ローマ人への手紙1章32節
1:32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
98.09.06. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
罪の心理学
1章32節
彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定を知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのである。
この1章の最後にある32節は、三つの難解な表現のために解釈がやや難しくなっている。しかし、その言い方について深く考えることによって、この32節が伝えている深い意味を理解することができると思う。そして、そうすることによって、この手紙の1章にあるパウロの説明の大切な流れをも捉えることが出来ると思う。この32節は、神に対する人間の反逆の本質についての深い洞察をもって罪の議論を締めくくっている。
基本的に三つのことが問題にされている。第一に、「死罪に当たる」という言い方である。パウロはここで死刑について話しているのか、それとも永遠の死について語っているのか。第二に、パウロはここで、「人間は神の裁きを知っている」と言う。それは、神の裁きについての明確で意識的な知識を人間が持っているという意味なのだろうか。とてもそうは思えない。パウロは厳密には何を言おうとしているのか。第三に、これらの人は悪を行なっているに留まらず、他の者たちがそれを行なうことに同意している、と言う。この考え方は私たちにはおかしく聞こえる。普通であれば、誰かが悪を行なうのを見て喜ぶよりも、実際に悪を行なうことの方が悪いと考えるものである。なぜパウロは、悪を是認することが実際の行為よりも悪いかのような言い方をするのだろうか。
死罪に当たる
日本語で「死罪に当たる」と言えば、普通なら死刑のことをまず考えてしまうのではないか。注解者たちの間でも、パウロが死刑について話しているのかどうかについて解釈は異なっている。一部の注解者は、「パウロはここで死刑について話しているのだ」と論ずる。彼らは、24節〜27節で強調されている同性愛が旧約聖書では死をもって罰せられるという事実を指摘し、それだから「ここではその罪に対する裁きの旧約聖書の基準を繰り返しているだけだ」と説明する。しかし、1章21節からずっと気を付けて読めば、ここで死刑の話になっている筈はないことに気が付くはずである。
確かに、旧約聖書では、同性愛に対する法的な罰は死刑である。偶像礼拝も死刑に成り得る罪である。しかし、それを言う時、次のことをも覚えなければならない。即ち、死刑に当たる罪を扱うにしても、二人以上の証人がいなければ、それを事実として証明できないので、現実としてはそう簡単に死刑にすることはできないのである。また、なぜ死刑という罰が与えられているのかというと、一つには人々にその罪の重さを深く認識させて、そこから離れさせるためである。実際、同性愛は死刑に当たるほどに大きな罪なので、旧約聖書の律法では死刑に定められている。
しかし、ここでパウロが単にそのことを指して話しているとは思えない。というのは、「これらのことを行なえば」と話す時に、リストの最初にある同性愛の問題だけについて語ってはいないからである。この長いリストには、殺人のような重い罪以外に他のいろいろな罪も挙げられている。例えば、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、わきまえのない者も含まれており、ねたみ、陰口、親に逆らうこと、情け知らずなどの罪についても書いてある。これらは聖書の律法では死刑にはならない。パウロは、24節から31節で述べられた罪の全体を指して話しているのは明らかなのである。
聖書は、「犯罪」と「罪」をはっきり区別して取り扱っている。聖書律法において、犯罪と罪の区別は非常に重大なことである。犯罪と思われるものの中には、罪にならないものも有り得る。実際パウロのリストにある多くの罪は、聖書の律法では犯罪ですらなく、ましてや最高刑をもたらすものではない。法律が正しくなければ、罪でもないことを法律は犯罪と見做すこともある。通常ならば犯罪という領域は罪の領域よりもずっと小さい。そして、罪の問題を考える時、心の中でどう考えているかは非常に大きな問題である。ある意味で、それは一番大きな問題なのだ。
神の御前にあって、それは最も大きな問題である。神の御前では、心の思いが裁かれる。表面的に良くても、心が悪ければ、そしてその罪が解決されなければ、永遠の地獄ということになるわけである。神の御前ではそうである。しかし、法律は人間の心を取り扱ってはいけないのである。それは神のみが行なう裁きである。人間が正しく人の心を裁くことは不可能である。英語には"Thought
Police"という言葉がある。日本語だと「思想警察」ということになると思うが、人間の思いを取り扱う警察である。共産主義国家や独裁政治国家、戦前のドイツや日本にあったゲシュタボや憲兵隊のようなものである。彼らは思想や心の犯罪を取り扱う警察であった。思想警察は国家の観点から見て間違った考えを持つ者を探り出して捕らえ、その者を罰したり思想を変えようとしたりする。
1949年に、35年後の世界を描いて出版されたジョージ・オーウェルの「1984年」と題する未来小説は、このポイントを中心に扱ったものだ。ウィンストン・スミスという人がその思いにおいて国家に逆らったために犯罪として取り扱われた。彼の思いが国家にとっては重大な問題であったがゆえに大変な罰となった。小説の中のその国の人々の家々にはテレビがあって、そのテレビは双方向テレビで、常に内蔵されたカメラによって生活は監視されている。朝になるとテレビが自動的について「起きなさい」と言う。起きると、こんどは「体操しなさい」と言われるとそれに従わなければならない。家の中には隠れる場所はない。すべてがその"Big
Brother"(兄さん)と呼ばれるカメラによって監視されている。窓も開いていて、外をヘリコプターが飛び、窓の中を覗いて何をしているかを常に監視している。どこにいても、何をしてても、常に監視されている。あちこちに"Big
brother is watching!"(兄さんは見てるぞ!)という紙が貼られている。それは思想において犯罪を犯すかどうかを監視するためのものである。人々が心の中で何を思っているのかを常に見ている。
そして、小説の中では、思想において犯罪を犯さないようにするために、人々の言葉も変えられてしまう。出来るだけ言葉を少なくし、単純なものにして、人々が複雑なことを考えることができないようにする。教育の目的は、人々が勝手に考えることができなくし、国家に逆らう思いを持つことができないようにすることにある。思いを支配することによって、人々を支配するという考えである。ジョージ・オーウェルはもともと共産主義者であった。共産党に入ってから、それがどんなにとんでもないものなのかを知って、そこから亡命して小説を書いた。彼の見方は悲観的で暗く、最終的にはそのような思想が勝つというものであった。第二次世界大戦直後という時代的な背景もあるが、実に暗い。
