罪と暴力
3章15〜17節
15「彼らの足は、血を流すのに速く、16 彼らの道には破壊と悲惨がある。17 また、彼らは平和の道を知らない。」
三段目のこの部分は主に人間の暴力の問題に焦点をあてている。パウロは、暴力を振るう罪人の傾向について話している。罪人は、暴力の道を歩むものであり、最終的に殺し合う道を求めてしまうものである。そのことを、罪について話す中でパウロは言う。歴史を勉強する時に、戦争の歴史になったり革命の歴史になったりする。いろいろな国々の内戦の歴史が中心になってしまったりする。戦争は歴史の中心のようになってしまうほどである。あるいは他の暴力が歴史の中心になったりする。多くの人間が一つの町の中に住むようになると、必ず起こる問題の一つとしては殺人の増大である。アメリカの田舎町では殺人の話はあまり聞かれない。しかし、大都市となると殺人は確実に増える。
いろいろな意味において、人間の歴史を見ても、心理学や社会学を勉強しても、宗教を見ても、暴力はどうしても中心的な問題になる。特に、異教の宗教の場合は人間を生贄として捧げることが昔から行なわれていた。それは西欧の宗教にもあったし、ローマの宗教にも、東洋の宗教の中にもある。昔の南アメリカや中央アメリカでは人間を生贄として太陽神に捧げてからその人間を食べたのである。そこまでの暴力が宗教の中心となる。なぜ人間はこれほど暴力を振るうものなのか。どうして人間はお互いを殺し合うのか。これは心理学者、社会学者、そして歴史学者たちも考えなければならない問題である。
パウロが人間の暴力的傾向を罪深いものとして裁く限りにおいては、現代人は聖書の教えに賛同する。しかし、賛同するのもそれが限界である。現代の人たちはどう考えているのだろうか。暴力に対する現代人の理解はパウロと聖書の教えとはこれ以上有り得ないほど根本的に違うものである。そして、この現代的な考え方はクリスチャンが理解している以上にクリスチャンや教会に根を下ろしている。それ故、暴力に関する聖書的見解を現代人のそれと比較し、この聖書箇所が教える明確な理解を得ることは不可欠なことである。
現代人の暴力観
現代人は暴力を、実に他のすべての根本的世界観に関わる問いと同様に、進化論を土台として考えている。その考えは、テレビを見てもすぐに子供たちは教えられてしまうし、私たちも小さい時から学校で教えられてきたことだが、「人間は動物である」というものである。「人間は動物の一種類に過ぎず、動物は暴力的なものだから、人間の暴力の起源は動物からきている」と現代人は考えている。すると、暴力とは人間の動物としての名残りということになる。例えば、ライオンは餓えれば他の動物を殺して食べる。ネズミはお互いを殺して食べる。豚は他の豚を食べたりする。動物の世界では、誰がリーダーなのかを決める時にも殺し合ったりして暴力で決める。弱肉強食の世界である。それで、人間の暴力の原因や意味について考える時に「人間は動物から進化してきたものだから、動物の世界と基本的に同じなのだ」と考えるわけである。だから、人間も野獣のようにすぐに相手を殺したり、相手を食べたり、暴力を振るうのだという。
そして、宗教学では次のような説明をする。「しかし、人間は考えることのできる高等動物なので、暴力を防ぐために、それを宗教の中に取り入れて、儀式的な暴力を行なうことによって社会的な暴力を押さえようとするものだ」と。暴力について、クリスチャンではない人たちが考える時、最終的に暴力は人間の中にある動物的な心から出てくることなのだと考えるわけである。そのため、動物の生態学とその殺し合いの研究が現代人の人間理解において基本課題となっている。
その考えは聖書と全く異なるものである。聖書の観点からすれば、そのような研究は根本から間違ったものだが、それでも全く研究の成果がないわけではない。聖書によれば、暴力は人間から動物に拡がったものであってその逆ではない。そうであっても、今の動物の世界に見られる争いが人間の暴力との関わりを示しているのは確かであり、その研究は全く無意味にはならない。とは言え、その出発点は間違っており、基本的見解は全く異なっているので、クリスチャンは人間の暴力を説明する不信者の資料を読む際には識別力がなければならない。実際には、人間が暴力的であるのは動物的本性のゆえではないからである。人間の暴力はまったく別の起源を持つものなのである。
暴力の起源に関する聖書的見解
暴力を振るうことはどこから来たのか。人間が他の人間を裁き、そして殺す。それはどこから来たことなのか。聖書によると、暴力の起源は人間からでも動物からでもなく、神からのものである。その源は動物的本性からでもなく人間の罪からでもない。暴力は、もともと神から来るものなのである。「神が暴力行為を犯した最初のお方だ」と言っているのではなく、「神が初めに主権的に警告を与えた」という意味である。一番最初に暴力の話をしたのは神御自身である。
神はアダムに、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木から食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2章17節)と命じて仰せられたのである。つまり、「神であるわたしに罪を犯して命令を破り、その木から取って食べる時、わたしはあなたを殺す」と、神は仰せられたのだ。これは毒入りの果実についての警告ではなく、裁きの約束であり、神の呪いの警告であった。アダムはまだ一度も死を見ていなかったので「死」という言葉が実際に何を意味しているのかをよく理解していなかったかもしれないが、不従順に対する呪いを宣告されたのは神であられる。そして「死」とは、単に善悪の知識の木から取って食べることによる自然の結果でないことはアダムにも確実にわかっていた。
