HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙8章14〜16節


    8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

    8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

    8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

    2000.07.23. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    御霊に導かれる

    8章14〜16節

       ローマ人への手紙8章12節から17節まででパウロは「」と「御霊」の対比の適応を説明している。「」と「御霊」の違いを1節からずっと説明してきたが、アダムにある肉の思いとキリストにある御霊の思いがどんなに違うものかを説明したあとで、パウロは、「私たちは、責任ある者であるが、肉に従う責任を肉に対して負ってはいない。私たちは、神に対して責任を負っている。御霊に従う責任を負っている」ということを12節から説明し始める。肉に従って生きるなら、その肉に従う道の終着点に到達することになる。それは永遠の死である。御霊に従って歩む者は、その終着点に到達し、永遠のいのちに至るということを13節で話している。

       しかし、「御霊に従って歩む」ということを、そこでは「肉の行ないを殺す」という言い方になる。「肉の行ないを殺すなら、生きるのです」というパウロは言う。つまり、パウロは「」と「御霊」の対比を話したあとで、御霊に従って歩むことが私たちの責任であると教えてから、それがどういうことなのかを更に話すのである。それは、肉に対して戦って神を喜ばせる生き方なのだと教えている。

       7章でパウロは、律法に従おうとするときに自分の罪に気が付かされて、心の中では罪と義しさの激しい戦いがあることを説明しているが、この8章も結局同じ戦いについて違う観点から見ているものである。御霊に従って歩むということは、肉であるからだの行ないを殺すことであり、罪に対して真剣に戦うということである。罪に対して真剣に戦うことが、御霊にあって歩むことなのである。

       続いて14〜16節の比較的短い箇所で、使徒パウロはこのよく引用されている表現をもって、キリスト者の歩みにおける最も重要なトピックの幾つかを扱っている。そのトピックとは、御霊の導き、子であること、子とすること、キリスト者の自由、祈り、そして御霊の証しに基づいた信仰の確証、である。これらの題目だけでも、それぞれが特別な注目に値するものであるが、この三節をまとめて見ることによって、それらの題目の関係を考えていきたいと思う。

     

    「肉」対「御霊」

       14節でパウロは、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」と言っている。ここに「神の御霊に導かれる」という言い方がある。これは、13節の「からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」というのと同じことである。「御霊に導かれる」ということは、そのようにはっきりと罪と戦って神の御国とその義を第一に求める生き方をすることである。このように「肉の思い」に対して戦い、「からだの行ないを殺す」戦いをする者は、本当に「神の子ども」である。パウロはガラテヤ人への手紙5章16〜26節でも「神の御霊に導かれる」ことについて話している。そこでも同じ肉と御霊の比較対照がなされており、肉の欲望と御霊の願いは正反対なものだと教えている。16節からの箇所でこう言っている。

     

    16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

       御霊によって歩むなら、決して肉の欲望を満足させるようなことはない。御霊は肉の思いを満足させることを許さない。御霊と肉は互いに逆らい、互いに対立している。「そのために、あなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができない」と言っているが、この箇所はローマ人への手紙7章と同じ響きを持っているのは誰にでもすぐわかる。7章14〜25節の箇所で、クリスチャンの歩みは罪に対する戦いとして描かれており、そこでは新しい自分が神の律法に従おうとして戦っている。「自分のしたいと思うことをすることができない」というのは、自分の人生を100%御国のために生きようとするのだが、それをしようとするとき、肉の思いは御霊に逆らうということである。

       クリスチャンは肉に従って歩むこともできない。なぜなら、御霊はそれに逆らうからである。だから、心の中に戦いがある。御霊に導かれる人には、この「」と「御霊」との戦いがある。心の中に罪との戦いがある。クリスチャンの生活について本質的に同じ描写が8章13節に登場する。そこでは、クリスチャンが御霊の力によってからだの行ないを制することについてパウロは語っている。それ故、ローマ人への手紙7章と8章は同じような内容について続けて説明しているのである。ガラテヤ人への手紙5章19〜21節では“肉の道”がどのようなものかが略述されており、その終着点が神の御国でないことが強調されている。同18節では“御霊の道”は「御霊によって導かれる」と呼ばれている。

     

    18しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。19肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

       同5章22節からの箇所では、御霊の実が何であるかをも略述されている。私たちの生活が御霊によって導かれているのか、それとも肉によって導かれているのかは、日常の習慣の支配的な傾向から明白なことなのである。そして、25節では「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」と言っている。御霊に従って歩む者には、このような「」と「御霊」の戦いがある。それは、御霊に導かれていることの特徴なのである。だから、「御霊によって、肉の行ないを殺すなら、生きるのです」という話になるが、そのことは先週学んだとおりである。これは、御霊に導かれる生き方を指すものである。

       だから、「御霊に導かれている」或いは「御霊の力によって歩んでいる」と言うとき、何か罪の戦いを越えて完全な者になっているという話では決してないのだ。もう罪とは無縁な素晴らしいクリスチャンになっているというような話ではない。パウロは、罪と実に深い戦いをしなければならないことを私たちに教えている。罪に対して勝利を得ながら歩むことには違いないが、常に戦っているので正しく生きることができるのである。戦っていなければ、肉の思いの方が勝つことになるのだ。その肉の思いに対して戦い、御霊に従い、御霊の力を持って戦い、その肉の行ないを殺すのである。それが「御霊に導かれる」生き方である。

