ローマ人への手紙2章1〜3節
2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
2:2 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
2:3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
98.09.13. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
弁解の余地なし
2章1〜3節
2章の最初の部分でパウロは誰のことを念頭に置いて話しているのかについて、注解者たちは議論する。17節からは明らかにユダヤ人に向かって語られている。だが、パウロがユダヤ人に充てて話をしているのは17節からなのだろうか。ユダヤ人のことは1節から既にパウロの念頭にあったと考える注解者も少なくない。ほかの人たちは、16節までは異邦人に充てて書かれているのだと考える。しかし、この箇所の内容を見れば、誰に向けて語られているのかによって決まるようなことは何もない。それ故、特別にユダヤ人或は異邦人のどちらかを指しているものではない。つまり、特定の人種ではなく、あるタイプの人々を指していると理解するのが最も適切であろう。最初の部分でパウロは、道徳的な人間、自らを高潔と思い、悪を行なう者を裁く者たちについて語っている。このタイプの人間がユダヤ人であるか異邦人であるかはさほど重要ではないように思われる。
偶像礼拝の社会の実
1章18節から1章の終りまでの学びの中で、パウロは「神の御怒り」の話をしている。神の怒りが、偶像礼拝をしている人々に対して表されている。なぜなら、神は十分に御自分をこの世に対して表しておられるので、人間は、神を何かの偶像を通して礼拝できるかのように考えてはならない。それは実は誰にでもわかることなのだ、とパウロは説明している。偶像礼拝とは、自分の都合に合わせて神を作り、自分の欲望を満足させるために神々を作るものである。偶像礼拝は必ずそのような宗教になってしまう。日本に住んでいる皆さんにはパウロのポイントが具体的に理解できるのではないかと思う。
アメリカでは、実際に偶像の前にお辞儀をしたりするようなことはまずめったに経験しない。日本では、受験合格、結婚、就職等の願いがあれば、お金を出して、お辞儀したりして祈願する。それ以外の時は別に関係ないのに、何か欲しい時には、そこに行って祈り求める。これは典型的な偶像礼拝の宗教である。1章のところでその事は説明されている。もっと明確に言えば、役に立つ神に対して、役に立つ時に拝んで自分の欲するものを求める信仰である。それ以外の時は、自分のしたいようにする。「神の御言葉の下に立って生きる」という概念はないのである。もちろん、「御言葉」という概念も基本的に偶像礼拝の中にはない。そして、偶像礼拝の社会は、かなり道徳的に悪くなってしまう傾向があることは歴史が証明している。
キリスト教が入る以前のヨーロッパを見れば明らかであるし、昔の東洋でもそれは変わらない。偶像礼拝の社会では、神々は人間のために存在する。だから、結局のところ人間の欲望が許されてしまう。昔のギリシャの社会でも、ローマ帝国の社会でも、現代の日本人の観点から見ても、極めて道徳的に低いことは明らかである。今の日本は、キリスト教の道徳的な基準をかなり認めており、無意識に取り入れて適用もしている。御存知のように、百年前にプロテスタントの宣教師が最初に日本に来た時のことだが、プロテスタントの宣教師はある日本の習慣に対して非常に強く反対して戦ったことが記録されている。その時、仏教のリーダーたちも、神道のリーダーたちも、日本のインテリ派の人たちも、こぞって「この習慣は、日本の文化である。これは日本の美である。これは宗教でも何でもないのだから、反対するな」と言って、絶対に耳を傾けようとはしなかったのである。その習慣はそのままにされ、なかなか変えることはできなかった。しかし、今日では、そのような習慣が根強くあったことを覚えている者さえほとんどいなくなってしまった。
その習慣とは、自分の娘を売るという習慣である。その習慣は、1948年になってやっと法的に終止符が打たれた。しかし、自分の娘を売春婦として売ってしまうことは、百年前の日本なら社会的に許されていた習慣であったし、宗教の指導者やインテリ派によっても擁護された習慣であった。リーダーたちに認められていて、「これは日本の美なり」と言われた習慣であったのだ。「日本の文化だ」と言って誰一人その習慣を変えようとはしなかった。今の日本人なら、誰でも「それは悪いことだ。いけないことだ」と言うに違いない。しかし、その習慣は、外国の支配の下にあって強制的に変えられなければ、変わらなかったのである。なぜそうでなければならなかったのかというと、簡単に言えば、偶像礼拝の社会はそこまで程度の低いことを容認する社会だということである。
だから、ローマ人への手紙1章のその箇所を読むと、非常に恥ずべきことが出てくる。人々は同性愛を許すのである。これは、今の日本でも同じようなものではないか。同性愛者は平気で街を闊歩する。男性が女性を装い、それで有名になって社会でも認められて、すばらしい人間であるかのように思われている。これは、ローマ人への手紙1章にある道徳的に低いどうしようもないレベルだという状態の中に含まれるものである。偶像礼拝の社会は、歴史上のどこを見てもそのようなものになっている。アメリカも、神を捨て、神から離れてしまったために、今のような醜い有様になっているのもまた現実である。
