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    ローマ人への手紙7章12〜13節


    7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。

    7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

    2000.03.19. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    律法は良きもの

    7章12〜13節

    ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。

       神の律法に関するパウロの教えが複雑なものであることは以前にも強調した。少なくとも三つの重要な要素が、多くの読者の念頭で否定的な印象を生み出すのに寄与している。第一に、パウロが取り扱っているのは、異邦人が義と認められるためには律法(特に割礼)を守らなければならないと教えるユダヤ人律法主義者たちである。律法主義者の教えに反対するとき、ギリシャ語には「律法主義」という言葉がないため、パウロが律法そのものをさげすんでいるかのように見えてしまうのである。

       第二に、パウロはノン・クリスチャンはみな神の絶対的な義の基準の裁きの下にいるとも教えている。被造世界は神の御国であるから、客観的事実として神の律法が支配している。罪人はその御国の律法の裁きの下に立っており、救いを必要とするものである。第三に、神の律法はその“幼稚な時代の民”にとって重要であった。律法はその象徴的な教えを含むモーセ契約のかたちでイスラエルに与えられた。しかし、キリストが来られたとき、モーセ契約は完全に成就されたのである。「成就」は「廃棄」という意味ではない。

       パウロは、読者たちがパウロの律法観を誤解することの無いようにと7章で詳細な説明をしており、いかなる意味で私たちは律法から解放されるのか(1〜6節)、人間の罪について責任があるのは律法ではなく(7〜13節)、律法は私たちを罪に定めるときに肯定的な役割を果たすものであること(14〜25節)を教えている。

     

    わざの契約

       今日は特にこの12章について学びたい。パウロの律法についての教えを正しく理解することは大切である。なぜなら、そこには非常に広い神学的な影響があるからである。改革派神学における重大な問題である“わざの契約”という教理もこの教えに関わるものである。昨日の長老会でも話題となったが、今、日曜学校で上のクラスの子どもたちにウェストミンスター小教理問答を教えている。その中に「行ないの契約」の概念に基づいた教えが出て来ており、ほとんどの講解書がその立場で説明がなされていることについて長老たちで話し合ったりしたが、ウェストミンスター信仰告白を自分たちの信仰告白として持っている人に、ウェストミンスター信仰告白の中に間違いがあることに触れるときには誤解のないように気を付けなければならない。

       私たちもウェストミンスター信仰告白や小教理問答と大教理問答を大切な教材として使っている。それをいわば“教科書”として親たちが学んで、子どもたちに教えている。聖書を学ぶために、ウェストミンスターの小教理問答と大教理問答、そして信仰告白は、とてもよい教材である。十九世紀のアメリカの有名な神学者ソーンウェルは、神学のほとんどをウェストミンスター大教理問答と小教理問答と信仰告白で勉強し、その引用聖句を細かく調べて神学を学んだ。そして、「これらはどんな教科書よりも有益であった」と告白している。本当にこれらは深いものであり、よい学びを得させる優れた“教科書”である。

       しかし、如何に優れていると言っても、それは神の御言葉そのものではなく、あくまでも二次的な教材であることも十分に認識すべきである。聖書ではないことをよく認識しつつ利用しなければならない。これらは、学びのためには極めて有益なものであり、聖書を学ぼうとする人には是非とも使ってほしい教材である。しかし、その中に、大きな問題があることも指摘しなければならない。それが「行ないの契約」という概念である。既に何度も話したが、実に大切なことなので、念のために、もう一度簡単にその意味を話しておきたい。簡単に言えば、「行ないの契約」とは次のような概念である。

       神は、アダムとエバを創造したときに、彼らをエデンの園に置き、ある期間を設けて彼らを試された、と解釈する。つまり、試行期間を彼らに与えて彼らをテストした。彼らがそのテストにパスすればいのちが与えられ、パスできなければ呪いとして死が与えられるようにされた。そこから、人間は、「自分の良い行ないによっていのちを得るか、或いは悪しき行ないによって死ぬか」という状態に置かれていたいう解釈が生まれてくる。そのような解釈が、十六世紀の終り頃にオランダとスイスから出て来たと言ってよいだろうと思う。

       ジョン・マーレーは、「わざの契約」に対する反対者として有名な神学者である。彼は、改革派の契約の教理は「やり直す」必要があると述べた。彼は、『ウェストミンスター信仰告白』に見られる用語法や強調が、神と人間の最初の関係を「律法の契約」とする概念には疑いの余地があることが暗示されていること、それ故、『信仰告白』が作成された時点ですでに問題に直面していた、という意味のことを述べている。

       先週、ジョン・マーレーが書いたある記事が目に留まった。それは以前にも読んだことのある記事だが、ジョン・マーレーが言おうとしていたポイントに初めて気が付かされ、新鮮な驚きを覚えた。ジョン・マーレーは、「ウェストミンスター信仰告白の“行ないの契約”の概念は、書かれた時点で既に崩れ初めていた」と話している。つまり、「ウェストミンスター小教理問答、大教理問答、そして信仰告白では“行ないの契約”を教えているが、同時に、その行ないの契約の中には恵みも含まれていると教えているからだ」と、ジョン・マーレーは説明している。例えば、「神は御自分を低くして契約を結ばれた」とか「祝福が与えられるために」というような説明を“行ないの契約”の説明の中でしているのである。

       つまり、1641〜1642年頃にそれらの信仰告白や教理問答を作る作業に入っていたのだが、その時点で既に、作成に携わった人たちの間には、「これは単純に行ないの契約とはとても言えない。豊かな恵みが最初からあったことを十分に認めなくてはならない」という考え方が既にあったのである。その考えはあったけれども、「行ないの契約と恵みの契約」という枠組みが既にでき上がっていたために、その枠組みに沿った説明を強いられたというような経緯があったと思われる。その枠組みが聖書の記述にやや合致しない面があることに彼らは気付いていたが、敢えてその枠組みを変えることをせずに、「行ないの契約」に「恵み」を少し含ませることによって問題の解決を計ろうした形跡がうかがえる。

