ローマ人への手紙8章14〜17節
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
2000.07.30. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
子とする、子である、相続
8章14〜17節
ローマ人への手紙8章16節と17節の中に、「神の子ども」ということ、そして「相続人」ということがある。子どもとされ、子どもの立場を持ち、それゆえ相続人でもある。私たちは「神の子ども」である。ある意味でそれは、個人における最高の祝福である。「義と認められる」ことは罪の取扱いに係わる問題だけれども、ここで強調されていることは、私たちには「神の子ども」という地位あるいは身分が与えられているという事実である。私たちは、神の家族の一員とされたのである。
神が私たちを死と罪から解放してくださるときに、ただ単に罪の問題を解決して永遠のいのちを与えてくださるだけではない。その贖い出した者たちを、御自分の子どもにしてくださったのである。その救いの意味についてもう少し考えたい。そして、「相続人」という概念がどのようなものなのか、どうしてこれが救いにおいて大切な概念なのかを一緒に考えたい。
「子とする(養子にする)」という意味でパウロが使っているこの言葉はローマ帝国の法制度から来るものだが、概念そのものは創世記をはじめとする旧約聖書の多くの書に見られる。「子であること」と「相続」もまた旧約聖書の中の基本テ−マである。パウロはこれらの言葉をすべて明確に新しい契約の意味において用いている。しかしそれは、キリストの死と復活、また聖霊の教会への賜物が、契約の祝福を新たにしたゆえである。ただし、パウロが言おうとしていることを正しく認識するには、これらの概念の古い契約における背景を考慮する必要がある。
子であること
救いについて考えるとき、聖書全体からそのことを見るには創世記から見始めなければならないことを繰り返し学んできている。それは最も良い、そして最も大切な学びの方法であるので、私たちも創世記のエデンの園に戻って考えたい。神がアダムを創造したとき、「アダムを御自分の子どもとして創造してくださった」という言い方ができる。
ルカの福音書3章にイエス・キリストの系図が記されており、イエス・キリストからずっと最初に創造されたアダムにまで遡っていくが、アダムのところになると「このアダムは神の子である」と記されている。そして旧約聖書の中で神を「父」と呼ぶ箇所のほとんどが「創造主」について書いてある箇所なのである。それらの箇所において、創造主なる神は、御自分が創造したすべてのものの上にいる「父」であることが宣言されている。場合によっては人類全体について書いてある箇所もあるが、それよりも「被造物の父」というような言い方がなされているのである(イザヤ書64章8節、マラキ書2章10節、使徒行伝17章28節、コリント人への第一の手紙8章6節、エペソ人への手紙3章15節、他)。
この概念は全世界をも含むものである。「被造物の父」と呼ぶとき、当然アダムはその中で最も優れた者であり、最も特別な意味で「神の子ども」であった。アダムは「神の似姿」として創造されたのである。アダムとエバは「神の子」として創造されて、エデンの園の中に置かれた。アダムは、神が創造した万物の相続人である。アダムとエバは、あるテストを受けて、そのテストに合格したら相続人になるということだったのだろうか。決してそうではない。
残念ながら、伝統的な改革派のウェストミンスター信仰告白や大・小教理問答の中ではあたかもそのようなものとして教えられている。「アダムはエデンの園にいたときに試行期間が与えられて試されたが、そのテストに成功したら祝福が与えられる」というような解釈になっている。それが間違った解釈であることは前に説明したとおりである。
エデンの園の真ん中に二本の木があった。一つは「いのちの木」で、もう一つは「善悪の知識の木」であった。いのちの木の実を取って食べることは最初から完全に許されていたのである。創世記を読むとき、その点を見落としてはならない。いのちの木の実を取って食べるために、何かのテストに成功するとか、何かの戦いに勝利しなければならないというようなことでは決してなかったのである。最初からアダムは神の子どもであり、エデンの園の中に住んでいた。ということは、既に契約の最高の祝福の状態にあったということなのである。
アダムとエバは至聖所であるエデンの園に住み、いのちの木から自由に食べ、他のすべての実の成る木から取って食べることができた。取って食べてはならないと禁じられたのは唯一、「善悪の知識の木」だけであった。そのことについても前に既に学んだとおりである。
アダムは神の子であり、相続人であったが、まだ未熟な状態にあった。からだは創造された時から大人であったが、まだ赤ちゃんのような未熟な状態にあったので、その祝福を子どものレベルで受けていた。「ふたりは裸であった」とあるのは、未熟な状態を意味していた。衣を着ることは「栄光」の話になるわけである。
最初、ふたりはまだ裸であり、赤ちゃんの状態にあり、「栄光」の表われはまだそれほど無かった。そして、「知識」も、自由に与えられていたが、善と悪の知識から取って食べることは、まだ大人ではないので禁じられていた。大人になったら食べてもよいものとして置かれていたのである。ある意味で、それは“相続分”としてそこに置かれていた言ってもよいと思う。最終的にはアダムとエバに与えられるために、その「善悪の知識の木」もエデンの園に置かれてあったのだ。しかし、それは未熟なままでは食べてはならないものであった。そして、「いのち」も、最初から与えられていたけれども、いのちは当然成長していくものとして与えられていた。
その“三つの祝福”がエデンの園の中にあって与えられていた。それらは、古い契約において与えられていた。古い契約全体は肉の契約である。それは未熟な状態の契約であることは何回か説明したと思う。主イエス・キリストが来てくださって新しいアダムとなられて御霊の祝福を与えてくださるとき、祝福自体は同じ三つの祝福であるけれども、こんどは大人のレベルでその祝福が与えられるのである。
