HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙8章3〜4節


    8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

    8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

    2000.06.18. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    律法には出来なくなっていること

    8章3〜4節

       先週はローマ人への手紙8章2節のところを見た。パウロは、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の契約が、罪と死の契約から、私を(或いはあなたを)解放したからです」と言っている。ここでパウロは古い契約と新しい契約の対比について話している。アダムにある古い契約が罪と死の契約であるのは、堕落後の話である。アダムが罪を犯し、神から離れてしまったので、アダムの子孫も生まれながらにして罪の中にあって死ななければならない者としてこの世に生まれて来る。そのように古い契約は、アダムの罪によって、「罪と死の契約」になってしまった。

       新しい契約は「いのちの契約」であり、それはキリストにある契約である。それは御霊の賜物を私たちに与えてくれる契約である。その古い契約と新しい契約の対比が2節にある。続く3節からの箇所も、その古い契約と新しい契約という大きな枠組みの中で考えなければならないものである。聖書の世界観は基本的に契約的な世界観であって、契約の枠組みの中で言葉の定義をしなければならないし、諸々の話の論理的な流れもまた契約の概念に基づいて考えなければ、全部誤解してしまうしかないものである。

     

    肉と律法

       特にこの8章では、「」と「」の対比となっているが、契約的に考えなければ、とんでもない解釈になってしまう。ギリシャ語では「霊」と「御霊」は同じ言葉であり、「息」という意味もある。また、「肉」という言葉はすでに何度も登場しているが、8章では更に多く登場する。そこで、あたかも「肉」が人間の物質的な部分を意味するかのようなギリシャ哲学のカテゴリーに従ってこの言葉が理解されるべきではないという点を再度強調しておきたい。

       昔の西洋人は、ギリシャ哲学の影響を受けたりして、「」という言葉を「霊的なもの」という存在論的な意味に解釈して、「」と「」を「霊的なもの」対「物質的なもの」というような考えをもってこの箇所を読んだりした。そこから、「物質的なものは悪いものであり、霊的なものは善いものだ」という解釈になってしまう。聖書の中では、「肉体を持つものが悪くて、霊だけのものは善い」という考えはない。最初に神が万物を創造されたとき、最初に罪を犯したのはサタンであり、サタンは肉体を持つ存在ではなく霊的存在である。そして、この世の中でも悪の基本的な問題は肉的とか物質的というよりは霊的な問題なのだということも言わなければならない。

       人間は、物質的存在だから空腹を覚えたりいろいろな欲が出て罪が生じるというものではない。それはギリシャ的な考えである。「この肉の身体から解放されたら、救われる」というのが昔のギリシャ的な考えであった。肉体がなければ、空腹にはならないし、身体のいろいろな欲求もない身体と考えるのである。決してそうではない。被造物の中で一番罪深い者はサタンであり、サタンに従う悪霊たちなのだ。そのサタンと悪霊たちの罪は、何も物質的なこととは関係がないものであって、神を憎む心をもって神に逆らう者なのだ。それが、罪の本質である。パウロは、人間の物質的部分と非物質的部分を比較しているわけではない。

       ここでの要点は、「肉体は弱いゆえ、人間は霊的つまり非物質的になることを習得しなければならない」ということではないのである。この種の考え方は、独身を結婚よりきよいと見なす考え方や、断食をはじめとする様々な自虐的な形態を特別に聖なる行為として高めることに大きな役割をキリスト教会の歴史において演じてきた。こういったことは西洋においてはよく耳にするが、聖書にはこのような考え方は全く含まれていない。それは全く非聖書的な考えなのだ。

       もし、今日、新宿に行って、聖書を読んだことのない日本人に、この8章の「肉と霊」の箇所を読んであげて、「これはどういう意味だと思いますか」と聞いたらどうなるだろうか。ギリシャ的な考えで答えてくるか、あるいは、まったく違う想像もつかない答えが返ってくるか。クリスチャンであっても、「肉と霊」というような箇所を読むときに、ギリシャ的に解釈してしまうこともあるだろう。そう解釈しないとしても、これを読んですぐに「あっ、これは古い契約と新しい契約の話だな」と考えるだろうか。実は、そう考えるべきなのである。そのことを是非ここで強調したいと思う。