       説明が足りないが、ポイントは理解していただけると思う。マーレーが彼の歴史的分析において正しかったか否かは別として、エデンの園における最初の契約が法的な功績に基づいた「わざの契約」だという概念が神学的におかしいことは明らかである。この枠組みの中での律法は、祝福というよりは“テスト”として与えられる。この概念は、神がアダムとエバを惑わして祝福から追い出すために命令を与えたというサタンの提案に危険なほどに近い。この概念においては「贖い」の意味も歪められている。というのは、「贖い」は「回復」であるからだ。もし、人の最初の地位が法的功績によるものであったならば、人はそこから恵みに墜ちたことになる。さらに悪いことに、恵みが彼を元の地位に回復するとき、彼は再び法的功績へと回復されることになるのだ。律法の概念をこれ以上深く歪め得るものを想像することは困難である。

       実際に深く創世記のエデンの園のところを学ぶときに、「これはとても行ないの契約というような話ではない」ということは明らかである。「行ないが良ければ、その行ないの功績によっていのちを得る」というような話ではない。そのことを幾度か強調して既に話したけれども、今日また繰り返し強調して言っておきたいと思う。父親と母親たちは、このことをよく把握し、子どもたちによく教えることができるようにしてほしい。子どもたちにも、もともと神と人間との関係がどのような関係だったのかを十分に知ってもらいたいので、繰り返しこのポイントを話しておきたいと思う。

     

    律法の性質

       このローマ人への手紙の7章12節でパウロが言っていることは、ちょうどその問題に答えている箇所だと思う。「律法は聖いものである。正しいものであり、良いものである」とパウロは言う。律法は、正しさを定義するものだから、律法が聖いものであり、正しいものであることに異論をとなえるクリスチャンはまずいないだろう。律法は聖なるものである。つまり、神が私たちに命令を与えてくださるとき、その命令の道を右にも左にも反れずに歩くことこそ「聖さ」であり「正しさ」なのだ。それが聖くて正しいものだということについては議論の余地はない。

       しかし、「良いものである」というのは律法の性質にとって、義や聖がそうであるように不可欠である。「良いものである」という意味は「祝福である」という意味なのだ。「良いもの」という言葉は「祝福」を意味する言葉である。そうであれば、アダムとエバにとって、律法は単なるテストではなかったことになる。律法は、彼らに善と悪の本当の意味を教え、彼らが神の御旨にかなった支配をする者として整えられるために与えられた。彼らは、永久に善と悪の知識の木から食べることを禁じられていたのではなかった。その禁止は一時的なもので、教育的なものであったのだ。その命令について真剣に時間をかけて考えることによって、アダムは善と悪の真の本質を深く理解するはずであった。

       「律法は祝福である」とパウロは言っている。だから、「戒めは祝福である」ということが強調されなければならない。命令自体が祝福であり、律法自体が祝福なのである。そのことを十分に把握するとき、“行ないの契約”とか“わざの契約”とか、律法を否定的に考えたりするとかいうような概念はとても持てなくなるはずである。だから、「律法は祝福であり、命令は祝福である」という言い方について瞑想したいと思う。そして、私たちにとって、それはどういう意味なのかを一緒に考えたい。

       まず、創世記1〜2章のところに戻って「律法と戒めは良いものであり、聖なるものである」という意味を考えたい。律法と命令は、祝福である。それは良いものである。“行ないの契約”あるいは“わざの契約”という概念によれば、アダムとエバと神との関係は“律法的な関係”だということになる。正しく行なえば祝福が来る。祝福は行ないによる。そのような律法主義的な概念なのである。それで、アダムとエバは罪を犯すことによって堕落し、その堕落した状態にあって恵みを受けるのだと考える。だから、エデンの園は律法的な関係の中にあり、園から追放されたときに初めて恵みの関係になるというようなことになる。これは実におかしな解釈だと言わなければならない。堕落したら恵みに入るのだろうか。あべこべではないのか。もともと人間は、恵みの状態に置かれていた。その恵みの状態がエデンの園である。初めから恵みの状態にあったのだ。

       創世記を素直に読んでみれば明らかなことである。豊かな祝福が、ただで与えられていた。ところが、人間はその豊かな祝福に目を留めず、それを軽蔑して、神の愛を捨てた。それで律法的な関係に墜ちたのである。事実は“わざの契約”の概念とは逆の経緯を辿っているのである。「最初は“わざの契約”であったが、エデンの園から追い出されてから初めて“恵み”が与えられた」というような解釈だと、愛と交わりは堕落後のことになる。ところが、「律法的な関係」は「愛と交わりの関係」ではないのだ。「愛と交わりの関係」は「恵みの関係」なのである。だから、律法的な行ないの契約が最初にあったというのは正しくない。最初から、人間は神との愛と交わりの関係に置かれたのである。そこからすべてが始まっている。この点を見失うから“わざの契約”の概念が生じてくるのである。

       何度も話したことだが、創世記は3500年前の昔に書かれた書物であり、その書き方は現代とは異なっている。事の一部始終を細部に至るまで説明するような書き方にはなっていない。現代の小説などを読むとき、瞑想しながら読む必要はない。全部がもう書かれてあるので、ただ読んで味わえばよい。何も瞑想しなくてもよいのである。しかし、昔の書物は非常に簡潔に書かれてあり、意味が深く、よく考えながら読んでもポイントがわからないような書き方になっている。読むだけではだめである。よくよく瞑想しなければならない。

