HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙3章19〜20節


    3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

    3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

    99.01.17. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    すべての口がふさがれるため

    3章19〜20節

    19さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。20なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

       この3章19節から20節は、1章から3章20節までの結論のようなものである。パウロはずっと「すべての人間は神の御怒りを受けるべきものである」ということを1章18節から議論してきた。そして、異邦人の罪、また、いわゆる正しいと思われる人たちの罪、またユダヤ人たちの罪についても説明した。ある意味では、3章10節から20節までがその全体のまとめとなっているとも言えるが、この3章19〜20節の最後の二つの文章は、それらの説明全体の最終部分を締めくくっている。3章9節で、ユダヤ人も異邦人もみな「罪の下にある」ことを示した後、10節からパウロは旧約聖書からの一連の引用句を付加しており、それらは「すべての人間は罪人である」と断言するに留まらず、人間をその存在の最も奥深いところまで罪に満ちているものとして明確に宣告している。

       義人が一人もいないだけでなく、誰ひとり悟りがない。善を行なう者は一人もいない。なぜなら、本当に神を求める者が一人もいないからだ(3章10〜12節)。言葉の問題やあらゆる種類の暴力(3章13〜17節)へと導く根源的な問題は、人間が神を恐れないところにある(3章18節)。これらの聖書箇所は人間を弁解の余地の無いものとしている。そこで、この部分を締めくくるにあたり、パウロは最後にこのことが義認の教理にとって何を意味するのかを示す二つの文章を付け加えるのである。それ故、この3章19〜20節は、いわば1章18節から3章20節までのまとめのまとめであると言ってもよいだろう。

     

    律法とユダヤ人

       最初にまず、この日本語訳について少し注目しておかなければならないことがある。まず19節だが、ここでパウロは珍しい表現を用いる。多くの翻訳が「律法の下にある」と訳しており、新改訳も「律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています」と訳している。そうではなく、ギリシャ語では、「律法の中にある」という言い方になっている。パウロはローマ人への手紙の中で、ここ以外にはこの表現を使ってはいない。これはここでしか使われていない表現である。6章14節などに「律法の下にある」という言い方が使われているが、通常その意味は「律法の呪いの下にある」という意味になる。しかし、ここの表現はそれとは違うものである。日本語で「律法の下にある」というと、「律法の裁きの下にある」みたいな印象を受けてしまうが、そういう意味ではない。この19節は、「律法の中にある」とか「律法にある」という言い方であって、「律法にある」者について語っているのである。つまり、「律法の領域の中にある契約の民」を指す言い方なのである。律法を通して神との契約関係を喜び楽しむ者としてのユダヤ人を指しているのである。

       次に、「律法の言うことはみな」と「...に対して言われている」という言葉に注目していただきたい。パウロは「言う」という意味で二つの別のギリシャ語を用いている。新改訳聖書では、「言う」という同じ動詞を二回用いて翻訳されているが、ギリシャ語では二つの違う言葉が使われているのだ。最初の言葉は「言う」でよいが、次の言葉は「しゃべる」という意味でなければならない。ギリシャ語ではわざわざ異なる二つの言葉が使われている。即ち、日本語としてはおかしく聞こえるかもしれないが、「律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対してしゃべられていることを知っています」という訳の方が正しい。文語訳では「それ律法の言ふところは律法の下にある者に語る...」と訳されている。口語訳でも「言う」と「語る」に使い分けられている。後者は、律法に記されていることというよりは、口でしゃべることが強調されているわけである。

       また、20節のところだが、新改訳では「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです」となっているが、この「ひとり」という言葉はギリシャ語の「肉」という言葉が使われている。だから、「肉にある者はだれひとり」という意味で理解しなければならない。「肉」という言葉は、人間の弱さを表わすものである。「肉」を持つ者とは、「アダムの子孫である弱い人間」が強調される言い方なのである。これは、「だれひとり」とか「ひとりだに」とかのように、ただ「人」を指す言い方ではないということを覚えていただきたい。

       さて、3章19〜20節では今まで話してきた人間の罪に対する宣告の結論として語られているけれども、「律法の言うことはみな...」という言い方は、律法を狭く捉えているわけではない。10節以下では律法がたくさん引用されている。詩篇からも預言者の書からも引用されている。旧約聖書全体を「律法」と呼ぶこともできるし、「モーセの律法」という言い方もある。しかし、ここでは「律法」という言葉を広い意味で使っている。この19節は、「律法の言うことはみな、律法にある人々に対して語られていることを知っています」ということになるが、律法の言っていることは、特に神の民に対して語られている言葉だということである。

       旧約聖書の中で神が与えた御言葉は、特にイスラエルのためであった。それは律法の民のためのものである。それは人種的な意味や歴史的な意味でではなく、彼らの契約的立場を指している。当然のことではあるが、律法の言っていること(10節からの引用)は、まず神の民であるユダヤ人に対して話していることなのである。そのように言う時、「律法は神の民に対して人格的に語っているものだ」という意味が含まれることになる。