       パウロは、コリント人への第一の手紙15章で、アダムが創造されたとき、アダムは肉の契約の頭(かしら)であったと言っている。そして、主イエス・キリストは十字架の死から復活されて天に上られて神の右に座したとき、御霊を与えてくださると言っている。だから、新しい契約は御霊の契約である。古い契約は肉の契約である。それが基本的な考えであることをしっかりと覚えてほしい。そのことを念頭において、この箇所を学びたいと思う。

       福音は私たちを古い契約から解放して自由にしてくださった。なぜ古い契約から解放される必要があったのかというと、私たちはアダムを代表者として持っていたからである。国の代表が何かの条約を結ぶとき、その国民も当然その条約に入る者となり、その影響を受けることになる。代表が行なうことは代表される者に適用されるからである。アダムは罪を犯し、エデンの園から追放され、罪の宣言の下にあって生活を送らなければならない者となった。私たちはアダムにある者として生まれ、罪ある者として生まれ、それ故、契約の裁きの宣言の下にある者としてこの世に生まれて来た。その状態から解放されなければならない。

       これは人類にとって根本的な問題である。そこに、クリスチャンではない人たちが聖書の教えに逆らう一番大きなポイントの一つが出て来る。つまり、「愛なる神がすべてを支配しているのであれば、どうして嵐によって多くの人が死んだり、伝染病が流行って沢山の人が死んだりするのか。悲惨な戦争によって罪の無い人たちが大勢死んだり、世の中には納得いかない苦しみがありすぎるのは、どうしてなのか。だから、私は神なんか信じない」と言うのである。

       聖書の教えを見れば、この世は愛なる神によって創造されたが、「この世は罪のゆえに神の御怒りの下にある」と教えているのである。そのことは、ローマ人への手紙1章の18節からのところで説明されている。神に逆らい、神から離れてしまった人類は、神の御怒りの下にある。「そこから福音は始まっている」とパウロは教えているのだ。だから、この世の諸々の事柄を見るとき、私たちは神の御怒りの下にある世界、すなわち神の律法の裁きの下にある世界を見ているわけである。そのような状態から解放されなければならない。それは誰もが感じていることである。しかし、愛なる神を否定するなら、解放される道はないのである。 愛なる神を否定するところから始まるならば、忍耐したり、無視したり、嘆いたりすることはできても、その裁きの呪いから解放されることは有り得ないのである。

       しかし、愛なる神が、その裁きの下にある状態から私たちを解放してくださる道を備えてくださった。それが「福音」である。神が愛なる神だからといって、それだからすべての人は神の愛の中にいるということではない。罪人は、神から遠く離れている。この世は、神の御怒りの下にあるのである。だから、人類の歴史を見るときに、洪水や嵐や地震などの自然災害は非常に多く、疫病の問題があり、人間の罪から出て来る戦争や犯罪の悲惨は非常に多いのである。

       二十世紀の歴史はとくに著しいものであった。人類の歴史の中の戦争、犯罪、そして残虐な支配者による民への虐待や殺害などの悲惨を見るとき、二十世紀はその数においても割合においても全人類歴史の中で最も多い世紀であった。実に、罪と死に満ちた百年間であった。その二十世紀の歴史を見るとき、神の裁きを感じないではいられない。

       クリスチャンではない人がナレ−ションをしている第二次世界大戦のドキュメンタリ−で、その目を覆いたくなるような悲惨な場面を次から次へと見せて行く中で「神の怒りを感じる」という言葉を口にしていた。クリスチャンでなくても、そのような悲惨さを見るとき、「神の怒りを感じる」という言い方をしてしまう。その光景は、神の呪いと裁きとしか思えないものだからである。実に、そのとおりなのだ。

       神の御怒りの下にある人間が、どのようにそこから解放されるのか。それが人間の根本的な問題なのだ。それだからパウロは、ローマ人への手紙1章18節からのところで「神の怒り」について説明するわけである。それが福音の出発点である。それで、8章2節のところでは、「キリストにあるいのちの御霊の契約」つまり「福音」が、私たちを古い契約の罪と罰の状態から解放してくださると説明するのである。

