ローマ人への手紙3章24節
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
99.02.07. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
贖 い
3章24節
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ人への手紙3章21〜26節まではローマ人への手紙全体の中心であることを毎週思い出しながら話しているが、この短い段落に非常に深い意味が込められている。パウロはここで言葉や表現の一つ一つに非常に気を付けて簡潔にその深い意味を言い表している。今日はその中の24節から、特に「贖いのゆえに」という言い方について考えたい。パウロが手紙の中で主イエス・キリストの名を使うとき、たとえば「イエス・キリスト」と書いたり「主イエス・キリスト」と書いたり、あるいは「キリスト・イエス」と書いたりするが、それぞれの書き方には意味がある。ただ漠然とその時の気分で違う書き方をしているわけではない。
ここでは「キリスト・イエスの贖いのゆえに」、即ち「メサイア・イエスの贖いのゆえに」という言い方をしている。これは「主イエス・キリストはメサイアである」ことを強調した言い方である。「そのメサイアであるイエス様による贖いのゆえに私たちは救われた」ということを話すとき、パウロはとくに「贖い」を指して話している。新約聖書の中で主イエス・キリストの十字架の働きを表わすときにいくつかの異なる言葉が使われていることはよく知られている。「贖い」「和解」「なだめの供え物」という三つの言葉は特に十字架の働きを表わす言葉である。その意味をまず簡単に説明してから「贖い」について一緒に考えたいと思う。
「贖い」という言葉の原語は「救い」と訳すこともできるが、それは「買い戻す」ことを意味している。つまり、代価をはらって自由にすることである。この同じ箇所に「なだめの供え物」(25節)という言い方が出てくるが、それは「怒りを取り除く」という意味においてキリストの十字架の働きを表わしている。そして、「和解」とは「敵意を取り除く」という意味である。正しい神の御怒りに対してキリストの十字架の働きがささげられなければ、救いはないのである。神は正しく怒っておられるので、その怒りを正しい意味で満足させなければ、怒りを受けるべき者に救いはない。
「和解」は敵意を前提にしている。神に対する私たちの敵意もあるが、神が罪人である私たちに対して敵意を持っておられるのである。神と人間の関係がだめになっているところを「和解」という観点からキリストの十字架による解決を教えているわけである。罪のゆえに関係がだめになっている。それを解決するのはキリストの十字架の働きによる。その働きを「和解」としてみるのである。そして「贖い」とは、「代価を払って救い出す」ことを意味する言葉である。この三つの言葉は特に新約聖書の中でキリストの十字架の働きを教えるものである。
新約聖書を読むだけでもこの三つの言葉の基本的な意味はわかるはずであるが、これらの言葉ははみな旧約聖書からのものであり、旧約聖書の背景に基づいてパウロはこれらの言い方を使っているということを見過ごしてはならない。ローマ人への手紙を読む人たちは、「贖い」という言葉を読むとき、当然旧約聖書のことを思い出しながらその意味を考えるはずである。それ故、私たちもこの「贖い」という言葉を正しく理解するために、パウロの手紙が前提としているその旧約聖書のストーリーを思い出しつつキリストの十字架について考えたいと思う。
ちょうど今週のクリスチャン・カレッジの法学の勉強をしているときに似たようなことが出て来た。ヘラルド・バーマンという人が「法と革命(Law
and Revolution)」と題する本の導入のところで、「言葉を抽象的あるいは哲学的に定義しようとするならば良い定義を持つことはできない。言葉の定義は実際の歴史の物語において引き出す方がずっとわかりやすい。だから、西洋の歴史において「革命」とか「法」という言葉がどのように使われていたのか、その根本的な概念はどんなものだったのかは、実際の歴史の物語を通して定義しなければ具体的な定義とはならない」というようなことを話している。つまり、言葉の意味が普通の人に通じるためには「ストーリー」が必要なのである。なぜなら、言葉、特に抽象的な言葉は、物語の文脈の中でなければその深遠な意味を見出すことができないからである。
聖書を読んでみれば、聖書がそのように書かれていることは誰にでもすぐにわかる。言葉の定義はどこから学ぶのかというと、もちろんパウロの手紙の教理的な教えの箇所から学ぶわけだが、それだけでは不十分なのである。創世記から始まっている歴史のストーリーの中からその定義の背景をまず理解しなければならない。神が歴史を支配し、歴史を導いておられる。神が導いておられるその歴史を通して聖書はクリスチャンが持たなければならない根本的な概念を教えてくれているのである。歴史そのものの中に、クリスチャンが持つべき世界観の根本的な概念が啓示されている。それを正しく理解するために、神ご自身が旧約聖書を私たちに与えてくださったのである。
歴史書だけではない。詩篇もそうであるし、知恵の書である箴言もそうである。律法の書もそうなのである。だから、善と悪の区別をはっきり宣言する命令の観点から言葉の定義を考えるのである。また旧約聖書にある知恵の諺のような観点からそれを考える。詩篇の祈りや賛美の中でその同じ言葉が出て来るので、その観点からもその言葉を考えたり理解したりするわけである。歴史的書物である預言者の書からもその同じ言葉や概念が教えられているので、それに教えられて私たちはクリスチャンの概念を正しく持つことができるわけである。