       つまり、神の律法はただ一つの原則とかいろいろな命令をまとめた所謂“律法”というようなものではない。神御自身が、その御言葉をもって人格的にイスラエルに語っておられるのである。その人格的で直接的なコミュニケーションがここで強調されているのである。その人格的な契約の関係が強調されているのである。「律法にある者に対して言う」とは、(無論、新しい契約ではなく古い契約について話しているということを除けば)「キリストにある人々に対して言う」というような意味に理解してよいと思う。

       神が律法を与える時、確かに神は御自分の民に語っておられるのだ。その内容は非常に厳しいものである。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みなともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」とパウロは宣告している。彼らは道から離れており、神に対する恐れがない。そのように人間の罪を非常に深く取り扱う言葉は、特にユダヤ人に対して、神は語っておられるのである。しかし、「悟りのある者はいない。神を求める者はひとりもいない。善を行なう者はいない」というような非常に厳しいことをなぜ神は御自分の民に語るのだろうか。そのことをパウロは19節からのところで説明するのである。神は、御自分の民に対して、神を知っており、神を信じていて、神の御言葉を持っているはずのその御自分の民に対してこの厳しい言葉を語られるのである。

       「律法にある」という表現を神との契約にある人々を指す肯定的な意味で用いることを理解すれば、なぜパウロが「律法の言うことはみな、律法にある人々に対して言われている」と言っているのかが理解し易くなる。神の律法は神の契約の民に個人的かつ直接的に「語る」。「律法」という言葉は、先にあった引用句から考えれば、これが聖書全体を指しているのは明らかである。旧約聖書のすべて(当時のローマ教会にとっては聖書のほとんどすべてを成すものであった)は、イスラエルの民に向かって直接語られたものであった。これは聞いて快いものであるとは限らない。

       神がイスラエルの耳に御自身の律法を囁かれた時、彼らは雷鳴を聞き、恐れて震えた。「そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません」(申命記5章24〜25節)。神御自身が律法において直接イスラエルに対して語りかけてくださることは栄誉ではあったが、彼らに神を教えることが神の御旨であった。ところが、イスラエルの歴史が痛ましく証言しているように、神の民はその教訓(申命記5章29節)を、本当の意味で学ぶことはなかったのである。それは、「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため」である。それが結論である。

     

    神のさばきに服する世界

       ここでパウロが言っている言葉を1章からの関係において考えれば意味がわかると思う。即ち、偶像礼拝の罪深さから始まって、パウロはずっと罪人の罪を取り扱っている。そして、いわゆる徳の高い人間の偽善の罪を取り扱った。また、イスラエルの民の罪をもパウロは取り扱っている。この最後のところでイスラエルのことを非常に厳しく深く取り扱う時に、律法が神の民イスラエルに対してこれほどまでに厳しくその罪深さを暴露するその目的は、すべての人間は罪人なのだということをはっきりさせるためであった。誰ひとり弁解できる者はいない。すべての者は神のさばきに服さなければならない。その裁きに従わなければならない。そのことをパウロは語っているのである。

       しかし、この文章の後半の部分は論理的につながらないと考える人もいる。神は御自分の律法をユダヤ人に宛てて「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため」に書き給うた。神がユダヤ人に対して言われたことのゆえに、なぜ全世界が罪に定められるのか。ここでのつながりはどうなっているのか。その答えは「律法にある」という特殊な表現に示唆されていると私は信じている。それを「神との契約関係にある」として考え、その上で論理の流れに添って解釈するのである。まず最初に、パウロは聖書が人間を罪人としてさばいていることを明示する。第二に、この裁きは、とりわけ神御自身の民に対して言われていると宣言する。律法の呪いは単に神を愛さず神を求めもしないで神から遠く隔たっている「律法の外にいる」者たちに対してではなく、まず真っ先に神の契約の民に適用されるのだ。

       旧約聖書の時代のことを考えればよくわかると思う。例えば、これは律法の目的の話なので、もしイスラエルが神の律法を正しく守っていたとすればどうだったろうか。今の段階では深い意味を考えなくてもよい。ただ、モーセの十戒を表面的に守ることだけを考えてみればよい。ただ表面的に守るだけで、その社会には殺人はなく、盗みもなく、偽証もなく、姦淫もなく、子供たちは両親を敬い、社会全体は真剣に礼拝を行なって神に対する恐れを生活全体において表すものとなるのだ。そのような社会が昔の世界にあったとすれば、それは非常に目立つ存在となった筈だ。そのことは申命記4章にも書いてある。イスラエルは、神の律法を守ることによって、他の国々はイスラエルを見て驚き、「どうしてこの国はこんなに特別なのか」と思って答えを求めるようになる筈である。

