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    ローマ人への手紙6章15〜16節


    6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

    6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

    2000.02.13. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    恵みの下

    6章15〜16節

       今日から、6章15節からの箇所に進みたい。15節でパウロは次のように質問している。

    それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。

       このように質問してから、15節の終りから23節でこの質問に対して答えている。ある意味で、この質問は6章1節と同じような質問であると言える。6章1節でパウロは「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」と質問している。「罪の中にとどまるべき」と「罪を犯そう」とは基本的に同じことである。6章1節は、5章の最後にある「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」という話の続きになっている。「それなら、もっと罪を犯そうではないか」というような考え方を取り扱っているわけである。

       その考えに対する答えが6章1〜14節で与えられている。14節では結論として、「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」とパウロは教えている。「ならば、そのことが罪を犯す口実になるとでも言うのか」と、更に問いかけているのである。罪人はみな罪を犯すための口実を見つけようとするものである。ここではその口実が神学的なものになっている。つまり、「罪を犯せば恵みがもっと現わされるなら、罪を犯してもいいのではないか」という口実に対してパウロは答えているのである。「罪を犯しても大丈夫だ。私は、律法の下ではなくて、恵みの下にあるのだから...」という考えに対してパウロは激しく拒絶して「絶対にそんなことはない」と答えている。

       1節で問われていることも、15節で問われていることも、どちらも同じ問題なのだ。両方とも、罪人が自分の罪を軽く見ようとして自分の罪のための口実を求めているのがポイントである。ここでは、神の御言葉の教えを曲げて自分の罪を覆い隠そうとする考えを取り扱っている。「恵みの下にあるのだから、そんなに罪を深刻に考えなくてもいい。ちょっとぐらい罪を犯しても大丈夫だよ」という考えは、自分の罪の口実として神の御恵みを悪用するものである。「罪を犯せば、恵みがもっと豊かに現わされるのだから、罪を犯そう」というのも同様、神の御恵みを悪用して自分の罪を弁護するようなものである。

       この二つの質問の要点はとても似ているけれども、その視点が微妙に異なっている。15節の「律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう」という考え方は、6章1節の考え方よりもずっと一般的に見られる考え方だと私は思う。最初の1節の問いは徹底的な無律法主義に関するものであり、二番目の15節の問いは、恵みにつけこんで罪を軽く考えるというキリスト者の暗黙の無律法主義に関わるものだ。この二つのケースは、パウロが同じことを繰り返し述べたものと考える注解者がいるほどよく似ている。だが、パウロはただ同じことを繰り返しているわけではない。

       二つのよく似た問いをパウロが扱う理由は、私たちの傾向が自分の罪について言い訳をし、罪を軽く片づけてしまうところにある。自分の罪について、エバや神御自身までも責めたアダムのように、私たちも自己の責任から逃れる道を探すものなのである。私個人の経験としては、1節のように「罪を犯せば犯すほど、神の恵みはもっと豊かに現わされるだろう。だから罪を犯してもいい」と、クリスチャンでない人や間違って考えるクリスチャンから直接言われたことはない。しかし、6章15節のような考え方はよく耳にしている。私の場合、そのように私に言う人々の言い方はパウロのとは少々違っている。

       ローマン・カトリックの信者と話すときに、彼らのほとんどがこの問題に触れてくる。「恵みのみによって救われる」と言うなら、そして「キリストを信じたその信仰のみによって救いを得た」と言うなら、恵みによって救われたという確信のゆえに、「どんな罪を犯してもよい」ということになってしまうではないか、と彼らは言う。「だから、そのような“恵みの教え”はだめだ」と言う。実際に私はよくローマン・カトリックの人からそのように言われたことがある。だから、「恵みによる救いを信じるならば、生活なんかどうでもよいという結論になるではないか」という考え方は決して珍しいものではなく、広く存在する考えなのだ。

       そして、彼らは、「律法を行なわなければ救いは与えられないと教えなければ、人間は決して正しい生活をしようとはしない。だから、律法を行なうように教えなければだめなのだ」と主張する。その考え方はローマン・カトリックにおいて珍しいものではない。そして、そのような考え方は、聖化論と義認をまぜこぜにしてしまっているのである。クリスチャンが成長することと、神の法廷で義と認められることとを、一緒くたにしてしまっている。それはローマン・カトリックの神学における大きな問題の一つである。「義と認められるために、私は成長しなければならない」というふうに聖化論と義認をまぜこぜにしている。実際にその人たちは、「そのように教えなければ、誰もクリスチャンとしての成長を求めはしない」と考えている。

       無論、彼らは恵みをあからさまには否定したり不要だと主張することもない。しかし、「恵みは単なる助けであって、救いは最初から最後までただ神の価なしの賜物というわけではない」と主張するのである。「神は助けてくださるが、私たちは神と共に救いを完成させるよう働かねばならない」と考えるのである。そういうわけで、契約的な考え方がほとんどないという根本的な問題がローマン・カトリック神学の中にはあるということをここで指摘しておかなければならないだろう。そのために「クリスチャンとして成長していく」ことと「神の裁きにおいて義と認められること」の関係についてどうしても深く考えることができない、という問題が出て来てしまう。

       律法のプレッシャーがなければ誰も自主的に正しい生活をしないのだ、と考える。言い換えれば、最終的に「感謝と愛によって人々を導くことなんて有り得ない」というような神学になってしまうのである。だから、律法の下にある者は、恐ろしいから律法を行なうということになる。律法に導かれ、叱責され、脅かされ、裁かれる。それでやっと守るようになるのであって、そうでなければ守られない、という考え方なのだ。

