ローマ人への手紙8章18〜19節
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
2000.08.13. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
苦しみと栄光
8章18〜19節
先週は17節から、主イエス・キリストとともに苦しむ者は、主イエス・キリストとともに栄光を受けることについて一緒に考えた。また、契約的な苦しみについて話した。人間の罪への堕落以来、栄光は苦しみを通してのみ与えられるものになった。あらゆる形での成功、習得、成長、あらゆる種の進歩は、アダムの堕落が人間を呪いの下に置いたために痛みを要求する。人類全体は神の御怒りの下にいるが、御怒りの下にのみいるわけではない。人間は恵みの下にもいるのである。神は、痛みと苦しみを通して、鈍くまた自分勝手な人間が御自身を求めるよう促してくださる。痛みは、箴言が「愚かさは彼らの心につながれている」と言っている者たちに必須の教師となったのである (箴言22章25節) 。
クリスチャンにとって、苦しみは一時的なものである。さらに重要なことに、苦しみは薬のようなものである。どんな薬もごちそうではないように、苦しみは痛みを通して癒すものだ。それは、数々の痛みに耐えることを通してしか手に入れることのできない「終わり」へと、神が私たちを連れていく過程の一部分なのである。しかし、パウロが私たちに教えているのは、「終わりがある」ということであり、栄光に満ちた終わりがあることである。神が導いてくださる「終わり」に心を留めるなら、私たちは苦しみを忍耐をもって耐えることができる。
18節からずっと39節まで、ある意味でパウロは「望み」と「苦しみ」についてずっと書いていると言ってよいと思う。18節から30節までは「苦しみ」と「望み」、「苦しみ」と「栄光」について特に話している。18節で、私たちの「望み」がどんなに偉大なものなのかを明確に話し、19節から30節でそのポイントを説明している。つまり、パウロは、私たちは大きな栄光の望みを持っていることを説明したあとで、19節では被造物全体が私たちの栄光の表われを待ち望んでいると言うのである。
その意味を20節から22節のところで説明している。そして、23節では、私たちがからだの贖いを待ち望んでいるということに戻っている。24〜25節では、その未来の望みとはどのようなものかを話している。こんど26〜27節では、未来の望みを持っている私たちを御霊が助けてくださることについて話し、28〜29節では主権なる神が天地万物を創造する前からそれらすべてを計画してくださり、その計画どおりにすべてを導いてくださっておられることを説明している。それで、偉大なる栄光の望みを被造物全体がともに持っており、その栄光の表われを待ち望んでいるのである。
その時までは苦しみがあるけれども、御霊はその苦しんでいる私たちを助けてくださり、神は私たちのすべての苦しみをも益としてくださることを私たちは確信することができる。そういう意味で、未来の望みは現在の毎日の生活に完全にリンクしているのである。毎日の生活におけるすべての苦しみや大変さは神の御計画のうちにあるものなのであり、そのすべては、最終的に私たちが主イエス・キリストとともに永遠の栄光を受けるためにあるものなのである。そのことをパウロはこの箇所で私たちに説明している。
ローマの教会にとって、これは特に重大な話であった。その教会は間もなく大変な苦難に遭わなければならない。そして、その苦難は非常に長く続くものであった。数ヶ月とか数年間というような期間ではない。何世代にもわたる苦しみを受けなければならないのである。それがローマの教会の置かれた状態であった。確かにローマ帝国の中にある教会の苦しみは激しさを増し、迫害が下火になったかと思えば再び激しくなることの繰り返しであった。パウロがこのローマ人への手紙を書いた頃からローマ帝国による迫害が終わるまでには250年以上もあった。
だから、「間もなくあなたがたが苦しみに遭わなければならない」と言うとき、それは10年とか数十年とかいうような短期間の話ではなかった。神がアブラハムに約束を与えたときも、「400年間待ちなさい」と言われた。400年間、アブラハムの子らは異国に住んで奴隷にされなければならなかった。ローマ帝国の時代の教会も同じように何百年間もの苦しみに遭わなければならなかった。ローマの中にある教会が最も激しく迫害された。
