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    ローマ人への手紙7章14〜25節(2)


    7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

    7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

    7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

    7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

    7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

    7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

    7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

    7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

    7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

    7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

    7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

    7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

    2000.05.14. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    自己を知る

    7章14〜25節

       ローマ人への手紙7章14節からのところで、パウロはクリスチャンについて話しているのか、それもとクリスチャンではない人について話しているのかという点を前回一緒に考えた。そして、パウロはここでずっと現在形を使い、また「私」という主語が繰り返されているので、これはクリスチャンになった後のパウロ自身についての話であることは明らかである。それが文法的な解釈として最も正しい解釈であると思う。パウロは彼自身の罪との戦いをクリスチャンの律法との関係にかかわる説明の中でローマの人たちに語っているのである。

       パウロ自身のこの経験は、全てのクリスチャンが直面することの典型となるものである。そこで、自分自身の経験を記していることを疑うような解釈が不可能なほどに、パウロは一般的な言い方で語っているのである。確かにパウロは自分の経験を語っており、誰でも彼の言っているポイントがわかるように広い言い方でその経験を詳しく述べているのだ。同時に、その述べ方は心理的に非常に明確で鋭い。私たちは、自分のこととして容易に適用できる言葉遣いで自分の内なる戦いが説明されているのをここに見るのである。

     

    奴隷状態

       気を付けて読めばわかると思うが、パウロは22節で「心の中では神の律法を喜んでいる」と言っている。これは、まさしくクリスチャンの姿である。クリスチャンでなければ神の律法を喜ぶはずはないからである。心の中では神の律法を喜んでいるけれども、行ないにおいては自分の足りなさと弱さを深く感じて「私は罪人です」と告白しているのである。パウロはクリスチャンとして歩むようになってから、クリスチャンになる前よりもずっと深く罪を感じている。クリスチャンになったから急にすばらしい人間になるわけではない。心において、神に対する態度や信仰などは変わるけれども、今までの生活習慣などの問題もあるし、心の未熟さもあるし、いろいろなところにおいて成長しなければならないところがいくらでもあるのだ。

       神の栄光を表わそうと真剣に考えるときこそ、自分の足りなさを深く感じるものなのだ。忠実に神に従いたい、神の御名のために実を結びたいという心が深まれば深まるほど、自分の足りなさをもっと感じるはずなのだ。それがこの箇所の心理的な背景である。6章では、クリスチャンになったときに「罪から解放された」と言っているのに、7章になると、「私は罪の奴隷となっている」とパウロは言うのである。いったいどちらが本当なのか。答えは「その両方」である。これは、矛盾ではなくて、「私たちの心理的状態は複雑なものだ」という話なのである。

       根本的に罪から解放されたのは事実である。もう私たちは罪のために死ななければならないことはない。永遠の裁きを受けるようなこともない。罪に従わなければならないという状態から解放されたのは事実である。では、いかにして私たちは罪の奴隷とされ、同時に罪から解放され得るのか。実は、パウロは似たような言い方を用いて罪のかなり異なった側面を私たちに示しているのである。

       6章で罪から解放され義の奴隷となることについて語るとき、パウロは私たちの人生に起こった変化を述べているのである。この変化は、私たちの心の態度の変化に始まり、またそれによって最も深く特徴づけられるものである。キリストを信じる前は神と神の真理とを憎んでいたのに対し、神の御恵みにより救われ、御霊によって根本的に新しくされた今、私たちは神を愛する者となった。これが最も深い意味での罪の奴隷状態から解放された自由なのである。

       クリスチャンになる前の状態について「罪の奴隷である」と説明するときにパウロの意味を誤解してはならない。昨日、ある記事の中で、「中国の教育において人間は根本的に善であると教えられているので、罪の概念にピンと来ないようである。罪について話すとき、中国人は何を言っているのかがわからないような傾向がある」と書いてあった。日本人も同じではないだろうか。日本の文部省が発行している教書ではっきりと「人間は根本的に善である」ということが強調されている。そのように教えることを宣言しているのである。それゆえ、「私は罪人です」というような認識はあまりない。

       実際にクリスチャンではない人と話するとき、「罪人だ」と言うと、なにか犯罪者のことでも話しているような雰囲気になる。あるいは、自分はそんな酷いことをやった覚えはないので、「何を言っているのか」と相手は思ったりする。人々は自分の心の中では別に罪を犯している思いはないのである。しかし、聖書は、「人間は罪人である」と宣言するだけでなく、「罪人は罪の奴隷である」とさえ言うのである。これは、私たちを創造してくださった御父なる神との関係の話なのである。

       罪人の行なっていることが常に悪であるわけではない。しかし、当然愛すべきである創造主の神を無視して生活を送ることが罪の本質なのだということを覚えなければならない。自分の父と母が自分を愛して、苦労して自分を育ててくれた。その父母の存在を無視して自分の思いのまま“良い”生活を送っている。それで良い人だと言えるのだろうか。父母が挨拶しくれても、返事もせずに無視する。しかし、生活においては「悪いことはしていない」と主張する。悪い言葉も口にしないし、社会のためにいろいろ貢献しているし、人々には親切にしていると言う。しかし、自分を生んでくれた父母に対しては、何事においても無視し、正しい関係を持とうとはしない。特別に燃えるような憎しみを持っているわけではないけれども、憎悪の感情を越えて、父母がまるで存在していないかのように振る舞うのである。それで“良い人”と呼べるのだろうか。おかしなことだ。まったくおかしなことだ。どこかに深い問題があるとしか言いようがない。

