HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙6章15〜23節


    6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

    6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

    6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、

    6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

    6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

    6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

    6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

    6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

    6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

    2000.02.20. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    自分を主にささげよ

    6章15〜23節

       パウロは、全てのキリスト者の心に潜む無律法主義に反対する。これは理論上の無律法主義ではなく、言い訳の無律法主義、つまり現実からの逃避、特に悔い改めから逃れるという無律法主義である。結局、罪人には二つの選択肢しかない。罪を認めて悔い改めるか、或いは園の木々の間で神から身を隠すか、である。後者はつまり、他者や環境のせいにして自分の行なった悪のひどさをやわらげ、様々なかたちで自分を騙してそれを否定したり、他にも自分の疲れた両肩から罪悪感の重荷を取り去るために、実に多くの心理学的手段を用いたりするのである。

       罪の告白と悔い改めは実際に罪の苦悩からの解放をもたらすけれども、それは罪人の欲している解放ではない。悔い改めた罪人に向かってイエスが仰せられたのは、「わたしもあなたを罪に定めない」だけでなく、「今からは決して罪を犯してはなりません」でもあったからである (ヨハネの福音書8章11節)。真の悔い改めかどうかを試すための問いがある。自分が解放されたいのは、単に自分の罪の重荷からだけなのか、それとも罪そのものからなのか。

     

    道とその行き着くところ

       6章15節からのところで、パウロは「恵みの下にあるのだから罪を犯そう、と言えるだろうか」と質問してから「絶対にそんなことはない」と答えている。「恵みの下にあるので、私たちはむしろ義しい生活をしなければならない」ということを15〜23節で説明している。先週この箇所を学び始めたが、ここには基本的に三つの大切なポイントがあるということを再度覚えていただきたい。

       第一に、人生には二つの道しかない。罪の奴隷の道と義の奴隷の道、この二つしかない。「三つ目」とか「中間」とかいうような道はない。そして、「道」と言うとき、これは毎日の生活の話なのである。勿論、キリストを信じて義と認められたところから始まるわけだが、ここでパウロが言おうとしているのは生き方のことである。罪の道、即ち罪の奴隷として人生を送るのか、あるいは義の道、即ち義しさの奴隷として自分の人生を送るのか。道はその二つしかない。

       第二は、結論と道はつながっているということである。それぞれの道は、その定められた終着点へと導く。つまり、罪の奴隷として生きているのに、義しさという結論に至るということは有り得ないのである。その二つの道はまったく違う方向、違う場所に行こうとしている。人生の最終的な結論はその歩む道につながっているのだ。罪の道を歩めば死に至る。義しさの道を歩めば永遠のいのちに至る。だから、最終的な結論というか到達点は、その歩む道といっしょになっているという点をしっかりと覚えていただきたい。

       このことは誰にも明白なはずだが、実際の認識はそうでもない。罪人は、車を運転して南に向かいながら、何とかして北に到達できる、神から逃れ、しかもその御臨在にたどり着くことができる、一生涯神を憎み (無論、意識的に憎悪感情を持っているわけではないが、神とその真理とを無視し、それを避けるという憎しみ)、いのちが尽きるとき、なお自分は天国を味わい楽しむことができる、と考えたりする。しかしながら、この点において少なくとも霊的な物理法則はこの世の物理法則と一致しているのである。つまり、道とその終着点とはつながっているのだ。罪の道を歩めば地獄の門にたどり着き、もはやその時点でコース変更のチャンスはない。今が悔い改めの時なのである。

       第三のポイントは、二つの道は並行していないということである。罪の奴隷として生きる者の結論は死であり、従順の奴隷として生きる者の結論は義しさである。つまり、パウロは「死」と「いのち」の対比で話してはいないのである。義しさの道を、義の奴隷として、従順の奴隷として生きることによって、いのちを得るという話ではないわけだ。これはパウロがこの箇所でずっと強調しているポイントの一つである。6章17節から、この三つのポイントをもっと深く説明していくことになる。それでは、17節と18節を見てみよう。

     

    非対称

    神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

       第三のポイントは特に重要である。ある意味で、パウロはそのことをローマ書の始めから繰り返し述べてきたと言える。罪人は自ら選んだ道を歩み、その道の終点にたどり着く。彼は自由になることを欲したが、彼にとって自由の概念とは神からの自由である。彼は自分で善悪を決めようと欲した。それゆえ、自分だけで善悪を決めることのできる自分だけの世界が与えられるのである。彼は神を憎み、心の深みにおいて神を殺したいと欲したのだ。無視することは「黙殺」とも言い、殺すに等しい。それゆえ、罪人は永遠の死という実を自ら刈り取るのである。

       地獄とは、罪人が人生の中にあって行なう選択の、論理的に不可避な結果なのだ。しかし、天国の場合はそうではない。それは選択の結果でなく、恵みなのである。だから、パウロは「神に感謝すべき」と言う。ローマ人は神の民となって神の道を行くことを選んだわけではなかった。彼らを選び、彼らが御自身を選ぶように導いてくださったのは神である。ローマの信者たちは、心から聖書の真理に従順な者となったが、その真心からの服従は御霊の働きの現われであった。そういうわけで、ローマ人ではなく、神がパウロの感謝を勝ち取るのである。恵みの道は、罪の道のようではないのだ。