       神は人間を罪と死に捨て置かれることはなさらず、罪に対する律法の要求を満たすのみならず、私たちが律法そのものに従うことができるよう罪の縄目から私たちを解放する救いの道を開いてくださったのである。3節と4節はそのポイントを更に説明している。この3節も、文頭に「というのは」とか「なぜなら」という言葉で始まるような文章である。

     

    肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

       「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていること」というのは、アダムが罪を犯してエデンの園から追放されたときのそのアダムを頭として持っている契約の話なのである。その古い契約の問題は、肉によっては取扱うことのできないものになっている。古い契約には「贖い」は含まれていない。堕落する前のアダムは罪人ではないので、贖いは必要ではなかった。しかし、罪を犯してしまったとき、贖いを与えるためには古い契約ではそれができない。贖いのためには新しい契約が必要であった。

       「」は、人間の罪深さを意味している。それは人間が物質的被造物であるという事実とは関係はない。人間は創造されたときから永遠に物質的被造物であり続けるのである。私たちは、物質的な身体自体が消えてなくなることではなく、復活の身体において頂点に至る救いを待ち望んでいる。「」が罪を意味する理由は、最初の創造である肉による私たちの父が神に対して罪を犯して全人類に裁きをもたらしたアダムであったからである。

       アダムの罪から離れて考えれば、「」という概念自体は単に「最初の創造」を指している。しかし、もちろん本当の意味で「肉」をアダムから切り離して考えることはできない。なぜなら、最初の創造全体はアダムの罪によって壊され、その子孫たちは一人残らず罪深い性質としてしか「肉」を経験しなくなったからである。アダムの罪、即ち肉の状態によって、古い契約は無力になり、救いに対しては何一つできないものとなった。堕落したアダムにあって「肉」は、契約的な反逆者としての罪深い性質を意味している。この罪深い性質が、律法の弱さの本質であった。

       もともとエデンの園で与えられた契約は「贖い」の契約ではなかった。エデンの園の中での契約の場合、神はアダムを愛し、契約の祝福を与え、アダムとエバはその愛を喜んで正しく神との関係を守るはずであった。そうすれば、永遠に祝福されるはずであった。しかし、最初の契約を破ってしまったとき、その約束のとおりにアダムとエバは死ななければならない者となったのである。アダムとエバはエデンの園から追い出され、その古い契約(肉にある契約)は無力なものとなった。

       何度も繰り返すが、どういう意味で「無力」なのかというと、「救いを与えるという点では何も力はない」ということなのだ。契約の頭が堕落したので、その代表されているすべての人たちも、アダムと同じ罪と罰の下にある者となっているので、古い契約は人間の問題を解決するには弱すぎるものとなった。律法は、ふさわしい身代わりを提供することができなくなったため、人類全体を滅ぼす意外に罪を適切に処罰することができないものとなった。いけにえの動物の血が本当の意味で罪を取り除くことは決して有り得ないことであった。

     

    神の方法

       しかし、神は、私たちに救いを備えてくださった。古い契約にはできなくなっていることを、神はしてくださった。「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」とパウロは言う。古い契約は、罪の罰を完全に行なうことはできないので、罪人の私たちを解放することもできない。ここで、「罪の罰を完全に行なうことができない」と言っているのは、私たちが罪から解放されるため、そして死から解放されるためには、罪に対する神の罰が完全に執行されてその罰が完全に取り除かれなければならないからである。しかし、私たち一人ひとりが自分の罪の罰を受けることになれば、それは「永遠の死の罰」となるのである。「永遠の死」に救いはない。

       罪に対する神の御怒りについて、聖書は深く教えている。人間が自分の罪のための罰を支払うということなら、地獄の炎の中で永遠にそれを払い続けることになる。そこに救いはない。肉は、罪の問題を取扱うことはできないのである。アダムにある自分は、自分の罪の問題を取扱ってそこから解放されることは決してない。それ故、愛なる神は、ご自分の御子をこの世に遣わしてくださった。主イエス・キリストによって罪の問題を完全に取扱うためである。即ち、罪を完全に処罰するためである。そして、それを神はしてくださったのである。

