ローマ人への手紙3章23節
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
99.01.31. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
的はずれ
3章23〜24節
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3章21〜26節はローマ人への手紙の中心的な箇所だということで先週からこの箇所を考え始めたところである。この短い段落の中でパウロは福音の最も深いところを取り扱っている。即ち、義と認められること、そして主イエス・キリストの十字架のことのすべてが、この短い段落の中で複雑な文書をもってはっきりと宣言されている。22節は「何の差別もありません」という言い方で終わっている。「何の差別もありません」とは、異邦人とユダヤ人との間に何の違いもないという意味である。「差別」という言葉がよいのか「区別」と訳すべきか判断しかねるけれども、ここでパウロが言おうとしているのは、義と認められることにおいて、異邦人もユダヤ人も全く同じように義と認められなければならないということである。
「律法とは別に」という21節の言い方の中にはこのポイントも含まれている。律法を行なうことによって或は律法を通して義と認められることを求めるのではなく、主イエス・キリストを通して義と認められることを求めなければならない。イエス・キリストを信じる信仰による義認は、いかなる差別もなく、すべての人に与えられる。律法はキリストにおいて成就されたので、ユダヤ人も異邦人も皆、唯一の救い主であるキリストを通して救いを求めなければならない。それがパウロの説明のポイントである。
「何の区別もない」(3章22節)と宣言する時、それは「モーセの契約は既に成就されて終わっている」という話になるのである。旧約聖書のモーセの時代からキリストの時代までの期間においては「区別」はあったのだ。日本語では「差別」という訳になっているが、「差別がある」という言い方はどうも変に聞こえるので私は「区別」という言葉にしたいが、旧約時代には区別があった。つまり、割礼を受けてモーセ契約の下に立つユダヤ人は神の祭司の民であった。他の民は世俗の民であり、祭司の民ではない。祭司の民と普通の人々の区別ははっきりしていて、神の礼拝制度においてその区別は非常に重大なものであった。
しかし、メサイアが来る。主イエス・キリストが来て私たちを救ってくださる。それは律法が預言していたことであり、色々な形でずっと示されてきたことであった。そして、実際にキリストが来た時、律法のすべてが成就したので、ユダヤ人は律法を守ることによって神との関係を保つということではなくなり、主イエス・キリストを通してのみ救いを受け、キリストとの関係において救いの道を歩むということになる。「何の区別もない」という強調が、罪においては人間に何の違いもないという事実を再度繰り返す23節への導入となっている。
罪
23節でパウロは再び罪の問題に話を戻している。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」とパウロは言う。罪の問題に戻る時に、3章10節以下のように長く細かく話すのではなく、短く簡潔に「皆同じように罪人なので、同じように罪の贖いを受け、同じように救われなければならない」と説明している。そういう意味で話のポイントは非常に明白である。しかし、パウロの言い方には実に深い意味が秘められていて興味深い表現が使われている。
まず、「すべての人は、罪を犯した」という言い方は、罪の中身については曖昧な表現になっている。皆、いろいろな意味において罪を犯したというわけである。人間は皆、罪の心を持っている。勿論アダムとの関係において罪を犯したという意味も含まれている。実生活の中においても罪を犯したことがある。それらすべてを含めて「すべての人は、罪を犯した」と言っているのだ。罪人かどうかにおいて異邦人とユダヤ人の区別はない。同じようにみな罪人である。
原語の聖書を見ると、へブル語にもギリシャ語にも様々な「罪」という言葉があるが、日本語に訳せばどれもただの「罪」になってしまう。それらは同意語ではあるがニュアンスの違いがあるため、それぞれの言葉を使い分けることによって罪とは如何なるものかについて異なった視点を与えることができる。ここに使われている「罪」という言葉はギリシャ語の「ハマルティア (hamartia) 」即ち「的はずれ」という意味の言葉である。それに続く表現も、「神から与えられた本来の意味を守っていない、成就していない、表わしていない」というような視点から罪のことを説明している。この視点からの罪は、人間が本来到達すべき「的」の存在を前提にしている。「的」がなければ
"hamartia"も有り得ないからである。