従って、人の知り得る限り、実力行使の最初の例は神による呪いの警告にあったのである。それ故、人間の中に暴力という概念があるのは、エデンの園から出てきたものなのだ。そして、アダムとエバが罪を犯したので、神はアダムとエバをエデンの園から追放した。強制的に。そして、エデンの園の前にケルビムと回る炎の剣を置いた。アダムとエバが無理矢理に園に戻ろうとすれば、ただちに殺されるのである。また神は、動物を殺してその皮で衣を作って彼らに着せたので、それはアダムとエバの衣となった。「あなたは必ず死ぬ」つまり「私はあなたを殺す」という話も、追い出してケルビムと剣を置いたのも、そして動物を殺してその皮をアダムとエバに与えたのも、すべて神がなさったことである。人間ではない。暴力は、神から始まったものなのだ。実に驚くべき話であるが、それが聖書の中に明記されているのである。
それで、聖書によれば、この実力行使は義しくて良いものなのである。普通であれば、暴力についてクリスチャンではない人たちが考える場合、暴力をあくまでも悪いものとして考えるのが出発点となっている。「殺すことはあくまでも悪いことだ」ということを出発点として考えるのだ。「殺すことも、暴力も、悪いことだ」ということを出発点として考え、その前提に立って「どうやって暴力の問題を解決することができるのか」を考えるわけである。それが彼らにとっては最大の問題であり、最終的に暴力の問題を解決するためにはバベルの塔のような権威を持つ人間がいなければならないと考えてしまう。他の人間をみなその権威ある人間に従わせ、その人間にすべてを支配させる、というような解決をしようとするものである。そして、当然、そのことをしようとするときに、誰がその最高権威者になるのかという争いが起こって、また暴力が生まれるのだ。その一人の人間を認めるか認めないかという問題によってまた暴力が出る。つまり、解決はないのだ。「人間が神になろうとする」というところで暴力の問題を解決しようとするが、ついに解決を見ないのである。
それにしても、なぜ神が暴力を振るったり殺したりするのか。そのことを考える時に、私たちは再びエデンの園に戻らなければならなくなる。よく見ると、神の実力行使は義しさを表わすものであった。神は、人間の罪に対する裁きとして人間にその御力をもって警告を与えてくださったのである。
これが神から出ているものであれば、私たちは先ず三位一体なる神においてこの問題を考えなければならないのである。御父、御子、御霊なる神は、完全にお互いを愛し合っておられる。当然のこととして、そのお互いを完全に愛し合う愛の中には、お互いを守り合うことも含まれている。事実、ここでの人間に対して警告された赤裸々な力はその源を愛に根ざしているのは明白である(しかし人類は、キリストの来臨まではその愛の本当の意味がわからなかった)。
御父、御子、御霊なる神がサタンに対し、またアダムとエバに対しても暴力の裁きを行なったのは、互いに愛し合って互いを守るためである。御父は御子と御霊を愛し、その愛をもって御子と御霊を守るのである。そして、御子は御父と御霊を守り、御霊は御父と御子を守る。三位一体の互いの神格の誉れ、尊厳、栄光を守ることはそれぞれの御位格にとって重要であり当然のことである。三位は絶対的な契約的愛において互いに御自身をささげ合っておられるからである。そのお互いを愛し合う愛こそ、サタンの罪と人間の罪に対する裁きの源である。三位一体なる神の中には絶対的な愛があるので、神に逆らってその御名を汚そうとする者や神から盗もうとする者、神に対して暴力を振るう者を、神は裁き給う。それが創世記3章の暴力の話になるわけである。これは明らかに裁きの話なのである。
御父、御子、御霊の三位一体なる神が人間を創造してくださった時、御自分の似姿として人間を創造してくださった。人間を、神の契約の交わりに入るように創造し給うたのである。つまり、大きな高い素晴らしい特権をアダムとエバに与えるために彼らを創造した。そして、もともと人間は、善悪の知識の木から食べないことによって善と悪の本当の意味を知るはずであった。つまり、神がサタンの誘惑を許した目的は、アダムとエバがその誘惑の言葉を耳にする時に、神に従うことによって善と悪の本当の意味を知るはずだったのだ。食べないことによって善悪の知識を持つはずであった。サタンが「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたは神のような者になる」と言った時に、アダムとエバは「いいえ。そういうことではない。あなたは偽り者だ」と答えるべきであった。そのように正しく答える時、はじめて本当に善悪の意味を知るようになるのだ。アダムとエバは正しい意味で“相対主義者”になる筈であった。
言っていることがわかるだろうか。善と悪の問題は相対的な問題なのである。つまり、神との関係においてという意味で、それは相対的である。神は神御自身の本質においては絶対であるが、私たちには「神に従うのか従わないのか」ということが善悪の本質なのである。そういう意味で、善悪は私たちにとっては相対的なことなのだ。私たちの自己の中に絶対的な基準があるわけではない。絶対的な基準は自分の外にあるのだ。私たちはその基準に自分を合わせ、従わせるものである。その意味で私たちは相対的なものである。
アダムとエバがそのことを悟るその時に、善と悪の本当の意味が解るようになる筈であった。善とは、創造主なる神に自分を従わせることである。悪とは、神に逆らうことである。そのことを悟った時、アダムとエバは、人間のレベルにおいて神のようなものになった筈であった。神に自分を合わせ従わせることが善なのだ。神に従う。それは善の本質のすべてである。「殺すか、殺さないか」という問題も、「神に従って殺すか、神に従わないで殺すか」という問題なのである。善と悪の話はみな同じ原則に立つものなのだ。すべては神に従うか、神に従わないかという一点に尽きる。
