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    ローマ人への手紙5章3〜4節


    5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

    5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

    99.09.26. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    試練から希望へ

    5章3〜4節

       先週、5章3節で、神はどのように試練を用いて私たちを成長させてくださるかについて考え始めたところである。「患難さえも喜ぶ」とパウロは言っており、患難の中にあっても私たちは喜びを持つ者である。クリスチャンの信仰を持つ者は、患難に特別な意味があるということを知っているので、その患難の意味に目を留めるので、心から喜ぶことができる。今週は続いて3節後半から4節を見ようと思う。

    そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

       このローマ人への手紙5章3〜4節に見出される患難から希望へという論理的な発展は自然なものではなく、すべての人間にいつでもどこでも起こると期待できるようなものではない。それどころか、ほとんどの人は、次から次へと試練に直面すると、特に自分の信仰の結果としての試練に直面すると、落胆に引き込まれてしまう。彼らの間では、患難は短気を生み出し、短気は革命的精神を生み出すのが普通である。革命的精神は、疎外、憤り、また時には暴力を生み出す。パウロが語っている発展は、神の御霊の働きの論理であって、単に人間の心理的な論理ではない。

     

    患 難

       この「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性は希望を生み出す」という、その論理について一緒に考えたいのだが、その前にその土台を築く「試練」あるいは「患難」の意味をまず考えなければならない。私たちが試練にあうのは三つの基本的理由のためだと言ってよい。

       第一に、私たちが試練にあうのは、人間として成長するためである。人生の歩みの途上で障害物による挑戦がなければ、本当の意味で多くのことを学んだり、深く学んだりすることはないのだ。聖書の中で、アダムが創造された時点で神はアダムに「試練」という言葉を使ってはいないが、テストを与えられた。広い意味で言えば、神はアダムに問題を与えて彼を試されたのである。一つには、アダムを創造したときにわざと足りないところを残されたと言える。アダムが自分の足りなさに気がつくように神はアダムを導いたのである。そして、神はアダムにすべての動物に名前を付ける働きを与えた。仕事を与えたのである。その仕事もテストの意味があった。正しい名前を付けるかどうかというテストであった。アダムはそれを行なったことが創世記に記されている。動物を見て、その動物の本質を深く考えてそれを表わす名前を付けたので、アダムが付けた名前はそれぞれの動物の名前となったことが記されている。つまり、アダムはすべての動物に、ふさわしい名前を付けたのである。

       アダムがエデンの園で罪を犯さなかったとしても、神が彼にいろいろなプロジェクトを与える時に常に成功するとは限らない。罪を犯さなくても、失敗はあり得るし、働きながら学んでいくこともある。園で、ニンニクを見つけて、食べ物と思って口に入れて噛んでみたら、最初は飛び上がってしまったに違いない。それから、食べ方を工夫しなければならない。食材も、ある物は生で食べると病気になるが、料理すれば健康に良い物になる。中国人もインド人もその知恵に長けているが、どこから学んだのだろうか。それらはノアの時代とか、大昔の誰かがいろいろ試したり研究した結果、習得された知識である。言わんとするポイントは、罪ではなくても、失敗したり間違いをしたりするということである。その過程を通して学んでいくことはたくさんある。

       だから、神が私たちに試練を与えてくださる一つの目的は、未熟な者が成長することである。これは罪の問題とは別のことである。例えば、子どもは子どもに過ぎないのだ。10歳の子供は、いくら素晴らしいクリスチャンであっても、子どもなのだ。20歳の子どもも30歳の子どもも同じである。いくら素晴らしい信仰があっても、30歳ではまだまだ解らないことがいくらでもある。50歳になってもまだ足りないところが沢山ある。80歳になってもまだ足りないところがある。人は幾ら歳を重ねても、もっともっと成長しなければならない。もっともっと学ばなければならない。

       そういう意味で、試練は学ぶための訓練であり、成長するために与えられるものある。人間が罪人でなかったら、この意味はほとんどすべての試練に適用できるものだったと思う。だから、ヘブル人への手紙の中で、主イエス・キリストも試練を受けることによって学び成長されたと記されている(ヘブル人への手紙5章8〜10節)。罪とは全く係わりなしに、いろいろな苦しみを通して人間として成長されたということである。

       第二の理由として、私たちは自らの罪のゆえに試練にあう。考えてみればよくわかることだが、私たちの信仰は土から取り出された金鉱石のようなものだということである。つまり、見た感じでは、金というよりも塵芥でしかない。いろいろな不純物が混ざっていて、とてもきよいとは言えない。土から取り出された金鉱石をすぐにネックレスにする人はいない。火を通さなければ純粋なものにはならないし、美しいものにはならない。火を通していけば、それはどんどん純粋なものになっていく。悪いものがどんどん火によって除去されていく。罪人となった私たちは試練にあわなければ、信仰はきよいものにはならないのである。