       14節はギリシャ語では「というのは」という言葉で始まるが、「神の御霊に導かれる人は、だれでも」というときに、この霊的戦いの生活について語っている。そこで、「御霊が導き給う」という概念は、並外れた経験、或いは神秘的な経験と結びつけられるべきではない。御霊の導きとは、私たちのうちで、私たちが“肉”を捨てて、聖さのうちを歩むよう導き給うという神の御霊の絶え間ない働きなのである。そのように、「真剣に自分の罪と戦って生きる者は、誰でも神の子ども」なのである。だから、戦わない者は、神の子どもではないことになる。14節でそのことを教えてから、15節で更に説明している。

     

    奴隷状態と自由

       奴隷状態と自由の問題は、このローマ書8章でもそうであるように、ガラテヤ書5章における文脈の一部でもあることは特筆に値する。ガラテヤ人たちは、彼らの自由がユダヤ主義者らによって失われてしまう危険の中にいた。ユダヤ主義者たちは、クリスチャンたちを牛耳るために、キリストにある新しい契約には属していない様々な律法に対する服従を強要しようとした。しかし、「私たちは愛によって働く信仰 (5章6節)の生活を送ることができるために自由にされたのだ」とパウロは言う。本質的に同じ概念がローマ書8章の今見ている箇所に見出されるのである。15節でパウロはこう言っている。

     

    あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

       ここに「恐怖に陥れる奴隷の霊」という言い方がある。これを、「他の人はそのような霊を受けたけれども、私たちが受けたのはそのような霊ではない」というように考えるよりも、「奴隷の霊」とはどのようなものかを考えることの方が大切だと思う。私たちが何か特別な「奴隷の霊」を受けたとか受けなかったというような話ではなく、私たちが受けた神の御霊は、恐れを通して奴隷状態へと私たちを導くような霊ではないという事実について話しているのである。

       恐怖に支配される生き方とは、クリスチャンになる前の生き方として考えてよい。「クリスチャンになった時に、このようなものから解放されているので、もう一度その恐怖の霊に支配されるような生き方に陥ることはない」ということをパウロは説明しているのだ。御霊に導かれる者は、そのような恐怖の支配、奴隷の宗教の支配の下にある者ではない。それはどういうことかというと、ガラテヤ人への手紙4章にこのことを指す箇所がある。

     

    私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。(3節)

    しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。(8〜10節)

       3節でパウロは、「子どものときには、奴隷であった」という言い方をしている。そして8節で、「神を知らなかった時は、本来は神ではない神々の奴隷であった」と言っている。9〜10節では、パウロは旧約聖書にある儀式のことを話している。それはアダムの契約にある教えであり、「幼稚な教え」である。それがどのようなものかをモーセの律法を通してよく見ることができる。神はイスラエルにカレンダ−を与え、祭りの月日を定め、朝いけにえをささげることによって朝起きる時をも定め、夕方のいけにえの定めもあった。また、安息日を定め、何を食べるか何を食べないのかをも神が定めた。服装も建物もすべて、神が決めてイスラエルに命じ、イスラエルは「子ども」として素直にそれに従うことが要求されていた。パウロは、その子どもの状態は奴隷のような状態だと教えている。

       クリスチャンではない古い契約の時代の宗教は、イスラエルの影響を直接的にも間接的にも受けたりして、同じような宗教であったということを以前にも説明したと思う。これはバベルの塔の話に戻るようなものである。バベルの塔の宗教は言わばエデンの園の海賊版である。偽物のエデンの園の宗教であったので、似たような宗教の儀式もいろいろあった。だから、パウロが「幼稚な教え」という言い方をするとき、その当時のことを指すものでもあり、ユダヤ人のことを指すものでもあった。意味は微妙に違うが、同じような古い契約の子どものための教えを沢山持っていたのである。

       そして、「子どもの状態は奴隷の状態と同じようなものだ」とパウロは言う。つまり、子供は全部自分で生活のことを決めたりするような責任も自由もないからである。大人になってから自分で決めるが、それは自由であるとともに責任でもあるのだ。子供の奴隷の状態はそれだから大変なのではない。持つことのできない責任から守られている状態なのである。「奴隷の状態」と言うとき、それは悪いことだとは限らない。奴隷は責任から守られている。子供は、責任が持てないので、両親が決めるのである。着るものも食べるものも、寝る時間も起きる時間も、すべて父と母が決める。昔のイスラエルはそういう状態であった。

       クリスチャンではない場合、その奴隷の状態に伴うもう一つのことがある。それは「恐怖」である。なぜ恐怖が伴うかというと、クリスチャンではない場合、宗教はどうしても恐怖の話になる他ないからである。一つには、クリスチャンでない人の場合、自然に神に対する憎しみと恐怖が心の深いところを支配している。クリスチャンではない者の心理において、それはいろいろな形において表われてくる。中でも死に対する恐怖はもっと深い恐れを表わしている。つまり、「裁きが来る」ということを心のどこかで知っている。その深層意識において神に裁かれなければならないことを知っているので、死は恐怖となる。「死は裁きだ」ということを自然に感じているからである。