新約聖書を読むだけでクリスチャンの世界観をしっかりと持つことができるはずはない。その言葉には歴史的な意味があったり、真剣な祈りにおいての深い意味があったり、預言の意味があったりする。それらから深く教えられるときにその言葉は心に響くものとなり、それは自分の祈りともなり、自分の心に刻まれる言葉として存在するようになる。そのような深い聖書的な世界観をもって考えることができるようになるために、聖書の言葉はいろいろな観点から広く深く教えられているのである。
金曜日のクリスチャン・カレッジのクラスでその法学の学びをした次の日、土曜日の朝の「アメリカン・マインドの終焉」のクラスでもまたまた同じ話が違う書物から出てきた。その本の著者アラン・ブルームはシカゴ大学の政治哲学者であるが、アメリカの考え方がどのように変わってきたかということについて話している中で彼は、「言葉は人の考え方を決めるものである。言葉が変わると世界観も変わる。アメリカにおいてドイツのマックス・ウェーバーやニーチェたちの影響がどれほど強かったかを見るためには、アメリカ人が今普通に使っている言葉について調べてみれば明らかである。また、新しい言葉はいつでも新しい見方を反映するものだ」というようなこと説明している。そして、具体的にいろいろな言葉を列挙して、「実は、これらの言葉は全部ドイツの哲学者から借りてきた言葉なのだが、まったくアメリカの俗語になってしまっており、ほとんどのアメリカ人はそれに気が付きもせずに使っている」と述べている。
「例えば“セルフ(自己)”という言葉は昔は“魂”のことであった。それはもともとは聖書から出た言葉であり、聖書の中で考える言葉であった。それがドイツ哲学で使われ、ドイツ哲学において使われた言葉が今ではアメリカ人の日常の言葉となっている」というようなことをアラン・ブルームは話している。そして、それらの言葉を人々の生活に深く浸透させるために精神医学者フロイトはいろいろなストーリーを創作した。例えば、「エディプス」という言葉は本来ギリシャ神話の話なのに、フロイトはそれを自己流に変な解釈をしてとんでもないストーリーに変えて広めた。今日ではほとんどのアメリカ人はエディプスの話をフロイトの解釈によるものでしか知らないのである。
フロイトの解釈しか聞いたことがないために、それによってその言葉とフロイト的解釈のストーリーが実際に一緒になって一般に使われるようになる。「イド」「エゴ」「スーパーエゴ」などの言葉もストーリーといっしょにして考えたりした。フロイトは個人の証しのようなストーリーをたくさん書いたり、エディプスというギリシャ神話を利用したりして、言葉とストーリーを巧みにいっしょにして言葉を定義していった。そのようにしてドイツ哲学によって紹介された新しい言葉は近代アメリカの新しい言葉となり、その新しい言葉がアメリカ人の考え方を支配してしまうことになった。それらは今や、アメリカ人の思想と経験を整理するための新しい体系の一部をなすようになった。
もう一つ横道にそれるけれども、日曜学校の教え方においてもそうである。私たちは日曜学校で子供たちに創世記から教えているが、創世記のクラスの中でゆっくりとストーリーを子供たちに教えているのである。創世記のストーリーを子供たちに小さい時から教えている。教えるときには言葉も与えている。「神さま」と言って漢字で小さい子供たちに教えたりしている。「契約」「さばき」「罪」などの言葉を与えている。私たちは、クリスチャンの世界観となる根本的な言葉を、創世記の物語とともに子供たちに時間をかけてゆっくり教えている。
母親たちは日曜学校で教えるとき、ほんとうははっきりした世界観を持つための一番根本的な教えをしているのである。そして、その教えは非常に重大である。こんど、家でいろいろな事柄について教えるときに、言葉をもって周りの事を分析しなければならない。ニュースの解釈、時事問題の解釈、自分の家庭内の生活問題なども、全部その同じ言葉をもって解釈するのである。聖書から学んだストーリーが自分の毎日の生活につながっているのだということをいつも子供たちに教えているわけである。同じ言葉で両方を取り扱うことができるからである。それによって確かな世界観を持つことができるようになる。教育は、考えるための道具を与える。その考えるための道具は言葉である。どういう言葉をもって事柄を考えたり分析したりするかによってその人の世界観は違ってくるのだ。
キリスト教信仰の知識における成長とは、聖書の言葉を用いて自分の思考や経験を系統立てていくのを学ぶことを意味している。それで、言葉一つ一つを深く考えることは大切であるし、聖書の書き方も私たちにストーリー、モーセの律法、詩篇、知恵の言葉、聖徒たちの祈り、預言者たちの訴えを通していろいろな観点から言葉の意味を表わしている。聖書全体の文脈においてそれらの言葉は私たちに与えられている。
新約聖書になると、パウロの手紙は神学の書物のようなものとして言葉の意味を教えている。私たちが既にその深い意味を知っているという前提でパウロはその深い言葉をたくさん使ってそれら深い言葉の関係を説明したりするわけである。このローマ人への手紙においてパウロが使っている語彙を理解するには、彼が使っている言葉の旧約聖書の背景をよく考えてみることはとても大切なことである。中でも「贖い」は最も重要な言葉の一つである。
そういうわけで、「贖い」という言葉を、まず旧約聖書の中から皆さんといっしょに考えたいのである。「贖い」という概念は聖書の物語において非常に根本的なものであるため、一部の神学者はそれを聖書の中心テーマと考えているほどである。しかし、現代の聖書の読者たちは新約聖書の概念の背景となっている旧約聖書に十分な注意をはらわないために、「贖い」のより深い意味をしばしば見損なってしまう。