       そういうわけで、パウロが「神に感謝しなければならないことに」と言っていることに注目していただきたい。「神に感謝しなければならないことに、あなたがたはこの従順の道に入った」とパウロは言っている。従順の奴隷となり、義の奴隷となった。それは、「神に感謝しなければならない」ことなのだ。自分が選んで、自分の行ないが何か当然な報酬を得たというような話ではない。義しさの道に入ることができたのは、神の御恵みによったのである。神の恵みなので、神に感謝しなければならない。そのことを17〜18節で話してから、罪の奴隷のことと義のことについて説明した後、23節でまとめとして「罪から来る報酬は死です」と言っている。

       「罪から来る報酬」と言うとき、それは、当然の報いとして、受けるべくして受けることを意味している。罪の報酬とはそのようなものである。続いて、「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と言っているのである。だから、「いのち」か「」か、その二つの最終的な結論しかない。「」は、罪人が自分で求めて自分の行ないによって得た結論である。しかし、「いのち」の結論は、行ないの結論ではなく、まったく神からの賜物として与えられる。その意味で、その二つは並行していない。この三つのポイントをしっかり覚えておいて17節からのところを学びたい。罪の道と義の道、その二つしか道はない。その二つの道は並行していない。そして、そのどちらの道も、それぞれにその道と到達する所はつながっている。

       17節を読むと、クリスチャンとは神の恵みによって義の奴隷となった者だということがわかる。福音を信じたということは、「伝えられた教えの規準に心から服従した」ということである。「伝えられた教えの規準に従った」という言い方に目を留めるとき、キリストを信じること自体が従うことなのだということがわかる。神の真理に従い、神の御言葉に対して素直になって、それを受け入れ、その御言葉の下に立って、御言葉に従って歩む。それがキリストを信じることなのだという言い方もできる。従うことと信じることは、それほど違うものではない。

       新約聖書の中で、従うことよりも信仰が強調されている理由は非常に大切だと思う。「従う」というとき、積極的で活動的な行ないが強調されている。そして「信じる」というとき、これは受身的なものである。「私が何をするか」ということではなく、「神にすがり、神に依り頼み、神から与えられる」のである。だから、「信仰によって救われる」というのが基本的な強調となっており、救いは賜物として神から与えられるものなのである。しかし、「信じる心」とは「従う心」にほかならない。依り頼んで、神の御言葉を真理として受け入れ、その御言葉を喜び、その御言葉を唯一の真理の規準として受け入れて、それに従うことなのだ。

       そういう意味で、ローマの教会の人々がクリスチャンになったことについて話すとき、「あなたがたは、伝えられた教えの規準に心から従ったので、罪から解放されて、義の奴隷となった」というふうにパウロは説明するのである。これはすべて神の働きである。神の恵みによってそのように導かれたので、人が主イエス・キリストを信じるとき、私たちはその人に感謝せずに神に感謝するのである。人が罪の道を歩んでその報いを受けたとき、その人は自分の行ないの当然の報いを受けたのであり、責任はまったくその人にある。そこに大きな違いがある。

       「伝えられた教えに従った」とあるが、私たちがクリスチャンになるとき、まず御言葉を聞いてそれを信じるところから始まる。信仰は、御言葉の教えに従うところから始まるのである。行ないにおいて完全に義の奴隷になったことは、救われたその日から十分に表わされるわけではない。しかし、御言葉の真理にあくまでも従うし、心から従おうとする。それが出発点である。心の本質が変わったのだ。御言葉の真理は私たちに「あなたは罪人です」と教える。自分が罪人だと教えられるとき、私たちはそれを素直に認めて聖書の規準に従って自分のことを判断したりするわけである。

       「あなたは罪を悔い改めなければならない」と言われるときに、素直に悔い改めるのである。その御言葉の真理に従うことが信仰の出発点なのだ。「御言葉が真理なのか。それとも、私自身の経験が真理なので自分の経験に基づいて解釈すべきなのか」が問われるとき、全く違う生き方がそこに表わされるわけである。クリスチャンならば、御言葉の真理の規準に従って自分を解釈し、判断し、人生のすべてのことを判断するはずである。それが出発点なのである。多くの場合、クリスチャンなのにこの出発点にしっかり立っていないために、実を結べない混乱の人生を歩んでしまうことになる。

     

    「律法の下」と「わざの契約」

       恩恵と律法との非対称は、聖書の根本的な概念である。しかし、それはしばしば認識されてきたよりもずっと深い意味を持つ。再びエデンの園に戻ってそのポイントを考えればすぐにわかると思う。実は、長老教会の伝統に立つ教会として「律法の下にある者」と「恵みの下にある者」というパウロの言葉について考えるときに、私たちは特に創世記に戻って考えなければならない。

       神学の歴史から考えれば、そこには大きな大切な問題がある。創世記を正しく真理として捉えていなければ、私たちの理解はいとも容易く混乱に陥ってしまうものである。例えば、ウェストミンスター信仰告白の中で、「わざの契約」という言い方がある。これは「いのちの契約」とも「行ないの契約」とも呼ばれている。即ち、エデンの園の中で神はアダムとエバに行ないの契約を与えてくださったという告白になっている。その解釈はウェストミンスター小教理問答の中にも出て来るが、その「行ないの契約」を守るならいのちを得、守らないなら死ぬ、というようにエデンの園で与えられた最初の契約を説明している。