アメリカ社会は50年代には既にはっきりと神を捨てていた。その当時、同性愛という言葉さえ聞いたこともないほどであった。大統領が今のような恥ずべき事をするのも聞かれなかったことである。よしんばそのような事をする人がいても、その人を守ろうとする人間は誰もいなかった。直ちに追い出されてしまう。絶対に許されないものであった。今や、インターネットに載せて全世界がアメリカ大統領の不倫行為を見るようになるとは。しかも、そこまで国民や議会を騙しても、その嘘つきを守ろうとする人が国民の半数以上もいるということに驚かずにはおれない。これは実に信じられない事態である。しかし、これこそ、偶像礼拝の社会が結ぶ実であり、真の神を恐れない社会の程度の低さなのである。神を恐れず、神を信じなければ、道徳的に極めて程度の低い者になるほかない。その道徳的な低さの最悪なレベルは、ただ悪いことを行なうだけでなく、悪いことを行なう者を喜び、容認し、それに同意することだとパウロは言っている。それが最低のレベルである。アメリカでは、その最低のレベルの人間がリーダーになっている。
パウロがこの事を指摘する時に、歴史のどこを見てもそのことは明白であることを知らされる。実際に歴史学者たちは、認めたくなくても、どうしてもその事実にぶつかってしまうのである。二十世紀初期の学者でJ.D.アンワンという人がいる。彼はキリスト教の結婚に関する考えや性的な倫理観が大嫌いであった。彼は、その事は社会の成長とか文明の高さなどとは無関係なことだという前提で研究を続けた。膨大な情報を集めて研究を続けた結果は彼にとって最も嫌うべきものとなってしまったが、彼は正直にそのことを述べている。つまり、キリスト教の倫理観等に対して反論するために研究を始めたけれども、実際のデータを見れば認めさるを得ないことだと彼は告白している。例えば、一婦一夫制を厳しく守れば守るほど文化的な力は高く、一婦一夫制を守らなければ守らないほど社会の文明的な力はない。その事実を、このキリスト教を憎んでいるクリスチャンではない学者が、「認めざるを得ない事実だ」と告白している。
実際にその通りであるけれども、それは倫理についての一面を証明したにすぎない。偶像礼拝をする社会では、一婦一夫制を厳しく守るなどの性的倫理は、またたくまに低下するという問題があることを、アメリカの歴史を見てもすぐにわかる。他のヨーロッパの歴史を見ても同じことである。キリスト教がヨーロッパに入った時にまず闘わなければならなかったのは、結婚、家庭、家族とはどういうものなのかを教えることであった。一婦一夫制について闘ったり、指導者たちにも同様に一婦一夫制を守らせるように闘わなければならなかった。それを守るようになると、文化はどんどん向上した。それを守らなくなれば、ナチスのような運動が生まれてきたり、共産主義の国になったり、社会も国家も色々などうしようもないものに変わり果ててしまうのである。その事実はヨーロッパの歴史においてもはっきりと見ることができる。
「ですから」
その偶像礼拝の社会の問題を説明した後で、2章1節からパウロの話は道徳的に高いと思われる人たちに向けられる。一番低いレベルは、悪い事を行なう者を賛美し、罪の行ないを容認してそれを伝道する人たちである。1章の最後でその事を話してから、こんどはその低いレベルの者たちを裁く者たちはどうなのかについてパウロは語る。悪い者についてのリストを提示して話した後で、こんどはそれを裁く人間をどう考えるべきかという話に変わる。「ですから」、悪を裁く者もまた罪に定められる、と続ける。これもある意味では驚くべきことであり、奇妙にも思えることだ。道徳的に高い者をパウロは称賛するかと思ったら、そうではないのだ。単に自分は悪いことをせずに、悪いことをする者を裁くだけでよいのかというと、裁く者をもパウロは裁くのである。
1ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
実に驚くべき話である。1章で、悪い事を行なう者について語り、次に、悪い事を行なうだけでなく、悪い事を行なう者を弁護し、容認し、それを喜ぶ者は最悪だと言う。では、裁く人間は良いのかというと、それもだめなのだと言う。「裁く人間も弁解の余地はないのだ」と言う。裁く人間もだめで、容認する人間もだめだというなら、どうすればよいというのか。皆だめだということなのか。その意味は、続けて読めば解ってくると思う。
2私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。3そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。(2章2〜4節)
