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    ローマ人への手紙3章24節


    3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

    99.02.14. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    神の恵みにより、価なしに

    3章24節

       先週は「贖い」という言葉についていっしょに考えた。「贖い」という言葉が聖書の中ではどういう意味なのかを学んだ。クリスチャンとして考えるということは、聖書の言葉をもって考えるということなのだということも先週少し話した。実は、今週もアラン・ブルームの本のクラスの備えのために読んでいた書物から、そして妻といっしょにテレビで見た番組からも考えさせられたことがある。それは人工知能(AI)のことである。それについてNHKのテレビ番組でちょうど討論が行なわれていた。その議論を聞いた後で二つのことを感じさせられた。

       一つのことは、ある意味でそのディベートの内容は程度が低すぎてクリスチャンとしてとても入ることはできないということであった。機械であるコンピュータが本当に人間のような知能を持って考えることができるようになるかどうかということをその気になってディベートしているが、その主題についてディベートする意味はないのではないか。私たちの観点からすれば、これは最初から実に馬鹿げた話だということになる。実際にクリスチャンではない哲学者たちの中にも、コンピュータの動作を見ればそのような議題が馬鹿げたものだと考える人たちもいる。

       人間は神の似姿なのである。神から与えられた人間の深い意味や思いは、単にコンピュータが計算しているようなものではなく、機械とは根本的に違うものだということは明らかすぎるほどに明らかであって、そのような議論はまったく話にもならいことは学者ではない皆さんにもすぐにわかるだろうと思う。同時に、神の似姿であるから人間は物を作り出す存在なのである。厳密にいえば人間に対して「創造する」という言葉を使うのは適切ではない。しかし、人間はもっと低い二次的な意味で、創造力があって物を創造する存在である。人間はすごいものを作り出すことができる。そのように人間は神の栄光を表わすものなのである。

       コンピュータに出来ることや優れた機械に出来ることをみれば実に驚かずにはおれない。「驚く」というのは、今日では電子顕微鏡で人間の細胞の中を観察することができるようになったが、その細胞の中を観察すると、工場のようなものがあったり、物を運搬するコンベヤーのようなものがあったりして、機械的な部分があるのは事実である。それを見ると、人間が実際に工場を建設したり稼働させたりするとき、自分はそうするつもりがなくても、神の真似をしているということを感じさせられる。神の真似をして人間はそれらを造っている。その証しが自分の細胞の中にある。

       そこまで人間は神によって創造されたものとして神から与えられた思いと定められたシステムを自分のうちに持っている存在なのだ。何を造っても、結局神の真似をしている。機械は100%人間的なものに見える。また、それは自然にはないものに見える。けれども、本当は自然の中にあるものであって被造物の中にあるものなのだ。どこにあるかといえば、それは細胞の中にあるのだ。そこまで小さな所に入らなければ精密工場のようなものを見つけることはできない。だから、人間が工場を造ったりしたときに細胞の真似をしようというつもりはなかったのは事実である。細胞の中を見ることができるようになったのはつい最近のことだからである。

       最初に工場が造られたとき、まだ細胞の内部構造については誰も知らなかったのである。そこまで人間は創造主なる神の栄光を表わすものとして創造されたのであり、神に逆らって生きているにしても、何かの意味で神の栄光を表わしてしまうものなのである。人間とはどんなに高い、どんなにすばらしい存在なのか。それは、コンピュータを造ることが出来ることにおいても表わされている。

       私は中学生レベルの日本語しか話せないので、極く単純なレベルでしか話せない。けれども、深くて素晴らしいことを私たちは単純な言葉で言い表すことができる。表現が足りなくてもポイントは十分に理解できると思う。「神」という言葉を、三位一体なる神を覚えつつ使うことができるとは実に素晴らしいことなのだ。神が私たちをご自分の似姿として創造してくださったということも、あまりにもすばらしくて深い意味のあることなのだ。それが私たちに与えられているのに、それがまるで当たり前のようなものになってしまい、私たちは自分たちに与えられた偉大な真理の意味の深さに驚きもしない。何という鈍さだろうか。ここで、パウロが語っている言葉はどれをとっても深くて実にすばらしいものである。

