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    ローマ人への手紙7章14〜25節(1)


    7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

    7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

    7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

    7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

    7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

    7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

    7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

    7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

    7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

    7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

    7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

    7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

    2000.04.02. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    罪の奴隷?

    7章14〜25節

       フロイト心理学の背景には二人の人物がいるということを以前にも説明した。その二人とは、シェークスピアとモーセである。モーセは律法を与えた。その十戒は善と悪を明らかに啓示している。そして、613の命令において更に細かく教えている。それが善と悪の規準となっており、ヨーロッパのユダヤ人の間でそれは善と悪の基本的な認識としてある。彼らはクリスチャンではないので、その規準は彼らにとってプレッシャーとなっている。モーセの律法はとにかくとてつもなく大きな存在であって、「こうしなければならない。こうしなければだめだ」という思いが心理的にかなりのプレッシャーになっている。フロイトもその認識を持つ一人であってモーセを憎んでいた。

       フロイトは「モーセ」という本も書いてモーセを非常に偏屈な人物として描き、「モーセはエジプト人であってユダヤ人ではなかった」と言っている。とにかくモーセに関するフロイトの解釈は狂っている。私が読んだ本の著者は、「フロイトはモーセに反論しなければ自分が成り立たないから、とにかく反論するしかないのだ」とコメントしている。フロイトが憎むもう一人の人物はシェークスピアである。なぜシェークスピアを憎んでいたかというと、自分の言いたいことのすべてがシェークスピアの書物の中で既に書かれているからである。自分が生まれる数百年も前に自分の考えが全部シェークスピアに盗まれていたとでも言いたげな恨み妬みをフロイトはシェークスピアに対して持っていた、と彼はコメントしている。

       シェークスピアの書物は非常に深い人間心理を描写している。その心理的な深さは西洋文学史の最高峰であり、中心の中心とでも言うべきものである。その著作は西洋文学の規準となっている。キングジェームズ訳聖書とシェークスピアが“英語そのもの”と言われるほどである。英語を学ぶとき、それを規準にして学ばなければならないほどに歴史的に文学規準として認められている。それで、他の文学はそれに逆らったり、その真似をしたり、そこから取って新しい表現を創出しようとしたりしている。それでも、今に至って依然としてその二つは文学の中心として認められている。それは非常に深いものであって広く深く時代と社会に影響を与えている。その人間心理に対する洞察はどこから来たのかというと、新約聖書からであった。つまり、シェークスピアの背後にはパウロがいるということである。

       聖書の中で人間心理を最も深く紹介している人間がパウロである。パウロの手紙の中に出て来る人間心理に関する教えは、深くて複雑で、西洋歴史に非常に大きな影響を与えている。パウロが書いた手紙の中でこのローマ人への手紙7章は有名な箇所の一つであって、いまだに熱く論争を呼ぶ箇所の一つである。宗教改革者たちの見解は、パウロがここで述べているのはクリスチャンとしての自分自身の経験であり、それ故これはクリスチャンの典型的な経験である、というところで一致していた。

       しかし、現代の彼らの後継者たちの中には異論を唱える者もいる。オランダ系の有名なパウロの専門家ハーマン・リダボス(Herman Ridderbos)は、この14〜25節の箇所を、パウロがクリスチャンになる前の話だとして解釈している。最近非常に大きな注解書を出したダグラス・ムーという人も、同じようにこれはまだクリスチャンになっていない時のパウロの話だと解釈している。この二人の影響が極めて大きいために、今そのように考える人は少なくない。なぜそのように解釈するのかというと、14節を見てほしい。

    私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

       ここでパウロは、まるで罪の奴隷であるかのように自分について言っている。15節でも「私は・・・自分の憎むことを行なって・・・」と言っている。しかし、6章のところでパウロは、「主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは罪から解放されて、義の奴隷となったのです」と教えているのだ。義のしもべになっているのであれば、どうして「罪の下にある者です」という言い方ができるのか。罪の方が命令を出し、パウロはその命令に従わなければならないようなことなのだろうか。またパウロは、「私は、善を行ないたいのにそれを行なうことができない」と言っている。「これが“義の奴隷”となった人間の話なのだろうか」と、彼らは訴えるわけである。しかも、パウロは更に次のように語っているのだ(18〜19節)。

    私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

       自分はどうしても本当の意味で善を行なうことができないと言っている。23節では「私を・・・罪の律法のとりこにして」と言っており、更に24節で、

    私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

       と叫んでいるのだ。「いったい、これが救われた者の言うことだろうか」と思うわけである。「これは、当然クリスチャンになる前の状態か、それともクリスチャンになりかけている状態ではないか」と思うのである。これらの表現はそれ自体ではまだクリスチャンになっていない人間を描写するのに使われ得るものであるのは事実である。しかし、パウロがそれらを使っている文脈において見るなら、それらは異なった意味を持っていることがわかる。

       数週間前に話したクリスチャンになる前のジャン・バニヤンの話を思い出してほしい。律法の要求が何なのかがある程度わかっている。わかっているので、それに対して何かしなければならないという気持ちになったのだ。その時に、「どうしてもできない。私は駄目な人間だ。私はみじめな罪人だ」ということを悟ることによって、初めて救いに導かれるというのが彼の「天路歴程」の話なのである。確かにそのような考え方があるのは事実である。

       細かく言うならばこの14〜25節の箇所には少なくとも七つの違う解釈がある。その七つの解釈というのは簡単に言うと、クリスチャンになる前の人、クリスチャンになった後の人、そしてクリスチャンになる前の状態とは成りかけている状態なのかそれとも普通のクリスチャンではない状態なのか、ユダ人なのか、異邦人なのか、パウロ自身の経験なのか、それとも一般論としての経験を語っているのか等々である。しかし、基本的には、クリスチャンになる前の状態なのか、クリスチャンになった後の状態なのか、というのが一番大きな論点となっている。