       それで、キリスト教以外の宗教は人を“支配”するためにどのような原則を持つかというと、「恐怖」の原則を持つことになるのだ。どのようにして資金を集めるのかというと、「恐怖」によって集める。どのように従わせるのかというと、それも「恐怖」によってである。従えば救われるが、言うとおりにしなければと罰がある。「恐怖によって支配する」というのが聖書を信じない宗教の基本的な原則なのである。それだから、今の日本はかなり世俗的な現代社会になっているのに、依然として“たたり”を恐れる人は少なくないわけである。若者に聞いても、「まあ。実を言うと、怖いですね」と言う。

       先日、新人類のような感じの大学生にその質問をしたところ、「あまり深くは考えたことはないけれども、たたりの話はやっぱり怖い」と言う。ホラ−映画というジャンルがあるのも、その恐れに根ざしたものである。死の恐怖、死の意味、それがホラ−映画の前提となっている。そこにはいろいろな心理学的な恐怖がテクニックとして取り入れられている。それだから、死に対する恐怖、神の裁きに対する恐怖などが、キリスト教以外の宗教にも沢山含まれている。なぜならサタンは、恐怖政治を行なわなければ自分の王国を築くことができないからである。恐怖政治以外に、サタンには支配の手段はないのである。それで、サタン的な王国の基本的な支配の仕方は「恐怖」による支配となる。

       パウロが「奴隷の霊」と言うとき、このことを念頭に置いて教えている。「奴隷の霊」とは、キリスト教以外の宗教のまさに本質であるからだ。キリスト教以外の宗教は、その帰依する者たちへの支配を保持しなければならないので、サタンはその常とう手段をもって神の方法を根本的に歪曲させるというやり方で神を模倣するのである。そのような支配は、過去の共産主義において最もよく表わされている。二十世紀の中で無神論宣言を国家として宣言したソビエト連合は、同時に恐怖政治を行なわなければならない国家となった。そして、中国もまた無神論の国として厳しい恐怖政治を行なわなければならなかった。他に手段はないのである。彼らには神に対する恐れもないわけではない。しかし、神に対する恐れと恐怖政治に対する恐れの根本的な違いが幾つかある。

       第一に、神は創造主であり、この世の支配者もサタンも創造主ではないので、「私に対して絶対的な恐れを持ちなさい」と要求する権利はない。神に対する恐れはある意味で絶対的なものだと言うことができる。聖書は「神への恐れ」について語り、イエスは人間ではなく神を恐れるようにと教えた。人間はからだしか殺すことができないが、神はからだも魂も永遠に地獄投げ込むことがおできになるからである。ルカの福音書12章4〜5節のところでキリストはこう言っておられる。

     

    からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

       神は絶対者で創造主であられるので、神はご自分に対する絶対的な恐れを要求することができる。サタンやこの世のリ−ダ−たちにはそれを要求する権利はない。絶対者ではないからである。それを要求するとき、彼らは自分を神にしようとしている。そして、神にのみ相応しいような恐れを人々から要求するのである。そう簡単にそれができないので、どんどん厳しくなり、理不尽な裁きをするようになり、非合理的な恐ろしい「恐怖」の支配をするようになる。それによって、歪曲された恐れと尊敬を帰依する者に強要するのである。

       第二のことは、クリスチャンではない支配者たちが人々から恐れを要求するときに見られる。サタンのしもべである支配者たちは公然と皆に知られている倫理的原則に従って働くことはしない。自分が下の者に弾劾されないため、そして、自分の“神性”が制限されずに自分の欲望を満たそうとするためである。神を拒む者は自分を神とする。そして、自分は誰によっても裁かれ得ないと考えている。そのような支配者らは、正しい恐れを伴う尊敬を得ようとはせず、人々が自分に対して恐怖感を持つことで彼らは満足する。彼らは、合理的で明瞭な“法”をもって正しく罪を裁くやり方では絶対的な服従を徹底させることができないことを知っている。それでは誰も自分に対して恐れを抱かないからだ。

       スタ−リンやマホメッドや毛沢東やヒットラ−などがそのよい例であろう。そして、世界史の中ではソビエト連邦ほどはっきりとその原則を意識して厳しくその原則を適用した国はない。その指導者たちは、レ−ニンの時以来、恐怖を支配の原則として用いる効果をよく知っていた。しかし、彼らの社会は、カール・A・ウィットフォーゲル (Karl A. Wittfogel) が『オリエンタル・デスポティズム (Oriental Despotism)』の中で示したように、珍しいものではなく、古代世界では典型的な社会原則であった。

