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    ローマ人への手紙3章13節〜14節


    3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」 「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

    98.11.29. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


     

    罪人の舌

    3章13〜14節

    13「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」 「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」14「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

       先週指摘したように、パウロは人間の罪についての解説を三つの段階(10〜12節、13〜14節、15〜18節)に分けて並べられた一連の引用句にまとめている。今日はその第二段階について考えたい。この第二段階は広い神学的テーマをも指し示しているが、話は舌の罪に集中している。パウロが敵のそしりにひどく悩まされたダビデの言葉を選んで引用したのは偶然ではないし、エデンの園における“そしる者”(ギリシャ語では「悪魔」の意味)の元祖にまで遡って指摘しているそのダビデの詩篇から引用したのもまた偶然ではない。

     

    言葉の戦い

       3章で最も強調されているのがこの「言葉の罪」である。1章でパウロは、罪について話している時に偶像礼拝の問題から話を展開しているが、偶像礼拝から出てきた問題は実にさまざまであった。1章にある暴力の問題や性的な罪の問題などはすべて偶像礼拝がその源であったことを見た。この3章で人間の罪について話すとき、「悟りがない。善を行なわない」という本質的な問題について取り扱った。続いて足とか目とか、からだの色々な部分を指して話している。その中では言葉の罪が最も強調されていて、喉、舌、くちびる、口によってその罪は表現されている。考えてみれば当然なことであり、パウロが舌の罪にこれほどの強調を置くのは実に適切なことである。というのは、神に対する罪は神の御神格そのものに向けられているのであって、神は「ことば」なる神であられるからだ。

       御父はことばを語り、主イエス・キリストは「ことば」と呼ばれ(ヨハネ福音書1章1節)、御霊はことばを伝える息吹である。そのような比喩をもって三位一体なる神を考えることができる。このように、言葉とコミュニケーションは神の本性において根本的なものであり、人間は神の似姿であるため、人間にとっても根本的なものなのである。従って、人間が罪に満ちた心を持つということは、言葉を歪曲し、神に対する恐れ無しに言葉を用いることを意味している。それとは対照的に、救いとは、私たちの言葉の使い方が必然的に「ことばなる神」であられる御方に似たものとなるように変えられるということである。「主イエス・キリストは神のことばである」というとき、この「ことば」にはいのちの力があることを意味している(ヨハネの福音書1章4節)。この「ことば」には永遠のいのちの力がある。「ことば」によって人間は支えられる。

       イスラエルが荒野を旅した40年間、神はイスラエルを守って食べ物を与え、その着物はすり切れず、足は腫れなかった(申命記8章4節)。それは何を学ぶためだったのかというと、「人間は神の口から出る一つ一つのことばによって生きるものだ」ということを学ぶためだったのだ。人間は神の命令を守って生きるものである。40年間の荒野での訓練によって教えようとした重要なことの一つは、「神のことばに依り頼んで生きる」ということであった。食べ物に依存するのではない。人間の力に依るのでもない。神の御言葉に依り頼んで生きることを神はイスラエルに教えてくださった。

       主イエス・キリスト御自身が神の御言葉である。主イエス・キリストが教えておられるように、キリスト御自身は神が与えてくださった天からのマナ(いのちのパン)なのである(ヨハネの福音書6章35以下)。キリストは「ことば」であり、「永遠のいのち」であられる。主イエス・キリストが、私たちに、ことばを通して、永遠のいのちを与えてくださるのだ(ヨハネの福音書6章50〜51節)。言葉による交わりは神の似姿である人間にとって実に根本的なものである。人がこの世を支配(ドミニオン)するために用いた最初の“道具”は言葉であった(創世記2章19節)。そして、今日に至るまで、言葉の能力は、人間の他者との関係またこの世界との関係において、他のいかなる能力よりも重要なものなのである。それで、言葉を正しく持つことは最高の祝福であり、言葉を悪く使うならば、それは最悪の影響をもたらすものにも成り得るのである。

       主イエス・キリストとサタンとの闘いは、まず第一に言葉の闘いである。サタンはアダムとエバに現われたときに蛇として現われた。このローマ人への手紙3章で人間の罪について話すとき、ある意味で「人間の口はサタン的である」と言っているようなものである。「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの舌には、まむしの毒がある」と書いてある。「」とは「死」を意味する。「欺く」とは勿論「偽り」のことである。「まむし」は「蛇」のことである。これらはすべて創世記3章の箇所を指しているものでもあると思う。同時に、パウロはここでダビデの言葉を引用しているので、ダビデの言葉を通してこの箇所を考えなければならない。

       話をサタンのところに戻すが、サタンが蛇として現わされるとき、本当はアダムとエバの下にあるものとして現わされているのである。アダムとエバは動物の上にあって支配すべき立場にあった。人間は動物を正しく支配するものとして創造された。だから、アダムとエバは蛇を見ても特に恐れることはなかった。蛇はどのようにアダムとエバを攻撃するかというと、言葉を話すことによって攻撃する。