       大昔には今日の“本”というものは無く、文章は重い粘土板に書かれていたため、細かい事柄まで書くことはできなかった。だから、一つ一つの言葉の意味を十分に深く読者に伝わるように、簡潔な言葉で書かなければならなかった。それもまた神の摂理であったのは言うまでもない。そのようにエデンの園について書かれたものがモーセの時代にまで継承され、モーセの時代にその記録は巻物に書き写された。それでもまだ現在のような書物のようではなく、ましてやEメールのように何でも思うままに書いてクリックして送ればよいというようなものではなかった。それで、よくよく瞑想して考えるように創世記は書かれている。

       その創世記2章に書いてあるように、神はアダムを創造したあとにエデンの園を創造した。だから、神がエデンの園を創造した時、アダムはそれを見ていた。神は、美しい豊かな住まいをアダムのために造ってくださった。アダムをエデンの園の中に置かれたのである。アダムは、その経緯を目撃していた。だから、自分がどんなに神に愛されていたか、どんなに特別にされているかはよくわかっていた。それは最初からわかっていたことである。

       エデンの園の周りには城壁があり、門があり、その中にはありとあらゆる種類の実がなる木があり、その園の真ん中に「いのちの木」と「善悪の知識の木」が一緒に置かれてあった。その二本の木だけに名前があった。他のすべての木には名前はなかった。そのような園の中にアダムは置かれ、神の豊かな祝福を受けていた。必要なすべてが与えられており、まさに“食べ放題”であった。“木の実”の話はそこから始まるのである。これは、“行ないの契約”とか“わざの契約”とか“厳しい命令だ”というような話ではまったくないのだ。「どうぞ、すべての木から取って食べなさい。わたしはあなたのためにこれらを造ったのだから」と、神は最初からはっきりとアダムに言っているのだ。

       エデンの園の真ん中に置かれた二本の木のうちの一本の木の実だけは食べてはならないものとして禁じられた。即ち、「その木から取って食べてはならない。その木から取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と神は仰せられたのである。その善悪の知識の木から取って食べることだけは許されなかった。禁じられたのは名前のある一本の木だけだった。それ以外のすべての木からは自由にただで食べてもよいが、この木だけはだめだ、と神はアダムに命令を与えた。ちょっと考えれば、これは実に寛大で祝福豊かな話なのだということがわかる。数えきれないほどの木の中で、食べてはならない木は一本だけである。そして、その木には名前があったことも見落としてはならない。

       その時のアダムは、“名前”の意味について既に理解はあった。しかし、神は更に“名前”について深く理解するようにと、動物をつがいでアダムの前に連れて来られた。アダムはすべての生き物に名前をつけた。アダムが付けた名前、それがみな、その生き物の名となった(創世記2章19節)。意訳的に言えば、「アダムがつけた名前はすべて、その生き物に相応しい名前であった」ということになる。つまり、アダムが付けた名前は、その生き物の本質をよく表わす名前だったのだ。その名前は、単に音で表現するようなものではなく、明らかにその動物の本質を表わしていた。それらは神の御国におけるその生き物の役割をよく表わす名前であった。それ故、アダムは“名前”の意味については深く考えなければならないということがよくわかっていた。そして、自分の名は「アダム」即ち「土」であったが、アダムはその意味をもよく理解していた。アダムは二つのことに当然気付いていた。

       まず第一に、エデンの園には、食べることが禁じられていた「善悪の知識の木」という名前を持つ木がある。その木の名前の意味を考える時に、アダムは、善と悪に係わることを学ぶはずであった。名前が付けられていたということは、そこから意味を学ぶためだったのは明らかだったからである。第二には、動物たちがみなつがいであったが、アダムには相応しい伴侶がなかった。「なぜ、私には伴侶がいないのか」ということを深く考えるようにアダムは導かれていたのである。「自分には妻が必要だ」ということを神はアダムに感じさせ、そのうえでアダムに妻エバを与えてくださった。それは、妻が与えられることの祝福の意味を深くアダムに理解させるためであった。

       最初は与えられてない状態にあった。理解してから与えられたのだ。そこが非常に大切なところなのだ。善悪の知識の木についてもアダムは同じように考える筈であった。理解してから、与えられる。まだ必要も感じてないし、意味もまだわからないうちは、与えられないのである。そういう意味で、神の似姿に造られたアダムは、心の中で悟り、意味を理解し、その意味を知ったときに深く楽しむことができるはずであった。妻の意味、そして愛について理解するようになるまで、妻は与えられない。アダムはそのことを身をもって経験したばかりであった。それ故、食べることを禁じられたなら、その善悪の知識の木という名前のある木を見るときに、「善悪の知識の意味を理解するまで、これは食べてはいけないものなんだな」と、すぐに悟るはずであった。当然、そのように理解するはずである。

       「その木からだけは取って食べてはならない」という命令を受けたときに、「これは厳しい命令だ」とか「ああ“律法”だ」とか「食べたいのに食べさせてくれない。ひどい!」というような思いを持つ筈はない。これ以外のすべてが自由に与えられていたからである。「これは、私に大切な教えを与え、大切なことを理解させるために備えられた木なんだな。私が正しく理解したら、この木の実も与えられるだろう」と、すぐに思うはずであり、事実アダムはそのように理解していたと思う。というのは、パウロがテモテへの第一の手紙で、「アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯した」と明言しているので、アダムはその意味をはっきり理解していたのである。

       アダムとエバは、創造されたとき「裸であった」と記されているが、「」の意味は聖いとか理想的だということではない。「」とは、未熟で赤ちゃんだという意味なのだ。聖書では、支配する者や裁きを行なう者はその栄光を表わす衣を着ている。神も御使いも天国にいる人たちも、栄光を表わす衣を着ている。服を着ているのは大人の状態である。裸は幼稚で未熟な赤ちゃんの状態である。アダムとエバは聖くて正しくて良いものではあったけれども、未熟で赤ちゃんであった。