       国々が答えを求める時に、イスラエルははっきりと答えなければならない。「私たちの知恵は、実は神の律法にあるのです。私たちにではなく、神の御言葉に真の知恵があるのです。神に栄光あれ」と答えるはずである。申命記4章はそういう意味で伝道の戦略ともいうべき教えだ、と言ってよいと思う。イスラエルが律法を守っていたとすれば、昔の世界の中で非常に目立った筈である。実際のところ、ソロモン王の時代にはある程度そうであったと言える。非常に繁栄したのは、ある程度までは律法を守っていたからであった。その繁栄を見て、イスラエルの知恵に驚き、シバからも女王が来てその知恵を見ようとしたほどである。「なぜ、この国にはこれほどに偉大な知恵があるのか」と尋ねた。その時にソロモン王は人々に神の話をした。そのように、実際に申命記4章に書いてあることが歴史において実現した時代もあったのだ。

       ローマ時代になると、異邦人とイスラエル人の道徳的なレベルの違いは異邦人たちにとっても明らかであったのは事実である。そこまで足りないイスラエルであっても、異邦人と比べれば、その道徳のレベルは遥かに高いものであったのは史実としてよく知られているところである。イスラエル人が異邦人を見下すという悪い結果を招くようになったほどに、異邦人の道徳的なレベルは低いものであった。ギリシャ人の道徳レベルはローマ人よりも低かったので、ローマ人はギリシャ人を見下していたが、イスラエルはすべての異邦人を見下していた。

       しかし、律法を守っているイスラエルは他の異邦人の国々よりも何を知っているのかというと、「自分は罪人であって、自分たちこそ足りない者である。神の御恵みによるのでなければ、自分たちは救われない。自分たちは哀れな罪人である」ということなのである。もしも、この世界で最も正しい者が、「私は罪深い者である。神の御恵みでなければ、私が救われる可能性は皆無である」と真剣に心から告白するとしたら、そこまで正しくない人たちは何と言うだろうか。もしも正しい者たちがその罪深さのゆえに神の御怒りを受けるに相応しいのであれば、ましてや悪者たちはどうなるのだろうか。もしも、この世の歴史の中で最も正しく敬虔な者――アブラハム、モーセ、ダニエルのような――が全く罪深い者として裁かれるのであれば、この世の他の者たちは自らを弁護するために何を語ることができようか。ただただ言葉を失うほかないであろう。そうして全世界が、全人類が、神のさばきの前に服すほかないのである。

       つまり、神がイスラエルを御自分の民として選んだのは、イスラエルを祭司の民とするためであったのだ。それは、イスラエルだけが救われるためではない。そのことは旧約聖書で繰り返し語られている。アブラハムが選ばれたのは、アブラハムを通して全世界が祝福されて救われるためであった。「祭司の民」が最も強調すべきことは、自分の罪深さなのである。それによって、全世界の口は塞がれて何も言えず、神のさばきに従うほかないのである。それがパウロの論旨である。「律法」は、人間の最も善なる者を罪に定めるために、神の民に彼らの罪について語る。そして、律法が人間の最も善なる者たちを罪に定める時、それは他のすべての人をも罪に定めることになる。そして、全世界の口が塞がれて、すべての人が自らの罪を認めなければならないのである。

     

    律法の行ない

       神の律法はまずイスラエルに対して、神御自身が語っておられるのである。その御言葉は、実際に親しく語りかけておられるものである。神がイスラエルに御言葉を語ってくださり、イスラエルにその罪を深く深く教えて、その罪を深く取り扱ってくださる。それによって、イスラエルは自分たちこそ誰よりも悔い改めるべきだということをよく知っているはずである。それだから、20節の最後のところだが、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」ということになる。

       神が語ると、イスラエルは自分の罪を知るようになる。実際にシナイ山の事件はそのようなものであった。神はシナイ山で御自分の栄光を表わされた時に、イスラエルは、「いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか」(申命記5章26節)と言って神を恐れた。「普通ならば神の声を聞いたら死ななければならないのに、私たちは特別な恵みを受けているのだ。しかし、主の声を聞くのは恐ろしくて恐ろしくてとても耐えられません。モーセよ。あなたが主の語るのを聞き、私たちの神が仰せになったことをみな私たちに告げてくださいますように。私たちはそれを聞いて行ないますから..」と、イスラエルはモーセに頼んだのである。自分たちの罪深さを深く感じさせられて、聖い神の御前に立つことができなかったのである。「罪の意識が生じる」ということは、十戒が与えられた時に既に明らかにされているのだ。