この「贖い」という言葉を旧約聖書から考えるとき、まず出エジプト記を考えるはずである。イスラエルの歴史の出発点は出エジプトであったし、神ご自身がイスラエルに対して「わたしは、あなたを贖う」という言い方をしている。出エジプト記6章のところでモーセをエジプトに遣わす時、神はご自身がイスラエルを贖う者であることを表わし、出エジプトの出来事と神の救い全体のことを表わしておられる。実は、旧約聖書でイスラエルは大きな贖いを二回経験している。また、別にあまり注目されていないもう一つの贖いがある。それらは出エジプト記からマラキ書までに出てくる三つの贖いであるが、本当はその前に創世記の贖いのところから贖いの話は既に始まっている。
ゴーエル
旧約聖書に出てくる「贖い」という言葉を歴史的に見る前に、以前夏季キャンプで学んだルツ記の学びを思い出していただきたい。「贖い」という概念の律法における背景は特に理解のための光を注いでくれるものである。私たちは特に「ゴーエル」の制度を考える必要がある。ルツ記の中に「贖い=ゴーエル」という言葉がへブル語で何回も出てくるが、日本語訳ではそれほど頻繁に出て来ない。なぜならへブル語の「ゴーエル」という言葉は日本語だと箇所によってはいろいろな言葉に訳されてしまっているからである。この言葉は英訳聖書でも和訳聖書でも一貫した翻訳がない言葉である。
「ゴーエル」は、ある箇所では「復讐する者」であり、別なところでは「買い戻しの権利を有する者」という訳になっている。ここでは翻訳の複雑な問題を扱うよりも音訳を用いたいと思う。原語の「ゴーエル」は、みな同じ人を指している言葉であり、ゴーエルは復讐をする者であり、同時に、買い戻しの権利を有する者である。ゴーエルは、イスラエルの家庭に関する律法制度の中の「贖う者」であった。おそらくゴーエルの概念を理解する上で、その基本的な四つの責任について考えることが一番良いかも知れない。
第一に、ゴーエルは貧しさのために土地を手放した親類の財産を「贖う」、或いは買い戻す権利を持つ(レビ記25章25節)。第二に、ゴーエルは極度の貧困のゆえに自分を奴隷として売らなければならなかった親類を買い戻す権利を持つ(レビ記25章47節)。第三に、ゴーエルは死んだ親類の弁償を受け取ることができる(民数記5章8節)。第四に、ゴーエルは親類が殺害されたとき、警察と起訴者の両方の役割を果たす(民数記35章9節以下)。
ルツ記は、買い戻しの権利を持つボアズがナオミを救う話である。ナオミが持っていた土地を買い戻してナオミの家族を救うというストーリーである。ちょうど神がご自分の民を救ってくださるのと同じように、ボアズはナオミとルツを救ったという話である。ここでゴーエルの基本的な四つの責任をもう少し見てみよう。イスラエルのすべての家族に土地が与えられていた。その家族が貧しくなって土地を売らなければならなくなったとき、ゴーエルの役割を果たすべき親戚はその売却しなければならない土地を買い戻す権利がある。これが第一の責任であり、家族を救う働きである。
しかし、その家族がもっと貧しくなって父親は自分を奴隷として売らなければならなくなったときに、ゴーエルはその人を買い戻す権利がある。あまりにも貧しいために自分を売ろうとする者がいるときに、親戚の中でその人を助けることができる者がいれば、その人が自分を売ろうとする時にそのゴーエルの役目を果たす親戚が出て来て彼を買い戻すことができる。これがゴーエルのもう一つの権利、そして責任である。
そして、誰かが被害者に対して金銭を返さなければならないとか財産を返さなければならないとき、或いは買った土地を売主に返還する期限が来たとき、金銭の返済や土地の返還を受ける家族がみな死んだりしていない場合、ゴーエルがそれを受ける責任がある。イスラエルの場合は土地を売ると言ってもそれは限られた年数において貸すような意味になっており、50年後のヨベルの年にその土地は元の家族のところに返還されることが定められている(レビ記25章)。ゴーエルはそれを受け継いでその財産に対する責任を果たさなければならない。これが三番目の責任であり、死んだ親戚の代理として受ける代表としての責任である。
四番目の責任は復讐する責任である。イスラエルには警察はいないので、親戚が殺された場合、親戚の中の一人をゴーエルとして選び、そのゴーエルは死んだ者の死因を調べ、それが殺人であることが明らかになれば彼は警察と検事の両方の役割を果たさなければならない。調べて、証拠を見つけ、町の長老たちに検事としての訴えをしなければならない。そして警察の役目をも果たす者である。復讐する者はただ刀や銃で相手を殺せばいいというものではない。警察と検事の働きをする者なのである。
このように、ゴーエルとは土地、奴隷制度、犯罪律法に関する家庭律法の一部なのである。しかし、この責任を言い表わす言葉は様々な形で登場する「贖う」とか「贖う者」と訳されている重要な言葉の一つだ。例えば、神がモーセをイスラエルの子らに遣わされたとき、神はモーセにゴーエルと同じ原形を持つ言葉を用いて「わたしは・・・伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う」(出エジプト記6章6節)と告げられた。こうして、昔のイスラエルにおける「買戻しの権利のある親類」、即ちゴーエルは、社会的に御自分の民イスラエルの贖い主なる神の象徴として機能する者であった。
神はイスラエルの民を御自分の子どもや親族として見てくださる(出エジプト記4章22節、申命記14章1節)。家族に対して為された不正に対する復讐をゴーエルが果たすように命じられているのと同様に、神は復讐の神であられ、御自分の最愛の民を虐待する者を罰せられるのである。