       先に説明したように、この箇所をクリスチャンになる前のパウロのことと解釈して読んだとしても、基本的に神学的な観点からすれば間違った考えをしていることにはならない。つまり、クリスチャンになる前であっても、人間にはそれぞれ良心があって、ある程度心の中で善と悪との戦いがあるのは事実である。御霊の働きがその人の上にあれば尚更のことである。それで、その人は「ああ、私はみじめだ」と感じて、救いを求めるようになる。そのような解釈は不可能ではない。だから、そのように解釈したからと言って神学的には大きな間違いを教えているわけではない。

       アウグスティヌスも若いときにはそのように解釈していたのだ。クリスチャンについて語るとき、「罪の下にある者」というような言い方はとてもできない、と思うのである。「善を行ないたいのに、その行ないたい善をどうしても行なうことができない」という訴えも、クリスチャンの訴えである筈はない。アウグスティヌスも若い時にはそう思っていた。

       しかし、アウグスティヌスがクリスチャンとして歳を重ね、経験を積み、更に研究を続けるにつれて、彼はこのローマ人への手紙の7章についてその考えを変えたのである。年老いたアウグスティヌスは、13節から25節までの箇所について、これはクリスチャンになる前のパウロの経験ではなくて、クリスチャンの歩みを描写したものであり、クリスチャンになった後のパウロの経験であると考えるようになった。そして、その年老いた時のアウグスティヌスの解釈の方が正しい解釈だと思うのである。

       この箇所を、クリスチャンになる以前の状態だと解釈するとしても、それで神学的な間違いになるとか、人間の救いについての考えにおいて間違いだというわけではない。だから、どちらの解釈をするにしても神学的には大きな違いがあるわけではない。しかし、どちらの解釈が正しいのかというと、「これはクリスチャンになってからのパウロのことだ」と考える方が正しいと思う。そして、そのことを疑う必要もないと思う。また、これがクリスチャンの歩みであると言っても、勿論それはクリスチャンとして生きることのすべてではないが、それは罪と戦うクリスチャンの心の深い部分なのである。

       なぜ論争になるかというと、「罪の下にある」とか「善を行ないたくても行なえない」とか「ああ、私はなんとみじめな人間なのか」というような悲痛な叫びがあるからである。そのような叫びを見ると、とてもクリスチャンとは思えないからである。しかし、私たちがこの描写をクリスチャンの生き方の一面として正しく理解するは極めて大切なことなのである。

     

    キリスト者の歩みと罪

       そこで話を元に戻すが、ここでパウロは、人間心理の奥深くにあるもっとも複雑なところにメスを入れているのである。単純に考えれば、確かに罪の下にある状態はクリスチャンになる前の状態であり、救われた状態は義の下にあるのであって恵みの下にある。その事実に何ら変わりはない。パウロは6章で既にはっきりと説明している。

       その6章に書いてあることが、ここに来て取り消されているわけではない。6章に書いてあることを土台として、その土台の上に立って更に深く心の奥にメスを入れて、その複雑な状態の説明を付け加えているのである。その、より深い複雑なところにメスを入れなければ、この7章の箇所は単にクリスチャンになる前の状態として解釈され、6章よりも深くて複雑な心の問題を取り扱わないような解釈になってしまうことになる。神学的な間違いはないにしても、心のもっと深いところの問題を扱わないことになるのだ。

       パウロは6章の基礎の上に立って、更に、もっと複雑なことを言おうとしているのだ。この7章は、文脈においてそのように位置付けられるものである。そして、これは私たちにとって極めて大切なポイントになると思うのである。だから、聖書の心理学においてこれは非常に大切な箇所であり、本当はクリスチャン一人ひとりが成長するためにも、非常に大切なところなのである。はっきり言えば、ハーマン・リダボスやダグラス・ムーのように解釈する人たちも、アウグスティヌスほどに長生きすれば、最終的に解釈を変えてくれるはずだと私は思う。

       アウグスティヌスは、クリスチャンとして長年自分の罪と真剣に戦った人間として、その自分の経験とパウロが話していることを注意深く見比べたりすることによって、パウロが言わんとしている深い意味を悟ったのである。若い熱心なクリスチャンがこの箇所を読むときに、「いや、私は絶対に罪に勝つぞ」と思うに違いない。そして、「これはクリスチャンになる前のことだ。私はもう既に勝利を得ているのだから、こんなことにはならないぞ」と、元気いっぱいにこの箇所を解釈するに違いない。

       若者のとらえ方としてはそれでもよいと思う。しかし、実は、罪と戦って神の御国のために生活を送るとき、罪との戦いにはいろいろなレベルがあるということを、年取るにつれてわかるようになるものである。そして、「勝利を得る」ことにも、いろいろなレベルがあって、いろいろな領域もあるということがわかって来る。

       罪と戦って勝利を得ることは、ある領域においては簡単にできる。すぐに打ち勝って喜びに満たされるであろう。しかし、違う領域においては、戦っても戦ってもなかなか前に進むことができない。そういう領域もあるのだ。或いは、表面的にはすぐに勝利を得たけれども、戦いは更に深くなっていくこともある。最初のレベルで簡単に勝った。第二のレベルでも勝利し、第三のレベルでも勝利した。しかし、第四のレベルがあるとは思ってもみなかったのに、第三のレベルで勝利を得て喜んでいる時に、もっと深く見てみると、更に深く罪の戦いがあることを知らされるのである。そのレベルになると、思うようにはなかなか勝利が得られない。そして、もっと奥にメスが入ると、先にはまだまだ幾つものレベルがあることを知らされるのだ。