       そして、アダムとエバは次のことも理解していた。エデンの園の真ん中に名前のある木が二本だけ置かれていた。「いのちの木」そして「善悪の知識の木」である。「いのちの木」は、何かの行ないが認められれば与えられるというものではない。「いのちの木」は、取って食べてもよい木の中に含まれていたのだ。しかし、名前がある木は二本しかないのだから、この二本の木だけは特別だということは最初からはっきりしていた。その中の一本から取って食べてはいけないということは、「どうぞ、別の一本を取って食べなさい」ということである。これは非常に強い招きに他ならない。その名前を考えれば明らかである。「いのちの方をどうぞ食べてください」と、神はアダムとエバを導いておられるのだ。

       アダムはそれをよく理解していたので、いのちの木の方に行こうとして園の真ん中に行ったのだ。「いのちの木」と「善悪の知識の木」は並んで園の真ん中に置かれてあった。その「いのちの木」から取って食べようとしたところで、サタンは「善悪の知識の木」の方からエバに話かけて誘惑したのである。女性の方がアダムほどには命令の意味を理解してはいなかった。その弱い方である女性をサタンは惑わしたが、アダムは惑わされてはいなかったと記されている。サタンの言葉の意味を知っていてエバに何もアドバイスを与えずにエバが騙されるのをアダムは黙って見ていた。

       サタンがエバを惑わし、それに対して惑わされなかったアダムが何も答えずに黙っていたその時、堕落は起こったのである。その後で木の実を食べたのは、その堕落を証明するような行為に過ぎないと言えよう。惑わされて禁じられた実を食べる妻エバを見て、沈黙に徹し、エバが死ぬかどうかを見ようと心に決めた時、アダムは堕落した。アダムは、神に逆らったらどうなるのかを見ようとして、自分の妻を見殺しにしたのだ。自分が守るはずである妻を自分の欲のために利用して、神を試そうとしたのである。そのところでアダムは罪を犯した。アダムはその時点で神の御恵みを軽んじ、その愛を捨てたのである。妻が与えられ、その妻を愛さなければならないのに、その責任も捨てた。アダムは妻を殺しているのだ。「その実から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と神がはっきり言ったのに、エバが食べたらどうなるかを見てみようとした。

       エバが食べても死ななかったので、アダムは自分が食べても安全だと結論づけて、自分も食べた。神の御言葉が真理であり、神がすべてを支配しておられることを信じるよりも、自分の理性を信じて堕落したのである。エバが食べて死んだならどうするつもりだったのだろうか。神が来て説明を求めたら、「エバはあなたの命令を破り、サタンに惑わされて、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。それで、あなたが言ったとおり、死にました」と答えるつもりでいたのである。その時点で、アダムの心は堕落して酷く汚れたものとなり、神が最初に与えてくださった祝福を喜ばず、神の恵みを大切にしなかった。注意深く読めば、その経緯は極めて明白である。

       そのエデンの園の話を思い出しながら考えれば明らかである。最初に、アダムとエバは神の家に住んでいた。黙示録になると、新エルサレムが与えられるが、新エルサレムはエデンの園の成就である。エデンの園には“二人”だけしかいなかったが、新エルサレムには数えられないほどの数の“人類”がいる。新しいエルサレムは“園”のような大都市である。セメントだらけの灰色の大都市ではなく、限りなく美しい田園都市である。昔のバビロンは田園都市だったと言われている。遠くから眺めれば美しい森林のようだけれども、近づけば近づくほどそれは驚くべき美しさを持った大都市なのである。昔の人たちの建築学や理念は今日の私たちより劣るものでは決してないのだ。都市全体が芸術的に高度でしかも機能的なものとして築かれていた。

       日本でも、奈良などは町全体の構造が宗教的象徴を表わす美をもって設計されていたと言われている。バビロンはまさにそのような園のような大都市であった。聖書の新エルサレム、その都の構造全体が神の栄光を表わすものであり、神への信仰を最大限に表わす都であるが、その都はエデンの園の成就なのである。また、新エルサレムは「神の妻」「神の花嫁」と呼ばれている(ヨハネの黙示録21章2節)。つまり、人類全体が、神の愛する花嫁なのである。エデンの園の時点の人類は何だったのかというと、まだ“未熟な娘”であったと言ってよい。まだ結婚できるほどに成長していない、娘であった。乙女は育って、美しい大人となり、結婚する。その象徴としての話であるから、娘が妻になることに何ら問題はない。

       創世記を読むと、アダムは神の“息子”であり、神の似姿であることが記されている。アダムに子どもが与えられると、その子どもはアダムの“似姿”となる。アダムとセツとの関係は、神とアダムの関係に似ている。同じようにセツはアダムの息子である。ルカの福音書3章に主イエス・キリストの系図が記されているが、キリストからアダムまで遡っていき、アダムまで来ると「このアダムは神の子」と書いてある。イザヤ書でも、神に対して、「あなたは私たちの父であり、私たちを創造された」という言い方がある。そういう意味で、人類は神の子どもであり、人類全体は神の妻(花嫁)なのである。新約聖書で救いについて語るところでもその言い方が出て来る。教会全体はキリストの花嫁であり、クリスチャンは男も女もみな神の“息子”であり、相続人である、とパウロは言っている。

       だから、エデンの園の一番最初のところに恵み、愛、交わりの関係があったのである。アダムとエバは罪によってその愛と恵みの交わりから墜ちたのだ。それで、行ないと律法の関係に墜ちてしまったのだ。「恵み」とは、最初あった状態に戻るように働くものであり、もともとあった状態よりも更に高い状態に導いて引き上げるものなのである。もしも、もともとの契約が“行ないの契約”であって、そこから墜ちて、こんどもともとあった状態に戻るように恵みが働いたというなら、私たちは“行ないの契約”に戻ったかのような話になってしまうのだ。「贖い」は、失われたものを取り戻してくれる働きなのである。それは、“行ないの契約”に戻ることではない。「恵みから墜ちた」ので「恵みに戻る」ように、神の贖いの働きはあるのだ。神は罪に墜ちた私たちを贖って、愛と交わりをもう一度与えてくださるのである。