       この世の最も知識ある優れた人たちが難しくて理解しにくい話をするのを聞くとき、本当に程度が低いと思わされる。決して彼らをばかにして言っているのではない。知的に彼らはすばらしいのは認める。しかし、なぜ彼らはそれ以上のことを考えることが出来ないのか。どうしてそれほどすばらしい機械を造ることができる人たちが、語る事においてあれほどに程度低いところに留まってしまうのか。創造主なる神を知らないからである。私たちにはその神の御言葉が与えられており、その御言葉を学ぶことによって私たちは永遠の真理、神ご自身について知ることができる。なんと素晴らしい恵みだろうか。

       それを知っているならば、その聖書の御言葉一つ一つを深く瞑想する責任があるのではないか。子どもたちに教育を与えることにおいて、これは何よりも重大なことなのだ。聖書のことばを正しく子どもたちに与えるならば、子どもたちは、心の中で何かについて考えるとき、自然と聖書のことばをもって考えることができるようになるはずである。自然と聖書の枠組みの中ですべての問題を定義するようになる。それによって彼らは若い時から、聖書の御言葉によって教えられた目的を求めて自分の問題や人生について考えるようになる。実を結ぶことの目的と意味を思い、朽ちることのない実を結ぶことを求める心を持ち、神の栄光を表わすことを求める者となるのである。そのように私たちを導く聖書の御言葉の教えは、実に実に素晴らしいものである。

       アラン・ブルームの本の中でニーチェについて話している箇所だが、最初の西洋の無神論者たちが「神はもう存在しない」と言うとき、彼らは本当に喜んで宣言したものであった。「神から自由になった」と彼らは叫ぶ。神の存在は、この神を憎む者たちにとってはあまりにも辛くて重いことだったからである。神が存在するなら、自分が何者なのかということはもう既に定義されてしまい、そこに自分を定義する自由はない。私たちの人生の意味や目的も定義されてしまっている。そういう意味で、自分の人生の意味を定義する自由はどこにもない。何が正しいのか、何が正しくないのかも、私たち人間が勝手に定義することではなくなる。最初からそのシステムはもう与えられているからである。

       私たちはそのシステムの中での自由を持つが、システム自体を造り、根本的なことを全部自分で定義するような自由は与えられてはいないのだ。つまり、神のみが持っておられるような自由を人間は持っていないということなのだ。しかし、無神論者たちにはそれはとても苦しくて耐えられないことなのだ。「神に定義できて、私には定義できないのか。神が決めて、私は決めることができない。私には自由がない」と思っているので、彼らは神の存在を否定することによって「私は自由になった」という気持ちに浸ろうとするのである。

       しかし、そのような喜びはつかの間でしかない。アラン・ブルームは、「ニーチェが最初にこのことに気がついた」と言っているが、ニーチェは、そのように自由になったことがどれほど苦しいことか、どんなにつまらないことか、どんなに無意味なものなのかをその著作の中で語っている。ニーチェは「神は死んだ」と宣言した人間である。「神は死んだ。神はもういない」と宣言するときに、ニーチェは悲しみながら、「神がおられたらよいのに」と思いながらもそれを宣言した、と言うのである。神がいなければ、自分で全部を定義しなければならない。自分が神にならなければならない。すべてを人間が決めるとなると、なんとそれはちっぽけなものに成り下がってしまうことか。誰が決めるというのか。すべての人間が勝手に決めるというのか。それであれば無限に違う定義がとめどなく出てくるし、永遠の戦争にもなりかねない。とにかく、空しくて、無意味で、ちっぽけな存在である人間を深く感じてしまって嘆くのである。

       神が存在しなければ、私たちが考えているような人間も存在しなくなるのだ。人間は、“生命のある機械”に過ぎなくなる(その場合の生命とは何になるのか、私にはわからないが...)。そのことを証明した科学が“進化論”である。その進化論を信じる“信仰”が今の西洋の人たちの信仰となっている。インドは進化論かどうかはわからないし、イスラム教も進化論ではないと思われる。日本とアメリカ、ヨーロッパ、そしてロシアも中国もそうだと思うのだが、進化論を信仰しており、神を捨てている。神を捨ててしまうと、このローマ人への手紙で話しているポイントは何も通じなくなる。神の栄光を表わすことはできなくなる。彼らにとって、神の義が表わされることも、キリストの十字架の贖いも、まったく通じない意味のない話になる。