       パウロがここで言っているのは、「律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう」ということでは絶対にないということである。それはローマン・カトリックが心配しているような「恵みがあれば、罪なんか気にしなくてもいい。もう望むままを行なうことができるのだ」というような話ではない。確かにそのような歪んだ捉え方をする人がいるのは事実である。そして、まさにパウロは、そのような人たちに対して答えているのである。事実、「恵みの下にある」と言えば、「もう私は救われて永遠のいのちを得たのだから、何をしてもいいのだ」と考えてしまう人がいるからこそ、パウロは真剣にこの問題を取り扱っているのだ。だから、「恵みなのだから、罪を犯してもいい」という考え方を絶対に持ってはならないと強調し、宣言しては説明し、宣言しては説明を繰り返しているのである。

       1〜14節と15〜23節で同じポイントが説明されている。実際に罪を軽く考えてしまうことのないように、教えているのである。確かに罪人はそのように考えてしまう傾向がある。自分の罪は軽く考えて、周りの人の罪を重く見てしまいがちなのだ。神がアダムに尋ねたとき、アダムは自分の罪はエバのせいだと言い出す。つまり、エバを作った神が悪いのだと言っているのだ。「神がエバを与えたからこの罪がある」と言っているのだ。「自分は悪くない。自分はむしろ犠牲者なのだ」というのがアダムの考えであった。それは典型的な罪人の考え方である。実は、この私も、皆さんも、自然とそのように考えてしまいやすいということを自覚しなければならない。パウロは、「恵みだから罪を犯してもいい」という考えを断固否定している。ローマン・カトリックの心配に正面から答えているのである。

       実際のところ、ローマン・カトリックの考え方は、「人が恵みの下にいれば罪を犯すだろう」と主張する者たちの見方を是認することになる。当然、カトリックが否定しようとしているのは、「恵みの下にいれば罪を犯してもよい」という結論である。しかし、問題なのは、彼らは、救いが恵みによることを否定することによって結論そのものを否定してしまうところにある。それはパウロがこの問題を取り扱う方法とは全く異なっている。パウロは、「正しい命題から誤った結論が引き出されている」と主張する。私たちは恵みのみによって救われ得ると信じているが、「恵みによる救い」とは、一部の者たちが考えるものとはかなり異なった意味を持っているのである。

       恵みは、罪を軽く考えるように私たちを導くことは絶対にない。律法もその脅威によって私たちを罪から解放することはない。律法とその威嚇にだけ直面した罪人は、反抗が深まりはしても、悔い改めに導かれるようにはならない。たとえ罪人が恐怖心から自らの外面的行為を従わせるにせよ、心の中ではその束縛に対して憤るのである。ところが、恵みは愛によって私たちを束縛する。私たちを感謝に満ち足らせ、感謝によって愛を確かなものにしてくれる。恵みの働きは時間を要するが、それは本当の心の変化をもたらすのである。

     

    律法の下

       「律法の下にある」考え方と「恵みの下にある」考え方には、二種類の違いがあるということについてもう一度説明しておきたい。既に話したように、この「律法の下にある」というのは、「モーセの律法の下にある」という話でない。これは「アダムにある」という意味である。これは5章の話の続きだということを前に説明したのを忘れないでいただきたい。モーセの律法の下にあるイスラエルの人たちは、恵みの下にあったのだ。モーセの律法を守らなければならないから重いプレッシャーに押しつぶされて苦しんでいたわけではない。

       ずっと罪の重荷を背負って苦悩の中を歩む者を描写することによって律法の下にある人をバニヤンは「天路歴程」の中で描いているけれども、モーセの律法の下にあって主イエス・キリストを信じる人たち、即ちダビデ、モーセ、ヨシュア、ダニエルのような人たちは決してそのような者ではなかったのだ。彼らは律法の重荷に押しつぶされて苦しんではいなかった。そういう意味で、モーセやダビデも恵みの下にあったのだ。聖書全体が、これらの人々が信仰の偉大な先達であって裁かれたり失われたりはしないということを証言している。彼らは律法の下にあったのではない。律法の下にあったのはアダムである。エデンの園から追放されて、裁かれて、神の裁きと呪いの下に置かれた。アダムは、自分が犯した罪が重荷となっていた。

       創世記を注意深く読めばわかることだが、アダムも、裁かれた後で神から衣が与えられ、そしてエバに名前を付けたとき、彼は神の恵みを信じていた。だから、アダムのことを考えるとき、アダム自身がどうのこうのの話をするわけではない。「代表制度」においてアダムを考えなければならないのである。人類の代表者アダムが罪を犯し、その罪のゆえに神に裁かれ、エデンの園から追放され、裁きの下に置かれた。即ち、「律法の下に置かれた」のである。それが客観的な契約の代表者の状態なのだ。それがアダムである。アダム自身、そしてエバ自身が、後に悔い改めて救われたのかどうかとは別の話なのである。

       ローマ人への手紙にあるアダムの話は、代表者としての話なのだ。契約の代表として罪を犯して、律法の下にある者となり、裁きの下に置かれたのである。「モーセの律法の下にある」ということは「恵みの下にある子ども」ということである。子どもの時には、何時に寝るか、何時に起きるか、何時に何を食べるか、スケジュールやテレビ番組の選択などはみな親が決めて、それに従わせられるものである。それが子どもの状態である。モーセの律法は、子どもの状態のために与えられている。表面的に見れば子どもの状態とは「律法の下にある」ようなものである。

       モーセの時代、どんな服を着るかなどは神に命じられたとおりにしなければならなかった。混紡の衣を着てはならなかったし、色や材料やデザインも細かく定められていた。子どもだからである。子どもは、「エビを食べてはだめ。刺し身を食べてはだめ」と親に言われればその通りにする。「大人になるまで、それを食べてはならない」と言われればそうするのだ。「異邦人を表わすような動物を食べてはならない」というような定めには、「あなたはまだ世界をリードするほどには成長していない。まだ子どもである」という意味がある。「大人になったら全部食べてもよい」ということなのである。

