御霊が与える心
8章5〜6節
8章1〜3節の中で、福音は私たちを古い契約から解放してくださったことを一緒に見てきた。その福音の祝福によって私たちには神のすべての祝福を表わす「新しい契約の御霊」が与えられ、4節では、御霊によって神の律法の要求が私たちの中に成就されるということが説明されている。そして4節で、御霊に従って歩む者と肉に従って歩む者との違いについてパウロは語っている。5節から11節までのところでパウロは、「肉に従うか、御霊に従うか」という二つの表現の意味を説明している。その箇所は、御霊に従って歩む者の心とその思いと生き方、そして、肉に従って歩む者の心と思いとその生き方という対比になっている。
本当は5節は「なぜなら」あるいは「それは」というような言葉から始まる文章である。ギリシャ語には、5節の最初に英語の"for"と同じ言葉がある。その言葉は、5〜11節までの段落全体が3〜4節を説明するものだということを指すものである。それで、「なぜなら」という言葉から始まって「肉に従う者は肉的なことを(もっぱら)考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを(ひたすら)考えます」と言うわけである。新改訳聖書で「もっぱら」と「ひたすら」と訳されている言葉はギリシャ語聖書にはないということは既に説明したとおりである。
「もっぱら」と「ひたすら」という言葉は強調のために付加した言葉であるが、それを付加すると逆に強すぎてしまうということも説明した。また、「考える」という言葉がよいのか「思う」という言葉が適切なのか、ただ「考える」とか「思う」というのでは弱すぎるという翻訳の問題がある。とにかく、「肉の思いをもって生きる」と、「御霊の思いによって生きる」という根本的に異なるものの対比がここにある。
肉に属する者は常に肉的な思いを持って生きている。御霊に属する者は、常に御霊的な思いを持って生きている。「御霊的」という日本語はおかしいかも知れないけれども、ポイントは、クリスチャンはその根本的な思いにおいて、心の最も深いところにおいて、御霊に従って生きているということである。
これは、いわば聖書的心理学の前提だと言ってよいと思う。人間の心の最も根本的なところにあるのは、神に対する思いだと言わなければならない。「神に対する思いがどうなのか」ということが根本的な問題なのだ。ここで、「御霊による思いを持つ人々」というのは、最終的に神の御言葉を守り、神の栄光を求め、神を喜ばせるかどうかがポイントである。そして、「肉の思いを持つ者」とは、最終的に神を無視し、神を憎む者である。つまり、「肉的な思いを持っているのか」あるいは「御霊的な思いを持っているのか」ということは、神との関係が人間心理の最も深い思いなのだということを表わしているのである。
この根本心理は、ただ表面的な行為を見てもわかるものではない。パウロは、何が原則的に真理なのかがしばしば隠されているという事実を知らないわけではない。いろいろな気持ちや思いが混ざってしまっているその心の表面的なところを見ても仕方ないことである。個人の心の奥底にある動機や真の方向性は、他人が調べてわかるようなものではなく、その人ですら自分の心の複雑さに戸惑うものである。心の一番核心を見ることができれば、その思いが神に向かっているのかそうでないのかは明らかなものなのだ。そこまで見ないことにはわからない。
人間の心の最も中心にある核の状態を見るための特別な道具があるわけではない。私たちには、人の心をそこまで深く見ることはできない。しかし、人の思いはその核のところにおいて明確に定まっている。私たちは、人の言葉と行動を見て取扱うことしかできない。しかし、その人の心の核心が、神に向かっているのか、それとも神を憎んでいるのか、そのどちらなのかということが決定的な問題なのである。その心の最も深いところで「私は神の恵みによって罪から解放されました。もう神を憎む者ではなくなり、神を愛する者に変えられました」という心の根本的な変化があったなら、その人は救われているのである。そこに根本的な変化がないならば、救われてはいないのである。
なぜその心の一番奥底にある核心のところについて話さなければならないのかというと、私たち人間は心理的に非常に複雑なものだからである。人間は神の似姿に創造されており、その存在には神以外には完全に知りえない深みがある。それだから、極めて単純なアメリカ人であっても、心理的にはかなり複雑なものなのだ。人間は誰であってもみな神の似姿であるから、私たちは非常に複雑なものである。
特にアメリカで書かれた論文等を読んでみると、「これはきっとクリスチャンが書いたに違いない」と思ったりするようなものでも、最後に、結局神を信じてはいないことがはっきりとするようなものが多い。日本も例外ではない。クリスチャンではないのに非常に道徳的に高く、毎日の生活も正しくてまるでクリスチャンであるかのような人たちがいる。その行ないや表面的な言葉だけを見ても、その人々の心の核心がどこに向いているのかはわからないのである。