そのような苦しみに遭う教会にとって、未来の望みと自分たちの毎日の生活とのつながりをしっかり理解する必要があった。そうでなければ、あまりの苦しみの中で彼らは耐えられなくなったであろう。その苦しみは想像を絶するほどのものだったからである。私たちには、「今の私たちの時代の苦しみは、将来私たちが受けようとしている栄光に比べれば、実に取るにたらないものである」というメッセ−ジも必要だけれども、「今受けている栄光は、永遠の栄光と比べられるものではない」というメッセ−ジも必要である。
つまり、今の私たちは非常な苦しみの状態にあるわけではないからである。私たちはむしろ豊かさの中に生きている教会なのだ。私たちの危険性はどちらかというと、愚か者の金持ちのそれに近いものなのだ。あまりにも恵まれ過ぎる状態にあるので、神を忘れてしまいがちなのである。神なしにでも何となく日々を過ごしてしまう危険がある。個人一人ひとりにはそれなりの苦労や苦難があるだろうけれども、全体として言うなら、実に豊かに恵まれている時代に住んでいるというのは事実である。
「明日食べるものがあるかどうか」という心配はない。信仰のために刑務所に投げ込まれるかもしれないというような心配はない。教会の中には、腕の無い人や足を切られたり、目をくりぬかれたような人はいない。信仰のために、拷問にかけられたり、子どもたちが殺されたり、夫や妻が殺されたりするような人は、私たちの教会の中にはいない。そういう意味で、個人的にはいろいろな試練にぶつかったりしていても、それはローマの教会が受けた試練のレベルよりもはるかに軽いものなのである。
別に今個人一人ひとりが受けている試練を軽く考えるわけではないが、ローマの苦難とは比較できないものなのである。彼らの苦難があまりにも大変なものだったので、それと比べるなら、私たちのは試練の中にあるというよりも豊かさの中にあると言わなければならないのである。そのような認識が必要であると思う。18節で、パウロは次のように言うのである。
苦しみは栄光と比較できない
今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
「今の時のいろいろな苦しみ」というのは、特に神を信じていない時代を指しており、また、キリストの教会を迫害するような時代のことを指している。17節では、キリストとともに苦しみを受ける話をしている。パウロ自身もひどく苦しめられていたし、ローマの教会もそうであった。「私たちが遭っている苦しみは取るに足りないものである」とパウロが言うとき、実に大きなことについて話しているのである。実際に人がどんどん死に、大変な迫害にあったりしている。だから、この「取るに足りないものです」という言葉の重さをしっかり瞑想してみる必要がある。
4歳とか5歳の子どもが、神の導きについての賛美を歌うとき、愛らしい感じがするけれども、重さは感じられない。反対に、生涯を神にささげた90歳の老女に会って一緒に「主よ。終りまで私とともにいてください」という賛美を歌うなら、その重さはいかほどであろうか。「死ぬ日まで、私とともにいてください」と、90歳の老いたクリスチャンが衰弱した手でピアノを弾きながら歌うのを見るとき、その言葉の深さを感じないではいられない。5歳の子どもが歌っても、その言葉の重さは伝わってこない。それは大人が感じることなのだ。
それと同じように、「私たちの今の苦しみは・・・」と言っても、そこにはその言葉に相応しいような深さはない。しかし、本格的に苦しめられたパウロのような人が、「今の苦しみは、取るに足りないものである」と言うとき、その言葉は深くて重いものである。その言葉には感じないではいられない重さがある。パウロは、実に福音のためにひどく苦しめられた人間であった。そのパウロが、「取るに足りない苦しみです」と言うとき、その言葉の重さをぜひ感じ取ってほしい。悟ってほしい。誰がそのことを言うのかによって、言葉の重さはかなり違うわけである。
「今の苦しみは取るに足りないものである」ということを言うとき、先週も話したように、苦しみは大いに主観的な問題であり、期待がそこで主要な役割を果たしているということを思い起こす必要がある。人の外面的な状態からはそう見えなくても、期待が大きいければ、より大きな苦しみをもたらす。確かに、神の御栄光とこの世での救いにおけるクリスチャンの望みは、苦しみを増大させる。それは、必ず実現される希望を持っているだけでなく、その希望の実現のために働く道徳的責任をも負っているゆえである。