       今私は抽象的な言い方をしているが、大人のクリスチャンなら抽象的な説明でも話のポイントは十分に理解していただけると思う。今、子どもたちは「何の話をしてるのかな?」と思っているかもしれない。ここでは、パウロは、罪と戦うクリスチャンのその深いレベルと領域について話しているのである。

       私が学生だったのは60年代の頃であった。クリスチャンになる前の私は、日常生活の中で普通の大学生と同じような言葉遣いをしていた。当時の大学生は反抗的で、悪い言葉を好んで使うようになっていた。クリスチャンになってからは、そのような言葉はもう口から出なくなった。さして戦いもなかったし、牧師と話しているときに悪い言葉が飛び出して来るようなこともなかった。信じた次の日から、悪い言葉が全部きれいさっぱり消されてしまったかのように、戦う必要もなく全部頭から消えてしまったのである。頭の中に悪い言葉があって、それを使うまいとして戦うようなことは一度もなかった。夢の中でも悪い言葉は出てこなくなった。そのレベルでも、クリスチャンになる前には罪の奴隷であったが、クリスチャンになってからはそこから解放されて、本当に自由になったと実感した。

       自分でもあまり意識していなかったが、少し時間が経ってみると、生活の中での自分の言葉がどんなに違うものになっていたかが自分でもはっきりと気が付くようになった。そんな自分を見て、とても楽しかったのを覚えている。実に感謝であった。「なんていいんだろう」と思ったりした。「このままクリスチャンとして生活していけば、五年や十年経ったら、どんなに自分はすばらしい人間になってることだろう」と思ったりした。私は、そのような単細胞な若者であった。簡単に勝利が得られると思っていたのだ。その時にこのローマ人への手紙の7章を読んでどう解釈したかは覚えていないが、おそらく「ああ。クリスチャンになる前のパウロは大変だったんだな」と思っていたに違いない。いろいろなレベルと領域があることは知らなかった。

       大学を卒業してから大学院で心理学を専攻したが、その頃から本格的に聖書を勉強しはじめた。聖書のクラスに毎週通って勉強したが、私にとっては非常に難しかった。ある日、夜遅くまで勉強していた時に、近所からロックの音楽が流れてくるのが聞こえて来た。夏なので窓を開けて勉強していたが、そのロックの音楽がずっと耳につく。何かパーティでもやっているのだろうと思って、ついに誘惑に負けて外に出てみた。「何をやっているのかな」と思って覗いて見たら、なんとそれはペンテコステ派の礼拝だった。本当に叱られたような気持ちになって自分の部屋に戻り、また聖書の勉強をした。

       そのようなパーティの音楽の誘惑に負けたという実に単純なレベルでの一例だが、そのように領域での戦いがあったり、すぐに解放されるような戦いもあるということである。領域の問題もあり、レベルの問題もある。そのことを覚えてこの箇所を読めば、解釈はそれほど難しくはないと思う。ようするに、戦いの複雑さを覚えることが非常に重要だということである。

       6章でパウロは「罪から解放された」と言うが、7章になると「私は罪の下にある」と言う。この両方とも事実なのだ。ある意味で解放されており、ある程度までは解放されている。ある領域において解放されているのは明白過ぎるほどに明白なことである。同時に、罪との戦いは死ぬ日まで続くのである。そして、がっかりしないでいただきたいが、戦いはもっと激しくなるのである。クリスチャンであっても罪を犯すことがあることに疑いの余地はない。そして、罪から自由になりたいと願っていることも疑いようのないことである。そして、その願いは信仰が進むにつれて深まっていく。成長するにつれて、律法の要求の意味を深く理解するようになり、自分の心の罪深さについての理解も深まっていく。

       クリスチャンの外面的な成功も失敗も、内面の闘いがより激しいものとなるのに伴ってもたらされるのである。そのような罪深さの事実について否定する者がいるとしても、それは極めて僅かである。学者たちが、「ローマ書7章13〜25節はそのような経験を指しているのではない」と主張するとき、彼らは普通クリスチャンがそのような闘いに直面するという事実を否定しているのではなく、パウロがそのことをこの段落で話していると解釈することに反対しているのである。パウロの言葉遣いが非常に強いので、これは救われたクリスチャンの経験を描写するにふさわしい状態を越えていると彼らは考えているのだ。

       しかし、パウロがその言い方を用いているところの特定の意味において、私たちは罪の奴隷であり、みじめな者なのであるのは紛れもない事実なのだ。私たちは完全に罪から解放されることを切望するが、自分が憎んでいるまさにその罪を自らが犯していることを見出すのである。私たちは、自らの罪の事実によって、更に深く悩まされるようになる。それによって、罪からの解放を求める祈りがより切実で熱心なものになる。しかも私たちはその意味においては自由ではない。闘いは続き、私たちは戦いの痛みや傷に耐える中で成長していくのである。

       それが私たちの本当の状態であるならば、パウロの言葉は極端だとどうして言えるだろうか。クリスチャンになった後のパウロの経験としてこの箇所を解釈することは、私たち自身の経験にも適合するという事実に加え、パウロがこの箇所においてずっと現在形で語っているというはるかに重要な事実を考慮する必要がある。パウロが「私」を何度も繰り返し、自分の考えや行ないを例外なしに現在形で述べているのに、彼が自分自身の現在の経験を私たちに伝えていると考えるべきでないと言うなら、パウロは如何にしてそれらを私たちに伝え得るのか、想像することは困難である。これが明白でないなら、このような要点を明らかにするために彼に何が言えただろうか。