       天の父は私たちの真の親であり、私たちの創造主であり、私たちを永遠の愛をもって愛しておられる。父母よりも私たちを愛し、父母よりも私たちのことを顧みてすべてを備えてくださっている。その天の父を無視して生活を送るならば、それこそが罪の本質なのである。表面的にいくら“善行”と見られるようなことをしていても、天の父に目を留めずに、天の父との交わりを持たないような生き方をするなら、それこそ罪の生活に他ならないのである。そのように生きる者は、いずれ酷い思いや行いを表わすようになる。罪人の心の問題は、まず天の父を無視し、天の父を愛さずに生活を送るところにあるのだ。換言すれば、それが聖書の言う「神を憎む心」なのである。

       「憎む」と言っても、別にすべてのクリスチャンでない者が「私は神を憎んでいるぞ」という激しい嫌悪を燃やしているわけではないが、彼らの人生において神は重要ではないのである。それが彼らの憎悪の形態なのだ。それは激しさよりはむしろ冷淡さである。しかし、それが憎しみであることに変わりはない。日本では稀だと思うが、西洋では顕著に「神を憎む」という思いを抱くケ−スがある。西洋の哲学者やインテリたちの中にはその思いを強く持つ者がいる。バ−トランド・ラッセルはその顕著な例である。はっきりと「私は神を憎む」という思いをもって活動する。ニ−チェもその一人である。

       フロイトは、どこまで神を憎む思いを持っていたか定かではないが、彼は心からモーセを憎んでいた。彼らの場合、神の啓示がはっきりしていればいるほど、その対立関係は激しいものとなった。しかし、神についてあまり深く考えもせず、神の知識もあまりない人の場合は、“無視して生きる”という態度においてその“憎しみ”を表わしているのである。何も意識していないけれども、無視して生きるわけである。実際に自分にいのちを与えてくださった御方を、である。「罪の奴隷」とは、なかなかその状態から抜け出すことができない者のことである。神を無視して生きる生き方が自分にとっては楽しいのだ。それは麻薬中毒のようなもので、そこから離れることができないでいる。

       それだから、パウロが「罪の奴隷」と言うとき、「私たちは皆、朝から晩まで最悪な思いと最悪な言葉と最悪な行為をし続けている」というようなことを言っているわけではない。「罪から解放されている」というのは、本当に神との関係が改善され、本当に神を愛し、神の御国を心から求める者に根本から変えられたということである。その意味で、罪から解放され、神との正しい関係に回復され、神の栄光のために生きることができるようになったのだ。しかし、同時に、足りなさも沢山残っている。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。隣人を自分と同じように愛しなさい」というのは聖書の倫理の本質である。クリスチャンは、それを認め、そのことを喜び、心からそのように生きようと願い、「これこそ私が歩もうとする道だ」と心底思うのである。それが6章でパウロが言っている罪から解放されている者の心である。

       罪の奴隷であったとき、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する」ことを何よりも大切だという思いはなかった。少なくとも、それを言われてもピンと来ないものであった。何を言っているのかわからない。「隣人を自分のように愛さなければいけない」と言われたら、「まあ。それはそうだろう」と思うかもしれない。しかし、「心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、神を愛する」ということは理解できないし、そうあるべきだとも思わないのである。

       実際には、「隣人を愛する」ことは、「神を愛する」ことと比べれば“憎しみ”のレベルにあると言わなければならないほどに大きな違いがあるのだ。絶対的な忠実と相対的な愛には大きな違いがあることを、キリストは私たちに教えている。神に対しては絶対的な忠実と愛が要求され、それが第一のことである。相対的なレベルはそれよりも遥かに低いものなのだ。神を愛し、神を喜び、神への忠実を求めるようになったのは、罪から解放されたからである。罪人にはそれがわからない。

       パウロがローマ人への手紙1章で宣言しているように、神の啓示は明らかであって弁解の余地はない。しかし、罪人はそれに逆らい、無視し、避けるのである。感心がなく、無視して生きているけれども、神が彼らに直面するとき、そして彼らに申し開きを要求するとき、彼らの激しい感情はほとばしり、心に抱いていた憎しみが張り裂けるのである。

       バ−トランド・ラッセルは、はっきりと「私は神を憎む」と言ってはばからない。それでいて彼は「隣人を愛さなければならない」と言っている。おかしな話だが、そのバ−トランド・ラッセルの娘は本を書いて「なぜ私は隣人を愛さなければならないのか。それは理屈に合わないではないか」と言って父ラッセルに反論している。「父は、人間関係においては善人でなければならないと言うが、それは何故なのか。宇宙は偶然であり、私の存在も偶然ではないのか。そこに倫理が成り立つはずはない。すべては偶然から生まれたのだから。父は何を言っているのだ」と、ラッセルの娘は自分と父とのことについて綴った本の中で反論している。