その過程において責任ある働き手であるために、私たちの罪と失敗はさらに痛みを増すものとなる。何よりもそれらが私たちの希望の実現を妨げるからである。クリスチャンにとっては、ある意味で、大きな望みを持てば持つほど、苦しみはより現実的なものとなる。しかし、神に置く望みが大きければ大きいほど苦しみが増すという皮肉は永遠に続くものではない。共産主義の国をはじめとして、クリスチャンを迫害している国々では今も信者は耐え続けているが、彼らが耐える苦しみのすべてには終わりがある。即ち、神の栄光の啓示があることを私たちは知っている。その終りの日の栄光は、何ものとも比べることのできないものであり、私たちの現在の如何なる苦難よりも、その栄光から見れば取るに足りないものである。
何も期待しなければ、大変な状態の中にあってもそれほど苦しみを感じないかも知れない。しかし、パウロには期待があった。大きな望みがあった。イスラエルが救われることを期待し、そのために祈り、熱心に求めている。しかし、パウロの時代のイスラエルは救われないどころか、イスラエルこそパウロを苦しめて殺そうとしたのである。主観的なレベルでのパウロの苦しみは私たちよりもはるかに厳しいものであった。彼の期待はもっと真剣なものであったし、いのちがけで人々の救いを求めた。
そして、客観的な意味においても、パウロは肉体的な苦しみを私たちよりも深く受けていた。その客観的なところも主観的なところも考え合わせるならば、パウロの苦しみはとても極めて大変なものであったけれども、パウロは「それは取るに足りないものである」と言うのである。なぜなら、未来の栄光と比べるならば、すべて取るに足りないことなのである。未来において私たちに啓示され、与えられる栄光は実に大いなるものである。それは何ものによっても曇らされたり減じられたりして制限を受けることのないものである。それはすべてを超越している。その栄光と比べるなら、今の苦しみは何でもないのである。
将来受ける栄光は永遠のものである。永遠に失われず、永遠に変わることのない栄光を受けるのである。この世での苦しみは、ほんのつかの間のことに過ぎない。たとえ人が言葉では言い尽くすことのできないほどの激しい痛みと苦悶の70年の生涯を送ったとしても、その短い70年という滴を永遠という無尽蔵の海に垂らすとき、それは無と化して消滅してしまうのである。それは長くても90年とか100年、更に長くても110年が限度であろう。永遠と比べれば、それは実に一瞬のことに過ぎない。海の中の一滴の水にも例えられないほどのことなのだ。たとえ生まれた日から死ぬ日まで奴隷の状態に置かれて毎日が苦しみでしかないとしても、それなのに長生きしてしまったとしても、それは永遠とは比べられないのである。
勿論、量的にだけではなく、質的にも比べ物にはならないのである。クリスチャンなら誰であれ、この世で苦しんでいると言っても、その苦しみの中にもいろいろな祝福と慰めがあることは否定できないであろう。クリスチャンならば尚のことそうなのだ。パウロはここでノン・クリスチャンについて語ってはいない。クリスチャンに語っているのである。クリスチャンであれば、どんなに苦しい状況に置かれても、どんなに長くその状態に置かれるとしても、その中にあって神の導きと憐れみを覚えているはずである。神の約束をも覚えているはずである。苦しみが神からのものであることを知っているはずである。それだから、どんなに苦しい境遇にあっても、苦しみの中の喜びを知っている。苦難の中で、神が一緒にいてくださることを知っている。自分は神の御心を行なっているなら、深い慰めがあるはずである。
クリスチャンではなければ、苦しみの中に慰めはない。本当の意味での助けも望みも励ましもないであろう。しかし、主イエス・キリストにある私たちはそうではない。私たちの場合、苦しみや試練が神から与えられていることを確信できるので、私たちは質的に「ただ苦しみのみ」ということには絶対にならないのである。換言すれば、私たちには地獄の苦しみは絶対にないのである。神に捨てられたというような気持ちや心配はない。そのような気持ちになる誘惑にあうことが私たちにとっての一番の苦しみだと言えよう。
ダビデは詩篇の中で、自分は神に捨てられたのではないかという思いを告白しているが、それが一番辛い苦しみであると思う。しかし、それも信仰の戦いの話であって、実際に神に捨てられることは決してないのである。そして、本当は、新しい契約の時代に生きている私たちは、ダビデよりもそのことについて確信が持てるはずなのである。クリスチャンの苦しみはそういう意味で、質的に単なる苦しみだけということは絶対にないので、永遠の栄光と比べるなら苦しみでも何でもないのであって、実に取るに足りないものなのだ。