そのように古い契約と新しい契約の違いがそこにある。アダムが罪を犯さなかったとしても、“大人”のレベルで与えられる新しい契約の祝福を待ち望むはずであった。神はアダムとエバに、全世界が人類で満ちるように子どもを求め、自分に与えられたところを正しく支配するように命じられた。歴史には始まりがあって終りがあるということは最初からはっきりしていた。
アダムが罪を犯さなかったなら、彼とその子孫は徐々にその数を増し、神が人類に与えられた大いなる働きを成就するための支配と管理を増していったであろう。その働きが完了する歴史の終りのときに、人類は全体としてより高い次元へと“卒業”し、大人となった神のこどもとなり、御霊がうちに宿り、新しいからだを持つ子となっていたであろう。もっと高い大人の次元ですべての祝福を楽しむことになるはずであった。だから、最初から、アダムとエバには終末論的な思いは与えられていた。「この働きをしっかりやりなさい。その働きが終わった時点で、あなたは大人となる」と教えられていたようなものであった。
「人類全体が最終的には大人の状態になる」ということは、最初からアダムとエバに教えられていた。それで、「相続」という概念はエデンの園の時に既にあったものである。「神の子ども」であるので、子どものレベルでその働きを全うし、大人になった時に新しい世界に入るということは、エデンの園の中でも既にわかるものであった。つまり、そこには歴史の目的と意味が与えられていた。その歴史の目的と意味が果たされたとき、成熟した大人の状態になるのである。
子どもたちの中にはちんぷんかんぷんな顔をしている人が何人かいるので、もう一度違う言い方で説明するが、子どもたちは“小さい”のだ。からだがまだ成長段階にある。骨も内蔵もまだ完成されていないし、いろいろな意味において子どもはもっと成長して変わっていって大人になっていくものである。人類は、アダムとエバの時にはまだ赤ちゃんの状態にあった。そして、神がアダムとエバに与えた歴史の目的が果たされた時点で、人類は大人になる。歴史全体において言うならば、そのようなものなのである。
それで、大人になったときには子どもの時期を“卒業”して違う段階に入るのである。そのことは、アダムとエバのときから既にわかるものとして与えられていた。子どもの段階が終わったなら、人類全体は子どもの働きを終えて大人として生きる者となる。そのこともアダムとエバにはわかっていた。最初から、歴史的な終末論的な思いは与えられていたのである。はじめから、歴史の最後にある祝福を求めて生きるものとして創造されたのだ。そのような生き方は、エデンの園の時からはっきりしていた。
人間は、「神の子ども」としてそれを求める存在であった。未熟であったことは、裸であったことや善悪を知る知識の木から取って食べることが許されていないことからも、また二人しかいないということにおいても、また金や銀などがまだ未開発に土の中に埋もれている状態からも表わされていた。人間はそれらを採り出して住まいや道具を作ったりしなければならない。今から歴史のすべてが自分たちの前に置かれていることは、アダムとエバにはよくわかっていた。特にアダムはそのことを理解していた。神が「これをしなさい」と命じるとき、アダムはそれを実行すると自分が成長していくことを経験によってもわかっていた。「これから沢山のことにおいて成長しなければならない」ということがわかっていた。
そういう意味で、人間は、全世界を相続するものとして創造されたのである。「全世界はあなたのものです。これを支配し、管理しなさい」と神が言うとき、まさか二人だけで全世界を管理しようとは思わなかったはずである。そう思ったとしも決して出来るものではない。エデンの園だけでもアダムとエバは完全に熟知していたわけではなかったのだ。「全世界を支配し、神に従って正しく管理するために」、人類は全世界に満ちていかなければならない。そして、様々な分業によって正しく管理していかなければならないものとして世界は人類に与えられていた。そのことは当然アダムとエバにもわかっていた筈である。最初から、アダムとエバは子どもであり、相続人である。しかし赤ちゃんの状態であった。未熟な子どもの状態であった。
それで、古い契約の中で、人類は「神の子ども」として最初から創造されたが、アダムがサタンに従ったことによって、全人類がアダムにあって堕落し、人類に与えられた相続は事実上サタンに盗まれてしまった。つまり、アダムとエバは、世界を支配する権利をある意味で失ってしまったと言ってよい。それを、サタンが支配するようになってしまった。サタンが「この世の神」となった(コリント人への第二の手紙4章4節)。例えば、キリストがパリサイ人と話すとき、「あなたがたの父はサタンです」と言ったりしている(ヨハネの福音書8章44節参照)。
神は、エバに約束を与えたときに、サタンの子孫とエバの子孫の話をされた。サタンとサタンの子孫(裔)に対して勝利を得なければ、人類に救いはない。人類は救いを失い、相続分を失ってしまった。堕落後の人類は、自分の創造主である神の御前での立場を失ってしまったような状態にある。贖いの約束とは、失われてしまった相続をエバの子孫が取り戻すというものであった(創世記3章15節参照)。その約束は、ノアから回復期までの一連の契約において発展していった。贖いの約束は広く深く成長していった。
約束の保証としての祝福されてカナンの地を相続することは、全世界を相続することを象徴的に表わすものであった。イスラエルの十二部族には部族ごとに相続の地が与えられた。そのことは、神の選民が必ず全世界を相続するようになるという意味を含むものであった。だから、古い契約の時代である旧約聖書の時代は子どもの契約の時代であった。それらの契約はみな「子ども」のための契約であった(ガラテヤ人への手紙4章3節、同3章23〜24節)。
その時代、相続は未来のことであって、大人としての「神の子ども」となる祝福はまだ未来にあった。アダムの時からキリストの時までそうであった。しかし、主イエス・キリストがこの世に来られて、新しい契約のかしらとして御自身の上に人間の罪に対する最終的な裁きを負ってくださった。神の契約を完全に守ってくださり、十字架上で死んで、復活して、天に昇られた時、歴史の終りが歴史の中心に入り込んだのである。歴史の最終的な結論が、歴史の真ん中に入ってきた。