       それだから、私たちは本当に聖書の言葉の一つ一つを大人として考え、その一つ一つを深く子どもたちに教える必要がある。それがどんなに深くて大切なことなのかを強く考えさせられるのである。それゆえ、この箇所をゆっくりいっしょに考えていきたいと思うのである。

       先週、24節のところから「贖い」について話したが、この24節でパウロはキリストの贖いについて教えている。救いが神の価なしの賜物であるという事実を特別に強調している。

    ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

       原文では、パウロはまず初めに、私たちは「価なしに」義と認められると述べ、それから「神の恵みにより」と付け加えていることにも注目しなければならない。これは22節の話の続きであるが、この箇所を考えるためにまず三つの言葉について考えなければならない。パウロがここで非常に強調しているポイントは24節を注意深く読めばわかると思う。「神の恵みにより」「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」「価なしに義と認められる」。「価なしに」という言葉と「恵み」という言葉は有る意味で内容的に同じ意味を指している。二つの表現は異なった観点から話しているけれども、同じ真理を言い表している。

     

    恵みによって

       恵みによる救いは、このローマ人への手紙の主要なテーマの一つであり、私たちがしばしば立返って考えなければならないことの一つである。パウロはこのローマ人への手紙の中で「恵み」という言葉を25回ほど使っている。その関連語で「賜物」と訳される言葉はローマ人への手紙の中心的箇所の一つである5章の中で、特に私たちの救いを指すのに使われている。繰り返しパウロは神の御恵みについて話しており、神が私たちに与えてくださる救いは恵みのみによる救いであることを強調し、そのポイントを特別に深く教えている。

       ローマ人への手紙の9章から11章を学ぶときに更にそのポイントについて深く学ぶことになるが、神の御恵みは永遠の昔から一方的に与えられていることが強調されている。そこまでパウロはこのポイントを強く強調しているのである。福音全体を一言で要約する言葉ともいえる「恵み」という概念の重要性はキリスト教信仰にとってあまりに大きいものであって、パウロはそれをローマ人に対する冒頭と結びの両方の挨拶にしているほどである。「恵み.....があなたがたの上にありますように」(1章7節)。そして、「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように」(16章20節)。この「恵み」は、私たちが生まれる前から私たちのために備えられている。

       「恵みのみにより」と言っているのは、救いは100%神が一方的に私たちに与えてくださるものだということである。私たちの救いは、私たちにただで与えられるという意味においてのみ「価なし」なのであって、神はその代価を支払われたのである。神は、ご自分の御恵みにより、私たちの罪の贖いの代価を喜んで一方的に支払ってくださったのである。パウロが福音の本質を説明している3章21〜26節の段落において、恵みはこのように重要な言葉である。その重要性を更に深く味わうために、「救いがなぜ恵みによらなければならないのか」と尋ねることは有益である。それはなぜ神の愛の賜物でなければならないのか。少なくとも相関関係にある三つの考慮すべき事柄が頭に浮かぶ。

       第一に、救いは我々の全き罪深さのゆえに恵みによらなければならない。パウロは先の章において、ユダヤ人にも異邦人にも、すべての人の魂の深みにおいて、罪が彼らの特性を表わしていることを示してきた。罪深い人間には神を理解することができず、また彼らは神を求めることもない。人間生活のあらゆる側面とその全人格は、神に対する激しい拒絶から来る影響によって歪められている。このような場合、明らかに、神の方から人間を求めてくださるのでないかぎり、人は自分で神を求めることがないのであるから、救われることはない。人間の罪深さには、特別に注意を要するもう一つの側面がある。それはパウロがこの後のところで指摘しているものである。3章27節を見てほしい。

    それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

       罪人が自分について、また自分のしたことについて誇るという傾向は非常に強く、余りに深いため、はっきりと「恵みによる」のでないかぎり、如何なる救いの方法も罪人の誇りを事実上励ましてしまうものになってしまう。「誇り」と言っているのは、自分自身を神とし、自分で善と悪を決め、自分自身の栄光と歓びのために生きるという罪人の試みを意味している。この人間の誇りは余りに深く、行ないによる義認と恵みによる義認とは根本的に反対のものであるとパウロが強調しなければならないほどのことなのだ。「恵み」についてパウロが強調して教えるとき、「恵み」と「行ない」が何度も何度も対照的に出て来ていることに皆さんも気がついていると思う。更に11章6節を見てみよう。

    もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

       この11章6節を見れば、恵みか、行ないか、そのどちらかでしかないことがよくわかる。恵みか、行ないか、どちらか一つでしかない。行ないによる救いは恵みの救いではない。恵みによる救いは行ないの救いではない。この二つは100%違うものだということをパウロは思いっきり強調している。行ないであってはならない。恵みでなければならない。そのことをパウロは3章27節と4章で説明しているのである。

       なぜ恵みでなければならないのか。どうして恵みと行ないを完全に区別しなければならないのか。それを考えるときに一つの大きな問題を考えなければならない。それは人間の罪の問題である。人間は自らを誇ろうとする。恵みと行ないの区別をはっきりさせて、行ないの救いではなく恵みの救いでなければならないというのは、この「誇り」が問題なのである。人間は何を誇るのか。私たちの誇りはどこにあるのか。「それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」とパウロは言っているのである。誇りが取り除かれないかぎり、人間に救いはないということを十分に理解しなければならない。次に4章4節と5節を見てみよう。 

    働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

       行ないによる救いの方法では、祝福は働いて手に入れるものとなる。働くばあい、与えられるものはその支払うべき報酬となる。働きがなくて信仰のみによるならば、与えられるのは「恵み」である。そのようにパウロはその誇りのことについて説明しているけれども、人間は罪人なので、自分が働いて得たものに対して誇り、すぐに傲慢になる。とくに神と人間のことについて、そして救いのことについては、人間が自分で得たとか、自分の知恵と自分の思いで「私がやったのだ」ということになると、神を神と思わないですぐに自分を神にしてしまう。人間が神になろうとしていることこそ罪の最も深い根なのだ。無神論者たちは、どうして無神論者になったのかというと、自分がすべてを定義したいからなのだ。「自分は神から自由になりたい」というところから無神論は始まった。そして、自由を獲得したと思ったときにはもうだめだということに気づかされるのだが、そこまで神が神であることに耐えられないのが罪人の罪なのである。

       それ故、本当の意味で罪人を罪から救うためには、人間が神になろうとするその誇りを取り除かなければならない。その傲慢な心を取り除かなければならない。「恵みの救い」でなければ、人間の心の中の神になろうとする傲慢な罪の問題を解決することはできないのである。「恵みでなければならない」というのは、人間が罪人でしかなく、ひたすら神に逆らい、神を憎み(8章7節)、自分が神になろうとしているからである。自分の人生を神に委ねることをしない。キリストを信じていないすべての人の行ないは結局のところそのようなものなのだ。機械を作るだけでも、その機械が完成すると、「私は人間のような“モノ”を作ることができる」と言って誇るのだ。何か成功すると、すぐに自分は神になったつもりになる。実際に政治家たちは自分が神だという宣言までしてしまうのである。そのような罪人を罪から救うためには、心の中にあるすべての傲慢を取り除かなければならない。

       行ないを一つでも、たった0.01%であっても自分のものとして残すならば、その行ないがどんなにちっぽけであっても「この行ないがあったから私は救われたのだ」と思ってしまうものである。一つでも行ないを残すならば、罪人はそれだけを誇って自分を賛美することになってしまうので、救いはただ恵みでなければならないのである。偽りの信仰と誇りが崩されて、罪人が自分よりも神を誇るところまで導かれない限り、彼は心と生活の両方において罪の歪んだ影響に苦しむほかないのである。「恵み」は罪人に、「あなたは神の御好意を得るためには何一つ為し得ない者であり、全く相応しくない者であって、ただ賜物として神の救いを受けることしかできない者なのだ」と語りかけることによって、彼に、自分という偶像を破壊するように要求するのである。それによって罪人がキリストの御許に来るためである。これが救いの方法であり、言い換えるなら、罪人の最も深い必要に答えるものなのである。

       恵みによって、神は私たちに救いを与えてくださる。「このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるためであり...」(4:16a)と強調してパウロが教える理由の一つはそこにある。信仰とは働くことによって何かを得るものではなく、救いを賜物としてただ受けることであるからだ。ならば、「恵みと行ない」という同じ対比は「信仰と行ない」にも適用される。それ故、3章27節にあるように、誇りは神の恵みによって既に取り除かれている。それは即ち「信仰による義認」を意味するのである。