       そのようにエデンの園のことを考えるとき、アダムとエバに「善悪の知識の木から取って食べてはならない」という命令が与えられたのは祝福であったということがわかる。「祝福である」ということには二つの意味がある。一つは、アダムとエバにはまだ負うことのできないような責任を負わせないということである。アダムとエバは、まだ裁きを与えて善と悪の知識の識別力を深く持つほどには成長していなかった。だから、その木の実を取って食べてはいけないというのは、「その責任はまだ与えられませんよ」ということなのだ。子どもたちに責任を与えないのは親の愛なのだ。

       今日、家に帰るときに、10歳の子どもに運転させる親はいない。父は、10歳の息子に運転することを絶対に許しはしない。子どもを憎んでいるからだろうか。何か厳しいことを命じているのだろうか。そうではない。愛しているから禁じるのである。そして祝福を与えるために禁じるのである。まだその責任が負えないので、その責任を与えたらそれこそ大変なことになる。それで、「運転するな」という命令は、その子どもを守るためであり、家族全体をも守るためのものである。愛しているから、それを命じるのである。その善悪の知識の木から取って食べてはならないという命令も同じであって、まだアダムとエバにその責任が負えないので与えられた命令であった。

       もう一つのことは、学ぶためである。命令は、学ぶために与えられている。なぜ、食べてはならないのか。その意味をアダムに考えさせるためであった。ヘビが語るとき、アダムはすぐに意味を悟るはずであった。どうして取って食べてはいけないのかを、誘惑が来た時にわかるはずであった。「善悪の知識の木の意味の本質は、神の命令を守ることが善であり、神の命令に逆らうことが悪なのだ」ということを、言われた時にすぐに悟るはずであった。その命令は良いものであった。

        少し横道にそれるが、子どもたちは小さい頃からよく聖書を読んでいれば、どの聖句が聖書のどこにあるかを覚えるはずである。子どもの方が暗記に強いので、子どもたちの方がよく聖句の箇所を覚えているだろうと思ったけれども、実際はそうでもなさそうである。私も、21歳の頃、一年間で聖書を何度も通読し、他の人と聖書についてよく話をした。ローマン・カトリックと論じ合ったり、アルミニアン主義者の攻撃を受けたり、エホバの証人に攻撃されたりした。彼らと論じるとき、聖書のどこに何が教えられているのかを調べなければならないし、覚えなければならなかった。それで、何がどこにあるのかを覚えてしまった。子どもたちにはそのプレッシャーがまだ無いので、読んで内容がわかってはいても、どこに何があるのかをすぐに答えることがまだできない。

       それと同じように、アダムとエバに攻撃する相手が与えられた。攻撃されたことによって悟るということはアダムとエバにも言えることであったと思う。教会の歴史の中で、三位一体論がどのようにして確立されたかというと、異端者たちがどんどん現われて聖書の信仰を攻撃したために、その攻撃に対して明確に答えることができるようになるためであった。はっきり異端者らに対して自分たちの信仰を説明しなければならないので、攻撃が繰り返し与えられた結果、教会は聖書をよく調べてその信仰告白を明確にしたのである。攻撃されなければ、それほど頭の中で整理されないものなのだ。それ故、神はサタンの攻撃を許したもうのである。

       サタンが攻撃して惑わすことによって、アダムは悟るはずであったし、実際にアダムは悟ったと思われる。けれども、アダムは逆らうことを心に決めた。なんと、自分の妻を利用して、神を試すことを心に決めたのである。善の本質は、神の命令を行なうことである。悪の本質は、神に逆らうことである。その真理をアダムは深く悟るはずであったし、実際に彼は悟っていた。しかし、エデンの園におけるアダムの罪は、律法が良いものだと信じなかったことであった。それは神の愛に対する不信仰に他ならない。

       戒めはよいものであり、聖いものである。命令は善である。そのことをパウロは7章で説明しているが、これは実に重大なことである。善の本質は神の命令を守ることである。それはすべての被造物にとって真理である。それ故、命令自体が祝福なのだ。モーセの十戒を考えれば理解できることである。律法は「むさぼるな」と命じている。むさぼる心を常にもって生活を送っているのであれば感謝も喜びもない。これが足りない、あれが足りない、これが欲しい、あれが欲しい、どうして欲しいものが手に入らないのかと、いつも無いものを掴もうとしてむさぼる心の中で生活している。そのように生きる者に祝福はない。

       「偽証してはならない」と命じられているが、今の生活で言えば、それは嘘をつくことである。人間は、嘘をつくことによって何かを得ようとする。嘘をつくことによって幸せを手に入れ、嘘によって祝福を得ようとする。「嘘も方便だ」と言う。しかし、その結果、「よかった」と思うのはつかの間でしかない。嘘をつけばつくほど自分は駄目になり、心は腐っていく。他との人間関係も偽りで飾るような関係になる。心に平安はなく、嘘によって得たものは結局祝福にはならない。祝福は真理を語ることによって得るのである。だから、「嘘をつくな」という命令は、祝福なのである。それを守ることは、いのちの道なのだ。それこそ祝福の道なのである。

       「盗んではならない」と書いてある。盗むことによって自分の欲しい物がすぐに手に入る。しかし、それは決して祝福にはならない。盗んで手に入ったけれども、祝福にはならずに呪いをもたらすものとなる。自分を腐敗させ、人との関係を駄目にする。盗む道を歩めば歩むほど、心はおかしくなり、最悪なことに、そのむさぼりの心はどんどん深くなっていくのである。「欲しい。盗みたい」という気持ちがますます強くなる。だから、「盗むな」という命令は祝福であり、いのちの道である。