このことは、1章32節とのつながりにおいてでなく、1章18節で始まる大きな文脈とのつながりにおいて見なければならないことである。すべての者が不義をもって真理を阻み、まことの神よりもむしろ偶像を礼拝しているがゆえに、神の御怒りがすべての人間に表されているのであれば、自らを高潔であると自負する者たちも神の裁きの下にいるのである。たとえこれらの人々がしばしば悪を断罪するという意味で“良い”裁判官を演じるとしても、彼らは自分の罪を悔い改めないがゆえに自分も罪に定められるのである。これは自分の罪を悔い改めずに他人を裁く者についての話である。実は、よく気を付けて読んでみると、ここに第三の道があることがわかってくると思う。悪い事を行なった者を弁護する人たちがいる一方で、悪い事を行なっている人間を裁く道徳的に高いところに立つ人たちもいるのだ。しかし、自分も本当は罪人であって神の裁きを受けるべき人間なのだということを認め、自分の罪を悔い改めつつ他の人々の罪をも裁くという、もう一種類の人間がいることに気が付くのは困難ではない。
道徳的な人の罪
偽善的に裁く者は、裁き主なる神の御前から逃れられると思ってはならない。基本的にこの1節からのカテゴリーに入るのは、この世でのいわゆる道徳的に高い人間だということは読めばすぐにわかる。皆さんの経験とあまり変わらないと思うが、私は高校生の時に聖書を信じない教会に行っていた。教会に行けばどうしてもモーセの十戒の話が出て来る。そして、道徳について考えさせられる。他の高校生を見て自分と比較すると、自分を厳しく裁いたとしても道徳的にはトップの25%には入る筈だと思い巡らしたりしていた。「神の裁きの日には、少なくともアメリカ人の25%くらいは天国に入れるだろうから、トップの25%に入っていれば大丈夫な筈だ。そんなに悪い事はしていないし、本当ならば5%から10%に入るかもしれない。けれども、神様の裁きなんだから、もっと慎重に考えなければいけないから、厳しく見て25%くらいにしとこう」と思った訳である。
しかし、学校には私よりもずっと道徳的に厳しい人が何人かいた。いつも自分は正しいと確信していて、自分は絶対に悪い事はしないという認識を彼らは強く持っていた。大学時代にもそういう友人がいた。「政治家になるんだ」と彼は言っていた。とにかく道徳的に高く、正しいことしかしない。それで、皆を叱ってばかりいた。その人が政治家になったかどうかは知らないが、そういう人間は皆に嫌われてしまう。いつも自分は他の人よりも正しいと思っている。実に面白くない奴だった。しかし、なぜかクラス委員とかを選ぶ時にはいつもその人がリーダーに選ばれていた。今日の学校ではどうかはわからないが、そういう人間は実際にいる。リーダーになったりするが、その人が何か失敗したり悪い事をした時には、皆で手をたたいて一生懸命喜んで彼をいじめたりした。
どんなに道徳的に厳しい人であっても失敗はするものだ。失敗すればひどく嘲笑されたり、非難されたりするので、自分も失敗することを忘れているわけではない。もっと用心するようになる。世の中にはそういう厳しい人もいる。自分勝手な基準なのか社会の基準なのかは知らないが、とにかく良い人間になっているつもりで道徳的に必死に頑張っている。パウロはそのような人について話している。どの社会であってもそのような人はいる。はっきり言えば、偶像礼拝の社会では強ければ強いほどその道徳基準は低くなってしまうものである。
昔のギリシャでもローマでも、例えばソクラテスのような人間は道徳的に高いと思われていた。プラトンもアリストテレスもそうであった。これらの“偉人”は皆、同性愛を認めるだけでなく、大人の男性が10歳や12歳や15歳の男の子と性関係を持つことを公けに認めていた。古代ギリシャの社会では普通に行われていたし、ソクラテスもアリストテレスもプラトンも皆そういう行為について「これは許される。むしろ、これこそ本当の純粋な愛である」と言って理論的にも同性愛を擁護した。昔のギリシャの観点からすれば女性は汚れたもの、うるさいもの、子供を産む為にしか役に立たないもののように考えられていた。それ以外の事は女性には不必要なものであった。それが普通であって、男性と女性の関係は真の愛にはなり得ないものと考えられていた。本当の愛は哲学者同士の愛である。更に、その哲学者同士の愛とはどんな愛かというと、大人の男性と未成年の男の子との間の愛でなければならなかった。「それこそ純粋な愛なのだ」ということを理論的にも教えていた。彼らはそれを師弟関係とか、リーダーと弟子の純粋な関係だと説明した。そして、「性的な関係でなければ、真の師弟関係ではない」という話になっていたのである。
これが、ギリシャ社会で最も徳の高いと言われる人間たちの程度なのだ。当然パウロはその事を知っていたし、彼ら自身もそのことを知っていた。だから、「それと同じことを行なっている」と言う時にはその文字通りの意味も含まれる。道徳的に高くて厳しく他人を裁くソクラテスとかプラトン、そしてアリストテレスのような指導的な哲学者たちも、1章にあるような極めて酷い悪を行なっていたのである。今のアメリカの教育では、昔のギリシャとローマを素晴らしい文化として賛美するために、そのおびただしい事実を全部隠さなければならない。だから、嘘の教育でなければだめだというような状態になっている。「事実はタブー」なのである。