       以前に、ウェストミンスター信仰告白を一緒に勉強したときに、「ウェストミンスター信仰告白は非常に素晴らしい信仰告白である。しかし、この点においては間違っている」ということを私は説明した。そのことについて考えることは私たちにとって非常に大切なことだと思う。ウェストミンスター信仰告白や大教理問答に書いてあるように、エデンの園で神がアダムとエバに与えた契約は「行ない(業)の契約」であったという解釈は間違いである。その解釈は、「主権者なる神は御自分を低くしてアダムに契約を与えてくださり、アダムとエバはその契約を守るならば永遠のいのちを得るはずであった」というものである。その“わざの契約”によってアダムが神の命令に従っていたならば、永遠のいのちという功績を得たことだろう、と言うわけである。

       また、「御自分を低くして」とは、「神の側の自発的なへりくだりをもって契約が結ばれた」という意味で説明されている。神は主権者なる創造主であり、人間は単に被造物でしかないので、神は低い人間と同等のレベルで契約を結ぶことができない。それだから、神は御自分を低くしてアダムと契約を結んでくださった、と解釈している。ウェストミンスター信仰告白や大教理問答は、エデンの園でのアダムとエバと神との関係をそのように説明している。しかし、もしそうであるならば、エデンの園での人間と神との関係は“律法的な関係”ということになる。それはまるでビジネスの契約 (contractとかagreement)のような話になる。まるで人類が、功績を本質的課題とする律法的関係の中にあって生まれたかのように、律法と恩恵との間に一種の対称関係を想定することになる。

       そのような論理構造だと、キリストの死が回復したのは、アダムによって失われた功績だということになってしまう。アダムとキリストにおける功績と律法の関係は本質的に同じものになってしまう。アダムがそれを守ればいのちが与えられ、守れなければ罰される。そこには王と国民の厳然たる法的な関係があって、王は裁き主であり、アダムとエバは神の王国の国民であり、律法を守れば「いのち」、守らなければ「死」というようなものになる。そこから行ないの功績の話も出て来るということになる。

       「アダムが契約を守ったなら、その功績によって永遠のいのちが与えられたであろう」という解釈が神学書などにもよく出て来る。聖書を注意深く読んでみていただきたい。神が御自分を低くしてアダムとエバに契約を与えてくれたというような言い方はエデンの園の中にはないのである。そのような話は一つも出てこない。ところで、堕落と救いのこのような理解が完全な間違いだというわけでもない。確かにキリストの御業は私たちに対する律法の要求に応えるものなのである。しかし、エデンの園における神とアダムとの関係は律法的な契約として理解されるべきではない。アダムは自分自身のためにも、人類全体のためにも、永遠のいのちを功績によって得る立場にはなかったのである(勿論、“わざの契約”は、必ずしも厳密な意味での“功績”という言葉で説明される必要はない。それほど律法主義的ではなくても、“わざの契約”という概念を保持することは可能である)。

       ジョン・マーレーというスコットランドの有名な神学者は、「エデンの園の中には契約はなかった。契約という言葉は、創世記6章になって初めて使われている。それは神がノアに契約を与えたときに初めて使われている。だから、契約は贖いを表わすものであって、エデンの園には贖いはない」と説明している。その考え方は間違っていると私は思う。確かにエデンの園には「契約を与える」というはっきりした言い方はない。なぜないのかというと、契約関係は最初から前提となっていたからである。アダムとエバが創造されたとき、彼らは神の似姿に創造されたのである。その「神の似姿」という言葉自体が神との契約(covenant)関係を表わすという一面が含まれているのである。

    創世記1章28節には「神はまた、彼らを祝福して....こう仰せられた」と書いてある。「祝福して」の「祝福」は、契約の祝福にほかならない。契約の祝福を一番最初から与えられて、その祝福の契約関係が前提となってすべてが与えられている。契約の祝福が与えられて、そこから出発する話なのである。創世記6章と9章のところに契約について書いている箇所があるが、そこでは「契約を与える」というよりも「契約を更新する」という言い方が使われている。

       同じ9章の最初を見れば、ノアの洪水の後に神がノアに与えた契約は、アダムとエバに与えた契約と同じものだということは明らかである。つまり、ノアは、新しい人類のスタートであった。それは人類の再出発であった。なぜそこで「契約を立てる」という言い方でなければならなかったかというと、確かにそれは「贖い」であったからである。人類は最初の契約を破ってしまったので、贖われなければならなかった。神はノアのときに、その破られた同じ契約を新たにしてくださったのである。再び契約を与えてくださった。それだから9章になると、「契約を与える」という言い方になるのである。

       神がアダムとエバを創造したとき、契約は既に前提となっていたのだ。契約の関係にあって人間は神の似姿に創造されたのである。「神は創造し、そして祝福を与えてくださった」というところから人類と神の関係は始まっている。祝福の関係が初めから前提となっているのだ。祝福が与えられて出発している。それは、祝福も呪いも目の前に置かれて、どちらかを自分の行ないによって選びなさいというような関係ではないのだ。最初から豊かな祝福は与えられていた。神の代表として全世界を支配するという契約の祝福が与えられていたのである。そして、神はエデンの園を作り、エデンの園は神とアダムとエバが一緒に住まう至聖所として与えられたのだ。

       至聖所に住む祝福が最初から与えられていた。それがエデンの園であった。例えば、アダムとエバがエデンの園から離れた所で創造されて、良い行ないをすればエデンの園に入ることが許されるということであれば、それは確かに“行ないの契約”ということになるだろう。しかし、そうではなかった。初めから最高の祝福の場所に置かれたのである。園の中心にあるいのちの木から取って食べるためには、いったいどういう行ないが必要だったのだろうか。功績など何もないのである。最初から「いのちの木から取って食べてください」と招かれているのである。