       つまり、公けで明確な基準があれば、人々はスタ−リンらの間違いを指摘することができるし、毛沢東の間違いをも弾劾することができる。簡潔で客観的な基準を持って国を治めるならば、人々はその指導者たちに対して「恐怖」を抱くことはないのだ。公けな基準に従ってリ−ダ−も公平に裁かれるからである。そうであれば、彼らは、自分だけが裁きから除外される超越的な絶対者として神のような地位と権威を維持することができなくなる。スタ−リンは、自分の下の者に裁かれるつもりは毛頭ないのである。支配するためには、自分だけが絶対的な権威を持つ必要があった。それを表わすために、彼は目茶苦茶な裁きを行なわなければならなかった。

       どうするかというと、いつ誰を何のために裁くかを絶対に明確にはさせないのである。それがソビエト連合のリ−ダ−たちが基本的に考えている原則となっていた。だから、人を逮捕するときは夜中にやってくる。そのことをアレキサンダ−・ソルジェニ−ツィンが「収容者列島」という本の中で暴露している。深夜に、皆が寝ているとき、いきなり武装した警官隊がドアを蹴破って入ってきて逮捕して行く。逮捕の理由の説明などは一切ない。「あなたには黙秘権があります。弁護士を呼ぶ権利があります」とも言わない。ただ暴力的に捕らえて連れ去られるのだ。何のために逮捕されたのか、いつ裁判を行なうのか、裁判の結果がどうなったのか、なぜ刑務所に入れられたのか、何一つ知らされない。そのために、捕らわれた人は極度の恐怖に陥ってしまうのである。

       そうしなければ支配を維持することができなくなることを、彼らは恐れているのである。スタ−リンはそれを政治哲学の原則としてはっきり説明している。彼らにとってそれは政治の大原則なのだ。しかし、その政治哲学の原則は実にサタン的な原則である。サタンが神になろうとするときにそのような恐怖の原則を用いるのである。そうでなければ誰も従ってはくれない。真の権威を持たないからである。

       そのような問題があるので、スタ−リンの恐怖政治はサタンの支配の方法であり、それはまたキリスト教以外の宗教の支配の仕方でもあるのだ。古代世界の恐怖の程度はソビエト連邦よりも実際に低いものであったが、バビロンやエジプトなどは、人々を服従させるために神秘や恐れを与える諸宗教を通してその支配を保っていた。

       それだから、昔のバビロンやエジプト、そして昔の中国などでは祭司たちだけが特別な知識を持っていた。その“謎”とも言うべき知識は他の人には教えてはならないものだった。人々は、裁きを受けたり祭司の命令で何かをしなければならないときには、「それは間違っているかも知れない」とは絶対に口が裂けても言えなかった。祭司だけの“知識”なのだ。祭司以外の人が知ることなど有り得ないものであった。それは難しいことと簡単なことの区別というようなものではない。祭司だけが“すべて”を知っている。それ故、祭司は何でも要求することができた。そして、祭司が何を要求しようと、人々はそれに従う以外には術はなかった。

       イスラエルはそうではなかった。イスラエルの場合、律法は永遠に変わることのない明瞭な言葉をもって書かれてあった。誰もが読むことのできるものとして律法は与えられていた。それを与えた神ご自身も、御自身の定めや契約に真実であることを宣言しておられる。それで、祭司エリの子どもたちが罪を犯したとき、イスラエルは彼らの罪を指摘することができた。「あなたの子らは律法に逆らっている」と言うことができた。サムエルの子どもたちが罪を犯したとき、イスラエルの民は年老いたサムエルに、「あなたのご子息たちは、あなたのようには神の御言葉を守ろうとはしない」と言うことができたのだ。はっきりと書かれた御言葉があるからである。

       確かに律法には難しい箇所もある。そのために地域の長老たちが判断できないようなケ−スがあると、エルサレムや逃れの町に行き、聖書の言葉をもっとよく知っている祭司たちの知恵を借りたりした。しかし、御言葉に書いてあるとおりのことについて話し合って皆でそれに従い、裁きを行なったのである。客観的な文字となった律法が存在し、誰でも学んだり理解することのできる律法がある。それは恐怖政治ではない。恐怖で支配することではない。合理的な政治なのである。真の神を信じない間違った宗教は、恐怖政治と同じ原則をもって人々の服従を要求するものなのである。「私たちがキリストを信じたのは、恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたようなことではない」とパウロは言う。そういうものと根本的に違うということを説明している。恐怖政治とかサタン的支配の原則の二番目のポイントとはそのようなものである。

       三番目のポイントは、「愛」と「要求」の違いにある。これは、マルコの福音書10章にも出て来る話だが、弟子たちは自分が特別に偉くなりたいと思ったりしているときに、キリストは彼らに次のように言われた。

     

    イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(42〜44節)

       キリストは、「偉くなろうとするのは罪です」とは言っていない。「偉くなりたければ、正しい意味で偉くなりなさい」と教えているのである。異邦人が偉くなる方法は「要求」による。人々の上に権力をふるい、暴力をもって自分に従わせようとする。それは“恐怖政治”のやり方であり、“恐怖宗教”のやり方に他ならない。官僚は、ある程度そのやり方でないと治めることができないのはある意味で事実である。つまり、神は国家や政府に剣を与えられた。彼らは発令してそれを守らせるのに“剣”をふるうのである。