頻繁に人間を生贄として捧げたということも絶対に語られない。父親は、子供が産まれると、その子供が気に食わなければ当たり前のようにその乳児を殺した。そのような事が日常茶飯事のように一般的に行われていたということは、誰も言わない。彼らを道徳的に高いものとして語る為には、それらの事実を全部隠すしかないのだ。しかし、それはパウロの時代では隠されているようなことではなかった。現実として、普通の生活で、誰もが行っていたことなのだ。娘を欲しがらないので、最初の子が男でなければ、簡単に殺して捨てた。そういう事が普通に行われていた社会であった。だから、道徳的に高いと言っても、聖書の観点から見れば少しも高いものではなかった。
「あなたたちも同じ事を行なっている」とパウロが言うとき、あるレベルにおいて同じ事をやっているということである。確かに程度の違いはある。「程度の違いは質の違い」と罪人は思ってしまいがちだ。「私はあの人ほど悪くはないので、私は正しい。あの人は私よりも悪い」というように罪人は考えてしまう。先ずパウロは「程度の違いだけで神が騙されるとでも思うのか。神の裁きの日に、あなたが神の御前に立つ時、あなたの罪は同じように裁かれるのだ。そのことをあなたは心の中では知っているのだ」と言う。
けれども、道徳的に高い人間の中にはソクラテスやアリストテレスやプラトンよりも道徳的に高い人はいた筈だ。ローマ帝国には、ギリシャの同性愛を忌み嫌う人たちも多くいた。例えば、ユダヤ教の影響を受けたりして、私たちが持っている倫理の基準を守ろうとする人がいたとしよう。一婦一夫制を完全に守り、子供の時に万引きしたこともない。子供の時でも嘘をついたことがない。(そういう人間を見つけるのは困難かも知れないが...)例えば、そういう人がいたとする。嘘をついたこともないし、悪いことをしたこともないし、小さい時から道徳的な正しさを熱心に求めている。そういう人であっても、その人が他の人を裁く時には、自分をも裁くことになる。その人自身その事をよく知っている筈である。なぜなら、小さい時からそこまで厳しく自分を見つめる人がいたとすれば、自分の心の中にある自分の罪を見たことがある筈だからである。知らない筈はない。道徳的に厳しければ厳しいほど、自分の心の悪と汚さをよく悟っている筈なのだ。
主イエス・キリストは、神の命令について話す時、それを表面的に守っているかどうかだけが問題なのではないことを、パリサイ人やイスラエル人に教えている。人を殺したことがないからと言って、「殺してはならない」という命令を完全に守っているわけではないことをキリストは説明している。心の中で他の人に対して悪い意味で怒って、憎しみを抱くならば、それは殺人と同じ罪と見做されるのである。怒り過ぎるとか、悪い意味で怒ったりする時、質的に言うならば、それは殺人につながる罪なのである。程度の話ではない。心の中で犯した罪と、実際に行動において犯した罪と、程度において同じだとはキリストは教えていない。神の裁きの日には、ただ単に表面的な行ないが良かったかどうかが裁かれるわけではない。心の奥底まで、その思い、その動機まで、すべてが公けに表わされて、公然と裁かれるのである。
神の裁きの御座の前では、人間が隠し通せる罪は一つもない。どんなに小さな罪さえも。その裁きの時に、「私はむさぼりの心を持ったことはない」と胸張れる人は一人もいないのは、誰にでもよく解ることである。悪い心を持つ者に対して怒ったり憎んだりしたことのない人もいない。心の中で偶像礼拝をしたことのない人間は一人もいないこともみな良く解っている筈である。それ故、道徳的に高い人間であればあるほど、自分の心の中でどんなに自分が汚くて不純な人間なのかを、本当は深く感じていて知っている筈なのだ。
昔の仏教の話にもそのようなことがある。「自分の目に紙切れが入ったら、敏感な目は強烈な痛みを感じてなんとかしてそれを取り除こうとする筈だ。だから、自分に少しでもやましい所があれば、一枚の紙が手に触れるだけで、それが目に入ったような痛みを感じるものだ」という言い方をする。自分の不完全な所はみな目に入っているかのように感じられる。そこまで人の心は敏感になるということを教えている。そして、「人間は、そのように、すべての悪に対して非常に敏感になることによって、すべての世俗的なものから完全に離脱しなければならない」と教えている。悪に対して人間はそこまで過敏になると言うわけである。つまり、道徳的に高い人間になればなるほど、敏感になることを認めているのだ。人間は、自分の中のものが解るようになる。
だから、パウロは二つのレベルでこの話をしていると考えてよいと思う。本当は、ソクラテスのような人間は厳しく他人を裁くけれども、1章の観点から見ても彼自身それほど素晴らしい人間というわけではない。かなりひどい罪も犯している。そのことも自分にははっきりとわかっている。行ないの面においてもそれは言えるが、心の中でしか罪を犯したことのない人であっても、本当は自分の心の中の悪を深く感じているのである。パウロは、その両方のレベルで、「神の御前で裁かれる時に、逃れられるとでも思っているのか」と問うのである。普通なら「多分、逃げられるんじゃないかな」という答えになる。「何とかなる」と思っているのだ。他の人との比較からそう考えているのである。自分の良い行ないと悪い行ないを天秤にかけて良い方が重いのだからいいではないかと考えたりする。あるいは、他の人間よりも自分の方が道徳的に高いから大丈夫だと考えるかもしれない。それに対してパウロは「否」と宣告する。