       蛇という言葉は「竜」とも訳されている。現代人がサタンを連想するときには、ホーラー映画のようなかんじでサタンのことを考えたりする。恐ろしい血にまみれた“エイリアン”のような怪物を連想したりする。見るからに恐ろしいトラノザウルスを何十倍にも拡大したような怪物にして、迫ってきて牙をむき出しにした口を開いて「こんにちわ」と囁きかけるようなサタンを想像するが、聖書の中のサタンはそのようなものではない。現われたとき怖いとも思わないで、むしろ美しいとさえ思うものである。昔の蛇の姿形がどうであったかわからないが、今でも色や縞が実に奇麗な蛇がいる。エデンの園では蛇を見ても怖いものではなかった。今とはかなり違うものであったのは明らかである。今なら、たいていの女性は蛇を見ると叫ぶだろう。しかしエデンの園の中ではそうではなかった。見て美しいと思う存在であった。美しい蛇には輝きがあり、色も美しく、「生きた宝石」と形容されるほどである。

       とにかくアダムとエバは怖いとは思わなかった。そのサタンである蛇は言葉を語った。悪魔はエデンの園で、言葉をもってその巧妙さを表わした。「神はほんとうにそのように言ったんですか」と誘う。エバは「はい。神はこう言われました」と答えた。するとサタンは「あなたがたは決して死なない。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」とエバに言う。つまり「ここに神の目的があるのだ」と言っているのである。その時以来、“蛇”の子孫は神と神の民に対するそしりを続けている。

       この創世記3章と歴史全体においてサタンのそしりと偽りの原則は明確に表わされている。サタンのそしりには少なくとも三つの基本原則がある。第一に、サタンは「....と神は、ほんとうに言われたのですか」という類いのことを言って神の御言葉を攻撃する。第二に、サタンは「あなたがたは決して死にません」と言って、大胆に嘘をつく。第三に「....ことを神は知っているのです」と、神の動機をそしることによって神への信頼を崩すのである。

       第一の原則は、「神の御言葉を否定する」という原則である。この第一の原則はあまりにも明らかなのでよく知られているものである。サタンは想像し得るかぎりのあらゆる手法をもって聖書の教理を攻撃する。聖書の神についての教理の代わりに多神教及び厳格な一神教(単一神礼拝)の両方を差し出す。そして、聖書の天国についての教理の代わりには異教のパラダイス、輪廻、そしてただただ墓の中で朽ち果てるものだというヒューマニズムの終末論を差し出すのである。聖書の権威に対しては、全くの懐疑主義と部分的全知の専門家を差し出す。そのようなサタンのメニューは延々と続くのである。

       しかし、サタンがエバに偽りを語った時の原則は、先ず「偽りを語る時には大胆に語る」という第二の原則であった。これは実にサタン的な原則であり、サタンは好んでこの原則をもって攻撃するものだということを知らなければならない。例えば、旧ソビエト連邦が実にサタン的な帝国であったことは誰もが知るところである。ソビエトは、どんな事であれ、目的を果たすためなら大胆に大きな大きな嘘を平気で語った。それがソビエト連邦のやり方であった。「偽りを言うのであれば、大胆に言え」という大原則があるのだ。先日NHKのドキュメンタリーでソ連の記念パレードの番組があったのを見た人もいると思うが、巨大なミサイル等を行進させて全世界に放映する。そのミサイルの中身はなんと空っぽであったのだ。それは武器でも何でもない全くの偽物であって世界を騙すための小道具であった。それをいかにも世界で最先端の新兵器であるかのように演じて見せるのである。そのパレードは大方嘘でこり固まった見世物であった。

       アメリカよりも軍事的な力はなかったのに、大きな偽りを大胆にはっきり伝えることによって人々に恐れを与え、信じさせ、ソビエトには圧倒的な軍事力があると思わせるための演出であった。彼らは実に偽りを言うのに長けていた。レーニンもスターリンも多くの事について大胆に偽りのラッパを吹くことに長けていた。時の英首相ウィンストン・チャーチルも米大統領ルーズベルトもスターリンによる虐殺の事実をよく知っていたにもかかわらず、スターリンが「これはドイツの仕業だ」と大胆に叫んで人々を信じ込ませようとするのを黙認した。ドイツの犯罪を非難する共同声明文にもスターリンはその嘘を書き加えたが、チャーチルもルーズベルトも嘘と知りつつ、ソ連と問題を起こしたくなかったのでその大嘘を認めて署名したのである。アダムとエバに対してサタンは「あなたがたは決して死なない」と言う。「神に逆らっても大丈夫ですよ」という真っ赤な偽りをサタンははっきりと言うのである。だから、「偽りを大胆に徹底して言う」というのがサタンのそしりの第二の原則である。

       しかし、真理に対するサタンの攻撃の始めは、聖書の創造の教理の拒絶である。現代世界におけるサタンの一番大胆で大きな偽りは何かというと、それはまさしく“進化論”である。進化論は明らかな嘘である。実にばかげた話なのだ。完全にばかげた滑稽な話であるのに、全世界が信じるほどの最も根本的な“信仰”になってしまっている。“進化論”というサタンの偽りは、神の現実世界との関りに異議を唱える世界観全体の根拠となっている。他のすべての学問が進化論に基づいてなされているのである。歴史について語る時に、進化論に従ってすべての歴史のことを教えている。人間の心理について話す時にも進化論に従って人間のことを教えている。生物学もすべて進化論に従って教える。他の科学もすべて進化論に基づいて教えられている。宇宙の研究についても、「これによって人間の起源の謎を解明することができるかも知れない」と言ったりする。今月も、獅子座流星群が現われた時に、「この流星群の研究によって宇宙の起源が解明されるかもしれない」と報道されたりした。