       だから、政府の支配領域を小さなものにしなければならないことも言わなければならない。何でもかんでも命令ばかりで、命令に従わなければ首をはねるというようなやり方は誰もしたくない。だから、政府は原則として小さな領域においてその責任を負うものなのである。政府は権威をもって服従を強要し、従わない者には罰金を課したり罰を与えたりする。ローマ人への手紙13章を注意深く読めば、それはそれでよいけれどもその権威は制限されたものでなければ危険であることがわかる。

       しかし、弟子たちにとって偉くなるための原則は、それとは違う原則なのだとキリストは教える。それは、「仕える者になれ」という原則である。だから、教会のリ−ダ−は神の御国の中にあって官僚的な一面もあると言えよう。つまり、教会のリ−ダ−は、教会戒規を守って裁きを行ない、神の御言葉を教えて適用する立場にある。これは上から与えられた原則である。王なる神が私たちに御言葉を与えてくださったのであって、教会のリ−ダ−たちには勝手に御言葉を決める権利はない。

       長老やリ−ダ−たちは、「教会員にもっとよく仕えるためにサ−ビスしよう」と言って、聖書の教えを曲げたり、捨てたり、神の命令を廃止したりすることは許されない。すべてが上におられる主権者である神から与えられたので、それを守るという意味では確かに官僚的なものだという言い方ができる。そして、その支配の領域もまた限られたものである。教会がすべてを支配するわけではない。教会の支配も限られている。しかし、キリストが弟子たちに与えた原則は、「人々に仕えることによって偉くなる」というものであった。仕える心を持って、仕える者として歩むならば、神が祝福してくださって偉くされるのである。キリストがこの世に来られたのと同じことである。

     

    人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(10章45節)

       キリストは、「わたしが十字架の上であなたがたの罪のために死ぬのは、あなたがたに仕えることなのです」と言っているのである。神が、愛をもって私たちを導いてくださる。罪人の私たちに仕えてくださるのである。クリスチャンではない者たちの恐怖政治のような「要求。要求」の連続で、従わないと「暴力。暴力」というような支配ではない。そこには、「要求の支配」と「愛の支配」の決定的な違いがある。これが三番目のポイントである。

       神は確かに私たちに命令しておられる。確かに私たちを裁いたり懲らしめたりすることはある。しかし、常に神は、父の愛をもって私たちを導くためにそうするのである。私たちを子として取扱っておられるのである。聖書が語る恐れは「恐怖」ではない。聖書は愛と信頼とに全く調和する恐れを命じている。その違いは非常にはっきりしている。

       いつも同じような例えを使って申し訳ないが、聖書が教える恐れは子供が父親や母親に対して持つような恐れである。子どもは両親が自分を愛していることを知っており、両親に信頼するが、同時に、悪いことをすれば罰があることも知っている。子どもたちはだいたい自分の父親を怖い思うものである。父親の裁きが怖いのだ。しかし、「怖くない」と大胆に言うこともできる。なぜ大胆に「父さんは、怖くない」と言えるのかというと、父親が自分を愛しているという確信があるからだ。そういう意味で、それは恐怖政治のようなものではない。

       いじめの問題であればそういう話にはならない。いじめる者といじめられる者との関係であれば、ただただ「怖い」という話になる。気を付けなければ、とんでもない暴力に発展する。だから、いじめる者といじめられる者との関係は「恐怖」の関係なのである。父は自分を愛しているから、少しくらいへそ曲がりな答えをしてもその愛を失うようなことにはならない。子どもはそれを知っている。そういう意味で、「お父さんは怖くない」と、大胆に言うことができる。そして、そう思うのは正しい。確かに、「怖くない」と同時に「怖い」、その両方が言える関係なのである。恐怖ではないからだ。理に適った、そして、愛から出た裁きを行なう。それが父親の子どもを裁くさばきなのだ。

       “いじめ”の場合は、相手が恐怖を抱くように、そして相手を自分に従わせるために、とにかく相手に脅威を与える。それで、恐ろしくなって、何を言われてもすぐに言う通りにするように強いるのである。“いじめ”は奴隷を作るやり方である。いじめ抜いて相手が自分に隷属するようにする。それが三番目のポイントで言っている違いなのだ。「恐怖」の宗教と「」の宗教はまるで違うものである。愛には裁きがないわけではない。愛には、怒りもある。けれども、それは愛から出た裁きであり、愛ゆえの怒りである。

       そういう意味で、パウロはローマ人への手紙8章で、「私たちが主イエス・キリストを信じて神の子どもとなったということは、恐怖の宗教から解放されたということなのです。そこから出て、別の恐怖の宗教に入ったのではない」と教えているのである。恐怖の宗教から解放されたのに、再び自ら恐怖宗教になってしまったのが、ユダヤ教である。なぜそうなるのかというと、神の御言葉から離れたからである。主イエス・キリストはパリサイ人たちに対して「あなたがたは御言葉から離れており、神の律法を守ってはいない」と繰り返し訴えていた。