       他のどんな時であれ、神が明らかに現わされれば現わされるほどに、人間は罪を深く感じないではいられないのである。ダニエルは神の栄光の幻を見た時に、「自分の美しさのすべては醜い者に変わった」と告白している。つまり、「自分にとって最も良いと思うことのできるところがすべて醜いものとなった」というのである。「自分には良いところが何ひとつない」とダニエルは言う。イザヤ書の翻訳を文字通りすることはとてもできない。イザヤはあまりにも大変な言葉を使っているからである。例えばイザヤ書64章6節は新改訳では「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようだ」と訳されている。「不潔な着物」は「汚れた雑巾」というような意味であるが、原語は女性の月経に使われる血に汚れた布を意味する言葉になっているのだ。「私たちの義は、私たちの正しい行ないは、そのような汚い布切れのようなものなのだ」と、イザヤは言っているのである。誰もこの言葉を文字通りには翻訳していない。どの訳もただ「汚れた衣」というような訳に留めている。文字通りに訳すにはあまりに露骨だからである。

       しかし私たちの正しさは、そのようなものなのだ。「私たちの一番良いところであっても、それは汚れに満ちている。それは死を表わすものだ」と言っているのである。律法の中にはイスラエルのメンツを立てるようなところは一つもない。なぜイスラエルが選ばれたのか。他の国々よりも素晴らしかったからか。そうではない。イスラエルは国々の中で最も小さなものであって何もなかったからこそ神はイスラエルをお選びになったのである。そのことをパウロは他の手紙でも書いているが、一番能力のないものが、そして、一番社会的立場もない最も貧しいものが、選ばれたのである。神は、その最も足りない者をこそ選んでくださって、この世の人々が見下すような人間を救うことによって御自分の栄光を表わし給う。だから、イスラエルの律法の中にある教えはすべてイスラエルの罪深さを表わす箇所ばかりなのだ。

       教えだけではない。イスラエルの礼拝も悔い改めるための礼拝制度であった。全世界で唯一の悔い改めのための礼拝制度であった。その礼拝制度も同様にイスラエルの罪を深く表わすものであった。今でも、仏教や神道の礼拝は、罪を悔い改める礼拝ではない。汚れを取り除く礼拝になったりはするが、「汚れ=罪」という考えはない。悪を行なえば、自分は罪人だという認識は持つかもしれない。しかし、日本の仏教も神道も、その汚れと罪の概念は聖書にあるような関連はない。彼らが「汚れを取り除く」と言う時はただ汚いものをきれいにしようというだけのことであって、「本来人間の心自体はきよいものなのだ」と彼らは信じている。彼らが「洗いきよめる必要がある」と言う時、それは足だけ洗えばよいようなことであって、心は悔い改めなくてもよいのだ。人間の心は根本的にはきよいものだと考えているからである。ここでは突っ込んだ言い方はしないが、そのような言い方でまとめることができると思う。

       モーセの律法の中には犠牲制度が定められている。毎朝いけにえを捧げ、夕方にもいけにえを捧げなければならない。一年に数回、全イスラエルはエルサレムに上って大きな儀式を行なって悔い改めの礼拝を捧げなければならない。そして、個人もみな、神に近づくためにいけにえを捧げて悔い改める礼拝を捧げなければならない。羊の頭の上に手を置き、罪を告白してからその羊をほふるのである。いけにえをささげる父親たちは血まみれになってその羊をばらばらにしてから祭司たちに渡すのだ。それらはみな礼拝の中で行なわれることであった。その羊を殺すとき、「自分は罪人だ」ということを非常に深く具体的に教えられるものであった。即ち、「心の割礼を受けよ。心の包皮を取り除け」というような言い方もあるし、「割礼」という“いけにえを捧げるような儀式”によってのみ神の契約の民に入ることができるということ等を具体的に教えられたのである。

       律法全体は、イスラエルの罪を表わすものである。だから、「律法にある者」即ち「律法を自分に対して語られている神の御言葉として聞き入れる者」が、何を知るかというと、自分の罪深さを知るのである。つまり「罪の意識が生じる」のである。神はそのためにイスラエルに律法を与えてくださった。それだから、律法を信じるユダヤ人は誰よりも心のへりくだっている者になっていなければならない筈であった。他の人を見下すことができるはずはない。見下すどころか、「自分こそ罪人だ」ということを本当の意味で告白する時に、「自分が救われた理由はただただ神の御恵みのみによるのであって、他の人々にもその同じ恵みを分け与えたい」という気持ちになる筈である。

       しかし、それと全く反対の状態になっていたイスラエルは、律法の本当の意味が何も解っていないのだ。神がイスラエルに律法を与えてくださった目的をも理解していない、ということになる。ここで律法の意味について話しているときに、パウロは、「その罪の意識が生じるために神は律法を与えてくださったのだ」と言う。そして、「神の民が真剣に罪を悔い改めるとき、全世界は自分の罪深さに気付かされるのだ」ということをパウロはこの最後のところで説明している。

       「昔の事を考えればこのポイントがよくわかるだろう」と言ったけれども、今でもそれは変わらない。聖書の影響があればあるほど、罪の認識が社会の中に生じてくる。聖書の影響によって、社会には罪の意識が生まれる。聖書の影響が少なければ少ないほど罪の認識は低くなる。

