、また私たちのそれぞれの家庭もそうなのだが、今から経済的にも政治的にも厳しい時代に突入するかもしれない。神が、そのような厳しい状態を世に与えるのは、この世の救いの為なのだということを覚えて、私たちは神に祈り求め、困難な時にこそ、神の御恵みを求めて福音を伝えるべきである。これは、神の御国が来るために、神がそのような取り扱いをするということなのだ。クリスチャンはその事を深く覚えて歩まなければならない。父と母は、子供たちの罪との戦いにおいて疲れ果ててはならない。あきらめてはいけない。真の愛から出る正しい怒りであれば、怒ってもよいのだ。御言葉から情熱をもって子供たちに教え、祈り、彼らが正しい道を歩むように心から真剣に求めるのである。そのような戦いは、32節で言われているのとはまったく正反対のことなのだ。

       この世の者は自分で悪いことをしているので、他の人も悪いことをすると喜ぶが、私たちは、本当に自分の罪を悔い改めているなら、悪と戦わなければならない。クリスチャンの父と母は、本当に自分の罪を悔い改めているのであれば、それこそ子供たちの罪に対して戦わなければならない。兄は、自分の罪を悔い改めているのであれば、弟や妹たちの罪に対して戦わなければならない。自分の罪を本当に悔い改めているのであれば、朋友の罪に対しても戦うべきである。妹がまこと自分の罪を悔い改めているのであれは、姉の罪に対して戦わなければならない。悔い改める者は、まず自分の心にある罪を憎んで、それに対して真剣に戦う。他の人の罪に対してまず戦うのではない。ところが、私たちはついつい先に他の人の罪を責めてしまいがちな愚か者なのだ。

       まず自分の心にある罪と戦わなければならないのだが、戦いはそこで終わるものではない。悔い改めた者は、こんどは愛をもって、互いの徳を高めあうように、皆が成長するように、戦わなければならないのである。その戦いの中で私たちはよく失敗し、愚かなこともしてしまうけれども、それに気付いた時、私たちは真剣に罪を悔い改めて正しい道に戻るべきである。そして、続けて神の御国、神の義しさ、愛なる神への礼拝をもっともっと求めるようになるのである。その道は、偶像礼拝とは正反対の道である。そして、偶像礼拝への道は、感謝もせず、真の神を神として礼拝することを止めるところから始まる。

       聖餐式の時、私たちは神に対する感謝のところに戻るものである。自分の罪をはっきりと神の御前で悔い改めて、罪を捨て、主イエス・キリストを信じる信仰を告白して感謝をささげる。神を愛し感謝して、礼拝する道に戻るのである。主イエス・キリストの十字架と復活に対する感謝は、私たちがクリスチャンとして成長するための原動力である。その力が与えられ、表わされ、成長に影響を与えるように祈り求めつつ、主の前にあって聖餐式を守るのだ。本当に、罪と戦わないで罪を喜び楽しむような心を捨て、真心をもって聖餐式を受けて、神を神として礼拝する道に戻るのである。私たちの教会が、ここに書いてある道とは正反対の道をしっかりと歩むことができるように、心から共に求めたいと思う。その心をもって、一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――1998年8月30日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com

     

    ローマ人への手紙1章22〜25節

    ローマ人への手紙1章32節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.