ローマ人への手紙3章21〜22節
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
99.01.24. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
しかし、今は
3章21〜22節
21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3章21〜26節は、まさにローマ人への手紙全体の中心的な箇所である。この短い段落の中で、パウロは福音の最も大切なことを伝え、ローマ書のすべてのメッセージをここに凝縮して、キリストの贖いの御業を通して与えられる「信仰による義認」の根本真理を述べている。そして、続く箇所でこの箇所の教えの意味を更に解説している。この段落に登場する「信仰義認」「律法と新しい契約の関係」「キリストによる贖いのわざの性質」といった題目はこの後の部分においても主要な論旨となっている。それはちょうど、23節で扱っている「人間の罪」という問題が、その前の段落において詳しく説明されていたのと同じである。従って、この段落は、ローマ人への手紙の主題である「福音」のまとめとなっている(1章16〜17節参照)。これは決して福音の要約として新約聖書における唯一の段落というわけではないが、その中で最も重要な箇所の一つであって、注意深く瞑想するに値するところである。
今は
まず、この新しい段落の出だしの言葉である「しかし、今は...」という言い方に注目したい。パウロは、1章の18節からずっと3章の20節まで異邦人とユダヤ人の罪について話してから最後の3章19〜20節の結論のところで、「神はなぜイスラエルに律法を与えたのか」を取り扱った。3章1節以降でパウロは特にユダヤ人について、そして神の言葉を託されたその特権について語ってきた。律法がイスラエルに与えられたのは、ユダヤ人が他の人間よりも優れていたからとか、彼らだけを救うためではなかった。むしろイスラエルが罪人だという事実が明らかにされることによって、全世界が「自分も罪人だ」ということを知るようになるためであった。
イスラエルに律法が与えられたのは、彼らが全世界の救いの言わば“水路”となるためであった。彼らは祭司の民として、世俗の国々に、いかに生きるべきかを示すはずであった。律法を守ることによって救われるのではない。律法は「行ないによって救われる」という制度(システム)を教えるものではなく、「異邦人もユダヤ人も、すべての人間が罪人であって、神の救いの御恵みを切実に必要としており、神の御前に悔い改めなければならない者なのだ」ということを深く教えるためのものであった。即ち、「律法によってはただ罪の意識が生じる」のである(3章20節)。イスラエルに律法が与えられた一つの目的は、神に最も近く、本来なら世界のほかの国々ほど罪深くないはずの民が、どれほど罪深いものなのかを証明することにあったのである。
「しかし、今は...」と言う時、パウロは歴史の根本的変革の時を指しており、旧約時代のモーセの律法と今の主イエス・キリストにある新しい契約とを対比させている。「しかし、今は、律法とは別に...」という言い方は、「今、モーセの時代とは別に、新しい意味で神の義が表わされた」ということである。まさに歴史そのものの性質を変えてしまう深遠かつ根本的な変化の時を指している。そして、それが福音の中心なのだということをパウロは説明しようとしている。
かつて、キリストは律法であられたが、キリストがこの世に来られた今、福音の時代が到来したのである。パウロが「しかし、今は...」と言う時、それは自分が宣言している福音の内容そのものをも含む言い方だが、なかんずくそれは主イエス・キリストの受肉、十字架、復活、昇天のすべてを「今は」という言葉で表わしているのである。即ち、主イエス・キリストがこの世に来られて、救いの御業を完全に成し遂げて、天に昇り、御父の右に座し給うたことを指して「今は」と言っているのである。新しい教えが与えられたことだけを指しているのではなく、福音の土台であるキリストの働きの全体を指しているのであり、キリストが何をしたのかということが実に重大なことなのだということを強調している。神の啓示はキリスト御自身とその御業の行ないを通して「今」表わされたのである。
「今は」とは、主イエス・キリストがこの世に来て預言の書に書かれたすべてのわざを成就した「今」ということなのである。これらの福音的出来事は、単に一つの新しい契約ではなく、たった一つの新しい契約をもたらすのである。私が“福音的出来事”と言ったのは、パウロが「神の義が示されました」という表現をもって彼のメッセージの中心であるキリストの実際のみわざを強調しているからである。神の義の現われは、ただ単にメッセージそのものというだけでなく、そのメッセージを生み出した“福音的出来事”であるキリストの御業のすべてにおいて示されたのだ。同時に、それらの出来事を細かく説明する言葉による啓示がないならば、それらの出来事だけでは神の義が「示された」ことにはならないということも覚えなければならない。