クリスチャンの場合は、犯罪の領域と罪の領域をはっきり分けて考える。国家主義的なものはその二つを区別することができない。彼らにとっての唯一の神、唯一の宗教は、国家(あるいは独裁者)である。それを神にしてしまうと、それに逆らうすべての罪は犯罪に成り得る。私たちの場合、究極的な国家(御国)は天にあり、神が究極的な王であられる。神の法廷は絶対的で究極的な法廷であるので、罪と犯罪の区別は非常に大切である。何が死刑に値するのかを定義する時に、それはかなり狭いものになる。聖書の中で死刑とされる罪は幾つしかない。死刑は、その犯罪が「正当に疑う余地がない」ことが証明され得る場合にのみ、幾つかの特定の犯罪に限って適用されるものである。
そして、興味深いことに、旧約聖書の中では国家に対する反逆は死刑に当たる罪として記されてはいないのである。国に対して逆らっても死刑に値する犯罪とは見做されない。神に対して公然と言葉や思いにおいてだけでなく行ないにおいてもはっきりと逆らうならば、それは王の権威に逆らうということで死刑に値する。そのように公然と逆らう者は、公然と神を信じる信仰を告白するイスラエルの中では反逆の罪となる。それはその国の究極的な権威を捨てる罪なので、死刑に値する。しかし、イスラエルの王に逆らっただけでは死刑にはならない。その限りない神の権威と、あまりにも限られている人間の権威とは、明確に区別されなければならない。
この区別は非常に大切である。だから、この32節を死刑の話として考えるのは正しくない。「そのようなことを行なえば、死罪に当たる」と言う時、パウロはリスト全体を指して言っているのだ。死刑とか犯罪を指して言っているのではない。永遠の死について話しているのである。罪に対する罰としての死について話しているのであって、犯罪に対する罰としての死刑ではないのは明らかである。これがまず覚えなければならない第一の点だと思う。その意味で、死は、肉体の死とそれに関るすべてを含んでいる。特に永遠の罰という意味の死のことである。それ故、これらの人々が知っていると言われるものは、罪と死の間にある関連性と、神の御怒りを含む死こそ罪に対する正当な罰なのだという事実なのである。
神の定めを知っている
それで、神の裁きにおいて死罪に値すると言う時、これはもっと広い、そして難しいことを言っていることになる。それが第二の点である。「死罪に当たる」と言う時、これはからだの死とそれに関連するすべてのことをも意味するが、それ以上にむしろ「神の裁き」、つまり「永遠の裁き」について語っている。死刑の罪ではなければ、それは死刑による以外の肉体の死、そしてそれにつながる永遠の地獄の裁きの話ということになる。「罪」はすべて「死」という神の裁きを受けるものであり、広い意味で、この「死」という裁きは最終的には永遠の地獄に他ならない。この人たちは、永遠の地獄である神の裁きを「知っていながら、それを行なっている」とパウロは言う。つまり、罪人は、パウロのリストにあるような罪を犯す者は神の御怒りを受けるにふさわしいことを知っていると言っているのである。
この見解が正しければ、解釈上もう一つの問題に直面することになる。即ち、「神の定め」を知っているとは誰のことなのかを尋ねなければならない。罪人はみな自分の罪が永遠の裁きに値することを認めているだろうか。クリスチャンではない人たちが神の裁きとしての死を考えるだろうか。そんなことは全くない。事実、彼らのほとんどは地獄という概念が正当なものであることすら否定しているのだ。私たちは、経験から知っていることをどのようにしてこの箇所のパウロの言葉と調和させることができるのだろうか。どうしてクリスチャンではない人たちが永遠の地獄の裁きを知っていると言うのだろうか。「死」は神の裁きとしてあるということを彼らは知っているのか。どうして知っていると言えるのか。
これは、結局21節の問題である。「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もしない」というところからこの話は始まっているのである。つまり、「クリスチャンではない人たちは、心の中において何を知っていて、何を知っていないのか」ということを、パウロは話している。クリスチャンではない人たちがこの話を聞いて「確かにそうですね」と言って認めるかどうかは別問題なのだ。いったい人間は、心の奥では本当は何を考えているのか。これは非常に深い問題なのである。
その答えの最初の部分は、私たちが経験から知っている事柄について、もっと深く考える必要があるということである。私たちの経験の中には、人がある事を口で言いながらも実際には別な事を信じているというような経験も含まれている。私たちがもしもこの世で幾ばくかの時を過ごして来たのなら、何かを本当であると信じたがり、「私はそれが本当だと信じている」と自分自身に納得させながら、一方ではまるでそれが本当ではないことが解っているかのように行動したり、さもなくばそう示唆するかのように振る舞う人々を知っている。それはつまり、人間の知識と自己欺瞞の複雑さとを経験することなのである。
さて、パウロは、罪人が自分を騙して真の現実から逃げようとしていることについて既にこの章の前の所で取り扱った。彼らの大いなる現実は「神」である。人間は、自分が心の奥で本当に知っていることを、知らないと自ら納得させているのだ。その知識を否定し、曲げて、変えてしまう。知識の問題は第一に認識論の問題ではなく、倫理的なものなのである。そして、聖書によれば、人間が自ら課した倫理的盲目状態のゆえに、罪人がその心で知っていることと、彼らが知っていると認めることとは、二つの全く別の事柄なのである。
現代心理学は、人々が知っていると認めている事と彼らが実際に知っている事との間には格差があることを認めている。事実、心理学という学問そのものがこの区別に根差したものなのだ。現代社会では、心理学という学問はその区別をする学問だという事実を信じがたいと思う者は誰もいない。もちろん聖書的区別と現代心理学での区別とは、本質的に全く違うものである。しかし、告白していることと本当に心の中で知っていることとの間にある区別については、言葉のうえでは現代心理学の教えと聖書的区別はよく似ている。
私たちは数年前に、聖書のブループリントコースで「心理学のブループリント」を一緒に学んだ時にJ. E. アダムスの本を教材として読んだが、その時に、その本において足らないと思われる面を一緒に見た。彼の考えには、このような深い心の問題に目を留めずに行いだけを取り扱う傾向があった。しかし、フロイドとかアデレーとかヨムとかオーソ・レングスとかいうような心理学者達の主張の中にも、断片的で歪曲された形で表わされた真理が隠されている。つまり、フロイドであれヨムであれ、一つのシステムとしてその考え方を見れば全くおかしなものである。しかし、彼らの理論の一断片を取り出してクリスチャンのシステムに入れてみた場合、「確かに言えなくはない」と思われるものも中にはある。かなり削ったり言葉を付け足したりしなければならないものもあるが、それでも、深い思いは無くはない。