       その試練の火は、信仰がきよめられていくためには絶対に必要なものなのだ。その試練を通して私たちは罪の深さを知り、罪と戦い、罪を捨てていくのである。だから、神は愛する者に試練を与えてくださる。苦しみや試練を通して私たちの罪を焼き尽くしてくださるのだ。これは私たちが試練にあう唯一の理由ではないが、これは私たちが考えているよりもずっと重要なものなのである。これが二番目の理由であり、これは5章と特に関係があることだと思う。

       試練にあう第三の理由がある。それは、一番目の理由および二番目の理由と深い関係にある。それは即ち、明日の働きのための訓練である。将来、特別な働きが与えられるために、今日の試練を神は与えてくださる。将来において神に仕えるための特別な教育の手段として、試練は与えられる。試練のこの側面は最も理解し難いものとなる。試練にあって、神は何をしておられるのかを理解しようとしても、私たちはそれを完全に悟ることができない理由はそこにある。私たちは、今日のことについて「なぜ」と考えるとき、過去を見てもそこには今日の問題に至った理由がどうしても見当たらないことがある。過去には理由として指摘できるものが一切ない。その理由は未来にあるので、私たちにはぜんぜん見えないのである。試練にはそういう側面もあることを認識すべきである。

       今日立っているところは、昨日の結果だけではなく、明日への準備であり、明日の意味があるのだ。明日の意味は何なのかと問うなら、預言者であっても全部を言い尽くすことはできないだろう。それは、神のみが知っていることだからである。今日の試練は、明日の働きのためにある。これは実に大切な知識である。だから、今日、その試練を正しく受け止めることによって、明日の働きがもっとよく出来るのである。第一の理由について考えたときに、アダムのことやキリストのことについて考えなければならないことを見た。つまり、罪が無い状態であっても、試練や問題にぶつかるが、それを正しく受けることによって人間として成長し、知恵が増し加わるのである。

       この第三の理由を考えるとき、私たちは特にヨセフの生涯においてはっきりと見ることができると思う。ヨセフは、奴隷として売られたときに「私はどうしてこの試練にあわなければならないのか」ということを思ったかもしれない。自分の過去を振り返ったりして、「この事をしたからこういう苦しみに遭わなければならなかったのかな? それともあの事をしたからこうなったのかな?」と考えたに違いない。なぜ自分は奴隷にされたのか、17歳そこそこの若者ヨセフにはとても理解できないことであった。どんなに自分の罪を悔い改めつつ過去を探ってみても、なぜ今、奴隷としてここにいるのかをヨセフは知ることができないのである。いきなり兄弟たちによって奴隷にされたとき、それは実にとんでもない理解しがたい出来事であった。

       もしヨセフがその時に、「今まで私はこうだったから、これからはこうなるだろう」という胸算用で「だから私はこうしよう」という考えでその試練を受けたなら、ヨセフは絶対に大きな間違いに陥っていったであろう。「なぜ私はここに奴隷としていなければならないのかは100%解らないことです。しかし、私はこの状態の中で神を求め、神の御言葉を守ろう。私は神に信頼しよう」という態度でヨセフは試練を神からのものとして受け入れたのである。そうしたためにヨセフは祝福されてポティファルの家でどんどん偉い者になっていった。それは思いもよらないことであった。神のみを恐れて、神の御言葉を忠実に守り、悪いことは何一つしなかった。実に私たちよりもずっと素晴らしいクリスチャンであった。そのヨセフが、やっと道が開かれたと思ったら、こんどはポティファルの妻との試練に直面するのである。その試練に対して正しく応えたために、こんどは監獄に投げ入れられてしまった。監獄の中で、「私は何をしたために、どういう罪を犯したからこのように投獄されたのか」と思って、再び自分の過去を一生懸命思い起こしてみたかもしれない。しかし、どう考えてもその理由を見出すことはできないのである。

       ヨブも同じであった。だからヨブは「どうしてなのか」と、神に訴えている。ヨブの友人たちの見解は、「やはり、あなたの過去には私たちの知らないような大きな隠れた罪があったにちがいない。そうでなければ、今あなたがこの状態にいることは説明がつかない」と言ってヨブを責めた。彼らは神との関係をビジネスの契約のようにしか考えることができなかったのだ。ヨセフの場合、何年も監獄で過ごさねばならなかった。理由はまったくわからない。しかし、ヨセフはその中にあって、神に信頼して正しく行なったので、監獄の中でまた祝福されたのである。エジプトの王パロの右に座る宰相になってからやっと、ヨセフは今までの人生の意味を理解した。その期間は十数年間もの長いものであった。数ヶ月のような短い苦しみではない。2〜3年というようなものでもない。