そういう意味では、善と悪の問題は非常に単純なものである。その原則は極めて明らかである。アダムとエバがそのことを悟るようにと、神はサタンの誘惑を許された。そして、試されるその時に、アダムとエバはサタンの誘いに聞き従い、神に逆らったのである。アダムの罪は神への冒涜を前提として犯されたため、御父、御子、御霊は、最初から約束しておられた通りに(互いの位格の誉れと栄光を守るために)裁きを行なった。これは正しく善なる対応であり、そこから離れたいかなる対応も神御自身の本質(即ち善と公正と愛)に対して矛盾するものであり、神御自身の御言葉にも矛盾したであろう。
神は人間と契約を結ばれたが、人間は契約を破り、約束されていた契約の呪いを自分と自分の子孫のものとしてしまった。このように、聖書においては、三位による相互愛のゆえに、実力行使は神から発せられていること、そしてその御力が契約的であることがわかるのである。それは、契約のことばによる契約に基づく関係に根ざしている。それによって、神による最初の実力行使が真実と義と愛なる行為として解されなければならないことがわかるのである。それは契約的かつ法的行為なのである。
人間の暴力
そのように、神は罪に対して実力行使をもって応えた。それで、「“暴力”の源は神による実力行使の警告から成る」と言わなければならないのだが、そこでサタンが神を攻撃していることに目を留めなければならない。そして、アダムとエバはサタンの攻撃に加わったのである。つまり、サタンは革命を起こそうとし、アダムとエバはそれに加担した、という話なのである。アダムが園において罪を犯した時、彼は神に対するサタンの反逆に加わり、神に対するサタンの罪の本質と同じ暴力的な拒絶に自らを委ねたのだ。それは単に一個の果物への権利とか特権を主張するものではなく、被造物における神の権威に対する根本的かつ包括的な拒絶であった。この反逆に内在していたのは、実にキリストが来られて十字架につけられた時に歴史上で表現された神への根深い反感であった。
サタンは革命を起こそうとした。というのは、神はサタンを御使いの中で最も輝く地位を与えたのに(イザヤ書14章、エゼキエル書28を参照)、サタンは神のようなものになろうとした。「神の代わりに私が一番になるのだ。すべてを私に従わせるのだ。その為には何としても神を倒さなければならない」というような思いから罪は始まった。しかし、もちろんサタンは神を越えることは出来ない、が、サタンは罪を犯した直後にアダムとエバを誘惑したと思われる。誘惑を受けたアダムとエバはすぐにサタンに従って神に逆らった。それは創造されてからの最初の食事の時であった。創造されてから、アダムとエバはエデンの園の中で歩き回ったりして空腹を覚えてエデンの真ん中に来たのであろう。エバはその日の午後に創造されたのであり、夕方から最初の安息日が始まる。安息日の始めにアダムは食事をするわけだが、その時に足は自然といのちの木の方に向かったはずだ。
神は、二本の木だけに名前を与えた。その一つが「いのちの木」で、もう一つの木が「善悪の知識の木」である。二つあって「これを食べてはならない」ということは「他方を食べなさい」という招きでもある。つまり、「いのちの木から食べなさい」という含みがあった。それで、アダムとエバはそのいのちの木を求めて行く時にサタンの誘惑が来て、善悪の知識の木から取って食べた。そして、神の裁きがすぐに下された、というような順序になっている。
神は、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と仰せられた。つまり、「わたしは、あなたを裁く」或は「あなたを殺す」という宣言をした。その宣言があった時点ではまだアダムとエバは罪を犯していないし、サタンの罪もまだなかったと思われる。サタンは罪を犯して神に逆らってからすぐにエバに誘惑を与えた。そして、神からのすべての裁きは直ちに下されたのだ(創世記3章)。サタンへの裁きはアダムとエバに対する裁きと同時に行われたのである。だから、サタンとアダムとエバの革命のところから神の暴力(裁き)は始まった。
しかし、実際には罪を犯したサタンと人間の方から暴力は始まったという言い方もできる。つまり、神のような者になろうとして行動を起こしたのは彼らの方であった。神に逆らって善悪の知識の木から取って食べる時に、神に対して、アダムとエバはもうすでに暴力を振るっているのである。そういう意味では、実際の行為としての暴力を振るい始めたのはサタンと人間の側だということになる。神に対するサタンの反逆が事実上最初の暴力であった。神に対して罪を犯す時、サタンと人間は神の誉れと栄光に対して攻撃をしかけたのである。しかし、その前に、神から既に裁きの警告が与えられていたことに注目すべきである。
サタンと人間が神に逆らうことを決めてそれを実行した時、神は直ちに蛇に裁きを与え、同時にアダムとエバをエデンにも裁きを宣告した。そして神は動物を殺してその皮で衣を作って悔い改めたアダムとエバに着せた。裁きとともに贖いの約束も与えられたこと、そしてエバという名が「すべて生きているものの母」という意味であることから、アダムとエバは悔い改めたと思われる。悔い改めたので、神は裁きをその動物に対して行ない、その動物が犠牲となったその皮の衣を着せてくださったのだ。つまり、アダムとエバは、罪を犯したその日に、その代表(動物)においてアダムとエバは死に、「その時、あなたは必ず死ぬ」という神のことばが成就したのである。
その代表が死んだことによってアダムとエバは死んだ。アダムとエバはその死の罰を見、死の罰の意味を教えられ、自分は自分の罪のために死ななければならないものだということをそこで始めて学んだのである。自分たちの神に対して逆らった罪の意味の深さが始めてわかったのだ。死の意味を、その動物が殺されることにおいて見るのである。そこから暴力というものが始まる。神は二人をエデンの園から追い出し、そこにケルビムと炎の剣を置いたこともそうであった。人間は、神に逆らった時に自分たちがやったことの意味を深くは解っていなかった。「意味がわかっていなかった」という言い方は誤解を招きやすいかもしれない。「エバは完全に騙されたが、アダムは騙されなかった」ということをパウロは説明しているので、アダムには自分がやっていることがよくわかっていたのだ。