       パリサイ人は、神の恵みの教えを歪曲し、それを律法主義的な教えに変えてしまった。だから、パリサイ人たちも恐怖宗教のような宗教をイスラエルにもたらしてしまったことになる。そこには神の愛はもはやないのである。ユダヤ人たちがキリストを信じるとき、彼らはパリサイ人の間違った信仰から解放される。それは「恐怖宗教から解放される」ことであった。異邦人が救われるとき、それは彼らが異邦人の恐怖宗教から解放されるということになる。私たちは、クリスチャンになる前の恐怖の宗教から、そして恐怖の状態から救い出されて、神の子どもとなったのである。

       クリスチャンは、サタン的な恐怖の宗教や哲学から御霊にある自由のいのちへと解放された。その自由をもっとも基本的な意味で表現するなら、どのようなものになるだろうか。それは、私たちが神に近づく方法において表わされている。私たちは自由に神の御前に来て、「アバ、父」と呼ぶことができるのである。そのことをパウロはここで教えている。15節の後半でパウロはこう言っている。

     

    子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

       これは非常に重要なことである。私たちは、私たちを養子にしてくださる御霊を受けたのである。ギリシャ語の原語で「子としてくださる」と訳されている言葉は、「法的に養子にする」という意味の言葉である。「養子にする」という言葉は、ギリシャやローマの法律から出た言葉であって、旧約聖書のイスラエルの律法の中にはそのような法的な意味の言葉はなかった。しかし、それと同じような言い方として、「神はイスラエルをご自分の子とした」という言い方はあった。詩篇にもそのような言い方があるし、出エジプト記2章10節でパロの娘がモーセを自分の子とするところにもその表現がある。それは「子にする」という言い方だが、まだ「養子にする」という法的専門用語としての言葉ではなかった。

       ここでパウロは、ローマとギリシャで使われていた法的専門用語を用いてその旧約聖書にあるのと同じことを話している。神は、イスラエルを贖うことによって、イスラエルをご自分の子どもにしてくださった。それと同じように、神は私たちを贖ってご自分の子どもとしてくださった。そのように、私たちは神に「養子にされた」のである。パウロは、神の子として私たちが持っている完全な保証について話している。新約聖書ではローマ人への手紙9章やガラテヤ人への手紙4章などで四回ほどこの「養子にする」という意味のことが書き記されている。

       「養子にする」とは、「法的に神の子どもとなった」ということである。どのようにして養子となったのか。その養子となる法的な儀式はいつなのかというと、それはバプテスマにある。バプテスマを受けることには、「神の子どもとして正式に養子にされる」という意味が含まれている。旧約聖書の時代の子どもたちは割礼を受けて神の契約に入り、神の契約の子どもとなった。バプテスマはそれと同じようなものである。バプテスマを受けるということは、神の契約の子どもとして養子となったということである。子どもではなかった者が、法的に契約的に子どもとされたのである。

       だから、ここでパウロは「子としてくださる御霊を受けたのです」と言う。そして、「私たちは御霊によって『アバ、父』と呼びます」と言っている。正式にバプテスマを受けたとき、契約的な神の子どもとなった。神が証印を押してくださったような意味で、神は「これはわたしの子である」と言ってくださる。神の子どもとなったとき、御霊が私たちの心の中で働いてくださり、私たちは御霊によって神を「アバ、父」と呼ぶのである。

       いつ、どのように、神を「アバ、父」と呼ぶのかというと、小さいときからそう祈るように親から教えられている。御霊によって「アバ、父」と呼ぶのは、いわゆる奇跡的で人間の働きとは一切無関係のような話ではない。私たちは礼拝に集まり、その中で主の祈りを捧げている。「天の父なる神よ」と祈るが、それは「アバ、父」と呼ぶことに他ならない。旧約聖書のイスラエルはそのように皆が一緒になって祈ってはいなかった。旧約聖書のイスラエルの祈りの中には「天の父なる神」というような呼び方はない。だから、マタイの福音書5章から7章の山上の説教の中で、主イエス・キリストは何度も「天におられるあなたの父」と言っているのは、非常に特別で新しいことを教えているのである。そして、「天の父なる神よ」と祈るように教えたのも、極めて新しいことであった。

       御霊は、私たちの心の中にあって、神を父と呼ぶように導いてくださる。礼拝において導かれ、父と母と一緒に祈っているときにも導かれている。そして、人生のいろいろな戦いの中で、また試練に陥ったときに、自然に心から「天の父よ」と言って神に祈りを捧げるのである。子どもであるなら当然そうあるべきである。これは、クリスチャンの生活の根本的志向をも表わしている。御霊の力によって神を父と呼ぶことが意味しているのは、神を父として認めること、父として信頼することであり、それゆえに、父である神を喜ばせようと求めることであるからだ。

       私たちは自らの罪をこのお方に告白し、神の御栄光のために生きることができるようにその御恵みを切に求めている。しかし、私たちは自由を持つ子どもとして、父親が守ってくださることを確信する子どもとしてすべてを行なうのである。「アバ、父」というこの表現はクリスチャンの生活全体の概要であると言えよう。クリスチャンとは、神を「」と呼び、それを心から告白する者のことなのである。