     

    クリスチャンの心理

       クリスチャンの心の複雑さへの洞察をパウロは私たちに与えている。「クリスチャンの歩みとは混ざりけのない喜びと幸せの人生である」と考えたい人々にとって、それは受け入れがたいものかもしれない。しかし、パウロは、その歩みを苦痛と悲しみが入り交じった幸福と喜びの人生として示している。クリスチャンの人生は、一方では罪と裁きから解放された人生であるが、もう一方では、内に住む罪の力のゆえに苦しむ、罪との闘いの人生でもあるのだ。私たちには勝利をもたらす聖霊の力が与えられているが、同時に、私たちは助けを神に呼び求めなければならないみじめな罪人なのである。

       そのような心理的に複雑な状態を描く聖書の教えは、心理的に深い文学を生み出す基礎となっている。その文学の中心的なところは、心の中にある戦いと外との戦いとのつながりの描写である。外の目で何がどうなるかを見るのではなくて、自分の心の中にある罪との闘いと、その闘いの外に対する影響を見るのである。つまり、これは“恥”を中心とするような文化、文明、文学ではなく、罪と罪の影響、その罪に対する心の中での闘い、そして実際の生活に対してその罪がどんなに悲惨な破壊を与えるかについて考える文化、文明、文学なのである。その違いがある。

       例えば、オセロの場合は、悪者に騙されて、自分の妻に対する信頼を失い、最終的にどんなに悪い結果になったかを表現している。それは実に深い心理を表わしている。マクベスの場合は、心の中に野望があって、周りの事情がその野望を許すというよりは励ましている。それに負けてしまったことによって社会全体がどんなに酷い影響を受けたかを描いている。リチャード三世は、誘惑に負けたというのではなくて、実に悪そのものとして描かれている。悪人がどのように善人を騙し、利用し、また他の悪人を利用したりして自分の野望を遂げるか。そして、悪を大胆に行なう者がどのように破壊されていくかを描いている。リヤ王は善人であった。その善人が、大変愚かなことをしてしまう。その愚かな行ないの故に、社会の人間関係や自分の心の中で壮烈な戦いが起こっていく様をシェークスピアは描き出している。

       そのように、シェークスピアの劇作において、いろいろな人物像、いろいろな心理状態が浮き彫りにされている。それらの劇はみな、人間が実に心理的に複雑で深くて、善と悪との戦いが常に人の心の中にあることを巧みに表わしている。そして、そこから出て来る影響はすべてに広がっていく。それは、人間関係に影響を与え、社会に対しても大変な影響を与えるものだ。そのことを、一人ひとりが深く認識して自分の心の中にある戦いを正しく戦わなくてはならないという思いを人々に抱かせる文学である。シェークスピアの文学は、聖書の教えから出たものである。まさしく私たちは心理的に深いものであり、複雑であり、解放されているけれども、罪の下にある。その両方とも事実なのだ。そのことをまず理解しておく必要がある。

       パウロがここで指摘しているのは、クリスチャンの歩みの内的複雑性である。クリスチャンの経験には一つ以上の次元がある。無論、まるで既に達成されている私たちの救いの現実の中に勝利の喜びも安息も含まれていないかのように内面の闘いのみを強調するのは大変な間違いであるが、クリスチャンの人生をただ単に喜びや安息として表現することも等しく間違いである。別な言い方をすれば、パウロの論点の全体像を把握するためにはローマ書7章を6章と8章と共に読む必要があるということなのである。

       ここで語っている複雑性とは、罪の世にあって“大人”であることの一面なのである。既に話したように、文化人類学者等の間で人気のある“幸福な異教徒”というイメージがある。それは基本的に神話的であるが、その考え方にはある程度の真理がある。異教徒には罪との深い戦いはない。彼らは自分の心の中にある腐敗について真剣に心配したりはしない。異教社会はみな、他の人々の目に自分がどう映るかということが最終的な問題であるので、恥については心配しても、歴史の終わりに彼らの罪に対して報いる裁き主については心配しないのである。しかし、クリスチャンは神の御臨在の中で自らの人生を歩む。そして、神の御旨を行なうことを心から願う一方で、神に対して罪を犯すこともある。クリスチャンは客観的にも主観的にも罪に悩まされるものなのだ。これらは恥よりもずっと大きな問題である。

       同時に、それらは比較的に扱い易いことでもある。罪の問題には全き解決があるからだ。そして既に、解決が与えられているからである。キリストが私たちの罪のために死なれ、私たちが悔い改めてキリストを信じるとき、私たちの罪を完全に取り除いて、贖ってくださるのである。異教徒にはそのような客観的な救いというものは全く存在しない。

       「律法は霊的なものである」と訳されている。このギリシャ語を直訳すると日本語にならないが、文字通りには「律法は御霊的なものである」と書かれている。英語でも"Spiritual"というふうに "S"を大文字で書けば「御霊的」ということになる。つまり、「律法は御霊が与えてくださったものだ」ということである。或いは、「御霊のもの」と訳してもよい。律法は、御霊が与えたものであり、本質的に御霊の啓示である。だから、御霊なる神の真理なのである。これは「御霊的なもの」若しくは「御霊のもの」、或いは「御霊が与えたもの」なのである。この言い方をするとき、「律法は神のものである」ということを意味している。