しかし、「解っていない」というのは、「その罪がどれほど大きな結果と影響を与えるものになるのかが解っていなかった」という意味である。罪を犯して、犠牲となる動物の死を見て、園から追放されて、戻ることができないようにケルビムが置かれ、こんどは自分の子供たちが生まれてからの諸々のことを見ることによって、アダムは死ぬ日まで、自分が犯した罪の大きさと深さをずっと思い知らされて学んでいくことになる。そこから、聖書の中での暴力の話は始まっている。それは神から始まることであった。そして、人間の罪はどのようなものかというと、まず神に対して暴力を振るう罪であったのだ。つまり、革命であった。だから、“暴力”は創世記2章と3章から出てくるものなのである。
神から出る暴力というのは、神の愛の話であって、御父と御子と御霊なる神が被造物を創造するときに、その被造物は神に逆らって神の御名を汚す可能性のあるものであるので、三位一体なる神はお互いを守り合う愛において被造物が逆らうことを許し給わないのである。そのところから神の裁き(暴力)は始まる。サタンと人間の暴力は、神に逆らうところから始まった。それは神に対しての暴力であった。これは“暴力”を考える時の最初のそして一番大切な部分であると思う。しかし、神はその動物の皮で衣を作って彼らに着せたことによって、神の恵みをも示された。神の裁きは恵みを伴うものであった。
創世記4章のところになると、こんどは「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある」ということがそのまま現実となってはっきりと表わされているのを見るのである。一番最初に父と母から生まれた人間はカインであるが、彼は人間の中の最初の人殺しであった。それが人類の最初の子供である。つまり、それは、カインにおいてアダムの罪の中に含まれている罪咎をはっきりと見ることができるというものであった。その罪が発展していくことによって、その罪の意味の大きさと深さを見ることができる。
アダムは罪を犯し、その子カインは罪人として生まれ、4章は直ちにカインとアベルの礼拝の話になる。アベルは神を礼拝する時に、神がアダムとエバに教えたように生贄をささげていた。宗教学的な表現を用いるならば、アベルの礼拝は「聖なる暴力をもって礼拝をする("holy
violence"又は"sacred violence")」というものであった。つまり、アベルの礼拝は、神が教えてくださった犠牲(生贄)の意味を守るものであったが、それは普通の宗教学の中で考えられるようなものではなかった。なぜその動物を殺すのかというと、「自分こそ死ぬべきものである」ということを理解して、「私こそこの罰を受けるべきものである」ということを深く心に覚えてその動物をほふって生贄として捧げたのである。そして、その生贄をささげて神を礼拝する時、神はそのアベルの礼拝を受け入れてくださった。
カインにはその認識は全くなかった。むしろ自分のベストを尽くして自分のベストを神に捧げるというものであった。それで、カインは自分のやり方で作ったものを神の前に持ってきてそれを捧げた。自分が死ぬべきものであり、裁きを受けるべきものであるという認識はなかった。それがカインの礼拝の原則であった。しかし、カインはアベルが受け入れられたのを見ると、こんどはサタンのような思いを持つのである。つまり、ねたみを抱いたのだ。アベルが弟でカインは兄であった。自分が受け入れられないでアベルが受け入れられたということは、弟が急に自分よりも上になるようなことであった。カインはそれを許すことができなかった。そしてアベルを憎み、その憎しみが実を結んでついにアベルを殺すことになった。
自分の罪を認めないで、相手がどうのこうのということばかりを見て妬み、憎しみ、その相手を殺す。それがカインの思いである。つまり、「私に与えられないなら、あなたもあってはならない」という思いである。アベルを殺すことによってカインは何かプラスになっただろうか。そんな事は何もない。アベルを殺すことによって何かカインには祝福があっただろうか。そんなものはない。アベルを殺すことによってカインがプラスになったことといえば、それは一時的に自分の憎しみと妬みの気持ちを満足させることができたことだけである。つまり、カインは自分を絶対者にしていた。自分を神にしていたのだ。そして、自分の手で裁きを行なうことによって自分を満足させようとした。その心は神の裁きを曲げるものであった。これが人間の暴力である。
「裁き主なる神の似姿に創造された」人間は、裁きをするものとして創造されたのである。だから、人間は裁きを行なわずに生きることは有り得ない存在である。人間は裁きを行なうものである。しかし、裁きを行なうときに、裁く基準はどこにあるのか。何を基準にして裁くのか。「基準は自分にあるのか、それとも神にあるのか」というのが根本的な問題である。カインが正しい裁きを行なっていたなら、神を唯一の基準として認めて、裁きを自分に対して行なう筈であった。そして、身代わりの動物に対してその裁きを行なうことによって、自分の罪が赦され、神との関係が正され、アベルとの関係も正しくされる筈であった。
カインが裁きを行なうのは神の似姿としてそれは避けられないことである。しかし、カインは正しくない裁きを行ない、神を基準としないで自分を基準として裁いた。「私に合わせるのでなければ許せない」というような思いをもって裁きを行なった。自分の思いや気持ちに合わせてすべての裁きを行なってしまう。それでカインはアベルを殺してしまった。アベルは死んだ。しかしその時、神はカインに対する裁きを誰にもお許しにならなかった。カインを裁く者に対しては七倍の裁きを行なうと宣言されたのである(創世記4章15節)。なぜカインが殺されるのを許さなかったかというと、カインを裁くことができるのはその家族のみであるからである。殺人に対する裁きは死であるが、アダムとエバには自分の子供を殺す権威が与えられていなかった。自分の子供に死の罰を与えるようなさばきを神は家庭の中に許し給わなかったのである。