その質的な違いは比較を不可能にする。永遠の栄光には苦しみは何一つ伴ってはいない。永遠に純粋であるところの栄光なのである。永遠なる祝福と栄光は、私たちの短い生涯の痛みを圧倒する。だから、「今の時のいろいろな苦しみは・・・取るに足りないもの」なのである。
啓示されるべき栄光
「将来私たちに啓示されようとしている栄光と比べれば」とあるが、別の翻訳では「私たちの中に」と訳されている。ギリシャ語では"unto"と"into"の両方の意味にとれるような言葉が使われている。だから、「私たちに啓示される」という言い方には「私たちの中に啓示される」という意味も含まれていると言える。つまり、「私たちに啓示される」、「私たちを通して啓示される」、或いは「私たちの中に啓示される」、その栄光とは、一つには「私たちは完全に贖われる」という意味で栄光の話をしているのである。
なぜなら、パウロは後のところで「私たちが待ち望んでいるのは復活のからだのことである」と言っているからである。私たちの望みは、死んで天国に行くだけのことではない。もちろんその事も望みに含まれている。しかし、私たちの望みは、歴史の終りのときに主イエス・キリストが来られてすべてを裁いてくださることであり、その時、私たちには復活のからだが与えられて、全宇宙も新たにされて、神の栄光が完全に表わされることである。
パウロはここで、もっと歴史の終りにおける終末論的な意味を持つ事について話しているのだ。歴史の終りに、キリストの栄光が完全に表わされる。その時、私たちは復活のからだを受けて主イエス・キリストとともに完全に神の子どもとして栄光ある者として現われるのである。そして、宇宙全体は栄光あるものとして現われるのである。「被造物全体もいっしょに栄光を受ける」ということをパウロは次のところで話している。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを持ち望んでいる」のである(19節)。「被造物自体も、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるのを待ち望んでいる」のである(21節)。
私たちに与えられている栄光が完全なものとなって現われることになる。これは約束であり、望みの話であり、信仰を持って期待して待つものである。本当は、私たちもまだ目に見える形では想像もできないものである。私たちは神の子どもとなり、贖われた者として主イエス・キリストとともに栄光を受ける者となった。その栄光がどういうものなのかを私たちはまだ具体的に想像できない。あなたに与えられようとしている栄光とはどういうものなのか。私たちの望む栄光とは何か。私たちは「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」のである(23節)。
私たちのからだの贖いは歴史のクライマックスの一部である。私たちとともに被造世界全体が新しくされるのだ(21節)。それで、パウロがここで語っている望みとは、個人的なものでないことは確かであり、単に教会的なものでもない。私たちの望みは、宇宙的と呼ばれるものをも越えるのである。その望みは宇宙の救いを含むが、それは事実、イエス・キリストにおける神の御栄光の完全な啓示に関するものなのである。
あなたは、復活したからだを持つ者となり、あなたを通して神の栄光が全きかたちにおいて表わされるのである。その贖われた復活のからだを持って栄光を受けた時に、私たちは自分を見て驚くであろう。私たちは、自分自身のうちに今は想像だにできない方法で神の栄光を見ることができるようになる。自分勝手や傲りはなく、愚かな自分中心的な満足もなく、私たちは自分の外を見ても内を見ても神の救いの慈しみの驚異を目の当たりにすることになる。
自分がどのような者になったかに驚嘆するとき、私たちは自分をそのようにしてくださった主なる神を賛美し、主に感謝をささげるであろう。啓示される栄光はすべて神のものであるからだ。「神の栄光がこのように私において現われたのか」と驚き、喜び、慰められ、感謝に満たされることになるのである。私たちの一人ひとりにおいて神の栄光が現われるその最終的な栄光の状態を、私たちは望み、求めている。