       というのは、園の真ん中にある二本の木だけに名が付けられ、一本は「いのちの木」でもう一本が「善悪の知識の木」であった。善悪の知識の木はエデンの園の真ん中にあり、その隣には別の木があって、神はその木に特に注目するようにされた。それは園の真ん中にあって目立っていた。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という命令は、おのずから「隣のいのちの木から取って食べなさい」ということになるわけである。それがアダムにわかる筈であった。だから、「いのちの木の実を自由に取って食べなさい」というのが最初からの招きなのである。

       これが行ないの契約だと言うなら、話は全く反対になっていたであろう。つまり、「いのちの木の実から取って食べてはならないが、善悪の知識の木から取って食べてもいい」ということになったかもしれないし、「両方とも食べてはだめ」ということになるかもしれない。そして、何かの行ないによって自分の忠実を証明しなければ、いのちの木の実を取って食べることは許されないということになった筈だ。「行ないの契約だ」と言うなら、それが出発点となったであろう。

       しかし、そうではなかった。神は、最初からいのちの木の実を食べるように積極的に招いておられるのである。永遠のいのちは最終的な祝福であるが、その祝福が最初からいのちにあって与えられており、「いのちの木の実を自由に取って食べても良い」というところから出発している。これは、決して行ないの契約なんかではないし、功績の話ではないし、何か良い行ないをすればいのちが得られるという話ではない。いのちの中に置かれていのちから出発するというものであった。それが神との関係であった。

       もう一つ、エデンの園の中で明らかなことがある。神がエバを創造したときの造り方を考えてみる必要がある。神が人類を創造したとき、いきなり男五人と女五人を創造して、男性と女性をグループとして造り、互いに友としての関係から始まり、いつしか気に入った者同士が結婚する、というようには創造されなかったのだ。この点をしっかり捉えていただきたい。人類の始まりはそのようなものではない。或いは、まず百人くらいの子どもたちを創造して園の中に置き、子どもたちは自由に食べたり飲んだりしていたというところから始まったのでもない。

       神は、大人の男性を一人だけ創造して、「あなたはわたしの似姿なのです」ということを彼に教えた。それから神は、アダムが一人でいるのはよくないと言われて、アダムに相応しい助け手である一人の女性を創造してくださった。エバは、アダムのあばら骨の一つを取って造られたのである。そして、アダムとエバは結婚した。神は最初から人類を特定の夫婦として創造されたのである。その時にアダムは、自分のあばら骨から創造された妻エバが自分の“似姿”であることを当然悟ったはずだ。花嫁エバは夫アダムに似たものであり、アダムに相応しく創造されたのである。同様に、二人は神の似姿であり、人類全体が神の花嫁なのである。神は人類を御自分の花嫁として創造された。そのことを、アダムはエデンの園の時点で悟る筈であった。

       悟ったかどうかは天国に行った時にアダムに聞いてみようと思うが、アダムは悟る筈だった。もしエデンの園の中ではそのことが十分にわかっていないとしても、その後の契約の歴史を見れば、それはもともと神が人類を創造した目的であったことがよくわかるのである。旧約聖書の中でずっと、神の民は神の花嫁であることが教えられている。アブラハムの時になると、このことは更に明かにされ、イスラエルの出エジプトの時にはもっと明らかになっていた。また、預言者たちによる契約の訴えにおいてもそれは非常に明らかであった。ホセアは、どの預言者よりもそのことを明らかにしたと言えるが、エゼキエル書の中でもイザヤ書やエレミヤ書の中でも十分にはっきりしている。他の預言者の書でもそのことは明白であった。新約聖書ではどうかというと、例えばエペソ人への手紙5章のような箇所でも文字通りはっきりと書き記されている。そして、黙示録の最後のところでは、新しいエルサレムが神の花嫁だと記されている。

       神が人類を創造してくださった最終的な目的は、人類全体が神の花嫁として愛され、豊かな祝福を受けて、神との契約的な交わりを持つ者となることであった。私たちと神との関係は親子の契約関係においても譬えられている。また、夫婦の契約関係においても譬えられている。私たちは神の子どもである。教会はキリストの花嫁である。この二つの契約関係において最初から神と人類全体の関係はあったのだと聖書は教えている。そうであれば、アダムとエバが最初の人類として創造されてエデンの園の中に置かれたとき、二人は人類の出発点であると同時に二人は神の花嫁なのである。最初からその契約関係にあるわけである。

       だから、契約は最初から前提として既にあったのである。それだから、それは愛の関係なのである。律法の下にある関係ではない。最初の関係は「守れば愛するが、守らなければ愛さない」という関係ではなかった。エデンの園の中の関係は、契約が前提としてあって、愛の関係が最初から与えられていた。人類はそのような存在として創造されたのである。人類は神の花嫁として創造された。この認識は極めて大切である。これは律法主義的な関係ではないし、契約自体もおもに律法だというものではない。ウェストミンスター信仰告白で告白されているように「神は御自分を低くして」とか「神の側の自発的なへりくだりによって」契約を結んだということではない。神が人間のレベルにまで「へりくだっている」ものとして契約を考えるべきではない。