       「姦淫してはならない」とある。姦淫することで欲しているものを手に入れたと思うかも知れないが、そうではない。姦淫は自分を破壊してしまう。自分を蝕むものである。そこには真の自由も喜びもない。破壊しかない。心も腐ってしまう。

       「殺してはならない」とある。悪しき者は殺すことによって自分の欲しいものを手に入れようとする。殺すことで問題を解決しようとする。スターリンのように、一緒に働く者らを騙して自分の欲しいものを手に入れるが、それを手に入れると、騙した相手を殺す。また別の人と陰謀を企んで更に欲しいものを手に入れる。最高権威の座に就くと、共に陰謀を企てた者らを皆殺しにして、自分ひとり権威を独占する。しかし、最高地位と権力を手にしたのもつかの間、こんどは寝ても醒めても自分が暗殺される恐怖にかられるようになり、食事に毒が入ってやしないか、人に会うのを恐れるようになり、いつ誰に殺されるかばかり考え、誰をも信じられずに恐怖のどん底で最期を遂げたと言われている。「剣によって立つ者は、剣によって倒れる」という原則は誰もが知っているものである。殺す者は、自分が恐怖に墜ちて、呪いの人生を送ることになるのだ。

       そのように、モーセの十戒を考えれば、神の命令は祝福であって、祝福の道を教えるものだということは明らかなのである。クリスチャンであってもクリスチャンでなくても変わりはない。神の命令は客観的な真理であり、すべての人間に適用される。クリスチャンには「1+1=2」だけれども、クリスチャンでなければそれが適用されないわけではない。同様に、クリスチャンは嘘ついてはならないが、クリスチャンでなければ嘘をついてもよいわけではない。誰であれ、嘘をつくなら自分を駄目にしてしまう。盗むこと、姦淫すること、親を敬わないこと、神を礼拝しないことなどはすべて自分自身を駄目にしてしまうものであり、クリスチャンであるか否かによってその原則が変わるものではない。

       クリスチャンではなくても、その律法に従った生き方をするとき、そうしないよりかは幸福であることは事実なのだ。神の命令はすべての人に適用される客観的な真理なのである。クリスチャンであろうとなかろうと、神の律法に従うことは祝福の道を歩むことなのだ。個人にとってもそうであるし、社会にとってもそうである。嘘をつき、盗みと姦淫を行なうような個人は幸福にはならないし、これらの罪が蔓延した社会は繁栄しない。

       前に話したアフリカのイーク族の例がそうである。その部族はますます小さくなっている。子どもが生まれると、最初の二年間くらいは親が世話するが、三歳くらいになると放り出して自立させるという、驚くべき部族である。子どもは母親の愛を知るよしもない。大人は互いに会話することがほとんど無い。しゃべればだいたい嘘をつくばかりで、他の部族に憎まれている。人が死ぬと、蹴飛ばして屋外に放り出して腐敗するに任せている。葬ることもしない。男たちは朝から狩猟に行くが、仕事するというよりは食べるためである。獲物を待機している間、何も話すことなく座っている。いきなり一人が立ち上がって走り出す。獲物を見つけたのだ。

       その生活の一部始終をアメリカのある文化人類学者が詳細に記録しているが、獲物に向かって走るときはジグザグに走るという。そうしないと獲物の場所を他の人に知られて奪われる心配があるからだ。仲間を騙して獲物を取らなければならないのだ。獲物を手にすると、急いでまず食べる。急いで自分が食べる分を食べてから、持ち帰って妻に投げてやると、老人や妻や子どもたちは喧嘩して奪い合ってそれを食べる。喧嘩に負けるなら飢え死にするしかない。これは冗談の話ではなく、事実である。そのような社会が栄えるだろうか。栄える筈はない。嘘偽り、姦淫、盗み、憎しみの中で生きているなら、決して栄えることはないのである。

       その部族について書かれた書物が出版されたのは60年代なので、今どうなっているかはわからない。著者である文化人類学者は「これでも人間か」とコメントしている。そのようにコメントした彼を、多くの学者たちが批判し、彼がその部族を卑下するのを責めた。「これは、現代に残された貴重な原始人生活である」と人々は言って、彼を攻撃したのである。実は、この文化人類学者はもう一つの“過ち”を犯していた。彼は、「現代社会は、そのイーク族の社会に向かっているのではないか」と書いたので、彼の著書は更に激しい攻撃を受けることとなった。「今のアメリカはイーク族社会に向かっているのではないか。愛を尊ばず、家庭を大切にせず、子どもは親に逆らい、嘘偽りを語ることがまるで格好いいことであるかのように振る舞っている。その行き着くところはイーク族の社会と変わらない」というようなことを言ったからである。

       しかし、実に、嘘や盗みは市場社会の基礎を崩し、結婚の契約への不忠実は、人の働く意欲を壊し、憎悪を生む。ほとんどの男性は、金が欲しいからではなく、自分の家庭に祝福をもたらそうとして働くのである。パウロが「律法は正しく、良いものである」と言うとき、キリスト教であろうとなかろうと、個人と社会にとって神の律法は客観的に優れているということが念頭にあった。

       さて、神の命令は聖なるものであり、善であり、祝福である。この事実はいくら強調しても強調しすぎることはない。神の命令を守る道は祝福の道である。その命令を守れば守るほど、いのちを楽しむことができる。それは、もともと神が人間を愛しているからこそ与えた命令なのだ。その命令を、神からの愛として受けるときに、それを律法主義的な思いで受けることはできない。神は、私たちに知恵の教えを与えてくださった。歩むべき道を教えてくださった。いのちの道に導いてくださる。その道を喜んで歩むなら、益々祝福は豊かになり、もっと神御自身を楽しみ喜ぶことができるようになる。もっと神のために実を結ぶことができるようになる。