これは、人間の本性に関する問いに対する聖書の解答を示すものである。ある人は「人間は根本的に悪である」と言い 、他の人は「人間は根本的に善である」と言う。聖書の教えはそのどちらでもない。日本の教育を海外に紹介するための文部省の出版物を読むと、「人間は根本的に善いものである」ことを前提とする教育方針がはっきりと書かれてある。「人は皆ついつい悪いことをしてしまうけれども、人間の心の奥底は本当は清くて善なるものなのだ」と熱心に教え、またそう信じているのである。それを日本の教育の土台の一部であるかのように文部省は説明しているが、聖書の教えはそうではない。
罪は、人の心の一番深いところに根を張っている。「心の深いところまでたどって行けば、小さくて素晴らしい清いところがある」というような話ではないのだ。「深く行けば行くほど、恐ろしく汚くてとんでもないところがある」というのが聖書の教えである。「だから、人間は根本的に悪いものなのだ」という性悪説のような話も聖書にはない。聖書は「人間は神の似姿に創造された」と教えている。人間は「根本的に悪である」というよりは、「ハマルティア」であって「的はずれ」なものなのだ。罪人はみな「的」からはずれているのである。つまり、神の栄光を表わすものとして創造されたのに、その栄光を正しく表わさないで曲がったものになっている。これは、人間が善なのか悪なのかという議論よりはずっと複雑な概念である。
心の一番深いところまで行くと、目を覆いたくなるような汚れに満ちた悪いものを見ることになる。けれども、その悪いものとは、善いものを悪用して歪めているものなのだ。それをただ単に「悪」と呼ぶことはできない。同時に、はっきりと「善」だと呼ぶこともできない。それはひどく歪曲され、汚されたものなのである。クリスチャンにとってこの点を理解することは非常に大切なことだと思う。というのは、人間が無益で悪以外の何ものでもないと断言しているかのように聞こえる言い方で私たちは罪の教理を強調してしまいやすいからである。この問題をそのように表現するならば、罪の教理について間違った印象を与えることになるであろう。「なぜ根本的に悪いものが存在したのか」という議論になれば、「どうして神は悪いものを創造したのか」という議論にもなるわけである。「人間は悪以外の何ものでもない」と言うなら、人間はもはや神の似姿ではなく、神の栄光を表わすことなど到底不可能であって、あたかも人間が歴史上で為す行為のすべてが無意味だというふうに聞こえてしまうことだろう。しかし、それはまったく聖書の教えではない。
人間は罪に堕落していて、神の似姿を酷く歪めてはいるけれども、それでも神の似姿であることに変わりはないのだ(創世記9章6節、ヤコブの手紙3章9節、コリントへの第一の手紙11章7節を参照)。それゆえ、今でも人間は不本意ながらもしばしば神の栄光を表わしている。表わしてしまうのだ。だからこそ、罪人の歴史における働きには意味があり、反抗する者らが夢想だにしなかったような目的のために、彼らもまた神によって用いられもするのである(4章21〜22節参照)。人間は、たとえその罪によっても、神の創造の御言葉によって自らに課せられた絶対定義から逃れることはできない。たとえ人間が“自己殺人”を犯す時ですら、彼は自分が神の似姿であるという事実を明らかに示しているのである。人間以下の動物には想像することもできない理由で、彼は犬猫にはできないことをしているからである。
栄光に達しない
パウロが続けて、人間は「神の栄光に達しない」と言う時、これは、的はずれの「罪」という言葉に関わる概念の意味するところを更に詳しく述べているのだと私は思う。それを念頭に置くならば、パウロが言わんとしていることを理解する助けになるであろう。この23節を日本語新改訳では「神からの栄誉を受けることができず」と訳されているが、この訳は誤りだと思う。下の脚注に「神の栄光に達しない」という別訳があるが、そちらの方が原語の文字通りの訳である。「神の栄光に達しない」ということは「神からの栄光を受けることができない」という意味ではないかということで、その解釈の結果として新改訳では「神からの栄誉を受けることができず」という訳になったのだと思われる。
しかし、もしその解釈が正しければ、原文には「..から」という言葉が入っていなければならない。原文に「..から」という言葉があるならば、文字通りには「神からの栄光に達しない」という訳になるので、「神からの栄誉を受けることができず」という訳になるのも理解できないことはない。しかし、そうではない。また、「神の栄光に達しない」とは、「最終的に神が救いの栄光を与える時に、罪人はその栄光を受けることができない」というような解釈があるが、そういう意味でもない。「神の栄光」「に達しない」とか「欠けている」という原語の表現にはこの他にも様々な解釈が施されているが、果たしてどういう意味なのだろうか。
パウロは、罪人の今の状態のことを話しているのである。最終的にどんな状態なのかという話をしているのではない。そして、この「すべて」というのは、「すべて信じる者は救われる」という話から来ているものである。即ち、「それはすべての信じる人に与えられ、何の区別もない。すべての人は、罪を犯したので.....、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに...」というふうにパウロの説明は続いている。だから、23節の「すべての人は」というのは「すべて信じる人...」というところから始まっているわけである。これは救われる人たちの事について話しているのであるから、最終的に栄光を受けないという解釈には無理がある。