       パウロは、「罪のために」という言い方をしているが、これは、「罪の問題を解決するために」という意味である。つまり、罪を完全に取扱うために、神は主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのだ。パウロはまた、「罪深い肉と同じような形でお遣わしになった」と言っている。これは、一つには、主イエス・キリストは完全な人間であったことを意味する言い方である。キリストは、私たちと同じ形と姿を持つ人間としてこの世に来てくださった。キリストは完全な人間である。その身体は私たちの身体のようであった。

       しかし、キリストがこの世に来られたとき、人類全体は罪の状態にあり、「罪深い肉」の身体を持っている罪人であった。キリストは、その罪人である私たちと同じ「かたち」で、私たちの間に来てくださった。人間は、罪を犯していなければ、人類は違うものであるはずだった。人類の契約の代表であるアダムとエバが罪を犯していなければ、病気もなければ、今のような意味での老化もなく、死もなかったし、身体の諸々の状態も違うはずだった。アダムの罪により、罪の罰は人間の身体においても表われるものになった。

       主イエス・キリストがこの世に来られたときに罪深い者と同じような形で来られたと言うとき、それは、「目で見れば私たちと同じものに見える」という意味である。昔の絵のように、頭の上に光の輪があって、道で出会うときに「この人は何者だろう」と思ってしまうようなものではなかった。「私たちとまったく同じ形を持つ人間としてお生まれになった」ということをパウロは話している。もしかすると、病気や虫歯になり得たのかも知れない。しかし、病気になられたことは聖書のどこにも記されていないので、病気にはならなかったかも知れない。ここでは、「病気に成り得る身体だったのか、成り得ない身体だったのか」という議論は別にしたい。

       いずれにせよ、主イエス・キリストは今の私たちと同じ肉の身体を持つ人間としてこの世で生活された。勿論、罪人ではなかったが、罪人が持っているような身体を持っておられた。キリストは弟子たちと一緒に旅しておられるとき、「疲れを覚えられた」ということが記されている。ヨハネの福音書4章に、弟子たちは町に食べ物を買いに行ったが、「イエスは旅の疲れを覚えて、井戸のそばに腰をおろしておられた」とある。また、マタイの福音書8章24節では、激しい暴風が起こったとき、キリストだけが船の中で眠っておられたことが記されている。キリストは、働き過ぎて疲れを覚えて休まれたことが数箇所、福音書に記されている。キリストの身体は私たちと同じ身体であった。

       これが実に大切なことなのだ。私たちと同じものでなければ、私たちの身代わりとなって契約の代表者として罪の罰を受けることはできないからである。このことは、ヘブル人への手紙2章でも説明されている。契約の頭として、私たちと同じ姿になってくださった。私たちの契約の代表であるキリストは、私たちと同じような「肉の身体」を持っておられたので、神は、キリストの肉において罪を処罰されたのである。つまり、「キリストは、肉の契約のアダムの子孫としてこの世にお生まれになった。だから神は、キリストの肉において罪を完全に処罰することができた」ということである。

       主イエス・キリストの母の系図がルカの福音書3章にあるが、その系図がずっとアダムにまで遡っていくところに、その意味が明らかにされている。主イエス・キリストはまことにアダムの子孫であった。その古い契約の「」を持っておられた。キリストは、新しい契約の代表者として古い契約の問題を解決しなければならないのである。古い契約が宣言する「」を受けなければならない。それを完全に受けて「」の問題を完全に解決してくださったので、復活して天に上り、王として神の右に座られたのである。神は、キリストにおいて罪を処罰された。アダムの身体を持っているキリストなので、その罰を完全に受けることがおできになったのである。

       「罪深い肉と同じような形」という言い方にはもう一つの意味がある。それは、主イエス・キリストは私たちと同じような形を持っておられるけれども、私たちと違う御方であるということである。イエス・キリストは、人間の身体を持つ前にすでに永遠の人格(神について「人格」という日本語は不十分であるが)として存在しておられた。単に“人間”であったのではない。「肉の身体を持った」ということは、そこで新しい人格になったというわけではないのである。人格においてキリストは、三位一体なる神の永遠の第二位格であられる。三位一体の「御子」なる神が、人間の代表となるために「肉と同じような形」を持つようになられたけれども、そこで新しい人格が表われたというものではない。私たちと同じような身体を持っておられるけれども、永遠なる神の第二位格なのである。まことの人間であると同時に人間以上の御方である。