教会の中で育った人で性格的にとにかく逆らわないような人がいる。「そんなこと信じられない」と思う人もいるかも知れないが、実際にそのような人は存在している。ただただ素直で、幼い頃から良い子だというような人がいる。その性格は死ぬ日まで続くかも知れない。毎週教会に出て礼拝を守っているし、逆らうことなど考えもしないけれども、本当の信仰を持ってはいない、という可能性はあくまでもある。反対に、幼いときから逆らってばかりで性格の悪い人間もいる。だからといって、性悪なその人が救われていないとは限らないのである。人間はもっと複雑な存在なのだ。それだから、他の人々が原則から逸れているように思われるとき性急に裁くべきではないことを教えられている。また、自分が正しいと思っていた人が結局はひどい人間であると判明するときに落胆したりしてはならないことも教えられる。
「肉の心」と「御霊の心」は人間の心の最も深いところにある。御霊の働きによって新しく生まれ変わったた者は、心の深いところにおいて根本的に変わったのである。その変化は、やがてその人の人生のすべてにおいて表わされていくことになる。そうなるのは時間の問題である。その人は成長し続けていく。人生70年と言っても決して長いわけではない。歴史の流れの中で70年はわずか一滴のしずくに過ぎない。しかし、個人にとって70年は大変なものである。70年間における自分の変化というものは実に大きく感じるであろう。しかし、私たちはこれから永遠に生きるのである。
一人の人生の変化はそれほど大きなものではないかも知れない。しかし、それが問題なのではない。パウロが言わんとしていることは、「心の核心における根本的な変化がすべてなのだ」ということである。だから、表面的に良い人かどうかではない。「表面的にその人は親切だろうか。毎週、表面的な“形”を守っているだろうか」ということで決めるのではない。それは、私たちが決めることではないのである。「その人は駄目だと思う」と私が言う権利はない。
その人が口においてはっきりと神を否定し、行動においても神を否定するなら、彼の言葉と行動をそのまま認めて扱うだろう。しかし、そうではない場合には、もっと難しくてわからないものなのだということを知るべきである。その場合、私たちは神に委ねればよいのだ。行動を取扱い、言葉を取扱う。その後は神の裁きに委ねるのである。
肉に従う・御霊に従う
人が「肉に従って」いるとき、その人の人生は肉的なものの追求に支配されている。表面的には如何に他人の目に映るにせよ、その最も深い動機や目的は、最初の創造に属している。パリサイ人はその点をよく描写してくれる。彼らは神の御国を求める聖書の教師であるはずなのだが、その実は、神の御国は彼らの関心事ではなく、むしろ根本的にそれに反する政治的、社会的活動家たちであった。本当に義しくて尊敬に値するガマリエルのような人もいたが(使徒行伝5章34〜39節)、全体としてパリサイ派の根本的な関心事はイエス・キリストのみならずモーセに対しても矛盾するものであった(ヨハネの福音書5章46〜47節)。
しかし、ここで教えとして私たちが理解しなければならないことは、世の中には原則的に二種類の人間しか存在しないということである。最も深い心理について言うなら、二種類の人間しかいない。即ち、「肉に属する人間」と「御霊に属する人間」である。彼らは特定の思考様式、思想、人生の方向によって相反する特徴を持っている。肉に属する人間とは、古い契約に属し、アダムを代表とし、堕落した状態にある人間である。そして、御霊に属する人間とは、新しい契約に属し、神の御恵みによって罪と死から解放されて救われた人間である。この二種類以外の人間は存在しないのである。そしてすべての人は、例外なしに、最終的に、心の最も深い思いのところに従って歩むものである。
このことは確固たる原則として理解されなければならない。なぜこれを原則として知らなければならないのか。「田中さんは本当のクリスチャンだろうか。そのことを裁くためにこの聖書の箇所が私に与えられたのだ」ということではない。なぜこの聖句が与えられたのか。この箇所が与えられたのは、私たちを励ますためなのである。
7章でパウロは罪との戦いのことを話しており、それはすべてのクリスチャンが経験しているところである。自分の罪との戦いは苦しいものであり、惨めなものである。「この罪と戦って勝利を得た」と言っても、更に自分の心の状態や生活の状態を見るときに、そんなに誇りに思えるようなものではないのは明らかだ。ここも足りない、あそこも足りない。厳密に言えば、失敗だらけである。更に厳密に言えば、実に罪に満ちている。それが自分の心の中と生活の中のあちらこちらにある。罪人であるという状態は変わっていないということを、私たちはみな痛いほどに感じている。その7章のところを読むとき、7章でパウロが正直にクリスチャンの状態を話していることがよく解るのである。