贖いと古い契約の歴史
ゴーエルには以上の四つの働きがあるけれども、ゴーエルの制度が律法の象徴の中で私たちに示していることは、イスラエルの歴史において表わされている。例えば、イザヤ書では何度も「イスラエルのゴーエルは主である」と記されている。イスラエルの法律に出てくるゴーエル制度はほんとうは神の救いを表わす制度なのだ。だから、ゴーエルという言葉の動詞形は「贖う」と訳されるわけである。ゴーエルは贖い主である。そして、イスラエルの贖い主は「主」である。
つまり、イスラエルの土地についての法律は主イエス・キリストを表わすものなのである。イスラエルの殺人を取り扱う法律は、主イエス・キリストの働きを表わすための法律なのである。イスラエルの財産の取り扱いや奴隷制度についての教えもすべて主イエス・キリストの十字架の働きを表わし、主イエス・キリストがどのような御方であるのかを私たちに教える律法なのである。それで、旧約聖書の例えばゴーエルについてのことが理解できなければ、「贖い」とはどういうことなのかを正しく理解することはできないわけである。イスラエルの土地の定めや奴隷制度などもすべて主イエス・キリストはどのような働きを私たちのためにしてくださるのかを、いろいろな観点から、そして実在の人間の経験を通して深く私たちに教えるものなのである。
そういう意味で旧約聖書の律法は主イエス・キリストの贖いの働きを深く表わしている。だからパウロは21節で「律法とは別に」と言う。つまり、律法の契約、モーセの契約の下にあるやり方ではなく、律法とは別であるが、律法と預言者たちが証ししているキリストの贖いの話をしているのである。旧約聖書のストーリーの中にも律法の中にも「贖い」が、すなわちキリストの十字架の働きが証しされている。それ故この箇所でパウロは、旧約聖書の時代のように影のかたちではなくこんどは成就のかたちでキリストが贖いを全うしてくださったことを説明するのである。
この「贖い」という言葉はゴーエル制度を前提としており、イスラエルの歴史を前提としている言葉なのである。神は出エジプトの時にイスラエルのゴーエルの働きをしてくださった。イスラエルの歴史は、奴隷状態をもたらした罪深い失敗の歴史として言い表わすことができる。この奴隷状態は悔い改めと救いを求める祈りを促し、ゴーエルなる神がそれに応え給うというものであった。神はイスラエルの歴史の中で、三度異国の地での奴隷状態から彼らを贖ってくださった。その都度、神はイスラエルとの契約をもう一度打ち立てられ、新しい始まりを以てイスラエルを祝福された。最初の贖いは非常によく知られており、贖いの聖書的パラダイムを定義するものである。後でわかることだが、偶像礼拝を行なったがゆえにエジプトで奴隷にされていたユダヤ人から物語は始まるのである(ヨシュア記24章14節参照)。
イスラエルはエジプトの奴隷となっていた。エジプトの奴隷となっているイスラエルが苦悩の中から神に救いを呼び求めたときに、神はイスラエルの祈りを聞いてくださって救済者モーセを呼び出してエジプトのパロのところに遣わした。イスラエルは神の子らであり、神はイスラエルを「我が子」と呼んでいる。神の子らであるイスラエルが神を礼拝することができるようになるために解放するようにとモーセはパロに頼むが、パロは「神とは誰か。私はイスラエルの神など認めない」と言って拒絶した。つまり、イスラエルが神の子どもであることを認めないし、神のゴーエルの権利をもパロは否定していたのである。それ故、神はこんどは復讐する者のやり方で御力をもってイスラエルを奴隷の状態から救い出してくださった。
その場合には代価を払って救い出すのではない。神は誰かに代価を払わなければならないことはないからである。それでも、敢えて代価を払うと言うならば、それはエジプトに対する裁きがその代価だということになる。神はエジプトをさばいて、イスラエルをエジプトから救い出してくださった。ゴーエルの働きをイスラエルのためにしてくださった。奴隷の状態から解放し、土地を与え、相続すべき場所に連れて行ってくださったのである。これは、復讐するゴーエルの働きであるさばきを神ご自身が果たしてくださってエジプトからご自分の子どもたちを解放させたという話なのだ。そして、民はエジプトにおける彼らの労働に対する代価である“支払い”を受けてその地を去ったのである。
パロは正当な法的権利によってイスラエルを奴隷として持っているのではなかった。イスラエルはどうして奴隷になってしまったのかというと、偶像礼拝をしたために神がイスラエルをさばきに引き渡したからである。パロは何をしたかというと、力づくで無理矢理イスラエルを奴隷にしてしまったのである。イスラエルはパロからゴシェンの土地を受けてその場所に正当に住む権利を持っていた。そのイスラエルを、パロは奴隷にした。それは合法的なことではなかった。だからモーセが「イスラエルを自由にしなさい」とパロに要求する時に、パロは法を破ってイスラエルを奴隷にしたのであるから、神はパロに代価を払わなければならないような立場にはない。神が正当に要求する時、ほんとうならばパロは不法に神の子らを奴隷にして虐待した間違いを認めて陳謝し、今までイスラエルが働いた分に相応しい報酬を自分からイスラエルに支払ってイスラエルを自由にすべきであった。しかし、パロはそうせずに頑なに拒絶したのである。それで復讐する者が現われてエジプトを裁くことになった。