フロイドについてはラシドゥニーが面白い本を書いているが、その本の中でラシドゥニーは、結局フロイドは、聖書の中の心理学から借用し、シェークスピアからも借用して自分の心理学を書いたと指摘している。だからフロイドの大敵はモーセとシェークスピアだという論文を書いた人もいる。シェークスピアの方が自分よりも深く人間の心理を捕らえていることをフロイドは強く感じていた。モーセも自分より深く人間心理を捕らえていることが解っていたので、それを熱心に借用した。結果として、それが自分にとってもっとも手強い競争相手になってしまったというわけである。
確かにそれは言える。フロイドが聖書から何を借りたかというと、その一例として、人間の心の中で本当に思っていることと表面的に表われていることは全く違うものだという考えである。それはフロイド心理学の大切なポイントの一つとなっている。心の深いところに隠されている部分と、実際の生活で表わされてる部分とは、非常に違うものだということを強調する。更に、ほとんどの人はその違いに気付いてもいないという考えもそうである。そして、どうして人間はノイローゼや精神病になるのかというと、心に隠されているものに気が付いてしまったからだと言う。つまり、自分が本当はどういう者なのかがわかってしまえば、人間は堪えられずに狂ってしまう、というような考え方をする。そういう意味で、普通の人間は自分を騙して生きているのだと考えている。非常に単純ではあるが、それがフロイドの心理学であり、彼の理論のおおまかなポイントである。
普通の人間は、自分を騙して生きている。これはパウロが教えていることなのだ。フロイドはこのような考え方を聖書から巧みに盗用しているのだ。罪人は、「私は神なんか知らないのだ」と言って、自分を欺いて生きているとパウロは指摘している。心の底では知っていることを押さえつけ、阻み、隠そうとする。自分の心の中にある真理と知識の火を、消そうとする。それを無視し、目を背け、消そうとして生きているけれども、結局それを消すことはできない。それは創造主なる神が私たちの心の中に与えた火であるので、消すことは不可能である。その火は小さくなっても、完全に消すことはできない。神を知っている。けれども、「知らない。知らない。聞いたこともない」と繰り返し自分の心に囁くことによって、出来るだけ光を見ないようにして生きる。それで、暗闇の中を歩むことができる。それが人間の本当の心理なのだ。
パウロが教えていることはもちろんフロイドの心理学とはシステム的に全く違うものである。けれども、確かに人間は自分を騙すものである。「あなたは表面的には何を考えているんですか」と問われても、本当の答えは出てこない。言われた事の裏を読まなければ、その人の本当の思いを知ることはできないのだ。これはある意味で誰もが認めるところであろう。高校や大学でフロイドの心理学を読んだ時に、「この人は、ああ言っているけれども、本当はこう思っているのだ」と説明された時に、納得できるものも少なからずあるだろう。まったくおかしくて受け入れられないものも当然ある。戦争の時であれば、人を見る時には、その人が言っていることと、行なっていることとの違いを見極めなければならない。
30年代のヒットラーは執拗に「平和、平和」と叫んでいた。何年間もの間、あらゆる平和会議に積極的に参加し、平和のために力強い演説をし、自分がどれほど平和のために尽くす覚悟を持っているかを常に話していた。彼こそ偉大な平和主義者だと誰もが思ったものだ。1938年頃に書かれた書物を見ると、ヒットラーを非常に誉めて、彼がどれほど深く平和を求めているか、その為に自分をどれほどささげているかを称賛していた。それはすべて単なる言葉でしかなかった。実際の行ないを見れば、「平和。平和」と叫ぶ陰で、彼は軍の強化に全力を注いでいた。金銭の使い方を見れば明らかであった。その行ないを見れば、その言葉との違いは明らかであった。それでもイギリスのチェンバレン首相はその言葉だけを信じてヒットラーを心から信頼し、結局いろいろな問題を拡大させてしまったのである。言葉と行ないの違いに全く気が付かなかったわけではなかったが、それを無視し、その違いを見たくないがために、チェンバレンは敢えてヒットラーとの友好関係を深め、それによってヒットラー帝国が巨大化する状況を許してしまったのである。
クリントン大統領についても、その言葉と行ないの違いを見なければならないことはよくよく言われるところである。言ってる事は悪くはない。しかし、実際にやっていることは全然違うのだ。その行なっている事を見なければ、本当に求めていることが何なのかを知ることはできない。しかし、あるレベルで言えば、すべての人間はそうなのだ。ヒットラーの場合は、はっきり相手を騙そうとしているので、言葉と行ないの違いは非常に大きなものだった。戦争の場合は、わざと相手を騙そうとするので、言葉を聞く時にその裏を考えなければならない。行為との比較において言葉を解釈しなければならないわけである。場合によっては言葉を完全に無視して行ないだけに目を留めなければならないケースもある。
しかし、自分について考える時にも、結局ギャップがある。クリスチャンではない者は特にそうである。「私はこう信じる。私はこう思う」と言う時に、本当の行ないはそれとぜんぜん違っている。それに気が付いてしまえば堪えられなくなる。「私は神なんかいないと信じている」と言うけれども、ある意味でクリスチャンではない人々はまるで神を信じているかのような行ないをするものである。
ヴァン・ティルの弁証論の目的の一つは、本当に神なんかいないと心において信じているのであれば、どういう思いになる筈なのか、どういう行動をとる筈なのかを解らせることにある。本当にそれを信じているのであれば、その考えに徹した論理で結論に至るまで議論してみようということをやる。そうすることによって、その人が、自分の告白していることと自分の本当の心との違いを見せるのである。そして、心の中で考えていることが実際とは違っていることを理解させようとする。結果的に、その人の考え方がどんなに成り立たないものなのか、どんなに自分を騙して生きているかを解らせるのである。それがクリスチャンではない人と語る時のヴァン・ティルの弁証論の目的である。その人が自分自身を騙して生きていることをヴァン・ティルは前提にしている。すべての宗教、すべての哲学、すべての非キリスト教的な思想は、自分を巧く騙すための道具になっている。
そういうわけで、「人は自らの罪に対する神の定めが死であることを知っている」というパウロの言葉は、罪人である人間の真の心理学に聖書的証言を与える役目を果たしている。しかし、人は如何にしてそのような事を知り得るのか。この問いに対する答えもかなりはっきりしている。パウロは既に罪人が創造主を知っていると語った。それは、自分たちが唯一まことの神によって創造されたことを知っているという意味である。またそれは、単に「宇宙には創造の行為による何らかの始まりがあった」というだけのむき出しの知識ではない。パウロは、彼らが真の神を知っていると言っているが(21節)、その知識には神の本性に関する真理も含まれている(19〜20節)。