       何でもかんでも、すべてが進化論に基づいて考えられており、進化論に結び付けて考える。そうすることによって、「神無しの世界観」を持つことができるわけである。神無しの宇宙観を持つことができる。中絶の話をするにしても進化論に戻って話す。結婚についての考え方も進化論に戻る。すべてはそこに戻ってしまう。それが現代の“大胆な嘘”である。だから、今のアメリカの中にはクリスチャンとノンクリスチャンとのいろいろな闘いがあるけれども、ある意味でそれらはすべて進化論が生みだした闘いだと言っても過言ではない。大胆な、大きな、はっきりした偽りを徹底して言う。それによって全世界をだめにしようとするサタンの働きというものが実際にあるわけだ。フェミニズムの考えなども全部進化論に基づいている。進化論を取り除いてしまえば、そのすべては成り立たなくなってしまうものなのだ。

       神は、初めに二人の人間を創造し、二人は結婚によって夫婦となり、そこから人類は始まっている。進化論がなければ、結婚の意味も明らかになってしまう。人間社会はどういう根拠に基づいて存在しているのかなども全部明らかになってしまうのである。とにかく「聖書の神の創造」を取り除かなければ、クリスチャンではない人たちの考え方は何一つ成り立たなくなってしまうので、仏教さえも進化論的な考え方を受け入れる。仏教のは化学的進化論ではなくて、宗教的進化論であるけれども、昔から仏教は進化論的な考え方をしていた。ギリシャのアリストテレスとかソクラテスとかプラトンの哲学も進化論的な考え方であった。昔の中国の考え方も進化論的であった。創造主を取り除かなければ、神に対する反逆は成り立たないからである。

       それだから、思想における最も大きな闘いは進化論という大胆な偽りにある。真の進化論者にとっては、たとえ何かの神を信じる信仰的要素が許容される場合でも、聖書の神に対する信仰だけは絶対に許容できないのである。彼らにとって唯一許容される信仰とは、心理学的な信仰、セラピー(治療)としての信仰なのだ。「万物を創造され、その完全な御旨に従って万物を支配しておられる主権なる神」という概念は、ダーウィンの教えにおいて最初から除外されている。彼らにとっては宗教、そして神自体、それは人間の必要に役立つために人間によって創造されたものなのである。「人間が更に高い状態に進化するとき、これらの原始的な概念はもはや不要となるだろう.....」と、信じるのである。だから、偽りを言う時、サタンは実に大胆に語る。「大きな偽りを大胆に継続的に語ることによって勝つ」という原則を貫いている。ソビエトの歴史においてそのような偽りは頻繁に繰り返されていたし、クリントンのケースもまさにそのようなものである。「はっきり大胆に嘘を言うと、それは通ってしまう」と彼らは思っている。それはサタン的な考え方の主な原則の一つである。

       神に対する言葉による攻撃のもう一つのサタン的な原則がある。それは、先に第三の原則としてあげたものだが、「神の動機を疑うように誘う」という原則である。神の動機に対するサタンの攻撃は「悪の問題による反対論」と呼ばれる議論によって表わされている。サタンは、アダムとエバが神の動機を疑うように話をする。つまり、「神がその命令を与えたのは、あなたがたが神のような者になることを恐れているからなのだ」と言って惑わす。つまり「神は何を命令したのか」ということについては攻撃せずに、「なぜ命令したのか」についてそしるのである。「なぜそうするのか。なぜそんな意見を持っているのか。なぜ神はそんなことを言うのか。なぜ神はそのように話すのか」というやり方で攻撃する。

       神の動機を疑わせることに成功すれば、すべてを崩すことができるからだ。「神はケチな御方だから、その命令を与えた動機はあなたをだめにするためなのだ」と考えれば、もう何も成り立たないことになる。だから、サタンはそこに攻撃をしかけて、神に対するアダムとエバの信仰を崩すのである。神の動機を悪いものに思わせるのである。アダムとエバがその見方を呑み込んでしまえば、神が何を教えるにしても、もう神に信頼して神を信じて神に従っていくことは出来なくなる。だから、神の動機を疑うようにサタンは話す。そのことをサタンは実に巧みに行なう。それ故、「蛇は狡猾」とか「蛇は鋭い」とか言われるわけである。

       これも同じようにクリスチャンではない人たちの教えにおいて今日も実際に用いられている原則である。辨証論の話で一番よく出てくる問題はどんなものかというと、神の動機を攻撃することである。昔からある攻撃の一つとして、ヨブ記に対する攻撃がある。これはクリスチャンではない人々の議論の中でよく出てくるものである。ヨブ記を数年前に研究所で勉強した時にも話したことだが、リベラルの牧師のヨブ記の解釈は、神に対する攻撃のような解釈になってしまう。「このようにサタンがヨブを苦しめるようなことを神さまが許すとは考えられない。こんな悪い神さまはいったい何なのか」というふうに考えたり感じたりしてしまう。最終的には神を攻撃し、神の動機を攻撃するような解釈になってしまうものである。ウィリー・アーレンという有名な、そして実に程度の低いどうしようもないアメリカのコメディアンがいる。この人はある雑誌の中にヨブ記に関する記事を掲載して「ヨブ記の中の神こそサタンである」というようなことを書いている。ヨブ記について、「このような神はサタンだ。このようにサタンを利用したりする神こそサタンだ。こんなやり方は実にどうにもならない。実にひどい事だ」といって、非常に巧みに筆をふるっているのである。そのようにして神の動機を攻撃するのである。