       契約とは愛の関係なのである。それは三位一体の三位格の関係に始まるものである。御父、御子、御霊なる神の互いの人格的関係は永遠の愛の契約関係なのである。人間はその三位一体の神の似姿なのである。神が御自分を低くされるという話ではない。むしろ、人類を御自分と親しい人格的な交わりを持つことのできる地位にまで高めてくださり、それほどに高貴なものとして創造されたという話なのだ。「神が御自分を低くして人類と契約関係を結んだ」というような解釈は、御父、御子、御霊なる神の永遠の人格的な契約関係を前提にしないで契約を考えるようなものである。

       神が与えてくださった契約は決してそういうものではない。それは「行ないの契約」ではない。「業の契約」ではない。「神が自分を低くして契約を与えてくださった」のでもない。神は、人類をそれほどに高い素晴らしい存在として創造してくださったのである。そして、神は、人類を御自分の花嫁として創造してくださったのである。「御自分の似姿」に創造してくださったのである。アダムとエバは、エデンの園、神の御住まいの中に住まわせられて、神に愛され、神を愛して、神との契約を守ってずっといのちの中の道を歩むはずだったのである。人間について考えるとき、この理解は決定的に重要なものである。

       しかし、愛の関係というものは一方通行ではない。神は、アダムとエバに豊かな愛を与えてくださった。アダムとエバはその愛に対して応答しなければならない存在であった。「応答する」とは、その愛に対して忠実であるということである。神の愛に対して忠実であれば、すべてはよいのである。豊かに愛されているその愛を素直に受ければ、すべてはよいのである。善悪の知識の木によるテストとはどのようなものだったのかというと、何度も説明しているように、サタンが誘惑を与えることによって本来ならアダムとエバは本当の善悪の意味を悟る筈であった。神の御言葉を曲げて誘惑されるその時、その誘惑によって、「善とは、私たちを愛してくださっておられる神に信頼することなのだ」ということを知る筈であった。神に信頼する。それだけのことなのだ。

       「神を愛し、神の命令を喜び、神が仰せられたことを守ること、それが善なのだ」ということをアダムは悟る筈であった。「悪とは、神が語ったことを信じないで、神が命じたことを破ることなのだ。それが悪なのだ」ということを、悟る筈であった。アダムがそのことを悟ることによって、人類と神の関係は大人の愛の関係になり、互いを正しく認識して愛する関係に成長する筈であった。アダムとエバは創造されたとき、能力においても身体においても大人であったが、経験においては未熟な子どもであったと言える。経験を積むには時間がかかる。経験においてはまだ未熟なので、ある意味で子どもっぽいところがあったと思われる。非常に明晰な頭脳を持っており、理解も速かったが、子どもっぽい面もあった。

       その契約の愛の関係の中にあって創造されたアダムとエバは、愛されていることを当然のように思っていた。私たちの子どもたちもそうであろう。子どもたちは、自分はお父さんとお母さんに愛されているということを非常に特別なこととしては思っていないだろう。愛されて、飲ませて、食べさせて、服を与え、住む場所を与え、教育を与え、危険から守ってくれていることは感じるが、「これは、なんて素晴らしいんだろう。大変な祝福だ。特別な恵みだ」というふうに深く認識してはくれない。成長すれば成長するほど、子どもたちはそのことをもっと考えるようにはなるが、深い認識はなかなか持てないものである。

       2〜3歳の幼児なら、認識はゼロである。「愛されるのは当然だ。叱られるのは、おかしい」と思っているかも知れない。叱られたり懲らしめられたりすることも愛のうちに含まれているということもわかってはいない。しかし、大人になれば、愛は実に特別なのだということがわかるようになる。もちろん「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」と命じられているのだから、すべての人を愛さなければならない。それはそれでよいのだが、兄弟を愛する愛はもっと特別なものである。兄弟の関係は他の人との関係よりも深いものである。結婚すると、夫婦の愛は更に特別だということを知る。それは兄弟愛よりも特別なものである。それは、すべての人を愛する愛よりも特別だということがわかるようになる。

       アダムとエバは創造されたとき、子どものように、神に愛されているのは当然だと思っていたけれども、自分は深い認識をもって神を愛してはいなかった。二人には、「自分を神にささげるのだ」という認識はまだ無かったと思われる。そして、善悪の知識の木において試されてサタンの誘惑に出会ったとき、「そうだ。これが善なのだ。私を造られた神が考えるように考え、神に言われたとおりを信じてその命令を守ることが愛なのだ」と悟るべきであった。それこそ善なのだということを悟って、「私は神を愛する。サタンよ、引き下がれ。私はあなたを拒絶する。私は私を愛してくださる神に従う」とサタンに宣言する筈であった。それが、「伝えられた教えの規準に服従する」ことなのだ。だから、信じる心は服従の心であるし、信じることはその愛に対する正しい応答である。愛されていることを信じるときに関係は回復される。つまり、新しく生まれるのである。

       そういうわけで、エデンの園の中の関係は最初から愛の関係であったが、それはまだ未熟な愛であった。つまり、神が一方的に与えておられるだけで、アダムとエバはまだ応答していない、というようなものであった。そこで、サタンの誘惑によってアダムとエバは、神の愛を悟って神の愛に応える機会が与えられた。しかし、アダムは、そこで神の愛を裏切ってそれを捨てた。神を神とせず、自分を神にしようとした。神に対して罪を犯したとき、愛の関係ではなくなってしまった。罪によって神との契約の愛の関係から追放されてはじめて「律法の下」にある者となったのだ。エデンの園から追放されたアダムとエバの神との関係は律法の関係となったのである。