新約聖書の中でこの「今は」という言い方は何回も何回も使われている。パウロを初めとする新約聖書記者たちは、神が歴史に介入され、今までとは全く違う新しい事、世界全体を変える大いなる御業が成されたことがわかっていた。自分が全世界の全歴史の中で歴史の根本的変革の時代に生きているということをよく知っていた。そして、それがどんなに大切なのかということを伝えている。主イエス・キリスト以前の時代の歴史と主イエス・キリスト以後の時代の歴史は、根本的に違うものである。キリストがこの世に来て、十字架上で死んで、よみがえって、天に戻られたという一連の出来事は、歴史の全てを変える出来事であった。歴史のすべては変えられたのである。それが福音の宣言であり、それが福音の中心である。
つまり、「贖いの働き」は歴史そのものを変えてしまうものであった。だから、パウロは、ここで、「今は.....神の義が示された」と宣言する。「今までとは違う、今までよりもずっと深くて広い意味で、神の義が表わされた」ということを話しているが、それはキリストの受肉、十字架の働き、昇天が、歴史そのものを変えたことを意味している。この歴史的な視点、そして契約的な視点が、この21節の中にある。救いのメッセージは聖書の中に常にあったが、今やその救いは成し遂げられ、その約束の意味がはっきりと、しかも全く新鮮な驚きとともに示されたのだ。「今」という時に、とうとう新しい契約が到来したのである。
聖書を読む度に、私たちはキリストの受肉の意味の深さと大きさとを知って、驚きつつ感謝をささげるべきなのだ。神御自身が、私たち罪人のために人間となられて世に来てくださったのである。そのことがパウロの「しかし、今は」という言い方の中に含まれている。この「今」という時が、すべてを変えるのである。それだから、私たちが1999年というカレンダーを今持つことには意味がある。クリスチャンにとっては時間を数えることも、主イエス・キリストを中心に数えるのである。この年代の取り方には数年のずれはあるようだが、それだからといってその神学的な意味と事実が変わるわけではない。主イエス・キリストの「受肉」は全歴史を変える出来事であった。受肉は、十字架と復活と昇天のためであったのだ。そのことを覚えてパウロの言葉の意味を考えなければならない。
律法との関係
「律法とは別に...」という言い方と「しかし、今...」という言い方によってパウロは、旧約聖書時代のことが完全に成就されたことを最終的に言おうとしている。「律法とは別に...」は、モーセの律法の下に救いを求めるのではなくて、新しい契約の時代が到来したことを宣言する言い方である。そして、その新しい契約時代の神の義のことをパウロは3章21節から説明し始めている。「律法とは別に...」という言い方が非常に大切なものだということは皆さんも十分に知っていると思う。この神の義の明示は「律法とは別」のものであった。
一部の注解者はこれを「律法の行ないとは別に」という意味に理解する。この文脈では行ないについて多く語られており(3章20節, 27節,
28節; 4章4節以下)、その同じ文章で (3章21節)パウロが律法自体をキリストにある福音の証しとして語っているためだ。この解釈は正しいかもしれないが、一つの節の中にある「律法」という言葉に二つの全く異なる意味を持たせることは不可能ではないにせよ、私には幾分こじつけのように思われてならない。むしろパウロは、契約としての「律法」について語っていると理解するほうがずっと自然であろう。そのほうが同じ21節で二度目に出てくる「律法」の“聖書”という意味に近いものとなる。
であれば「律法とは別に」という表現は、「モーセ契約とは別に」人間にもたらされた新しい救いの啓示がある、という事実を指し示すことになる。キリストの来臨以前には、モーセの律法が、それを土台とする聖書の他の部分と共に、神の義を啓示するものであった。人間はモーセを通して神を知るようになった――とは言え、律法は異邦人が救われるためにユダヤ人になることを命じてはいなかった。神の義は律法のうちに啓示されていた。それは、律法が義を定義していたからである。律法はキリストの十字架の真理、そして、キリストを信じるものに「義人」という法的身分が与えられるという真理を明示していたわけではなかったが、律法はその福音をあかししていた。
同時に、パウロは「律法と預言者」が福音を「あかし」していたことを付け加えて説明している。「律法と預言者」とは、キリスト来臨前の聖書全体のことを指す言い方である。福音は、言い換えれば、律法によってあかしされ、しかも、「律法とは別にあかしされた神の義」の啓示なのである。それは、福音がただキリスト・イエスを信じることによってユダヤ人と異邦人に差別なしに与えられる義について教えているがゆえに「律法とは別」なのである。福音は割礼も、込み入った犠牲の儀式も、ユダヤの祭司制度も要求しない。これらのことは全て完全に成就され、それゆえ過ぎ去ったのである。この意味で、福音は「律法とは別」なものなのだ。「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」、即ち、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと「すべての信じる人に与えられる」義をもたらしたのである