だから、歴史のかなたにある望みが私たちの最終的な望みなのである。歴史そのものの“卒業式”を待ち望んでいるのである。それは、キリストを信じない者にとっては裁きの日であるが、救われた私たちにとって裁きはキリストの十字架において既に行われたので、私たちにとってその歴史の終りは“裁き”ではなく“卒業”なのである。それは栄光を受ける日である。歴史の最終的な目的が終り、歴史全体は永遠の状態に入り、新しい契約は完全に成就されたかたちにおいて表わされ、キリストにある者には一人残らず復活のからだが与えられ、宇宙全体も解放されて復活したような状態になり、神御自身の栄光がすべてにおいて完全に現われるのである。
キリストにある神の栄光の完全な啓示は、単に教会のみならず、被造世界のすべてが栄光の状態に導き入れられるという意味なのだ。被造物すべては、今の時代においては有り得ない豊かさ、私たちの想像をはるかに越える豊かさをもって神の栄光を表わすであろう。今の世において表わされているよりもはるかに豊かですばらしいかたちにおいて神の栄光が現われるのである。そのことを私たちが待ち望むようにパウロは励ましている。その永遠の意味、永遠のビジョンを求めて毎日の生活を送るように励ましている。今の苦しみはそのビジョンと比べれば、取るに足りないものなのだということを教えている。そのことを知っているので、私たちはどんな苦難でも耐えることができるのである。
「そこに目を留めて毎日の生活をしまなければいけません」とパウロは話しているわけである。これは、クリスチャンにとって極めて重大なことなのだ。一つには、自分個人の生活や歩みのすべては被造物全体の歴史的流れにリンクされているということである。最終的に、被造物全体が新しくされるのである。「被造物全体はどのようにうめいて苦しんでいるのか。被造物全体は何を望んでいるのか」ということをパウロは話している。そのことが私たち個人一人ひとりの生活にリンクされているのである。「私の個人的な苦しみがなぜ取るに足りないものなのか」というと、「歴史全体が神の子どもたち一人ひとりが栄光において現われるのを待ち望んでいるからだ」と、パウロは説明している。
一人ひとりのクリスチャンが、そのような「被造物全体」という大きなビジョンを持って生きる。ここに、個人を超越し、新しい人類や新しい宇宙そのものさえ超越する栄光のビジョンがある。私たちがキリストにあって召されたのはこの望みのためである。神が万物を創造し、その創造されたすべての被造物がうめき苦しんで私たちの救いを待ち望んでいる。苦難の時、「私は今、苦しんでいるけれども、被造物全体が、私の苦しみが過ぎ去って完全な祝福を受けるその栄光の現われを待ち望んでいるのだ」という認識を持ってその状況を受け止め、そして全世界を見るようにパウロは勧めている。
これが私たちの世界観であるが、その認識をもって世界を見るだけでなく、心から感じて熱心に求めるのでなければならない。その世界観をもってすべてを感じ、捉えるのだ。そのようにすべてを見、そして理解して歩まなければならない。そこまで大きな思いとビジョンを持たなければ、毎日の生活の苦しみを正しく受けとめることができず、事柄を正しく見ることはできない。自分の人生も歴史の出来事も正しく捉えることはできないのである。神の御国の最終的な栄光に満ちた現われこそ、私たちの望みでなければならない。それ以下の何ものによっても私たちは満足させられるべきではない。
前説、無説、後説
被造物全体について話すときもそうだが、これは終末的な歴史観の話なのである。「歴史全体をどう見るかによって、文化や人々の生活の仕方はかなり変わるものである」とよく言われるが、全くその通りである。ここでパウロは、歴史全体のビジョンをローマの教会に話している。これは終末論的な話であるけれども、厳密に言って、人が持つ千年王国の見方はここでの図式には入らない。千年期前再臨説であれ無千年期説であれ千年期後再臨説であれ、どの終末論の立場を信じるクリスチャンであっても、皆同じ望みを分かち合っているのだ。
即ち、歴史の終りには主イエス・キリストが再臨してすべてを裁きたもうこと、キリストを信じた者には復活の栄光のからだが与えられること、そして歴史全体が終って“卒業”して永遠の栄光の生活が始まること、キリストの御栄光が完全に現われることを信じ、それを待ち望んでいるのである。千年期前再臨説の場合は、今の時代から歴史の終りまでには少なくとも千年間の特別な時代があるということを信じている。まずキリストは再臨して千年間の祝福の時代があって、その千年間が終わった時に一人ひとりに栄光のからだが与えられて永遠の祝福の時代に入ると信じている。