       つまり、神は王であり、アダムとエバはその御国の民である。その契約関係は全くゼロにはならない。それ故、その関係は律法の関係となった。「守らなければ死ぬ」という関係になったのである。なので、理論的には「守るならいのちを得る」という理屈になると思うわけだが、実際はそうではない。「守ればいのち」という可能性は皆無なのである。律法の下では、「破れば死」という関係しかない。契約という愛を裏切ったアダムとエバは、神との愛の関係を失い、律法の関係になった、と理解してよいと思う。

       ローマ人への手紙5章を学んでいたとき、アダムとエバの堕落の時からモーセの律法が与えられるときまで、既に罪は世にあったということを学んだ。それは、この世には既に律法があったということを意味していることをパウロは説明した。つまり、アダムとエバが罪を犯して堕落した時以来、罪はあった。律法はずっと世にあった。罪人はみな律法の下にあった。それで死ななければならない者であったのだ。死があったというのは、律法があってそれによって裁かれるという意味なのである。

       それ故、律法の下にある関係は、その罪人アダムにある関係なのである。恵みの下にある関係とは、キリストにある関係である。「律法の下」という表現は、人間がもはやいかなる種類の契約関係にもないという意味ではない。それは人間の神との関係の本質を、厳密な律法の関係として定義するものである。アダムが罪を犯したとき、彼は神の御好意を失い、律法の下に置かれた。それで、キリストが堕落した人間を贖うためには、御自身も律法の下にある者として来なければならなかった。私たちが罪と永遠の死という裁きから自由にされるために、キリストは律法の義なる要求に応えなければならなかったのである。

       なぜここで「恵み」という言葉を使わないのかというと、「恵み」は、愛の関係を回復させるものだからである。「恵み」は「贖い」であり、離れてしまった者を連れ戻すものであり、死んでしまった者にもう一度いのちを与えるものである。そういう意味で、アダムとエバはエデンの園の中で何をしなければならなかったのかというと、契約的な言い方をするなら「堅忍」しなければならなかったのである。ただただ契約の中に留まればよかったのである。しかし、彼らは裏切ってそれを捨て、契約の愛を破棄してしまったので、律法的な関係になってしまった。

       それだから、「贖い」とは、「もともとあった愛の関係に戻ること」なのである。ここが非常に大切なところである。どうしても正しく認識しておかなければならないポイントである。「恵み」は、最初にあった愛の関係を神がもう一度与えてくださるということなのだ。これは6章でパウロが話していることを正しく理解するためには非常に大切な認識である。罪人は律法の関係にあり、神の律法の下にあって、罪の道を歩み、神の律法によってさばかれ、その当然の報酬を受ける。それが「死」である。死はどういうものなのか。エデンの園を見ればよくわかる。まず、神から離れることである。それで人間関係もだめになる。そして、この世との関係もだめになる。また、自分との関係もだめになる。そのような言い方ができると思う。

       神から離れるということはエデンの園から追放されたことによって表わされ、アダムとエバは罪を犯したその日に、確かに死んだのである。神から離れてしまったとき、アダムとエバの互いの関係もだめになってしまった。神を愛していなければ、神の似姿である人間をも愛せなくなるのである。それで、神を憎む者は人間をも憎むようになる。アダムとエバは互いを憎み合うようになり、彼らが守る筈であったすべての被造物、地球、宇宙との関係もだめになり、害を与えるものとなった。まさに“公害”はそこから始まったと言ってよいのだ。人類は、神から与えられた被造物を、罪によってだめにしてしまった。それは罪の結果である。

       「自分との関係もだめになり、自分を憎むようになる」と言ったが、自分の中もおかしなものになってしまった。自分は神の似姿に創造されたものなので、神を憎むなら、その自分をも憎むようになり、心の中はおかしくなっている。それ故、最終的な死は、疎外感、孤立、憎しみ、絶望に陥る。神を憎むので、他の人間をも憎んだり、自分をも憎んだりする。「永遠の死」というとき、それは神に対する憎しみがはっきりさせられてしまったということに他ならない。神を憎み、神に逆らい、神から離れたいということをはっきりと自己認識し、理解させられてしまう。そうすると、すべてから離れるようにして完全に孤立してしまう。しかし、自分をも憎んでいるので苦悩から解かれることはない。自分から離れることは有り得ないからである。その地獄の中の“死”は、永遠に逃れることのできない苦しみなのである。

       しかし、それは罪人が自ら選んだ道なのであり、その道の行き着く所である。彼は、あらゆる神の招きを忌み嫌って自分の人生を生きたからである。神から離れたい。神から逃げて生き。意識しているにせよしないにせよ、どんどん神を避けて逃げる心に従って歩むなら、どんどんだめになって孤立してしまう以外にない。その疎外感は深まり、すべてとの関係は空しくなり、自分自身との関係もだめになっていく。罪の道の結論は「死」である。罪の結果は「死」である。

       そのように教えられていたアダムとエバは、神の御言葉を真理として信じ、その真理を受け入れ、その真理の規準に従ってすべてのことを考えるべきであった。神に愛されていることを深く認識してその愛に対して素直に応答し、神を愛する心をますます強くするべきである。そして、「絶対に善悪の知識の木から取って食べることを私はしない」と決断すべきであった。隣にあるいのちの木の実を食べ、そしてサタンに対して「私はおまえをエデンの園から追放する」と宣言すべきであった。