(3章22節)。これは全く新しい契約なのである。
使徒行伝を読んでみると、2章のところからペテロたちは福音を伝え始めており、そこでユダヤ人たちが救われたりしている。9章のところからパウロも福音を伝え始めるが、10章ではペテロが異邦人にも福音を伝え始める。15章に入ると、ユダヤ人とクリスチャンとの問題と、ユダヤ教の背景のあるクリスチャンと異邦人の背景のあるクリスチャンとの問題が起こってきている。パウロは、どの町に行っても先にユダヤ人に福音を伝えたが、迫害されて拒絶されると異邦人のところに行って福音を伝えた。異邦人に福音を伝えると、異邦人たちがどんどん救われていく。それを見たユダヤ人たちは激しく怒ってパウロを町から追い出してしまう。そのようなパタ−ンがいつも繰り返されていた。
ユダヤ教を背景に持つクリスチャンたちは、「異邦人たちも律法を守らなければ救われない」と考えた。「契約的な意味で異邦人も律法を守らなければならない」と考えていた。つまり、「モーセ律法の契約は、今もそのまま継続している」と考えるユダヤ教的なクリスチャンたちが少なからずいたのだ。神殿はまだそのままあるし、その神殿で祭司たちはまだいけにえを捧げていた。「異邦人がクリスチャンになるならば、彼らも割礼を受けていけにえ制度の祝福を求めなければだめだ」とユダヤ人たちは考えた。そして、はっきりした福音的立場を持つパウロのような人々はユダヤ人の迫害の的となった。
その迫害を避けるために信者たちがユダヤ教と妥協しがちであったのも事実である。つまり、異邦人に割礼を受けさせるように教えるならば、迫害されずに済んだのである。異邦人に割礼を受けさせて律法を守らせるならばキリストを信じてもそれほど問題にはならない。しかし、「異邦人は割礼を受けなくてもよい。異邦人は律法の儀式を守らなくてもよい」と教えようものなら、たちまち迫害される。その摩擦を避けようとして真ん中に挟まれているユダヤ系クリスチャンたちは妥協してしまう。そういう問題がローマの教会にあった。
パウロは、ローマ書の中でもガラテヤ人への手紙でも他の書簡においても、ユダヤ教の教えに反論して、「異邦人もユダヤ人もこの道のみによって救われる」ということを何度も強調して福音の根本を深く信者たちに理解させなければならなかった。その理由はユダヤ教にあった。旧約聖書はすべてユダヤ教を通して与えられたものであり、パウロたちが伝えている福音はそのユダヤ教のメサイアの教理と重複するような教えであった。そのようにパウロが福音を伝えれば、異邦人がユダヤ教からの影響を受けやすくなるのは当然であるし、クリスチャンになったユダヤ人も深く考えないならばすぐに混乱してしまう状態にあった。
それで、パウロは、非常にはっきりと、そして繰り返し繰り返し深く「律法とは別に...」というポイントを、ローマ書の後の箇所でも説明しているし、ガラテヤ人への手紙やコリントへの手紙でもこのポイントは強調されている。先に話したように「律法とは別に...」とは、もうモーセの律法の時代ではないということであって、神の正しさと神の義は新しい方法で表わされたということである。キリストが律法を終わらせた(ローマ人への手紙10章4節)。これ即ち「福音」である。
さて、「しかし、今は、律法とは別に.... 神の義が示された」という言い方をもってパウロは歴史の根本的な大変化を宣言した。そして21〜26節のところで、「今まではこうであったが、今からはもはやそうではない」ということを幾つかの事柄を通して説明している。「律法とは別に」という言い方を使うときに大きな誤解を招く危険性があるし、同時にパウロに反対する人たちがその言い方を利用して変に解釈してパウロに反論する機会を与えるという危険性もある。「律法とは別に....神の義が表わされた」という言い方には、まるで律法があって、またそれとはまったく別の新しいものがあって、その二つは何も関係がないかのように誤解される危険性がある。そして、実際に使徒行伝やパウロの書簡を読めばわかるように、パウロに反対するユダヤ人教師たちは、「パウロは神殿に反対し、律法に反対し、神をも冒涜している」と言ってパウロを攻撃するわけである。ユダヤ人教師たちがパウロの言葉をそのまま引用してパウロを攻撃するので、パウロは彼らの非難が無根であることを証明しなければならなかった。つまり、「律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて...」と宣言するのである。
明らかに「律法は、主イエス・キリストの十字架において成就された」という意味で「律法とは別に」と言っているのである。そして、「律法は終始キリストの十字架をあかししていたし、預言者たちも主イエス・キリストの十字架の働きのあかしをしていた」とパウロは宣言している。だから、決して「旧約聖書は無効になった」とか「もう旧約聖書はいらない」というようなことではない。むしろ旧約聖書が今まで教えてきた「約束」というものが、今この時に完全に成就されたのだ。約束されたものが来た時、その約束を表わしていた古い型はもう成就されたので、それはもういらなくなったのである。なぜなら、その約束自体がすでに完全なものとして与えられたからである。