       神は、アダムにある古い契約の問題、すなわち罪と罰の問題を解決するために、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。キリストは、契約の代表として十字架の上で私たちの代わりに罪の罰を受けて死んでくださるために、私たちと同じ肉の身体を持たなければならない。その「肉の身体」を持っていたので、神は十字架の上で契約の頭であるキリストの肉を裁き、そこで完全に古い契約の問題を解決することができたのである。イエスの十字架上の死は、キリストの人性において成し遂げられた罪の裁きであった。無論、イエスが神でなかったなら、その裁きは私たちを救うことは出来なかったであろう。パウロは、神が「ご自分の御子」を遣わし、「肉において」裁かれるために、「罪深い肉と同じような形」で世に来られたと述べることによって、イエスの人性と神性の両方をここで指摘しているのである。

     

    神の目的

    それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(4節)

       古い契約の問題は、基本的に二つある。一つは罪であり、もう一つは死である。主イエス・キリストは十字架上で、罪の問題を完全に解決してくださったので、死の問題もそこで解決された。つまり、「必ず死ななければならない」という罰はキリストにおいて既に執行されたのである。しかし、死んで、そこで終わったなら、死の問題は解決されないし、救いも有り得ないことになる。死に対して勝たなければならない。それ故、キリストは死んでから三日目に復活されたのである。それ故、十字架と復活をいつも一緒に考えなくてはならない。キリストが復活したのは、死に対して完全な勝利を得るためであった。

       そして、罪と死に対して完全な勝利を得た主イエス・キリストは、ただ復活してこの世に戻り、この世に生き、今日までこの世に住むということではない。キリストは、新しい契約の代表者として“問題”のすべてを解決されて、こんどは祝福として契約の頭に与えられる王座がキリストに与えられたのである。天に上り、神の右に座り、そこからずっと歴史を終りの日まで支配しておられるのである。十字架だけではなく、復活がなければならない。復活だけではなく、天に上り、王座に着座され、歴史の終りまですべてを支配するのである。この全部が救いの福音において非常に重要なポイントなのである。

       主イエス・キリストは、天に上られてから、御霊を私たちに与えてくださった。これは、ヨハネの福音書の13〜17章でキリストが弟子たちに語られた最後の言葉の中で強調されている重要なテ−マの一つである。「私が天に戻らなければ、あなたがたに御霊は与えられません」とキリストは弟子たちに教えた。キリストは、ご自分が天に上ってから御霊を遣わすことを長く弟子たちに説明して教えている。そして、使徒行伝1章の最初のところでキリストは弟子たちに、「エルサレムを離れないで、聖霊のバプテスマが与えられるのを待ちなさい」と命じておられる。そして、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、世界の果てまでわたしの証人になる」と弟子たちに最後の言葉を残している。そこで、弟子たちはキリストが天に上っていかれるのを見た。そして、ペンテコステの朝、聖霊が与えられたのである(2章)。それが、新しい契約の決定的なスタ−トということになったのである。

       そこで、御霊の祝福が与えられて、弟子たちが聖霊に満たされて神の御名を賛美している。古い契約は終りを告げ、「いのちの御霊」が与えられている。キリストの死の目的は、単にアダムに属する堕落した人類が堕落以前の栄光と聖さへ回復されることではなかった。イエスは確かにそれをしてくださったが、実はそれ以上のことを為されたのである。このお方は、人を最初の創造の意図であった成熟の状態まで連れて行かれるのである。

       アダムが園で罪を犯していなかったとしても、人類はただアダムとエバの最初の未熟の状態のまま続くのではなく、進歩や文明があったであろう。人類は神が最初にエデンの園にいたアダムとエバに与えられた文化命令を成就していき、いつか神との新しい契約関係へと“卒業”する備えができていったであろう。エデンの園の神殿で礼拝するかわりに、人間自身が園の神殿となっていたであろう。

       言い換えるなら、人間は、いずれ御霊の賜物を受けるという目的をもって初めから創造されていたのである。それがアダムの罪によって失われてしまったけれども、イエスは、アダムにあって失われたものの全てを勝ち取り、未来の御国をも含むすべてを取り戻されたのである。死からよみがえられた時、イエスは御民の上に神の御霊の賜物を与えた。いまや、「肉の」契約ではなく、「聖霊の」契約である「新しい契約」が存在するのである。新しい契約のいのちの御霊の賜物は、人を罪から自由にし、遂には新しい復活の身体をもたらすのである。