       だから、例えば、マーガレット・ミールという文化人類学者は、南の島に行く時に、「この人たちは平和でしあわせだ」というような事を言っている。彼女は、「西洋人はいつも罪の意識に苦しんで心理学者の門を叩かなければならなくなったり色々な問題で押しつぶされそうになっている。しかし、この南の島の人たちは何も罪の意識がない。彼らには悪いことをしたという自覚はない。何をしても悪いことをしたと思うこともない。自然で、まるで、子供のように無邪気な心をもっている。彼らこそ幸せなのだ」と言う。悪いことをしても、悪いことをした覚えすらないのである。しかし、彼らの実際の生活を見れば、そして聖書の観点から言うならば、その生活は実に罪深いものなのだ。姦淫は平気でやるが、別に悪いとは思わない。そういう社会なのだ。それをマーガレット・ミールは「素晴らしい」と言って賛美する。

       「西洋に問題をもたらしているのは聖書なのだ」と彼女は考えている。だから、「聖書を捨て、キリスト教を捨てて、私たちもこの人たちのように自由にならなければいけない。西洋人は罪の意識に責められて苦しんでいる。この人たちのように自由奔放に生きるべきだ。ダーウィンも人間は動物だということを証明しているではないか。動物らしく生きるがよい。結婚も貞操観念も聖書の教えから来たものであって、そのような昔の宗教はもう廃棄すべきだ。これこそ社会にとって最大の重荷である。そのようなものはいらない」と主張する。その彼女自身は同性愛者であり、何回も結婚しては離婚する生活を繰り返している。自分自身、西洋の結婚観に対する罪意識がいつもあって、そこから解放されることを求めていた。実は、そのような思いが彼女の理論の背後にある。とにかく、律法によって罪の意識は深くなるのである。

       清教徒たちの時代の書物を読んだりすれば、その罪の意識が私たちよりもどんなに深いかを思い知らされる。まったく話が違うのだ。彼らと比べれば私たちは、よほど大きな悪を行なわない限り罪だと思わないようなことになる。それこそ、実際に人を殺さなければ罪を犯してはいないかのようなレベルの罪意識でしかないことになる。私たちの罪の意識はかなり低いものなのだ。「私たち」というとき、皆さんを攻撃しているのではない。私自身も含めて、実に罪意識のレベルは低いものなのだ。昔の時代と比べれば、私たちは実にルーズなのだ。

       しかし、これは誰かが押し付けることのできるようなものではない。つまり、もし私が清教徒たちほどの高い倫理的レベルにまで成長したとしても、「それが罪だということが解らないのか」と言ってその基準を無理やり人々に適用することはできないのである。心から、神の御言葉によって生じる意識でなければだめなのである。それならどうしたらいいのかというと、神の律法を教え、御言葉を深く教えるのである。御言葉をよく教えれば教えるほど、私たちは自分の罪の深さを知るようになる。罪の深さが解るようになればどうなるかというと、悔い改める人たちは成長していき、悔い改めない人たちは狂ってしまうしかない。簡単に言えばそうなるのである。

       悔い改めない者はもう耐えられなくなるので、もっともっと逆らうようになる。西洋のクリスチャンではない哲学者たちは、神を大胆に憎む傾向がある。明らかに神に逆らう道を敢えて選ぶのである。東洋の哲学者たちは、どちらかというとそれほど神を認識してはいない。罪のことについてもそれほど深くは考えていないので、自分は神に逆らっているという思いがあまりない。彼らが「神を求めている」と言う時、あるレベルで素直にそう言っているのだ。表面的なレベルでは、本当にそのつもりで言っている。西洋では、そのような低い表面的なレベルでの思いを神に対して持つことはできない。神に従うか、神に逆らうか。彼らにはその二つの道しかないのである。

       例えばバートランド・ラッセルは、「私は、神に逆らう」と、はっきりした認識をもってその立場をとっている。サルトルも、はっきり認識してその逆らう道を選ぶのである。カミユもはっきりした認識をもって神に逆らう道を選んだ。実を言うと、今の時代の(90年代の)アメリカの若者たちはあまりにも教会に行かなくなっているし、教育の中でも御言葉の影響は取り除かれているので、神のことをあまり認識しない人間になっている。今では、信仰を捨ててしまったというよりも、完全に異邦人のような野蛮人のような心を持つ者になってしまっている。技術はあっても文明はないようなアメリカ人がどんどん多くなって来ている。普通ならば西洋では罪の意識がはっきりしていて、自分は今神に逆らっているという認識ははっきりしている。しかし、東洋には、神に逆らっているその罪の意識がはっきりあるわけではない。その罪の認識のレベルは非常に低いものなのである。