非常にばかばかしい例えだが、例えば、予約販売で物を買った時に、約束した日に商品を受け取るための商品引換券を販売店からもらうはずだ。その一枚の紙がなければ、金を払ったとしても商品は引き取れない。その一枚の紙はその商品を買ったことの証明であり、受取りの約束あるいは保証である。商品が届いた時にその一枚の紙を提示して商品を受け取るわけだが、商品を受け取ったならば、もうその紙はいらなくなる。商品そのものがもうあるからである。金(ゴールド)を予約注文して引換証書をもらい、一週間後に受取りに行った時に、あなたは「金を受け取るべきか、引換券を最後まで取っておくか、どっちにしようか」などと迷う筈はない。当然、引換券を渡して注文した金をもらう筈である。
旧約聖書の約束はそれと似ていると思う。旧約聖書は主イエス・キリストの来臨と働きをずっと約束していた。神殿制度も犠牲制度もすべてキリストを約束するものであった。割礼もキリストを約束する儀式であった。食べ物についての旧約聖書の律法はすべて主イエス・キリストを約束する教えであった。イスラエルの服装についての教えもキリストを約束するものであった。その約束されたものが与えられたとき、その約束の証書の意味はもう成就されたのだから、それを捨てて、約束されたそのものを受けとるのである。そういう意味で、律法は主イエス・キリストにあって成就されたのだから、律法は今や、そのまま文字通りに守らなければならないものではなくなったのである。その意味で「律法とは別に」、しかし「律法と預言者がずっとあかししている」キリスト・イエスがその約束を成就してくださった。すなわち、「神の義が示された」のである。
律法において最も簡潔ではっきりしたあかしは犠牲制度によるあかしであった。羊の頭の上に手を置いて、罪を告白し、罪の赦しを求め、罪を悔い改めてから、その羊を自分の罪の身代わりとして殺さなければならないのである。明らかに、この羊は自分の罪の代償として代わりに死ななければならないのである。同時にこれは、イスラエルが国家として毎日朝晩繰り返し行なわなければならない儀式であった。更に、家族の代表は年に数回エルサレムに行って犠牲をささげる。それらの儀式は明らかに「その贖いは不完全である」ことを表わしていた。繰り返し繰り返し行なわなければならないその犠牲制度によって、その羊の血では自分の罪はまだ贖われてはいないことを教えられていた。
イスラエルはそのように罪を告白して羊を殺し、その血を流して悔い改めの儀式を毎日行なっていた。それでも神殿に入ることは許されなかった。せっかく神の家まで行っても、「ここに入ってはいけない」と言うのである。誰かの家に行った時に、「入るな。外に立ってなさい。用があるなら外で話せ」と言われたら、歓迎されていないような気持ちになるに違いない。旧約の時代では神の家に入ることは許されなかったのだ。祭司でさえ、ちょっと入るだけで直ぐに出なければならなかったし、中で座ることも許されなかった。そして、「至聖所」に入ることは更に厳しく禁じられていた。年に一度だけ、大祭司だけが、しかも、もし中で神に打たれて死んだら引っ張り出さなければならないというので、引っ張り出すための縄を大祭司の足に結わいつけて入るのである。皆さんが誰かの家に入る時に、「死んだら引っ張り出すから」と言って足にロープを結わえられて入らなければならないならば、実に歓迎されていないと感じる筈である。「もしかしたら、殺されるかもしれない」という予感がするはずである。
ガラテヤ人への手紙の3章で、「イスラエルがまだ子供であった時には律法という養育係の下に置かれていたのだ」とパウロは言っているが、神は律法によって明白かつ具体的な形でイスラエルに「自分たちは罪に汚れている者であって神の聖所に入ることができない者なのだ」ということを深く教えたのである。律法の定めのすべては「自分たちの罪はまだ赦されていない。まだ神に受け入れられてはいない。しかし神は自分たちと共に住んでおられる。神の律法に従い、身代わりの羊の血を流すことによってのみ、神の民としてある程度までは受け入れられている」ことを民に教えている。神殿の玄関から入ることは許されないが、その庭に立つことは許されていた。そして、年に三度、民は神の家に来て大きな祭りを行なう。神殿の中に入って座ることは許されないけれども、近づくことは許されていた。それによって、旧約の律法は、将来与えられる救いの約束をあかししていたのである。
そして、主イエス・キリストがまことの贖いを行なうために世に来られた時、バプテスマのヨハネは「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」とキリストを呼んだ。即ちヨハネは、「見よ。このお方こそ、まことの贖いとなって十字架上で死んで下さるために来られた神の子である」と証ししたのである。それは、「この方が血を流してくださることによってあなたたちの罪は100%贖われる」という意味である(ヘブル人への手紙9章12節参照)。その贖いが完全に成されたならば、まだ罪が赦されていなかった時代に守っていたその一時的ないけにえ制度は廃棄されなければならない。制度としての意味は完全に成就されたからである。まことの光が来たので陰は消えなければならないのである。