復讐する者がエジプトを裁くとき、それは最初の過越の出来事であった。その時、神はイスラエルに自分の家の門柱にひつじの血を塗ることを命じられた。なぜなら、イスラエルもエジプトと同じようにさばきを受けるべきものであったからである。しかし、命令に従って門の所にひつじの血を塗った者は一人も裁かれなかった。神は、イスラエルがエジプトを出る時にエジプト人に金銀を求めるように命じた。イスラエルに早く出ていってもらいたいと考えたエジプト人たちはどんどん金銀をイスラエル人に与えた。それは今まで働いた当然の報酬であり、ある意味でエジプトがイスラエルからかすめ取ったものであった。
神がエジプトを裁いたので、イスラエルはエジプトを出ることができた。強制的に復讐する者は奴隷の状態からイスラエルを解放したのである。今まで不法に支払われなかった報酬をも取って奴隷の地を出たのである。パロが考えを変えてイスラエルを追撃した時、神はパロとその軍勢を裁いてイスラエルを完全に救い出してくださった。
この出エジプトが贖いの最も大きな出来事であって、モーセの十戒の中でそれは二回も出てくる。このエジプトからの救出が、上で述べたゴーエルに関するモーセ律法の土台となっている。それはまたキリストの贖いの御業の予型でもある。神が御自分の民を贖われたとき、彼らは神のしもべとなり、神は彼らの生活を導く契約を彼らにお与えになった。十戒の一番目の命令で「わたしは、あなたがたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」とある。「贖い」という言葉は使っていないが意味は同じである。「贖い出した」ということである。それ故、「あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない」と命じているのである(申命記5章6節)。そして、四番目の「安息日を守って、これを聖なる日とせよ」という命令においては、出エジプト記の20章のところでは「創造主なる神が六日間の創造の働きを終えて七日目に休まれたから」といって安息日を守るように命じているが、申命記5章では「あなたは、自分がエジプトで奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない」と記されている(同5章15節)。
出エジプト記では神は創造主であることが強調されているが、申命記では「神は贖い主だから安息日を守りなさい」と命じている。「贖われたので、神の命令を喜んで守りなさい」ということが申命記5章では二回も強調されて教えられていると言えよう。出エジプトはイスラエルの歴史における一番大きな贖いであった。それ以降、過越の祭やほかの祭においても贖い主なる神の大きな御恵みを覚えて一年間のカレンダーが与えられ、一年間の礼拝制度が与えられている。毎週土曜日に行われる当時の安息日の礼拝も「贖い」を覚えて礼拝を行なうものであった。一年間のすべての行事は「神によって贖われた者」として神に礼拝をささげるものであった。それは出エジプトから始まっているわけである。
ところが、イスラエルは士師記が示すように、神に対して罪を犯し、再び偶像礼拝に陥ってしまう。モーセ契約はサムエルの時代にだめになってしまって、神の契約の箱はペリシテ人に奪われて奴隷状態にされていた。つまり、イスラエルは以前のエジプトの状態に戻ってしまったという話が、サムエル記に出てくる。その時、イスラエルの民が創世記を覚えていることを前提にしてサムエルは訴えている。サムエルの時代は、ペリシテ人がイスラエルを抑圧し、彼らを奴隷にしていた時代であった。創世記10章13〜14節を見ると、ペリシテ人はエジプト人の親戚であり従兄弟である。その背景がサムエルの訴えでは前提となっている。契約の箱は神の王座である。その契約の箱が奪われ、イスラエルは敗れ、ペリシテ人から高い税金を支払わされ、イスラエルに住みながらにして神の子らは奴隷状態になっていた。契約の箱もペリシテ人に奪われて奴隷にされている。
しかし、神の契約の箱がペリシテ人の所に入ると、神はエジプト人を裁いたのと同じようにペリシテの神ダゴンを裁いたのである。神はまたペリシテ人を腫物で打って脅かした(第一サムエル記5章)。恐れたペリシテ人は急いで神の契約の箱を送り出した。ペリシテ人は金のねずみと腫瘍を作って契約の箱といっしょに送り出した。それはイスラエルがエジプトを出た時と同じパターンであった。イスラエルの歴史でこのことは「贖い」の出来事としてはそれほど目立たないものとしてサムエル記の中に記されているが、そこからイスラエルに新しい契約、即ちダビデの契約が与えられて、新しくダビデとソロモンの時代に入ることになる。
神ご自身捕らわれの身でありながら、エジプト人に対してなされたと同様にペリシテの神々に対して復讐を果たされ、ゴーエルの働きを成し給うた。神はまた、エジプト人から分捕り品を取り(第一サムエル記6章8節)、カナンの地に戻り、イスラエルの民を悔い改めに導き、彼らをペリシテの手から解放されたのである(第一サムエル記6〜7章)。この新しい贖いは、ダビデとソロモンの下にある新しい契約と新しい神殿における礼拝制度、そして王国の新体制へと導いたのである。
ダビデとソロモンの時代に入ると、再びイスラエルはモーセの時代と同じように偶像礼拝に戻ってしまった。前にペリシテ人に敗れたのも偶像礼拝をしたからであった。ダビデとソロモンの時代の最後にイスラエルは再び偶像礼拝をするようになったので、こんどはバビロン帝国に捕囚に取られて奴隷にされてしまうことになる。まず、ソロモン王自身が神に対して罪を犯した(第一列王記11章1節以下)。そしてソロモン王の死後、北王国全体が偶像礼拝に心を傾けるようになった(第一列王記12章1節以下)。そのうち、ユダ王国も偶像礼拝を行なうようになっていく。それでイスラエルもユダも再び“エジプト”へ捕囚として送られてしまう。北王国はB.C.