従って、人間は自分たちが英知と愛を持ちたもう善なる神によって創造されたことをも知っているのである。また、自分の心をも知っている。これらの事実を一つの論理体系にまとめることはさほど困難なことではない。善なる神が人間の罪に対して死の罰をもって人類を罰されることをすべての人間は確かに知っている。哲学的に、心理学的に、その知識の重荷は――悔い改めない限りは――背負うには重すぎるのである。しかし、罪を悔い改めないならば、人間は、何らかの心の平安を得るためには、自己欺瞞の道しかないのである。そして、パウロは、この広い道は、最も人々に歩かれている道であるとも教えているのである。
だから、クリスチャンではない人たちの思想は、何よりも第一に神の創造を否定しなければならない。全宇宙が神によって創造されたということを認めるならば、全宇宙はその創造主に対して責任があるのは当然なことである。神は神であり、被造物は被造物に過ぎない。人間も、もちろん被造物である。すべては神によって創造されたということを認める時に、こんどは人間社会の中のいろいろな問題や悪に対する見方も当然変わる。被造物と人間は仲違いしている。天地が創造された時にはこうではなかった。大自然は水を出して人間を殺そうとしたり、山から火を出して人間を殺そうとしたり、天から火を出して人間を殺そうとしたりする。人間が自然から嫌われているような世界に私たちは生きている。
なぜそうなっているのか。どうして人間と人間との間にもこんなに問題が多いのか。争いや殺人は絶えず、戦争も絶えない。また、どうして人間は病気になるのか。そのすべてに対する答えは一点に尽きる。つまり、「人間はなぜ死ななければならないのか」という問いに尽きるのである。すべてはそこにつながる。唯一まことの神がおられて、万物を最良のものとして創造して下さった。それを人間に与えて支配するように命じられたが、人間は死ななければならないものとなった。いったい何故なのか。答えは明白である。人間は悪いものとなったので、死はその報い、罰なのである。「悪いのは神の方だ」という理屈は成り立たない。歴史の中で本当にそう信じる者は一人もいない。明かに人間が悪いのだ。人間が裏切り、人間が逆らい、人間が感謝もせずに悪を行なったのだ。
それ故、「なぜ人間は死ななければならないのか」と問う時、このリストの話以外には答えはないのである。善人のように振る舞っても、心の奥底はどんなに罪深いかは、自分にははっきりと解っている。人間は誰であれ、自分の心の中の醜さをよく見ているし、よく感じている。罪を犯したことのない者は一人だにいない。その罪の為に、人は死ななければならない。これは誰もが心において解っていることなのだ。数えきれないほどの星を見る時、燃える太陽を見る時、本当に心から、「それらがすべて偶然に出来たのだ」と本当に信じる者は一人もいない。この宇宙と大自然は永遠に続くものだということを、仏教でもヒンズー教でも言うし、世俗的なヒューマニズムの中でもそのように言われている。
しかしながら、実際にこれらが永遠に続くということを本気で信じる者はいない。よく考えてみると馬鹿げた話だと思ってしまう。なぜならば、明らかに自然と宇宙は死に向かっているように見えるからだ。明らかに死につつある地球に自分たちは生きている、と思っている。時間の始まりと終りを本能的に誰もが感じとっており、解っていることなのである。
しかし、「始まりがある」と言えば、「神がおられる」ということにもなる。だから、始まりを否定する。始まりを否定することによって神から逃げようとする。そして輪廻を“信じる”ことによって、死の問題からも逃げようとする。死は、永遠という流れの中の一つの点でしかなく、人は死んで、また生まれる。また死んで、また生まれる。そう説明することによって、死の事実から逃げようとする。結局のところ神を否定し、罪を否定するのである。しかし、すべてを創造した創造主がおられるということは極めて単純明白なことであって、解らない筈はない。私たちはその創造主に対して、心から逆らい、思いにおいても行ないにおいても逆らった者なので、死ななければならない。その「死の罰」は完全で正しく、適切な罰である。私たちは皆罪人であり、その罰を受けるべきものである。
1章21節でパウロは「彼らは神を知っている」と言っている。既に言ったように、それは単に「神概念を持っている」というようなことではない。三位一体なる神の似姿として創造された被造物の私たちは、真の創造主なる神御自身を知っている。創造主なる神を知っている。だから、自分の罪に対する死という罰を、すべての人間は心の中において確かに認識している。にもかかわらず、愚かにも、その事実から逃がれるための宗教、哲学、そして毎日の生活を作り出すのである。パチンコ、映画、スポーツ等の諸々の趣味も例外ではない。すべてを、死の事実から逃げるための道具として利用し、それらに没頭するのである。
テレビそのものの存在がよくないとか、エンタティメント自体が悪いということを言おうとしているわけではない。しかし、私たちの社会を見ると、いかにもその為に生きているようである。神を考える時間をなるべく無くそうとするかのように自分の人生を費やしている。努めて自分を忙しくし、自分を創造してくださったお方、いや、自分が逆らったそのお方について考えることができなくなるような生き方をする。自分もそうするし、社会も、学校も、そうするのである。「私は、自分の思いに堪えられないのだ」ということをはっきり言う人もいる。自分からの逃避としてついついテレビをつけてしまう。
「暇つぶし」という言葉があるが、それは人殺しのことである。結局、自分を殺しているのである。英語ではずばり「時間を殺す」と表現するが、やることがないから速く時間が過ぎるように何かをやるわけである。暇つぶしというよりは、人生潰し、心潰しであり、自分のいのちをも潰すことなのだ。そのような時間の使い方は、結局神から逃げるためのものである。本当の自分からも逃げることなのだ。真の在り方について真剣になろうとはしない。正直にもなれない。時間があれば、とにかく潰すのである。しかし、だんだん死に近づくと、「もっと時間が欲しい」と言いだす。「何のために時間が欲しいのか」と尋ねれば、ただただ「死にたくない」のである。豊かにあるうちはそれを潰すが、死にたくはない。どんなに巧みに自分を騙して生きるにしても、「死は神の裁きだ」ということを人間は本能的にわかっているからである。そういう意味で、人間の心の最も深いところを指して「彼らは死が神の罰だということを知っている」とパウロは言う。
悪を喜ぶ
第三の点になるが、この32節の最後の難解な点はもっと難しい。一番目のポイントは「死罪」の意味するところは「死」であり、その死は「永遠の地獄の裁き」につながるものだということである。そう解釈すると、二番目のポイントはもっと難しくなり、もっと深く人間の心理の問題を取り扱わなければならないものとなる。そして、三番目のポイントになる。即ち、「それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意している」という点である。