旧約聖書の時代には神の住まいを表わす象徴として神殿や天幕があったが、そこに入ることは許されていなかった。しかし、主イエス・キリストが完全に贖いを成就してくださったことによって私たちには、天にあるまことの神の御住まいに入ることが許されている。礼拝の時に私たちは神の御前に来て、天にあるまことの至聖所に入って礼拝をささげているのである(ヘブル人への手紙10章19節)。この礼拝は、三鷹で行なわれているのでもなければ、日本とかこの世で行なわれているのでもなく、私たちは霊において「神の御前」に、即ち、天に引き上げられて神のまことの至聖所に入って、そこに座って礼拝を行なっているのである。そこは聖なる場所である。
神の至聖所に入り、座って兄弟姉妹がともに葡萄酒を飲むことにも非常に大きな意味があるのだ。旧約聖書の祭司たちには神殿の中で葡萄酒を飲むことは許されていなかった。ナジル人となった者はその誓いを守っている間は、葡萄そのものを食べてもいけなかったし、葡萄酒を飲むことも許されなかった。神の救いである安息と平安を表わす葡萄酒は、そういう意味で旧約時代の祭司たちには礼拝の中では与えられてはいなかったのである。しかし、私たちには、まことの至聖所に座って、そこで食べて、飲んで、神と親しく交わりを持つという大変な特権が与えられているのである。これこそ律法と預言者が一貫してあかししていた救いなのだ。
律法が「してはならない。許されない」という言い方であかししたのは、私たちをキリストに導くためであった(ガラテヤ人への手紙3章24節)。今それが私たちに許され、与えられたということは、律法の成就がキリストによってもたらされたからである。律法の他のすべての教えも主イエス・キリストを指し示すものであり、いろいろな観点から私たちにキリストについて教えるものであった。それ故、それらの律法の教えは、今も大切な教えとして私たちに与えられている。
しかし、「それらは成就された」と言う時、もはやそれらは守らなければならない儀式や行ないの律法ではなく、真理を学んで理解するためのものとなり、その教えを通してキリストを求めるために律法は今も私たちに与えられている。私たちにとって律法は、もはや毎日の生活において守らなければならない行ないや儀式の定めではない。私たちはエビを食べてもいいし、蛇だって食べても構わない。犬でも豚でも、食べたら裁かれるというようなことはない。旧約聖書の中で食べてはならないと定められてたものでも、今の私たちは食べてもよいのである(ローマ人への手紙14章参照)。キリストが贖いを既に成就してくださった今、信仰から出ているのであれば、そして感謝して受けるならば、すべては良いものなのである。しかし、私たちも、律法を軽んじることなく、律法が命じる意味が何だったのかをよく考えて、律法の教えを通して更に深く主イエス・キリストを求めるべきである。今日の私たちもそのようにキリストを求めるべきだという点では旧約時代と何ら変わりはない。
律法はキリストをあかししている。もちろん、預言者たちも主イエス・キリストをあかししている。かなり直接的にキリストをあかししている預言者もいた。イザヤ書の53章は、主イエス・キリストの十字架の働きを非常に具体的に預言したものであった。それはキリストが生まれる700年も前に書かれたものであり、キリストの十字架の出来事を詳細に描いている。詩篇22篇や他にも主イエス・キリストの受肉や十字架を預言している箇所は200箇所以上もある。旧約聖書の中にメサイアのことが明らかに預言されている。
その意味でこの「律法と預言者」という言い方はキリスト来臨以前の聖書全体(旧約聖書全体)を指しており、この場合、詩篇は預言者の書に含まれている。時には、「律法と詩篇と預言者」という三つの言葉で旧約聖書全体を言い表すこともある。「預言者」はメサイアの教えを通してもっと具体的にキリストの十字架のことをあかししているわけである。パウロは、「律法は成就された」といって福音を伝えるときに決して旧約聖書を否定しているわけではない。この福音は律法と矛盾するものではない。これは、律法を無効にするような福音ではない。むしろ、福音は律法を成就し、律法を確立するのである。
31節のところでパウロはそのポイントに戻っているが、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのだろうか。絶対にそんなことはない。かえって、律法を確立することになるのだ」とパウロは断言している。福音は律法を確立するのである。なぜなら、律法の完全なる成就がキリストにあって与えられたからである。イスラエルを他の国々から聖別していた旧約律法は、イスラエルが明確な祭司の民としての性質を保つために与えられており、それによってイスラエルがメシアをもたらす民としての歴史的使命を果たすことができるためであった。このように、また他にも多くの方法で、律法と預言者とは来るべきメシアをあかししていたのである。メシアが来られて律法の約束を成就したことによって神は古いモーセの契約を越える方法でご自身の救いの恵みを啓示されたのである。