歴史の最後には大いなる義なる裁きがある。しかし、キリストを信じる者にとっては、その歴史の最後の裁きはキリストの十字架の死によってもう終わっているのだ。“卒業”において与えられる祝福は御霊であり、大人として与えられる祝福は復活のからだである。それは肉的なからだでなく、御霊的なからだであるとコリント人への第一の手紙5章に書いてある。もしアダムが罪を犯さなかったなら、アダムとエバに与えられた契約の働きが完全に果たされたとき、復活のからだと御霊が与えられて、大人としての契約の祝福が与えられる筈であった。
しかし、アダムとエバが罪を犯してしまったので、人類はその契約の祝福を失ってしまった。神は、こんどは「贖い」によってそれをもう一度与えてくれなければ、その祝福は永遠に失われてしまうものとなった。しかし、主イエス・キリストは、歴史の真ん中でその「贖い」を成してくださって、その祝福を再び与えてくださった。キリストは十字架上で死んで、よみがえり、復活のからだをもって天に昇られたのである。だから、歴史の最後の祝福が歴史の真ん中にあって御霊の賜物を通して新しい人類の上に授けられている。御霊の祝福が私たちに与えられているのである。
それだから、新しい契約を説明する中でパウロは、私たちを大人となった「神の子ども」として話しているのである。新しい契約の到来をもってはじめて神の民は大人としての息子と見做された。ローマ人への手紙8章と同じような箇所ということで引用したガラテヤ人への手紙4章に書かれてあるとおりである。4章1〜5節を見よう。
1ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、2父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。3私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。4しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。5これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
それ故、私たちは、主イエス・キリストの贖いによって「子としての身分を受けるようになる」のである。「子としての身分を受けるようになる」と訳されているが、これは「養子にされる」という法律用語である。5節の表現は厳密には「息子として養子される」という意味である。「息子として養子される」という言い方がなぜ大切なのかというと、「息子」が相続人だからである。
「息子である」という祝福が男性にも女性にも等しく与えられていることもまた重要なポイントである。クリスチャンの場合、女性たちもみな神の息子である。また、男性も女性もみな「キリストの花嫁」なのである。聖書の救いの象徴を考えるとき、女性の観点から見たものと男性の観点から見たものの両方がある。人が男と女に創造されていることの究極的な意味は肉体的なことではなく、象徴的なものなのである。
この場合、息子が相続人であるので、「息子として養子された」という言い方になっている。相続するのは息子なので、「息子である」という祝福は相続の概念に直接つながっているものである。これは、救われた個人一人ひとりがみな相続人であることを話しているのである。大人になった神の子どもという私たちの身分と特権は、はじめに受けたものよりもはるかに偉大なものなのである。更に、同6節でパウロはこう言っている。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
神が御霊の祝福を与えてくださるのは、子どもの身分を持っているからである。私たちは、相続を受ける身分を受けたのである。それは、まだ相続を受けることのできない幼子としてではなく、大人として相続の身分を受けたのである。クリスチャンは、そのような神の息子たちなのだ。それが、新しい契約の救いの祝福である。ガラテヤ人への手紙で説明したのと同じことを、パウロはローマ人への手紙8章で説明している。私たちは神を「アバ、父」と呼び、大人の息子としての祝福を受けている。
ローマ人への手紙8章では、「肉」と「御霊」の対比がずっと続いている。それが最終的にはすべて御霊の話になっている。その話のすべては契約の歴史全体を指している。アダムが罪を犯さなかったなら、御霊の祝福と歴史のプロジェクトのすべては歴史が終わった時点で与えられる筈のものなのである。歴史の終りに人類は大人になるはずであった。
しかし主イエス・キリストは、歴史の途中にこの世に来られて、大人としての新しい契約の祝福のすべてを受けて天に昇り、神の右に座しておられるのである。そのキリストが私たちに祝福を与えてくださるとき、私たちは大人であるキリストにあってその祝福のすべてを受けるので、身分として見るとき、契約の子どもたちも皆神の御前では大人の祝福を受けている。クリスチャンは皆、神の御前でキリストにある者として認められるからである。神の大人の息子であり、相続人である。その祝福の話をパウロはそこで話している。
これは、救いの祝福として非常に大切なことである。そのことをパウロはガラテヤ人への手紙3章の終りのところで話している。大人の状態と子どもの状態との違いを4章で説明しているが、3章23〜29節を見てほしい。
23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。25しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。26あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。29もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