この言葉に表現されている考え方は複雑なものである。ラテン語の翻訳を見たり、他の注解書や昔の翻訳を見たりすると、翻訳した人たちが非常に苦労してこの箇所を訳しているのがわかる。翻訳によってはパウロが言おうとしていることを変えようとするものさえある。「行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意している」と言う時、明らかに同意する方が行なうよりも罪が重いと考えている。普通であれば、当然、悪を行なう方が悪いと思うものだが、悪を行なっている他の者を喜ぶことの方がもっと悪いと言うのである。いったいどうしてパウロはこのような言い方をするのかが理解できないために、翻訳家たちは最後の言い方を変えようとする。しかし、パウロは自分の言いたい事を正しく表現しているのであって、その事を私たちは十分に理解しなければならない。
「行なうだけでなく、それを行なう者に心から同意している」という時、これは本格的な悪者について話しているのである。ポール・ジョンソンはベストセラーとなった「インテレクチュアルズ」という有名な著書の中で、このポイントについてトルストイの「アンナ・カレーニナ」を例にあげて話している。その中で、女性は姦淫をする。その姦淫によってすべてが狂ってしまう。「アンナ・カレーニナ」は、その駄目になっていく女性の話である。「トルストイは古い考え方の持ち主であり、自分でも姦淫したりどうしようもない事をしたりするけれども、その罪によって苦悩に陥っている」とポール・ジョンソンは言う。つまり、トルストイは自分の著作の中で自分の行なっている罪に同意してはいない。「この事を行なえば、人間は駄目になるぞ」ということを、たとえ言いたくなくても認めざるを得ない事実として彼は小説の倫理的論理として伝えている。
もっと現代的な小説になると、巧みに悪を行なえば行なうほど、人々は幸せになるというような物語を書こうとするようになる。神を捨て、神の倫理の基準に逆らうことによってこそ人間の幸せがあるかのように考え、同じような考えの人がいると、それに同意するのである。同意だけに留まらず、「この人は素晴らしい」と言ってそのような者を賛美さえする。聖書を信じる者こそ悪者であって、問題ばかり起こす奴等だという考えに基づいて本を書く。そのように、はっきりと神に逆らっている者らに同意し賛美する者たちの方が、トルストイよりも悪において遥かに進んでいる。その悪の程度はずっと深い。
行ないながらも、「これはいけない事だ。こんな事をしてると駄目になる」ということを認めて、悪を告白せずにはいられないレベルの罪と、自分が行なうだけでなく他の人も行なうように伝道するレベルとは全く違うものである。だから、トルストイのように行なうに留まらず、サルトルのように、人々が神に逆らうように伝道する悪の方がずっと深いものである。そのことをパウロはここで話している。他の人々に悪を推奨するという更なる悪は、人の行なう悪を甚だしく増大させる最悪なものである。一般的な見解と反対に、自分は罪を犯しておきながら、他の人々による同種の罪を有罪とすることは最悪の悪ではなくて、一種の偽善というべきものである。悪を悪と認識するので、この偽善は救いの約束をも携えている。善の基準というものが本当にあるのだと心から認める限り、そこには自分の罪を悔い改めて救われる希望がまだあるからである。
古典的な例としてダビデの罪を見ることができる。ダビデは大変な罪を犯してしまった。旧約聖書の有名な人物の中でダビデよりも大きな罪を犯した人はいないと言えよう。王になり、神に祝福され、ただ神からすべての御恵みを与えられているのに、その祝福の絶頂のところで、ダビデは神に逆らい、姦淫と殺人の罪を犯してしまったのである。姦淫と殺人、どちらも死刑に値する犯罪であり、神に対する大変な罪であった。その時、神は預言者ナタンを遣わしてダビデの罪を指摘した。
ナタンは次のような譬えをダビデに話した。「ある町に富んでいる人と貧しい人がいた。富んでいる人は多くの羊と牛の群れを持っていたが、貧しい人は自分で買ってきて育てた一頭の小さな雌の子羊の他は何も持っていなかった。子羊は彼とその子供たちと一緒に同じ物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところで休み、まるで彼の娘のようだった。ある日、富んだ人の所に旅人が来ると、自分の羊や牛で調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の小羊を取り上げて、それを調理して旅人をもてなした」と。それを聞いたダビデは激しく怒って、「そんな事した奴は死刑だ。憐れみの心もないでそんな事したのだから、雌の子羊を四倍にして償うべきだ」と叫んだ。そこでナタンはダビデに「あながたその男だ」と言った(第二サムエル記12章7節)。それを聞いたダビデは、神に対して罪を犯した事をすぐに認めて、深く悔い改めた。
もしダビデが金持ちの悪知恵に賛同し、その者を宮廷の役人として召し抱えるようにナタンに命じたならば、どういう話になっただろうか。もしナタンが、同じ事をスターリンに対して話したらどうだろうか。或は、ヒットラーに話したらどうだろうか。「あなたがその男だ」というところまで話さなくてもいい。「その貧しい人の雌の小羊を奪って殺し、調理して客に食べさせた」というところで、スターリンはこう言うであろう。「その者をここへ呼べ。その者こそ私の良き助手となろう。その者こそ、私の探し求めている者だ」と。そのような人は、最も良く全体主義者のリーダーの為に働くからである。スターリンのような人間にとっては最も理想的な人材なのだ。悪賢く、冷酷で、強く生きている。隣人のものを奪える状況にあるならば、どうして自分の物を食べる必要があるのか、と思うのである。「それが出来る奴こそ政治家になるべきだ」という反応をする。それが真の悪者の反応なのだ。ダビデの反応は、いわば偽善者の反応であったと言える。それは実に嘆かわしい歪んだ偽善を露呈したけれども、少なくとも彼は悔い改めて、聖書の義の基準を真理として認めて自分を従わせたのである。
私たちも皆ダビデのような“偽善者”である。自分が罪を犯してもそれを隠して黙っている。人が同じような事をすると、「それは罪だ。いけないことだ」と責めたてる。自分の心の中はそれほど良くないのに、他の人の心を責めるのである。私たちは自分の罪を悔い改めつつ子供を叱らなければならないし、友人の罪をも責めなければならない。悔い改めの心があるならば、それは悪いことではなくて、良いことである。罪人なので、それ以上のことは私たちには不可能である。クリスチャンではない人たちはよく「クリスチャンは偽善者だ」と言うが、ある意味で確かにそうである。だから「あなたもそうなのだから、是非来てください」というふうに答えればよいのだ。罪人が偽善者をやめたいと言うならば、悪そのものを積極的に喜ばなければならないことになる。すべての悪を認め、すべての悪を喜び、すべての悪を許すなら、偽善者には成り得ない。なぜなら、ある意味で罪人は、善を行なう時こそ偽善者なのだから。そういう意味で言うならば、確かにダビデは偽善者であり、私たちも偽善者である。自分が罪を犯しているのに、善人面して他の人の罪を責めるからである。