       「御霊が私たちの中に住む」ということは、先週も説明したように、それはヨハネの福音書7章にあるキリストの約束のことである。クリスチャンは、自分の中から生ける水の川が湧き出て流れ出るようになり、いのちの力が私たちから湧き出るようになる。これはキリストの約束である。そのいのちの力は御霊の力である。それが御霊の契約である。御霊の賜物を受けた私たちは、もはや肉に従って歩むことはしない。肉に従って歩むのは、古い契約の歩みであり、堕落後のアダムとエバの歩み方である。

       肉の契約の歩み方は、まだ贖いが与えられていないので、人類はまだ子どものような状態にある。アダムからキリストまでの古い契約の時代にあっては、神は、すべての行事に関するカレンダ−を与え、年間のスケジュ−ルを与え、何を着るかを定め、食べてよい物と食べてはならないものを定め、年間三回エルサレムに上って礼拝をささげることを命じ、行なうべきことを命じ、ささげ物についての定めを与え、部族ごとに住む場所も定め、勝手に住みたいところに行って住むことはできなかった。イスラエルは子どもの状態にあり、すべて神の定めに従って歩まなければならなかった。それも古い契約の歩み方の中に含まれることである。

       「肉に従って歩む」ことについて話すとき、旧約聖書のイスラエルの契約的な広い背景の枠組みの中で考えなければならないのは確かである。7章のところでパウロは、「律法の要求を知ったとき、私は逆らった」というようなことを言っている。「むさぼってはならない」と言われなかったらむさぼりを知らなかっただろう、と言っている。「してはならない」と言われたら、かえってしたい思いが引き起こされてしまった。「逆らうな」と言われると、神の律法に逆らう思いになる。それが「肉の思い」であり、神の律法を喜ばずに、神の律法を重荷に思う心である。

       神の律法のいろいろな定めや戒めやモーセの律法の613の命令を見るとき、それが重荷に思えてならないのである。「これは大変だ」と思うのである。本当は何も大変なことではない。「殺してはならない」という命令は大変だろうか。誰も、毎日それを重荷に思ったりしてはいない筈である。一年間に三回祭りをすることも、別に大変と思うようなことではない。食べ物の律法についても、幾つかの大きな例外を除けば、私たちもそのほとんどを守っていると言える。ゴキブリやネズミを食べる人は少ないだろうし、鷲やカラスを食べる人もあまりいないだろう。エビとか豚などの例外は幾つかあるが、律法が禁じるような食べ物は、普通あまり食べたりしないものである。ある食べ物が禁じられているからといって、それで苦しい思いになったり困窮することはない筈だ。

       モーセの律法は、本当はそれほど難しいものではない。パリサイ人たちがそれにいろいろな規則を付け加えたりしたので、それは難しいものになり、律法は曲げられて重荷になってしまうという面はなくはない。しかし、神を憎む心をもってモーセの律法を見るならば、ことごとく問題になってしまうのである。「なぜ私は北に住まなければならないのか。私は嫌だ」「どうしてこの服でなければならないのか。私は嫌なの」「どうしてこの食べ物でないとだめなのか。私、嫌なの」と、子どもみたいに神に逆らうのである。そうすると、食べ物でも、住む所でも、仕事でも、礼拝のあり方にしても、どれを取っても問題で不満だらけになる。「私はレビ族なんかに生まれたくなかった。私は大工になりたかったのに」「なぜこれをしてはいけないのか」と思ったりする。彼らに選択の余地はなかった。だから、逆らう心を持って考えるなら、とても簡単なことであっても重荷になり得るのである。

       「毎朝いけにえを捧げなさい」と命じられているから、毎朝、ひつじや山羊や牛や鳥を殺さなければならない。「また、今日も、血だらけになって動物を殺して、いけにえを捧げなければならないのか」と思ったりするだろう。しかも、最も良い傷のない物を捧げなければならないのであるから、ケチな人は大変だ。マラキの時代になると、悪い物を捧げるようになったが、それは罪人の心理がもたらす自然な結果であった。「どうせ殺してから、祭壇の上で燃やして煙にするだけなのだから、良くても悪くても同じではないか。律法で一番良い物を捧げるというのはおかしい。一番良いものを愛して、大切にして、いらない物を神に捧げても同じではないか」というような逆らう心を持ったなら、律法はことごとく重荷になる。