       仏教学者の鈴木大拙もそのことについてはっきり語っている。今の社会で、もし私が宮本武蔵のように腰に刀して歩いていて、殺気を感じて刀を抜き、相手を一太刀で斬り殺したとしたら、間違いなく私は犯罪者として見做されるであろう。しかし、鈴木大拙は「それは犯罪でもなければ、人殺しでもない」と、はっきりと言っている。仏教では、「侍が果たし合いをする時、殺された方の者は自分から死を求めてしまったのだ」と解釈するのである。ある意味で、それは自殺であったかのように解釈するわけである。「それを殺人として考えてはならない」と言うのである。

       今の法律なら当然殺人として考えるのに、昔の日本には今の法律のような認識はなかったのは事実である。殺人についての認識は、1600年代と今では全く違ったものになっている。これはほかでもない“殺人”の認識の話なのだ。これは実に簡単ではっきりした行いのレベルでの話なのである。異教の社会では、殺人の定義は非常にレベルの低いものである。昔のイスラエルでは、隣人を見て理由なしにその人に対して憎しみを心に抱くならば、それは殺人と同じことなのだという認識を持つ筈である。それは聖書の教えであり、キリストの教えである。そこまで罪に対して敏感になり、そこまで深く罪を悔い改めなければならない。そこまで高い罪の意識が要求されているのである。そこまで罪の意識の高い者が全世界の中で祭司の務めを果たさなければならないわけである。他の者たちがその証しを見る時に、ただ口を閉ざすしかない。「あの人でさえも罪人であるなら、確かに私はもっと罪人なのだ。あの人でさえ裁かれるのなら、私も確かに裁かれる」ということになる。そういう意味で、神は特別に祭司の民に律法を与えてくださって、神を恐れること、そして悔い改めることを教えてくださったのだ。

       だから、「律法を行なうことによっては、肉にある者はだれひとり神の前に義と認められないからです」とパウロは言う。パウロの結論は、律法への服従の行ないによっては誰一人神の御前に義と認められることはない、というものである。つまり、律法が与えられたのは、行ないによる義認をイスラエルに教えるためではない。悔い改めて御恵みを求めることによってのみ人は救われるということを、イスラエルに教えるためであった。しかし、パウロの時代のイスラエルは、律法を行なうことによって自分は義と認められると思っていた。「律法を行なうことによって義と認められる」と言ってはいるが、イスラエルの人々は「律法を行なうこと」について考える時に、旧約律法の613の命令のすべてを完全に朝から晩まで常に徹底して守るというような考えはなかった。割礼を受け、礼拝に加わり、そして生活全体において彼らは異邦人とイスラエル人を区別する律法を守っていた。

       即ち、食べ物に関する律法とか安息日の律法とか、そのようなものを守るならば救われると思っていた。時々その律法を犯してしまうが、その時にはいけにえ制度によって汚れを清めればよいと考えた。本当に罪に対する深い認識はなかったのである。そのいけにえを捧げることさえも、自分の行ないによって義と認められることの中に含まれてしまうわけである。だから、イスラエルの律法主義的な考え方というものは、ただ単に「私は倫理的にここまで良い行ないをしたのだから、その良い行ないと罪の行ないとを天秤にかけてみて、良い行ないの方が多いのだから、私は救われる」というような、単純且つ本格的な律法主義的な考えではないのは事実である。それは、16世紀のローマン・カトリックの信仰告白に出てくるような律法主義に似ている。つまり、信仰告白をして、恵みによって救われることを告白するのだ。

       彼らが考えているその恵みの救いとは、バプテスマを受けて教会の定めや色々な原則を守り行なえば、自分の行ないプラス神の恵みが一緒になって救いが与えられるというものである。そして、「最終的にどちらが決定的なのか」というと、「人間の行ない」ということになってしまうのである。そのように、「神の御恵みを有効にするのは人間の行ないなのだ」というような考え方の律法主義的な信仰が当時のイスラエルの信仰であったと言えよう。

       「私たちは、律法を守ることによって救われる」という考え方は、「自分の行なうことは最終的に自分を他の人と区別することになる」と思って、傲慢が生じるというものであった。「なぜ私は救われているのか。なぜあの人は救われていないのか」というと、「私は、割礼を受けているし、安息日の律法を守っており、このように豚を食べないで羊の肉を食べて、手を洗う儀式もちゃんと行なっている。だから私は聖い。あの人たちは汚れている。神はこのような私を愛して、彼らを憎んでおられるのだ」というのが当時のイスラエルの信仰であった。律法の道徳的なことを基準にするよりも、儀式的なことを基準にしている。イスラエルと異邦人を区別するような律法の掟を基準にしてしまっていた。

       しかし、もし律法の教えを本当に知っていたのであれば、繰り返し繰り返し洗い清めをしなければならないし、繰り返しいけにえを捧げなければならないので、それを行なうことによって、かえって「自分は、実に汚れていて、死ななければならない罪人だ」という教えがよく解る筈である。そうすると、自分の行ないのすべてが、また自分の正しさのすべては、全く汚れた雑巾のようなものだということを深く知るようになる。それを知るならば、誰ひとり自分を誇ることはできないのである。ただ神御自身を誇りとし、そして他の人々をも神を求めるように導こうとする筈である。それこそ、神が律法を与えてくださった目的であった。「律法によっては、かえって罪の意識が生じる」とパウロが説明しているとおりである。