しかし、それがどういうことなのかを別の観点から言うならば、それは、素晴らしい勝利の話なのである。つまり、7章14節から24節までの罪に対する戦いの状態というものは、激しく罪に対して戦っており、神御自身を喜んでいる状態なのである。神を真剣に求めている状態なのだ。神を捨てて肉を求めているのではない。それだから、「御霊の働きによって私たちは罪から解放された」ということを福音としてパウロが説明するとき、これは自分の心の最も深い部分をさらけ出して見せているのである。肉に属する者は肉の思いを持って生きるが、御霊に属する者は御霊に従って生きる。「御霊に従う」とは、肉に属するとは正反対なことである。
御霊に従う人であっても罪人であるのは事実であり、肉の影響はその人の内に残っているために、ただ単に肉的である人間よりも必然的に複雑なものである。あくまでも足りないところはある。弱いところがある。戦わなければならないという現実は死ぬ日まで変わらない。けれども、御霊が私たちの中に住んでおられるのだ。御霊は私たちの心の中にあって働いておられる。いかにその複雑さがクリスチャンとしての歩みを弱めてしまう時でも、キリストに対するその根本的な献身はその人の最も深い現実なのである。彼は甚だしく罪を犯すかも知れない。ダビデもそうであったし、ペテロもそうであった。その人は、一時的に神から離れているような生き方をするとしても、神の訓戒の御恵みによって引き戻されるのである。
ロトがその良い例だと思う。年老いて弱くなった者も少なくないが、イサクとエリのことも思い起こされる。しかし、晩年がその最良の日であったマナセのような人は(第二歴代誌33章11〜20節)強くなった。御霊的な思いがその心の中で何よりも深いところにある。「これが解放である」と、パウロはこの8章のところで語っているわけである。本当に素晴らしくて感謝しなければならないことについてパウロは語っている。御霊に属する事柄に目を留めることは、一言で言い表すなら、神の御国を求めることである。「神の御国は人間の歴史には属さないものだ」と信じる人々は、自分にとってのクリスチャンの歩みをより困難にしている。なぜなら、歴史の中を歩む間、彼らの本当の目標のすべては歴史と無関係でなければならないからである。
千年王国後再臨説(後説)を信じる者にとって、神に仕える最終的な目標は歴史後にあるが、それは歴史と無関係ではない。歴史における私たちの働きは神の御国を建て上げることなのである。その御国は、歴史が完了するとき、ただ消えてしまうのではなく、完全なものとなるのである。後説の見方において、「神の御国を日々第一に求める」ということは、歴史においてキリスト教文明がそのあらゆる現われにおいて発展するために熱心に労することなのである。神の御国のために私たちが行なうことは、何一つ虚しいことには成り得ないのである。
死といのち
「肉に従う者は肉的な思いを持って考えますが、御霊に従う者は御霊的な思いを持って考えます」と5節でパウロは言う。この5節のギリシャ語は様々に訳されているが、肉と御霊の間にある基本的な対照関係を取扱っていることは明らかである。この対照は物質と非物質との間にあるものではなく、アダムにある人間の堕落した性質とキリストにあって新しい創造をもたらしてくださる聖霊との間にある対照であるという点に注目すべきである。
6節で、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」とパウロは言う。これも“最終結果”を表わしている。「肉の思いは死」「御霊の思いは、いのちと平安」と言って、パウロは続けて心理的な対比のことを話している。「肉の思いは死である」という言い方も、実に実に意味深いものである。「死に至る」という言い方もできるけれども、「死である」という言い方には直接的な意味として「死を求める」という意味がある。
例えば、「レギオン(群)」という名の悪霊の集団に取り憑かれた人の話がマルコの福音書に出て来るが、主イエス・キリストはその人から悪霊たちを追い出したところ、悪霊たちは豚の群に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちておぼれ死んでしまった(マルコの福音書5章2〜13節)。しかし、悪霊が追い出される前のその人は、墓に住みついていた。そして、石で自分の身体を傷つけたりして、恐ろしいほどに死に支配されていたような人であった。悪霊に取り憑かれた人がみなそこまで自分の死を求めるわけではないが、この話は悪霊に取り憑かれた者の悪魔的な死への欲求を一番象徴的に表わしていると思う。
その状態は、個人としてもそうなるけれども、社会としても成り得るものである。肉が猛威を振るうことが許されるところでは、暴力や自殺、殺人は増加する。歴史家ヨセフスが書いた本の中に、エルサレムがローマ軍の攻撃を受けた時の状態が記されている。ローマ軍がエルサレムに突入してユダヤ人を皆殺しにしたのではない。ローマ軍がエルサレムに入城する前に、ユダヤ人はかなり互いを殺し合っていた。エルサレムは、いろいろなグループに分裂していて内戦状態に陥っていた。そして、人を殺すことが楽しみであるかのように、エルサレムの中にいる人たちは実に悪霊に取り憑かれていたように狂った状態になっていたのである。そのように、社会も、悪霊に取り憑かれて死を求めるような社会に成り得るものである。