       まさにその通りなのだ。バ−トランド・ラッセルの思想の根本に従ってその論理を完全に適用するならば、神を愛する必要もなければ、隣人を愛する必要もまったくないことになる。人間には特別な意味なんか何も無いからである。すべては偶然から進化したものでしかないことになるからである。「ゴキブリを愛さなければならないというレベルで人間を愛さなければならない」という以上の意味は何もないことになるのだ。バ−トランド・ラッセルは、その啓示があまりにも明らかなので、ますます神を憎むようになった。これが罪の本質である。東洋人の場合、啓示があまりはっきり与えられていないので、憎しみの自覚もない。しかし、無視すること自体、それは罪の奴隷状態の心から出る態度なのであり、クリスチャンになる以前の心から出ているものなのだ。

       クリスチャンは、その自己破壊的な神への憎悪の奴隷状態から自由にされた者である。私たちはキリストの似姿に新しく創造され、キリストのように本質的に父なる神を愛する者になった。神を愛することができ、神の似姿である人間を愛することができる。それが罪から解放される意味の本質である。しかし、それは私たちの問題の本質でもあるのだ。つまり、私たちは、神を愛し隣人を愛することができるようにと罪から解放されたにもかかわらず、その愛の足りなさ、言葉の足りなさ、思いの足りなさ、行ないの足りなさがあまりにも重くて深いものなので、自分の足りなさを思うときに「私は実に罪の奴隷だ」という言い方もできないことはないのである。

       だから、「罪から解放された」ということをはっきりと言わなければならない。同時に「罪の奴隷である」ということも言わなければならない。私たちの心は、自分が本来あるべき愛をもって神と隣人を十分に愛してはいないことを私たちに訴え、私たちの良心は私たちに逆らい、自分が神を愛さない罪を犯していると証言するのである。その両方を私たちは認めなければならないのだ。それは、私たちがクリスチャンになる以前には私たちを悩ませることのなかったものである。クリスチャンになったからこそ、自らの行動の真の動機や目的などに悩まされるのである。従って、私たちは自由であると同時に奴隷状態にあるのだ。神を愛しているのに、愛すべきほどには愛していない。罪を憎んでいるのに、罪を犯してしまう。そのような、まだ完全に自由になったとは言えない自分の中に、戦いがあるのを見出すのである。それがローマ人への手紙の6章と7章でパウロが教えようとしていることである。

       そこでパウロは、14節で、「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています」と言う。既に説明したように、これをギリシャ語の原語を直訳すれば、「律法が御霊的なものであることを知っている」となる。「御霊的なもの」という意味は、御霊が与えてくださったものだという意味である。その意味で「霊的」という言い方をしているのである。神の律法が幽霊のようなものだと言っているのではない。「霊的」とは「御霊が与えてくださる」ということである。それゆえ、それは「聖なるものであり、正しく、また良いもの」なのである。それは、神御自身の聖さと正しさを表わすものである。

       続いてパウロは、「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言っている。「私は罪人で、罪の下にある者である。だから、どうしても罪を犯してしまいがちな者なのだ」ということをパウロは言う。そして、その意味をパウロは15節以下で説明している。

     

    アイデンティティ

       既に説明したと思うが、「私には、自分のしていることがわかりません」という15節の文章は、正しくは「私は、自分のしていることを認めません」という意味である。「わかりません」という言葉は「知る」の動詞形であるが、この「知る」という言葉は単に「知識を持つ」という意味ではない。パウロは、自分がぼうっとしていて何が起こっているかがわからない、と言っているのではないし、幾つかの翻訳のように「私には理解できない」と言っているのでもない。なぜなら、後に続く文脈全体で、何が起こっているかをパウロは非常にはっきりと理解しているからである。大切なのは、彼が自分の行為を「認める」のを拒んでいるという点なのである。

       だからここは、「わからない」ではなく、「認めない」と訳すべきである。「認めません」とはどういうことかというと、「それは本当の私であることを私は認めない」という意味である。つまり、本当の自分は何なのかについて考えているのである。「それが私の本性であることを私は認めない」と言っているのである。パウロは自分の責任を否定したり、逃避しようとしているのではない。これはアイデンティティの問題なのである。

       完全にでも独占的にでもないが、私たちの行為は私たちを定義するものである。私たちは自分が何者かを己の行為によって見、また他者に自分が何者であるかを行為によって示すものである。政治家に関する常識では、「行ないは言葉より雄弁」と言われるように、彼らが何を言うかよりも、まず何をするかに注意を払うものである。同時に、私たちの行為が自分を欺くこともある。

       真の自分を否定するようなことを私たちは、いとも簡単に行ない得るのである。ペテロの例を通してこのことをはっきりと考えることができよう。ペテロがしていることとペテロのしたいこととの違いは、福音書の中にも使徒行伝の中にも、またパウロの手紙の中にも記されている。例えば、主イエス・キリストが十字架にかかられる前夜、弟子たちと夕食を共にしていたときのことである。ペテロはキリストにたとえ全部の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきませんと言った。すると主イエス・キリストはペテロに「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われた。それを聞いたペテロは、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った(マタイの福音書26章33〜35節)。