       第二に、人間の行ないについて考えるならば、「人間に何が行なえるのか」を考えなければならない。永遠のいのちを得るほどの何かの行ないが人間にできるわけではない。パウロはガラテヤ人への手紙の中で、もし律法を守ることによって救いを得ることができたとすれば、キリストの十字架は必要なかったのだと説明している。もし人間がそこまで大きな大きな行ないを自分の力で行なうことができたというならば、主イエス・キリストの十字架は必要なかったのだ。人間の罪の問題がどれほど深いものなのかをよくよく知らなければならない。それを知るとき、自分で自分を救うことができないことを悟るはずである。そんな大きな行ないは自分にはできないことがよくわかるはずである。

       私たちは、救いの賜物じたいの偉大さを考える必要がある。神は、キリストの栄光の姿に変えられた者たちに、御自身との交わりという永遠のいのちを賜るのだ。それほど偉大な賜物を手に入れるのに人間に為し得ることなどあるだろうか。人間がたとえ罪深くなかったとしても、たとえ人間の心が天使のそれよりも純粋であったとしても、人間のいかなる行ないが、永遠にしてそのすべての面で朽ちることのない報酬を与えずにはおれないようにすることができるというのか。その観点からも、我々は次のように言わねばならない。「救いが神以外から来ることはあり得ず、たとえ罪のない人間でも、このような偉大な救いを功績を積むことによって得られるような行ないは何一つ為し得ない」と。

       今まで犯した罪を、たとえば今日、今、完全に止めて、今日から死ぬ日まで全ての行ないにおいてたったの一つも罪を犯さないということが出来たとしても、それは今まで犯した罪のつぐないにはならない。完全に正しく生活を送ったとしても、それは当然なことに過ぎない。それは創造された目的を果たしているだけのことである。思いも言葉も行ないも全部正しくあるのは当然のことなのだ。人間は、神の栄光を表わすものとして創造されたのである。しかし、私たちは、今日から死ぬ日まですべての罪をやめることができるだろうか。あなたは完全に罪をやめるだろうか。やめられるのだろうか。

       実は、私は子どもの時にそれができると思っていた。リベラルな教会だったが、教会に行ってモーセの十戒の話を聞いたりすると、いくらリベラルな教会といっても、聖書を読んだりはするので自分の罪を子どもなりに感じてしまう。自分の罪を感じる時に、何度も「もうやめるぞ。明日からもう絶対にしない」と心に決めたものである。明日からにしたのか、今日からにしたのか、正確には覚えていないが...、とにかく「今から私は絶対にもう罪は犯しません。すべてやめるぞ。これから正しく生きるぞ」と心に決める。そして、礼拝が終わって日曜学校が始まると、私はいつも悪い子だったので、簡単には変わらない。30分もするともう何を心に決めたのかも忘れて、どうしようもないことになってしまう。子どもであっても一週間過ぎると、また礼拝で「ああ、先週は忘れちゃったからまた罪を犯してしまったけど、ちゃんと覚えるならばきっとできる。こんどこそもう罪を犯さないぞ」と、また決心する。アメリカ人の楽観主義かもしれないが、何回も何回も決心を繰り返したものである。しかし、30分とその考えを保つことはできなかった。

       大人になってから、自分の罪を深く見るときに、それがどんなにどうしようもない大変な問題なのかに気づかせられるのである。私たちは、どういう行ないをしたらこの罪の問題を解決することができるのだろうか。恵みでなければ、救いの可能性すらないのである。「救いは神が与えてくださる賜物である」と聖書が教えるとき、「救いは新しい創造である」という言い方もする。この「救い」の意味の偉大さを考えるとき、これは私たちにできることではないというポイントもさることながら、救いは創造主であり超越なる神が与えてくださるものゆえに、それは「恵みでなければならない」のである。

       さらに、救いは、神が我々に与えてくださる賜物という点から見て、偉大で素晴らしいというだけではなく、そのまさに本質において超越した神の御業である。「救い」は、神の永遠のご計画であり、神の無限な愛を表すものである。「恵み」というとき、それはただ単に神が罪人に賜物を与えるというだけの意味ではない。恵みは、神が私たちを愛することをこの世を創造する前から決めておられて、その愛を私たちに与えてくださることを意味している。恵みの計画は、世界の基が据えられる以前の永遠の昔に始まるものであり、神は私たちの救いを計画され、私たちをご自分のものとすべく選び、選んだ者をキリストと同じ姿に変えられるように予定したもうたのである。