ノアの洪水の前の世界もそうであったし、ソドムとゴモラの時代もそうであった。実は、第二次世界大戦以前の日本もそれに似たような状態にあったのではないか。ドイツもそうであったし、ヨーロッパ全体もそうだったと言わねばならない。第一次世界大戦は、狂ったヨーロッパ人たちが求めたものであった、という言い方ができると思う。そして、自分の求めたことが自分に与えられたのである。神に逆らう者は自然に死を求めるようになる。自殺を求め、殺人を求めることになる。肉が死であることは、世の歴史において次から次へと起こる戦争の悲惨さを見るとき、はっきりと見られる。それはローマ人への手紙3章に明記されているとおりである。
彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。
肉の思いに従って生きる者は、実に死を求め、死をもたらす者である。そこには死の影があり、それは最終的に永遠の死と破滅へと墜ちていく。これは、私たちの時代のエンタ−ティメントや娯楽産業の中にも多く入り込んできている。暴力と殺しがまかり通っている。現代の文化が暴力と腕力に取り憑かれている現象は、人間の根源的な心の傾向を露呈している。映画の中で殺しがあるのは当たり前のことで、あらゆる殺しが映画の楽しみとなっている。その内容はますます強烈になり、強い刺激を求めてエスカレ−トしている。人気のある映画ほどそのような場面が多い。
「だから、クリスチャンは絶対に映画を見るべきではない」とは思わない。旧約聖書を見れば、善と悪の戦いの中で人は多く殺されていることが記されている。「人が殺されているから、そんなものは読まない」と言うべきか。そんなことはない。サムソンは敵の首を取って、それを持ち帰って皆に見せる。ダビデもゴリヤテの首を取ってエルサレムに持ち帰った。現代人なら恐ろしくなるようなことが、旧約聖書には沢山出て来る。私たちは、ただ死が怖いとか、殺すこと自体が怖いと思うべきではない。しかし、殺すことを楽しむのとは話が違う。何のための戦いなのかが問題である。義のための戦いなのだろうか。いったい何のためにいのちをかけて戦うのか。その目的によって話は全く違うのである。
クリスチャンではない人は、自分の傲慢と欲のために戦い、人を殺したりする。ヨーロッパの昔の貴族たちは、自分の名誉や偉くなるために戦争をしたものである。現代人も、特別変わるわけではない。その「死の思い」は、神を恐れない者の中にあって、死を楽しみ、人が死ぬのを見て喜ぶ。クリスチャンではない人たちは、“死”がなければ映画もつまらないと思う。戦争を喜んだり、殺人を喜ぶ人たちが大勢いる。自殺する人も、特に東洋ではたくさんいる。一番簡単で直接的な意味で言えば「肉の思いは死である」ということなのだ。そのような自殺的な思いは、社会においても、個人においてもある。
最終的には、すべてのクリスチャンではない人たちは心の中で死を求めている。なぜなら、いのちなる神に逆らい、いのちである神を憎むからである。愛なる神に逆らい、愛なる神を憎むからである。いのちを憎むなら、死を愛することになる。愛そのものを憎むなら、憎しみを愛することになる。それは自分を破壊する行為になるのだ。神を憎むなら、神の似姿に創造された者をも憎むようになる。当然、隣人をも憎むようになる。認めようと認めまいが、自分も神の似姿なので、自分をも憎まなければならなくなる。その肉の思いの悲惨さは実に深い。それで、他人に対しても疎外感を持ち、自分に対しても疎外感に陥るのである。神に対しても疎外感を覚える。すべてにおいて、自分一人になり、疎外感の中で孤立する。
それは地獄の状態である。地獄の中では交わりは一切無い。神との交わりも無く、他の人間との交わりも無い。結局それはその人が執拗に求めた結果なのである。死の思いは、自分も他人もすべてを憎むものである。その死の思いが熟した状態になった人間には、わざわざ苦しみを与える必要はない。その人は自分を憎んでいることをちゃんと認識して自分を憎んでいるからである。つまり、神を憎み、神の似姿をも憎むからである。その事実は、神の裁きの前に立たされるときに明らかに暴露されることになる。神を憎み、隣人を憎み、自分をも憎んでいる。それでいて、自分からは逃げられないでいる。神からも逃げられない。そのために苦しむのである。その苦しみは永遠に終わることはない。
黙示録を見ると、地獄は神の王座の前にある。ということは、神の御臨在から永遠に逃げることはできないのである。この世に生きている間は、神を軽んじて「神なんて、いるのかどうか、私は知りません」などと可愛い顔して言うこともできるだろう。しかし、神の厳粛な裁きの前に立つとき、もはや「神の裁きを受けた者がいるかどうか、私は知りません。そんな難しいこと、考えたくない」などとは言えなくなる。その裁きから逃げることは決してできない。「死の思い」のもっとも簡単なところとは、そのようなものである。