       律法が楽しいか楽しくないかではなく、神に対する心はどうなのかということが本当の問題なのだ。主イエス・キリストの時代のイスラエルでは、みな律法に従うことはもう楽しくなくなっていた。重荷になっていた。民は、神に逆らう者になっている。それが「肉に従って歩む」ことである。それは、主イエス・キリストの時代のイスラエル人のように歩むことである。

       例えば、神の律法に対して、どうしたらその命令を回避できるかばかり考えたり、守るにしても嫌々守っている。肉の思いを持って生きる者は、神の律法を守ることはできない。神の律法に逆らう心を持って生きているからである。この後でもパウロは説明しているが、これは7章でも説明していることである。律法が来ると、肉はそれに逆らうのである。肉の思いを持つ人間にとって、律法の要求は罪を招くものなのだ。それは、死ななければならない状態に導くことになるのである。

       「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」というのは、新しい契約の救いが与えられた者には御霊が与えられているということである。クリスチャンは「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」人々である。御霊の祝福が与えられているのであれば、神御自身を愛しているはずである。それだから、神の律法をも愛するのである。神を喜ばせたいからである。神に従い、神の御名のため、御国のために、実を結びたいからである。心の最も深いところにある望みは、神の御国であり神の栄光である。この「御霊に従って歩む私たち」というのは、救われた者たちのことである。主イエス・キリストを信じて、御霊が与えられ、神の律法を守りたい思いを持つ者となったのである。

       その心も7章の14節からのところにある。「神の律法を守りたい。神の戒めを守ること以上の喜びはない。律法が良いものであることを知っている。けれども、律法を守ることにおいて、私はあまりにも足りなくて弱い者である。そのことを思うときに、苦しくなる」というような心がそこに表わされている。それはクリスチャンの心である。パウロの苦しみは、律法を守ることではない。律法を守りたいのに、十分に守ることができないから、苦しいのである。

       その二つの苦しみは全く異なるものである。逆らっても逆らっても勝てないところから来るくやしさと苦しみは「肉の思い」から来る苦しみである。「律法を守りたい。神を喜ばせたい。神の御心のみを行ないたい」という心を持っているのにいつも失敗してしまうことに対するくやしさと苦しみは、肉の思いとは本質的に違うものである。肉の思いの苦しみには、喜びは伴わないし感謝もない。神に逆らいながら苦しんでいる者は、その心の根本において空しいものである。しかし、神を喜んでおり、神の律法を守りたいという願いがあるのに、罪人であるゆえに躓いたり失敗を繰り返してしまう者の心の根本は、神への感謝に満たされるのである。

       クリスチャンは堕落したアダムの根本原則に従って人生を歩むことはしない。神に愛されていることを知っており、神が自分の罪を赦してくださることを覚えており、神の御恵みを喜び、感謝するのである。自分を喜ぶことはできないが、神御自身を喜ぶことはできる。常に神に対して感謝の心を持って歩むのである。それが「御霊による思い」である。それが、御霊に従って歩む心である。5節からパウロは更にそのことを説明していくことになる。

       「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に」とパウロは言っている。私たちの心の中に、律法の要求が全うされるのである。実際に生活において完全に神の律法を守ることにはならないけれども、心の中に律法の要求が全うされる。それは、律法が最も要求しているところが私たちの心の中に成就されるということなのだ。律法が一番要求していることは、神を愛することであり、そして隣人を愛することである。私たちは罪人なので、その両方において戦いがあったりするのは事実である。しかし、私たちは神を愛する者になったのだ。隣人を愛する者になった。

       「神を愛していない」と思えるようなことがあると、心は痛み、苦しくなるのである。「隣人を愛していない」と感じれば、苦しくなる。神を愛することにおいて失敗したり罪を犯したりすれば苦しくなるのである。隣人を愛する愛において失敗したり悪いことをしたりすれば、心は苦しくなってたまらなくなる。クリスチャンとはそのようなものである。律法の要求が私たちの心の中に全うされるけれども、私たちは罪人であり完全ではない。だから、全うされていない部分において苦しみ、救いを求め、成長を求めるのである。戦ってその問題を解決しようとする。それが御霊に従って歩むことである。