死の罰を与えることが許されたのはずっと後のノアの時代になってからのことであった。死の罰を与えることはアダムとエバの時代には許されていなかったので、カインの罪に対する死刑は行われなかった。その罰を与えるところまで人類は成長していなかったので、その責任はまだ与えられていなかった。ノアの時代になって始めてその責任は与えられる。それで、カインの罪はこの世においては裁かれなかった。ノアの洪水の時まではノアも覚えなければならなかったことだが、「裁きは神の御手にある」ということを先ず知らなければならなかったのだ。人間は、先ずこのことを学ばなければ、自分たちが裁きを執行する権威も与えられなかったのである。
はっきりとわかっていただけただろうか。神の裁きに従い、神の裁きを待ち、「神のみが裁き主である」ということを深く学んでからでなければ、人間には裁く権威は与えられなかったのである。ノアはそのことを非常に深く学ばせられた。600年間ずっとあまりにも酷い罪を目の当たりにし、周囲の満ちている酷い罪の状態の中にあってノアは神の裁きを待たなければならなかった。ノアは神の裁きを宣言するが、自分には裁きを行なう権威は与えられていない。暴力の罪はこの世全体に満ちていた。「地は.....暴虐で満ちている」と記されている通りである(創世記6章13節)。ノアには、神のしもべまた預言者として裁くことは許されていなかった。ただ神の裁きを待つしかない。待って待って待ち続けるしかなかった。
神の裁きを待つほかないということをノアは深く学ばなければならなかった。そしてついに神の裁きは来た。ノアの大洪水によってノアの家族以外の人類すべてが滅ぼされた。その後で、神は人間に裁きを行なう権威を始めてお与えになった。神が人間に社会レベルで罪を裁く責任を委ねたということは真理であり続ける。しかし、死刑という裁きは家庭には与えられていないし、教会にも与えられてはいない。死の裁きの権威は国家という別の組織に与えられている。家庭はその中で神の命令に従い、神から賜わった権威の範囲内において罪を裁くべきである。
国家には犯罪と呼ばれる更に限定された定義を持つ罪を取り扱う権威が与えられているが、その中には死刑執行の権威も含まれる。教会には罪を取り扱う最も大きな権威が与えられており、国家よりも広い意味での罪を取り扱い、教会が課す罰は遥か先の先にまで及ぶものである。聖餐式からの追放は永遠に及ぶものであるからだ(マタイ福音書16章18〜19節参照)。家庭、国家、教会がその権威を正しく執行するなら、それらはみな正当(合法的)であって、人間の罪の状況の下においては“善なる暴力”("good"
violence )の正しい模範を示すものでさえあるのだ。
それだから、人間が暴力を持つのは、人間が神の似姿であるからなのである。動物のようなものだから暴力を振るうわけではない。神の似姿だからである。神の似姿であるから暴力をもって裁きを行なうのだ。この問題は、暴力を持つか持たないかということにあるのではなく、「何を基準にして裁きを行なうのか」ということにある。正しい裁きは神の愛から出たものなのだ。正しい義なる裁きは、神を待ち望んで、神の基準に従って行なう裁きである。正しい裁きは、愛を求める裁きである。正しい裁きは平和を求める裁きである。クリスチャンではない人たちの思いにおいても、少なくともアメリカ国民にはその傾向は非常に強かったのに、それがもうわからなくなってしまっている。今日では「平和のための戦争」と言えば、皮肉にしか聞こえない。
しかし、事実、平和のための戦争はあるものなのだ。平和のための戦い。愛のための戦い。祝福するための戦い。義なる実力行使。義のための戦い。そのような戦いは実際にあるものなのだ。今の時代は人々の心が麻痺してその義の戦いの事実が忘れられそうになっている。そのような戦いは悪いとは限らない。人間は罪人なので、どの良い行ないであってもその中に罪は混在する。例えば、ヨシュアの時代、神はイスラエルにカナン人を裁くようにと命じられた。ヨシュアたちは常に神の御名のためにという思いをもって裁きを行なったとは言い切れない。それでも、アカンのような罪を犯さないかぎりは、神からの命令でカナンに対して裁きを行なった時には正しい戦争をしていた。彼らは正しい基準に立って戦い、殺し、平和と愛と御国とを求める裁きを行なっていたということを認めなければならない。認めるだけでなく、心から喜ばなければならないのである。
しかし、リベラルのクリスチャンはどうしてもそのように考えることはできない。それで、聖書を批判するリベラルの学者たちは、「ヨシュア記には耐えられない」と言う。彼らは「ヨシュア記が神の御言葉だとはとても考えられない。モーセの律法のいろいろな箇所も取り消さなければならない」とまで言う。「ヨシュアが神の命令によってカナン人に裁きを与えたということ、それが神の御心であったなどとは、とても信じられない」と言うのである。実際に私はリベラルの牧師にそう言われたことがある。「そんなのは愛の神ではない」と言う。そのように言う牧師は、よほど愛というものがわかっていないのだ。愛は、決して何でもかんでも許すものではないのである。
暴力の問題は「何が基準なのか」ということが問題となる。では「何が基準なのか」というと、罪人にとっては自分が基準なのだ。罪人の罪の本質は自分を神にするところにある。「私の思い」「私の望み」「私の理想」「私の夢」が基準なのだ。自分に合わせない者は殺す。自分に合わせないなら、それをだめにし、それを嫌う。それで罪人は暴力を振るうことになる。つまり、自分が裁き主であり、自分が基準であり、自分が絶対者なのだ。それが暴力の原則の一つである。そういう意味で、自分よりも優れたものを基本的には許せない。それは妬みの原則である。