       パウロは、「服従によって義と認められる道が開かれるために律法が与えられた」と言ってはいない。また、あたかもモーセの契約が救いの道を与えなかったかのように、何かの意味で契約を批判しているわけでもない。パウロは、異邦人も割礼によってユダヤ人になるように教え、義と認められるために律法を守らなければならないと迫る者たちに向かって語っているのである。ユダヤ人律法主義者が常に固執しているのは、律法の儀式的側面であることに注目していただきたい。ユダヤ人指導者たちは、イエスが安息日を破り(マルコの福音書2章24節)、罪人と共に食事をし(マルコの福音書2章16節)、その弟子たちが「汚れた」手で食事した(マタイの福音書15章2節)と考えて、怒ってイエスに抗議した。パウロに反対した律法主義者たちは似たような問題について争っていた。従って、ユダヤ人にとって「律法の行ない」の意味とは、おもに義しさの問題ではなく、儀式的な作法の問題であったのだ。

       モーセの律法はもちろん義認の道を教えるものであった。しかし、律法は神の民に「何がしかの律法主義的功績を根拠に義と認められる」と教えてはいない。ユダヤ人の律法主義者も通常は良い行ないをすることによって功績を積むというような単純な言葉で考えていたわけではない。ユダヤ人律法主義者たちの考えとは、「人間の行ない、とりわけ儀式的な行ないは、救いのわざに欠くことのできない部分を担う」というものであった。彼らは、救いが究極的に神の御業にあるとは信じず、代わりに人間の貢献を決定的なものとして認めていたのだ。

       しかし、繰り返し言うが、律法に意図されていた本当の働きは、人間の罪の意識を生じさせることであった。それによって彼らが悔い改め、神の御恵みを求めるためであった。それは犠牲制度によって可能とされた。犠牲そのものが律法の教え全体に寄与していた。犠牲制度は律法の教えを実施するものであったからである。犠牲制度は、「人間はあまりに罪深く、死罪に値し、その身代わりが彼のために死ぬ以外に、決して救われることはない」と宣言している。それ故、律法によって罪の意識が生じるとパウロは言う。道徳律法は、義の完全な基準――神を自分の全存在をもって愛し、隣人を自分自身のように愛すること――をユダヤ人に示した。儀式律法は、彼らがきよいものではなく、実に死によって汚されていることを指し示し、犠牲律法は彼らがその罪のゆえに死に値する者であることを示した。神殿制度は、神が彼らの間に臨在したもう御恵みであったが、同時にそれは彼らが神に本当の意味で近づくことは出来ないことを思い起こさせるものであった。彼らが神の御座のある部屋――至聖所――に入ることは、その罪深さのゆえに禁じられていたのである。

       この19〜20節の結論をもってパウロは、私たちを捕らえて、ただ自らの圧倒的な罪深さを認めることしかできないところにまで私たちを引っ張り出してきた。私たちは、旧約時代のユダヤ人に決して優るものではないからである。私たちは神のより大きな御恵みとより豊かな啓示とに対して罪を犯し、その御怒りを受けるに相応しい者である点でユダヤ人に劣ることは決してないのだ。神の律法は、何が正しくて何が間違っているのかを教えてくれる限り私たちの知恵の書であり続けるが、それはまた私たちの罪を明らかにし、私たちを有罪にする裁きの訴状でもある。しかし、そのすべては、私たちを絶望に導くのではなく、むしろ神の御恵みへと導くように意図されているのである。なぜなら、キリストが私たちを罪から解放するために十字架上で死んでくださって、私たちを神の御前で義なる者としてくださったからである。

       そのことをパウロはローマの教会に教えている。イスラエルが知らなければならなかったことを、ローマの教会もまた自分たちについて知らなければならないのである。なぜパウロは「イスラエル」という言い方を使わないで「律法にある者」という言い方を使ったのか。この「律法にある者」という言い方は、ローマの教会の信者たちをも含む言い方だということではないかと思う。つまり、この御言葉は私たちにも語っているのである。私たちは神の契約の民である。だから、イスラエルがどうのこうのとは言っていない。私たちがアブラハムの子孫であり、私たちが罪深い者であって、罪を悔い改めなければ救われない者なのだ。そのことを、神が、私たちに話しかけておられるのである。そのことを、私たちこそ知らなければならない。全世界の中で誰よりも深く自分の罪を認識しなければならないのはクリスチャンなのだ。