       その苦しみの間、ヨセフが遭遇したすべての試練は理解できないものであった。「なぜなのか」と叫んで求めても、10年以上も答えはなかった。パロの王座の右に座るようになってからやっと、「神がこれらの試練を私に与えられたのは、今日、私の父と兄弟たちを救うためだったのだ」ということがわかったのである(創世記45章1〜8節)。理由は未来にあったのだ。17歳に奴隷となったその理由は、はるかなる未来にあったのだ。その理由はヨセフには最後まで隠されていた。勿論、兄弟たちも父ヤコブも想像だにしなかったことであった。そのように、神は、未来の働きのために、今日の試練を与えてくださるのである。

       それ故、クリスチャンである私たちは、いろいろな意味での試練に出会うものである。パウロが言わんとしていることを更に広く適用したからといって、それを不当に扱ったことにはならない。今日与えられているプロジェクトもすべて、私たちを試すテストとして与えられているものである。今私たちに与えられている状態のすべては私たちを試すものである。それに対して正しく応えるならば、成長して、どんどん強くなっていく。正しく応えなければ、失敗したりして、一時的に弱くなる。つまり、もう一度やり直さなければならなくなるわけである。数学の試験ではないが、このレベルの数学ができなければ、とにかく次のレベルに進むことはできないのである。1+1は何だったかを考えている段階では、物理学は不可能なのだ。ある程度まで土台を築いてからでないと、次の段階に進むことはできない。数学においてもそうだし、ピアノやスポーツでもそうだし、ビジネスでも同じである。ビジネスで、このレベルの仕事が出来なければ、次のレベルの仕事は与えられないのだ。すべてそういうものである。

       だから、毎日与えられていることがみなテストである。その試験を正しく受けることによって成長していくわけだが、一つの試験を乗り越えると、それは次の試験の準備なのだ。命の限り、どんどんどんどん試されながら私たちは成長して行くものなのだ。大学を卒業した時、私は「もう試験は終わった。感謝なことだ」と思ったりした。だんだんとクリスチャンの信仰がはっきりしてきて神学校で学ぶことになってまたいろいろと試験があった。神学校を卒業した時、また「ああ、これでもう試験はない。論文も書かなくていいし、徹夜して勉強したり書いたりする必要も、もうないぞ」と思ったりした。しかし、決してそうではなかった。結局のところ、「これでもうすべての試練は終った」と言えるのは、天に召された時しかないのである。その日までは、試練あるいはテストの連続なのである。

       死ぬ日まで、いろいろな意味での試練が与えられる。それがなければ成長はないのである。日常生活で出会う小さな患難や病からくる苦しみ、職場や家庭での問題、また私たちの生きている時代や場所において一般的である悩みなどはすべて神から来ているのであって、その点では信仰のゆえの迫害と同じようなものである。それらは、すべて私たちの聖化のために有益であるようにと神によって意図されている。それ故、この箇所のパウロの言葉を私たちが直面するあらゆる種類の困難に適用することを躊躇してはならない。人生すべては試験だと言ってもよい。試験を正しく受けて成長し、もっと良い働きができるようになる。人間としてもっと神に近づく者となるのである。

       試練の一番の理由は、神に近づくためであると言ってよい。未熟な者は、心においても思いにおいても非常に未熟なものなので、神との交わりはそれほど親しいものにはならない。人間として成長していく目的は、主イエス・キリストに似た者となって、神との交わりが深められるためなのだ。神は、私たちの人生を通して、私たちを御自分に近づけるように導いてくださっておられるのだ。しかし、まず罪の問題を取り除かなければならない。そのことが実に大きいことなのだ。しかし、明日の働きの備えは今日にあることも忘れてはならない。私たちには自分たちの明日がわからないものである。神は、私たちにはとても理解できないような不可思議な導きをも時には与えてくださる。それ故、死ぬ日までいろいろな試練が私たちの人生に起こってくるのを見て驚いてはならない。

       ローマ人への手紙5章のパウロの話を考えるとき、特にキリストの御名のために反対されたり迫害されたりするという意味でパウロは試練について考えているが、それは義しさのゆえに苦しむということだが、それはこれら三つの理由の中に含まれるものだと思う。キリストのゆえに迫害されるのは、福音の働きのための試練である。今日の苦しみは、明日の実を結ぶためである。5章でパウロが言っていることは、そのような広い意味で考えなければならないものだと私は思う。