       カルヴァニズムに対する攻撃もよく行われている。「カルヴァニズムこそサタン的な考え方だ」と彼らは非難する。つまり、彼らが攻撃しているのは「神の主権」なのだ。実は、ウェスレーもある説教の中で「カルヴァニズムの予定論の考え方こそサタン的な考え方だ」と言っていた。神の主権を攻撃するということはよくよく出てくる問題である。そして、神の主権を攻撃する時には「悪の問題」を利用して攻撃するのが常である。これは二十世紀のクリスチャンではない人たちがキリスト教に反対するための議論としてもよく使われる手法である。

       「悪の問題」とは、つまり、もし神がすべての力を持っておられるというなら、そして、もし神が愛なる神であるならば、なぜこの世の中に悪が存在するのか。神が全能であるなら、悪を取り除くことができるはずではないか。神が愛なる神であれば、悪を取り除きたいと思う筈だ。しかし、この世には多くの悪がはびこっているではないか。従って「神は愛ではない」と結論するか、さもなければ「神には力はない」ということになるのではないか。「そのどっちかだ」ということになるのではないか。いずれにしても、それによって彼らは「キリスト教の神は存在しないのだ」という結論を導き出そうとする。

       これは昔からキリスト教を攻撃する無神論者たちによって用いられたお決まりの非難である。これは理に適った議論ではなく、単に神に対する巧妙な中傷に過ぎない。なぜなら、それは(あたかも無限なる神を裁くことのできるデータが人間の手の中にあるかのように)、「人間は神を裁くことができる」ことを前提とする議論だからである。しかし、そのようなものは人間の手の内にはないのである。私たち人間には推し測ることのできない善き理由によって神が悪を許容するならば、どうなるのか。

       「聖書の神を信じる」ということは、私たちのあらゆる研究の大前提として、その神の善と愛に信頼することを意味している。神に対するサタンの議論は「神が何をしてよいのか何をしてはならないのかを人間が決める」と決め込んでいる議論である。それは、「人間の理知がすべての問題を解決できる」という前提で始まっている。このことは福音研究所の弁証法のクラスでも学んだことだが、彼らは実にさまざまな言い方で神を攻撃する。「この世はこんなに苦しんでいる。こんなに多くの問題があるのだから、愛なる神がすべてを支配しているのではない」とはよく聞く話である。結局のところ「神は愛なる神ではない。神なんかいないのだ」と言いたいのだ。

       インターネットのEメールにもクリスチャンではない人たちからそのようなメールが入って来る。「愛なる神なら、どうしてこんなことを許すのか」と叫ぶ彼らは、なぜか自分の責任についてはあまり深く考えていない。以前にも話した事だが、第二次世界大戦のナチ・ドイツのアウシュビッツ収容所のドキュメンタリーを見たある人は「もう私は神を信じることはできない」と吐き捨てるように言った。それを聞いたもうひとりの人は「私は、この事を見て、もう人間を信じることはできない」と応答した。つまり、これは「どこに責任があるのか」という問題なのだ。責任の捉え方が根本的に違うということなのである。

       彼らは、神御自身を疑うようにサタン的な言葉をもって人々を教えている。実際に私自身、1960年代に大学で学んでいた頃、最初の文学のクラスで教えていた若い教授が毎回の授業で執拗にキリスト教を攻撃していた。なぜそうするのか、その時の私にはまったくわからなかった。その当時の私は聖書を信じてもいなかったし、キリスト教がどうのこうのということが何故そんなに重要なのかを気にしてもいなかった。その教授の方が私よりもよっぽどわかっていた。それにしても強烈に彼は何でもかんでも聖書の神をバカにするのである。主イエス・キリストが湖の上を歩かれたという奇跡を、クリスチャンではない人たちはバカにする。主イエス・キリストがカナの婚礼で水を葡萄酒に変えた奇跡をも、クリスチャンでない人たちはバカにする。主イエス・キリストが十字架上で死んでくださったことを嘲笑し、復活をもバカにする。

       私はあまりテレビを見ないのに、日本のテレビ番組でキリストの十字架を笑いものにする番組を何度も見たことがある。誰かが十字架にかけられるシーン等でキリストの十字架をバカにするのを何回も見たことがある。毎回見る時に驚かされる。なぜ、この日本でこんな事をするのか。別にキリストを信じてもいないし、意味も解っていないのに、なぜそれをバカにするのか。しかし、キリストの十字架、復活、そしてキリストの教えをよってたかってバカにするのである。実際に直接に神を攻撃して神をバカにするのだ。神の命令、神の御言葉をバカにし、神に従う者を笑いものにするのである。そのように、サタンは、言葉を使って神に対して攻撃し、私たちに対して戦いを挑むのである。それがサタンの戦い方である。