       使徒行伝10章でペテロは、幻の中で、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や這う物や空の鳥を見たときに、「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。それは、「異邦人にバプテスマを授けてもよいのか。異邦人が教会に入ってもいいのかどうか」について話しているときのことであった。「あらゆる四つ足の動物や這う物」とは異邦人のことである。「それを食べなさい」というのは、異邦人を食べなさいという意味である。つまり、「異邦人を教会に入れて、異邦人と一緒になってもよい」という意味なのである。教会は異邦人もユダヤ人も一緒になって神に仕える所である。つまり、キリストの教会は、全世界を治めるものだという意味につながっている。

       しかし、神の御国がまだ未熟で赤ちゃんである時期には、異邦人を表わす食べ物を食べてはならないと命じられていた。教会が大人になったとき、その異邦人を表わす豚や鳥でも何でも食べてもよいと言われているのである。それこそヘビでもあらゆる四つ足の動物でも食べてよいと言われたのである。それらを食べてもよいということは、教会は異邦人を受け入れて治めることを表わしている。それゆえ、「モーセの律法の下にある」というのは子どもの状態なので、表面的には律法の下にある状態に似ている。ガラテヤ人への手紙3章21〜25節でも説明しているとおりである。子どもの時には奴隷と同じように、命令されて動く。しかし、大人になったらそうではないとパウロは教えている。

       モーセの律法は神の民がまだ子どもであったときの「養育係」であったとパウロは説明している。大人になればモーセの律法の養育係の下にはいない。ところが、「律法の下にある」という言い方を考えるとき、その二つの異なる意味をごちゃまぜにして考えてしまう危険性がある。「律法の下にある」というのは、律法の裁きの下にあるということであり、「キリストにはなく、アダムにある」という意味なのである。その状態は、モーセの律法の下にある未熟な子どもの状態とは全く違うものである。表面的には、命じられたらその通りしなければならないという点では似ている。しかし、「裁きの下にある」というのは、律法が要求し、その要求に完全に応えられなければ「裁き」しかなく、「罪のゆえに死に定められている」ということなのだ。それが「律法の下にある」状態なのである。

       「恵みの下にある」は「モーセの律法の下にある」と同じ意味であって、モーセの律法の教えの大半は恵みの教えであることを忘れてはならない。「罪を犯した者は、このようにいけにえをささげなさい」というような命令はまったく恵みの教えなのだ。ささげ物をささげることによって罪が赦される。そのいけにえ制度は、神が御自分の民に恵みを与えるためのものであった。年に三度エルサレムに集まって祝うのも、神の恵みを祝うものであった。安息日を守るのも、神の恵みを覚えることがその中心であった。だから、モーセの律法の中で「恵み」は非常に強調されている。決して「モーセの律法にある」=「律法の下にある」ではないのだ。恵みの下にある者は、守られている子どもの状態なのである。

       私たちは恵みの下にある。律法の下にあるのではない。救いをもたらす神の御恵みが私たちを律法の裁きから自由にしたのである。しかし、それは何も命令がないということではない。後でパウロは、「恵みの下にあるということは義の奴隷になることだ」と説明している。だから、何も命令がないのではない。また、この世で生きている間、私たちの中には子どものための教えの一面がまだ残っていると言えなくもない。つまり、聖書の中に罪を取り扱う教えがたくさんあるということは、私たちがまだクリスチャンとして成熟していないことを表わしていると言えよう。天国では、「兄弟があなたに罪を犯したなら、このようにその罪を取り扱いなさい」という教えはない。天国に行ったときは、兄弟は互いに罪を犯す関係にはないので、その未熟な子どものための教えはもはや必要なくなるのである。

       日曜日の礼拝の中心は何かというと、それは聖餐式である。その聖餐式は、罪を悔い改めてキリストの十字架の贖いの恵みを覚えて、自分の罪の心を捨てて神の御国のために生きる心を新たにするものである。天国ではその必要はないのだ。その心からもう離れることはないからである。御国では罪がないので、罪を悔い改める必要もない。そのことについて黙示録では「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と記されている(21章4節)。涙を流すのは、特に罪の悔い改めを示唆していると思うが、御国では、もう涙を流すことはない。

       もちろん、罪以外にも世にあっては様々な苦しみはある。そのすべての涙はすっかりぬぐい取られて、もう涙を流すことはない。そういう意味で、クリスチャンとなった今でも私たちはまだまだ未熟な状態にあるのは事実であり、日曜日に集まって礼拝することについても、聖餐式についても、正しい「形」を教えられなければだめなのである。表面的な“形”がなければ、未熟な私たちはすぐにだめになってしまう。それでも、昔のイスラエルと比べれば私たちはずっと大人になっている。しかし、天国に行った状態と比べるならば、私たちはまだまだ未熟な子どもなのだ。

       天国に行ったときには、私たちの心も身体も完全に罪から解放され、律法は私たちの心の中に完全に刻まれ、私たちの欲するところはまったく神の御心と合致するものとなる。今はまだそこまで成長してはいないので、御国のための働きを一生懸命していても、ちょっとずれたり、戦いがあったりする。そういうわけで、私たちは「律法の下にある」ことと「恵みの下にある」こととの違いを十分に理解してから先に進まなければならない。

       「恵みの下にある」とはどういうことかというと、「神が私たちに賜物として永遠のいのちを与えてくだり、キリストを信じるだけで私たちは救われた」ということなのである。救いは最初から最後まで完全に一方的な恵みのみによるのである。私たちは、救われるために特別に何か行ないをしたわけではない。実に、神が一方的に私たちを愛し、私たちを求め、私たちが信仰を持つように働いて導いてくださって、救いを与えてくださったのだ。クリスチャンではない人に福音を伝えるとき、特に感じることは、「神の働きがなければこの人は救われない」ということである。私たちはそのことを深く感じさせられる。大人になって救われた人の多くはそのような者であったと思う。