無千年期説の場合は、キリストの再臨が何時なのかは解らず、いつでも可能であると信じている。そして、キリストが再臨した時にすべては終わると信じている。「明日再臨があれば、そこで歴史は終り、永遠の天国が始まるということになるかも知れない」と考えるわけである。だから、今からキリストの再臨までどれくらい時間があるのか、その間何をすべきなのか等については解り難いところがある。
千年期後再臨説の場合は、歴史には確かなプロジェクトがあって、歴史の目的が果たされ、その働きが完了してからキリストは再臨すると信じている。ここでパウロが話していることは、千年期前再臨説の観点からしても、千年期後再臨説の観点からしても、言えることである。即ち、終りが来た後のことについて話しているのである。「栄光のからだを持つ」ということは、永遠の天国の状態を待ち望むこととつながっていることである。
私たちは今すぐに永遠の天国に行くのではない。永遠の天国の状態とは、歴史自体が終わった後の状態である。もはや罪人が神に逆らうことはない。この世には地震や火山の噴火があったり、様々な自然災害があったりするが、それらがすべて過ぎ去ってもう二度と起こらない状態になっている。嵐もなく、災害もない。被造物全体も、神の裁きを表わすような「うめき」の現象はもはやない。この世のすべての苦しみは過ぎ去り、神の裁きと怒りを表わすものから完全に解放されている状態になっている。その状態についてパウロは話している。そこに目を留めて毎日の生活を送るのである。それが私たちの望んでいることである。
私たちが望んでいるのは、個人が天国に行くことだけではない。自分の救いだけを望むために神の御許に導かれたのではない。確かにそれも望みの中に含まれているが、それよりも神の御国のために実を結ぶことを望んでいるのだ。「今すぐ天国に行く方がはるかに素晴らしいことだけれども、私はもうしばらくこの世に残っていたい。それは神の御国のために実を結びたいからです」と、パウロがピリピ人への手紙1章21〜25節のところで話しているとおりである。成長したクリスチャンは皆それと同じことを感じているはずである。自分個人としては、この世を去って天国でキリストとともにいる方がよい。しかし、世に残ってもっと福音の働きを通して実を結びたいという思いもある。それは、成長したクリスチャンとしての当然の思いなのだ。
しかし聖書は、「私たちの望みとは、個人一人ひとりが天国に行くことです」とは決して言わない。それだけがクリスチャンの望みではないからである。まだこの世にはキリストに逆らう者は大勢いる。私たちの兄弟たちの多くがまだ苦しんでいる。迫害されている教会も多い。救いを受けるべき多くの者がまだ救われていない。そのような状態がまだまだ続いているのである。
ヨハネの福音書11章のところで主イエス・キリストは、ラザロの死を知らされてラザロの所に行ったことが記されているが、その時、主イエス・キリストは御自分の苦しみを声に出され、深い霊の憤りを覚えられたと記されてある(33節)。信者たちの苦しみを見たイエスは、心において彼らの苦しみを感じて御自分も苦しまれたのである。クリスチャンが苦しむとき、主イエス・キリストはともにおられるのは大きな慰めであるが、そういう意味ではキリストは今も苦しんでおられるという言い方もできる。それは贖うための苦しみではない。贖いの苦しみは既に十字架上で終わったからである。しかし、御自分の民が苦しめられたり迫害を受けたりするとき、主イエス・キリストはその者とともにおられ、ともに苦しんでおられる。
歴史全体の働きはまだ完成されてはいない。その中にあって喜びはまだ完全なものにはなっていない。自分が天国に行って罪との戦いから解放されるのは嬉しいことであり、望んでいることでもあるが、それで満足するわけではない。夫が先に天国に行った場合、妻と子どもはまだ残っている。先に天国に行けば多くの兄弟姉妹がそこにいる。しかし、多くの兄弟たちがまだ世に残っている。歴史はまだ終わっていないのである。だから、天国に行くことだけが望みなのではない。