大切な点は、最後の裁きにおいて人間が神から「称賛を受け」たり「栄誉を受け」たりするかどうか、また、人間が神をほめたたえるかどうかということにあるのではない。寧ろ、人間が創造された時にしっかりと射当てるようにと意図されていた「的」との関係が大切なのだ。創造された目的は何なのかがポイントなのだ。では、どういう意味なのかというと、「神の栄光を表わさない」というのが一番正しい意味ではないかと私は思う。人間は神の栄光を表わすように創造された。それが人間の最初で最高の使命であった。他の何にも増して、罪人はこの点で失敗するのだ。だからパウロは、「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光を表わすことができない」と言っているのである。
つまり、人間の罪を説明する時にパウロは、「すべての人間は本来あるべき状態から外れている」ということを指摘しているのだ。それがパウロの念頭にあったことは、パウロが人間の創造された本来の目的へと回復されることとして「救い」を描写したことを考えれば明らかであろう。コリントへの第二の手紙3章18節のところでパウロは救いについて話しているが、そこでパウロは、本来人間はどうあるべきだったのかを次のように明らかにしている。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
つまり、御霊が私たちのうちに働いて成長させてくださるということを、パウロは「栄光から栄光へ」というふうに説明しているのだ。神の御言葉は、クリスチャンを「栄光から栄光へと」変えていく。実のところ、アダムとエバが創造されたときに彼らは栄光から栄光へと成長して行く筈であった。栄光を受けて、栄光を表わして、そして更に栄光を表わすことにおいて成長していく筈だった。それが人間の本来あるべき姿である。人間はそのようなものとして創造されたのである。だから、罪人が主イエス・キリストを信じて救われる時、状態は回復され、おそらく非常に幼稚で初歩的なやり方でしかないかもしれないが、神の栄光を表わしはじめるようになる。そして、クリスチャンの知識、知恵、聖さにおいて成長して行けば行くほど、神の栄光をもっともっと表わすようになる。
栄光における成長は個人においてもそうであるし、歴史的な長い目で見るならばもっとはっきりと見ることができる。歴史における代々の成長を一番明らかにそして簡単に見るには、一番程度の低いレベルから始めた罪人のケースを見ることになろう。これは、すべての人間のために神が歴史において明らかな証を残してくださったことであるが、それを昔のローマ帝国の時代から見ることができる。ローマ帝国はダニエル書の預言に出てくる四番目の帝国であり、歴史におけるローマ帝国の務めは、その前にあったギリシャ、ペルシャ、そしてバビロンと同じように、神の民イスラエルが正しく神を礼拝することができるようにイスラエルを守ることであった。
ローマ帝国の時代、北ヨーロッパの人々は野蛮人であった。ローマ帝国はヨーロッパの野蛮人を見下していたし、奴隷として使うにしてもどういう所で働かせるかという問題にもなったりした。毛むくじゃらで臭気ふんぷんたる彼らは家の中で働かせることさえできない、実に野蛮人中の野蛮人であった。それが私の祖先たちであった。その人たちには、いわゆる文明というものは無かった。ある程度の文化はあっても、その生活はといえば、戦争、戦の準備、隣族からの略奪物を求めて戦争に明け暮れるというものであった。時にはローマ帝国の領地にも侵入して虐殺を繰り返し、多くの女性を犯しては略奪物を奪って逃げるという毎日を送っていた。
その人たちの所にもキリストの福音が入って行った。福音を彼らに与えるのに大変な長い年月を費やさねばならなかった。しかし、ついに野蛮人たちはキリストを信じる者となり、平和を保つ者に変えられたのである。平和を保つ者となったとは言え、今の私たちの観点から見ればまだまだ程度の低いものであった。けれども、以前の野蛮人だった時から比べれば変化は歴然としていた。どのレベルから救い出されたかを振り返ってみるならば、「かなり神の栄光を表わす者になった」と評価せずにはおれないものであった。
彼らは福音によって変えられたが、北のスウェーデンやノルウェーやデンマークはまだ野蛮人のままであった。平和を求めるようになった彼らは巧く戦争できなくなって、北方からの攻撃に脅かされるようになる。再び野蛮人との問題の中にあって福音を野蛮人に伝える働きが起こされていった。アイルランドから宣教師たちが次から次へと送り込まれ、野蛮人だらけのイギリスやフランスでも人々が救われていった。とにかく気が遠くなるような長い闘いであった。けれども、最終的に、どうにもならない野蛮人だった人たちが文明というものを持つようになったのである。明らかにそれは聖書の影響であった。それは福音が伝えられた結果であった。