       前に11章6節を見たが、その恵みの話は神の選びについての文脈の中での話である。パウロは、ただ単に救いは神からのプレゼントであると言っているのではなく、「神がこのプレゼントを受けるようとある人々を選ばれた。ただ恵みによってのみ彼らを選ばれた」と言っているのである。そこには、神に選ばれた者が御好意を得るためにしたことや為し得たことなど何一つないのである。神の永遠の御計画を成就する救いは、本質において超越しており、人間のわざではあり得ない。「救い」は超越なる神のみがなせる「行ない」なのだ。それゆえ、救いは恵みでなければ考えられないものである。

       それ故、「恵みによって私たちは義と認められる」とパウロが言うとき、それは救いの偉大さと素晴らしさ、そして私たちの罪の深さ、その両方のポイントを指しているのである。私たちはそのような無限な意味を持つ救いを自分の行ないをもって得られるなどと決して思ってはならない。罪に墜ちてしまった私たちは、神の一方的な愛によるのでなければ決して救われることはない。しかし、神はそのような永遠な愛と御恵みをもって私たちに救いを与えてくださる。これは無限な意味を持つ救いである。

       70年、80年、あるいは90年、この世の中に生きる。もしかすると50年、40年、あるいは30年だけかもしれない。この世の中にしばらくいて、それから神の永遠のエルサレムに行き、永遠に神とともに生活するその無限な意味をもつ救い。それは永遠に終わることはない。「永遠」という言葉だけでも、真剣に考えるならば頭が痛くなるほどのことである。私たちには耐えられない。すべては大きすぎて、素晴らしすぎて、私たちの思いを越えることばかりである。私たちは人間の中で一番頭がよいわけではないけれども、いかに頭がよくても、私たちと同じように「永遠」という言葉は理解しがたくて、それを真剣に考えるならば狂ってしまうほどに私たちには耐え難いほどの偉大な意味がある。

       静かにその意味を瞑想するならば、このような救いを私たちに与えてくださった神の大いなる御恵みを深く感じるとともに、この「恵み」という言葉が私たちにとってどんなに尊い言葉なのかを知ることができると思うのである。それだから、パウロは挨拶するときに、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように」と言う。このような素晴らしい神の御恵みによって救われたということをパウロは挨拶の言葉に用いるのである。挨拶においてさえ、それがどんなに深い話なのかを思わされるのである。

       「ハロー」と挨拶しても、それが何の意味なのかどうもよくわからない。「こんにちは」という言葉にも何か深い意味があるようには思えない。「神の御恵みがともにありますように」或いは「シャローム(神の平和がともにありますように)」というような御言葉の挨拶を見るだけでも、それは重くて素晴らしくて栄光に満ちているものではないか。このような言葉、このような世界観、考え方、そして神との愛の関係が私たちに与えられているということをよくよく深く考えて、それを私たちの子どもたちに与えたいものである。もちろん、その言葉だけを与えるのではなく、それによって子どもたちが神に近づき、神を愛し、神に従うための言葉である。

       「恵み」と「行ない」が対照的なものとしてあるが、「信仰」という言葉は「恵み」と一緒にある。「信仰」という言葉は「恵み」と同じように出てくる。なぜ信仰によるのかというと、4章を読めば繰り返しそれは出てくる。「信仰」は複雑なものであり、受身的な面と積極的な面の両方がある。受身的な面というときに、信仰はただ与えられたものを受ける性質について話している。「信仰は、神が恵みによって与えてくださる救いを受ける心の手である」という言い方もあるが、信仰は神に寄り頼んで、神がすべてを行なってくださるのをただ受け入れることである。私たちは受身的にそれを信じて受け入れるのだ。

    同時に、何かを信じるならば、神を信じて神の御言葉を信じるのであれば、それは今後の歩みのすべてを決定するものとなる。信仰は自然に行ないを生み出すものなのである。真の信仰は行ない無しのものではありえない。必ず積極的な面もあるわけである。その積極的な面が聖化論の話なのだ。その受身的な面は、義と認められる話である。義と認められることを考えるとき、私たちは100%受身でしかない。恵みのみによる救いなのである。ただ信じて与えられた救いである。それだけの話である。聖化論のばあいは、ほんとうに救いが与えられているのであれば、本当に神を信じたのであれば、当然心も思いも変えられて信仰からの行ないを生み出すはずであるというものである。