妬みの原則について何度も同じ例えをあげているが、あまりにも良い例であって実話なので、もう一度話そうと思う。二人の女子大生の話だけれども、一人は非常に奇麗な女の子で、もう一人は普通の女の子であった。その普通の女の子は非常に奇麗な女の子の存在をどうしても許せなかった。ある日、彼女は硫酸をその奇麗な女の子の顔に投げつけたのである。それで、その美しい女の子の顔は爛れて醜くなってしまった。事件の調書が取られる時に、その普通の女の子は「彼女があまりにも美しくて、耐えられなかったんです」とはっきり答えたのだ。彼女は自分に合わせて裁きを行なったのである。
社会の原則について考えてみれば、これはアフリカの部族社会の話になる。アフリカの部族の取材をするNHKの番組などで、「この人たちは実に寛大な心を持っている」というようなコメントを話しているのを何回も見たことがある。自分で獲物を取ってくると、それを部族みんなに分け与えて、自分だけで食べるようなことはしない。「なんと寛大なことか」と取材する者は言う。しかし、実際にはそれは恐れによることなのである。みんなが同じレベルの財産しか持つことが許されない社会なのだ。同じような事しかあってはならない。一人が目立つと、他の人はそれを絶対に許さない。非常な嫉妬の原則で成り立っている社会なのである。みんなが同じレベルにあるので、全部を一番低いところに引き下ろさなければ大変な問題が起きるのだ。高い者に皆が合わせることは不可能なのだ。それで、成功者に対する妬みを防ぐために、皆を低いところに引き下ろしてしまうのである。それが妬みの原則で成り立っている社会であることをクリスチャンではない文化人類学者たちも認めている。一つの部族では、その族長だけが皆よりも立派な所に住むことが許されている。
「妬み」は罪人の原則である。「私に与えられないならば、あなたもあってはならない。持つなら、だめにしてやる」という心、それは結局自分を神にするところから来ている。しかし、自分を神にすることが暴力の原則だという時に、次のことも考えなければならない。即ち、自分は神ではなく、真の神が別におられるということである。そして、「人間は心の中で真の神を知っている」とパウロは1章のところで話している。それで、パウロはローマ人への手紙8章7節で人間の罪について話すときに、「肉の思いは神に対して反抗するもの(敵対するもの)だ」と言っている。つまり、肉の思いは神を憎む思いなのである。神を憎み、神に対して暴力を振るう。それが最初からの暴力の原則なのである。サタンは神に対する憎しみをもって人間に誘惑を与える。アダムとエバは罪を犯したとき、神に対して革命を起こし、神に反逆している。だから、人間の暴力の問題は、先ず第一に神に対する暴力のことなのである。神を憎み、神に逆らい、神の義の道に従うことを拒絶し、神を消そうとするところから人間のあらゆる暴力は出てきている。それは今日でもごく普通のことである。
主イエス・キリストがこの世に来られたときに、人間の暴力とはどんなものなのかがはじめて本格的に浮き彫りにされた。人間の憎しみは主イエス・キリスト御自身に対する憎しみなのである。罪人は神を憎んでいるのである。キリストを憎む、そしてキリストを殺す。それは宗教の指導者たちと政治のリーダーたち、そしてこともあろうに神の民であるイスラエルの民の思いであった。肉の姿を取ってこの世に来られた神(キリスト)は人間に対して善以外の何事もなされなかった。このお方は人々に真理を教え、彼らの病を癒し、彼らを愛し、慰め、心をかけてくださった。それに対する応答として、彼らはそのお方を憎み、憤りを激発させて十字架にかけて殺したのである。
神に対するこの深い激烈な憎しみは、神御自身が人となって抵抗しない子羊のように彼らの真中で御自身を現わされるまではそれほどあからさまではなかった。だが同時に、ユダヤとローマ人がイエスに対して行なったことは、最初からサタンとアダムによって既に表わされていた罪の心を表現したに過ぎないということも事実であった。神に逆らう心は、最終的に神を殺したい心に発展する。そして、結局のところは自分を神にし、自分を基準にし、自分が自分に対して絶対者になろうとする罪なのである。自分に合わせてくれないと、血を流すのである。それが罪人の問題なのだが、その根本にあることは、神の基準を無視し、神を消すことなのである。「神が絶対者なのか、それとも自分が絶対者なのか」というような対立になっている。そして、神をだめにしようとして行為するのである。
ジョン・ポール・サルトルは"No Exit"(「逃れる道はない」)という劇において、そのような考え方の悲劇的な結果を描いて見せている。勿論サルトルはその劇の中で本当の神を認めてはいない。しかし、自分が神になるということの悲劇を演出している。ジョーンズさんは神になる。ジョンソンさんも神になろうとしている。ポールも神になろうとしている。その人たちを一つの部屋に入れると、どうなるか。「私は神になる」というのが一人ひとりの生涯のプロジェクトであり、罪人は自分が神になるために生きている。つまり、皆が自分中心に生きている。しかし、「自分が神になる」とジョーンズさんが言うとき、ジョンソンさんとポールを自分に従わせるという話になる。ところが、ジョンソンさんもポールも自分が神になろうとしているのだ。それで、ジョーンズさんが絶対者となって神になるためにはジョンソンとポールを殺さなければならなくなる。しかし、相手を皆殺しにすると独りになってしまって王国は成り立たなくなる。