東の中国で既に高度な栄光に輝く文明が続いていた時代に、ヨーロッパにはまだ栄光と呼べるような文明は何一つなかった。しかし、ある程度まで聖書を信じて御言葉を実際の生活に適用するようになったヨーロッパがどうなったかというと、教育、芸術、音楽、建築などにおいてどんどん神の栄光を表わすようになったのである。政治においても神の栄光を表わすようになる。つまり、一般の人々が自由を持ち、私有財産を持つようになり、どこに住むかを自分の意志で選ぶ権利が与えられ、どういう仕事をするか、誰と結婚するかなどを、一般の人々が神の御心を求めて決めることができるようになったのである。地域教会がその中央政府から自由になり、人々の生活は経済的にもどんどん豊かになっていった。神の栄光がいよいよ表わされていくようになった。
ヨーロッパの信仰もアメリカの信仰も非常に不完全なものなので、「神の栄光を表わしてはいない」と言えば確かにそうとも言える。経済の発展が与えられると、結局それを利用して罪を犯してしまう。力が与えられると、酷い事をして神に逆らうようになってしまう。19世紀頃からどんどん神を信じる信仰から離れ、二十世紀の歴史は「栄光」というよりは「戦争」ということになってしまった。それらはみな事実である。しかし、野蛮人が聖書を信じた時から、聖書は野蛮人に文明を与え、その文明は栄光を表わすようになったのも事実である。病院を作るようになり、孤児院を建て、十九世紀の福祉の働きは今よりも豊かであった。そして、十九世紀の福祉の働きはすべてキリストの教会また個人であって、国家ではなかった。そのようなものを教会が作り、クリスチャンの個人が積極的に作ったりした。また、科学もその文明の中から生まれてきた。
十三世紀にフランスのブリダーヌス・ヨハネスという神学者がアリストテレスの物理学を勉強していて、その理論に疑問を抱いたことから科学の鼓動は始まったと言える。アリストテレスの物理学は、永遠の昔から宇宙は存在していたことを前提としていた。「そんなことはない。およそ六千年前に、神が万物を創造されたのだ。宇宙のすべては神の創造から始まっている」という立場からブリダーヌスは古典的なアリストテレス流の解釈を排して、慣性的運動力や躍動力および加速度などの概念を導入し、そこから近代科学の熱力学の法則や慣性の法則への道が開けたのである。現代科学の最も根本的な原則は、聖書を信じるこの神学者によって見出されたのだ。それが近代科学の幕開けをもたらした。
それからのヨーロッパでは、科学的で合理的な研究があらゆる分野において進められていったが、それは聖書を信じていたから出来たことであったという事実を見落としてはならない。人間の頭は合理的に考える頭脳を神から与えられている。宇宙も合理的なものとして神によって創造された。神は合理的なお方であられる。神は、人間を、宇宙を理解できるものとして創造した。そのように造られた人間が宇宙を研究すれば理解できるのは当然至極なことである。「合理的に基本的なことを説明することが出来るはずだ」という前提から科学は始まった。そこから、すべての分野における合理的な学問研究がなされるようになっていったのである。
キリスト教以外の昔の宗教の宇宙観は全く非合理的なものであった。神から離れている人々の間の宇宙観も全く非合理的なものであった。例えば、昔の中国には多くの価値ある発見がなされたが、科学を世界観全体において合理的な研究方法として持つことはなかった。そんなことは考えもしなかったのだ。そんなことが出来るとは誰も想像だにしなかったのである。天才的な発見は部分的にあっちこっちにあった。しかし、それらのすべてをシステム化して一般の生活に適用したり、更に素晴らしいものとして神の栄光を表わすようにはならない。その世界観と宗教が問題なのだ。
昔のギリシャも、バビロンも、エジプトも全くそれと同じであった。宇宙についても同じような考えだったし、同じように天才的で優秀なものをそれぞれに持っていた。昔のエジプトでは早くから脳の外科手術が行われていた。バビロンの建築物は非常に優れたものであったし、ギリシャの建築物は今でも少しは残っているが、今でも人々は皆その瓦礫を一目見ようとしてわざわざ訪ねて行くほどである。そこまですごい物を至る所に作ることができた。けれども、一貫した合理的な世界観とか宇宙観を以て「科学」を生み出す力はなかったのである。
野蛮人が、科学を生み出したのだ。何故なら、その野蛮人は聖書を信じたからである。聖書には、神が万物を創造したことが書かれてあるので、その前提をもって考えることによって科学が生み出されたのである。科学は、神が万物を創造したことを信じた人々から生まれてきたのである。だから今日私たちは電気を使うことができ、高度に印刷された書物を手にし、テープレコーダーやテレビ、そしてコンピューターを持つことができるのだ。それらはみな科学の結晶である。科学の尊さは量子力学などにあるのではなくて、一般の人々の毎日の生活に多くの祝福をもたらしたところにある。それは、神の栄光を表わしていることなのだ。まさしく「栄光から栄光へ」である。