しかし、決して誤解してはならない。私たちは、他の人の罪を責め、取り扱わなければならない。それは私たちの責任であり、その責任は放棄してはならないものである。牧師として人の罪を責めるのは私の責任である。父親としても、子供たちが罪を犯す時に「ああ、私もその罪を犯しているのだから、あなたを責める事はできない」と言うならば、子供が生まれたその時から一度も叱ることなどできないことになる。どんな事についても子供を叱ることはできなくなる。一切、罰を与えることもできないことになる。確かに自分の子供たちを罰する時に、大人たちは自分の心の罪を感じている筈だ。子供の罪を見る時、「ああ、これは身から出た錆だ」と、よく思わされるものだ。それしか思えない程である。子供のその罪に自分自身の罪が表われているのを感じさせられる。罰する時に、自分はこの子よりももっと罪深いのに、それでもこの子を罰さなければならないのを感じるわけである。だから、私たちは、自分で悔い改めながら罰を与えなければならないのである。罪人はそれ以上にはなれない。
しかし、本当に心から自分の罪を悔い改めて罰を与えるならば、それは正しいのである。そうすべきなのである。罰を与えないならば、それは罪が行われるのを許し、罪を拡大させるために働くようなことになる。友人関係においてもそうであるし、夫婦の関係においても、教会員の関係においてもそうである。どういう言い方で罪を指摘して悔い改めに導くかも大切なことだが、それはちょっと別な問題である。そして罪に対して戦う時に、「私は罪を犯していないのだから、私には戦う権利がある」という思いを持つならば、それはまた別な意味で完全な偽善者である。「私は罪人で、本当は自分にも同じような問題があることは十分解っている。けれども、悪を見て『これは悪いことだ』ということを言わないならば、私は神に対してもっと大きな罪を犯すことになる」と考えるべきである。さもないと、罪を犯すだけでなく、罪を容認するという、二重の罪になる。悔い改めながら生きて、罪に対して戦わなければならない。私たちにはそれしかできない。それが罪人の状態なのである。
だから、偽善よりも深い堕落がある。他の人々の罪を個人的に喜び、また公然と認める者は、奈落の果てにまで堕落してしまっており、心が腐っているいるのだ。彼の悪はその社会に及ぼす影響からしても偽善よりも遥かに深刻なものである。人が悪を公に許すなら、実質的にその人は悪の伝道者になっているのだ。まさしく悪魔の広告代理人である。彼の不正への賛美は違反の境界線を越えるように誘惑されている者を励ましてしまう。その巧妙な議論により、あらゆる世代の単純で混乱していて指導を必要とする多くの若者たちを困惑させてしまう。この曲がったプロパガンダの悪質な目的は、自己正当化である。それはまるで罪人が次のような理屈をこねるようなものである。「自分がもし義の基準に到達できないのなら、この世の他の者たちを自分のレベルに引き下ろすことにさえ成功すれば、自分は“普通”なのだと主張できる....」と。
それ故、本当の悪者は“罪の伝道者”である。自分が悪を行なった時、自分の悪をも感じることは感じるけれども、自分を正当化するために他の人にも罪を犯させようとする。或は、他の人が罪を犯すのを喜ぶ。皆が同じ罪を犯してしまえば、自分はもはや悪者ではなくなる。自分を正しく見せる為に、全く曲がった意味で義と認められることを求めるわけである。その人の心理はいつもそのように傾いて働くのである。義と認められることは客観的なことでもあるが、主観的なことでもある。「自分は正しい」と信じることができなければ、人間は生きてはいけないものである。しかし、自分が正しいということを信じるには、二つの方法しかない。一つは、全世界を自分のレベルに引き下ろすことである。もう一つは、自分の罪を認めてキリストにあって転嫁された正しさによって神の御前に義と認められることである。道はその二つしかない。他に道はない。中立の道はない。
例としてこれはあまりにも良いので、恥を覚えつつ言うのだが、クリントン大統領が犯した罪は御存知のとおりである。自分を弁護するために何をするかというと、「この大統領もガールフレンドがいた。あの大統領にもガールフレンドはいた」と、こぞってホワイトハウスの報道官らに言わせて、皆をクリントン大統領のレベルに引き下ろそうとする。「だから、私はそれほど悪くはないんですよ」といって自分を弁護しようとする。アイゼンハワー大統領にもガールフレンドがいたと言っているが、それは真っ赤な嘘である。ルーズベルト大統領にもいたと言っているが、それは事実である。ケネディー大統領のことにはなぜか触れていない。数えきれない程のガールフレンドがいたのに、彼については言わない。ケネディーはクリントンにとっては英雄なので言わないのかも知れないが、なぜケネディーのスキャンダルについて語らないのかの真意はよく理解できない。「この人もやった。あの人もやった。この人も、その人も、あの人も、皆やっていたではないか」と言って「他の人がやった事を、私もしてしまったというだけの事ではないか」と弁護するわけである。
クリントン自身が言うのではなくて、自分の側近の者たちにそう言わせているのである。フェミニストのリーダーたちは一斉にそう叫ぶ。社会の同情を引き出そうと必死なのである。民衆心理に訴え、他の人が犯した罪を拡大してもっとそれを程度の低いものにして、クリントンのレベルにまで引き下げようとするのである。それは難しい話であるけれども、それをしようとしている。そのやり方で自分を正当化しようとするのが罪人の普通の心理なのである。その事をパウロはここで話しているのだ。「自分が行なっているだけではない。皆もやっているんだから、いいではないか」と罪人は言う。事情が許さないので自分が行なった悪を賛美するところまではいかない。もし、それを賛美することができれば、彼は喜んで賛美するであろう。今、誉めないのは、それを言ったら“エアーフォースワン”(米大統領専用特別機)に乗る特権を失うことになるからだ。ただ自分の権利と権威を保ちたいだけなのだ。本音では、そのような罪を許し、喜んでそれを認めて、誉称えたいのである。
フェミニストのリーダーの中にはクリントンの行ないを積極的に賛美する者たちもいる。自分が行なうだけでなく、それを実際に誉めるのである。わざわざ「私もクリントン大統領のガールフレンドになりたいものだわ。これでいいのよ。むしろ素晴らしいことだと思う。本当に、羨ましい」という論説を書いたフェミニストのリーダーもいる。それはもっともっと程度の低い話になってしまう。そこまで悪を誉め賛えるのだ。そうすると、社会全体に対する影響はどうなるだろうか。どんどん社会全体が程度低いものに引き下ろされてしまう。
そのことをアメリカの歴史においてはっきり見ることができる。インテリ派がそのような罪を犯しても、それにはっきりと反対すれば、社会全体は守られるのである。偽善者で悪者のリーダーであっても、その罪を誰一人黙認せずに取り扱うならば、まだ悔い改めて戻ることは可能である。皆がその罪を容認するようになってしまったならば、もう悔い改めて戻る道はないのである。人々は悪の道をもっと大胆に歩むようになり、もっと狡猾に罪を犯すようになり、そう生きることを楽しむようになり、神に逆らう心がもっと頑なになるしかない。それが現在の西洋が歩んでいる道である。