       しかし、パウロがここで考えている患難の概念とは、おそらく特に「福音のための患難」であるということをまず思い起こさなければならない。ローマの教会は深刻な試練の時にさしかかっていた。主イエス・キリストが御自分の死と復活から40年以内に起こると預言された来たるべき大いなる患難について諸教会に警告することは、パウロの重要な働きの一つであった。そのことを考慮に入れずに試練を考えることは、パウロにとってほとんど不可能であった。また、パウロの時代において、クリスチャンがその信仰のゆえに反対されることは少しも珍しいことではなかった。例えば、テサロニケの教会にパウロは、「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています」(テサロニケ人への第二の手紙1章4節)と書き送っている。

     

    忍耐と品性

       それで、「患難さえも喜ぶ」というのは、与えられた苦しみと患難には永遠で確かな意味があるということがわかっているので持つことができる喜びなのである。クリスチャンは、神が患難を通して私たちを主イエス・キリストに似たものになるように訓練してくださり、成長へと導いてくださることを知っているのである。私たちの罪を取り除き、私たちが実を結ぶことが出来るように訓練を与えてくださると知っているので、その訓練をも喜ぶのである。試練そのものを深く探ることによって試練を理解できるようになるわけではない。私たちは神の命令を守ることによってのみ、真に試練の意味を悟ることができる。悟りは間接的なものであって、ただ神の命令を守ることによって得られるものである。「患難が忍耐を生み出す」とパウロは言う。試練の中にいるときには耐え忍ばなければならない。この「忍耐」の意味を簡単に言うならば、「耐える」とか「忍ぶ」ということであるが、「忍耐」の真の意味は「ひたすら神の命令を守って歩む」ということに尽きる。

       これは私たちが普通に「忍耐」という言葉で連想する事柄とは幾分異なっている。積極的に神に目を留めて、神の命令を最後まで守り、その命令から絶対に離れないことが「忍耐」なのである。ただ受身的に耐えるというようなことではない。「しょうがないから、我慢しよう」というようなものではない。「クリスチャンはみな、しょうがない主義者になろう」ということをパウロは話してはいない。「患難はしょうがない主義を生み出す」ということではない。「忍耐」とは、積極的に神の命令を守ることなのだ。それなら、どうして「忍耐」と呼ぶのかというと、試練が与えられた時にはわかっていないからである。なぜこの試練が与えられているのかを100%知ることはできないし、その試練がいつどのように終わるのかもわからない。神が、これから何をなさるのかも私たちには見えないし、わからないのである。だからこそ、私たちは神に信頼して神の命令を守って歩むのである。それが「忍耐」である。

       それ故、忍耐は、「信仰と希望をもって積極的に頑張って生きる」というものなのである。新欽定訳(NKJV)では「忍耐」という言葉を「堅忍」と訳しているが、この方が相応しい訳である。というのは、ギリシャ語原語の文字通りの意味は「その下に続く」であり、「忍耐」に関わる「耐える」という受身の概念と同時に「続行する」という能動的な概念をも含んでいるからである。つまり、その下に立って耐えて続けて頑張るというような意味の言葉なのである。ただ我慢するとか耐えて忍ぶというような意味だけではない。「堅忍」という意味が含まれている。どんな妨害にあおうとも、精力的に行くべき道を一心に突き進むような意味の「忍耐」をパウロは念頭に描いているのだ。積極的に神の命令を守ってひたすら前に向かって歩むということなのである。

       そして、試練の中にあってどうなるのかわからないし、なぜここにいるのかもわからないけれども、神に目を留めて、神に祈りをささげて、神の命令を守って正しく行なうことをとにかく続けることを学ぶとき、そこには「練られた品性」が生み出されるのである。「練られた品性を生み出す」は、試されたものの質のことを言っているのである。比喩として言うならば、「練られて、きよめられた金となる」というような意味である。試練の中に居ようが居まいがクリスチャンはあくまでもクリスチャンであるが、先にも話したように、その金にはいろいろな雑な不純物が混入している。試される中で神の命令を守る生活を続けていくうちに、どんどんその不要な不純物は取り除かれていく。

       「練られた品性」とは「試された信仰」であり、純粋で強くなっていく信仰の状態を表わす言い方なのである。一つの試練を通っていくことにより信仰の質は高められ、純度が高められていく。また次の試練が与えられて、それを更に通っていくと信仰の質は更に高められていくのである。それはさながら最高の錬金師の手にある粗金のようである。錬金について細かいことは知らないが、純金が精製されていく過程はいくつもの段階を経ていかなければならないものだと思う。不純物の多い粗金は最初のレベルで大ざっぱな不純物がまず除去されなければならない。その最初のレベルをクリアして初めて次のレベルで試される資格を得ることになる。最初のレベルで精練されたけれども質が十分に高められずにパスしなかったなら、もう一度その試練を通して練られなければならない。試練が繰り返されていって最終的に高い純度と品位を持つ純金になるのである。クリスチャンとはそのようなものである。