       罪の認識が深くなければ、真の礼拝をささげることはできないのも事実である。ここに、いつも取り扱わねばならない問題が指摘されている。清教徒が私たちに教えていることは多くあると思う。彼らは神の律法を深く教えていた。ウェストミンスター信仰告白は基本的に清教徒たちが作ったものだと考えてよいが、ウェストミンスター大教理問答を読めば、そのモーセの十戒の教えは実に深いものだということに気付かされる。神学校でもそれを教材として使って教える先生たちがいる。その教理全体も素晴らしいが、特にモーセの十戒の教えは深いものである。清教徒たちは罪の認識を非常に強調していた。黒色の服を着たりして、人間は悔い改めなければならない罪人であることをとても強調していた。そこから私たちが学び得ることは少なくない。

       罪を悔い改めて神の赦しを受ける時、そこには本当に大きな喜びがある。だから、神の民を見る時に、喜びの民だという印象が何よりも強い筈なのだ。ただ黒い服を着て、いつも苦悩の中を生きているような顔をして、毎日がお葬式であるかのような生活をしていたのでは、決して証しにはならない。クリスチャンには、救われた喜び、罪赦された喜びがある。

       詩篇を読んでもそのことは明らかである。あらゆる楽器をかき鳴らし、喜びの叫びをもって神の栄光を賛美をもって表わしている。詩篇の中にはそのような礼拝が多く記されている。実は、清教徒たちの中には賛美することをやめてしまった教会もあった。これは清教徒の中でも極端な例ではあるが、歌う時に音痴が多くて巧く歌えないために歌わないことにした教会もあった。最初に一回だけ歌うこともあった。礼拝に集まると先ず牧師が祈りを捧げるが、その祈りは一時間も続く。場合によっては二時間にもなる。祈っている間に眠ってしまう人がいると、長老達は長い棒でその人の頭を軽く親切に叩いて目を醒させてくれる。祈りの後は説教だが、説教は2時間や3時間はおろか、4時間とか5時間にもなったりする。その間に眠ってしまえば、また長老たちが親切に起こしてくれる。

       聖餐式は年に一回とか、場合によっては三年間に一回ということもあった。極端な例であるけれども、そのように礼拝した教会もある。そのような例は礼拝の模範にはならないものである。罪の悔い改めと律法に対する恐れを何よりも強調して、それで終わってしまうならば、それはとんでもないことである。礼拝には歌がたくさんあってしかるべきである。へたでも構わない。何百年も歌っていくうちに巧くなるだろう。良い音楽をもって礼拝をささげるようになるには確かに時間はかかるものだ。音楽は、本当は数学や科学よりも大切なものだと思う。クリスチャンではない普通のアメリカのヒューマニズムに支配されている学校のように数学や科学を音楽よりも大切なものとして授業のカリキュラムの中に位置付けることを私たちはしない。本当は、心からの喜びをもって神を賛美できるように、幼い時から神に向かって歌う音楽の心を育てることはとても大切なことなのだ。神を喜ぶ心を音楽をもって表わすことができるようにすべきである。それは極めて大切な事なのだ。

       体操と同じように、小さい時から始めなければ本格的に巧くはなれない。神を賛美するための良い音楽を築くのにヨーロッパでは何百年もかかったが、今の時代はそこから離れてしまっている。詩篇をはじめ聖書の中では、喜びをもって神を礼拝し神を賛美するのが私たちクリスチャンの特徴だと教えている。但し、それがどのような喜びなのかがポイントである。その喜びは、このような罪人が神の御恵みのみによって救われたことを神に感謝するところから出る喜びなのだ。

       だから、心から神に感謝し、神の御名を賛美するのである。神の御恵みを喜ぶのである。その喜びが礼拝の喜びである。それがクリスチャンの喜びでなければならない。それ故、罪の悔い改めを強調するのは、「私はだめだ」という暗い思いしか持てないような人間を育てるためではない。御恵み豊かな神に目を留めるようにと、律法は罪の意識を与えてくれる。自分がすべての中心なのではなく、中心は神御自身であり、神の御恵みと神の救いにあるのだ。そのことを本当に知るために律法は与えられた。これは、「神の御恵みを心から喜ぶことができるように」という教えなのである。

       「罪の意識は律法によって生じる」ということは、私たちの毎日の生活の中でいつも起こっていることである。毎日御言葉を読んで、心からその御言葉をもって私たちに話しかけてくださる神のことばに熱心に心を傾けて、それを心に刻み、真の飢え渇きをもって神を求める。そのような生活をすれば、罪の意識はもっともっと深くなる。罪の認識が深くなると、その思いは罪を犯さないように私たちを守るという働きもあるが、それは私たちに本当の悔い改めを教え、私たちが神の御恵みを本当に喜ぶことができるように導いてくれる。聖餐式もそうである。聖餐式は自分の罪を悔い改める時として与えられているけれども、自分の罪を本当に悔い改めて、その罪を捨てて、キリストの贖いを喜ぶためにこそ聖餐式はあることを忘れてはならない。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年1月17日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙3章18節

    ローマ人への手紙3章21〜22節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.