       何度も話したことだが、私の妹の夫ボブ・ホフが私の妹に福音を伝えたとき、私は「あの妹が救われるはずはない」と本当に思ったものである。妹は非常に強い性格の人で、心も頑なであった。彼女が救われるなんてとても考えられないことであった。しかし、その彼女が福音を信じて救われた。彼女が救われたと聞かされた時、私はボブに「もしかしたら、信じてないかもしれないから、まだ喜ぶのは早いよ」と言ったのを覚えている。私は、「気を付けてよく見てください。本物かどうか、時間かけてよく見なければいけない」みたいなことを彼に話した。あの妹が救われるとは、あまりにも信じがたいことであった。

       しかし、罪人は皆同じなのだ。罪人がキリストを自分の救い主として信じるのは、実に神の働きによるのであって、決してその人の自力や人間の行為によるものではない。「あの人なら話せばきっと信じるだろう」とか「あの人はちょっと難しいよ」というようなものではない。神の特別な働きがなければ誰も救われることはない。これは恵みの救いなのである。一方的に神の方から私たちを求めて、一方的に神が私たちに救いを与えてくださったのだ。それ故、救われた者は「恵みの下にある」のである。そして、ローマ人への手紙の7章、8章、9章で、パウロは更に深く「恵みの下にある」ことの意味を説明している。

     

    二つの道

       「それでは罪を犯そう」ということになるのか。絶対にそんなことはない。そう言ってから、パウロは引き続きもう一つの質問を投げ掛けている。

    あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

       この一つの文章の中でパウロは非常に大切な二つの事柄について話している。第一に、「私たちが到達する最終地点は私たちの全生涯の歩みと結びついている」ということである。即ち、誰でも自分の毎日の生活に対する当然で最終的な結論があるということだ。罪の奴隷として生きるなら死ぬのである。その道は最終的に「死」と「神の裁き」しかない。「私は神の恵みの下にあるのだから、罪を犯しても大丈夫だ」と言って“罪の奴隷”として生きるなら、それはとんでもないことである。自分を罪にささげて罪の奴隷として生きるなら、その行き着くところは死でしかない。日々の生活を罪にささげているのに、最後にいのちに至ることなど、どうして有り得ようか。全生涯が下り坂を突っ走っていたのに最後にどういうわけか山頂に達するようなことが、どうして有り得ようか。絶対にそんなことはない。それが第一のポイントである。毎日の生活と最終的な結論はつながっているものなのだということを忘れてはならない。

       第二のポイントは、「二つの生き方しかない」ということである。人生には二つの道しかない。罪の奴隷として生きるのか、従順の奴隷として生きるのか。罪に仕えるのか、神に仕えるのか。他の選択肢はないのである。中立の道はない。そういう意味で、奴隷として生きる以外に人間にとって生きる道はないと言ってよい。パウロは19節で、「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」と言っているが、この「人間的な言い方」と言っているのは恐らく比喩としての奴隷を示唆しているのではないかと思う。

       つまり、ローマ帝国の中には現実として奴隷制度があったので、「義の奴隷」とか「罪の奴隷」と言えば非常にわかりやすいのである。これはポイントとしては具体的でわかりやすいが、比喩としては当然物足りない面がある。奴隷は、従いたくなくても言われたとおりにするし、逃げようとすれば殺されるかもしれない。主人と奴隷の関係は通常あまり美しい関係ではない。「私は奴隷になりたい。奴隷になれたら嬉しいのに」というようなものではない。だからパウロは、奴隷と主人の比喩について話すとき、「足りない面もあるかもしれないが...」と言っているわけである。

       いずれにしても私たちは、罪の奴隷なのか、従順の奴隷なのか、そのどちらかなのだ。それが二つ目のポイントであるが、二つのポイントが並行していないという点にも注目すべきである。「罪の奴隷となって死に至る」の反対は「従順の奴隷となっていのちに至る」と言えば並行文になるが、パウロはそういう書き方をしていない。この、非並行文であるというポイントも実はとても大切なものであって見落としてはいけないものである。

       6章を読み続けていけば、後のところで「いのち」の話は何度も出てくるが、ここではそうは言わない。もしパウロが、「自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷となる。あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは義の奴隷となっていのちに至る」と言うならば、それは「その服従によっていのちを得るか、あるいは不服従によって死に至るか」ということになる。それだから、パウロは並行した書き方をしないのである。「従順の奴隷となって義に至る」とパウロは言う。従うことによって「いのち」を得るのではなく、従うことによって「義しい者」となるのである。しかし、罪の奴隷となって生活すれば「」に至る。この二つのことは、「律法の下にある」状態と「恵みの下にある」状態が本質的に並行していないことを説明するものである。

       「本質的に並行していない」とはどういうことかというと、例えば6章23節を見ていただきたい。「罪から来る報酬は死です。しかし、私たちの従順から来る報酬はいのちです」とは書いていない。これは単純に「罪の報酬」と「従順の報酬」というような並行した話ではないからである。罪を犯す者にはそれに相応しい正当な報酬が与えられる。しかし、恵みの場合はそうではない。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と書いてあるのだ。これは「賜物」と「報酬」の比較なのだ。だから6章16節では、「罪の奴隷の報酬は死であり、従順の奴隷に与えられる祝福はいのちです」という対比をしているのである。