「肉の思いは死」である。それは死に向かって走り、そして「死に至る」ものである。しかし、すべてのクリスチャンではない人たちは、死の思いを直接はっきり自覚しているわけではない。ほとんどの人たちは、自分の心の中ではいのちなる神を憎んで死を求めているという認識はない。死を愛しているという認識はない。クリスチャンではない人に、「あなたは、死を求めていますか。死を愛していますか」と尋ねたら、ほとんどの人は、「いいえ。そんなこと求めるわけないじゃないの」と答えるに違いない。しかし、「死に至る思い」を持っているということは、その人の選択した生き方を見るとき、またそのすべての思いや行動を見るとき、最終的に死に至る道を選んでいることがわかる。
非常に単純な譬えだが、ある人が、「私は特別に死にたいとは思わないし、楽しい人生を送りたいと思っている。でも、毎日麻薬を常用することが楽しみで、私にとっては最高の喜びなんです。だから、毎朝麻薬を飲んでからジョギングをして、それから健康に良い物を食べるようにしてます。明日もまた麻薬を飲みます」と言う人がいたら、どうだろうか。クリスチャンではない普通の人をそのような人に譬えることができると思う。長く生きようという思いはなくはない。しかし、心の一番深いところでは、自分を殺しているような生き方をしている。それは、肉的な生き方であり、死に至る生き方である。
罪人は、今日これをしなければ、明日迄に終わらせることはできないとわかっていても、すべきことをしようとはしない。罪人は、自己中心的な選択をしたりして、結局、明日を、今日の楽しみのために駄目にしてしまうのである。それは、死に至る生き方をすることである。私たちも罪人なので、自分の生き方を吟味するとき、「ここで私は罪を犯して、死に至るような生き方をしていた」と思うようなところが確かにある。しかし、クリスチャンではない人の場合、それが心の根本なのだ。すべてがその根本に戻るような人生を送っている。それが神を信じない者の心の根本であり、奥底にある心理である。
クリスチャンの思いは、それとは正反対に「いのちと平安です」とパウロは言う。御霊による思いは「いのちと平安」である。御霊はいのちを与える御方であり、この御方が私たちの内に働かれるとき、イエス・キリストが約束したとおり、私たちは自分を取り巻く世界へのいのちの水路となるのである。「さて、祭りの終りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハネの福音書7章37〜38節)と、キリストは言われた。神御自身はいのちなる神であるので、神を信じる私たちは自然にいのちを求める者である。
「いのちを求める」とは、実を結ぶことを求めることにおいても表わされる。クリスチャンは、どうしたら実を結ぶことができるのかを自然に考える者である。いのちを求め、いのちを尊び、いのちを喜ぶ者である。実を結ぶように神はアダムとエバに命令を与えてくださった。破壊的な生き方をするのはクリスチャンではない人たちの歩みである。
アレキサンダー大王は、英語では"Alexander the Great"と呼ぶ。この"Great"という言葉は"Beak"と似た意味の言葉であり、シェークスピアの「ヘンリ−五世」の中に出て来る。英国のある地域では"B"と発音できないで"P"と発音してしまうので、"Alexander
the Preat"と言ってしまう。それで「豚のアレキサンダ−」という意味になる。シェークスピアはわざとそのなまりを使っている。シェークスピアは、「この人間は偉大な人間だろうか。それとも、豚なのか」と言いたいのだ。
つまり、アレキサンダ−の生き方は破壊的な生き方であり、自分の栄誉のために生きた。何のために大勢の人を殺したのか。何のための戦争なのか。「大王」と呼ばれるためであった。インドまで行った時に彼は哀しくなった。もう、戦争して手に入れる場所もない。前にはヒマラヤの山が立ちはだかっている。その向こうに中国があることを彼は知らなかった。ここが世界の果てかと思って、もう制服すべき国がないことを悲しんだのである。それは、まさしく破壊の人生であった。まさに「豚のアレキサンダ−」だったのだ。それはシェークスピアが書いたとおりだったと私は思う。
その生き方とは正反対に、実を結び、いのちを増やし、祝福を増やすために生きる。それがクリスチャンの生き方である。自分の栄誉や名声のために何ができるかを考えるのではない。実を結ぶためには、どんな生き方をしたらよいのかを考えるのだ。祝福をこの世で広めるために、自分に何ができるのかを考えるのである。「いのちの思い」に生きるのである。パウロの手紙にも出て来ることだが、「クリスチャンではない人たちに福音を伝えても、救われないならもうどうでもよい」というような話でもない。クリスチャンではない人が救われるか救われないかは神の御手のうちにある。とにかく、周りにおいて自分に機会が与えられている限りは、祝福を与えるべきである。私たちはそのために召されているのである。
それは何よりも先ず福音の宣教を通して来る。相手に祝福を与えたからといって、その人がクリスチャンになるとは限らない。それは神の御手にあることである。しかし、私たちは、「御霊的な思い」をもって、いのちと祝福と実を結ぶことをひたすら求めるのである。祝福を与えることを求めるのである。周囲に呪いを与えようというような思いはない。神の教会を迫害する人たちが裁かれるように祈るときでさえ、そうなのだ。何度も言ったが、忘れないためにもう一度言うが、「裁かれる」という時、裁きには二種類ある。最も望ましい裁きは、その者が救われるというものである。