       「たとえ死ぬとしても、あなたから離れはしない」と断言したのである。それがペテロの本当にしたいことであった。固くそう決心していた。実際にゲッセマネの園でキリストが捉えられる時、側にいたペテロは剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落とした。ペテロは耳を切り落とすつもりではなかった。相手の首を切り落とそうとした筈である。ローマの軍人がいる所でペテロはそこまで勇敢に戦うつもりであったのだ。キリストに対して忠実であろうとしたのである。それがペテロのしたいことであった。やり方は間違ったり、賢くなかったかもしれないが、キリストに忠実であることがペテロの“つもり”であったのは明らかである。

       しかし、ペテロは、キリストを否定し、イスカリオテ・ユダと同じくキリストを裏切ったのである。キリストが裁かれている大祭司の中庭でキリストを否定し、キリストを裏切ったのである。それがペテロの行ないであった。キリストを裏切ったあとで、ペテロは自分のしたことについて考えなければならなかった。そして「これが私なのか。私は裏切り者に他ならない。私は、裏切り者でしかない」ということを認めなければならない時、そこでもまた二つの選択があった。

       「それなら、とことん裏切り者らしく生きよう」というのが一つの選択肢である。今土曜日のクラスで学んでいる「マクベス」はその選択をした典型的な例であろう。マクベスは殺人を犯して地位を得ると、もっと高い地位を得ようとして更に殺人を繰り返すようになる。「どうせもう人殺しになったのだから、ひとり殺すのも大勢殺すのも同じことだ」と思って、もっと極端に罪を犯すようになる。悪を行なうことによって始まったその道は、最後まで悪を行なうことによって強くされるというような生き方をするようになるのである。それは一つの選択肢である。その選択には、自分自身と自分の罪とを正当化しようとすることも含まれる。罪の言い訳をし、そんなに悪くないと主張し、あるいはそれを良いことであって相応しい行為なのだとさえ論じようとする。

       例えば、現代の神学者の中には、「ユダはキリストに行動を起こさせようとした失意の弟子であった」と、その裏切りを正当化しようとする者もいる。「ユダは、御力を現わさなければならない状態にイエスを置くことによって、御自分が何者であられるのかを現わさせようとしたのであって、決してキリストが十字架につけられることを意図していなかった」と彼らは解説するのである。彼らによるこのユダの正当化には、自己正当化も含まれているのではなかろうかと考える人もいるだろう。いずれにせよ、この種の自己正当化は、罪人が良心を悩ませる苦痛を感じないで罪にとどまり続けることを許すものなのである。

       もう一つの選択肢は、「私は裏切り者だ」と認めるときに、耐えられなくなって自らの生命を断つという選択である。真の自分を定義する行為として受け入れた罪の行為が自分の全的堕落を表わしていることに気が付いたとき、しばしば罪人は自己破壊を求めるのである。これがイスカリオテ・ユダの選んだ道である。イスカリオテ・ユダは自分の罪を見たときに、「これが本当の私なのだ」ということを認めて悔いたのだ。つまり、キリストに対する裏切りを自己を定義する行為として受け入れたのである。そんな自分を恨んで彼は自殺した。そのような失望的な自殺は、自分に対する落胆、失望、憎悪から出たものであった。

       自殺には、人に対する憎悪や憤りのゆえに復讐や抗議の意味で自殺する場合と、イスカリオテ・ユダのように自分が犯した罪を認めて苦しみ、自分に対する憎悪のゆえの自殺がある。事実イスカリオテ・ユダはずっと盗みをしていたが、最後までずっとキリストを裏切り通したのである。それで「これが自分だ」ということを認めないわけにはいかなかった。自らの罪深い行為を自己を定義する行為として受け入れるとき、人は自分自身を罪と同一視するのだ。生き続けるには余りに深く自己を忌み嫌ったためにイスカリオテ・ユダは自殺したのである。

       しかし、罪そのものの質を考えるのであれば、ペテロも同じような罪を犯したのである。三回もキリストを否定し、頑なにキリストを裏切ったのである。何度も話したと思うが、ペテロとイスカリオテ・ユダの違いは「悔い改め」にある。ペテロはその罪を犯した自分を心から憎んだ。そして、その罪の自分を認めないのである。キリストへの裏切りを真の自分を表わす行為とは認めないのである。決して自分の犯した罪を認めないのではない。自分がした行為を捨てるのである。自分がしたことを憎むのである。自分がやったことの責任を否定しているのではなくて、自分の罪の行ないを捨てるのである。

       それで自分のアイデンティティを持つことになるわけではない。「やったけれども、やるべきではなかった。私がやったことを私は憎みます。それを自分の外に捨てます。それを自分のものとしては認めません」という意味で言っているのである。確かにその罪は自分の中にあった。しかしそれは自己を定義する行為としてではなく、暴露されて廃棄されるために表わされなければならないものであった。