       「品性」という言葉は、他の訳を見てみると、「揺るがない精神(Steadfastness)」(アメリカ標準訳 ASV)、「試された品性(proven character)」(新アメリカ標準訳 NASV)、「練達」(口語訳)と訳されており、他の箇所では「証明」とも訳されている。口語訳の「練達」は相応しい訳だと思う。何かを証明するために試みるという概念がこの言葉の中に含まれているが、この言葉の場合、強調点はおそらくその試みの結果にあると考えられる。「品性」を持つものとは、試され、証明されたものでなければならない。

       初めは、金鉱石のようなものであったが、試練の中を通って行くにつれ、信仰は精練されて行き、その工程のそれぞれの段階において、最良の部分が残って輝くことができるように、不純物を燃やすのである。ペテロが言っているように、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今は、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」(ペテロの第一の手紙1章6〜7節)。

       何度も例に出しているが、ヨセフのことを再度思い出してほしい。ヨセフも罪人であったことは確かで、奴隷になり、その後囚人にさせられるという屈辱は、彼の聖化のために神に用いられたに違いない。しかし、私たちがヨセフの話で見るものは、本人には想像もつかないような未来のために備えられる人物である。父ヤコブに愛されたヨセフは、若者として実に大変な試練にあわなければならなかった。兄弟に憎まれ、兄弟に裏切られ、売られて奴隷にされた。与えられた試練を正しく受け止めていると、もっと大変で深い試練に直面した。つまり、奴隷の状態は楽しいものではないけれども、牢獄の生活よりは奴隷の方がずっとましであった。

       昔の牢獄は私たちが想像する以上に大変で最悪な所であり、それは死を意味するような場所であった。ヨセフはそこまで厳しく試された。その状態は非常に長く続いた。そのどうしようもない状態の中で、なぜこの試練があるのかがわからなかった。どうすればいいのか。「今まで信仰を守ってきたのに、これがその結果なのか。もう信仰なんかいらない」と考えるのか。私たちなら、「もう17年も守ってきたのに」とこぼすかもしれない。幼少の時から忠実に神の命令を守ってきたら奴隷にされてしまった。それでも忠実に守ったら、こんどは刑務所に投げ込まれてしまった。もう十数年もこれで過ぎてしまった。「私はこの監獄の中にいたのでは何も神の御国のために実を結ぶことはできない。神はいったい何をなさろうとしておられるのか」と思ったかもしれない。

       ヨセフは牢獄の中でそのように、ヨブの祈りにも似た祈りをささげていたに違いない。しかし、ヨセフは連続する試練の中で、却ってその信仰をきよめられ、ますます強められていったのである。質的に更に素晴らしい者に成長し、品位のある精練された純金となったのである。ポティファルの家で奴隷として仕える間、ヨセフはその屋敷全体の管理について多くを学んだが、結局それは将来の国の管理につながっていた。彼が多くの兄たちと共に、自分の家でそのような訓練が受けられたとは想像し難い。彼は神が何をしようとしておられるのかがわからなかったが、信じて、希望をもって堅忍した。

       最後にヨセフは、パロの右の座に着いてエジプト全国を支配する者となったが、それでも少しも傲慢な心を持たずに、完全に神が与えてくださる試練を乗越えたのである。エジプトで最高の地位に着いたとき初めてヨセフは、その長い年月の中で神が成しておられたことのすべてを見ることができたのである。ヨセフは、自分の兄弟に対して“厳しい愛”を持つことができる者に成長していた。それほどまでに成長したのである。厳しい愛は、厳しくない愛よりはずっと質のよいものなのである。神の愛は厳しいものである。それだからこそ、素晴らしくて信頼できるものなのである。

       ヨセフは、パロの右の座に着いていたとき、兄弟たちが来たのを見るやいなや、走り寄って「私ですよ。ほら、ヨセフですよ」と叫んだりはしなかった。すぐに走り寄って兄弟を抱きしめて挨拶したとしても、それも愛から出た行為であっただろう。しかし、ヨセフはもっともっと深く考えていた。もっと深く自分の兄弟たちの祝福と救いを求めていたのである。深い愛をもってそれを求めていた。そこまで質の高い品位ある人間はなかなかいない。私たちは試されたりしても、そこまで成長してはいない。

       ダニエルも、若い時から試練の連続であった。十代の時に宦官にされ、生涯を王の奴隷として生きた。楽しい人生であるはずはない。実にとんでもない試練であった。しかし、ダニエルは神に全く信頼し、正しくそれを受けとめた。それによってダニエルはどんどん成長し、きよくなり、知恵ある者となり、忠実に神の御国のために働く者となったのである。結局のところ、「忍耐」とは、積極的に神の命令を試練の中にあって守っていくことなのである。そうすれば、その人の心と信仰はもっと品位のある質の高いものになっていく。その「練られた品性」というものが備わるのである。「練られた品性」とは、その精練されて純度を高めた金の話なのである。