本当はもっともっと進んで人類に祝福を与える筈なのだが、罪人は、良い物を与えられた時に、「的外れ」の心を持ってその良い物を悪いことのために利用したりする。いつも思わされるのだが、歴史を題材にした映画などを見ると、歴史に無いようなことがやたらと入っている。シナリオライターにとっては、とんでもない美しい女性が出てこないと映画にならないとか、どうしてもロマンスを挟まないとだめらしい。誰かが暴力を振るって誰かを救い出すような場面も加えたりする。決して本当の歴史をそのまま忠実に語ろうとはしない。しかし、本当の歴史をありのままに語る方がそのような映画よりかはずっとずっと感動的でおもしろいものなのだ。そして、人間は、その歴史の事実を表現できる筈であるし、その能力もある。歴史の事実について多くを知っているし、深く表現することができるはずである。人間には映画を製作する能力が与えられている。しかし、人間は、本当に人の徳を高めて深い教育を与えるようにその力を使おうとはしない。そういう意味で、人間は実に神の栄光を表わさないものである。
医学においても同じことが言える。医学の裏では莫大なお金が動いている。ある講義で聞いたことだが、百年近く前のアメリカには二つの医学の学派があった。講義の話によると、一つの学派は東洋医学のハーブとか漢方薬のような薬を多く取り入れていた。もう一つの学派は漢方医学を一切受け入れずに全く化学に徹していた。当時では化学的に製薬する学派の方が圧倒的な勢力を持っていたので、その学派の学校を卒業しなければ医者として認められなかったり、薬剤師の資格さえ取ることはできなかった。それで、東洋医学を取り入れていた学派の伝統は消しさられてしまった。それで、化学的に製薬する学派の独壇場の下に各製薬会社は莫大な利益を欲しいままにした。それで、昔あった多くの伝統的な薬は片っ端から姿を消してしまった。それを扱う病院も医者も薬剤師もみな廃業を余儀なくされたというのである。
しかし、本来の医学は人を救うことが仕事であった筈だ。キリスト教の社会では、医者になるには誓いをしなければならなかった。医者には特別な責任があるからだ。けれども、それも曲げられてしまって、すべては金儲けのためのシステムになってしまった。日本も同じような傾向があるのではないか。私の父は医者であった。父の時代の医者たちは皆、「自分は人を救うために医者になったのだ」という自負があった。「神がこの仕事を与えてくださったのだ」という使命感があった。しかし、そのすぐ後の時代に早くも金儲け本位のものに変わってしまったようである。父と母がそう嘆いていたのを少年時代の私はよく耳にしたものである。
医学界は今いろいろな遺伝子の研究を熱心に行なっている。何をするかというと、クローンの研究である。クローン医学は、永遠の医学を生物学を通して求めるかのようなものになっていると言っても過言ではない。生物学的に遺伝子的にクローンによって私と全く同じ人物が生まれてくるのである。クローンによって生まれた者は私の継続となって私のすべてを受継ぐようなものとなる。いわば私のコピーである。その数が多ければ多いほど、自分の力は増大していくと考えられている。つまり、これは昔の東洋の親たちが子供について抱いていた考えと同じものである。同じ宗教的な思想なのだ。「息子をたくさん欲しい。息子が多ければ多いほど、自分は偉大で力ある者になる」と考えられていた。息子たちが自分の跡継ぎとなり、いわば父親の継続版であるかのように子供は考えられていた。そのような考え方も、結局のところは永遠のいのちを子供を通して求めるかのような考え方に他ならない。「それは宗教のようなものだ」と言われる理由がそこにある。
クローン人間についてもそれに似たような考えになってきている。遺伝子の研究は、本来ならば人間に益となる薬を作ったり、食物を作ったり、病気を癒したりするためのものとしては良いものである。有益な面は少なくない。だから、その研究のすべてが悪いとは思わない。しかし、良いものを何とかして曲げようとするのが罪人の問題なのである。原子力の技術もそれ自体は悪いものではない。しかし、その原子の力を持った途端、人間はまず原子爆弾を作ろうとした。まず原始爆弾を作ってから後で発電所を作るということになる。物理学の諸発見は基本的に良いものである。しかし、使い方となると、あくまでも罪人の使い方になるのである。何でもかんでも、そういうことになってしまう。それは、罪人は神の栄光を表わさないからである。しかし、贖われて救われた者は、神の栄光を表わすようになる。それでも、罪人なので、完全な意味で神の栄光を表わせないのは事実である。
「神の栄光を表わす」と言う時に、「栄光」とは何なのか。聖書では、神の栄光はよく栄光の雲において表わされる。音や偉大な象徴なども栄光を表わす。また、神の栄光は色と光において表わされる。西洋の芸術における大きな進歩はその光の表現にあると言われている。光を表わすことが重要なテーマとなっていたので画家たちはその表現のために生涯をかけたりした。なぜ光を表わさなければいけないのかというと、栄光をその絵において表わさなければならなかったからである。そこから西洋の芸術は大きな進歩を遂げるものとなった。神の栄光の雲を見れば、そこには王座があり、光があり、多くの美しい色があり、多くの御使いたちが神を賛美している。