ネブカデネザル王がその例である。ダニエルたちを迫害して殺そうとしてネブカデネザルは、救われてしまったのだ。イスラエルを迫害し、大勢の神の民を残虐に殺した、そのネブカデネザルがクリスチャンになったのである。だから、「裁いてください」という祈りには、その人の救いを願う思いが込められている。ハムレットのように「殺しただけでは腹の虫が納まらない。地獄に落としてやる」という思いを持って神に「どうかその人を裁いてください」と祈るクリスチャンはいない筈である。自分にとっては最悪の敵であっても、その人が救われたなら喜ぶのである。そこまで、「いのちの思い」は私たちの根本にある。
それ故、パウロが救われた時に、クリスチャンたちは心配して恐れた。「ローマのスパイかも知れない。私たちを殺すための罠かも知れない」と思ったりしたので、無条件に喜んでパウロを受け入れることは容易ではなかった。それでも、自分の親兄弟を死に追いやったようなパウロを、本当に救われたということがわかった時、昔のクリスチャンたちは心から喜んで迎え入れたのである。
イスカリオテ・ユダでさえ、もし神のご計画の中で彼がペテロのように悔い改めて神に立ち返るなら、喜んで受け入れることは当然可能なことである。三回もキリストを否定したペテロを、彼が悔い改めたとき、クリスチャンたちは喜んで彼を受け入れたのである。そればかりでなく、ペテロをリ−ダ−として認めることに反対する者はいなかったのである。私たちの中にも、パウロとペテロをリ−ダ−として認めない人はいない筈である。御霊の思いはいのちである。いのちの思いは、神の祝福をこの世の中に広めようとする思いである。敵が救われたら当然喜ぶのだ。
しかし、クリスチャンでもないし信じようともしない人たちに対して祝福を与えることができれば、それは素晴らしいことなのだ。実に喜ばしいことなのだ。変な例になるかも知れないが、私はデイリ−ストアに入ったら必ず店長に挨拶するようにしている。それだけで彼に永遠の祝福を与えているわけではないけれども、いつも挨拶して片言声をかけたりする。今度のクリスマス祝会には彼を招くつもりでいる。来れないとしても、とにかく招きたい。挨拶も、それは祝福を与えることなのだ。隣人に自然に親切にするのは、神の祝福をこの世の中に広めることであって、それはいのちの思いを持って生きることなのである。
「あの人はクリスチャンになる筈はないから、挨拶なんかしなくてもいい」ということではない。御霊の思いはいのちであり、実を結ぶ思いであり、私たちは、この世の中で「いのち」の影響を与える生き方をする者なのである。そして「平安」である。「私は御霊に従い、御国を求めて生きます。神の契約の祝福がこの世に広められるために、私は生きています」というような確信を持って生きているなら、どうして「平安がない」と言うのか。罪の生活を続けていて、「実を結びたい」という思いよりも罪の方が重いような生活をしているなら、それは大変なことである。しかし、本当に「御国のために生きる」という心を持っているなら、主イエス・キリストが言われたように、この世のことを心配しないで、心の平安を持って生きるべきである。
神の御国とその義を第一にして生きる心を持つなら、平安はある。そのような人は、いのちの祝福を広めることを真剣に求めている。そうであれば、心には大きな平安がある筈である。クリスチャンでない人でさえ、熱心に福祉をしたり一生懸命人々を助けたりして生きる人たちの心には平安があるのだ。彼らは心の平安を人々に話したりするのである。それは、クリスチャンではない人でも聖書の原則を守るなら、それは客観的な原則であって、その祝福を受けることの証明である。
クリスチャンではなくても、一婦一夫制を守り、子どもたちを愛し、勤勉に働き、すべきことをし、行ないにおいて罪を犯さないで生活を送るような人がいる。その人は、でたらめな生活をしている人よりもずっと心に平安がある。私たちの場合、神の御国を求める思いがはっきりしていればいるほど、私たちの平安も深いものとなるのである。神が与えてくださったいのちを喜び、隣人にいのちの祝福を与え、実を結ぶことを求めるのである。いのちと平安は切り離すことのできないものである。まことのいのち、キリストとその御国のために歩むいのちは、心に真の平安と喜びをもたらしてくれる。御霊の実は「愛、喜び、平安・・・」である(ガラテヤ人への手紙5章22節)。
会社で働くとき、「ああ。御国のための働きができない。ここでこんなつまらない仕事をしているのは辛い」というような思いを持って働くべきではない。誰の仕事であっても、時にはつまらないことがあるのは事実である。母親たちは、当然、喜んで食事を作ったり皿洗いをしたり、買い物したり掃除したりしていると思う。それは楽しい仕事でしょうか。会社で働くことがいつも楽しいとは限らない。しかし、その仕事は、大きな社会全体の中の大切な働きであって、その仕事をしっかりやることによって社会全体が祝福されるのだ。仕事は意味のあることなのだ。「ここで勤勉に働くことによって、私は社会に対して祝福を与えることになる。これは、キリストを愛し御国を求める生き方だ」という確信を持って会社で働けばよいのである。