       「従順」と「いのち」を簡単につなげてしまえば、「行ないによっていのちを得る」ようなことになるので、パウロはここでわざわざ非並行の書き方をしているのである。このことは6章においても他の箇所においてもずっと一貫した書き方となっている。これは予定論においても同じである。9章で予定論に入るが、地獄に行くように定められた人には自分の自由意志による選択が与えられている。「その人が自ら選んだ結果が与えられる」という言い方をしてもよいと思う。自由な選択が与えられている。地獄に行きたくないのに、神が無理矢理に地獄に行かせるから、どうしても行かなければいけないということではない。ならば、どうして永遠の地獄に行くのかというと、その人は、自由に選択し、神はその人が選ぶ道を許すという定めになっているということになる。

       反対に、救われるように定められた人間の場合には、自分の自由の選択によって祝福が与えられたという話ではないのである。むしろ、自分が求めもしなかったものが与えられたのである。自分は選ばなかったのに、祝福の賜物として一方的に与えられたのだ。だから「恵みの下にある状態」と「律法の下にある状態」は、全く非対称的な関係にある。“非対称的”もしくは“不均整”は科学用語であり、英語では"Unsymmetrical"という。その二つは並行しておらず、非対称的なものである。「恵み」は一方的に与えられ、「律法」は自ら選んだ道に至る。そのように理解するとき、この16節の書き方はかなり違うものだということに気付くと思う。

     

       「自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り...」とあるが、クリスチャンではない人は、自分が罪の奴隷だというような思いは決して持ってはいない。そんな事言われた時には「私が? 罪の奴隷だって? 何ばかなこと言ってるのか」と言って気分を損ねるに違いない。ここでの「罪の奴隷」という言い方は、実は創世記3章あるいはマタイの福音書6章24節につながるものであることを覚える必要がある。創世記3章はどういう話かというと、サタンはアダムとエバに「神に逆らうことによって、あなたは自分で善と悪を決めることができる。それであなたは自分で神になれるのだ」というようなことを言う。その「自分が神になる」ということが「罪の奴隷になる」ということなのだ。

       つまり、クリスチャンではない人たちは、各々自分勝手に善悪を決めようとする。それは自分を神とすることなのだ。そのことについては後にもっと詳しく話すつもりである。主イエス・キリストもマタイの福音書6章24節のところで、「誰も、ふたりの主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからである。富に従うか、主に従うか、どちらかにしなさい」と教えている。人は、異なる二人の主人に従うことはできないのである。そのことも創世記3章とこのローマ人への手紙の6章につながるものである。最終的に二つの生き方しかない。つまり、二人の主人しかいない。

       罪の奴隷、自分の奴隷、金銭の奴隷、この世の奴隷、サタンの奴隷とか、いろいろな言い方ができるけれども、その全部が結局のところ一つの生き方なのだ。もう一つの生き方は、義の奴隷とか神の奴隷という言い方で表わされるものである。人間にはその二つの生き方しかないのである。創世記3章もマタイの福音書6章も同じポイントを指している。罪の奴隷になるか、義の奴隷になるか、道は二つしかない。そして、「罪に仕える道」と呼ばれるわけは、キリストの外にある人間が神の御栄光のためには何一つ行なわないために、その為すこと全てにおいて罪を犯しているからである。その人は、自分を創造していのちを与えてくださった神に仕えてこのお方を喜ばせることは何一つしない。このような道は死に向かっているのである。

       「自分が神になる」のがどうして「罪の奴隷になる」と同じ意味になるのかというと、実は、異教の宗教を見ればよくわかることなのである。異教の宗教は偶像を作るものである。そして、異教の偶像や神殿や寺院などをみると、どれも人間の欲望をいろいろな意味で満足させるように作られている。戦争の神を作り、「拝めば戦争に勝てる」と言う。同じように、性欲のための神、食べ物のための神、豊作の神、大漁の神、旅の安全の神、ビジネスの成功をもたらす神、安産の神、受験合格の神などなど、列挙すればきりがない。

       それらは、人の欲望を満足させるために神々が働いてくれるというような宗教である。そのすべての中に人間の欲望という罪の話が潜んでいる。倫理は全く関係ない。厳かにそれらしきことを言うとしても、その実は倫理とは無関係なものである。異教の根本的要求は倫理的なものではないし、倫理的変革を目指してもいない。占い師の所に行って、「私が事業で成功するためにはどうしたらいいのですか」と聞いても、「自分と同じように隣人を愛し、神の命令を守りなさい」と言われることはない。「自分の手で勤勉に働いて、契約を正直に守りなさい」とは言われない。「ビジネスで成功するにはどうしたらいいんですか」と聞くと、「木曜日はだめ!」と占い師は言う。「木曜日は、この星とこの星が一緒になる日なので、その日にはビジネスのネゴシエーションをしてはいけない。金曜日の朝に会議の約束を延期しなさい」と、実際にそのように言うのである。

       何の日にネゴシエーションをするのか、どんな天気の時にそれをしなさいとか言う。場合によってもっとひどいのは「黒い服を着ていきなさい」とか「結婚の相手として、このようなヘアスタイルの人は避けなさい」とか「あなたの場合、背が170cm以上の人と結婚してはだめだ」とか、いろいろな変な事を持ち出して来るが、「正しさ=義」はまったく関係ないのである。愛や義とは一切関わりのない手段をもって力や祝福を約束するのである。「秘密の呪文を知りさえすれば、隠された宝に近づくことができる」というようなものなのだ。

       異教の宗教もそれと変わらないものである。大学受験に合格したいから、神社やお寺に祈願しに行く。お坊さんが出て来て、「一生懸命勉強しなさい。正しい生活を送りなさい。そして隣人を愛しなさい」とは言わないのだ。人々はそこに行ってお御籤を買い、おかねを出して、手を合わせて祈る。運がよければ合格するだけの話なのだ。正しさとは関係ないのである。どんな罪を犯していても気にすることはない。どんな心を持ってビジネスをやっているのかも気にはしない。それらは特別に重要ではないのだ。重要なことは、自分が欲しいものが自分の手に入ることなのだ。その為に祈り、そのためにどうしたらいいかだけを考えているのである。手に入れたいものがあれば、罪も重ねるし、祈願もする。そういう意味で、まさに罪の奴隷なのだ。