       心の中で神を憎み隣人をも憎んでいながら、「なぜうまくいかないのか。これがうまくいけばいいのに」と思うなら、実に肉の思いに従っていることになる。自分の罪そのものを苦しんでいるのではなくて、罪を犯した結果が思わしくなかったので「もっと巧くやればよかった」と思うなら、それは肉に従って歩んでいるのである。しかしクリスチャンは、神の栄光を表わすように実を結ぶことを求めている。それは根本的に異なる生き方である。

       「律法の要求が私たちの中に全うされる」というのは、神を愛する愛と隣人を愛する愛を持って生きることである。そして、その愛が足りないときに心が痛み、その問題を解決しようとする。御霊は私たちの中に住まい、私たちを内面において神を愛するよう動かすことにより、また他の人々との交わり、礼拝、祈り、御言葉を読むことを通して働かれることにより、私たちが義しさのうちを歩むよう導いてくださる。結果として、律法の義が神の恵みによって「私たちの中に」成就されるのである。

       「律法の要求」をもっと簡単に表現することができると思う。即ち、「神を信じる」ということである。モーセは申命記30章でそのことをイスラエルに語っている。パウロもローマ人への手紙10章のところでローマの教会に説明している。モーセがイスラエルに613の命令を与えたわけではない。命令を与えたのは神である。神を信じて、喜んで神に従うことがポイントなのだ。「神を信じなさい」ということが律法の基本的な要求なのだ。私たちは罪を犯したり失敗したりする。けれども、神を信じるならば、常に神に戻ることになる。決して神から離れはしないのである。律法の要求が、そういう意味で私たちの中に全うされるのである。

       御霊に従って歩む者の中に、律法の要求は全うされる。それで、古い契約の罪と罰の悪循環から解放されて、成長していき、いのちの御霊の力により、神の栄光のために実を結ぶことが出来るようになった。御子がこの世に来てくださって、私たちの罪のために死んでくださり、よみがえられて、私たちに御霊を賜物として与えてくださったからである。御霊は私たちを変えて成長させてくださり、私たちは心の最も深いところで、天の御父を愛し、あらゆる事柄を超えて神の御国を求めるようになる。私たちが神の御国のために歩まないとき、御霊を悲しませ、御霊は私たちが神に立ち返るまで私たちを取り扱われるのである。

       私たちがクリスチャンであるなら、このプロセスは死ぬまで続く。神の御霊は私たちのうちに働かれ、義しさにおいて成長するよう導いてくださるのである。このようにして、御霊にある新しい契約は私たちを罪と死から解放するのである。私たちはキリストにあって新しい被造物である。この世にあっては私たちの罪深さは続くけれども、罪のために生きてはいない。つまずくことはあるが、神の御恵みにより、続けて自らを日々新たにする。神の御国を求めるよう御霊が私たちを導いてくださるのである。

       聖餐式のとき、私たちは繰り返しこの8章3節と4節に書いてある原則に戻るものである。聖餐式のときに、「私は、主イエス・キリストを信じる信仰のみによって救われた。十字架の死と復活がなければ、私たちにはいのちはない」ということを告白している。そして、「私は、自分の罪を捨てて、神の栄光を求め、神の御国を求める生活をします」という信仰と決意を告白するのである。そのすべてが「信仰」なのである。

       神を信じることには、神を愛することも含まれるし、神の栄光を求めることも含まれるし、自分を神にささげることも含まれている。そこに戻るのである。罪を犯したなら、それを捨てて神に戻り、神から離れない。聖餐式のとき、私たちはそこに戻って、神から与えられたパンとぶどう酒を受け、感謝して食べるのである。この時、私たちは本当に感謝と喜びの心を持つことができるものである。感謝して受け、神の御恵みを喜んで受けるのである。そして、神の御名の栄光のために生きる心を新たに誓うのである。そのことを覚えて聖餐式を受けよう。

     

    ――2000年6月18日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章2節

    ローマ人への手紙8章5〜6節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.