       私たちが聖書の教えを信じたとき、大ざっぱな譬えだが、私たちはエデンの園の善悪の知識の木の下に立ってサタンに向かって「いいえ」と言っているのである。私たちはサタンの勧めを断って、いのちの木の実を取って食べるのである。私たちは神に信頼する。神がすべてを定義し、すべての意味を教えてくださる。私たちはその規準に従ってすべてを判断すべきである。しかし、エバは、自分の目の感覚で判断した。エバは、その善悪の知識の木を見て、自分の目には慕わしくて食べるのに良く、好ましく見えた。それがエバの判断の仕方であった。キリストを信じたときから私たちは、「自分の目にどう見えるか」ではなく、神の御言葉の規準に照らして判断し、神が語ったことを信じるのである。

       だから、私たちは、あたかもエデンの園の中にいてその善悪の知識の木の下で判断を下したようなものである。勿論、それは神の御霊の導きによってサタンに対して「ノー」と言い、神に対して「イエス」と言ったのである。キリストにあって、私たちは最初の愛の関係へと回復された。神の御恵みは、御名のために実を結ぶことができるように私たちを支えて愛の道に導いてくださる。それ故、「神に感謝する」のである。パウロはその両方の言い方をしている。即ち、それは私たちが「伝えられた教えの規準に心から服従」したことであるが、それを「神に感謝する」のである。私たちの服従が神の導きによるということがここで明らかだと思う。

       18節を読むと、服従した私たちはどうなったかというと、「罪から解放されて、義の奴隷となったのです」と言うのである。そして、19節では、「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」と言うのである。この意味は極めて明白である。自分の生き方は二つ道のどっちの道なのかをはっきりと認識し、自分をはっきりと神にささげて、神の御国とその聖さのために生きるべきであると言っているのである。未熟な子どものように、信じる意味が何なのかも知らずにただ漠然と信じるのではない。はっきりとサタンに対して「ノー」と言って、自分を神にささげなさい。毎日の生活において自分は何のために生きているのかをわきまえ知りなさい。認識することと、ささげることが一緒になっているのである。神を愛して神に自分自身をささげるのである。それこそクリスチャンの反応であり、神に対する応答なのだ。それがクリスチャンの生き方である。

       神は「祝福」を与えてくださった。「祝福」とは、「契約的な祝福の関係」のことである。それは「契約的な愛の関係」なのである。アダムとエバはもともとその関係にあって創造された。キリストを信じた私たちは今、その関係に回復されているのである。クリスチャンとは、契約の愛の祝福を与えられた者なのである。そのことを正しく認識し、正しく応答すべきである。愛されている者として正しくその愛を喜び、その愛に応えるのである。そのことが、私たちに要求されている。自分自身を義の器としてささげるには意識的な決断を要する。また、それは継続的な戦いをも伴うものである。「その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」と言うとき、パウロは日々繰り返されなければならない戦いについて語っているのである。

       「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」という言い方の意味について先週も話したが、「義の奴隷」そして「罪の奴隷」という言い方をするときに、当時のローマ帝国には奴隷制度が社会の現実としてあったことを思い起こす必要がある。奴隷の意味はよく知られていた。だから、パウロが「義の奴隷」と言うときに、まるで人々は義しく歩みたくないのに義しく歩まなくてはならないというある種の苦行を強いられているかのように聞こえてしまうこともあるので、「そういうことではないのだよ」というかんじで「人間的な言い方をしています」と言っているのだ。

       「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今はその手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」とパウロは勧めている。再び「道」と「結論」がここで強調されていることに注目していただきたい。義しさの道を歩めば義に至り、罪の道を歩めば死に至る。キリストにあって贖われた私たちはもう子どもではない。大人としてはっきり自分の生き方について認識し、自分を神にささげて、その義しい道を歩むようにと、パウロは私たちに勧めている。

       どうしたら義の奴隷として自分を神にささげることができるのか。まず、何時それをするのかというと、主イエス・キリストを信じた時にそれは既に始まっている。主イエス・キリストを信じた時に、「私はあなたの御言葉を信じてあなたに従い、自分をあなたにささげます」という誓いが信じた時の信仰の中に含まれているのである。たとえ深く認識していなかったとしても、「キリストを信じます」と告白する時に、「自分を神にささげます」という意味は含まれているのである。バプテスマを受ける時、幼児の場合は別として、大人になって洗礼を受けた人たちは、契約の誓いをするという意味については認識がかなり浅いのではないだろうか。日本でもアメリカでも、契約とか誓約の認識は極めて薄い。バプテスマを受ける時にどれほど大きくて大変な誓いをしているかについての認識は実に不十分である。その時、自分のすべてを神にささげたのである。

       クリスチャンとして成長していく過程で私たちは繰り返し自分を神にささげていくことにもなる。私たちの弱さのゆえもあって、キリストは御自身との契約を新たにする特別な時として毎週の聖餐式を私たちに与えてくださった。「契約を新たにする」ということは、自分を神にささげるという誓いを正式に行なっていることにほかならない。そして、これはとても大切なことである。自分を神にささげたとしても、毎日の生活の中でその認識が薄れたり忘れたり失ったりする。「私は義の奴隷として神に自分をささげて聖潔に生きます」という心がどこかに行ってしまったり、その誓いから離れたりしてしまう。それが罪人の本質なのだ。罪人は、神の愛を忘れ、その愛から離れて行こうとするものである。それで、クリスチャンは契約を新たにして正式に「自分を神にささげます」ということを毎週の聖餐式で新たに誓うのである。それがバプテスマの誓いであり、聖餐式はその誓いを新たにするために与えられている。