仮に、神の御国の時代が来て、福音は全世界に広まり、90%以上の人がクリスチャンになったとする。いや、99%がクリスチャンになったと仮定しよう。犯罪は基本的にゼロとなり、自由貿易が栄え、社会は豊かになり、神の御国があらゆる領域において表わされている。そのような時代になったとしても、歴史はまだ終わってはいない。人間はまだ罪人であるし、栄光のからだはまだ受けておらず、いろいろな問題がまだあるし、愚かさやつまらない喧嘩があったりもするであろう。キリストを信じた罪人たちが歴史の中にあって神の栄光を最大限に表わしているとしても、それは「これこそ私たちが待ち望んでいたものだ」という状態とはほど遠いものである。
今よりも素晴らしく、今よりも祝福は大きく、今よりも私たちは喜ぶことができるであろう。しかし、それが私たちの最終的に求めていた状態だとはとても言えないのである。自分を見てみれば明らかである。全世界の人々が皆キリストを信じて私たちのような者となったなら、殺人もテロ事件もなくなるし、戦争もなくなるし、今の状態よりもはるかに良くはなるだろう。しかし、今、鏡に映し出された自分を見て満足できる人は一人もいないのではないか。顔形の話ではない。心の状態を言っているのだ。クリスチャンである私たちは、誰一人自分を見て満足できる者はいないのだ。「自分は完全な者になったから、もうこれ以上成長しなくてもよい」と、思える筈はない。
そういう意味で、誰もが自分を見て苦しむわけである。「どうして私はこれほどに愚かなのか。どうして私の心はこんなにも鈍いのか。どうしてこんなに足りないのか。もう何年もクリスチャンとして歩んでいるのに・・・これ以上の者になるはずだと思ったのに、どうしてこんなに愚かで未熟なのか」と思わずにはおれないのではないか。つまり、私たちは個人的感情、願い、自分の好みにおいて満足するのではない。自分の現状があまりにも適切でないがゆえに、私たちは現状について正しい意味での不満を持つべきなのだ。もっと成し得ること、成すべきことが必ずある。
歴史の終りはまだ来ていない。だから、全世界がクリスチャンとなったからといっても、それは、ある意味では、まだ大したことではないのである。「これこそ私の望んでいたものだ」とは、まだ言えないのだ。千年期前再臨説であっても千年期後再臨説であってもその点において変わりはない。私たちの望みはもっともっと高いものであり、主イエス・キリスト御自身の栄光が完全に表わされるのを私たちは望んでいる。
クリスチャンは皆、永遠について同じ教理を持っている。主イエス・キリストの栄光を汚すようなものが何一つ存在しない状態を、私たちは望んでいるはずである。即ち、神の民の中に足りなさが全くなくて罪による汚れが全くない状態を、私たちは望んでいるのだ。神の民の中に、苦しんで汗や涙を流す人は一人もいない。栄光のからだを受けた自分を見るとき、私たちは真に喜ぶことができ、満足することができる。「神は、私に、全く汚れのない心を与えてくださった。これほどに栄光に満ちたからだを与えてくださった。これほどに神は御自分の栄光を私を通して表わしてくださる」と知って、自分を見ても喜ぶことができる。そして、周りのすべてを見ても喜ぶことができる。当然のこととして、そこには主イエス・キリストの栄光を汚すことはもはや何一つないのである。
人類を見ても、被造物全体を見ても、すべてにおいて神の栄光が完全に現わされているのを見るのである。その時、地獄に行くべき者は一人残らず地獄にいる。どんな意味においても彼らはもはやキリストに害を与えることはできない。その状態を、私たちは望むのである。私たちは歴史全体が終わった状態のことを望んでいるのである。それで、やっと、本当の意味で満足することができ、純粋に喜ぶことができるのである。そして、神は私たちに、御自分の栄光を驚くべき無限のかたちにおいて永遠に表わしてくださる。私たちは、神を愛し、永遠の交わりを神とともに持つのである。私たちの望むところはそのことである。それが私たちの求めるところである。私たちは、旅の途中で休むことはあっても、働きをやめはしない。そのように、歴史後に目を留める私たちのビジョンは、私たちの歴史的働きの動機となるのである。
「それは歴史そのものを否定するような思いではないか」と考える人々がいるが、決してそうではない。私たちも、被造物全体も、神の栄光を表わすというとき、今この時から歴史の終りまでにはちゃんとしたプロセスがあるのだ。ただ歴史のどこかに飛び込んでどうなるというような話ではない。ここで、無千年期説なのか千年期前再臨説なのか千年期後再臨説なのかによって大きな違いが生じてくると思うのである。どのような違いかというと、それは歴史と永遠とのつながり方に見出される。そのことについてもう少し触れておこう。