       歴史の中におけるサタンとキリストとの戦いは創世記3章のところから始まるが、すべてが言葉による戦いなのだ。歴史そのものが言葉の戦いであるから、当然クリスチャンの教育の中心は「ことば」にある。クリスチャンの教育の働きの中には、子供たちに神の御言葉の真理をよく教え込み、サタン的偽りに対して彼らが充分に戦うことができるように武装させることが含まれる。私たちが子供たちの教育を非キリスト者に委ねる時、子供たちは真理を本当に知る機会を持つ以前に悪魔の偽りとそしりによって混乱させられてしまうであろう。それは取り返しのつかない悲劇に終わるしかない。勿論数学は良いものであり、場合によっては極めて大切な学問であって勉強しなければならないものである。科学も大切である。しかし、言葉の勉強こそ一番の中心である。御言葉そのものをよく読み学ぶことがどんなに大切かをよくよく認識しなければならない。

       言葉の勉強とは、十数カ国語を話せるようになるということではなく、神の御言葉を心に刻み、それを正しく使って大人として考え、識別力をもって自分の言うべきことを言うべき言い方で、言うべき時に、正しい態度をもって伝えることを熱心に求めることなのだ。御言葉を中心にして言葉を最も大切なものとしてクリスチャンの教育をすること以上に大切なことはない。神が私たちに聖書という大いなる書物を与えてくださった。その御言葉を毎日々々読んで神の御言葉を心に刻むように命じられている(申命記6章)が、私たちは神の御言葉に支えられ、神の御言葉によっていのちが与えられているのである。家庭礼拝と家庭の教えの場において、子供たちに正しい世界観を与えるのに十分な深さをもつ聖書の教えの教授は不可欠である。これは親たちに対して神ご自身が命じておられることである。

       私たちは、神の御言葉をもって戦わなければならない。この原則がどこまで大きな原則なのかは、主イエス・キリスト御自身とサタンとの戦いにおいてはっきりと見ることができる。マタイの福音書4章とルカの福音書4章にそれは記されている。サタンはキリストに誘惑を与えるが、それも言葉によるものであった。サタンがキリストに現われた時、大きな恐ろしい怪物として現われて剣を手に叫びながら走ってきて殺そうとするかのような、相手を恐れさせるような姿で現われはしなかった。ただ言葉をしゃべっただけである。言葉だけの戦いであった。言葉の方が剣よりもどれほど力があることか。主イエス・キリストにサタンは誘惑の言葉を語るが、キリストは御言葉だけで答えている。毎回、御言葉のみを引用して答えておられる。

       自分の言葉で答える権威を持つ者がいるとすれば、それはキリストのみである。しかし、もし主イエス・キリストがこの時に自分の言葉で応答したとすれば、人々の間では「キリストだからそれができるけれども、私たちにはそんなことはできない」というような話になってしまうであろう。キリストが何を語ってもそれは「御言葉」になる。キリストの言葉は御言葉そのものであるからだ。しかし、主イエス・キリストは私たちと同じような武器をもってサタンと戦ってくれた。キリストは人類の代表として、新しいアダムとしてサタンと戦っておられたのである。「サタンと戦っている時には神の御言葉をもって戦わなければならない」ということを私たちに模範として教えるためでもある。「歴史全体は、キリストとサタンとの言葉による戦いである」と言うときに、私たちは、御言葉を主イエス・キリストのように心に刻んで御言葉をもって戦うことができなければだめなのだ。

       実際にこの世の中では、テレビを見ても、新聞を読んでも、人と話しても、本を読んでも、どこからでも主イエス・キリストに対する攻撃の言葉はどんどんどんどん入って来る。直接的な攻撃はあからさまですぐに気が付くが、それでも心は動揺し、混乱させられたりする。しかし、サタンの最も巧みな攻撃は西部映画の名作「駅馬車」のような映画に出てくる類のものである。神に対しての直接な冒涜は出てこない。しかし、映画の中に出てくる悪者はみな教会に行っているクリスチャンで、良い人たちはというと刑務所から脱獄して来たジョン・ウェインと売春婦の女性で、二人はいかにも“クリスチャンらしい”善人として描かれている。映画の中のクリスチャンたちはみな偽善者で、中でも盗人と意地悪な婆さんの二人がクリスチャンの代表格になっている。

       テレビ番組も、神を疑うように、或は神から離れてすべてを考えるように誘導する番組で満ちている。ニュース番組でさえ例外ではないのだ。ほとんどが神無しの世界である。新聞も、小説も、そのほとんどは神無しの世界である。そういう意味で、ドストエフスキーのような小説を読むことには意味があると言えよう。そのように神無しの世界を直接攻撃して、神無しの世界がどんなに狂ってしまうかを暴いて見せ、人々が神を信じるように導く小説もある。それらは文学的にも優れたものであり、読む価値のある小説である。

       とにかく、「戦いは言葉にある」という認識を深く持たなければだめである。そこで私たちは、言葉の戦いはどこから始まるのか、言葉の戦いで一番激しくなる所はどこなのか、言葉の戦いで最も大切な戦いはどこにあるのかを知らなければならない。その戦いはまず自分の心の中にある。外から入ってくる言葉との戦いの以前に、まず自分の心の中に言葉の戦いというものがある。つまり、自分の思いを正しく支配し、正しく神に従わせ、正しく神の御国を求める戦いがある。これがヴァン・ティルの認識論の最も大切なところである。それは、すべての質問に答えることができるという約束ではない。この世の中には当然理解し尽くせないものはある。また、聖書に書かれたすべてを充分に深く理解できることでもない。よく学ぶならば、時間が経つにつれてもっとわかるようにはなるが、理解し尽くせるものではない。