それをこの世において表わすときに、それは「天幕」から始まっている。そこから栄光における成長というものを歴史において見ることができる。最初は天幕において神の栄光が表わされるけれども、その表われはまだ未熟であった。例えば、アブラハムの時代からソロモンの時代までのイスラエルの礼拝を考えてみればわかる。神の天幕が作られる以前の時代はアブラハムの時代であった。アブラハムは神の栄光を表わすが、その礼拝の場所は私たちと同じように自分の家(自分の天幕)で礼拝していた。アブラハムは、オアシスの近くに天幕を張って生活していた。天幕と言ってもそれは現在のプレハブのようなもので、組立式の木枠に皮を被せたけっこう大きなものであった。そこに自分の家族を住まわせ、側に井戸があり、林がある。アブラハムはそのオアシスの側に祭壇を建て、神に犠牲をささげ、神を礼拝した。それがアブラハムの礼拝の場所であった。アブラハムは神の栄光を表わしていたが、それはまだ未熟な状態であった。
モーセの時代になると、神はアブラハムの子らにそれよりも遥かに手の込んだ礼拝制度を与えた。特別な祭司たちがおり、神から与えられた幕屋の設計があり、また、幕屋内の備品や飾りを作ることが聖霊によって特別に備えられた芸術家たちがいた。幕屋制度全体は、アブラハムによって立てられた制度よりも、より“栄光”に満ちていた。
ソロモンの神殿になると、幕屋よりも遥かに進んだものとなり、更に輝かしく神の栄光は表わされた。幕屋の中は土の床だったのが、神殿の床は黄金であった(第一列王記6章30節)。周りは美しい石材で覆われ、絵があり、庭には大きな洗盤がある。幕屋時代の簡単な洗盤の代わりに、神殿の洗盤には、十二頭の雄牛によって支えられた巨大な「鋳物の海」(第一列王記7章23節)と、その台には精巧な彫刻が彫られている十の洗盤があった(第一列王記7章27節以降)。一本の燭台の代わりに十本の純金の燭台が置かれた(第一列王記7章49節)。また、神殿の前面には二本の大きな青銅の柱が立てられ、その二本の柱には二百のざくろや格子網が施され、柱頭の上は百合の花細工があって芸術的に素晴らしいばかりでなく、柱自体が一種の鐘として作られてあったので、その奏でる音によっても栄光を表わしていた(第一列王記7章21節参照)。ソロモンの神殿は、あらゆる面で幕屋よりも偉大で美しく、あらゆる意味で“栄光”に満ちていたのである。
イスラエルの歴史は、こうして神の栄光を表すことが出来るようにされながらも「栄光から栄光へと」成長していった。ヨーロッパの歴史もそれに似ていると言ってよいだろう。最初の礼拝の場所はとても単純なものであったが、信仰の成長とともにその礼拝の場所はだんだんと素晴らしい物になっていき、そこから、最終的には建築学的にも最高水準の礼拝堂が作られ、美しい音楽や最高の芸術がすべて教会において表現されて神の栄光を表わすことになった。そこから文明は栄えていった。そうである筈なのだ。クリスチャンとして成長し、栄光において成長していく。本来そうあるべきなのだ。ところが、最終的に、イスラエルの背教は神殿の破壊をもたらし、イスラエルが神に栄光を帰することを妨げてしまった。アダムのように、イスラエルは神から与えられた目的を果たすことに失敗したのである。
「すべての人が罪を犯し、神の栄光に達しない」とは、こうして、異邦人と同様にイスラエルにも適用されるのである。イスラエルの礼拝の発展を通して「栄光」という概念を描写してみようと試みたけれども、「栄光」という概念は難しいものである。一方では、私たちはそれを外面的な現われに結びつける。栄光は光と輝きについて使われ、太陽は金と関連づけられたり、また音楽や礼拝における神への賛美に結びつけられている。しかし、「栄光」をその表面的な現われと同等のものとすることは根本的な誤りとなるであろう。罪の世界ではすべてが歪められている。正確に言うなら、美しいもの、輝かしくまばゆいばかりのもの、雄大で荘厳なものはすべて義しく聖なるものの現われである筈だ。愛は律法の本質であるゆえに栄光に満ちている。しかし、罪が善なるものをひどく破壊している私たちの世界では、どうしても栄光は歪められてしまうものなのだ。
ローマは、その表面的な権力と華麗さとの全てをもって、一枚の衣と微力な12人の弟子たちといばらの冠しか持っていない大工を十字架につけたのだ。多くの国々の人々が、キリストを表面的な栄光の欠如のゆえに侮った。彼らは栄光の最も本質な問題が表面的な輝かしさにではなく、真理と義しさという内側の光にこそあるということがわからなかったからである。教会においてさえ、真の栄光よりも表面的な栄光を好むといった過ちをいとも簡単に犯し得るのである。
「神の栄光を表わさない」というのは、罪の話である。つまり、「神の栄光を表わす」という人間の最も大切な原点は「義しさ」にこそあるのだ。「神の命令を守る」ということは「栄光を表わす」ことの出発点であって人間にとって最も大切なところなのである。そのところを曲げて、そのところを妥協したりすれば、最終的に神の栄光を表わすことはできなくなる。表面的な栄光を持っていても、中身は腐っている。これは主イエス・キリストがパリサイ人たちに対して言われたとおりである。即ち、「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイの福音書23章27〜28節)と、キリストは言っている。外は美しくても、中身は腐っている。