それ故、両方のポイント、即ち「もはや旧約律法の下にはない」というポイントと「律法は今でもキリストについて私たちに教える神の御言葉であり、キリストご自身をあかしするものである」という両方のポイントを同時に守ることが私たちにとって極めて重大なことである。律法のすべての教えは私たちのためにある。それゆえ私たちは、レビ記、申命記、民数記などを真剣に学んで、それらの学びを通して、キリストについて何が教えられているのかを熱心に求めるべきなのだ。その点においては旧約時代と何ら変わりはない。
パウロは、「律法はもう神の言葉としては無効になった。もう神の御言葉ではなくなったから、無いものとして考えなさい」とは言っていない。むしろ、律法の本当の意味を確立するために、「律法はキリストにおいて成就された」ということをパウロは強調するのである。実際に聖書を読むときにわかると思うけれども、新約聖書は旧約聖書の約三分の一でしかない。だから、私たちが持っている聖書もその大部分は旧約聖書なのだ。しかし、本当は旧約聖書とか新約聖書とかいうようなものはなく、ただ一冊の「聖書」しかないのである。一つの書物しかないのであって、二つの書物を一つにしたというようなものではない。
「今の時代のクリスチャンは旧約聖書を知らなくてもよい」というような間違った考え方を持ってしまいやすい。実際に、書店に行けば新約聖書だけの“聖書”が手に入る。実は、それはキリスト教の信仰としてはおかしなことなのだ。本の最初の四分の三を省いて、最後の四分の一だけを出版して、「最後の部分だけを読んでくれればいい」というのは何とも奇妙な話である。「聖書は一つの書物なのであって、創世記から始まるものであるから、創世記から読み始めて全体を理解するのでなければならない」というのが聖書に対するクリスチャンの正しい考えである。
旧約聖書のすべてはキリストについて書いてある。すべてはキリストをあかししている。それ故、キリストを正しく知るためには旧約聖書の教えを理解することは絶対不可欠なことである。そして、私たちにとって欠くことのできない大切な教えが旧約聖書において豊かに与えられている。旧約聖書もまた永遠に変わらない神の御言葉である。福音とは「神の福音」であり、主イエス・キリストを通して与えられる「義」について、旧約聖書も新約聖書とともにあかししているからである。「神の義」は、今やユダヤ人にも異邦人にも、キリストを信じる全ての者に与えられる「義人」としての法的身分という賜物として示されている。日々の犠牲はもはや必要ではない。なぜなら、キリストを信じる者は罪から完全にきよめられ、神の目には「正しい者」と宣言されているからである。
義
福音のことを説明する時にパウロは21節のところで「神の義」という言い方をしている。ギリシャ語も日本語も同じだろうと思うが、「神の義」という表現はやや曖昧な表現である。つまり、「神の義」という言い方をまず解釈しなければ、神の属性について話しているのか、神の救いの働きについて話しているのか、それとも神から与えられる義について話しているのかがわからない。そのために、どうしても解釈が必要となる。少なくともギリシャ語はそのような表現になっている。この「神の義」という表現はギリシャ語では属格になっているので、いろんな解釈が有り得る。
それで、「神の義」という表現を読むときに、神の属性である「神の正しさ」そのものについて解釈することは有り得ないことではない。そして、旧約聖書の多くの箇所で「神の義が表わされる」と語られているが、例えばイザヤは、神の救いの働きを「神の義」というふうに話している。つまり、神は正しい裁きを行なうことによって御自分の民を救ってくださるのである。イザヤ書の多くの箇所で、神の義は、神が与えてくださる救いのような意味に使われている。パウロが「神の義」と言う時、パウロは神から与えられる正しさという意味でこの表現を使っているけれども、当然そこにはイザヤ書の背景もあるし、神御自身は義なる御方であられることも強調されているし、そのことを覚えずに語るはずはない。
正しい神が、正しさを私たちに与えてくださる。それが神の義なる救いの働き方なのである。「神の義」という表現はそういう意味で、実に広い意味を持つ表現であると言わねばならない。22節でパウロはその表現の意味を明かにしてくれる。それは「神が私たちに与えてくださる正しさ」なのだ。そのことをパウロは22節においてローマ書の中で初めて明らかにしている。5章を読めばもっと深くその意味がわかるようになるが、この22節でパウロは次のように明言している。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もない。
どのような義なのか。どういう神の正しさについて話しているのか。それは、すなわち、「主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義」なのである。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、主イエス・キリストを信じる信仰を持つ者には「神の義」が与えられて神の御前に「正しい者」とされるのである。それが救いの中心的なことであり、全く新しい契約なのだと、パウロは話している。「義が与えられる」ということについては4章及び5章でもっと深く説明されているが、この3章22節で初めて、「神の義」は主イエス・キリストを信じる信仰によって、即ち、キリストによって与えられるということが明確に表現されている。その信仰のことをパウロは4章で説明し、「キリストによる」ということを5章で更に深く説明している。