       律法は、神がどのような御方であり、また、私たちはどのような民となるべきかを教えてくれるので、それは祝福なのだ。この世にあってどのように生きるべきかを尋ね求めて理解しようとする私たちの深い切望を満たしてくれるものである。また、神の律法は、神の御性質を示し、私たちにいのちを与えてくださった御方を礼拝し、賛美するように私たちを促すものである。アダムとエバにはそれがよくわかる筈であった。私たちにも、そのことがわかる筈である。律法は聖いものである。律法は正しいものであり、祝福である。祝福は、神の律法への服従を通してやって来るものなのである。ここでパウロが教えているポイントは極めて大切なものである。

       では、どうして律法によって殺されるようなことになるのか。いかにしてそれは罪の機会ともなり得るのだろうか。それは、人間の心の中に罪があるからである。罪は、良いものを曲げて悪いものにしてしまい、自分を滅ぼすものなのである。母は幼い子どもに、「あぶないから、道路の真ん中で遊んではだめですよ」と言う。それは、子どもを憎んでいるから命じるのだろうか。「ケチなお母さんだな。道路の真ん中で遊ぶことが一番楽しいのに、そこで遊んではだめだなんて・・・」と、子どもは思ったりする。私たちは皆それに近い経験がある。道路の真ん中で遊びたいのに、なぜ禁じるのか。道路の横には広い空き地や草原があるのに、どうしても道の真ん中で遊んだり走り回ったりしようとする。

       母の命令は愛から出ている。母は、子どもが試練や苦痛から救われ、最も良いやり方で最高の祝福を得てほしいから命令を与えるのだ。しかし、愚かな罪人である子どもはその母の命令を軽んじ、母の心を理解しない。守れば祝福を与えるその命令を、罪の思いをもってわざわざ曲げて破ることによって、自分に呪いを招くのである。呪いを楽しもうとさえする。

       子どもの例では単純すぎるかも知れないが、私たち大人も同じような反応をしてしまうのではないか。神の命令を守ろうとせず、やってはいけないことを敢えてやろうとする。「やってはいけないってわかっているけど、今回だけは、例外だ。やらなければ欲しいものはもう手に入らない。こうしなければ、仕事は成功しない」と思ったりする。子どもよりはいくらか複雑な口実を設けたりして、結局その祝福のための命令を破るような道を選んでしまう。これは、罪が、その良いものを曲げて、祝福の道から自分を引き離すように導くことなのだ。それで、罪が如何に悪いものかが明らかになる。そのことをパウロは13節で説明している。

    では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

       良いものを曲げることによって、祝福を与えるはずだったものが呪いを与えるように働く。これが罪の働き方である。先週も同じ話をしたかもしれないが、もう一度話しておきたい。主イエス・キリストの譬え話の中にタラントの話がマタイの福音書25章にある。主人はしもべたちにその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡して旅に出た。「タラント」は能力を指すのではなくて金の重さを指しているが、それは人生の時間や能力を象徴している。五タラント預かった者はすぐに行って働いて更に五タラントを得て主人に十タラントを返した。二タラント預かったしもべも、更に二タラントを儲けて主人に四タラントを返した。しかし、一タラント預かった者は、自分に与えられた祝福を呪いと考えた。つまり、「このタラントは、私には重荷であり責任になる。そんな責任を負いたくはない」と考えたのである。

       責任とは、応答の義務であり、それを与えられると応えなければならない。与えられたものをもって神のために実を結ぶように働き、それを神に返さなければならない。これが「責任」である。悪いしもべは、「そんなのは苦しみだ。嫌なことだ」と思い、地を掘ってそれを隠した。そして、与えられた時の状態をそのまま主人に返した。思い違いをしてはいけない。与えられた祝福はすべて責任なのである。時間も能力も、この日本に住んでいる状態もすべて、祝福である。他の国々よりも遥かに豊かなのだ。自分の家庭の状態も祝福である。神から与えられた祝福である。祝福は責任に他ならない。「そんなんだったら嫌だ。いらない」と思うなら、それは祝福に対する感謝の無さを表わしているのだ。

       自分に何か与えられると、「それは私のものだ。私のものなのだから、自分が使いたいように使わせてもらう。指図はいらない。邪魔するな」と考えるのか。「これは私の財産だ。私のお金だ。私の時間だ。私の権利だ。私の能力だ。私の人生なのだ。あなたに対して応える必要なんかない」と言うのか。それが神に対する罪人の思いである。祝福を与えられても感謝しない。しかし、その祝福を自分の欲のために使うとき、本当はその与えられたもの全部を腐らせてしまうことになるのである。そして、逆説的に聞こえるかも知れないが、神から与えられたものを神のために使い、神にささげて用いるときに、初めて花が咲いて実が成るのである。初めて、与えられたものが本当の意味で自分のものとなるのである。

       神が祝福を与えてくださるのは、後でそれを取り上げるためではない。本当に私たちのものとなるために与えてくださるのだ。しかし、真に私たちのものとなるためには、神にそれをささげなければならない。そうするときに初めて本当の意味で自分のものとなり、それを楽しむことができる。神は私たちに御自分の祝福を豊かに与えてくださり、それを正しく受けるために御自分の命令を私たちに与えてくださる。どのようにそれを受けるのかというと、感謝の心をもって受けるのである。神の愛を信じて感謝して、神の御名の栄光のために生きるのである。そうすると、与えられたものすべてが、本当に自分のものとなる。真に実を結ぶ者となるのである。

       「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」と、パウロは説明している。これは天地創造の最初からそうであった。アダムとエバは、罪を犯すことによって律法的な呪いの関係に墜ちてしまった。しかし、今私たちは御恵みによって、アダムとエバが堕落する以前に神と持っていた“愛の関係”に戻っているのである。そして、アダムとエバが最初に持っていたような、否、それ以上に豊かな祝福が私たちに与えられている。それで、私たちは何をすべきかというと、神の愛を楽しみなさい、ということなのである。