       しかし、その律法の完全な教えを見るときに、「私は罪の下にある者です」ということをパウロは深く感じる。律法を神のもの、神の御言葉として理解して解釈するとき、パウロの心がよくわかるはずだ。「殺すなかれ」と神が命じるとき、ただ単に殺人の行為そのものだけを禁じているのではない。神の御言葉として考えるなら、すなわち御霊が与えてくださった御言葉として考えるなら、この「殺すな」という命令は、殺人につながるすべての思いを禁じていることになる。単に人間の法律として「殺すな」という命令を見るなら、それは「殺人してはならない」というだけの意味になる。しかし、神の御言葉として解釈するなら、それだけにとどまらないのである。その命令の意味は当然もっと深いものだということを理解するはずである。

       神は、ただ単に表面的な行為だけをさばくのではなく、私たちの心を同時にさばき、動機をもさばき、目的もさばかれる。私たちの心の中の複雑な思いもすべて、その行為と一緒にさばかれるのである。神のさばきがそのような完全なさばきなので、キリストはモーセの律法の本当の意味をマタイの福音書5章のところで教えておられる。キリストは、御霊的な解釈をもってモーセの律法を教えてくださった。律法を、御霊が与えたものとしてとらえるとき、「殺すなかれ」という命令はそこまで深く考えなければだめなのだということをキリストはユダヤ人たちに教えた。つまり、キリストは、律法に対するクリスチャンとしての解釈を私たちに教えてくださったのだ。

       クリスチャンではない人が「殺してはならない」という命令を見るとき、「私は誰も殺してなんかいない」と短絡的に解釈してしまう。神を信じ、神の御言葉を知ったあとで「殺すなかれ」という命令に直面するとき、表面的な行為よりもずっと深くその命令の意味を考えるように導かれる。そして、モーセの律法を、御霊的な命令として読むようになる筈である。そうすると、自分の心にある思いを見るときに、「殺してはならない」という命令を破っている自分に気付かされるのである。殺人をした覚えは一度もない。しかし、毎日の生活の中で隣人に対して相応しくない怒りや思いなどを、一日に一度くらいは抱いたかもしれない。それに気が付いたなら、直ちにその思いを捨てるべきである。

       十戒の全部を一度に吟味して同時に実行するのはなかなか難しいので、この「殺してはならない」という一つの命令だけでもまず実行すればいい。モーセの律法の中で、これは一番簡単な命令ではないか。パウロは、偶像礼拝について教えるときに、「むさぼる心がそのまま偶像礼拝」だと言っている。そのように偶像礼拝を考えるとすればどうだろうか。実際に偶像の前で礼拝するようなことは一度もしたことがない。そんな気持ちになったこともない。だから、文字通りの偶像礼拝について言うならば、ちっとも誘惑にはならない。大きな偶像を見れば拝んでしまうようなこともないし、お寺で手を合わせて祈願するようなこともしていない。しかし、むさぼりの心と一緒にして偶像礼拝を取り扱うならば、「むさぼってはならない」という命令はかなり深い問題を取り扱うことになるのだ。かなり困難な闘いが性格の中にあることに気が付かされるはずである。

       しかし、十戒の中の「殺すなかれ」という命令を守るのは比較的に簡単なことではないだろうか。「盗んではならない」という命令だと、心の中の欲を考えれば複雑な話にも成り得るだろう。「でもまさか、殺しはやらないだろう。人を殺したいという思いを抱いたこともないし、考えもしないことだから」と、普通の人なら考えるだろう。私は、喧嘩で人を殴ったりするようなことは、高校以来やったことがない。いや。そういえば、クリスチャンになってから一度だけやったことがあった。一度だけ、大学の時に、友人に証しをしたときに、彼が酔っぱらって私の聖書を奪ってバカにしたりしたので、私は怒ってその人を押し倒して聖書を取り返しただけで、大したことにもならなかった。その人が謝って事は済んだが、その一回以外に覚えはない。それは非常に稀なことなのだ。

       だから、この「殺すなかれ」という命令だけは守れるだろうと思って、真剣にやりはじめると、深く考えさせられて、自分の心の深みにあるものを見ることになる。自分の思いが本当に相手の祝福を求める思いなのか。それとも、その人の祝福を求めない思いなのか。正しくない怒りを持っているのではないか。言い方が厳しすぎるのではないか。そこまで強い言い方をする必要もなかったのではないか。その思いはぜんぜん神の栄光を表わすことにはならないものになってしまったのではないか。「やめよう。絶対に。明日からもうこんな思いは捨てよう」と思う。そう決心してやってみると、なかなか成功しない。それによって成長はするけれども、十年、そして二十年とやってみると、「私は、罪の下にある者ではありません」とは言えなくなるのである。

       この一つの命令だけでも、深く考えるようになれば、自分にはそれを完全に守る力なんかないということを悟るほかないのである。しかし、それは十戒の中のただ一つの命令に過ぎないのだ。他の九つの命令も同じようにしてやってみたらどうなるだろうか。明らかに聖書はそうすることを命じているのである。そして、その十戒のまとめとして言われていることは「べからず」の連続ではなくて、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」である。そして、「隣人を自分と同じように愛しなさい」というのが神の命令なのである。

       アメリカには、「人は自分を十分に愛していない」という考え方があるが、それはまったくの偽りである。人はみな、十分に自分を愛している。自分を愛しすぎるために曲がった愛に成ってしまいがちなのだ。しかし、自分を憎んでいると主張している者たちは、自分を十分に愛しているということも同時に真実である。その話をすれば横道に反れてしまうが、神の御言葉を真剣に守ることを求め、神を愛し、隣人を愛することを本当に心から求めるならば、自分は実に欠けた者であって、自分にはそれができないということを深く知らされるものである。そして、自分の心の奥深くに罪があること知らされる。「私は、クリスチャンになって、神の御国のために生活しているつもりなのに、こんなにも罪がいっぱい自分の中にある」ということを悟らされるのである。