独身の女性も、会社に努めている男性たちもそうである。子どもたちも、自分に与えられた勉強においてそうである。「御国のためにこれをしているのだ」と思って勉強すべきである。そのように生きるなら、心には平安があり、喜ぶことができる。いのちの祝福をこの世に与えるということは、例えば電気があるかないかによっても変わるものなのだ。このMDレコ−ダ−があるかないかによっても、いのちの祝福は変わるのである。ピアノもそうだし、冷蔵庫もそうだし、コンピュ−タ−も、そして農業も、生産業もサ-ビス業もみなそうである。それぞれ分担された毎日の働きによって、いのちの祝福が増大しているのである。クリスチャンは、そのような思いを持ってどこにでも行って「いのちと平安」の思いを持ち、「御霊的な思い」を持って働くことができる筈である。それこそ本当に救いのすばらしさを表わすことだと思うのである。
クリスチャンが行なうあらゆる種類の良い行ないは、世界をいのちの力と神の祝福で満たすものなのだ。私たちが行なう小さな善は、神の御国にとって、結局、私たちがもっと重要だろうと思う事柄よりもはるかに重要なものなのだ。50歳になって会社で働くクリスチャンではない人たちのほとんどは暗い感じになっている。何のために働いているのかがわからなくなり、目標を失っている。保険会社の試算によれば自分の人生はあと20数年しか残っていない。その20数年を生きる意味は何なのか。今この会社で働く意味は何なのか。どうして死ななければならないのか。諸々のことを考えるとき、辛い思いに襲われるのである。考えずにがむしゃらにとにかく仕事仕事ということで働いて来たが、定年の足音が迫ってくると、心はどうしても暗くなる。退職したくないのに、否が応でも退職しなければならない。
言わば“卒業証書”のような辞令を貰うことになるが、いったい今まで何をしてきたのか。そして、次に何をするのか。それがわからなくなるので、暗くなる。私たちには死ぬ日まで卒業はない。死ぬ時に卒業するのである。その卒業の日に、私たちはその“卒業証書”をキリストに提示するのである。五タラントを与った者は十タラントをキリストにお返しするのである。一タラント与った者もそのポイントは何ら変わらない。実を結ぶ生き方をし、いのちに生きるのである。それが、「御霊に属する思い」なのである。
地域教会として、家庭として、個人一人ひとりとして、私たちはこのような生き方ができる筈である。クリスチャンとして、このような生き方をしなければならない。これこそ救いの素晴らしさであり、この世に生きている間の素晴らしさではないか。それは「救われました」と告白して本当に喜ぶ人生である。御霊の力によって肉の思いから解放された。御国のビジョンを持って生きることができる者となった。それは本当に感謝なことである。
「このことは終末論にもつながるものである」ということを最後に少しだけ話しておきたい。先日ある人の講義を聞きに行ったとき、最後に終末論の話が出て、「明日にもキリストの再臨があるかも知れない」という話になった。そのように終末論を理解すれば、「この世の中での自分の働きの意味は何なのか、どういう働きをすべきなのか」ということがみな難しくなってしまうのだ。「再臨は明日かも知れない。来年かも知れない」というようなことをいつも真剣に考えてしまうなら、スケジュ−ルは成り立たなくなる。生活が無意味になるわけではないが、「何のために生きているのか。どうしたらいいのか」を考えることが本当に難しくなると思うのである。
私たちの地域教会としての働きは「明日かも知れない」という終末論において考えるものではない。地域教会として行なっている働きは、ずっと続くものとしてやっているものである。代々祝福されるという思いを持って一緒に働きたいと思っている。私たちの家族においても、申命記5章10節に「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」とあるように、千世代までも祝福されるという思いを持って子どもたちを育てて毎日の生活を送るのである。
この世がどのように変わるのかはわからないし、代々いろいろに変わっていくであろう。そこには複雑な事柄もあるだろうが、代々その家の信仰は相続されていく。家族の全員がみな救われていくわけではないが、家族としての祝福は受け継がれていく。今日でもそうである。私たちはみなそのように、神が与えてくださる「いのちと平安」の思いを持って、地域教会としても、家庭としても、個人としても、残る実を結ぶように生きるのである。それはヨハネの福音書15章16節で主イエス・キリストが教えているとおりである。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