これは「自分の夢を実現するために、自分の夢をだめにしなければならない」という逆説なのである。この逆説は、人間に対する宇宙の冗談である。人間はそのような皮肉を存在論的に持つものなのだとサルトルは言う。だから「逃げ道はない。それは、あくまでも馬鹿げた話である」というわけである。人間が自分を神にしようとするとき、同じく絶対者になろうとする者との競争が起こって、必ず暴力の問題が出てくる。だから、神を絶対者として信じ、被造物である人間がみな神に自分を従わせ、神の正しい基準に自分を合わせて、神の御言葉に従うときに、はじめて平和の道を歩むことができるのであって、そうでなければ平和の道はないのである。「破壊と悲惨がある。平和の道を知らない」のは、人間が自分を絶対者にしようとするからである。罪人はみな大なり小なりそのような考え方を持ってしまうものだ。皆がそのような思いを持っている。その思いは、いろいろな形になって出てくるが、結局は破壊と悲惨をもたらし、平和をだめにするものである。
教会に対する暴力
最後にもう一つ暴力の話をしなければならない。アダムとエバが罪を犯した後に、神はアダムとエバに次のような意味のことを話された。「歴史においてずっとこの暴力の問題は消えない。イエス・キリストがこの世に来て裁きを行なうその時まで、歴史の戦いは終わらない」と。最初から、神を愛するエバの子孫はヘビの子孫から激しい憎しみを受けることを神は警告しておられた。サタンが初めから偽りを語る人殺しであったように(ヨハネの福音書8章44節)、サタンの子孫は今日に至るまで変わることなく偽りを語り続けている。ヘビの子孫は、聖書に記されている人間堕落後の最初の物語から暴力をもって神の民に反対している。
先に見たように、カインは弟アベルが神に受け入れられたことを妬み、アベルを殺害した。その時以来、邪悪な者たちは正しい者たちを迫害し、破壊しようと試みるのである。歴史の中にはカインの子孫とエバの子孫の戦いというものがある。エバの子孫とカインの子孫の戦いとはどういうものなのかというと、カインの子孫は暴力をもって互いに競う。カインの子孫たちが何時になったら一致を持つのかというと、ヘロデ王とポンテオ・ピラトとパリサイ人と律法学者たちが一緒になって行動したのは、キリストを殺す時であった。キリストを殺すためには一致を持つことができるのである。エバの子孫を殺すという暴力をずっと歴史を通じて振るう。それがカインの子孫である。つまり、サタンの子孫である。
では、エバの子孫、アベルの子孫、アブラハムの子孫は何をするかというと、暴力をもって応えるのだろうか。否である。彼らは言葉をもって応えるのだ。神の御言葉をもって戦うのである。彼らは殺されることによって勝利する。それは、この世の考え方とはまるで違う考え方である。しかし、それが福音の話なのである。主イエス・キリストの勝利は十字架の死にある。そしてその死からの復活にあるのだ。確かに、主イエス・キリストは歴史の最後には義なる暴力をもって完全に罪人を裁くけれども、歴史の中においては神の民が暴力をもって御国を作るというような話はないのである。昔からイスラム教の伝道とはそのような暴力の伝道であったが、キリスト教にはそんな話はない。イスラム教は暴力伝道になってしまう。「右手に剣、左手にコーラン」である。信じなければ首を取る。それは今でも教えとしては残っているが、実際に実行することはできなくなっているので彼らは沈黙を守っている。しかし、自分たちが暴力を振るうことのできる立場に立つ時、彼らの暴力伝道は必ず再開されるであろう。
歴史を顧みると、神の摂理の導きによって野蛮人たちの方が先にクリスチャンになったので、暴力しか考えられない野蛮人が暴力をもって福音を伝えようとした問題はヨーロッパの歴史の中には確かにあった。しかし、それは聖書に違反する行為である。宗教改革の時代、暴力に対して実際にどうしたかということはフランスにおいて見ることができよう。フランスのプロテスタントたちは大変な迫害を受けた。迫害、迫害、迫害の連続の中で人数はどんどん増えて教会は強くなっていったのである。それを見たフランスのリーダーたちは恐れた。「こんな筈はない」と思ったのである。
知っての通り、フランスの歴史はローマン・カトリックの歴史である。そのフランスに歴史的に重要な事が二つあった。一つは、フランスの政治のリーダーたちの中にプロテスタントに改宗する者たちが現われたことであった。その人たちはプロテスタントの軍を組織し、暴力に対しては暴力をもって応えた。それが正しかったかどうかは今日でも議論されている。「そこまで理不尽に暴力をもって虐げられているのに、暴力を一切否定するのもおかしいのではないか」という主張も理解できないものではない。しかし、それを実行に移した時から伝道の力は失われてしまったのも事実なのである。暴力をもって暴力に応え始めたとき、福音を広める力がフランスから消えてしまったのは歴史の事実である。もう一つの事は、暴力がいつまでも続いたために多くの人々はフランスから逃げたという事実である。カルヴァンも先ずフランスから出るところから始まっている。カルヴァンはフランスから逃れてジュネーブに行った。他のフランス人はアメリカに逃れたりして、最終的にカトリックしか残らなかったということも言えないことはない。歴史を語るのにそれではあまりに単純過ぎるのは確かだが、簡単に言えばそういう歴史であった。
迫害される時に、神の御言葉をもって応えるなら、どんどんどんどん人々は救われる。どんどん教会は力を持つようになる。それが初代教会からの300年間の歴史であった。場所により、時により、その迫害の状態はかなり違ったが、それでもローマ帝国の中にあった教会は未曾有の迫害の中にあった。それは、主イエス・キリストが弟子たちに教えた通りのことであった。マタイの福音書10章24〜25節のところで、主イエス・キリストは弟子たちにこう教えている。
弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
ここで主イエス・キリストは、パリサイ人たちが御自分に対して何をしているのかを指して教えている。「もし、わたしに対してこのようにするのであれば、あなたたちに対して彼らはどんなことをするだろうか」と教えているのである。キリストは「主」である。もし、主を憎み、主を殺すなら、主に従う者たちはどうなるのか。28節でキリストはこう言っておられる。