       しかし、ヴァン・ティルの認識論の一番の根本は何なのかというと、それは「神を愛して、神の御言葉が語ったことを信頼して考える」ということなのだ。言い換えれば、「神を畏れる」という一言に尽きる。これは知識の始めであり、認識の始めである。「神を畏れる」とは、怖いとかではなくて、愛し、敬い、慕い、その偉大さを喜び、その神に信頼して心からの礼拝をささげることである。それが一番の原則なのだ。自分の心の思いを神の御前に立って吟味し、神を愛し神に信頼する者として自分の心の思いを整理しなければならない。ゴミをすてるべきである。ゴミをたくさん心の中に残すなら、そこにゴキブリが集まる。そのゴキブリはどんどん増える。そして、心の中はどうにもならない状態になる。そういうものなのだ。

       家も同じことである。ゴミを片づけて捨てなければならない。いつもいつもそれをしなければならない。さもないと臭気が漂い、足の踏み場もなくなり、どうしようもない状態になるのだ。家をきれいにするのと同じように、私たちは自分の心を整理すべきである。心の整理、思いの整理というものがどんなに大切かを知るべきである。そのことを主イエス・キリストはマタイの福音書12章33〜37節で私たちに教えておられる。

     

    33木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。34まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。35良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。36わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。37あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。

       言葉によって義と認められ、言葉によって罪に定められる。心が良ければ、口から良いものが出る。心が悪ければ、口から悪いものが出る。問題は心なのだ。「心を正しく神に向けさせなさい」ということをキリストは命じている。心をきよくすれば、口から出てくる言葉もきよくなる。心の中で、持つべきではない思いを持ったりすると、口から臭いものが出てくる。口から人々に害を与えるような言葉が出てくるようになり、神の栄光を表わす言葉は出てこない。人々に祝福を与えるような言葉は出てこない、ということになる。パウロは、人間の罪について語る時に言葉の罪を一番強調する。それは実に適切なことであり、実に大切なポイントである。この世の中でのサタンとキリストとの戦いは言葉による戦いだからである。その戦いは、まず私たちの心から始まる。

     

    ダビデの詩篇

       しかし、パウロはここでダビデのの詩篇を引用して語るのである。蛇の話をしたりしていることから、ダビデは創世記3章のことを指しているように思われる。その詩篇の中でダビデは特にサウルの時代やアブシャロムの時代の問題について祈っている。サウルの時代のダビデの問題は、サウルの軍がダビデを攻撃しているというようなことではなかった。問題は、ダビデをそしる者たちがサウロの近くにいるということであった。パウロが引用する詩篇(詩篇5篇9節、140篇3節、10篇7節)には、サウルとアブシャロムの時代にダビデに逆らったエドム人ドエグに関するダビデの祈りからの抜粋が含まれる。ダビデについて彼らは偽りを語り、ダビデを攻撃しようとしてサウル王の耳に偽りの言葉を入れる。サウルの側近のベニヤミン族の者たちがダビデを悪く言ってサウルのねたみを助長したりしたためにサウルはますますダビデを信頼しなくなっていった。それで、ダビデは若いうちに言葉の破壊力を学んだのである。サウルは最初の頃はダビデを信頼していたが、その信頼が崩されると、こんどはダビデを憎んで殺そうとした。ダビデとサウルの本当の問題は言葉からの問題だっのだと、ダビデ自身が詩篇の中で記している。

       アブシャロムの場合はもっとはっきりしていた。もっと罪深い言葉の破壊力を明らかに示すものであった。アブシャロムは町の門の所に立ち、ダビデは自分の王座に座っている。ダビデの所に誰も裁きのための問題を持っていかないようにアブシャロムは門で人々を待ち構えて惑わし、王の所に来るすべての人々の心を盗んだのである(第二サムエル記15章2節以下)。アブシャロムの話し方に注目すべきである。彼は自分こそ人々のことを心配しているようなふりをするが、実際には王と一緒に立って国の繁栄と問題の解決を求めてイスラエルの人たちと一緒に愛と平和を求めてはいない。アブシャロムの話し方は極めてサタン的なものであった。ダビデに逆らい、ダビデや他の指導者たちに対する信頼を壊そうとしてイスラエルの人々に語っているのである。問題があって、裁きのために王のところに来る者たちの心を盗もうとして成功する。

       ダビデの子、アブシャロムは革命を起こしたのである。そのためにイスラエルは内戦状態に陥ってしまった。そのことをダビデは詩篇の中で祈っている。ダビデにとっての最も大きな戦いは言葉のことであった。サウルの時代もアブシャロムの時代も、逆らう者らは偽りを語り、悪口を言い、ダビデの心の動機を疑わせるように語ることによってダビデを駄目にする。その両方の時ともダビデは殺されそうな状態になったのだ。そのような言葉の戦いがダビデの歴史に出てくる。従って、ダビデが言葉の破壊力について述べていることは、彼の最も辛い経験を通して彼が学んだ真理である。そのことを指してパウロは詩篇からの引用をしている。パウロはこのダビデをよく理解していた。なぜなら、パウロはその全生涯を異端や偽りの教えと戦うことに費やし、また、多くを宣教の働きにおける彼の動機を攻撃する者たちに対して弁護することに費やしたからである。