神の裁きは全き真理に従って行われる、と2節で言っている。日本語では「神の裁きが正しいことを知っている」と訳されているが、正しくは「神の裁きは真理の基準に従って行われる」というのがこの文の原語の意味である。「真理」という言葉がギリシャ語原文にはある。そして、「真理に従う」とは、「正しい裁き」というよりも、「客観的な真理という基準に従った裁き」ということなのだ。客観的で絶対的な真理という正しさの基準がある。神が裁きを行なう時、決してその真理の基準において妥協したりはしない、ということをパウロは言っているのである。
皆さんが西洋の芸術を鑑賞する時に見たことがあるかもしれないが、目隠しした女神が剣を持っている像がある。それは「正しさの女神」と呼ばれる。裁く時に、正しい基準に従って裁きを行ない、相手が誰であっても差別はないということを表している。裁きは、人間を見て考えるのではなくて、正しさの基準に従ってのみ行われる。それ故、裁きは厳格でなければならない。よくアメリカの裁判官や法廷に裁きの厳正さを誉めるような絵や像があったりする。そのように西洋の歴史には、裁く時に妥協は許されず、裁きは正しく厳しく行なわなければならないという伝統がある。その伝統は千年近くも続いている。1215年に、王も法の下にあって裁かれることを定めたマグナ=カルタ大憲章が制定された。正しさの基準は、たとえ王であってもこれを破ってはならない。もちろん大統領であっても、法を破ってはならないのだ。嘘や偽証を法廷で語ったとすれば、どのような事について嘘をついたかとか逃げられるか逃げられないとかいうことではなくなる。裁きをする場合には、大変厳しい裁きを行なわなければならないという考え方は昔から西洋にあった。
裁きは、「真実」という絶対的な基準に従って行われなければならない。神の裁きはそのような裁きである。そして実際に、モーセの律法の中では、人間の裁判官は神が裁くように厳正なる正しさをもって裁かなければならないことが定められている。それで、パウロの手紙を読むローマの人たちにも当然その事は解っていた。ローマ帝国の人々にその事がぜんぜん解らなかった筈はない。ローマ帝国の強さはその「法」にあったと言われている。法はローマ帝国元老院で公布され、全市民がこれを守らなければならなかった。法を厳しく守り、厳しく裁判を行なう。ローマ帝国はそれを厳しく行なっていた。使徒行伝を見ればわかるが、ユダヤ人たちは何度もパウロを捕らえて殺そうとするが、いつもパウロを守ったのはローマ帝国側の人々であったのだ。ユダヤ人の圧力を恐れずに、ローマの市民権を持つパウロを何度も守った。ポンテオ・ピラトは、あまりにも大変な政治的問題に発展するのを恐れて、妥協してしまったが、それはむしろ例外的なことであった。ローマ帝国は法においては基本的には妥協しなかったからである。
文化的に言えば、昔の諸文化の中で、ローマ帝国はその点では比較的に強かったと言える。誰もが守るべき基準が公けに定められていて、常にそれに従って裁きは行なわれる。その事を考えても、義なる神の正しさの基準、その絶対的な真理の基準というものがどんなに深いかがよく解るはずである。「それによって裁かれるならば、もう自分はおしまいだ」ということは、いくら道徳的に高い人間であっても悟る筈である。すべての行為、すべての思い、すべての動機、口から発せられたすべての言葉などが、唯一絶対なる神の義なる基準の前に置かれて、完全に裁かれるのである。それ故、パウロは、「1章のリストにあるような人々を裁きながら、自分も同じことを行なっている者よ、あなたは神の裁きを免れるとでも思うのか。逃げられると思っているのか。あなたも同じように裁かれるのだ。目を開きなさい」ということを、その道徳的に高いと自負している人たちに向かって言っている。それはユダヤ人であっても異邦人であっても変わらない。しかし、ここでは特に異邦人に対して語っているのではないかと思われる。
それ故、道徳的な人間がどのような意味で、自分が裁いているのと同じ罪を犯していると言えるのかというと、三つのポイントを心に留めなければならない。
第一に、道徳的に高いと思われている多くの者たちもさほど道徳的ではないということである。理解を深めるためにもう少し例を挙げておこう。ジャン・ジャック・ルソーは、「親たる者は如何に子供たちを育てるべきか」について多くのものを書いて当時の習慣を非難した。その彼自身はどうなのかというと、妾がいて、その妾が子供を産むとすぐに彼らを施設に送り込んで、それっきりで一切顧みなかった。自分の子供を育てもせずに捨てたのである。また、歴史の重大な問いに対して道徳的裁きを正当に下す傑出した歴史家であるポール・ジョンソンも、彼には妾がいることが最近発覚した。そのようなリストを作ろうとすれば際限なく続く。まさしく人間は罪人であって、他人を裁きながら自分も文字通り同じ罪を犯していることが少なくないのは紛れもない現実である。
第二に、道徳的人間と非道徳的人間の違いは何なのかというと、しばしば道徳的な人間によってそれは頻度の問題だと思われている。道徳的な人間は、自分も嘘をついたことがあることは認める。「不道徳な人間は、頻繁に、しかも十分な理由もなしに嘘をつくが、自分はめったに嘘をついたこともなく、状況からしてどうしても必要な時だけ止むを得ずそうしたのだ」と言うのである。