       そして、毎日の生活の中で神に祈るときにも、私たちは繰り返し繰り返し自分を神にささげている筈である。私たちは、特別に自分を神にささげるという感動を経験する時もあるし、自分を神にささげると祈って決断するけれども大した感動も感情もない時もある。それはそれでよい。いつも感情が高ぶっているわけでもないし、常に感動が高まったままで生活するわけでもないからである。自分の感情が大切なのではなくて、自分を神にささげて神の命令に従わせることが大切なのである。神の愛は私たちの思いより遥かに大きいからである。私たちは、天の父の愛に応えて自分をささげるのである。これは「恵みの下にある」ことなので、私たちが自分をささげるように、そして神の愛に対して義しく応答するように求めておられるのである。

       最終的には予定論や神の御霊の働きなどがあるのは事実だが、その中にあって私たちは「契約 (covenant)」の観点から考えなければならない。予定論をいつも規準にして、「特に何も感じないけれども、これは神が定めたことだから仕方がないさ」とか「今日の神の予定は何だろう」とかいうようなことを考えるわけではない。契約の中にあって考えるとき、「神が私を愛してくださっているので、私はその愛に応えたい」という心をもって素直に愛されていることを喜び、感謝するのである。その心があれば、おのずから自分をささげる生き方になる筈である。それは、神の愛を信じて応答する生き方である。

       私たちと神との関係は生きた人格的な関係なのだ。神が私たちを愛してくださっているのであれば、私たちはその愛を認めて受け入れて応えていくのである。神はそのような私たちを外からも内からも導いてくださる。もはや律法的な関係ではなく、「恵みの下にある」のである。ということは、神が私たちを豊かに愛して、私たちの中で働いてくださり、私たちの心の中で愛を起こしてくださって、成長させてくださるのである。神の愛と真実を見てそれを信じるなら、私たちはもっと深く神の愛を喜ぶようになる。もっと深く感謝してその愛に応えることができるように成長していくのである。

       だから、「自分をささげて、聖潔に進みなさい」と言うのである。愛されている者が、だんだんと愛に近づいていく生き方をする。それが「いのち」である。それは生きたいのちの関係である。「永遠のいのち」とは、神との永遠の契約の愛の関係に生きることなのである。教会はキリストの花嫁であり、神は永遠の愛をもって花嫁である私たちを愛しておられる。「永遠のいのち」とは、三位一体なる神がその花嫁である人類を愛して豊かに豊かにその愛を注いでくださり、私たちが永遠にその愛を喜ぶことである。それが「いのち」である。

       だから、「永遠のいのちに至る」ということは、神の愛の道を歩むことである。その反対は、律法の裁きの下にあって、それに逆らい、罪の道を歩み、どんどん愛から遠く離れて行き、最終的に死に至る生き方である。それを輪廻などでごまかそうとしても無駄である。最終的な結論は「」である。しかも、永遠の死である。その二つの道しかない。その道を歩めば、必ずその結論に至る。

       神は私たちが愛の道を歩むことができるように、恵みを豊かに注いでくださっている。それで、私たちは聖餐式のときに、どんなに深い慈しみをもって愛されているかを覚えるのである。どんなに大きな御恵みを受けているかを覚えるのである。そして、恵みによって神は私たちを御自分に引き寄せ、御自分に近づくように導いてくださる。聖餐式はそのためにある。主イエス・キリストは私たちを愛して私たちのために十字架上で死んでくださり、私たちを罪から贖って救うために、御自分のいのちを捨ててくださった。私たちは、このキリストを信じることによって、永遠のいのちを賜物として受けるのである。その永遠のいのち、その復活のいのちの賜物を心から喜び、それが与えられたことを感謝して聖餐式を受けるとき、私たちは自分を神にささげるのである。

       もはや自分のためにではなく、神のために生きる者となったのである。神の御前で聖餐の食卓に着くとき、私たちが自らの罪について通常している見え透いた言い訳は消えてしまう。私たちは自分の罪を告白し、神の救いの御恵みに対する信仰を告白する。私たちがただ恵みによってのみ救われ得ることを繰り返し思い起こさせられるからである。私たちにはキリストの十字架の他に望みはない。しかし、神が続けて私たちに対する御自身の恵みの賜物を新たにしてくださり、続けて御自身に従うよう呼ばわるにつれ、私たちは神に愛されることの意味をだんだんと学んでいくのである。

       神のために実を結ぶために自らを神にささげることは、徐々に神の契約の御恵みに対するより深い、より真心からの応答となっていく。それは、徐々に私たちの自由で熱心な願いとなっていくのである。神の契約の恵みと愛とは、私たちを神を愛する者へと変えていく。それが「義の奴隷となる」ということの本質的意味なのである。自分の頭脳、自分の経験、自分のさまざまな思いによって人生のすべてを判断するのではなくて、素直に神の約束を信じ、素直に神の御言葉を信じて従うのである。「神よ。私は自分のすべてをあなたにささげます」と誓うのである。その心を、聖餐式のときに新たにするのである。神の愛を覚えて、その愛に応える。それが聖餐式の意味なのだということを一緒に覚えて、聖餐式を行ないたい。

     

    ――2000年2月20日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙6章15〜16節

    ローマ人への手紙6章20〜23節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.