この箇所は、ローマ人への手紙8章と同じポイントについて話しているが、とても興味深い違いもあると思う。アブラハムの子孫なので約束による相続人なのだとパウロは説明している。ローマ人への手紙8章では、「キリストの御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは御霊に導かれている者であるから、神の子どもであり、相続人である」と話している。その両方の箇所を一緒に考えるとき、その意味はもっとはっきりする。
神はアブラハムに新しい契約の父となる約束を与えられた。即ち、「あなたの子孫にこの約束は与えられる」と神は言われたが、パウロは、その約束のことをガラテヤ人への手紙3章で話している。その「子孫」とは、贖い主イエス・キリストのことである。アブラハムの子孫に祝福が与えられるという約束は、イエス・キリストにすべての祝福が与えられるという約束なのである。その祝福はどんな祝福なのかというと、ローマ人への手紙4章にもあるが、「全世界が与えられる」というものであった。それで、キリストが、アブラハムの子孫としてすべてを相続してくださった。ヘブル人への手紙では、すべての被造物はキリストの相続分だと教えている。
しかし、「御霊」の祝福によって私たちはキリストと「合一」されたものとなっており、キリストと一つになっているので、主イエス・キリストに与えられている契約の祝福は私たちにも与えられている。主イエス・キリストは神の家族の長子であり、私たちの兄であるとパウロは後で教えている。キリストが相続する分を、私たちも一緒に相続するのである。それは、契約の祝福の最終のところである。新しい契約の祝福のすべてを表わすのは「御霊」である。新しい創造の祝福を、「御霊」は与えてくださる。
歴史のすべての働きが終わって、人類にもっと高い次元の祝福が与えられるのである。復活のからだをもって栄光を受ける時のすべての祝福を意味し、表わし、約束し、保証するのが「御霊」である。その「御霊の祝福」が、今既に私たちに与えられている。それだから、私たちは「神の子ども」なのである。今、私たちにはその地位、身分、権利が与えられている。そのように、救いの祝福は非常に深くて広いものとして私たちに与えられている。
相続
エデンの園の中で神がアダムとエバに与えた基本的な祝福が三つあったことも既に何回も話した。そのエデンの園の中の三つの基本的な祝福とは、「知識」と「いのち」と「栄光」である。この三つの宝は、人類が全世界を相続することを意味するものである。天幕の至聖所の中にも同じ三つの祝福があり、それはソロモンの神殿にもあった。エデンの園では善悪の知識の木は「知識」を象徴するものであった。天幕では至聖所の中の神の契約の箱の中にあったモーセの十戒の石板と聖所の燭台も「知識」の祝福を表わしていた。
それから、「いのち」の祝福は、エデンの園ではいのちの木によって表わされ、天幕の至聖所の契約の箱の中にはモーセが残したマナが置かれていたが、そのマナによって「いのち」の祝福が表わされていた。ソロモンの神殿の中にはマナはなかったが、聖所の所にはイスラエルの十二部族を表わす備えのパンがあり、そこには光もあって、パンはいのち、光は知識の象徴としてあった。
エデンの園の中のもう一つの祝福は、栄光なる神がともに住んでくださるという祝福である。それは「栄光」という祝福である。神がともに住んでくださるということは、神の栄光が現われる所に住むということであり、アダムとエバはそこに住んでおり、「栄光」の祝福が与えられていた。天幕および神殿の中では、至聖所にある芽を出したアロンの杖が栄光と権威の象徴であった。それから、聖所には栄光の雲があり、その金の祭壇の上でいつも香が焚かれていた。それも栄光の祝福の象徴であった。
そのように、エデンの園の中にある三つの基本的な祝福は、「知識」と「いのち」と「栄光」であった。これは、最初からアダムとエバに与えられていた祝福であった。何かをすることによってその祝福を手に入れるというようなものではないのである。
エデンの園について考えなければならない大切なことがある。すなわち「いのち」と「知識」と「栄光」、この三つの宝は互いを含むものだということである。このエデンの園の三つの“宝”は、神の息子である人間の相続について基本的な考え方を与えてくれる。「知識」において成長するということは、「いのち」において成長することでもあるし、「栄光」において成長することでもある。考えてみれば当然のことである。
何かを学んでそれを理解して自分で行なうことができるようになったとき、本当に知識を得たのであれば、その領域において他の人を教えることができるようになる。今までは、誰かに寄り頼んで、誰かの教えを受け、誰かの下につかなければ立つことができなかったけれども、本当に知識が自分のものとなったとき、人に教えることができるようになる。だから、本当に知識を得たならば、その領域において「栄光」が増し加えられて、他の人の上に立って仕えることができ、他の人を祝福することができるようになったのである。
同様に、人生における経験の一つひとつは、知識や知恵を増すことにつながるのはもちろんのこと、栄光をも若干増し加えることにもなる。それ故、年配の人々は多くの“いのち”を持っていると言ってよいし、若い人々よりも栄光を持っていると言えるのである。だから、「知識は栄光につながる」ということは、考えればよくわかることだと思う。そして、「知識はいのちにつながる」ということも言わなければならない。
「いのち」とのつながりは、少しわかり難いかも知れないが、聖書は「いのち」を広い意味において教えている。神との正しい関係、人間との正しい関係、被造物との正しい関係、それらの関係がいのちに含まれるものとして教えられている。「いのち」はまた、よく食べ物によって象徴されている。ソロモンの神殿にもモーセの天幕にもそのような象徴があった。食事をするということは、いのちを楽しむことにつながることなのだ。「いのち」はまた時間と係わるものである。つまり、いろいろな事を時間を経て経験していくことがいのちであり、生きることなのだ。