第三に、私たちの主は、心の中の罪が極度に深刻なものであると教えている。人が理由もなしに誰かを憎む時、またむさぼる時、その人は殺人や窃盗の罪を心の中で犯しているのだとキリストは教えている。キリストは、罪について考えることと実際にそれを犯すこととの間に違いがあると教えてはいない。心の中で罪を犯す者は誰であれ、神の御前で罪人であって、その“心の行ない”によって裁かれる、と教えておられるのだ。心の中で殺人を犯すことは、その罪をあからさまに犯すことよりは遥かに深刻さにおいては劣るにしても、殺人の一形態であるという点では全く同じ罪なのである。
これら三つのポイントを心に留める時、この世におけるほとんどの道徳的人間はこのパウロの非難の下に倒れる他ないのは明らである――もし他人を裁く前にまず自分自身の罪を悔い改めないならば。既に話したように、世の中には心の中で罪を犯したことがないほどに道徳的な人間は一人もいないのである。道徳的であればあるほど、自分自身の罪に対して敏感になるのだ。それらの罪を悔い改めてはいないかも知れないけれども、その罪を意識しているはずである。その道徳的意識が大きければ大きいほど、人を裁く自分の裁きの心の内にある特定の偽善をより深く意識するはずである。それで、その人は、自分の行ないについて何らかの理屈をもって正当化せずにはおれないのである。
しかしパウロは、道徳的な人間に対して、いかに曖昧であっても自分が既に感じているところの偽善を正面から突きつけている。自分自身を裁いて悔い改めない限り神の御怒りから逃れる道はないのだということが解るように、彼らを強いるのである。道徳的人間は、罪を是認する悪の伝道者(1章32節)のような自己破壊的な怪物ではない。けれども、自分が裁いているまさに同じ事柄について何らかの形で同罪を犯しているがために、神の御怒りの下にいるのである。
裁いてはならない
裁きを行なえば、結局それは自分を裁くことになる。これはクリスチャンにとって大切な原則である。この節だけ読んで、「それならば裁きを行なわないで、自分の罪だけを悔い改めるべきだ」と考えてしまったらそれこそ最悪だし、裁きを行なえば神の裁きを招くことになるので、動くこともできなくなって、どうしたらよいのかわからなくなりそうである。実際アメリカのリベラルなクリスチャンたちはそうなってしまっている。道徳的に高潔であると自負する偽善に対するパウロの非難があまりに激しいので、ある人たちは間違った考え方をしてしまう。「とにかく裁きを行なってはいけない」と考えてしまう。私も小さい時に何度も何度もそのように教えられた。
マタイの福音書7章1節からのところを見てみよう。「裁いてはいけません。裁かれないためです」と書いてある。これはキリストの山上の説教だが、パウロの言葉とよく似ている。裁いてはいけない。裁かれないためである。この1節は、繰り返し繰り返し多くの人々によって引用されているし、これを強調する本も読んだことがある。牧師たちも好んでこの箇所を使って説教しており、今でもアメリカではお互いの会話の中によく出てくる話題の一つである。しかし、この1節だけが強調されて、その後の箇所が無視されているのがほとんどである。話には前後関係というものがあり、文脈全体で理解すべきなので、続きをちゃんと読めば解ることである。
2節からは、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」とキリストは言っている。思い違いしてはならない。キリストは、「だから、自分の目から梁を取りのけなさい。兄弟の目のちりを取り除かなくてもよい。兄弟を裁かなくてもよい。すべての裁きを止めなさい」というふうに言ってはいないのである。しかし、ほとんどの人はそのように解釈してしまっている。自分の目の梁を取りのけるだけで話は終りなのだ。そして、「いかなる場合でも事の善し悪しを裁くのはすべて誤りである」と結論づける。キリストは決してそのように教えてはいないのである。
悔い改めと裁き
続く5節でキリストは、「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」と教えているのである。「兄弟の目からちりを取り除きなさい」というのがキリストの話の最後の結論なのだ。つまり、兄弟はお互いの罪を取り扱うべきなのである。「兄弟の目にちりがある」ならば、裁きは行なうべきなのである。兄弟の目からそれを取り除いてあげなければならない。けれども、「先ず自分の目から梁を取りのけなさい」というのがキリストの条件である。これは決して「すべての裁きを完全に止めなさい」という教えではない。自分の罪を厳しく裁きもせずに他人を裁こうとするのが罪人の普通の姿であり、それがローマ人への手紙の2章の問題なのだ。他の人を裁きながら自分を裁かない。
つまり、悔い改めないのである。自分の罪を先に裁くのでなければ、そしてまず自分が悔い改めるのでなければ、他の人の罪を裁く資格はない。自分の罪を厳しく裁かないならば、他の人の罪を裁く資格は、無いのである。相手のちりを梁として見て、自分の梁をちりとして見てしまうのも罪人の姿である。実は、神の御前で自分を見れば、自分の目には「ちり」なんかないことがよくわかる。他人から見ればちりに見えるし、ちりであるかも知れない。しかし、自分が神の御前に立って正直に自分を吟味する時、そこには「梁」しかないのである。しかも沢山の梁が見える筈である。先ずそれを厳しくはっきりと取り扱わなければならない。それが出発点である。それをした上で他の人の罪を見る時、自分の目にある梁と比べればちりに過ぎないその人の罪を正しく裁かなければならない、という意味も含まれると思う。