       そういう意味でペテロは、悔い改めて主イエス・キリストに立ち返り、「私はキリストの弟子です。心からキリストを愛しています」という自分を認知するのである。罪を悔い改めて捨てるという意味で罪を認めているけれども、その罪が本当の自分のものであることを認めないのである。ペテロは、自分のアイデンティティを主イエス・キリストとの関係においてはっきりと持ったのである。

       ペテロは、主イエス・キリストに従うつもりでいるし、従いたい思いを強く持っている。けれども、ガラテヤ人への手紙2章のところでパウロは別のことでペテロを面と向かって非難したことが記されている。その時ユダヤ人と異邦人が一緒にいるのに、エルサレムから来たユダヤ人が別のテ−ブルで食事をしていると、ペテロはその割礼派の人々を恐れて、ユダヤ人と一緒に食事をし、異邦人から身を引いて行ったからである。ペテロは、自分もユダヤ人だから、ユダヤ人と一緒に食べたほうがよいと思ったのであろう。間違ってそうしたのである。ペテロは心の中で異邦人を憎んでいるとか軽蔑していたわけではない。そうすべきかと思って間違ってしまったのである。その場でパウロは立ってペテロを叱ったのである。「これは、福音を否定する行為ですよ」ということをペテロに言わなければならなかった。

       つまり、ペテロは心の動機において悪いことをしようとしたわけではなく、キリストに忠実に従うつもりでいたが、大変な過ちを犯したということであった。それで、パウロはペテロを叱り、ペテロの行動は福音そのものを完全にだめにするものだということを説明しなければならなかった。その出来事は聖書の中に書き記され、2000年経った今日になっても私たちはペテロの間違いについて読んでいるのである。大変な間違いをしたけれども、心においては神に従っているつもりなのである。そういう意味でも、自分のしたいことと自分が行なっていることがいつも一致するわけではない。ペテロはキリストの御言葉を否定するつもりは毛頭ない。しかし、過ちでそれをしてしまった。パウロが指摘しなければ、ペテロは気付かなかったであろう。

       また、使徒行伝10章の中にもペテロの失敗が記されている。カイザリヤにコルネリオという神を畏れている敬虔な百人隊長がいて、神を求めていた。神はペテロに幻を見せた。大きな敷布の中に地上のあらゆる種類の四つ足の動物や這う物や空の鳥などがいるのをペテロは見た。そして、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。ペテロは「主よ。それはできません。私はまだ一度もきよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と答えた。ペテロはそれほど深く考えないで、素直に自分の思いをそのままもって神に応えたのである。神が「こうしなさい」と言うと、ペテロは「いいえ」と応えたのである。

       ペテロは福音の働きでヨッパにいたので、神に従う心があったのは間違いない。御霊に導かれて福音を伝えている時である。「食べることはできません」と言ったのも、神の御言葉に従っているつもりで言っていることなのだ。自分の理解が不十分で、福音の理解が足りないから、神に「これをしなさい」と言われたときに、神の栄光のために、神の御名のために、そして神に忠実に従うつもりで「それはできません」と言っているのである。しかし、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と諭され、異邦人を遣わしたのが神であることを知らされて、ペテロはコルネリオの家に行って福音を伝えたのである。

       話を弟子たちとの最後の夕食のところに戻すが、そこで主イエス・キリストは弟子たちの足を洗いはじめた(ヨハネの福音書13章)。ペテロのところまで来たときに、ペテロは「主よ。決して私の足をお洗いにならないでください」と言った。ペテロは他の弟子たちよりも自分の方がキリストに忠実になっているつもりなのである。他の弟子たちの何人かがキリストに足を洗うのを許したあとで、ペテロは「そんなことをさせるわけにはいきません」と言う。そう言って自分は他の人たちよりもキリストを愛していることを表わしたかったのである。恐れおののいて「決して洗わないでください」と言ったのである。しかし、キリストが「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と答えると、ペテロは「主よ。足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言う。それも的を得ない反応であった。良い心をもってキリストに従おうとするのだが、何をやってもだめだった。

       いろいろなかたちにおいて間違いをしてしまう。いろいろなレベルでも間違いをする。何をやっているつもりなのかというと、ペテロは神に従って神の御国を求めているつもりなのである。けれども、することなすことがことごとくあべこべになってしまうのである。キリストを三度否定したあの罪は本当に大変な罪であった。ここで、キリストが足を洗おうとするのを拒絶したことも、ある意味では罪と言えるかもしれないが、これはむしろ誤解と無知からの過ちであったと言えよう。キリストに対する愛を間違ったかたちで表わしてしまっている。

       使徒行伝10章にあるのもそのような間違いであった。ガラテヤ人への手紙2章では、福音に対する理解において大変な過ちをしている。熱い心をもってキリストを愛している使徒ペテロでさえも、そのように自分のしたいことと自分のしていることにおいて大きなギャップがあることが聖書に明記されているのである。それゆえ、私たちも、いろいろな意味において神の栄光を求めているつもりなのに過ちを犯したり誤解をしたりするものであるのは事実である。神の栄光を求めているつもりなのに、その場で罪の心に負けて罪を犯してしまうこともある。これは、パウロが言っている意味の一面であると思う。