あまり良い例ではないかも知れないが、スカイダイビングをする人たちはよく「飛んでいる時に、本当に自分は生きているということを感じる」と言う。何か特別な経験をすることは「いのちを楽しむ」という意味を含むものである。知識を得る。何かを学ぶ。今まで出来なかったことが出来るようになる。それは人生を楽しむことができるようになったということなのだ。それは、いのちを楽しむことに含まれることなのだ。その経験によって、自分の人生はその小さな領域において変わったのである。
人と話したり交わりを持ったりすることもいのちの中に含まれることとして新約聖書では教えられている。神との交わりは、いのちの祝福なのである。だから、いのちの祝福を私たちは広く考えなければならない。確かに、時間の中にあって経験される神の祝福はいのちの祝福に含まれるものなのである。それだから、アダムは動物を見てその名前をつけた後で知識において成長することができた。ただ音を発して名前をつけただけのことではなかった。アダムは、神が創造した個々の動物の意味を知ったのである。動物たちはつがい毎にアダムの前を行き、アダムはそれぞれのつがいとなっている動物の意味を理解して名前をつけた。その時、知識の楽しみがそこにあった。「こういう意味だったのか。この動物はこういう意味のものだったのだ」と理解するとき、大いに楽しむことができたのだ。
私たちもその経験をしているはずだと思う。数学の問題がなかなか解けないとき、やっとのことで答えが解けたとき、実に嬉しい気持ちになるであろう。スポ−ツでも同じことが言える。懸命に頑張って訓練を受けたあと、やっと思うように出来るようになったとき、満足して喜ぶはずだ。ビジネスにおいてもそうである。頑張って困難に取り組んでいてやっと解決できたとき、或いは大切な取引がやっと成約できたとき、実に楽しい思いを経験する。それらもいのちの楽しみに含まれる祝福なのだ。だから、アダムが動物の意味を理解したとき、それは知識において成長しただけのことではなく、神から与えられた特別な経験によって生きる「いのち」の祝福につながることであった。
その経験の後に、神はエバを創造した。それで、エバが尋ねる時、アダムはすべての動物の名前と意味を説明しなければならない。それはリ−ダ−としてのアダムの働きの一つであった。その知識を持ったのはアダムの栄光ともなったのである。だから、この三つの祝福は相互関係にあり、互いを含むものなのである。それだから、新約聖書の「神の子どもである」という言い方は、契約の歴史全体において理解しなければならない表現なのである。そして、一人ひとりに御霊が与えられているということは、エデンの園での三つの祝福が非常に高い次元において与えられているということである。
「いのち」の祝福とは、「永遠のいのち」のことである。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは、死んでも死にはしない。イエスは、ヨハネの福音書11章25節で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と約束しておられる。この約束は、肉体の死の話ではない。本当の意味での「死」をクリスチャンは経験しないという意味である。キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられている。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、復活のいのちがもう既に私たちに与えられている。その「いのちの祝福」は、エデンの園よりもずっと高い次元で与えられている。
「いのちの祝福」は、ただ存在するという意味で生きるということだけでない。その「いのち」には人生の経験も含まれており、御霊が宿っており、私たち一人ひとりは神の神殿であると聖書が教えているとおりである。それこそ神との交わりを持つことなのであり、それはいのちの最高の祝福なのである。聖霊が私たちのうちに宿ってくださることは、まさに永遠のいのちの祝福の本質なのである。いのちの豊かさは神御自身との交わりにおいて見出されるものだからである。それこそ、真の交わりの祝福である。
私たちは、神を「アバ、父」と呼んで、心から祈りをささげることができる。そして、神は、私たちの祈りを喜んで聞いてくださることを確信できるのである。これはすべて「いのちの祝福」である。聖書の中には「神と共に歩む」という言い方が何回も出てくる。子どもたちは、時間的にまだ未熟なので、神と共に歩むことがどれほどの祝福かをそれほどよくわかっていない。しかし、子どもでも、心から神に祈るならば、神がその祈りに答えてくださるのを見て「本当に、神は私とともにいてくださるんだ」ということが経験によってもわかるものである。これは、いのちの祝福を楽しむことである。その神との親しい交わりが特別な意味で私たちに与えられているのである。
旧約聖書の時代には、御霊の働きが何も無かったわけではないが、「神が中に住んでくださる」というほどの祝福はまだ無かった。どのように区別するかは説明しにくいが、旧約聖書には「一人ひとりが神の神殿である」という言い方はないのである。それほどの大きないのちの祝福は、キリストが復活して天に昇って王座に座られたときにはじめて与えられたのである。「いのちの祝福」が新しい契約において与えられる。神の子どもだから、その高い次元のいのちの祝福が与えられている。
それから、「知識の祝福」の賜物が、神の子どもたちに与えられている。うちに住まう御霊が与える知識の賜物には御言葉の正典の完成が関っている。紀元70年に御言葉の正典として聖書は完成された。この事実は、知識の賜物を理解するときにとても大切である。旧約聖書のイスラエルの時代は、いつも神の御言葉を待っている状態の連続であった。待っても待っても完全なものはまだ与えられなかった。子どもの状態であり、ある意味ではまだ勉強中であった。毎日新しいことを学んだり、新しい教科書をもらったりしなければならない段階だったのである。
だから、アブラハムやノアの時代は、預言者だけに神は特別な知識を与え、ノアはそれを皆に教え、アブラハムもそれを皆に教えた。ヤコブやヨセフたちもそれを子らに教えた。当時では、書物として書かれた知識はまだ与えられていなかった。「子どもたちにはまだ読めないもの」というような次元での知識しか与えられていなかった。