       そういうわけで、信仰の複雑な性質は、義と認められることと聖化すること(クリスチャンとして成長すること)をつなぐ役目をも果たすものとなる。「だからといって行ないとか律法を捨てるわけではない」とパウロは後で説明している。100%恵みのみというのは、まったく信仰によるということである。私たちは救いを信仰によって受けるのだ。信仰で受けるがゆえに、それは活動的で積極的な「実を結ぶ行ない」となって表わされるようになるのである。

     

    価なしに

       次に24節の「価なしに」という言葉について考えよう。これは「恵みによる」と同じような意味をもつ言葉である。「価なしに」というのは、私たちにとっては「ただ」という意味である。それは「まったく賜物なのだ」ということを強調する言葉である。それは、安物という意味ではない。「恵み」は神が「価なし」に与えてくださる愛であり、神が救おうとして選ばれた者たちに予定された憐れみといつくしみである。「恵み」というときに、神が全部を行なってくださったことを強調しているという意味で「賜物」の話をしているが、それは「神の永遠の愛」の話なのである。そして、「価なしに」というとき、私たちは何もしないでただで受けることについて話しているのである。

       パウロはこの3章24節の中で、義認は私たちにとってただであること、また、イエスの贖いの結果のみによることを説明している。つまりそれは、私たちにとって価なしのものであるが、キリストにとっては大変高い代価を支払うことであったという点をパウロは私たちに理解させようとしている。受けとる私たちにとってはただであるが、神にとっては決してそうではない。「価なしに」という言葉は新約聖書の他の箇所でも使われている。たとえばコリント人への第二の手紙の11章の7節だが、そこでパウロは偽りの教師たちに聞き従ってしまったコリント人たちを叱責するのに用いている。 

    それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。

       この「報酬を受けずに」というのがその「価なしに」と訳されている言葉なのである。パウロは何も給料や報酬をもらわずにコリントの教会で働いて御言葉を教えていた。コリントの教会だけでなく、他の多くの教会でもパウロは献金を受け取らなかった。支払われた献金をパウロはエルサレムに持って行った。そうしなければならなかった事情があったことをパウロはコリントの教会やテサロニケの教会で話しているが、それが悪いことだったのかと問いかけている。多くの悪い教師たちが教会に入ってきて教会員を騙したりしていたが、パウロは価なしに福音を伝えた。それがパウロの罪だったのかと問う。同じような言い方がテサロニケ人への第二の手紙の3章8節にもある。

    (私たちは)人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。

       ここでも同じようにパウロは、自分がテサロニケの教会で福音の働きをしたときにどういう生活をしたのかについて話している。パウロはテサロニケにおいても、教会からの報酬を求めずに福音を伝えていた。パウロは、人のパンをただで(価なしに)食べることはしなかった。「価なしに」というのは100%プレゼントであるというごく普通の意味の言葉である。しかし、これも罪人の罪の深さと愚かさをよく表わすものである。

       デパートやスーパーに行くと、「五千円お買い上げのお客様には抽選券を差し上げます。一等賞は一週間のハワイ旅行をペアで」というチラシを見るとついつい余計に買い物をしてしまう人がいる。ハワイ旅行を、ホテルも食事もぜんぶついて、すべてがただで受けられる。ドキドキして沢山買い物して抽選すると、たいがいもらうのはティッシュなのだけれども...。何万人がティッシュをもらって、一人がハワイ旅行を獲得する。それがわかっていても、誰もが“ただで”ハワイ旅行に行くことを求めて買い物をしてしまう。そのようなキャンペーンがいたるところで行なわれている。五千円も使うつもりはなかったけど、その大きなチャンスにつられてついついたくさん買い物をしてしまう。

       アメリカでは新聞で懸賞を当てることを仕事としてやっている人さえいる。毎日多くの新聞や雑誌を買って来てどんどん応募すると、時間が経つにつれて多額の賞金を取るようになる。それを本職としてやる人たちがいる。賞金だけでなく、いろいろな物をもらったり、車をもらったりする。そこまで「賜物」を受けるような話があれば、人間は熱心になるものである。「えっ。ただなんですか」といって目を輝かせる。しかし、「神の御恵みはただであって、救いが価なしに与えられる」というと、誰も興味を示さないのである。試しにコラール(三鷹駅前のスーパー)でやってみてごらん。「永遠のいのち」という看板を立てて「ただですよ。どうぞ来てください。永遠のいのちを手に入れる道を教えてあげます」と呼びかけてみてください。五千円を使わなくてもいいのに、皆があなたの前に集まって聞くだろうか。1円も使う必要はない。本当の意味でそれはプレゼントなのだが、誰も興味を示しはしないであろう。人々はそれを嘘だと思うだけで、誰も信じようとはしない。