       パウロが言っている意味については、もう一つのレベルをも考えなければならないと思う。例えば、ここに集まって礼拝する中で、私たちはどこまで本当に心から神を求めているのか、どこまで自己中心的な思いになっているのか、どこまで無関心でいるのかといった問題がある。それがどこまでなのかを私たちはそれほど深く理解していないし、理解できないものも沢山あると思う。しかし、もし、神の観点から私たちの礼拝時の心を露にすることができるとしたら、その足りなさは恐ろしいほど沢山あるということを私たちは認めないわけにはいかない。その暴露された自分の心を見せつけられるとき、「私は、ここまで質の低い礼拝をささげるつもりはなかった」と思うに違いない。

       礼拝をささげるとき、真心をもって神に礼拝をささげているつもりでいるはずだ。けれども、いろいろな意味において礼拝において私たちは実に足りないものである。思いにおいても、神を慕う心においても、心を集中させる度合いにおいても、感謝の心においても、祈りにおいても、その他諸々のことにおいて、私たちの礼拝は非常に浅くて足りないものである。特にパウロはそのレベルのことについて話しているように思うのである。

       パウロは福音を伝え、懸命に神の御国のために働いている。その中でバルナバと激しい喧嘩をした。その喧嘩の内容は、どのような戦略をもって御国を求めるべきかというようなものであった。激しい反目となり、二人は別行動を取ることになった(使徒行伝15章39節)。そのことは、最終的には神の御国の前進のためには良い結果をもたらしたと言えるが、喧嘩の中味がすべて良かったという筈はないのである。パウロは、御国の栄光を求める働きの中で、自分の心のいろいろな足りなさを深く感じているのである。私たちがそこまで感じないのは、そこまで成長していないからである。自分に対する要求のレベルが低ければ低いほど、あまり感じないものなのだ。自分の心、言葉、行ないに対する自分への要求が深ければ深いほど、自分の足りなさを感じるものなのである。

       しかし、自分に対する要求はどこから来るかというと、御言葉の鏡を見て自分を正そうとするところから来る。鏡を見なければ、どこが汚いのかもわからない。直すべきところがどこなのかも感じない。鏡を見るとき、汚い所や乱れたところが目につくので、直そうという気持ちになる。鏡で見なければぜんぜん気付きもしないし、わからないのである。街を歩いていて笑われるかも知れないが、自分では気付かない。

       御言葉は、私たちの心の足りなさを表わす鏡である。御言葉を通して自分の足りなさを悟り、それを直すのである。御言葉の読み方が浅ければ、自分の問題に気が付く度合いも浅いものとなる。思いが浅く、心全体が浅ければ、読むことにおいても理解においてもすべては浅くなる。成長も遅くなる。そして、いつかは、そのことをも感じさせられ、悟らされるのである。

       それで、パウロがここで「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言うとき、実にそのとおりだということを感じるのである。そして、自分の罪を憎み、自分の罪を自分と同一視することを認めないのである。そして、心においてあまり自分の罪を真剣に考えなかったり、不親切な言葉を口から吐いたり、実際に悪いことをしてしまったりする自分の行ないを見るとき、「私はそれを認めません」と告白するのである。「認めない」というのは、それが自分が望む自分の姿ではないということである。成ろうと思っている自分の姿ではない、という意味である。その自分を捨てるという意味である。「それはあなたのものですか」と問われたら、「いいえ。それは塵芥です。私はそれを捨てます」と言うのである。

       そのような認識をもって自分の心や態度などを吟味して、それと戦わなければならないのである。そのことをパウロは教えていると思う。それだからパウロは「私は、自分のしていることを認めません」と告白して、「私は自分がしたいことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです」と説明しているのである(15節)。続く16節でパウロはこう言っている。

    もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

       律法が良いのか、自分の行ないが良いのか、そのどちらかを認めなければならない。律法が良いと認め、神の律法は正しいと認め、自分は正しくないと告白するとき、それは自分を否定し、自分を認めないことなのだ。そうするとき、私たちは神の側に立っているのであり、罪の側に立っていないのである。結局、どちらの側に立って自分のアイデンティティを持つかという話になるのだ。罪を犯してしまうとき、それが小さな罪であれ大きな罪であれ、私たちがその罪の側に立つなら、それはキリストを捨てることになってしまうのである。

       罪人であるから罪を犯してしまうのはどうしても避けられないことである。けれども、その罪を捨て、罪と戦い、「私はあくまでもキリストの側に立ちます。罪を悔い改めてキリストに戻ります」という生き方をしている限り、律法が良いものであることを認めているのだ。律法の正しさを喜び、神の側に立っているのである。そのような者は「それが本当の自分です」という告白から決して離れはしない。それが非常に重大なことなのだ。

       罪を犯してしまうとき罪人はがっかりしてしまう。箴言24章16節に「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる」とあるが、一日に七回すべって倒れた人がいるだろうか。それこそ疲れてしまうだろう。「起きてもまたどうせ倒れるのだから、もうこのまま横になっていよう」と思いたくなる。どうせまた倒れるなら、もう起きるのやめようという気持ちになる。パウロが言っている自分はそうではない。「いくら倒れても関係ない。私の本当の姿は立っている姿である。倒れているのは自分の姿ではない」という認識を失ってはならないのである。がっかりして戦うのを止めてはならない。「また私は失敗した。また愚かなことをしてしまった。また私は罪を犯してしまった。やっぱりもう直る望みはないのだから、このままここに立とう」と思ってはならないのである。