やがてモーセがモーセ五書を書き、続いてヨシュアがヨシュア記を書くとともにモーセ五書を完結させたと思われるが、紀元前1400年頃にその最初の聖書が与えられた。そして、サムエルからダビデとソロモンの時代にその当時の新約聖書としてルツ記、サムエル記などが書かれた。その数百年後に、また預言者たちによる“新約聖書”が与えられた。更に数百年後に、今日私たちが持っているところの新約聖書が与えられたのである。
だから、聖書はモーセの時代からずっと継続して与えられ続けてきた一冊の書物であって、新約と旧約の二つの書物として聖書があるのではない。敢えて分割するなら“四つの書物”ということになるけれども、私たちはそれらを分けて考えることはしない。不可分な一つの書である聖書が少しずつ与えられて今の一冊の書物となった。紀元70年にすべてが完結されて、紀元70年に神は古い契約の民イスラエルを裁いて、決定的且つ明確に新しいキリストの教会の時代に入ったのである。
御霊の祝福が与えられ、そして、知識の祝福も完全なものとして与えられた。もう聖書に書き足すことは何もない。完全な書物として封印されたのである。預言は完結したのである。今や善悪の知識の実はすべて私たちの手の中にある。個人一人ひとりがそれをどのように自分のものにするかはまた別の話であるが、キリストの教会に対しては、歴史の中における基本的な知識の祝福は完全なものとしてAD70年までに全部与えられたのである。
旧約聖書の中ではずっと新しい啓示、とくにメサイアに関する新しい啓示が約束されていた。しかし、メサイアが来臨され、啓示が完成されたゆえに、神の民は今や御言葉の真理のすべてを持っている。このことは、もう何も新しく学ぶことはないという意味ではない。私たちは、もはやサジで食べさせてもらうのを待つ「子ども」としてではなく、子どもの時に教えられたことの上に建て上げていく「大人」として、今は知識を熱心に求め、勉強し、学ばなければならない者となったのだ。大人である息子たちは、完成した啓示の土台の上に立つのである。
次に「栄光の祝福」だが、これも「いのちの祝福」と一緒になっている。私たちのからだが神の神殿であるというのは、栄光の祝福の話である。永遠のいのちが与えられることと、私たちのからだが神の神殿であるということとは、本当は区別して考える方が良いけれども、永遠のいのちが与えられることと御霊が私たちのうちに住むこととは一緒になっているのである。そして、一人ひとりのからだは神の神殿であり、私たちは皆、「神の子ども」となった。それは栄光の話なのである。それは、栄光の祝福の頂点とも言うべきものである。
それだから、パウロはローマ人への手紙8章で、「キリストとともに苦しみを受けた者は、キリストとともに栄光を受ける」という話をするのである。神の子どもだから、栄光をともに受けるのである。子どもは相続人であり、相続人は栄光を受けるということなのである。「父の栄光は子に与えられる」という話なのである。私たちは神の子どもであり、御霊が住まう神殿である。そのような救いの祝福、それは神の栄光を表わす祝福である。
いのちの祝福は新しい契約の次元で与えられている。栄光の祝福も新しい契約の次元で与えられている。知識の祝福もまた然りである。というのは、キリストにあって贖われた私たちは皆、神の子どもであり、相続人であって、新しい契約の祝福のすべてが、御霊が与えられたことによって私たちに与えられているのである。私たちのからだが「御霊の神殿」と呼ばれているように、うちに宿る御霊によって栄光の祝福も与えられる。エデンの園での神の臨在が栄光の祝福であったのと同様に、神の民の内に御霊が臨在されることは栄光の賜物である。そのことをパウロはこの8章で説明している。
だから、肉にある古い契約は堕落した契約となったので、肉の契約に伴う罪の問題が解決されなければならない。私たちは、そこから解放されて、新しい契約の神の子どもとなったのである。そのようにパウロは救いの祝福を広く説明している。それは私たちを励ますためである。それは私たちが、これほどまでに大きな神の愛の祝福が与えられたているのだということを理解して、喜んで神の御国を求めるようになるためである。
しかし、ダビデが詩篇の中でどのように祈ったかを覚えたいものである。ダビデは神に向かって、「あなたが私の相続分です」と祈りをささげているのである。ダビデは、相続について考えるとき、土地が自分の相続分で、土地がなければだめだという考えは持っていなかった。神御自身こそ本当の意味での相続分であるということを知っていた。子どもの時代の契約における土地の相続分は、もっと大きな相続を象徴として表わすものであったのだ。神の民は、神御自身を相続するのである。これはローマ人への手紙8章17節が「私たちは神の相続人である」と言うときに、そこに含まれている意味なのである。「神御自身を相続する」とはどういう意味なのか。まずそれは、神の御霊が私たちのうちに宿ってくださるという賜物によって私たちは契約の祝福のすべてを持つという意味である。
子とされること
これは、人間の歴史的プロジェクトが無効になったという意味ではない。実際のところ、“歴史のプロジェクト”はまだ終わってはいない。歴史はまだまだ終わっていない。しかし、歴史が終わった時の祝福が、歴史の真ん中に挿入されて私たちに与えられている。歴史のプロジェクトのすべてが完了した時点での祝福が、歴史の真ん中で神の民に与えられている。しかし、プロジェクト自体はまだ終わっていないので、初めにアダムとエバに与えられた歴史のプロジェクトを私たちが引き継いで果たしていかなければならない。
そして、私たちにはもう一つのプロジェクトが与えられていることを覚えなければならない。それはアダムとエバが罪人となってしまったために与えられた働きである。即ち、「サタンに対して勝利を得る」というプロジェクトである。戦って実を結ぶことによってこの歴史のプロジェクトを終わらせなければならないのである。