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
これが暴力に対するクリスチャンの原則である。一つには、私たちが迫害されるのは当然のことである。私たちの主であるキリストが殺されたのだ。私たちが迫害されるとしても何も不思議ことではない。死を恐れることなく、主イエス・キリストに従いなさい。そうすれば、勝利を得ると、主イエス・キリストは弟子たちに教えている。
「クリスチャンである」ということは、自分の十字架を負ってキリストに従うことを意味する。十字架は暴力の道具であるが、それは罪無き死である。戦いを恐れてはならない。神よりも死を恐れることは、サタンの誘惑に対して無防備な状態に自らをさらすことになる。クリスチャンは、私たちの主がそうであったように、たとえキリストに従うことが殉教の死を意味するとしても、神に対する忠実と神の御言葉とによってこの世に打ち勝つ者である。主イエス・キリストに倣って自分に与えられた十字架を負って神に従っていくならば、必ず豊かに実を結ぶことになるという約束をキリストは与えてくださった。同マタイの福音書10章29〜39節でキリストはこう言っておられる。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
このように主イエス・キリストは私たちに十字架の原則を教えてくださった。私たちは、キリストのように、自分のいのちを神に委ねて神の御国を第一にして歩む者である。そのために殺されることは、バプテスマを受けた時にもう覚悟していた筈だ。「信仰のために殺されてもいい」という覚悟を持っていなければバプテスマは受けることはできないと言ってもよいだろう。大人になってから信じてバプテスマを受ける人たちにはその覚悟のことを話さねばならない。クリスチャンは誰でもその意味を知らなければならない。
クリスチャンになったことによって、この世の人々の観点から見ればいろいろなことにおいて損するであろう。会社の中でもクリスチャンであるがゆえに憎まれたりして他の人のようには昇進できないかも知れない。ここで主イエス・キリストが指摘しているように、家族の中でも問題が起こってくるであろう。憎まれたり、追い出されたりするかもしれない。実際に歴史の中では迫害があってから福音が広まるというのが常であった。中国は今迫害の中で教会は急速に成長し続けている。「死んでもいい。もういのちは神に預けた」という思いがないなら、本当の信仰があるかどうかは疑わしい。どんな生活をするにせよ、どこに住むにせよ、どの時代に生きるにしても、その点においては変わりはない。そういう意味で、暴力は私たちクリスチャンに当然与えられる筈のものだという認識がなければならない。
神の御言葉に従って歩む時に、神の正しさを表わすことになる。それは、正しくない者の罪の問題を明らかにするものである。罪が明らかにされれば当然戦いは生じる。なぜなら、戦わなければ罪人は自分が罪人だということを認めなければならなくなるからである。それで、戦って血を流して殺し合うのである。ローマ帝国は数百年間もそれを続けたのである。クリスチャンたちは偶像礼拝をせず、ローマの祭りにも出ない。ローマ人の楽しみを一緒に過ごすこともしない。それで、迫害され、殺される。この世の歴史の中にあっては、正しく生活することによって迫害を受けるというところからは逃れられない。それは常に繰り返される。しかし、私たちは暴力を恐れるべきではない。なぜなら、その中で最も残虐な行為が、事実、私たちの救いの土台となったからである。
キリストを殺害した者たちは、その死が彼らの勝利となると考えた。しかし、それは彼らが決して想像だにしなかった結果をもたらした。キリストの死は、キリストを信じる者に圧倒的な勝利をもたらしたのだ。キリストは死からよみがえられて神の右に座しておられるからである。死のとげは信じる者たちからは取り除かれている。クリスチャンは、死を主人とする悪人たちのように死を恐れることなく、最愛の御方に受け入れられているがゆえに、人間の暴力への恐れを乗り越えて雄々しく立ち上がるのである。この御方の聖なる実力行使は、神の教会の救いのために、三位一体なる神の栄光に対するサタンと人間の反逆のすべてに終りをもたらすのである。
聖餐式のとき、私たちは自分に対して死ぬものである。「私はキリストとともに死にました」という思いに戻らなければならない。聖餐式の時、「キリストは私を救うために死んでくださった。それゆえ私は自分のすべてをキリストに捧げます。私はもうキリストのものです。私のいのちもキリストのものです」といって私たちは自分をキリストにささげるものである。その意味は「すぐに死のう」ということではない。死ぬのは一番簡単なことだと言える。「自分のいのちをキリストに捧げる」というならば、それは、「毎日の生活を主イエス・キリストに従って生き、御国の為に実を結ぶ生き方をする」ということであって、それが難しいのだ。
つまり、自分に対して死ぬのである。ただ身体の死のことではない。己に対して死んで、神の御国を第一に求めるのである。それがバプテスマを受けた時の決心であるし、聖餐式において神との契約を新たにする時の決心である。「私は、主イエス・キリストの十字架の死によってのみ救われた。神がキリストに対して怒りを与えられた。私の受けるべきその御怒りをキリストが受けてくださった。それによってのみ、私は救われる」と告白するものである。主イエス・キリストが死んで復活されたように、私たちも自分の十字架を負ってキリストに従っていく時に豊かに実を結ぶ者となって生きるのである。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――1998年12月6日――