       ところで、「アバ、父」と呼ぶのは少し特別な呼び方である。これもガラテヤ人への手紙の中に同じようなことが書かれているが、「アバ、父」という言い方は聖書の中では非常に特別な箇所に記されている。主イエス・キリストが十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で弟子たちから離れて神に祈られたときに、イエスはそのように神を「アバ、父」と呼んで祈られた。私たちの主イエス・キリストが、その最も深い苦しみの時に神に向かって祈るときに使われた言葉なのである。そのことを思い起こすなら、もう一つの次元が加えられるはずだ。御霊が私たちの心の中で働いておられるので、私たちも「アバ、父」と祈る。ということは、御霊が私たちをキリストの兄弟にしてくださったのである。

       ローマ人への手紙8章の後にも出て来るが、新しい人類の代表であるイエスは新しい人類の頭となられたので、イエスは私たちの兄となられたのである。主イエス・キリストは私たちのために十字架上で死んでくださり、そして復活してくださった。それは、「御子が多くの兄弟たちの中で長子となる」ためであったとパウロは説明している(8章29節)。主イエス・キリストは人類の長子であるので、私たちも新しい人類の長子と同じ祈りを神に捧げることができる。「神の子どもとなった」ということは、「キリストの兄弟である」という意味なのである。これは恐怖に陥れるような宗教ではなく、全く逆であって、私たちは主イエス・キリストの兄弟とされたのである。

       キリストは私たちの主であり、私たちの創造主であり、絶対なる神であられる。その御方が、人間となって来てくださり、新しい人類のかしらとなってくださり、同時に私たちの「長子=兄」となってくださった。それ故、私たちは、メサイアと同じような祈りを捧げることができるのである。「アバ、父」と呼ぶことができる者となったのである。御霊は、その証しを私たちの心に与えてくださる。神の子どもとなった私たちは、ゲッセマネの園で祈られた主イエス・キリストと同じような祈りを捧げることができるのである。

       それが「恐怖」であることも明らかである。ゲッセマネで主イエス・キリストが何について祈ったかを思い出してほしい。主イエス・キリストはその時、罪に対する神の御怒りの裁きをすべてご自分で受けることについて祈っておられたのである。恐怖について語るなら、それこそ「恐怖」の場でなくて何であったろうか。しかし、イエスはその祈りの時に「アバ、父」と呼ぶのである。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコの福音書14章36節)とイエスは祈られた。真のクリスチャンの祈りとは、イエスがゲッセマネにおいて示された確信と服従と同じ心をもって神に近づく祈りである。

       イエスは、人間として祈っておられた。罪の為に死ぬというその杯を受けたくないという思いを正しい意味で持っておられた。無限な御怒りをキリストの上に下す御父に対して、主イエス・キリストは、恐怖を持っておられたのではない。「アバ、父」と呼んで祈っているのである。父の愛に完全に信頼しきっているのである。裁きを受けることを考え、裁きを目の前にして、その恐るべき罰を受けることについて祈っておられるその時でさえ、主イエス・キリストは御父に対して「恐怖」は持っていなかったのである。それだから、キリストにつく私たちも、神を「アバ、父」と呼んで祈ることができる。キリストを兄とする兄弟として、父なる神に愛されているという確信を持って歩むことができるということなのである。

     

    御霊の証し

    私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(16節)

       私たちが神を「アバ、父」と呼ぶのは、御霊の特別な働きによることなのである。礼拝において私たちはそれを学び、家庭の中で学んだりするけれども、本当の意味で心から「神は私の父であり、神は私を愛してくださる」という確信を持つことができるのは御霊の働きによるのである。神の御霊が私たちを神の子どもであることを私たちの霊とともに証ししてくださるのは、私たちが祈りの中で神に呼ばわる時である。言い換えるなら、聖霊は、私たちが神の御許に来るよう励まし、私たちを祈りに導かれるのである。御霊は神に近づくことができる確信と、「このお方が私たちの神であられ、私たちを御自身のところへ来させることを喜んでくださる」という確信とを与えてくださるのである。

       自分が神の子どもであることを知るとき、私たちは自由の霊に満たされる。神が愛してくださるという確信が私たちにあり、「このお方に呼ばわるとき、神は私たちに耳を傾けてくださる」と確信しているからである。しかし、御霊は“手段”をもって私たちにそのことを教えてくださる。即ち、御霊は、常に神の御言葉を通して私たちに教えてくださるので、御言葉を通して私たちにその確信を与えてくださるのである。また、聖餐式をも通してその確信を与えてくださる。そして、祈りの答えとしても私たちにその確信を与えてくださるのである。クリスチャンの人数が増えていくにつれてその確信が深められていく。そのように、いろいろな観点からその確信について考えることができると思う。

       「私は神さまに愛されています。神さまは天の父であり、神さまは決して私をお捨てにはなりません。神さまは、最後まで私を守ってくださいます」という確信を、御霊はいろいろなかたちで私たちに与えてくださる。その神の御霊の働きによって、私たちは「アバ、父」と呼ぶことができる。そして、神は、父として私たちの祈りを聞き入れてくださり、答えてくださる。そのことを私たちは確信することができる。そのことをパウロは話している。