60年代初期のクリスチャンたちはどのように戦ったらいいのか分からなかったようであった。しかし、年月が経つに連れて、例えばヴァン・ティルやアブラハム・カイパーが100年前とか50年前に書いたことが、今では普通のクリスチャンにも解るようになってきた。これは世界観の戦いであって、すべての事において考え方は違うということなのだ。すべての事において、クリスチャンは違う道を歩もうとしている。全く違う社会を求めているのである。考え方の共通点はただの一つだにない。そのことを一般クリスチャンでさえも皆感じるようになってきている。
中絶の問題はこの理解のためにとても大きな役割を果たした。70年代初期にアメリカ政府は中絶を法律で認めるようになった。クリスチャンはそれに対してはっきり反対して戦うように成るまでには10年かかったかもしれない。私が神学校で学んでいた頃、一度も中絶のことが問題になったことはなかったし、聞いたこともなかった。「なぜ中絶はいけないのか」とか「この法律は悪いものだ」というようなことは一度も話題に上ったことはない。考えもしなかった程である。少しは考えたが、立場を取って「この法律は罪である」というような考えはなかった。
70年代後半にやっとクリスチャンたちは運動を起こし、80年代に入って更に激しく中絶に反対するようになった。そうすると、フェミニストの人たちは、殺人を行なうだけでなく、殺人を行なう人を声を大きくして声援し誉め称え、その行為を認めさせるのに躍起となったのである。論文などをどんどん発表して理論的にもその行為を擁護しようとするし、中絶を行なう女性たちを助け、激励し、中絶のためのカウンセリングセンターをアメリカ中に設置した。そのセンターの名は「妊娠カウンセリング」と付けられている。カウンセリングの内容は「妊娠について」ではなく、「どうやったら中絶を受けることができるか」の紹介をしたり、「なぜ中絶した方がいいのか」を説得するためのものである。
つまり、「中絶なんか怖くないんだよ。とても良い選択なんだよ」という考えをもっと広めるためのものである。中絶に導くためのセンターなのだが、その名を「殺し屋センター」とか「屠殺センター」とは呼ばずに、「妊娠カウンセリングセンター」と称している。まさに「看板に偽りあり」である。自分らが勧めていることを「選択」と呼んでいる。「殺人」を教える立場だ、とは言わない。そのような、中絶、同性愛、麻薬などを、理論的に弁護し、紹介し、推し進め、伝道するのはだいたいインテリ派のリーダーたちなのである。だいたいのインテリ派のリーダーたちはその立場に立っているというのが現状である。
さて、「すべての思想は伝道主義的なものである」ということを、私たちは知らなければならない。それを無視して、良い行ないだけすればいいというわけにはいかない。すべての思想は、積極的に他の思想に対して戦うものである。そして、すべての思想は、伝道するものである。思想は自分を弁護して伝道するものである。その当時は解らなかったが、今振り返ってみれば、私の大学時代でも、周りに悪いことを行なうように誘惑する者たちがいたのは確かであった。何も分からない田舎者の私が大学に行った時、ニューヨークから来た悪い連中が私たちの学生寮にいた。彼らはどんどん他の人たちに悪を紹介し、誘いまくった。彼らは、お金を払ってでも他の人に悪を紹介しようとする。誰かが悪いことを一緒にやるようになると、心底から喜ぶのである。そんな時、どうしてこんなに積極的に皆にそんなことをさせようとするのか、どうしてあんなに喜ぶのか、という思いが頭のどこかをかすめたりもした。しかし、その時はただ「えっ」と思っただけで、すぐに忘れてしまった。後でよく考えてみると、それは実に深い悪であってどうにもならない罪だということが分かるようになった。彼らは、積極的に伝道しているのである。
実は、映画やテレビの番組にも気を付けるべきである。テレビのだいたいの映画や番組には何がしかの伝道プログラムが含まれていると考えてよい。私たちは、常にその伝道の雨を受けているということを認識しながらそれらを見、それを逆利用することが必要である。それは、言わばテレビ等を見る時の「受け身法」であり、受けて返すようなものである。相手が伝道しているという認識がなければ、何一つ正しく見ることはできない。直ちに影響を受けてしまう。全部は伝道なのだ。それを知らなければ、正しく子供たちに見せることも教えることもできない。昔の映画を見れば、その伝道の方法は単純明快ですぐにわかるものであった。
映画としては優れた作品であると思うが、ジョン・ウェインの「駅馬車」というカウボーイ映画がある。「駅馬車」は、昔の西部のアクション映画である。よく見ると、その中での“悪者”は教会の婦人たちという設定になっている。教会の女性たちが一番の悪者であ。もう一人悪者の役は銀行で働いている男性で、彼は教会の女性リーダーの夫である。つまり、悪者はクリスチャンだという設定になっているのだ。良い人はというと、刑務所から脱走したジョン・ウェインである。もう一人の善人は売春婦である。もう一人、牧師とダブるような人物が登場するが、彼は酒屋の主人でいつも酔っ払っていたが、牧師のような役もしている。とにかく、よく見てみれば、キリスト教に反対して、罪人を素晴らしいものとして称賛の的にしている映画なのである。それがそのアクション映画の秘められた訴えである。
ちょっと見たくらいでは気が付かない程に、その訴えは目立たないものになっているが、それが映画の初めから終りまでの一貫した背景となっている。主役のジョン・ウィインのキャラクターは男らしくて優しい人間なので、見てて、「こんな人間が果たして刑務所の中にどれくらいいるんだろうか」などという疑問なんか少しも湧いてこない。「売春婦っていつもこんなに奇麗で親切で心の温かな人間ばかりなのか。どうして売春婦なんかになったんだろうか」などとは考えもしないで映画のシナリオに吸い込まれてしまう。その映画は実に巧く“伝道映画”として作られている。普通この映画を見る人は、クリスチャンのようには簡単に善と悪を見分けることはできない。見る者は、「もしかすると、クリスチャンこそ一番悪い人間なのかもしれない...」という感覚を潜在的に持ってしまうようなレベルで、その映画の真の訴えがアクションの裏に隠されている。明らかにこれは伝道なのだ。クリスチャンではない人々によるすべての本、映画、テレビ番組等は、伝道である。その事を明らかに意識して伝道する者もあれば、無意識に伝道してしまう者もいる。何かを本当に心から信じているのであれば、結局は伝道してしまう。これが人間の心理である。
だから、一つには、自分を弁護するために、それを喜ばなければならないし、それを勧めなければならない。もう一つには、それを本当に信じているなら、自然にそれを伝道するようになる。その両方の理由でパウロは話している。この1章の最後のことは、罪人の悪の一番深いところなのだ。彼らは、そう信じていると同時に、これは神の罰を招くものだということも分かっている。これもまた心理的におかしなところである。死ぬ、つまり、神に永遠に裁かれる、ということを知っていながら、それを行なうし、それを喜ぶのだ。確かに、狂っていると言う他ない。まるで、福音書の中に出てくるあの豚の群れの話のようである。悪霊が豚に乗り移ると、二千匹の豚の群れは、暴走して険しい崖から飛び降りて、湖へなだれ墜ちて溺れ死んでしまった。それと同じようなことである。「一緒に来い」と言って、走って行って、崖から飛び降りて死ぬ。つまり、自分を憎み、ある意味で、死から逃げながら死を求めるような狂った心理に支配されている。自分だけでなく、他の人間をも憎んでいるので、「私が死ななければならないのなら、皆も道連れだ」という心理、これも「他の人が罪を犯すように勧める」という第三番目のポイントに含まれるものである。