       パウロは私たちよりもずっとクリスチャンとして真剣であった。パウロは、牧師とか宣教師の働きをしているからそうなのだとは思わない。はっきりとパウロは教えているし、パウロの生活を見れば、神はパウロに祈りと御言葉の宣教だけの生活を与えたわけではないことがわかる。そのことが明らかに記されていることは私たちにとって有益であったと思う。パウロは、歩いて旅をしなければならなかった。仲間数人を連れているので、彼らは兄弟のような関係をもって一緒に行動していた。主イエス・キリストと弟子たちの関係を見ると、若いクリスチャンたちの兄弟喧嘩が出て来たりする。パウロの手紙や使徒行伝を読むと、パウロはクリスチャンの兄弟喧嘩を取り扱わなければならなかったこともよく出て来る。

       パウロがテサロニケに行き、そこで福音を宣べ伝え、しばらく宣教の働きをしていた。そこでパウロは、ただ祈って御言葉を教え、人の家を訪問したりして、いわゆる“霊的な働き”だけをしていたのではない。そのようにして“霊的な働き”だけをすることを神はお許しにならなかった。朝から晩まで、パウロは天幕を繕う仕事をしなければならなかった。なぜそうしなければならなかったのかというと、一つにはテサロニケ教会の状態に問題があった。その人たちはギリシャ人であり、自分の手で働くことは醜くて程度の低いことだというギリシャ的な考えがあったからである。

       彼らの所でパウロは敢えて自分の手で働いて、自分の手で働くことの大切さとすばらしさの模範を示して、クリスチャンとギリシャ的な考えの違いを示さなければならなかったのである。「奴隷の仕事は程度低いものであって、神に仕えるような仕事ではない」というような間違った思いを、パウロは自らの模範をもって殺していく。教えによってその間違った考えを抹殺するだけでは足らない。模範を示して根本から変えていく必要があった。そして、実際にもパウロは経済的な必要のために自分の手で働かなければならなかった。それで、パウロはビジネスをもしなければならなかった。異邦人であるギリシャ人の中にあって、その偶像礼拝に満ちた社会の中にあって、パウロはビジネスをしていたのである。

       「パウロは理想ばかりを語っているけれども、偶像礼拝社会の中で働くことがどんなに大変なのかが解っていない」と考える人がいるなら、それは大間違いである。パウロは、異邦人の偶像礼拝に満ちた社会で、朝から晩まで自分の手で働いてビジネスを行なっていた。そして、その中で成功しなければ、食べることもできない状態にあったのだ。パウロは、自分で働くことで、生活をちゃんとまかなっていた。偶像礼拝の社会の中で働いて、成功して、同時に御言葉をも教え、教会を建てあげ、次世代に訓練を与えたりしていた。それは誰にでもできることではない。

       そのようなパウロが、罪との戦いについて話すとき、牧師だから異なる次元にあるというような話をしてはいない。ビジネスの中にある闘いもよく知っていたし、兄弟喧嘩や家庭の中での罪との戦いをもよく知っていた。そして、牧師として、教会員の相談を受けたり具体的なレベルでの罪との戦いをもよく知っていた。そして、妥協せずに戦っている。どこか、遠い山に登って、森や滝の中に座って自分のへそを見て神仏のことを考えたりするようなものではない。社会から隔離された所謂“霊的な生活”を送っているのではない。

       そのパウロが、「私は罪の下にある者です」という言い方をするとき、それは非常に深いレベルでの罪との戦いを意味しているのである。パウロは私たちよりもずっと真剣に神の御国を求めているのだ。「神の御国とその義とを第一に求めなさい」と、主イエス・キリストは教えてくださった。私たちの場合は、神の御国を求める思いがあまりにも深く、そのために熱心に燃える心をもって求めて毎日の生活を送っているので、罪との戦いを深く感じているというレベルで罪との戦いをしているとはとても思えない。

       大変失礼なことを言っているかもしれないが、私たちはそこまで成長していないと思う。そこまで成長したとしても、御国を第一に思い、神の義を心から熱心に求めるならば、「殺すな」というような簡単な命令において考えるにしても、自分の心の中にある罪に対して完全な勝利は得られないということに気が付かされるはずである。気が付くだけでなく、深く悲しむことになる。私たちの罪との戦いはそれほど深くはない。「私は本当にみじめな者です」とパウロは言っているが、私たちはそこまで深く自分の罪を感じてはいない。

       何もパウロ程に成長すれば自分をみじめな罪人だとは思わなくなるということではない。しかし、義を愛する心が浅い。愛を求める心が浅いのだ。神の御国を求める心があんまりにも浅いので、私たちの場合は、罪との戦いも浅い。浅いから、苦しまないのだ。苦しまずにいられるほどに、その思いが浅いので、この箇所を読んでも誤解してしまう可能性があるわけである。実に浅くしか解釈できないのである。

       しかし、本当に熱い心をもって神の御国を求めて、義を求め、愛を求めているなら、まずそれを自分において求めるのでなければおかしいのである。浅いレベルで考えているかぎり、自分はある程度できていると思う満足感があるので、周りに対しても要求することになる。「あなたは、御国を求めることにおいてもっと成長しなければだめです。愛においてもっと成長しなさい。あなたは、十分に義を求めてはいない」と言って、皆から求める。しかし、本当に求めて戦っているならば、自分に対してまず要求するものである。まず自分の心に対して要求するはずである。