       しかしながら、神の御言葉の中で、サタンと主イエス・キリストとの戦いが言葉の戦いだと記されているということは、イスラエルという国家において、クリスチャンの家庭において、そして地域教会においても、その戦いがことごとく言葉の戦いだということを覚えなければならないことになる。その戦いが私たちの中にある。

       パウロの手紙を見れば、全部が言葉の戦いばかりである。ガラテヤの教会に手紙を書いたのは、ある人たちが福音の意味を曲げてガラテヤの教会に偽りを教えていたためにガラテヤの教会が駄目になっていたからである。コリント教会の場合は、ある人たちが異なる福音を伝え、違うキリストを伝え、違う御霊を伝えており、パウロの宣教の動機をも疑わせようとしてコリント教会の人々に話していたからである。それ故パウロは、コリントの教会に手紙を書く時に、自分は何なのかについて話さなければならなかった。自分を守らなければならなかったのである。なぜならば、サタンは神を攻撃する同じ手口でパウロをも攻撃するからである。

       これはずっと聖書の中に繰り返し出てくることである。これはエデンの園でのサタンの働きであり、ダビデの時代も、パウロの時代も、それは変わらない。サタンは同じ手口で私たちの中においても働いて、言葉によって私たちの家庭、そして地域教会をだめにしようとして常に働いているのである。言葉をもって神の働きをだめにする。私たちは気を付けないと、私たちは自分の語る言葉によってサタンに働きやすい状況を提供してしまうことにもなりかねないのだ。そういうわけで、舌の罪を非難することは、人間の罪深さのまさに核心部に触れることなのである。

     

    義認と舌

       サタンの攻撃に対して首尾よく戦うためには、クリスチャンは御言葉そのものを自分の心に刻まなければならない。私たちは自分の心の言葉だけではとても足りない。私たち自身の言葉でサタンと戦うことは愚かである。御言葉の権威に従わないで戦うことはできない。私たちは、自分の心の中での戦い、この世との戦い、いろいろな罪の問題との戦いにおいて、自分の言葉だけで戦うことができるものではないのである。自分の心を正しく保つためにも、他のすべてを正しく保つためにも、神の御言葉をもって戦わなければ絶対にだめになる。愚かなことをすることになる。私たちは皆そのことを経験しているはずである。自分の話す言葉によって、私たちは多くのものを失い、神の働きをだめにするものである。

       言葉は心にあることを表わすゆえに、語る一つひとつの無駄な言葉について私たちは裁きを受けることになる、とキリストは警告している(マタイの福音書12章33節以下)。もしも心が神の御前に正しく、神の民を愛しているのであれば、私たちの言葉は徳を高めるものとなるだろう。しかし、パリサイ人たちの悪い言葉は彼らの心の罪深さをただ表わすばかりである。

       ヤコブは、正しい言葉を語ることの難しさを私たちに思い起こさせてくれる。私たちはみな、多くの点で罪を犯すが、特に言葉においてそうである。自分の舌を制御できる者こそ真にきよめられたクリスチャンである。ヤコブの手紙3章1〜2節のところを見てほしい。

     

    私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

       自分の言葉を支配することができる人間こそ成長した人間である。自分の言葉を支配できない人間は未熟者である。教師はしゃべらなければならない。口で語らなければならないのだが、何を語るかというと、教師は御言葉を実際に教えなければならないのだ。御言葉を教え、御言葉に従ったカウンセリング等もいろいろやらなければならない。そのことにおいて教師が罪を多く犯すならば、それこそ大変なことになる。神に裁かれるからである。

       ところで、家庭のリーダー(家長)もみな教師であることを忘れてはならない。家庭の中では父と母は教師である。教会の中では長老たちが教師である。本当は、国のリーダーたちもある意味においては教師なのである。裁判官とか政治家もそうであるし、みな教師の責任を持つ者である。教会、家庭、国家において、リーダーたちは教師のような立場で責任を持つ者である。この者たちは厳しい裁きを受けることを知らなければならない。

       ヤコブはここで教会の中での教師になることについて「気を付けるように」と警告している。この警告は牧師である私にとっては実に恐るべきものである。すべての教師、そして教師になろうとする者は、このヤコブの言葉を真剣に受け止める必要がある。言葉において成長した人間こそ本当に成長した完全な人間だとヤコブは言っているが、実にその通りである。言葉を支配することができるならば、自分の心を支配することができる。私たちの心にあることはとにかく口から出てしまう。続く3〜18節でヤコブは更に次のように言っている。

     

    馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。

       ヤコブの手紙3章を今詳しく見ることはできないが、よく心を用いて考えなければならない。このヤコブの手紙3章は言葉の罪についてとても重要な箇所である。私たちはこの箇所の意味をしっかりと自分の心に刻む必要がある。パウロは、言葉の罪について話す時、サタンのこと、そしてダビデの時代の戦いのことをも表わしている。しかし、私たちは罪人なのだ。私たちが一番よく罪を犯すところは私たちの舌である。ここでヤコブはクリスチャンではない人々について話しているのではない。クリスチャンに対して話しているのだ。クリスチャンではない人たちに向かって話してはいない。私たちが一番多く罪を犯すのはこの舌である。一番気を付けなければならないところは舌である。舌に気を付けるためには、心に気を付けなければならないということもよくわかる筈である。心を正しく持って、平和、愛、神の栄光を、自分の舌をもって求めなければならない。それはサタンとキリストとの戦いにおいて、はっきりとキリストの側に立つということなのだ。ヤコブは続けて次のように警告する。

     

    しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

       この14節以下でヤコブは、「苦い言葉は上から来たものではない」と厳しく警告する。一方で、知恵は純真で、平和、寛容、温順であると言っている。義の種は平和をつくる人によって、平和のうちに蒔かれるのである。どうだろうか。これがクリスチャンの戦い方なのだ。私たちの戦いの目的は、敵を破壊することではなく、彼らの救いであるからだ。私たちは今、自分自身の栄光のためにではなく、主イエス・キリストの御名のために、そしてキリストの愛と御恵みを表わすために、この世を勝ち取ろうとしているのである。

       ある時、主イエス・キリストは弟子たちに自分が十字架にかからなければならないことについて話した。それを聞いたペテロは「そんなことはあってはいけない」とキリストに言う。そのペテロに対してキリストは「引き下がれ、サタン」と答えたのだ。そして「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたのである。つまり、その時のペテロの思いはこの世の思いであって神の御心に添った思いではなかったことが戒められたのである。主イエス・キリストは、愛する弟子ペテロに対してでさえ、そのような言い方をしなければならなかった。つまり、どんなにりっぱなクリスチャンであっても、口と舌で罪を犯してしまうものである。ついついペテロのように、サタンの側に立ってしまうようなことになったりする。キリストの側に立たせるためにキリストはペテロを厳しく叱った。叱られたペテロは叱責を受け入れてキリストに戻る。

       教会の言い伝えによると、ペテロは逆さに十字架に付けられて殉教したが、ペテロはキリストと同じ死に方をするのに自分は相応しくないと思ってそれを要求したからだという。その主イエス・キリストに直接逆らってしまったペテロのことを思えば、私たちも本当に心から神に従うつもりであっても、罪人は口と舌で神に逆らってしまいやすいものなのだということを痛感させられる。

       一番罪を犯すところは自分の心である。そして、二番目に一番罪を犯すところは、自分の家である。そこで一番多くをしゃべるからだ。私たちが罪人であることは何よりも自分が口にする言葉によってよく表わされるという事実を認めるのは苦しいけれども、それをはっきり認識して、素直に悔い改めて、言葉の戦いを自分の心の中から始めなければだめなのである。そのことを私たちは今パウロから教えられている。自分の心において、言葉の戦いの勝利を得ることができた時、実に大人のクリスチャンとなったと言えるのである。

       「心の中の言葉の勝利」という意味を誤解しないでほしい。「心を空にして言葉をなくし、それで悪い思いも何もなくなって自由になる」というのは仏教の考え方である。言葉において人間は罪を犯すのだから、どんどん言葉を無くそうというのは仏教の考えである。キリストは「ことば」なる神である。キリストに従う私たちは、祝福、平和、愛を建てあげる言葉を話すようにならなければならない。心の中に真の飢え渇きからくる祈りがあって、神の御言葉がその心に刻まれ、心に刻まれたその御言葉に従う思いを常に保つというところからそれは始まる。

       上からの知恵は御言葉を通して神から来るものである。私たちが自分の心を神の御言葉で満たしてはじめて、それは私たちの口から出て毎日の生活の中で表わされるものとなる。そのためには不断の努力と日々の御言葉の瞑想と祈りが要求されるのである。神の御言葉が宿っている人々は確かにサタンの偽りに勝利する。たとえ真理の勝利には時間がかかるとしても、それは確実なものであることを私たちは知っている。サタンの言葉は、それを聞く者たちだけでなく、それを語る者たちをも結局破壊してしまうものである。それ故、舌の罪に気を付けよう。

       聖餐式の時に、私たちは、ヤコブの手紙3章に書いてある通りのことを毎週思い出すものである。多くのことにおいて私たちは失敗をするものだ。つまり、罪を犯してしまう。そのことをヤコブは明かにしている。実にその通りなのだ。そして、最も多くの失敗をするのは舌の罪である。私たちは聖餐式の時に、自分の口と舌を、そして自分の心を、神の御名の栄光のために聖くして、神の御国のために語ることを誓うものである。神の栄光を表わすことを常に考え、御言葉を心に刻むことを今新たに決心するものである。キリスト者は神の御言葉を子供たちに与える決心をもっと深くしなければならない。私たちは、親としての教師の責任において御言葉そのものを子供たちに語ることが実に足りないのではないだろうか。真に御言葉を中心にした思いをもって生きることを真剣に求めて神の御国を第一に求めるとは、主イエス・キリストのことばを心に刻むことなのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1998年11月29日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙3章9〜12節

    ローマ人への手紙3章15〜17節

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