       これは非常に大切なことなのだ。7章の罪との戦いの箇所でローマ人への手紙が終わったとすれば、それは大変なことになったであろう。罪と真剣に戦うとき、自分を惨めに思うことは避けられない。いくら罪と戦ったとしても、それを誇りとするほどの勝利は得られないかも知れない。それは、それほど素晴らしいものではない。そして、自分の罪を見るときに、本当に自分は惨めな罪人であることを悟らされて、「どうか神さま、私を救ってください」と祈らないではおれないことは確かにある。その状態は続くであろう。しかし、そこで終わるなら、それこそ恐怖の宗教のようなものになるであろう。「だめだ。だめだ。もう望みはない。いくら頑張ってもまた罪を犯してしまう。罪人だから、何をしても罪にしかならない。だめだ。もうだめだ」というような宗教になってしまう。

       罪人だから、罪と真剣に戦わなければならない面があるのは事実である。しかし、目の前にあるのは神の剣、神の裁き、そしてただの恐怖ではないのだ。なぜ戦うのか。怖いから戦うのだろうか。断じてそうではない。神に愛されているという確信があるので、罪を忌み嫌い、罪から解放されて神に従う歩みをしたいから、戦うのである。愛が動機なのだ。神を喜ばせたいと求めているので、戦うのである。神に従いたいのである。だから、目の前にあるのは「アバ、父」と呼ぶことのできる神なのである。愛と恵みの神である。私たちを愛してくださる父なる神が私たちに命令を与えてくださり、私たちはその命令を守りたいので戦うのである。

       愛されていることを確信してはじめて、本当に戦い、本当に悔い改め、熱心に神に従うのである。だから、クリスチャンにとって「惨めだ」と思うとき、その意味するところは違うものなのだ。「神の愛をこれほどに受けているのに、その愛に応えることができない。神を愛しているけれども、その愛がどんなにちっぽけで足りないのか」という意味で、惨めさを感じるかも知れない。しかし、愛されている確信は失われず、その確信の中にあって生きる者として成長を求めるのがクリスチャンである。御霊が私たちの心と共にそのことを証ししてくださる。

       そういう意味で、「アバ、父」と呼ぶのは、すべてに及ぶことなのである。神を「」と呼ぶのは、クリスチャン生活のすべてである。心から「」と呼んでいるなら、その父の御心を行ないたいと願っている筈である。御父の御心を求め、御父を喜ばせる心をもって歩むのである。その心を御霊が私たちに与えてくださる。御霊はどのようにその心を与えてくださるのかというと、それは福音を通してである。つまり、神が豊かな御恵みをもって私たちを救ってくださったということを、御霊は繰り返し繰り返し私たちに証ししてくださっているのである。

       聖餐式は、その証しの一つである。聖餐式は、神の御霊が私たちに確証を与えてくださる一つの方法である。週毎に神の御前に招かれて、福音の愛を具体的に示すパンとぶどう酒を神ご自身が私たちに与えてくださる。そして、聖餐式を与えてくださるとき、神が繰り返し私たちに語っておられることを忘れてはならない。「わたしはあなたを愛している。御子イエス・キリストを通して、わたしはその愛をあなたに与えた。このパンを食べ、この杯を飲むたびに、あなたはわたしの愛を受けている」ということを、神は私たちに語っておられる。神は繰り返し私たちに御自身の特別な愛を証ししてくださる。

       主の晩餐のパンとぶどう酒は契約の食事のかたちをとった福音そのものなのである。聖餐式を正しく受けるということは、神を「アバ、父」と呼び、感謝をもってその父の愛を受けることに他ならない。それだけが要求されていると言っても過言ではない。愛されている者は、「お父さま。ありがとうございます」と言って、その聖餐式のパンとぶどう酒を受けるのである。そういう意味で、聖餐式を受けるときの祈りはそれで十分だとも言える。「お父さま。ありがとうございます。ア−メン」という意味が十分に理解されているなら、その中にすべての意味は含まれているからである。

       「アバ、父よ。感謝します」と心から祈る。それが聖餐式の心であり、クリスチャン人生のすべてである。その感謝の心がすべてであり、生活のすべてに及ぶものである。聖餐式のときに神は、キリストのからだを表わすパンとキリストの血を表わすぶどう酒を与えてくださる。それを受けるとき、私たちは神の愛を受けるのである。それを受けるとき、私たちは信仰を通して主イエス・キリストを受けているのである。感謝をもってその愛を受けるのである。

       そのように、御霊は、私たちに神の愛を繰り返し繰り返し語って、私たちに福音そのものを与えてくださる。それだから、毎週私たちは自分の罪と愚かさを悔い改めてキリストを信じる告白を新たにするのである。毎週、福音の愛を与えられている私たちは、繰り返し自分の罪を告白して神に立ち返る必要がある。しかも、主イエス・キリストにある神の大いなる愛の確証も繰り返し必要としている。それは主の晩餐における主要な恩恵の一つなのである。感謝をもってそれを受け、神の愛に対する確信が週毎に深められていくのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年7月23日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章12〜13節

    ローマ人への手紙8章14〜17節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.