「正しさが問題なのだ」ということを、ここではっきりと見ることができる。主イエス・キリストを信じる者に与えられる「正しさ」によって、その人たちは義と認められて救われるのである。救いは、神の聖さ、神の善、神の義から来るものなのだ。義なる聖なる神は、私たちの罪をただ見逃したり忘れたりすることはしないし、またできない。義なる聖なる神は、完全に罪の罰を要求したもう。そのことは旧約聖書の犠牲制度においても明らかに教えられている。死ななければ、そして血が流されなければ、罪の赦しはないのである。その義なる神が、どのようにして御自分の義を曲げることなしに私たちに救いを与えてくださるのか。それが福音の解決する問題である。
主イエス・キリストが、その私たちが受けるべき罰を私たちの代わりに受けてくださった。私たちが受けるべき罰を完全に身代わりとなって受けてくださったので、その罰はもう私たちには下されない。キリストを信じるときに、私たちは主イエス・キリストを契約の代表として信じて受け入れるのである。そして、主イエス・キリストの代表者としての働きの実が私たちに転嫁される。私たちの罪はキリストに転嫁され、キリストの義が私たちに転嫁されるのである。これが福音の中心である。「しかし、今」この御方が来られた、とパウロは言う。「神の義」は今やユダヤ人にも異邦人にも、キリストを信じるすべての者に賜物として与えられる。日々の犠牲はもう必要ではない。キリストを信じる者は完全に罪からきよめられており、神はその者を「正しい者」と宣言したもうのである。
パウロの主要な関心が人間の主観的な事柄にはないことに注目すべきである。福音について考える時、ただ気持ちのことではなく、法的に考えなければならない。救いは神の義なる法廷での話なのである。「正しさ」の問題を抜きにして救いを考えてはならない。律法を破る罰についても考えなければならない。つまり、聖書の「救い」の教えは、私たちの気持ちがどうなっているのかを中心にしているのではない。人間は神から離れているゆえに、他者やこの世界からの疎外を感じるだろうことには疑問の余地はない。人間が、たとえ神を憎み、神の真理から逃れようとしても、決して神御自身に対する飢え渇きを打ち消すことができないことも確かなことである。また、人間は、罪悪感や憂鬱、また有りとあらゆる不安にさいなまれていることも疑い得ない事実である。
確かに私たちの気持ちや思いのことについても聖書は多くを教えている。新しく生まれること、心が変えられること、喜びが与えられ、平安が与えられることなども全部福音の中に含まれる教えである。これらの主観的問題は福音によって否定されているわけでもなければ無視されているわけでもない。しかし、それらは最も中心的なことではない。私たちがどう感じているか、寂しいのか、或は心の奥に疎外感があるかどうか、死を恐れているのか、といった人間のもろもろの心理的な問題を中心に聖書は語っていない。私たちの本当の問題はもっと客観的なものなのだ。変に聞こえるかもしれないが、中心的な問題は私たちにあるのではなくて、神にあるのだ。
気を付けて聞いてほしいが、神は聖であられ、絶対に御自分の義を曲げることのできない御方であられる。罰が支払われることなしに私たちの罪を赦すことはできない。それが問題の中心である。神は、罪深く汚れた者を御自分の臨在の内に受け入れることはできない御方なのだ。その罪咎の問題が解決されなければ、罪人は一人残らず裁かれて永遠に滅ぶほかはない。いかなる主観的な問題であっても、その問題に注意を向ける以前に、先ず、客観的で法的な問題としての“罪”の問題が取り扱われなければならないのである。罪こそ、私たちにとって最も根本的な問題なのだ。人間の心にあるもろもろの問題を解決する以前に、まず罪に対する神の御怒りが取り除かれなければならない。
この理由のゆえに、パウロは福音について語る時に、先ず何よりも「義認のメッセージ」として語るのである。福音は義認だけの話ではない。そうなり得ないものなのである。しかし、解決されなければならない根本問題が人間の罪に対する神の御怒りであるがゆえに(1章18節)、先ず「義認」を語らねばならないのである。その客観的で法的な問題を解決するために、驚くことに神御自身が、私たちの受けるべき罰を御自分の上に受けてくださったのである。罰は下された。福音の問題はそういう意味で、極めて客観的で契約的で法的な問題なのだ。福音の“良き知らせ”とは、律法の契約が完全な犠牲を提供することができなかったために解決することのできなかった「神の御怒り」の問題を、今やキリストの完全なる犠牲がただ一度だけ払われて罪を取り除いたことによって、キリストにあって解決されたということなのだ。