はっきり言うが、もし終末論において、「アダムとエバに与えられたプロジェクトはもうやらなくていい。私たちはただキリストの再臨を待ち望むだけだ」というような考えになってしまうなら、宣教はしても、実際に歴史の中に生きる積極的な目的は失われてしまうことになる。そして、「一握りの人々が救われて、歴史は終わる」みたいな考え方で生きることになる。実際そのような考え方をする人は多い。千年王国無説も、千年王国前説も、歴史の中で何をしているのかという歴史のプロジェクトの概念はない。それだから、罪に対する戦いも困難になる。
つまり、肯定的な目的のために戦ってはいないので、ただ罪を犯さないように頑張って最後まで我慢するような戦い方になってしまいがちなのだ。そのような考え方は、人生のすべてに悪い影響を与える結果を招くことになる。人は目的のために生きるのでなければならない。クリスチャンである私たちの一人ひとりには、人類全体の歴史における大きな目的のための小さな働きが与えられているのである。何千万、何億のクリスチャンが、その歴史のプロジェクトにおける目的を終わらせなければならない。
一人ひとりに、割り当てられた働きがある。大きな10タラントの働きをする者もいれば、小さな1タラントの働きをする者もいる。しかし、神との交わりを親しく持ちながら、神の御言葉に従って、その歴史のプロジェクトが完結されるためにこそ私たちはみな働くのである。その認識を持って、御国のために実を結ぶという“大志”を抱いて戦わなければならないのである。クリスチャンには歴史の中にあっての確かな目的がある。その目的を果たすことを熱心に求めて生きるのがクリスチャンである。
子どもたちに「あなたの人生の目的は何か」と聞いても、まだピンと来ないかも知れない。しかし、「御国を求める」という大きな志がクリスチャン一人ひとりに与えられていることを知らなければならない。自分は御国のために何ができるかということが、常に自分の個人としての志と結び合わさっていなければならない。それを真剣に求めて生きるということが大切であり、その心を持って日々を生きるのである。そういう意味で、未来に対して望みを抱き、実を結ぶ心と思いを持って、どのように神の御国のために役に立つ働きができるかを常に求めて生きるのである。それこそ、「神の子ども」として、「相続人」として相応しい考え方である。
小さなことにおいて考えればわかると思うが、昔のイスラエルは農民であった。それぞれの家族に土地が割り当てられた。ヨシュアの時代に戻ってみるならば、一つの家族に与えられる土地は大きなもので、父親だけではとても管理できるものではなかった。父親は子どもたちにその土地を見せて、「この何万坪が私たち家族に与えられた土地です。私が耕せるのはこの一部でしかなく、この家しか作ることはできない。おまえたちは父が始めた働きを受け継いで自分の人生においてこれをよく管理しなければならない。これはおまえたちの相続分だから」と教えるのである。
小さい時から管理することを学び、父の真似をしながら自分に割り当てられた土地を管理し、少しずつその相続分を増やしていくのである。そして、次の世代もまた同じことをする。そのように次世代を訓練していき、相続分として与えられた大きな土地は最初の一つの世代では管理できなかったけれども、代々働いていくうちに少しずつその家族に与えられた相続分を自分のものとすることができていくのである。
それは幾世代もかかる働きである。しかも、「これは自分たちに与えられた相続分である」という認識を非常に具体的に持って働かなければならない働きであるが、それは非常に解りやすいものであった。それは、子どものレベルの時代であった。イスラエルにそのように土地が与えられたということは、実際の歴史を通して子どもたちに相続の意味を教えるためであった。
ローマ人への手紙8章のところでパウロは、「もし子どもであるなら、相続人でもあります」と言っている。日本語訳はどうしてもギリシャ語と言葉の順が違ってしまうのは仕方のないことだが、この文書の原語では「神の相続人である」という言い方になっている。子とされることは救いの祝福の頂点である。養子にされることによって、私たちは、「キリストとの共同相続人」とされた。それは、「神から相続が与えられる」という意味もあるけれども、「私たちの相続分は神御自身である」という意味もその言い方の中には含まれている。つまり、神は御自分を契約の祝福の相続として私たちに与えてくださるのである。ダビデは、神御自身こそ自分の相続分であるということを知って求めている。私たちも、自分に与えられている相続分は神御自身であることを知らなければならない。
17節に「苦難をともにしている」という言い方があるので、この世での人生は楽しいことばかりではないのは明らかである。自分たちに与えられている相続分が神御自身であるなら、私たちはキリストと苦しみをもともにしていることにもなる。それでも、それが私たちの相続分なのだ。誰もその相続分を私たちから奪い取ることはできない。最終的にこの地球全体が神の教会の相続分であるが、それを自分のものとするために、忠実に御言葉に従い、御言葉を宣べ伝え、すべての人がクリスチャンになるように働くのである。全世界の人々が自分に与えられたところを神の御名の栄光のために用いて実を結ぶようになるまでは、その相続分を自分のものにするための戦いを続けなければならない。私たちはその段階にあるのだ。
私たちはヨシュアたちとは違う戦い方をしているけれども、ヨシュアたちは戦ってカナンの地を自分たちの所有とした後でも、人数があまりにも少ないためになかなか自分のものにはならくて、戦いは幾世紀も続いたのである。私たちの戦いにも、そのように成長して自分のものにしていく領域があるという点では変わりはない。いまや大人である神の息子たちは、古い契約の時代における神の子どもよりも大きな特権と祝福をもって、歴史の中での働きを成就するために必要なものが授けられたのである。「神の息子として養子にされたということは、約束された相続が徐々に神の民の実際の所有となるよう、神の御国のために働くために必要な一切が備えられているということなのだ」とパウロは説明している。