ヒットラーは、このことにおいてもよい例である。はっきり戦争に負けることが分かっていても、続けて戦い、皆を死に巻き込もうとする。「もし、負けなければならないなら、ドイツ国民も私と一緒に死ななければならない」というような事も実際に言っていた。すべてを支配するか、すべてを破壊するか、どちらかしかない、というような心理なのだ。自分の罪を弁護するためにも、その罪を人々にも勧める。その思想を信じるならば、自然とそれを伝道する者となる。しかし、神の罰を自分一人で受けるつもりはないので、自分が死ななければならないなら、他の人をも破壊してしまう。これこそサタン的な心理なのだ。
なぜサタンは人間が罪を犯すように誘惑するのか。サタンはもう既に神の判決を受けて敗北したのだ。それなら、自分だけどこかの穴に入って、そこで最後の裁きの日を待てばよいではないか。しかし、そうは考えないわけである。自分だけが地獄に行くのは忍びない。また、神を憎んでいるので、出来るだけ神が創造したものを破壊しようとする。特に、神の似姿として創造された人間に対しては、できる限りの悪い影響を与えて破壊しようとする。それと同じ心理なのだ。この32節の「行なうだけでなく、それを行なう者に心から同意する」というのは、サタンの心理そのものなのである。これは、最悪の心理的状態である。人間は、罪を犯し、悔い改めずにその罪をずっと続けていると、最終的にこの結論に至ることになる。
心理的にヒットラーほどはっきりした認識をもってあそこまで破壊的になる人間は少ないかも知れない。罪の成長する度合いが人それぞれ違うからである。しかし、時間さえあれば、誰でもそこまで行ってしまうものである。それは罪が生む結果なのだ。ノアの洪水以前、人間はみな長く生きていた。神を神としない人間の社会は大変暴力に満ちた破壊的な社会になっていた(創世記6章11節)。洪水の後、神の御惠みの懲らしめ(裁き)として、人間の齢は短縮され、バベルの塔の時代には言葉は複数のものとなって散らされた。その両方の神の裁きとも、惠みの裁きであった。悪が、そこまで成長することができないように、悪者が本当に悪者として狡猾になる前に、破壊しようとする悪しき心がそこまで深くならないうちに、その人の命を取るのは御恵みである。言葉を複数にすると、一人の独裁者が全部を支配することが困難になるので、それも恵みである。それら裁きによって、悪は抑制されたのである。その悪魔的な心をこの32節のところでパウロは指している。この事を正しく理解する時に、私たちは、クリスチャンの心理学の大切な部分を知ることができるのである。
罪人は、その心の内に自分の企てが虚しいことをよく知っている。彼は裁きの下におり、自らの生き方の虚しさとそれを推奨する更なる深い愚かさとを確かに感じている。それならば何故そのままであり続けるのか。それは、ヒットラーがもはや戦争に勝てないと解っていても、最後まで降伏しなかったのと同じ理由である。罪人は、自らの破滅を自己にとどめるのではなく、他の者たちにも分け与えることを好むのだ。熱心にそれを求めるようになるのである。
「破滅は道連れを求める」という英語の諺があるが、それは、苦悩と破滅こそ罪人である人間が無制限に気前よくなる唯一のものだという事実を明らかにしている。自分の破滅と死を他の人々にも与えたいという欲望は、この世における悪魔の活動の鍵である。悪魔は自分が裁かれることをよく承知しているが、神への腹いせと憎しみから、可能な限り多くの者を破滅の道連れにしようと決心している。自分への差し迫った裁きについての知識は、熱狂的且つ伝道的な破滅への情熱となって彼の思いと心を満たすのである。彼は永遠のホローコストへと他の人々を道連れにすることを切に切に望んでいるのだ。パウロが32節で言及している人々は、その悪魔の心理が体験的にわかるほどに邪悪になっている。
私たちは、クリスチャンではない人たちの心理について話したりする時に、「クリスチャンではない人たちは確かにそうなのだ。けれども、私たちは違う」と思うかも知れないが、私たちも問題がないわけではない。私たちの心の中にも深い矛盾がある。神を愛している心を持っていながら、神に逆らい、神を憎む破壊的な心も同時に持っている。私たちも、自分を破壊し、他の人をも破壊する、という罪に陥りがちな者なのだ。そういう心もどこかにある。罪人なので偽善者だ、という点でも同じである。しかし、私たちの罪が私たちを断罪するとしても、また罪人であるために正しい事を宣言するたびに私たちはある程度偽善的になるとしても、それが公であれ個人的であれ、悪に対する戦いは真の知識と神礼拝には不可欠なことである。それを止めたり、躊躇してはならない。私たちがまず第一に自分自身の罪に対抗して立つならば、そして真剣に罪に対して戦うならば、私たちは勝利を得、善において成長するであろう。
しかし、結局のところ、罪人である私たちの隠れ家は常に唯一であることを忘れてはならない。それは、神の変わらない御恵みであり、私たちに転嫁された主イエス・キリストの義なのである。私たちは、日曜日の朝に集まって聖餐式を求める時、自分の罪の心は実に深いことを心から認めないならば、本当の意味で聖餐式の心の準備はしていないことになる。ただ単に、「私は時々、行なうべきことを行なわなかった。それはいけないことだ」というレベルの悔い改めをここでしているわけではない。「私は偽善者である。私は、本当に地獄に行くべき罪人である。私は、表面的には人に見えるような大きな罪を犯してはいないけれども、神は私の心の奥底まで全部を知っておられる。私は神の御前に立つ時、私は裸で、死に値する罪を犯した者である」ということを認めなければならない。それを真剣に認めて、ただ主イエス・キリストの御恵みにのみ救いを求めるのである。「主イエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私は救われる。他に、私には、望みはない」ということを、聖餐式の時に、私たちは告白するのである。
聖餐式はキリストの十字架を記念するものである。その十字架は地獄の裁きである。私たちこそその裁きを受けるべきであったのを、代りに主イエス・キリストが受けてくださった。その事を覚えて、その主イエス・キリストの十字架と復活のみによって救われたことに、心からの感謝をささげて、神の御前に「ただ主イエス・キリストのみが私たちの喜びである」と告白するのである。そのことを覚えて、心からの感謝をもって一緒に聖餐式を受けたい。
――1998/09/06――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com