       それは、神の命令をまとめる言い方にもなる。神を愛し、神を喜ぶのである。愛されていることを喜び、感謝し、神が愛してくださるその愛を豊かに受けなさい。正しく受けて、喜びなさい。それは神の命令のまとめでもある。もちろん細かい教えもある。それはモーセの613の定めやパウロの手紙の中の命令などで教えられているが、本質的に神の命令は愛であるから、命令を喜ぶことは神の愛に応えることである。私たちが生きているこの時代では、生活の詳細におよぶ言わば官僚的な法律がどういうわけか役に立つものと考えられているが、道徳性に関する教理や法律については、自由に対する束縛として見られている。

       現代人は、「道徳性とは、あまり賢くない先人によって発明された遺物であって、現代人はその義務からは免除され得る、或いは少なくとも根本的に各人の諸目的に合うものとして緩和され得る」と、納得してしまっている。この現代的精神構造と戦い、今の時代にあってキリストの栄光を求めて立つためには、「神の律法こそ真実である」ということのみならず、「律法は良いもの」であることを、クリスチャンは深く確信していなければならない。律法は祝福であり、私たちに確かな祝福の道を教えてくれるものである。明らかに、「律法は良いものである」と告白することは、その熱心に律法を求めなければならないことを意味している。もし律法が金銀よりも優っているという詩篇119篇の記者と同じ信仰に立つのなら、そのように律法を取り扱うべきである。子供たちは、私たちが律法をどのように大切にしているかを見るとき、律法が良きものであることを確信するであろう。

       聖餐式もまったくそのようなものである。なぜ私たちは日曜日に教会に来るのか。変な外人から厳しい説教を聞くためではあるまい。日曜日の礼拝になぜ集まるのかというと、神の家に来るように神から招かれているからである。最も深い意味において、私たちにとって美味しいものは他でもない神の御言葉なのである。詩篇112篇や119篇にもあるように、御言葉は金銀に勝るものである。それは最高の祝福である。神の御言葉を受けて一緒に賛美し、一緒に御言葉を読み、一緒に御言葉について考える。これは祝宴なのだ。神に招かれた祝宴である。大きな祝福である。神との愛の交わりを持つために私たちは教会に来ている。

       礼拝の中で私たちは聖餐式を守っている。聖餐式で、神は御自分の代表である長老たちを通して私たち皆に主イエス・キリストを与えてくださる。パンはキリストの御身体の象徴であり、葡萄酒はキリストの血の象徴である。神は、主イエス・キリストの十字架の愛を私たちに与えてくださるのである。「キリストの十字架の愛を喜び、キリストの十字架の愛を受け、その愛を楽しむために、日曜日の祝宴にどうぞ来てください」と、神が私たちを招いてくだる。日曜日の礼拝は神に祝福された祝宴であり、祭りでもある。

       だから、「礼拝を守りなさい」と言われるときに、「ああ、また礼拝に行かなきゃならないのか。大変だな」というような思いになる筈はない。「今日は、お祝いしなくてはいけないなんて・・・」とがっかりすることではない。そのように神は私たちに礼拝を与えてくださる。そして、家族が一緒に集まって礼拝するのである。それは、家庭を築き上げるものであり、家庭を祝福するものである。個人一人ひとりに祝福を与えるものである。私たちがクリスチャンとして生きることの本質は、神の愛が与えられているのでその愛を喜び、感謝して歩むことである。

       毎週私たちは礼拝において、「私にとって生きるとは、こういうことなのだ」ということを毎週教えられるのである。そのために礼拝は与えられている。愛されていることを覚え、生きる意味を覚え、生きる目的を再確認し、神の愛と祝福を楽しむのである。そういう意味で礼拝は安息である。

       「神の律法とその命令は聖なるものであり、私たちにとって祝福である」ということを考えるとき、エデンの園の意味が真に理解される。キリストの贖いによって私たちはエデンの園の状態にもう一度置かれ、その祝福の状態が与えられたということを理解するのである。“行ないの契約”という概念が残念なことにウェストミンスター信仰告白の中で教えられているが、そのところを取り消して、逆に神の祝福と恵みと愛の交わりのことをエデンの園の箇所で子どもたちに教えるべきである。そして、礼拝の意味を教え、至聖所に集まって神に礼拝することの意味を教えるべきである。それは私たちにとって中心的なことである。礼拝の意味は、私たちのすべての生活につながるものとなるのである。

       すべての生活につながると言うけれども、私たちは罪人であり、結局愚かなことをしてしまうし、罪を犯したりしてしまうものである。すべての生活に自動的に簡単につながればいいのにと思う時もあるが、そうではない。私たちは、汗を流して祝福を得なければならないのである。それは堕落後の人類の状態であり、私たちも例外ではない。汗を流して罪と戦って成長していくものである。汗を流して罪と戦って家庭の祝福を求めるのである。最終的にクリスチャンは、汗を流して救いの福音を伝えて全世界が救われるために働く者である。そうして、人類として、そしてクリスチャンとして成長していく者でなければならない。汗を流さなければ何も祝福は得られないのである。

       インスタントラーメンはあっても、インスタント祝福というものはない。祝福を得るために、私たちは真剣に自分の心から罪を取り除かなければならない。罪を捨てなければならない。聖餐式はそのために神から与えられている。私たちは聖餐式のときに、自分の罪を悔い改めて、罪を捨てて、主イエス・キリストと共に正しく生きる思いを新たにする。その命令も善であり、祝福である。私たちを祝福するために、神は、罪を悔い改めて罪を捨て、正しい道に戻るように命じておられる。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年3月26日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙7章7〜12節

    ローマ人への手紙7章14〜25節 (1)

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