ここで話しているのは、「兄弟が殺人をしたらどうするか」というよう大それた話ではない。兄弟関係におけるごく日常の事柄について教えているのである。では、どのように裁くべきかというと、相手を出来るだけよく解釈して、自分の事を出来るだけ悪く解釈する。これが原則である。変に聞こえるかも知れないが、そうあるべきなのである。つまり、自分については、自分の心の深くまで全部知っているのだから甘く見る必要はない。他の人については、相手の心の深いところまで知っているわけではないし、知っているかのように考えるべきでもない。相手を、そういう意味で親切に裁くけれども、自分に対してはもう既に親切にしすぎているので、親切にする必要はない。そのように主イエス・キリストは教えているが、罪人、なかんずく自分を道徳的に高いと思っている罪人の場合は、それとは逆で、他の人に対して厳しく、自分に対して甘いという傾向がある。そして、自分の罪を本当に深く認めて、神の御前で悔い改めて、神の赦しを真剣に求めようとはしない。それが普通なのだ。だからキリストは「パリサイ人のような裁きをしてはならない」と、マタイの福音書7章で教えているのである。
いきなり「裁いてはいけない」と言われたら聞く者は驚いてしまう。だが、もしすべての裁きを止めるなら、社会は成り立たなくなるし、父と母は子供たちに何も教えることができなくなる。学校の試験でも、すべて満点をつけることしかできなくなる。裁かない社会は成り立たないのは明らかである。キリストの教えている意味は最後まで読めばはっきりわかる。「してはならない裁きとはどういう裁きなのか。どういう裁きを行なうべきなのか。正しい裁きとはどんなものなのか」を教えておられるのである。
正しい裁きは、まず自分の罪を悔い改めてからする裁きである。しかし、私たちは死ぬ日まで罪人なのだから、毎日を悔い改めながら生きなければならない。死ぬ日まで、私たちは罪について語り、罪を裁かなければならない。子供たちに正しさを教え、子供たちを叱責し、子供たちに罪を悔い改めて正しい道を歩むように教えなければならない。けれども、子供を教え裁く時、自分も実はこの子よりも良いわけではないことを大人は知っている筈である。子供を叱る度に、自分の方が痛みを覚えるものである。自分の目の梁、自分の罪を感じながらも子供たちを取り扱うのである。裁きを行なわなければならない時に、結局自分は裁きを行なうのに相応しくないということを認めなくてはならない。悔い改めながらも裁きを行なわなければならない。「そういうことならば、どうして裁きを行なうのか」と思うかも知れないが、これも神の御前で行なわなければならない事だからである。行なわなければ、それは罪に罪を上乗せすることになるのだ。
私たちはみな罪人だから、裁く資格なんかない。それは事実である。その事実を認めて、悔い改めなさい。ならば、裁きはどうするのか。裁きも行なわなければならない。裁きを行なわないならば、また罪を犯すことになる。行なうべきことは行なわなければならないのである。「悔い改めながら生きるのだから、大胆に裁いてはいけない」ということではない。心から悔い改めながら、しかも大胆にはっきりした裁きをも行なわなければだめなのである。人は神の似姿に造られているため、善悪の裁きは、人生の重要な部分を形成するのに不可避なものである。おかしな事に、「人は善悪の裁きを行なうべきであり、罪を取り扱うべきである」と言おうものなら、人を裁かない注解者たちは決まってそのように言う者に対して厳しい道徳的裁きを下すのである。事実、この世で最もよく人を裁く連中こそ「道徳的裁き」に対して反対する人々なのである。
ここに日本語に翻訳されたら素晴らしいのにと思う本が一冊ある。トーマス・バビントン・マコーレという歴史学者の本である。イギリスの歴史の本を多く執筆している学者で、彼の著書は非常に奇麗な英語で書かれている。彼は清教徒のことについて書いているが、その中で、「この人たちは自分自身の罪については涙を流して泣きながら悔い改め、神の御前にひれ伏して自分の罪の赦しを神に求める人々であった。神の御前では、非常に自分を低くして厳しく自分を裁いている。そこまで己を低くして悔い改めている人たちを目の当たりにする時、その姿が滑稽に思えるほどである。“女々しい”と思うほどである。しかし、その悔い改めの祈りを終えてそこから立ち上がると、正義の剣を抜いて王の首を取る大胆さが彼らにはある。いったい彼らはどういう人間なのか...」というようなことを実に巧みな文章で書いている。
自分を裁く時は、恐れおののいて、己を低くし、涙を流して神の御前にひれ伏す。しかし、罪を悔い改めてから、立ち上がって社会に出て戦う時には、どうしようもなく強く立って絶対に妥協はしない。この清教徒によって、イギリスの絶対主義君主チャールズ一世は首を取られたのである。法を破り、イギリスを裏切り、偽りを語り、重税を課し、何度も何度も自分の国の指導者たちを騙し、最後には外国の軍を招いて自分の国と戦わせた。法はことごとく破られた。それ故、清教徒たちはその王を法廷に引きずり出して、法に従った正しい裁きをもってチャールズ一世の首を取ったのである。「このような事件は歴史上で非常に稀なことであって、めったに見ることのないことだ」、とトーマス・バビントン・マコーレはその著書の中で語っている。