       つまり、自分が神なのだ。自分が神なので、自分の欲しいものは何としても手に入れようとする。その為になることなら何でもする。そのためなら拝みもする。それが異教の宗教の行き着くところである。「どのようにして神の御国のために実を結ぶことができるのか。どうしたら他の人の祝福となり、他の人の徳を高めることができるのか」とか「神の愛を求め、神の御心を求め、神の愛を表わし、神の御国のために永遠に残る実を結び、世にあって罪に対して勝利を得、主なるキリストを信じる信仰を人々に与えて祝福するためにはどうしたらいいのか」というような思いは異教の宗教の中にはない。本当の意味で救いをもたらす考えというものがない。このように、異教の道は、人間に自分が生きたいように生きることを許して力や自己実現を約束するけれども、最終的には死へと導くものである。

       実は、大乗仏教ができてからはそのような考えが仏教の中にも芽生えたのは事実である。しかし、大乗仏教は、キリスト教の影響が幅広くインドに入った結果として、当時の仏教徒の一部の人たちがその教えを借用し、キリスト教の教理を真似て大乗仏教が起こったのである。それで大乗仏教には「救いの福音」等に似た考えがある。しかし、元々の仏教(小乗仏教)の教えをみると、小さなグループのお坊さんたちが非常に厳しい生活を送ることによって救われ、他の人間たちは輪廻の中に生きるほかないというものである。女性のままでは救いはない。輪廻を繰り返していくなかで、女は男として生まれてきてその小さなグループに入ることができた時に、頑張って修業することによって或いは救われるかもしれない、というものである。それが元々の仏教の基本である。一般の人々は輪廻を繰り返すばかりである。

       異教の宗教はそういう意味で、すべて自分を神にし、自分が神になろうとするものである。自分が神になったなら、自分が欲することができるようになる。その言い方には色々あっても、結局そのことを求めるのである。それだけをひたすら求めて生きるのである。その意味で、確かに罪の奴隷なのである。そして、その思いや信仰が強くなると、戦争になったりして、人間の心の最も深いところにある欲望が支配的になっていくのである。だから、ローマ人への手紙1章で偶像礼拝から出てくる心について話すときに、実に大変な恐るべき話になってしまうのである。1章の終りのところでは、暴力の話、もろもろの不道徳や不品行の話が具体的に出て来る。人は偶像礼拝を行なうことによって、どんどん深く罪に墜ちていってしまうということなのである。

       そして、いわゆる“原始的な社会”ということが言われるけれども、これは決して原始的な社会なんかではない。これは実に堕落した社会なのだ。偶像礼拝の社会は、死に向かって突き進む社会であって、真の神を信じないという意味においては実に“進んでいる”社会なのだ。厳しく偶像礼拝の原則に論理的に従えば従うほど、社会は乱れ、生活はだめになっていく。その最後は実にとんでもないものとなる。自分を創造した神を神として信じないで、自分を神にし、「私は何でも自分で考えたとおりにやるのだ」というならば、とんでもない結果を招くしかない。時間が経つにつれて偽りと滅びの深みにはまっていくしかないのである。

       サルトルはこのポイントを何度も言っているが、彼は実によくこのポイントを言い表していると思う。創世記3章を考えるとき、サルトルの「出口無し」("No Exit")という劇があるが、小さな部屋に小さなグループの人間がいて、一人ひとりがみな自分を神にしようとしているという設定になっている。例えば、4人がテーブルに着いていてその中の一人が「私が神になるためには、他の三人は私の奴隷にならなければならない」と考える。しかし、四人とも自分こそ神になろうとしている。誰も絶対に譲らない。そこで競争が起こって各々自分が神になるために互いに潰しあい、他の者を殺すほかなくなる。しかし、私が神になって、他の三人が死んでしまったのでは、私の王国には誰もいないことになる。王になっても、一人では意味がない。それは意味のない王国だ。

       王になっても、家来がいないなら、自分も奴隷だということになる。むしろ多くの人たちがいて、その中で奴隷になって生きる方がずっと祝福であるはずなのだ。自分が神になるために、神になろうとする相手を全部潰さなければならない。それができたとしても、実に空しい。しかし、自分が神になれなければ、それもまた空しい。神以外の立場に立つことには耐えられないのだから、へりくだって人に仕えようとはしない。自分は相手に仕えることによってうまくいくと皆が考えればいいのだが、そうは考えたくないのである。それで、勝っても負けても空しくなるほかない。それ故、「出口無し」というわけである。

       創世記3章は、人間が自分を神にしようとする話であるが、その生き方には出口は無いのである。空しさの他に結論はない。「空の空。空の空。すべては空である」ということになるしかない。「罪の奴隷」とは、すなわち自分が神になる状態である。真の神を信じないで、自分が欲するままに生きるその生き方は、最終的に死にほかならない。そのことをパウロはここで言っている。これはクリスチャンに対して言っているわけだから、「私は自分で善と悪を決める。私は自分のやりたいようにやる」と言うなら、その考え方こそ罪にほかならないことが理解できるはずである。それがわかっているはずの相手に話しているので、敢えて「罪の奴隷」という言い方を使っているのである。それを広い意味で考えるなら、それは創世記3章のサタンの約束が現実となっているような状態なのだ。「私は神だ」というので、その道は「死」に至ることになる。