       周りに対してどのように影響を与えるかについて聖書は繰り返し教えている。それは根本的なことであって、まず模範を示すことである。正しい模範を示すことがまず大切なのだ。それがパウロのやり方でもある。いつも相手からの義を要求するだけでは成長することにはならないのだ。模範を示すことが大切である。それが隣人にとって祝福となり、励ましとなり、具体的な助けとなるのである。

       「私の夫は足りない」と言うなら、「どうぞ、奥さん、模範を示してあげてください」ということになる。「妻が足りない」と言うなら、「夫たちよ。まず模範を示しなさい」ということなるのだ。子どもたちに足らないところがあるなら、「お父さん、お母さん、どうぞ模範を示してください」ということになるのである。「お父さんもお母さんも足りないよ」と言うなら、子どもたちが模範を示せばよい。幼い子どもでも模範を示すことはできる。子どもたちが、神を真剣に求めて、忠実に神に従うという模範を両親に対して示すなら、それは父と母には大きな祝福となるであろう。子どもだからできないということは絶対にないのだ。

       模範を、まず自分と神の関係において正しく示すことから始めるのである。模範を示しつつ歩むのである。つまり、自分を取り扱うことから始まるなら、他の人に対しても、もっと恵みを与えることができるようになるはずである。自分の足りなさをもっと深く知るようになれば、他の人の罪をもっと赦すことができるようになるであろう。キリストの譬え話につながるが、多くの罪を赦されたしもべは、ほんとうは他の人の小さな罪を赦すことができるはずである。それができなかったしもべは、つまり、罪が赦されたことの意味を何も悟っていないことになるのだ。

       それと似たような話で、売春婦がパリサイ人の家に来て、主イエス・キリストの足を自分の涙で洗った話がある。彼女は自分の罪を悔い改めて、罪の赦しを神から得て、感謝に満ちあふれていたのである。多くの罪が赦されたその女性の方が、自分には大した罪がないと思っていたパリサイ人たちよりも、ずっとキリストを愛していたという話である(ルカの福音書7章)。自分の罪がどれほど大きくて深いかを悟り、その罪が神の御恵みによって赦されたことを悟るときに、相手の自分に対する小さな罪を赦すことができないはずはない。神が赦してくださった自分の罪と、自分に対して罪を犯した相手の罪とを正しく比較するなら、相手の罪の方がずっと小さなものなのである。

       恵みに対して感謝するということは、隣人に対して恵みを与える心の余裕を持つことなのである。それで、パウロが「私は罪の下にある」と話すとき、これはクリスチャンの話なのである。決してクリスチャンになる前のパウロのことではない。そして、この箇所を正しく理解することによって、私たちは罪との戦いの意味をもっと正しく知ることができるし、クリスチャンとしてもっと成長できるのだ。ここでパウロが話していることは、すべてのレベルとすべての領域において適用できるものだということもよく理解していただきたい。

       単純な譬えだが、アルコール中毒という問題がある。アメリカで、アルコール中毒から立ち直ろうとする人を助ける国際団体でアルコーホリックス・アノニマス("alcoholics anonymous")というグループがある。その団体の中には、聖書の原則を世俗的に適用するグループと、クリスチャンとして聖書を適用するグループがいる。しかし、助け方は、自分の罪をはっきりと認めさせて悔い改めさせるというものである。中毒になった人は、他からの助けが無ければ自分一人では立ち直れない。自分独りではその病癖と戦うことはできない。私たちも、罪との戦いにおいて兄弟からの励ましを受けたり、地域教会としても家庭としても神の御国を求めるときにお互いを励ましあう必要がある。週に一度の交わりにおいて、一緒に戦っていることを覚えたり、何か問題があれば互いに電話して励ましあったりする。クリスチャンらしく罪との戦いを一緒に戦っているという認識によって、かなり成功するものになっている。

       だから、パウロがここで「私は義を行ないたいのに、どうしても罪に陥ってしまう」と言っているのはアルコール中毒のレベルの話ではないけれども、そのような罪のレベルにも適用できなくもないものだと思う。パウロは、御国と神の義と愛を求めている。それを深く求めれば求めるほど、自分の心の悪が目立ってしまうのである。生活自体を見れば、パウロ以上にすばらしい人間はいないと思わされる。パウロと一緒にいれば、自分がどんなに未熟で罪深いかを思い知らされるしかない。生活、言葉、心の態度などにおいて、パウロは私たちよりも遥かにすばらしい。しかし、そのパウロも、罪と深く戦っているのである。

       その戦いはアルコール中毒にも適用できるものである。その状態に陥ってしまってどうしたらいいのかがわからない。「ああ、私はみじめです」と深く感じるしかない。その状態の中で自分の罪と真剣に戦い、悔い改めて、罪を捨てて、神に戻るのである。七回倒れても八回立ち上がり、続けて続けて神を求めるのである。それが、その団体がアルコール中毒患者を取り扱う方法なのだ。彼らは単純なレベルにおいてそのことを実践しているが、それがどんなに深い問題であっても、どのレベルであっても、どの領域であっても、原則は同じだということである。自分の罪を罪として認識し、それを悔い改めて捨てて、主イエス・キリストの御恵みを信じて、立ち直って、正しく歩むのである。クリスチャンは、そのように御国と神の義とを求めて歩むものである。

     

    私ではない!