実にその通りである。神の御前で、自分の罪をはっきりと悔い改めるならば、正しく歩む力が与えられる。繰り返し繰り返し自分の罪を悔い改めなければならないのは事実だけれども、心から悔い改めるならば、つまり、自分の目の中にある「梁」を真剣に取りのけるならば、「ちり」に対しても戦うことができるようになるのである。パウロがこのローマ人への手紙2章で話している道徳的に高い人間たちは、自分の罪を悔い改めないで他人を裁いている。自分の罪が永遠の地獄に相応しいと認めるのを拒みながら、他の人を罪に定めている。罪は裁かれなければならないことを明らかに知っていながら、自分の中にある罪は大目に見るのである。それ故、「彼らには弁解の余地はない」。
キリスト教の裁きは常に、まず、何よりも自分自身を裁かなければならないというものである。自分自身の罪に対する真剣な取り扱いは、私たちをへりくだらせ、他の人に対して憐れみ深くなるように教える。それはまた私たちに、罪に対する戦いに関する知恵をも備えさせ、それは他の人々にカウンセリングする際にも役に立つものとなる。そして最も重要なことに、それはクリスチャンがその全生活を悔い改めと信仰の精神をもって生きることを意味する。だから、神が大いなる御恵みによって私たちを救ってくださったこと、私たちの主であるキリスト・イエスとその十字架上の贖罪の御業によってのみ私たちは神の御前に立ち得るのだということを、決して忘れてはならない。
悔い改めの心をもって他の人の罪を裁くとき、私たちは彼らを断罪したり破壊するのではなく、彼らも悔い改めに導かれるように熱心に求めるものである。最終的裁きを人に宣告する神の地位にはないということを、私たちは深く認識すべきである。しかしながら、悔い改めは単なる言葉ではない。罪を続けるなら、あなたは罪の奴隷であり、それらは次第にあなたに滅びをもたらすことになる。正しい悔い改めの心をもって兄弟の罪をも裁かなければならないが、私たちが行なう裁きは神の御恵みによってのみ完成され得るものだということを忘れてはならない。それは、私たちの全生涯に及ぶ真剣な仕事なのである。
私たちが毎日の生活の中で、まず自分の罪を悔い改め、自分自身を裁く習慣を身に付けるために(心の深いところにその習慣を刻むために)、毎週聖餐式を行なうように神は命じてくださった。聖餐式を行なう時、私たちはまず自分を裁く。そして、「先ず」というだけでなく、最初から最後まで裁く相手は自分のみなのである。聖餐式の時に、「隣の人があの罪を悔い改めるように、主よ、どうか導いてください。彼に理解を与えてください」というふうに祈る筈はない。そのように祈っているならば、あなたは聖餐式を正しく受けてはいない。神の御前で私たちは自分の罪を吟味し、自分を裁いているはずである。自分の罪を取り扱う時に、軽く親切に取り扱っている筈はない。「100%捧げるはずなのに、私は99%しか捧げていない。そんな私をどうかお赦しください」というような悔い改めはない。心の中でどんなに重大な罪を犯しているかを、自分でよく知っている筈である。聖餐式の時に、自分の罪を神の御前で正直に告白して心から悔い改めて捨てるのである。
その裁きは、正しければ正しいほど、深ければ深いほど、厳しければ厳しいほど、私たちを成長させるものとなる。罪人なのだから失敗は続けてあるだろう。しかし、妥協するつもりでここで自分を裁くのではない。「今週も失敗しましたが、赦してください。来週もまた失敗するかも知れませんが、とにかく赦してください」という感じで悔い改める筈はないのである。その罪を憎み、その罪を自分の心から掴み出してゴミのように捨てるのである。「どうか神さま、赦してください。どうか神さま、私が二度とこの罪を犯さないように助け、守り、導いてください。私がこの罪から解放されるように、御霊が働いてくださいますように...」という祈りでなければ、自分の罪を裁いているのではなくて、その罪を己が友とするようなことになる。友達と喧嘩したりするが、すぐまた仲直りするようなものだ。そんな感じで罪を取り扱っているのか。それは悔い改めではない。それは裁くことではない。本当の裁きは、心からその罪を掴んで取り出し、捨てて、「どうか神さま、二度とこの罪を犯さないように私を助けてください」と祈り求めるものである。本当に自分の罪を裁く者は救われる。それが福音である。本当に自分の罪を悔い改める者は救われる。主イエス・キリストの十字架の働きによって私たちの罪は完全に取り除かれている。
しかし、思い違いをしてはいけない。聖餐式を受ける時、自分の罪を裁くことが第一なのではない。順番として罪を取り扱うことが最初に来るかもしれないが、一番大切なことは、神の愛と神の御恵みを覚えることである。聖餐式は自分の罪を瞑想するための時ではない。神の恵みを覚えて感謝する時である。感謝をもって神との契約を新たにする時である。罪を悔い改めて、罪を捨てて、神の御恵みに対する感謝の心をもって、一緒に聖餐式を受けたい。
――1998年9月13日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com