私たちは、「残る実」を結ぶために主イエス・キリストに選ばれて救われたのである。「残る実」を結ぶために、真の喜びと感謝を持って生きるのである。これが救いである。御霊が私たちに与えられ、御霊が私たちの中にあってそのような思いを与えておられる。その私たちは、「残る実を結ぶために、私は何をしたらいいのか」という心に燃えている筈である。そして、実際にそれを行なうのでなければならない。実際に行なおうとすれば難しいことがあるのは事実である。どんなプロジェクトであれ、それを実行するときには汗を流して最後までやり通さなければならないものである。
プロジェクトを選んだ時には「御国のためだ。神の栄光のためだ」と思って喜び勇んで始めたけれども、実行していく時に、「ああ。これは汗を流してやることだったのだ」と気が付かされるのである。「御国のため」と言っても、それは汗を流して行なうことなのだということを悟らされるのである。「汗を流す」ということは、痛みを伴うことを行なわなければならないということでもある。心の痛みもあるし、肉体的な痛みも伴うだろう。ちょうど母親が子どもを産むのと同じことである。祝福を求めて子どもを求めるが、何ヶ月間も歩行困難になり、座りにくいし、自由が効かず、産む時には痛みがある。産まれた後でも、赤ちゃんの世話をしたりしてゆっくり眠ることもできない。双子が生まれると、祝福が倍になったといっても、働きも倍以上になるかも知れない。その諸々の苦労が、祝福と一緒に来るのである。
私たちは皆、何かのプロジェクトの中に置かれている。一人ひとりには、御霊によって与えられたプロジェクトがある。神の御国のためにやろうと思った何かのプロジェクトの途中に、私たちは在る。その中で汗を流している状態にある。何のためにこれをしたのかを思い出して、いのちの思いと平安の心を持って続けて頑張って御国を求めるのである。そのような御霊的な思いを持つことができることは本当に素晴らしい祝福だと思うのである。自分の考えと行ないを神の御言葉に服従させ、神のために生きることができるようにしてくださる神の御恵みを求める熱心な祈りによって御霊に従うとき、私たちは神の御国のために生きているのである。
善を行なうことを喜び、他の人々に善を行なうことで私たちはいのちの祝福を広めていく。そうする中で、私たち自身が代々祝福されることになる。神の御国のために人々に仕えるほど大きな内なる平安と喜びはない。もし本当に神の御国のために生きているのであれば、別な意味でも私たちは平安を持つ者となる。私たちの人生が御霊に属するものであり、神の御心を求めているのなら、私たちは人生の浮き沈みについて心配する必要はない。私たちは神の御手の中にあって神に仕えているのだから、神が顧みてくださり導いてくださる。良い羊飼いである主イエス・キリストが最後まで導いてくださることを確信して、私たちは詩篇23篇の真理に自らを委ねることができるのである。
私たちが築いているのは私たちの王国ではないし、私たちが戦っているのは私たち自身の戦いではない。神の御国であり、神の戦いなのである。それ故、私たちは「成功するかどうか」というプレッシャ−の下にはいない。どんな状況の中にあっても、主にあって休み、主のみわざを見ることができるのである。
パウロがこのように「御霊的な思い」と「肉的な思い」の原則的な区別をしているのは、私たちを励ましてくれるためなのだ。御霊的な思いを持って、いのちと平安を持って、続けて与えられたプロジェクトを最後まで、汗を流しながら、痛みを覚えつつ、やり通すように励ましている。なぜなら、私たちは、実際にクリスチャンとしてそのプロジェクトを実行している途中で、そのことを忘れてしまうことがあるからだ。汗だけが目に入って、あちこちに痛みだけを覚えたりする。何のためにやっているのかが見えなくなってしまう時がある。がっかりして落ち込んだりするからである。
聖餐式の時に、神は、私たちをその根本的なところに連れ戻してくださる。「私は、肉に属する者なのか、キリストに属する者なのか。どちらなのか」を吟味し、そして「私は神を愛し、主イエス・キリストに属する者です」ということを告白するのである。主イエス・キリストを表わすパンとぶどう酒を受けるとき、私たちは神御自身に訴えているのである。「私はあなたのものです。どうか私を祝福してください。私を導いてください。守ってください」と祈り求めて、契約の印を私たちは神に見せるのである。神の契約の祝福を求めて、聖餐式を受けるのである。
そして、「自分を吟味する」ということは、自分の心を裁くことである。肉的な思いがあるなら、それを捨てて、神に告白する。「私はあなたのものです。あなたを愛しています。私はキリストを信じています。私は自分の罪を憎み、これを捨てます。どうか、私を祝福して、あなたの御国のためにいのちの実を、残る実を結ぶことができるように、祝福してください。主イエス・キリストの肉と血をご覧になって、恵みをもって、どうか私を裁き、そして導いてください」と、神に訴えるのである。それが聖餐式の意味であることを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2000年6月25日――