       この箇所の正しい理解のための鍵の一つは15節である。が、15節には重大な翻訳の問題がある。「私には、自分のしていることがわかりません」とあるが、正しい訳は「私は、自分のしていることを認めません」である。ギリシャ語原文を文字通りに直訳すれば「知りません」という言葉である。しかし、「知る」という言葉は日本語でもそうだが「わかる」という意味もあるし「認める」という意味もある。ここでのパウロは「認める」という意味でこの言葉を使っている。

       「自分がしていることを認めない」というのは、自分が罪を犯しているときに「私ではない。あいつだ」という意味ではない。この言い方は、「私の本当にしたいことはそうではない。本当の私は別のことを求めている。私が行なっている罪を私は認めません。それは私のではない。私はそれを捨てます」という意味なのだ。つまり、これは「悔い改めます」という意味なのだ。「それを私は認めない。それを私は憎む。それを私は捨てます」と言って、その罪を自分の外に追い出して捨てるのである。本当の自分は、神を愛して神の御国を求めている自分である。パウロは、自分の犯す罪が自分に本当の意味で属していると認めることを拒んでいる。それらを拒絶するのである。

       彼は責任を否定しているのではない。彼は、自分の罪を自らの内から捨て去るのである。自分の罪を拒絶し、それらの罪が本当の自分を構成することを否定する。これは悔い改めの一面なのである。この言い方は、悔い改める意志を表わすものなのだ。そして、これは戦うクリスチャンの本当の姿である。パウロは、悔い改めては戦い、悔い改めては戦う生き方をしている。それによって、キリストの御恵みのみによって救われるということを最終的に告白しているのである。それが、7章14〜25節までの全体的なとらえ方でなければならない。

       神の律法は“霊的”なものである。それは聖霊による霊感を受けており、神の完全なる義によって特徴づけられている。しかし、パウロは自らのそのまさに最善のところが罪によって腐敗しているのを見る。彼が何者で何を行なうのかということのうちに、律法の霊的な完全性と比べ得るものは何一つない。彼が真に神の律法を喜び、その教えの聖さを本当に愛するならば、どうして自らの最善の行ないであってもそれをさげすまずにいられようか。彼がなすことは何一つ、神の真理の聖なる基準に合致し得ないのだ。彼が真理を愛すれば愛するほど、自らの行ないを否定しなければならないのである。彼自身の行ないは、彼が行おうと求めている行ないではなく、或いは彼が行ないたい行ないではない。

       パウロは律法の義しさを求めている。聖い律法を守ることを真剣に求めている。それ故に、それ以下の何ものも価値無しとして拒むのである。したがって、自らの行ないが自分のものであることを否定することは、神の御言葉の完全性と比較して自分がふさわしくないことの告白である。そこまで真剣にクリスチャンとして神の義を求めているのである。この二つは、一つのこととして考えなければならない。私たちが神の真理を喜ぶよう導くことによって、神は私たちをさらに御自身に引き寄せ、私たちが自らの罪を憎むように促し、常に私たちのうちで働かれるのである。私たちは自らの罪のゆえに叫ぶが、その溢れる御恵みのゆえに神に感謝するのである。

       この箇所は、聖餐式のために毎週読んでも良いような箇所だと思う。実際、私たちには、心の中の罪との戦いや生活の中の罪との戦いがある。戦っている中で、私たちは毎週礼拝に来るときに、完全に勝利を得たとは言えない面もある。完全に勝利を得た領域もあるけれども、罪との戦いがもう終結して、完全な者になったというわけではない。もし、罪との戦いに対する完全な勝利を得ているのなら、それはこの上なく嬉しいことである。ウェスレーが言っているような“完全な者”になることがあれば、私はそれを喜ぶであろう。しかし、“完全な者”であるはずの人たちを見ると、とても完全とは言えないような有様だったので、その完全は本物ではないということがよくわかるのである。

       人の世の中には真の完全はない。ウェスレー自身がそんなことは言ったわけではないようだが、救われた者の完全性を主張する人たちを見れば、「完全とは程遠いものだ」としか言えないと思う。私たちは実に不完全な者なのである。それは、神が私たちに、自分の罪を悟らせて、自分でそれを憎むように導き、それを捨てて、熱心に神の愛と義を求めるように導いてくださるためなのだ。

       罪を一度だけ悔い改めたら、もう完全に罪のない者になれるとしたら、私たちはそれほど深く愛を求め、義を慕い求め、御国を求める心を持つようにはならない。それでは未熟なままである。それ故、神はもろもろの訓練を通して私たちが成長して完全に向かうように導いてくださる。神の似姿として、神の栄光を表わすことができる者になるように、私たちが罪と戦うように神は導いてくださっておられる。そして、私たちが、自分の心の中にある罪の意味の深さを悟るように導いてくださるのである。それによって私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰の意味とその大切さと素晴らしさを本当に知ることができるのである。

       それ故聖餐式は、自分の罪を悔い改めて神を信じる信仰に戻って、神の御恵みを喜ぶものであるが、ちょうどこの24節を告白するものでもある。

    私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

       「私は罪の下にある。だから、その罪責に苦しんでいる」というような仏教的な終り方ではないので、思い違いをしないでほしい。聖餐式に集まり、自分の罪を悔い改めて、それを捨てるが、その結論は何なのかをはっきりと知らなければならない。感謝は、主イエス・キリストに目を留めるときにのみ真に持つことができるものなのだ。クリスチャンとして生きるときに、罪と戦って疲れ果てるのではなくて、「主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と告白するのが私たちの心である。それが私たちの歩む道である。感謝と喜びの心をもって神の御救いに目を留めるのである。

       それだから聖餐式は、ただ罪を悔い改めるためにあるのではない。主イエス・キリストのからだと血を表わすパンとぶどう酒を受けるとき、私たちは、神が私たちを愛して主イエス・キリスト御自身を私たちに与えてくださったことを一緒に感謝するのである。そのことを心から喜ぶのである。そのような感謝と喜びをもって一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2000年4月2日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙7章12〜13節

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