     

    希 望

       更に、「練られた品性が希望を生み出す」とパウロは言う。「希望を生み出す」とはどういうことなのか。「練られた品性」は「希望」にどのように関わっているのだろうか。多くのことが関わっていることに疑いはないが、少なくとも私たちは次の事実を考えるべきであろう。即ち、試練を通って成長する度に、それは神の御恵みが私たちのうちで働いていることの証しであるという事実である。試練の中で、神の御恵み、祈りに対する応答、試練を祝福へと変える神の不思議な働きを私たちは経験するのである。無論、最悪の試練とは、神があたかもおられないかのように見える類いの試練である。「どうして、私をお見捨てになったのですか」とは、神のしもべたちの間によく見られる祈りである。しかし、これらの試練を通して堅忍するとき、私たちは更に神が近くにおられることを知り、自らの信仰が更に強くされることに気付かされるのである。

       本当の試練(直面したことのない大変な問題)にぶつかるとき、誰もが動揺するであろう。どうしたらいいのかわからないような状況に初めて出会うと、いろいろな意味で心が揺れ動いてしまう。心配したり、祈ったりするであろう。その動揺が外見的に見えるものなのかどうかは問題ではない。17歳の少年ヨセフは突然奴隷にされた。その時、落ち着いてて何も動揺せずにいたはずはない。「なぜなのか。どういうことなのか。神さま。助けてください」と祈ったり悩んだりしたに違いない。その若さでは、「大丈夫。きっと神さまは10年後には素晴らしい御業を行なうだろう」というようなことはわかってはいない。

       ダニエルもそうであったろう。とにかく神に信頼して、神の命令を守るけれども、どうなるのかまるでわからない。どうなるのかはわからないけれども、ダニエルは友人とともに王の食べ物を口にしないことを決めてそれを守り通した。それで、彼らは神に祝福されて、守られた。試される中で彼らは、正しくそれを受けとめて神の栄光を見て更に信仰が深められて強くされたのである。そして、神に対する望みと確信が深められていった。それで、次の試練が来るときには、最初の試練よりも強く立つことができた。神は必ず救い出してくださる。神に従うなら、神は祝福してくださる。その確信は更に更に深められていった。

       しかし、神が助けてくださるのは未来の話であって、今、目の前にあるのは試練以外の何ものでもない。試練の中にあって、将来どうなるのかもわからないときに、今まで何回も何回も神は祈りを聞いてくださって慰めてくださり、助けてくださった。今までの繰り返される経験によって、神の真実を知り、必ず助けてくださるという望みが深められている。必ず神は御自分の栄光を表わしてくださるという信仰が強められている。それ故、望みをもって頑張るのである。試練によって試された者は、自分の望みどおりになるとは限らないということをも経験によってよく知っている。神がなさることは実に測り知れないということを試練を通して学ばせられる。全部わかっているから望みを持つわけではない。偉大なる神は、私たちの思いを完全に越えて、私たちの思うところとは違う導き方をしてくださる。そのすべてが最終的には自分にとって益であることを知っているので、望みが持てるのだ。

       神は、実に不思議なお方であると、聖書の中で何度も教えられている(士師記13章18節、詩篇139篇6節、マルコの福音書12章11節、他)。そのことを私たちは人生において経験させられるわけである。特に試練を通して学んでいくわけである。それで、30歳よりも40歳のときには経験はもっと豊かになる。40歳の時の神に信頼する信仰は、10代の時よりもずっと深いものになっているはずである。50歳、60歳、80歳と歳を重ねるにつれて、その信仰は成長していく。私たちが理解できるようなやり方ではないにしても、神は必ずよしとする時に救ってくださることを知っているので、望みをもって神を待つのである。神の御恵みを繰り返し経験することは、私たちに未来に対する確信を与えてくれる。神を信頼しているので、試練に耐え、堅忍を学び、患難をも喜び、未来に希望をもって神の命令に従い、正しさを行ない、福音の為に働くのである。

       その「練られた品性」は、ますますきよめられていく。そこには常に「希望」がある。御自分の御心を完全に行ないたもう神は、必ず最善の道に導いてくださって救いを与えてくださることを信じているのである。その「練られた品性」あるいは「きよい信仰」には、確信に満ちた深い「希望」がある。つまり、クリスチャンの歴史観というものが、自分の心の中にだんだんと築き上げられていくのである。神が私たちと共におられ、私たちの受ける試練はこの御方から来ていることを経験することによって学ぶ度に、神にある私たちの希望は育っていくのである。