720年頃にアッシリアへ、南王国はB. C. 600年頃バビロンに捕囚とされる。
この三回目の奴隷状態は70年間続いた。そのバビロンにおける70年間の神の訓練の後、神の民は再び彼らのゴーエルによって贖われる。このお方はペルシャの王クロスをもってバビロンを滅ぼし、御民を解放した(イザヤ書44章24節〜45章15節参照)。エズラとネヘミヤはイスラエルを約束の地に連れ帰り、異邦人から与えられた「分捕り品」で神殿を再建した(エズラ記1章7〜11節、5章14節、6章5節)。神はイスラエルに新しい契約と御自分のしもべとしての新たな始まりを与えられたのである。イザヤ書では「贖い主」という言葉がたくさん出て来る。神はイスラエルをエジプトの時と同じようにバビロンから贖ってくださった、というのがイザヤのメッセージである。
しかし、イザヤがそのことを書き記したのは紀元前700年頃である。イスラエルが実際にそのことを経験するのは紀元前500年頃であった。つまり、イザヤは200年後の事をあらかじめ預言したのである。クロス王のことを実名を使ってその贖いの出来事を預言したのである。イザヤ書40〜60章のところを読む時に、預言者の意味をイザヤは非常に深く繰り返し話しているし、「神は贖い主である」ことをイザヤは繰り返し書いている。この旧約聖書の最後の贖いの出来事は最もよくキリストの十字架のことを表わしている。だから、イザヤ書の53章ではキリストの預言も非常に具体的なかたちで出てくるし、キリストの十字架の話は何回も何回もイザヤ書の40〜60章までの箇所にいろいろなかたちで出てくるわけである。
御民の「ゴーエル」であられる神についてのこのような歴史は、パウロの「贖い」という言葉の使い方に対して物語的な背景を提示してくれる。これらの物語はモーセ律法の中のゴーエルに関する律法を解説し、またイスラエルの歴史、土地に関する律法、社会律法、犯罪を扱う律法のすべてがいかにキリストとその救いの御業を指し示していたかを明確に私たちに教えている。
イスラエルの歴史において神は三回もゴーエルの働きをなされた。イザヤ書の同じ箇所で何度も神はご自分を父として表わし、また「ヤコブの神」と呼んでおられる。罪を犯したイスラエルは奴隷状態になっていた。奴隷となったときに、イスラエルは偶像礼拝にふさわしい状態に陥ってしまった。心において奴隷となっているから実際生活においても奴隷となるというさばきなのである。これは「目には目を。歯には歯を」というさばきである。
イスラエルは奴隷状態になったときに初めて自分の心の状態の酷さに気がつかされた。確かに、自分の罪の罰を受けるときになってやっと自分の罪に気がつくという罪人の鈍感さがあるのは事実であるが、イスラエルはその罰を受けたときに自分の罪を認めて神の御恵みを求めはじめた。その時にゴーエルは彼らを救ってくださる。彼らを御自身に仕える自由へと救出され、彼らに祝福の道を教える御自分の契約を賜るのである。
イスラエルの律法をみて思ったことだが、親戚が奴隷になったり土地を失ったりするようなときに、ゴーエルは必ず贖わなければならないわけではない。ゴーエルには贖う権利がある。買い戻す権利がある。復讐のばあいは必ず復讐をしなければならない。それは殺人の罪を取り扱うために神があたえた方法であるので、殺人を無視することは絶対に許されない。だから必ず復讐はしなければならない。しかし、結局イスラエルの中で奴隷になるべき親戚がいても、奴隷の状態になった親戚をゴーエルはいつも買い戻したりはしていない。奴隷の状態になって、その中で本当に自分の罪を認め、その奴隷状態になるまでだめになって砕かれて、本当に神の御恵みを求めるようになり、その人が十分に変わったということが証明できたときに、買い戻しの権利のあるゴーエルは彼を救う働きをすることができるのだ。
しかし、その人にとっては七年間奴隷として働いたほうが益となるという判断なら、ゴーエルはそう決断することもできるのだ。実際に神はそのようにイスラエルを取り扱っておられる。神はイスラエルに対して、彼らが70年間バビロンの下で奴隷として働かなければ真に悔い改める心を持つようにはならないことをご存知だったので、彼らを奴隷の状態に引き渡してしまわれた。それが神のさばき方である。その中にあってイスラエルが真剣に救いを求めはじめる時に、神はゴーエルの働きをしてくださる。それも、裁きをおこなって救い出すのである。神は、パロにしたのと同じように、バビロンを裁いてイスラエルを救い出したのである。それが「贖い」である。
それだから、聖書の中で「贖い」について考えるとき、一番大きな出来事としてエジプトとバビロンからの贖いがある。あまり目立たない出来事としてサムエル記にあるペリシテ人からの贖いもある。創世記の中ではアダムとエバに対しては、いけにえがあって、贖いがあった。ノアが贖われるとき、神は全世界を裁いてノアを救い出された。アブラハム、イサク、ヤコブの歴史において、パロが彼らをいじめるときに、神はパロを裁いて彼らを救い出した。アビメレクがアブラハムをいじめるときに、神はアビメレクを裁いてアブラハムを救い出す。イサクの場合も、アビメレクがイサクを苦しめるときに、神はアビメレクを裁いてイサクを救い出す。
ヤコブの生涯は贖いの連続であった。ヤコブの幼少の頃からの聖書の記録はそれほど多くはないが、聖書に記されてるところによれば、ヤコブはまずエサウから救われる。そしてラバンの所に行ったが、そこでまたラバンに苦しめられるが、神はラバンからもヤコブを救い出す。ラバンから救い出されたと思ったら、またエサウに殺されそうな話になる。その時、神は再びヤコブをエサウから救い出す。「贖い」という言葉が旧約聖書の中で初めて使われたのは創世記48章16節である。それはヤコブがヨセフの二人の息子を祝福する箇所である。その祝福の中で、「すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください」と言っている。それは、「主イエス・キリストが自分の贖い主である。その贖い主が、このマナセとエフライムと共にいてくださいますように」という意味である。その祝福の言葉の中で「贖い」という言葉が初めて使われた。
それだから、イザヤ書の中では「イスラエルの神」「ヤコブの神」という言い方が何回も何回も出てくるわけである。アブラハム、イサク、ヤコブの中で、特にヤコブは贖われた者として顕著だったからである。アブラハムもイサクもアビメレクやパロから贖われて救い出されたが、ヤコブはその生涯がことごとく贖いの連続であった。ずっと試練の連続で、すべての試練の中で神の御恵みを繰り返し繰り返し呼び求めた。そして神はそのすべての試練からヤコブを救い出してくださった。だから、イザヤは「ヤコブの神」を特別に強調するのである。