このことは、今日の日本のクリスチャンにとってどのような意味があるのだろうか。第一に、それは、神の約束が実現されるという望みを持って生きることを意味すると思う。私たちは希望を持って日本の救いのために祈り、働くべきである。日本が主イエス・キリストを信じる国になるまでにどれくらいの時間がかかるかわからないが、当然ながら今の私たちのレベルにおいても福音を宣べ伝える働きはとても大切な働きの一つである。
つまり、文化的な働きをするレベルにまでは教会はまだ成長していない。とても政治的な働きをするところまでには成長していない。今の私たちに政治家を起こす働きは必要ではない。この時点でそれを求めることは全くおかしなことである。まず福音を正しく宣べ伝え、純粋な聖書の御言葉をよく学んで子どもたちによく教え、クリスチャン・ホ−ムを建て上げ、クリスチャン・ビジネスを正しく築きあげる働きが必要である。
今私たちは、代々成長していくクリスチャン・ホ−ムを築いていく段階にあるのだ。福音を宣べ伝えてクリスチャンではない人たちが救われるのを求める段階にある。何世代にもわたって神の祝福を喜び楽しむクリスチャン・ホ−ムを建て上げるために労するべきである。自分の家庭が千世代まで祝福されるよう自分の家庭の中で御霊の祝福を真剣に求める働きこそ、今の私たちのレベルで不可欠な働きなのだと思う。
私たちの世代が第一に優先すべきことの一つは、キリストにある子どもたちの教育でなければならない。それによって、彼らが大人になったとき知恵をより豊かに持ったより良いクリスチャンとなることができ、彼らもまたその子どもたちが彼らを越える者となるためである。私たちは、知識、いのち、栄光において、世代ごとの成長を切に求めている。いつの日か、日本全体が主イエス・キリストを信じる国になったとしても、まだまだ働きは沢山残っているのである。クリスチャンになったと言っても、まだクリスチャンらしいクリスチャンにはなっていない人がいる。牧師の私も含めて、この教会にも百人ほどいるのではないだろうか。クリスチャンらしくなるまでには時間がかかるが、それも戦いである。それは代々の戦いでもあるのだ。それは歴史の中での戦いでもある。
たとい日本が主イエス・キリストを信じる国に変えられたとしても、他の国々が全部クリスチャンになったわけではないだろうから、続けてそれらの国々に福音を伝えていく働きをしなければならないであろう。クリスチャンの国に成ったとき、政治や文化的な働きなどがもっと豊かにできるようになる。しかし、今の段階では、私たちはその大きな歴史的な目的をもって、神の栄光の相続人そして神の子どもとしての認識をもって、御国のために忠実に働くことが大切なのだ。「私の相続分はここにある」という認識から離れることなく、働くのである。その相続分が少しでも具体的なものになるように働くのである。
私たちの未来のビジョンは、私たちが神の子どもであること、そして御国の祝福を相続するために神に召されていることが意味しているものの上に建てあげられるのだ。キリストにあって、すべてが私たちのものである。しかし、神の子とされた息子たちは、忠実な働きと祈りによってのみ約束された相続を所有することができるということを忘れてはならない。神の子どもなら、そのような思いを持って生きるはずだ。それこそ相続人が持つ認識であり、心だと思う。与えられている相続と約束が本当に自分のものであることを確信し、それが自分だけでなく、後に続く世代のものとなるように戦い、働くのである。その認識をしっかり持つようにと、この箇所から教えられているのではないかと思う。
聖餐式との関係において「相続人」について考えるときに、そこにも特別な意味がある。旧約聖書の場合は、祭司たちしか聖所に入ることが許されなかった。そして、大祭司だけが年に一度だけ至聖所に入ることが許された。そして、祭司も大祭司も、ぶどう酒を飲んで聖所に入ることは許されなかった。聖所の外でぶどう酒を飲むことはすべての祭りの中で行なわれていたけれども、飲んでから聖所に入ったり、入ってから座って飲むことは絶対に許されなかった。子どもの時代だからである。子どもは至聖所に入って神と一緒にパンを食べたりぶどう酒を飲んだりすることはできない。「ぶどう酒は王の飲み物である」ということが旧約聖書に何回も出てくる。王は、ぶどう酒を飲んでパンを食べる。そのことはパロの話にも出てくる。あらゆる種類の美味しいパンを食べていた。
しかし、私たちは「神の子どもたち」であり、礼拝に集まるとき、私たちは「大人となった息子たち」なのだ。だから、至聖所に入って神の御前でパンを食べ、座ってぶどう酒を飲むのである。そうすることには特別な意味がある。旧約聖書と新約聖書の祭司には明確な区別がある。ぶどう酒を飲まない旧約聖書の祭司と、ぶどう酒を飲む新しい契約の祭司とのはっきりした区別がそこにある。そして、神の御前で、至聖所に入って座ってぶどう酒を飲むということは、息子の身分が与えられて相続人として私たちは神から与えられた相続を楽しみ、それを受けるということなのだ。
パンとぶどう酒は、私たちの相続分を表わすものである。即ち、キリスト御自身である。主イエス・キリスト御自身を私たちの相続分として、聖餐式において受けるのである。これはいのちの祝福であり、栄光の祝福であり、知識の祝福でもある。この祝福によって、私たちは自分の罪を悔い改めさせられて、毎週々々成長していくのである。御言葉を与えてくださり、私たちの罪を取扱ってくださり、聖餐式を受けるときにすべてのことにおいて祝福されて成長していくのである。聖餐式は、いのちと栄光と知識の祝福を全部表わすものである。特にいのちの祝福を表わしていると思う。
聖餐式は、大人となった息子たちのためのものである。大人となった神の子どもたちでなければ、聖餐式を受けることはできないということだが、御霊が住んでいる私たちには大人としての祝福が与えられている。聖餐式の意味を覚えるとき、神が私たちを養子としてくださったこと、そして私たちを御自分の相続人にしてくださったというこのローマ人への手紙8章の祝福の意味を覚えなければならないと思う。そのことを覚え、その心をしっかり持って一緒に聖餐式を受けたい。
――2000年7月30日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com