       「従順の奴隷になる」とは、クリスチャンの生き方を表わすものである。この「従順の奴隷」という言い方は、ある意味では不必要な重複である。つまり、「従順」と言えば「従う」という意味であるし、「奴隷」も「従う」という意味である。なぜ「従順の奴隷」とパウロは言うのだろうか。あたかも「奴隷の奴隷」もしくは「従順の従順」と言っているようなものである。しかし、それほどにこのポイントは強調されなければならないと考えてよいのではないかと思う。クリスチャンの生き方は「従う」ことによって表わされるものなのだ。そのことも創世記で明らかに記されている。人間に「正しい」という言葉が適用され得るには、人間が創造主なる神の命令を守り、天の父を愛し、天の父に従う以外には道はないのである。真の神の他に神はおられないからである。

       ここで「従順」という言い方をするとき、それは、天の父に目を留めて、その語られた御言葉のとおりに生きることを意味する。神が言われたとおりに生活を送るのである。それは純粋に倫理の話なのだ。神の命令の領域はある意味で非常に狭い。生活全体の領域はそれよりも広い。その命令の倫理の枠の中にあるのであれば、自由なのである。つまり、神は、朝ご飯は何を食べるべきかを私たちに教えておられない。今日どんな服を着るべきも教えていない。どこに住むかという命令も与えていない。未熟の時代である昔のイスラエルには教えたが、私たちには教えていない。イスラエルには、どこで住むか、どのように相続するか、何を食べ、何を着るかも、みな命令されていた。何族なのかもみな神によって定められていた。それらを勝手に変えることは許されなかった。それは子どもの状態である。

       私たちの場合にはそうではない。大人の状態が与えられていて、神の命令を守るなら、その枠の中であればすべては自由である。その自由は、豊かに実を結ぶことができるために豊かに与えられている。どこの国に行っても、その国では何を食べてもよい。その国の服を着てもよい。その国の人たちと一緒に生活し、自由に彼らに福音を伝えることができる。その人たちが救われるときに、何人(なにじん)なのかという問題もない。キリストにあって新しく生まれた新しい人類なのである。御国の民なのである。それだから、「従順」とはその「倫理」の話なのだ。

       ある意味で、それは「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。嘘をついてはいけない。むさぼってはならない」という非常に基本的ではっきりした命令を守ることだ、という言い方もできなくはない(申命記5章16〜21節)。神の御言葉の義しさを守るなら、その枠の中にあってはすべてが自由である。「従順」は義をもたらすものである。これこそクリスチャンが求めるべきことなのである。キリストを信じて救われるということは、罪から救われることを意味する。このことには「罪から救い出されたい」という強くて深い願いが伴う。服従のうちに留まるなら、その深い願いは聞き届けられる。私たちは従順の道を歩むことによって徐々に義において成長し、次第に罪から完全に自由にされていくのである。

       神の「義しさの教え」を守ることは、私たちにとって実に大きくて大切なことなのだ。それは私たちの神との契約の中心であるし、互いの人間関係においても中心的なところになる。それは、日曜日の礼拝の中心的なところでもある。倫理のところを礼拝から取り除いてしまえば、何も残らないことになる。義しさ、信仰、愛、そのすべてがその“中心”の中にある。「従順の奴隷になる」というなら、それは「ほんとうに私は神に従うことを何よりも求めています。毎日の生活にあって私は義しさを保つことができるように真剣に求めています」ということになる。そして、義しさの中心は、簡単に言えば「モーセの十戒」であり、もっと簡単に言えば「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し、そして、隣人を自分と同じように愛すること」である。

       そういう意味では、「従順」と言っても、子どものレベルでの話ではないのだ。「神を愛し、隣人を愛しなさい」という命令が「義しさの中心」だというのは実に美しい。聖書の教え以外のどこにもこのような義しさはない。どこにもこれほどの倫理の教えはない。異教の宗教は結局のところ自分たちの欲望を満足させるためにいろいろなものを作ったりする。しかし聖書は、真の神を神としてまず認めることを要求する。神が神であるならこれは当然の要求であるが、その要求の中で「義しさの中心は愛である」と教え、愛することを命令し、私たちがその愛の道を歩むときに本当の意味で私たちは自分になれるというものである。そして、本当の意味で満たされるのである。

       私たちが苦しくなったりするのは、神を愛し隣人を愛することが十分にできていない時である。それが私たちの状態である。「従順の奴隷」の結論は「義しさ」である。つまり、本当に義しさを得ることである。義しさを得るということは、本当の愛を得ることであり、本当の自由を得ることである。義しく生きるなら、神に創造された者としての目的が満たされる。本当の人間らしい姿にあって生きることになる。

       「義に至る」ということは、そういう意味で「救いに至る」ことにほかならない。救いの目的は、私たちが主イエス・キリストに似た者となることである(ヨハネの第一の手紙3章2節)。救いの目的は、罪人であった者が義なる者とされることである。「従順の奴隷」の結論は「義しさ」である。本当に「恵みの下にある」者として、神の恵みによって義しい者となったのである。神を畏れる者は義しくなることができる。すなわち、素晴らしい目標を目の前に置いて、それを求めるように私たちは励まされるのである。「恵みの下にある者」には「義しくなりたい」という心があるはずである。それ故、神の命令を素直に聞き入れて、その命令を守り行なうのである。何よりもそれを求めるはずである。それこそ「恵みの下にある者」の当然な生き方なのだ。

       そして、旧約聖書の中の哲学的な書物といえば、箴言もそうだが、なんといっても伝道者の書であろう。その伝道者の書の結論が何なのかというと、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と、最後のところで言っている。これがすべての知恵の結論である。確かに世の中で私たちにわからないことはいくらでもある。自分に関しても、わからないところが沢山ある。世の中の事もわからない事は多い。科学の事についてもわからない事が多いことを認めなくてはならない。どうしたらよいのかわからなくなることもあるだろう。しかし、心から神を愛し、それゆえに神の命令を喜び、神を畏れることが知恵なのだ。それはすべての事に係わる知恵なのだ。