       「クリスチャンの歴史観が自分の中に築き上げられる」というのは、最終的にサタンは裁かれ、最終的に悪はすべて取り除かれ、最終的に神の完全な勝利が表わされ、最終的に永遠の天国が来ることを、心において堅く信じて望むようになるということである。それが私たちの望みである。それは、最終的な事柄に目を留める歴史観である。その聖書の終末論の結論のところは、5歳の子どもでも信仰告白として告白することができるものである。2〜3歳の子どもでさえ、天国について学ぶことができるし、死んだら天国に行くこともある程度は理解することもできる。しかし、その永遠の望みが、実際に自分の心の中に深く入って、実際に毎日の生活の中で力となるまでに成長するには時間がかかるものである。パウロはそのような過程についてここで語っているのである。

       私たちはみな試練にぶつかる。その試練の中で、神を信じて神の命令を守ることによって、信仰はどんどん練られて高い品性が生み出される。更に強い信仰を持つには、このプロセスが更に繰り返し繰り返し与えられて、もっと大変な試練が与えられて行かなければならない。その中で、神に信頼するクリスチャンの希望は強められていくのである。それによって、その人は、人間として非常に強い人間に成長していき、ますます神に近づくことのできる人間となる。

       はっきりしたビジョンを持ち、ビジョンが神の御力によって達成されるという神にある希望を持つ民は、未来を構築する人々である。彼らはエドワード・C・バンフィールド(Edward C. Banfield)が「上流階級」として見做した種類の人々である。アメリカの経済学者バンフィールドは、上流階級と下層階級について経済学の観点から説明しているが、「経済的に豊かであるか豊かでないかは判断基準とはならない」と彼は言う。お金の有無は全く関係ないのだと言う。最終的には、お金があるか否かではなく、その人間が未来についてどう考えているのかがその人の階級を決めるのだと言っている。これは、クリスチャンではない経済学者の研究の結論なのだ。そして、他の経済学者たちもこの提議について語り合ったときに、「まさに、そのとおりだ」という結論に至ったのである。

       未来に対して希望を持ち、しっかりしたビジョンを持って働く者は、実を結ぶようになる。未来に対して希望もなく、ビジョンもない者は実を結ばない。今お金があるとしても、未来に対する希望とビジョンがなく、楽しみのために生きる現在志向型(刹那主義)の人間は、すべてを食い尽くしていって駄目になっていくほかはない。そのような人間は、心において最低の階級だと言うのである。反対に、どんなにお金がないとしても、教育もないとしても、いわゆる上流階級の装飾を何一つ持っていなくても、未来に対して確固とした希望があり、ビジョンがあり、勤勉に働いて求めていく者は必ず実を結ぶようになる。その者は、10年後には今よりも高いレベルに立つようになる。更に10年後はもっと高くなる、とバンフィールドは説明している。

       希望を持つ人々、未来のビジョンを持つ人々は、未来を創る人々なのである。しかし、希望であればどんな希望であってもそのように作用するというわけではない。神の御国が私たちの未来の大いなるビジョンである。私たちが神の御国のために行なうようにと召されている働きがそのビジョンを具体化するのである。神は私たちを試し、私たちの信仰を練られる。神は、私たちのなすべき働きについて、まず私たちの考え方を改めさせ、御国のビジョンを達成できるようにしてくださるのである。

       そういう意味で、神は私たちをクリスチャンとして試して成長させていくときに、実を結ぶ人間として成長させてくださるのである。アダムとエバを創造したときに、そのようなものとして神はアダムとエバを創造されたのである。その希望をもって実を結ぶものとして、神はアダムとエバを創造された。しかし、罪を犯したことによって堕落してしまい、実を結ばなくなってしまった。しかし、神はキリストにあって罪の贖いを成してくださった。それは、再び私たちを実を結ぶ者となるように回復してくださるためであった。それ故、贖われた私たちは、実を結ぶことができる者となった。クリスチャンは未来に対して確かな希望をもって生きることができる。神の命令を守って日々の生活を正しく送るならば祝福されていくということを確信できるのである。

       確かに神の導き方はあまりに奇しくて、私たちには理解できないところがある。ヨセフが正しく行なった結果として監獄に投げ込まれるというようなことが実際に起こるわけである。「10年後には良くなると牧師に言われたけど、いっこうに良くならないではないか」ということもあるだろう。そのような時、私たちは神に信頼して更に10年でも20年でも待てばよい。それが「堅忍」の信仰である。どんな状態に置かれても、その状態がどれほど長く続こうとも、希望を持って正しく行なって「堅忍」し、頑張って神の御心が行われることを求める者は必ず祝福される。それがパウロの言わんとすることなのだ。