       西洋の中には、神に逆らい、神を捨てた有名な人たちが沢山いる。だいたいがそこから始まっているのだ。カ−ル・マルクスはティ−ンエ−ジャ−の時にはクリスチャンであった。スタ−リンは若い時に神学校で学んでいた。本当にクリスチャンであったかどうかはわからないが、牧師になるつもりで勉強していた。他にも沢山の著名な人物たちが、若い時に御言葉を学んだりクリスチャンとしての生活を送っていた。しかし、年取ってからは真っ向からキリスト教に反対するようになった。なぜその人たちは変わったのだろうか。ほとんどの場合は、思想の闘いがあったり、いろいろな書物を読んだり思索にふけったりした結果、考え方を変えたということではなかったのだ。

       それよりも、罪との葛藤があってどうしても罪に負けてしまうから、それに耐えられなくなってしまい、自分を正当化するためには信仰をやめなければならなかったのが本当なのだ。悔い改めても悔い改めても、また悔い改めなくてはならない。また自分の罪の重圧に耐えなければならない。ついに耐えられなくなって神に逆らう者に変わってしまったのである。ほとんどの者は罪との闘いの中で神から離れていったのである。思想的な闘いがまず先にあって、罪の問題が後に来たということではなかった。罪との戦いで悔い改めるのに疲れたので、神を否定する道を選び、それを思想で固めようとしたというのが本当なのだ。

       実は、救われることについてもそうなのである。私が持っている一冊の本がある。それはクリスチャンになった哲学者たちに関する本であり、記事を書いているのはみな哲学者である。彼らはみなクリスチャンになった。どのようにしてクリスチャンになったのかというと、哲学を勉強している中で「聖書の哲学がやっぱり一番すばらしいから」と思ってクリスチャンになった人はまずいない。罪の問題で苦しんで救いを求めてキリストを救い主として信じた人もいるし、誰かの死に直面して考えさせられて神を求めるようになった人もいるし、自分の家族の問題を考えるようになってクリスチャンになった人もいる。哲学者たちの中で、哲学的なことを考えることによってクリスチャンになった人は一人もいなかった。

       思想的なことはどうでもいいと言っているのではない。それも大切なことである。しかし、神から離れることにおいても神を求めることにおいても、罪の問題が先に来るという事実を直視しなければならない。私たちは、ただ肉体を持っている脳ではない。考える機械ではない。人格には感情もあり、意志もあり、考えることもあり、生活したりする。人格の意味は考えることよりもずっと広いものなのである。考えることをやめてはだめだが、考えるだけでは人格は成り立たない。どうしても罪に負けてしまい、何回も何回も負けていると、自分が何者なのかがわからなくなってしまう危険性がある。

       倒れた状態の方が多いので、「立ち上がった姿は私ではない。倒れている姿が本当の私なのかもしれない」と思って、がっかりして、キリストを捨ててキリストから離れてしまうような人がいる。最終的には、その離れていく者は結局そのとおりの人間であったことになる。つまり、その倒れた姿がその人なのだと言える。それはクリスチャンが至る結論ではない。

       ペテロの場合、いくら倒れても、「もう疲れた。もうやめた」と言うことはできない。大変な失敗を繰り返すとしても、必ずそこからまた立ち上がって従うのである。ヨハネの福音書13章以前にもいろいろな失敗をしており、剣を抜いて失敗し、キリストを立て続けに三回も否定してしまい、その後も21章ではキリストを待つのに疲れてがっかりして魚を捕りに行ってしまうが、そこでも再び失敗をしてしまった。使徒行伝では、福音を伝えている中で失敗してしまう。ガラテヤ人への手紙2章でもまた失敗する。何回も繰り返し失敗して倒れてしまう。良いことをしようとすると倒れて横になってしまうようなかんじである。そのようなペテロが、最後までどうして神から離れなかったのかというと、神を信じているからである。

       キリストを信じているので、どんなことがあっても、そこから離れることはできないのである。失敗しても、足りなくても、愚かで未熟であることが暴露されても、絶対に主イエス・キリストから離れることはできないのである。だから、悔い改めて、「どうか赦してください」と、もう一度祈るのである。もう一度、神の御恵みを求めるのである。「もうたくさんだ」という思いになることはない。「私は悔い改めます。そしてあなたに従います。どうか、私の罪を赦してください」と求めるのである。そして、それが現実なのだ。これほど現実的な話はない。

     

    主の晩餐

       先週の日曜日、皆さんは聖餐式を受けたときに「私は神の御国のために生きます」という誓いを新たにしたはずだ。それで、月曜日から土曜日まで、失敗はあったのかというと、「無かった」と言える者は一人もいないであろう。そうするつもりではなかったけど、そうしてしまったことがあった。日曜日の時点では、そのような一週間になるとは思ってもみなかった。もっと良くできると思っていたし、そうするつもりであった。中には、「先週はわりとよく出来た方だ」という人もいるかも知れないが、そうであっても自分の足りなさはいろいろあった筈であり、それを認めなければならないのである。今週も同じことになるであろう。それが現実である。