キリストが来られて、罪の代価を支払われた今、新しい契約にあってすべての人は信仰のみによって聖なる神に近づくことができ、神がその御臨在の中で自分を義なる者として受け入れてくださることを確信することができるのである。そこから考え始めるならば、5章の「このように義と認められたので、大いに喜ぶ」という話は確かなものとなる。根本的かつ客観的な問題が解決されなければ、主観的な問題の解決は有り得ない。普通のクリスチャンではない宗教は客観的な問題についてはほとんど語ることもないし、ある意味でそれを気にするほどのことでもないと考えている。みな主観的な問題を中心にする。あれこれ心理的な手法を凝らして、喜び、幸せ、平安などを人々に与えようとする。結局のところ偽りを通してそれをすることになる。それが彼らにとって中心的なことになる傾向が強い。彼らは客観的で法的な問題として罪を考えはしない。しかし、私たちの犯した罪によって神との客観的な関係がだめになった、とパウロは宣告する。
私たちの罪は、神の律法を破るものであるから、厳密に言えば神の御国においてそれは「犯罪」である。私たちは犯罪者であって、神に逆らう者である。反逆した者たち(すべての人間)は、いったいどのようにして義なる神の御前に立つことができるというのか。神の聖なる裁きの御座の前にどうやって立つというのか。それが福音の問題である。だから、パウロは先ず「神の義」について最も多くを語るのである。私たちの罪についてパウロは1章からずっと語っているが、その罪は、実に神の聖い絶対にして永遠の御怒りを招くものである。神は、私たちの罪を見るとき、激しい憤りを覚えて私たちを裁こうとされる。誰一人その義なる御怒りの裁きから逃れ得る者はいない。その聖い義なる神が、どうして罪咎にまみれた私たちを赦すことができようか。しかし、神は私たちの罪を赦してくださった。その罪の客観的な問題がキリストの十字架によって解決されたからである。
キリストを信じる者にキリストの「正しさ」が与えられる。それで、キリストを信じる私たちは、神の御前に立つ時に、「正しい者」として認められるのである。主イエス・キリストの与えてくださった真っ白な義の衣を着て神の御前に立つとき、神は私たちをキリストにある者として見てくださる。神は裁きの御座から「この者は正しい者だ」と宣言して私たちを受け入れてくださるのである。それが義認であり、義と認められることである。義と認められることが、福音の中心である。
信仰によってその客観的な問題を真剣に考えることができるようになったその時、はじめて心の中に本当の意味での喜びと平安が与えられてクリスチャンとして成長しはじめる。罪を客観的な深刻な問題としてとらえて、「私の罪は、このように罰せられなければならない実に実に忌むべきものだ」ということを認めるようになってはじめて、キリストの贖いの尊さを知るようになり、クリスチャンの成長についても理解するようになるのだ。結局のところ私たちは罪人であって、非常に深い意味で心の鈍い者である。非常に鈍感な者なのだ。自分の罪の深さを十分に感じることがなく、どんなに傲慢で、どんなに罪の道に走ってしまいやすいか、どんなに愚かで、自分の思いがどんなに自己中心的でどんなに汚れているのかに、私たちはほとんど気が付きもしないし、思いもしない。深く気が付こうともしないのだ。
私がまだ若いクリスチャンであった時によく思ったものだ。「クリスチャンとして御言葉をよく学んでしばらく成長していけば、罪から解放されて、きよい人間になるだろう」と思ったりした。しかし、実際の成長というものは、キリストが共にいなければ完全に絶望してしまうほどに、私たちの成長は遅いものであり、成長すればするほど、罪の問題をもっと深く感じるようになるものなのだ。そのことをパウロはローマ人への手紙の7章で説明しているが、それは私たち皆が経験しているところではないかと思う。成長すれば成長するほど簡単になるのではなくて、ますます自分の醜さと汚れと罪の深さというものを痛いほど教えられるようになるのである。それで、クリスチャンはどのように成長しているのかというと、悔い改めが深くなっていく筈なのだ。昔よりももっと罪の悔い改めが深くなり、急いで悔い改めるようになり、キリストを求める心ももっと深くなる筈である。それで実際に非常にすばらしい人間になったのかというと、さにあらずで、たいしたものではないのだ。そのことを、成長するにつれて痛いほど感じさせられるである。
その鈍感で愚かで罪深い心を持つ私たちに、神は聖餐式を与えてくださった。聖餐式のときに私たちは自分の罪を悔い改めて、救いの原点に戻るのである。それが非常に重大なことなのだ。それは堅忍の中心である。絶望して、止めて、あきらめて、「もうしょうがない、どうしようもないのだ」と思ってキリストから離れるのではなくて、どんなに失敗しても、どんなに自分が愚かであっても、どんなに罪深くても、悔い改めて救いの原点に戻るのである。自分の罪を、忌み嫌うべきものとして見て、そこから解放されるのを心から求めて神の御前に出るのである。それこそ聖餐式の大切な点だと思う。私たちは皆、自分がそんなにすばらしい者ではないということを知っている。けれども、とにかくキリストから離れはしない。離れることはできない。続けて御恵みを求める。その出発点に戻るのである。そのことを覚えて聖餐式を守りたいと思う。
――1999年1月24日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com