       ハワイ旅行なら誰でも興味を示す。しかし、罪からの救い、新しいエルサレムというと、誰も興味はないのである。それが罪人の愚かさである。神は、永遠のいのちをプレゼントとして私たちに与えてくださる。その与えてくださる賜物があまりにも偉大なものなので、私たちにはそれを得る働きは何一つできないことも前提であるが、神が恵み深い愛なる神であられるので、豊かで寛大で、私たちに何よりも素晴らしいものを与えるのを喜ぶ神なのである。価なしに、その永遠の祝福を与えてくださる。救いは価なしに与えられる。それは私たちの側にいかなる代価も課されることなく提供されている。聖書は罪人にご自身の身許に来て「価なしに」この賜物を受けるようにという恵みの招きで結ばれている。

       使徒ヨハネもパウロが使っているのと同じ言葉を使っている。ヨハネの黙示録にあるその二つの箇所をいっしょに見たいと思う。

    また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(21章6節)

    御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(同22章17節)

       神は、ただで、まったくのプレゼントとして、私たちに永遠のいのちの水を与えてくださる。渇く者に「来てください」と神は招いておられる。なぜ私たちは毎週の日曜日にここに集まるのか。そのことを考えるときに、ある意味で私たちはこの招きに応えていると言うことができよう。この黙示録の最後の招きは確かにクリスチャンではない人々に対する招きでもある。「花嫁」とは教会のことであるから、御霊が私たちといっしょに招いておられるのだ。しかし、神はその招きをこの私たちに与えておられる。私たちはその渇く者である。私たちは罪を犯し、その罪の重荷を負ってそのために苦しんだりする。心の中で寂しくなり、空しくなる。神との交わりが不完全なために、私たちは渇く。

       礼拝に来るとき、私たちは神の永遠のいのちの御言葉を慕い求めて来るのである。御言葉を求め、主イエス・キリストの御恵みを求めてここに来るのである。神が与えてくださる永遠のいのちの水を飲みたいのである。それを求めるために私たちは毎週日曜日に集まり、ともに賛美を歌い、御言葉を聞き、聖餐式と聖徒の交わりによってそのいのちの水が私たちに与えられて、心の渇くところが癒されるのである。そのために私たちはここに集まっているのである。神はそれをただで、価なしに、プレゼントとして与えてくださるけれども、これよりも価値あるプレゼントはどこにもないのである。これよりも意味のあるプレゼントはない。神は喜んでそれを私たちに与えてくださる。

       ハワイ旅行が当たったときに、それを周りの皆に話さずにはおれないだろう。両親にも誰にも言わないでハワイ旅行に出かけてしまうことはないと思う。会社の人たちにも話すに違いない。私たちには遥かに素晴らしいプレゼントが与えられている。花嫁が受けた水、いつも飲んで楽しんでいるその「永遠のいのちの水」の話を周りの人たちにも当然話すはずである。「これはプレゼントです。価なしに受けるのです。神の愛、この大きな素晴らしい愛を知ってください。これより素晴らしい賜物はない。渇く者は、来てください。ただでこれを受けてください」という福音の招きに対して私たちはいつも応えているのである。

       そのために私たちは毎週聖餐式を行なっている。聖餐式において私たちは言葉だけでなく、神は、そのパンの象徴と葡萄酒の象徴を通して私たちに主イエス・キリストご自身を与えてくださる。パンを食べ、葡萄酒を飲む。それは、私たちがキリストご自身を受け入れることを意味している。その行為において主イエス・キリストに対する信仰を表わすとき、私たちは神との契約を新たにするのである。神は、ただで、この恵みを私たちに与えてくださる。ただで恵みを与えてくださるのを喜んでくださる御方であられる。私たちはその御恵みを聖餐式において心からの喜びと感謝をもって受け入れるのである。そのことを覚えていっしょに聖餐式を守りたいと思う。

     

    ――1999年2月14日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙3章24a節

    ローマ人への手紙3章25〜26節

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