       クリスチャンになってから、いったい何回罪を悔い改めただろうか。5年経ち、10年経ち、20年経ち、50年経つ中で、何回罪を悔い改めたことがあるだろうか。実に、毎日のことのようではないか。毎日戦っている。それで疲れないのか。もういい加減戦いを止めてもよいのではないのか。自分がそのように罪を犯すものだということを認めて、素直に「私はそのような者なのだから、もうこれでいいのだ」と言えばよいではないか。「それでも比較的に見れば、それほど悪くもないのではないか」と思えばいいのではないか。そう思えばその終りのない戦いから解放される。人間はそのレベルで考えてもよいのではないのか。戦いが無い方がよいのではないか。神さえいなくなってくれれば直ちに解放されるではないか。そのように罪人は考えるものである。

       そして、西洋の哲学や文学を読めば、そのように思ってキリスト教を捨ててしまう人たちが沢山いるのを見る。しかし、その証しは消えずに残っているのである。心の中では神から解放されて自由になったというつもりではいても、道を歩けば教会が目に入るし、「あなたは悪い」ということをどうしても感じるのである。他の人が膝まずいて悔い改めているのを見るとまたも自分が悪いのを感じてしまう。文学者とか芸術家や哲学者たちは神に対する憎しみに燃えているのはそのためである。「神さえ最初からいなければ、私は喜ばしい人生を過ごすことができたのに。自分を憎む気持ちを少しも持つことはなかったのだ。すべては神のせいなのだ」とはっきり彼らは言うのである。

       「自分を憎まなければならないなんて御免こうむる。いやだ」と叫ぶが、結局そこからも解放されることはない。キリストを信じて新しい自分になることもできないし、解放されることもない。そのような状態の中で罪人は神を激しく憎むのである。それは、神から離れた後の西洋人の文学などを見るときにはっきりと見られる姿である。神について教えられるようになった時から、もう逃げられない。その真理の輝きはいつまでも残るからである。それで、自分を憎んで神に逆らうか、自分を憎んで罪を悔い改めて神の側に立つかという、二つの選択肢しかないわけである。毎日のようにその選択が私たちの前に置かれているようなものである。

       特に聖餐式はそのようなものである。主の晩餐という週ごとの祝宴は、自分を神につくものと見做すか、それとも罪と同一視するかを選ぶ場に私たちをいつも連れて来てくれる。私たちは神と共に立って罪を悔い改めるか、或いは、神の御恵みを拒んで罪から離れないでいるか、どちらかの選択を迫られる。そこには第三の選択肢は存在せず、ただ逃避することもできない。毎週神の御前に立ち、神への信仰に反するそのような考えや態度、行ないを拒むとき、私たちは心の最も奥深いところにある自己を改革するのである。私たちは魂のゴミを捨て去り、自らをキリストの側に立つ者として見做す。

       この過程によって、徐々に、人を変え給う神の御霊の恵みを通して、私たちは真にキリストにある自分に徐々になっていくのである。聖餐式は、神が私たちに与えてくださるものである。そのパンはキリストの御身体を表わし、ぶどう酒はキリストの血を表わしている。そのパンとぶどう酒を受けるということは、「私は主イエス・キリストと一緒に立つ」と告白することなのだ。「私は、自分の罪を捨てます。本当の私はキリストとともに立つ自分である。罪を犯してしまった自分は本当の自分ではない。自分は罪の側には立たない」とはっきり告白して選択しているのである。

       聖餐式を受けるたびに私たちは自分の罪を拒絶してキリストの側に立つことを選んでいるのだ。七回倒れても、聖餐式を受けるということは、八回目に立ち上がることなのである。月曜日から土曜日までに七回倒れても、聖餐式のときに八回目に立ち上がるようなものなのである。聖餐式の意味をそのように覚えて、キリストの側に立ち、自分の罪を捨てるのである。その意味において、聖餐式は感謝して受けるものである。これも7章24節と25節に出てくることである。

    私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

       キリストが私たちを救ってくださるので、キリストに対して感謝するのである。それだから、「もうこれからは二度と失敗はしません。もう大丈夫です。私は、これからはもう何も悪いことはしません」ということなのだろうか。そうではない。ただ神に感謝するけれども、実際に戦いは続くのである。

    ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

       まとめとしてパウロは、25節の後半でそのように言っているのである。戦いはまだ続いているのである。私たちが喜ぶことができるのは、「キリストのゆえに」である。感謝ができるのも「キリストのゆえに」なのである。自分のアイデンティティは主イエス・キリストなのだ。心において神に仕えるものである。そのことは絶対に変わらない。

       実際の生活において私たちは失敗するであろう。しかし、心は神の側に立っている。それがパウロの最後のまとめの意味することである。私たちの聖餐式もそのようなものである。主イエス・キリストに戻って、感謝をささげ、心において「私は神に仕える者です」という明確なアイデンティティに戻って聖餐式を受けるのである。

     

    ――2000年5月14日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙7章14〜25節 (1)

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