ラスベガスのように、外見は豪華で輝いて見えるが、中は実に腐っており、死んでいる。人間はみな栄光を求める。それは、神の似姿だからである。しかし、罪人なので、その栄光を曲げてしまうので、歪んだ栄光になったりする。けれども、正しさを守るならば、神の栄光を最も大切なところにおいて表わすことになる。表わさずにはおれないのである。「栄光から栄光へ...」である。栄光を表わすのは、まず自分と神との関係において神の栄光を表わすことから始めるものなのだ。そのような者は、自分の家庭の中で、神の栄光を表わす。自分の家庭でどのように神の栄光を表わすのかというと、一つには、互いを愛し合うことによって栄光を表わすことになる。実は、これは三位一体なる神の栄光を表わす最も大切なところだと言える。互いを愛し合うことによって人間は三位一体の神の栄光を表わすのである。
人はその生活様式においても神の栄光を表わすようになる。アメリカで、クリスチャンではない人々が救われてクリスチャンになった時にどうなったかというと、まず目立つことは清潔になったことである。実際に私もこの目で見たことであるが、最初に教会に来る時には、不潔で肩まで伸びた髪は悪臭を放っていた彼らを教会員たちは嫌な顔一つせずに親切に迎え、熱心に彼らに福音を伝えた。どんな格好をしていても、喜んで迎え入れられた。その彼らが、キリストを信じて救われると、自然に変わっていった。風呂に入らず、髪も伸び放題で着替えもしないことをむしろ誇っていた彼らは、救われてクリスチャンになると、ただちに長髪を切り、身体を洗って清潔になり、放つ香りも違ってしまったのだ。実際の生活においてまるで別人のように変わってしまう。家はきれいになり、生活環境も整理されてきれいになった。約束の時間を守るようになり、やるべきことを進んでやるようになる。
ある意味でそれらは当然なことだが、そのレベルのことさえ守ることができない人間は世の中にいくらでもいる。救われてクリスチャンになると、はっきり変わるのだ。麻薬を捨て、酒に酔うことを止め、風呂に入り、部屋がきれいに整頓され、管理することにおいて成長する。彼らは、栄光を表わしはじめるのである。「義しさ」と「栄光」のつながりを、その単純なレベルにあってもはっきりと見ることができたのである。神の栄光を表わそうとする。そして、ますます、もっともっと、神の栄光を表わすようになっていく。それがクリスチャンの成長なのだ。しかし、「栄光」しか考えないで「義」を忘れるならば、栄光を表わすための最も大切なところを忘れてしまうことになるのだ。
「すべての人間は罪人だ」とパウロは言っているが、その人間たちは神の栄光を表わしてはいない。「罪人は神の栄光を表わすことができない」ということを、パウロは、直接的にはローマの人々に向かって話しているのだ。ローマのクリスチャンは栄光を見るのに慣れていた。ローマは豪華で輝かしい栄光を眩しいほどに表わしている都市なのに、このパウロはといえば、お金もなく、所有する土地もなく、満足に着る服もなく、定まった寝る場所すらない。食べるか食べないかは、その日その日でどこにいてどういう働きをしているかによって決めるしかなかった。一つの町で2〜3週間福音を伝えて、警察に追い出されると次の町に移動した。それこそ「栄光がないのはパウロではないか」と言われそうである。ローマの人々の目からすればそういうことになる。
ローマで地位の高い人々がどうして福音を見下したのかというと、「救い主と呼ばれるイエス・キリストは、ローマ帝国に十字架で死刑に処せられた人間ではないか。それを神として信じろというのか。馬鹿げている」と思って嘲笑する。傲慢な者たちは、「栄光無き王」としてキリストを見下すのである。主イエス・キリストの真の栄光はその「義しさ」と「愛」にある。そこに、本当の栄光がある。その栄光をこの世の人たちは見ることができない。ローマ帝国のような栄光しか彼らにはわからないのだ。クリスチャンたちが成長して神の命令を守るならば、申命記に書いてあるように、国全体として祝福されて豊かになり、その国において神の栄光を表わすことができるようになる。しかし、その栄光の最も大切なところは「義」と「愛」にあるのだ。そのことを罪人は忘れて、その栄光の中心から離れて、栄光の表面的なところしか見ることができない。
イスラエルの歴史もそうであった。バビロンがイスラエルを襲ってくるときに、エレミヤは「悔い改めなければ、救いはない」と熱心に説教して警告した。その時、王に雇われた預言者たちは、「そのようなことを言うな。神の神殿はここにあるではないか。この神殿がどんなに美しいかを見なさい」といったような論理でエレミヤに向かって逆らう。また、キリストの弟子たちも同じようなことを言っていた。「この神殿はなんて素晴らしい建造物だろう」と言って、その表面的な栄光しか目に入らないのである(マタイの福音書24章1〜2節参照)。本当の栄光は「義しさ」と「愛」にあるということがわからないので、本当の意味で神の栄光を表わすことができない。それが、罪人の罪の問題である。