       私たちは、本当に神と親しい交わりを持つことができる成長したクリスチャンに成らなければならない。そう成って行くように神が導いてくださるのだ。試練を通して。これは個人一人ひとりにおいてもそうであるし、家庭としてもそうであるし、地域教会としても同じことである。地域教会として私たちは10年前よりもずっとビジョンがはっきりしてきたと思う。そして、これからどのように実を結びたいのかも、もっと明らかになってきている。今まで祝福されてきたことは明らかである。私たちには神の豊かな御恵みが与えられていることを皆で経験している。地域教会としての品性において、もっと練られて成長したと言ってよいと思う。そのようにして、もっと深く希望をもって熱心に御国のために働く者となるのである。私たちは繰り返し試練にあったり、繰り返し多くの問題に直面したりするけれども、その度に神に従って行ない、神の命令から決して離れはしない。神の約束の御言葉に留まって望みを持ち、神がどのように導いてくださるかを待つ信仰が私たちには必要である。

       個人としても、家庭としても、地域教会としても、それは同じである。そのように成長していけばいくほど、私たちはもっと実を結ぶことができるようになる。そういう意味で、神が私たちを成長させてくださるのだということを忘れてはならない。人間として成長するためには、テスト、プロジェクト、そして試練が必要である。私たちの罪を洗いきよめるためにもそれは必要である。そして、私たちは、未来において約束されている神の御国のために実を結ぶ働きができるようにと、神は今日も試練を与えてくださる。試練を通して導いてくださるのである。

       そのことを覚えるとき、この箇所でパウロが話している神の導き方の素晴らしさと不思議をもっと深く感じることができるのではないかと思う。私たちを愛してくださる父なる神が、私たちを主イエス・キリストに似た者となるように働いてくださり、導いておられるのだ。だから、「練られた品性」という言い方は「試された信仰」という意味であるが、実はその「練られた品性」と関係のある言葉が聖餐式においても使われていることを見落としてはならない。それは、「自分を吟味する」という言葉である(コリント人への第一の手紙11章28節)。動詞と名詞の違いだけであるが、「自分を吟味する」というのは「自分を試す」という意味である。

       神の御前で、自分の信仰、自分の歩み、自分の行ない、自分の思いなどをよく吟味するのである。それは、自分の足りなさや弱さを自分で捨てる機会が与えられているようなものである。試練が来るまでゴミを捨てないで取って置く必要はない。今、この場で、ゴミを捨てて自分の心をきよめて、神の御前で神に従う心を新たにするのである。罪の悔い改めを実際に行なうという意味でこれは非常に大切なことなのだ。聖餐式を正しく受けなければ、罪を捨てて本当の意味で悔い改めないで聖餐式を受けるのであれば、神は必ず私たちを取り扱うであろう。聖餐式はそういう意味では実に恐ろしいものだということを、毎週コリント人への第一の手紙11章の箇所を読むときに感じるはずだと思う。

       同時に、聖餐式のときは、苦しみが中心なのではない。信仰が試されることが中心ではない。そのことよりもむしろ「練られた品性」が生み出す「希望」を深く味わうことができる場所だということを覚えなければならない。聖餐式のときに私たちは自分の罪を悔い改めて自分を吟味するところは確かにある。しかし、それは一番大切なことではない。それを強調するのは、それを軽く考えないためである。それを軽く考えるなら、それは大変なことになる。しかし、それを第一にしてしまうと、聖餐式の意味を変えてしまうことになる。

       神は私たちを御自分の家に招いてくださり、私たちに食事を与えてくださる。考えてみていただきたい。あなたが誰かを招いて、一生懸命食事を作ってもてなすときに、その人が「私は汚れています。こんなものを受けるのにふさわしくない」と言って泣き崩れていたのでは、一緒にいる皆が食欲を失ってしまうであろう。神は、この聖餐式において、私たちの人生で最も素晴らしくて祝福となる食事を与えてくださるのだ。長老たちは神を代表して私たちのところに主イエス・キリストの御からだを表わすパンを持って来る。しかし神御自身が私たちに主イエス・キリストを与えてくださるのである。

       そのパンを取って食べるとき、私たちは神から主イエス・キリストを受けるのである。聖餐式はそのような食事である。葡萄酒を飲むとき、神は主イエス・キリストが私たちの為に流してくださった血を私たちに与えてくださる。それを私たちは喜んで受けるのである。主イエス・キリストの十字架の愛を覚えるときに、私たちは希望に満ち、励まされ、強められて、感謝にあふれて今週も試練にぶつかっていける確信を持つことができるのである。聖餐式は「希望」を持つものであり、神の契約の祝福に対して確信を持つものである。その希望と確信を持って聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年9月26日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章3a節

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