キリスト・イエスにある贖い
創世記の中で「ゴーエル」という言葉はそのヤコブの祝福の箇所で一回しか出てこないが、神のゴーエルとしての働きはアダムとエバ、ノア、アブラハム、イサクたちの贖いにおいて出て来ている。そして、出エジプト記の時に大きくはっきりとゴーエルの働きは出て来る。そのすべてを背景にしてパウロは、「旧約聖書の律法と預言者たちによって表わされた贖いは、主イエス・キリストにおいて成就した。それ故、キリストの働きは律法に書いてあるモーセの契約の下にある働きとは違う。キリストの働きはその成就であるからである。しかし、その働きは、律法と預言者の中で表わされていたものであり、約束されていたものである。それは律法と預言者を通して考えることができるものなのだ」と説明しているのである。
十字架上のキリストはゴーエルである。ゴーエルとしてどのような働きをしているのかというと、一つは「代価を払っている」のである。神が主イエス・キリストに対して私たちの罪のために私たちが受けるべきその罰をキリストの上に置くとき、それは私たちを救うための代価をキリストが払ってくださるということなのである。「代価を払う」というとき、それを誰かに払っているというようなことではない。「私たちの受けるべき罰を受ける」ということは、私たちを自由にするための代価を払う行為なのである。そして、代価を払わなければならないのは、私たちが奴隷状態にあることが前提なのである。なぜ代価を払うのか。それは、罪人は奴隷だからである。
「罪人は奴隷である」ということには二つの意味がある。一つには、自分の罪の奴隷だということである。もう一つには、サタンの奴隷だということである。その両方の意味がいっしょになって罪人は奴隷状態にある。これはアダムとエバのことを思い出して考えればよくわかることだと思う。アダムとエバは罪を犯したとき、サタンの誘惑を受けて罪を犯して罪の奴隷となったが、罪の奴隷となった理由は、サタンの言うことに耳を傾け、サタンに聞き従い、サタンの下に自分を置いたからであった。サタンが支配者になっており、サタンの言う通りに行なう。それが彼らの罪となった。罪を犯すときには罪の奴隷になっているが、サタンの奴隷にもなっているのだ。それはいっしょのことなのだ。今の時代の罪人たちがサタンの奴隷であることは新約聖書の中で繰り返し出てくるが、「彼らは盲目になっている」と書いてある。本当の現実が見えなくなっている。彼らはサタンに騙されている。それが聖書の教えである。そして、彼らは明らかに自分の罪の奴隷となっているのである。
それゆえ、パウロがローマ書においてメシアなるイエスによる贖いについて語るとき、私たちが罪とサタンの奴隷であるという概念(ヨハネの福音書8章44節、ヨハネの第一の手紙3章8節と10節、
ローマ人への手紙6章16節)、十字架におけるサタンの裁き(マタイの福音書12章29節、ルカの福音書10章18節、ヨハネの福音書12章31節、コロサイ人への手紙2章15節)、そしてキリストの死によって支払われた我々の贖いの代価という概念
(使徒行伝20章28節、コリント人への第一の手紙6章19節、7章23節、ヘブル人への手紙9章12節、ペテロの第一の手紙1章18節)を示唆している。これらはすべてゴーエル制度の成就として重要なものである。
先日、クリントン大統領の不倫疑惑を弁護する有名な弁護士が、「これは生物体内の腺の問題であり、生物学の問題である。男はたまにその気になってちょっと理性を失ってしまうことがあるが、それはすぐに元に戻るから大丈夫だ。根本的な深刻な問題は何もない。男性には生物学的にそういうところがあるものなのだ」と弁護していたのを聞いたが、とんでもない話である。これこそ罪の奴隷である。心の中にある罪の欲望に従わなければどうしようもないのが罪人の有様なのである。自分の心の中に出てくる色々な罪の思いに支配されてしまう。それが罪人の状態である。それが「罪の奴隷」という言葉の意味なのである。サタンが支配しているというのは、変な映画の中で悪魔がみんなを導くというような単純なことではない。しかし、サタンに支配されている者は確かに盲目である。というのは、真理を見ても、耳にも入らず、目にも入らず、深く心に入ることもないために、嘘を信じて嘘に従って生活をする。騙されて生活しているのである。
これも土曜日のアラン・ブルームの本の学びにおいて深く感じさせられることである。アラン・ブルームはその「アメリカン・マインドの終焉」という本の中ではっきり言っている。「自分のおじいさんとおばあさんは特別に高い教育を受けてはいない。しかし、聖書を信じ、聖書をよく読んでいた。そのおじいさんとおばあさんが語る時には知恵があり、深さがある。今の時代の親戚や従兄弟たちはみな何かの博士であるが、いっしょに集まって語るとき、非常に浅くてばかみたいな会話になるしかない。私たちには聖書の言葉がないので、知恵がなく、深い思いもない」ということを彼は自分で書いている。また、「昔の人たちは聖書を持っていたので、教育のない者も高い教育を受けた者もいっしょに話し合って、理解しあって有益な交わりを持つことができた」とも言っている。
同じ聖書を信じ、同じ世界観を持っているので、私がここでアダムとエバの話やヤコブの話をしたときに、子どもたちでさえもよくわかるものなのだ。十分に深くまで理解できなくても「何を言っているのかぜんぜんわからない」というようなことはないと思う。カントの哲学の話を文字通りに話したらどうだろうか。子どもたちにはわからないし、私にもわからない。皆さんにもわからないだろう。しかし、聖書を基準としてもっている人々は教育の高い者も教育をそれほど受けていない者も、一つの心をもって本当の意味での交わりを持つことができるということを、クリスチャンでもないアラン・ブルームが話しているのである。聖書という書物がどれほど大切なのかということをあのアラン・ブルームが訴えている。彼はクリスチャンでもないのだ。「もうその時代は終わった。私たちにはもうそんなに良いものはないのだ」と彼は言う。そして、「私たちはドイツ哲学で考えたりしなければならないのか」と嘆きつつ語っている。