クリスチャンとして救われて「義」と「愛」とを熱心に保つならば、真理を求めて神の栄光を表わしていく者でなければならない。「人間とはどのようなものなのか」と問うときに、「根本的に善である」とか「根本的に悪だ」とかいうような話ではなくて、神の似姿として創造されて、神の栄光を表わすものとして最初から創造されたものである。しかし、人間は神に逆らってその栄光を曲げるものとなった。それでも、人間はある程度は神の栄光を表わさずに生きることはできないものである。どんな人間であっても、人間であるかぎり、神の似姿であることに変わりはないので、続けて栄光を何らかの形で表わしてしまうものなのだ。しかし、あくまでもそれを曲げてしまう。それが罪人の状態である。
私たちはみな罪人なので、本当の栄光はどこにあるのか、本当の偉さはどこにあるのか、本当の意味で神の栄光を表わすとはどういうことなのか、ということを忘れてしまいがちな者である。表面的な事柄をまるで一番大切なことであるかのように考えてしまう傾向がある。本当の栄光を表わすためには、まず素直に神に従うことが要求される。伝道者の書の最後に結論として書いてあるように、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道者の書12章13節)。
愛なる神を愛し隣人を愛する、というのが律法の中心である。そのことを守り、そのことを求め、そのことを大切にする。それこそ本当の意味で栄光を求めることなのだ。そして、それを心から求めるのであれば、結局生活は変わるはずである。生活は清められ、義しさと愛が基準となっていろいろな事において神の栄光を表わしてしまう。そして、栄光を表わすように、自然に求めてしまうようになる。もっとよく出来るように。もっと正確にできるように。もっと美しくできるように。神の栄光を表わすために、それを自然に求めるのである。
そういうわけで、罪人は、神の聖さ、愛、義を真に反映した神の似姿として生きることが出来ず、神に栄光を帰することに失敗する。人間には自分の罪の本性を変えることが決して出来ないために、神の栄光を様々な歪んだ形で表わしてしまう。そのような私たちは、ただキリストにある贖いを通してのみ真の栄光に立ち返る事が出来るものである。それは、全世界が救われる日に、人類が想像もしなかったようなかたちで神の栄光を表わすことになることをも意味しているのである。
ここで「罪人とは何なのか、罪人の状態とはどんなものなのか」を明らかにするときに、パウロは非常に深くて重大な意味を持つ表現を用いて私たちに教えている。パウロは、「罪とは何か」を教える中で、救いについても、また私たちの責任についても教えてくれているのではないかと思うのである。聖餐式の時、私たちはこの本来の意味に戻ることを求めるものである。結局、罪人なので、月曜日から土曜日までにこの世の中で御国のために闘ってキリストの栄光を求める生活の中で、罪を犯し、愚かなことをして神から離れたりしてしまうところがある。本当は、毎日寝る前に罪を悔い改めて、神との関係を全部きれいにして、喜びと平安をもって横になって寝るのが正しい姿である。
しかし、日曜日には、とにかく取り扱わなければならないところがはっきりと残っているのではないか。日曜日の朝には神の御前に出なければならない。神に会いに行くときに、心をきれいにして行かなければならない。心を清めて、はっきりと神に対して自分の罪を悔い改め、全部捨てて、神に従う誓いを新たにするのである。神に従う誓いを行なうことは、非常に大きくて深い恐るべき意味があるということを知らなければならない。生涯において誓いをするのは非常に稀である。結婚式、バプテスマ、或は法廷で証人として立つ時など、数回しかないのが普通であろう。しかし、礼拝は毎週行われている。私たちは一つの誓いを、即ちバプテスマの誓いを、毎週新たにすることを神の御前で行なっている。それは私たちの毎日の生活に具体的な意味を与えるものであり、生活に有益なプレッシャーを与えるものだと言ってもいい。
「栄光」という言葉にはギリシャ語で「重い」という文字通りの意味があるが、良い意味で私たちに必要なプレッシャーを与えてくれるものである。「罪を捨て、神を慕い求めて、正しく生活を送らなければならない」ということを繰り返し繰り返し聖餐式を通して教えられている。誓いを新たにすることは、私たちの生活の中にあっては非常に重大なことなのである。これは私たちを守って保つ祝福として与えられているものである。その中で、真剣に罪を悔い改めることは一つの大切な部分である。同時に、これはキリストの十字架と神の御恵みを喜び感謝する時であることを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――1999年1月31日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com