       「畏れる」とは、恐怖を抱くことではなく、むしろ尊敬して愛することである。「天の父がこのように命令してくださったので、私は天の父に信頼して、天の父を愛し、天の父が言われたようにしよう」と思うはずである。それが「従順の奴隷」の心なのだ。そして、「従順の奴隷」の心は、神を畏れて神の命令を守る心であるが、換言すればそれは感謝の心をもって生きることである。なぜ従順なのか。「恵みの下にある」からである。恵みの下にある者は、自分を神にしてやりたい放題をやるという原則ではなく、従順の原則によって生きる者である。

       それでは、従順の原則は何かというと、それは感謝の原則なのだ。神がこれほどまでに私を愛して、私に救いを与えてくださった。感謝せずにはおれない。その神を愛し、敬い、その命令に信頼して歩むのである。大いなる恵みが与えられたことを深く覚えるので、心は感謝が溢れている。それが本当の意味での「従順の心」なのだ。この従順の心は、ローマ人への手紙の中でいろいろなかたちで出て来ている。1章には、「神を神として礼拝せず、感謝もせず」という言い方があったのを思い出してほしい。感謝のない心が偶像礼拝の出発点なのだ。感謝のある心は、正しく神を礼拝する心となる。感謝によってのみ、私たちは義しい生活を送ることができるからである。

       その感謝の心が、どうして罪人の私たちの中にあり得るのかというと、神の恵みが一方的に私たちに与えられているからである。一方的な恵みを与えられた者として、心は神に対して感謝に溢れて応答するのである。義しい生活の本質とは、すべての御恵みを与えたもう神に対する愛なのである。それ故、恵みの下にある者は、従順の奴隷になり、その向かうところは「義しさ」である。私たちは、最終的に完全に正しい者となることが約束されているが、今はまだ完全ではない。完全ではないけれども、従順の奴隷は今の段階で義しさを求めて生きている。目標に向かって一心に走っているのである。まだ完全ではない。だから「従順の奴隷となって義に至る」とパウロは言っているのだ。「至るのです」という言い方は、向かっているということであり、必ずそこに到達するという意味である。その言い方は、今恵みによって従順の奴隷となった私たちは、まだ罪人なのだということを言っているのだ。

       神は、「恵みの下にある」という意味を更に深く私たちに教えるために、礼拝の中心として聖餐式を与えてくださった。私たちは神に招かれてここに集まっている。教会に来るのは、自分が行きたいとか行きたくないとかの話ではない。面白いとか面白くないとかの話でもない。ここに神の招きがある。招かれて、その応答としてここに来ているのである。どうして招かれたのかというと、私たちに恵みを与えてくださるためである。私たちが感謝と愛とによって神に結びつけられるためには、神の御恵みを常に思い起こさせられ、繰り返し契約が更新されることが必要なのである。神は、私たちに恵みを与え、更なる祝福を与えようとしておられる。

       先週の一週間の生活を振り返ってみて、神の招きに相応しくないと感じる人もいるであろう。それでも、招きは与えられた。私たちは、道端のあちこちにいたのに、婚礼の祝宴に招かれたのである。その婚礼の場に着いてから衣が与えられた。神に招かれた私たちに、神御自身が聖餐式を与えてくださるのだ。即ち、主イエス・キリスト御自身を私たちに与えてくださるのである。聖餐のパンと葡萄酒はキリストの血と御身体を表わしている。神は私たちに主イエス・キリストを与えてくださる。これ以上の祝福はない。これ以上素晴らしい賜物はない。これ以上の愛はない。

       もし、「今日、この場所に行けば、一億円もらえます」という約束を、最も信頼できる力ある人から受けたとしたら、あなたはそこに行くだろうか。もちろん行くであろう。何が何でも行くに違いない。しかし、それ以上の祝福を私たちはこの聖餐式においていただくのである。一億円を無限に越える祝福を私たちは毎週の日曜日に受けている。「へえ。教会とはそういう所なのか」と驚いてはならない。実際に私たちはその祝福を受けているのである。クリスチャンではない人にはそれがわからないので、そう話しても理解はしないかもしれないが、皆さんはそうではない。皆さんはその理解を絶対に持っているはずである。そして、持つべきである。

       主イエス・キリスト御自身が毎週の聖餐式において私たちに与えられており、神の無限の愛がそのように与えられている。その事を知っているなら、本当に心から喜びに溢れて聖餐式に集まるだろう。確かに、それほどの恵みと祝福を受けるのに自分は相応しくないのも事実である。自分は足りない者であり、罪人に過ぎず、愚かで鈍いものだというのもすべて事実であるけれども、罪人の私たちは天の父の愛を受けるためにここに来るのである。天の父は私たちがどんな者なのかを十分に知っておられて私たちを招いてくださったのだ。「恵みの下にある者」として招かれ、「恵みの下にある者」として聖餐式にあずかるのである。繰り返し繰り返しそれが与えられるので、私たちは神の愛と御恵みを深く覚えるようになり、感謝と喜びの心が次第に深められていく。

       永遠、絶対、不変の神が、私を愛してくださる。神は、私を罪と死から救うために、キリストをこの世に遣わしてくださった。私を罪から贖うために、キリストは私の身代わりとなって十字架にまでかかってくださった。それほどに私を愛してくださったのである。それゆえ、私は喜んで神の命令に聞き従うことをこの時に新たに誓うのである。そして、神を喜ぶ私たちは、だんだんと義しい者に変えられていくのである。恵みが繰り返し繰り返し与えられ、その恵みを深くそして具体的に教えられなければ、私たちの感謝の心は育ちはしないのだ。それだから、聖餐式は毎週の礼拝の中心として与えられたのである。その神の御恵みを覚えて、聖餐式を受けたい。

     

    ――2000年2月13日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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    ローマ人への手紙6章15〜23節

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