御言葉の世界観をもって贖いを正しく理解して、何が何なのかということをはっきりと見ることができるということは、サタンの支配から解放されて、アラン・ブルームが「見える」と言っても彼には見えていないことを私たちは見て、真に喜ぶことができるのである。その同じ書物の中で進化論についても語っている。「宇宙は偶然に生まれ、その偶然から生まれたものはすべて生命のない状態から始まっている。窒素ばかりであったガス状態の宇宙が、何かの異変で生命を生みだしてしまった。偶然に。この生命が偶然に生まれて、非常に未熟な状態から今の人間に、偶然に進化してきた。すばらしいことだ」と。そんな話をみんなが信じている。まるで当然あり得るかのように信じている。疑いもせずに固く信じているのである。私が「神が天地万物を創造した」というと、私のほうが笑われるのだ。けれども、まさにそれはサタンに騙されている有様である。
塩光長老のところにあるマッキントッシュは私の身体の細胞の一つほどの複雑ささえないのである。マックはすばらしいコンピュータであり、IBMより合理的かもしれないが、人間のたった一つの細胞と比べても、それは実にたいしたものではないのである。しかし、人間の身体は60兆もの細胞で構成されており、それらの細胞はただめちゃくちゃにあるのではなく、しっかりしたシステムになっている。私のコンピュータはどうして私の机の上にあるのかというと、何万年前にプラスチックと金といろいろな材料をそこに置いておいて待っていたら、何万年後のある日突然にいきなりそれがコンピュータになってしまったというようなばかなことを信じることができると言うならば、進化論も信じることができよう。本当は、そのほうが進化論よりかはずっと信じやすいことなのである。
しかし、誰もが当たり前に教えられた進化論を信じて疑わない。その進化論を土台にしてすべてを考えている。実に驚くべき現象ではないか。それが今日の社会の世界観となっている。これは、「彼らはサタンに騙されて盲目になっている」という新約聖書の意味を最もはっきりと表わすことだと思うのである。サタンの奴隷であり、まったく盲目で、真理が見えない。
「贖われた」と私たちは言うが、私たちはクリスチャンになる前には自分の欲望にしたがって生きるしかなかった者であった。騙されているので、自分は何者なのかがわからない。宇宙が何なのかもわからない。生きる意味が何なのかもわからず、何のために生き、何のために死ぬのかもわからない。死の意味もわからない。そのサタンと罪の奴隷であったとき、神ご自身が私たちをその状態から救い出すために、神ご自身が人間となってくださり、私たちの親戚となってくださった。親戚でなければゴーエルにはなれないのである。私たちの親戚となってくださった主イエス・キリストは、私たちが払うことのできない代価を代わりに払ってくださった。主イエス・キリストは、代価を払って私たちを“パロ”の手から強制的に救い出してくださった。
だから、パウロは手紙の中で何回も「主イエス・キリストの贖いの働きはサタンを裁くことである」と説明している。コロサイ人への手紙2章やヨハネの福音書12章や他の箇所でも、贖いはサタンを裁く働きであることを教えている。パロを裁いて倒さなければ、パロの奴隷となっている人々をパロの手から救い出すことはできない。キリストは、サタンを裁き、代価を払って、私たちを奴隷の状態から救い出してくださったのである。イスラエルの歴史はその贖いの働きを“ひな形”として表わしていたが、こんどはキリストにおいてそれは完全に成就したかたちで行なわれて私たちは贖い出され、救われた。私たちは奴隷の状態から自由にされた者である。私たちは今やそのゴーエルに従う者となり、神から与えられた相続の地を手にいれて神の栄光を表わす者となった。
つまり、私たちは、新しいヨシュア(イエス)に従って忠実に福音を伝えることによってカナンの地を神のものにする者なのである。そういうわけで、私たちは贖いの目的をいつも思い起こさなければならない。神は御自分の民が御自身に仕え、その御国と栄光とのために働くことができるように彼らを贖われ、罪とサタンから自由にされる。「贖い」は、私たちが聖さをもって神の栄光を表わすという最初の目的へと回復されることを意味している(3章23節参照)。私たちが神の戒めに対する服従をもって神に栄光を帰するとき、キリストの十字架上の死の最終目的である全世界の贖いに向かって、私たちの内に、また私たちを通して、神の御霊が働き給うのである。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネの福音書3章17節)。
旧約聖書の歴史は私たちにすべての言葉の根本的な意味を教えてくれるものである。パウロの手紙を読むときにはそのことを覚えて、そのことをよく思い出しながら読まなければ、パウロの言っている意味を深く理解することはできない。イスラエルの礼拝制度は過越の祭を出発点としてもっていたことは、エジプトから出たその実際の歴史から知ることができる。イスラエルのカレンダーも過越の祭から始まるものである。私たちの礼拝も過越の祭の礼拝だと考えることができる。もちろんそれだけの礼拝ではない。実は、旧約聖書のすべての祭と犠牲制度はキリストにおいて成就されているので、日曜日の礼拝はそのすべてを表わしているということにもなる。
過越の祭のことを考えると、私たちは贖われた者としてここに集まり、その贖いに対する感謝を神にささげているのである。贖われた者として神に感謝をささげて、神の御名を賛美するのである。聖餐式のときに私たちは、「主イエス・キリストの十字架の働きによってのみ、私のような罪人は贖われた」ということを覚えて、モーセの十戒にあるように「贖い主、神よ。あなたのみを神として礼拝し、あなたに従い、あなたの栄光を慕い求めます」という誓いを新たにするのである。贖われた私たちのすべてはキリストのものとなったということをパウロはコリント人への第一の手紙6章19〜20節で話している。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
もう私たちは自分のものではなく、神のものである。奴隷の状態から代価をもって贖い出された者には新しい「主」がおられる。以前は自分たちの愚かさのために、真の権利を持たないサタンの奴隷になっていた者であるが、キリストが「ゴーエル」となって私たちを贖ってくださったので、今私たちはキリストの奴隷となったのである。私たちの身体も思いも心もすべては主イエス・キリストのものとなった。贖われた者として聖餐式を行なうとき、贖い主に感謝をささげ、そして自分を贖い主にささげて、「私のすべてはあなたのものです」という誓いを新たにするのである。そのことを覚えて聖餐式を行ないたい。
――1999年2月7日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com