無千年期説(無説)ならば、いつの日か、歴史の終りが突然にしてやってくるのを待っているだけということになる。今生きているこの時から、その歴史の終りの状態が急に現われる時まで、ただ自分に与えられたことを忍耐を持ってやり続けるしかない。今自分のしていることの結末を自分は見ることができないかも知れないが、自分のしていることが何かの意味で神の御国の現われにつながっているのだという確信が持てない。ただ頑張るしかないみたいな生き方になる。
だから、明日にも神の御国が突然やってきて、歴史は終り、歴史はゴミのようにゴミ箱に捨てられて、新しい始まりが来るということになる。終りはいつ来てもおかしくないと考えるので、歴史における働きはよくて曖昧なものでしかない。その考え方では、歴史自体は完成されず、歴史は人々が救われるためだけみたいなことになってしまいがちである。歴史の中で築かれていったものすべてを捨てて天国に入るということになる。だから、永遠の状態と歴史の状態には確固としたつながりはないという考えなのである。
千年期前再臨説(前説)も似たような傾向がある。前説を採る人たちは、七年間の患難時代があると考える。ディスペンセーショナリズム(契約分割主義)の人たちの観点からすれば、それは全世界が滅ぼされてしまうかのような七年間になってしまう。その時に、キリストが再臨することになる。キリストの再臨後にまたいろいろと造り直されるという話になる。それで、今の世の文化的労働はすべて反キリストの手に渡されるものとして考えてしまうことになる。例えば、コンピュ−タのソフト等が開発されても、それはすべて反キリストに渡されるものだということになる。
前説では、自分のこの世での働きについてもそれと同じように思えてしまいがちなのだ。「この世ではあまり実を結ばないように気を付けなければいけない」というほど極端な考えにはならないにしても、一生懸命働く意味がどこにあるのかを認識することが困難なのだ。そして、この二十世紀のアメリカではずっと「キリストの再臨は明日かも知れない。来年かも知れない」と実際に思い続けてきたのである。現在の文化的働きはキリストの再臨によって滅ぼされるべき反キリストの王国のためのものだと考えてしまうことになる。そのような見方は、クリスチャンの人生の考え方において極めて悪い影響を与えてきた見方であると私は思う。
千年期後再臨説(後説)の見方においてのみ、私たちは現在の働きがキリストにおける神の御栄光の最終的実現に結び付くものだと考えることができるのである。千年期後再臨説の場合、永遠の望みと歴史の歩みには確かなつながりがあると考えている。つまり、“卒業”の日が来るまでに、宿題を全部終わらせなければならないというような考えなのである。歴史にはプロセスがあり、そのプロセスが終わったら歴史も終わる。私たちの現在の働きは、歴史の終りにキリストの再臨において頂点に達するプロセスの一部なのである。だから、歴史のプロセスのすべてには確かな意味があり、この歴史が言わば“完成品”にならなければ、終わりは来ないというものなのだ。
私たちが今やっている仕事は、何かのかたちで歴史の最終につながっていることを私たちは確信している。神が私たちを通して、色々な意味において御自分の御国を建て上げてくださることを信じている。そして、神の御国が歴史の中において現われるとき、神の御栄光がある程度まで表わされるのである。まだ人類は罪人の状態にあるが、その終りの時、歴史における人類の働きは完成されたものとなる。その時、キリストは再臨して義なる裁きを行ないたもうのである。完成された歴史の状態が栄光に変えられるのである。その完成した状態の歴史はただ過ぎたものとして捨てられるのではない。キリストは、その終りの時に歴史の働きのすべてに完成をもたらされるのである。
人間の歴史の中で、人間が働いてきたことのすべてが、言わば栄光化されて永遠の御国においても用いられるものとなるのである。キリストの教会を破壊する意図で為されたものも含め、ノン・クリスチャンの文化的労働でさえも、神の御国のためにに栄光へと変えられるのである。今から歴史がその終りの日までにどのように変化していくかを私は知らない。例えば、御国に行ったとき、そこに馬車やコンピュ−タは有るのだろうか。馬車はどうだかわからないが、非常に進歩したコンピュ−タ等のような“機械”はあるはずだ。栄光化された状態がどのように機械とつながるかについて細かいことはわからないが、ポイントは、歴史の中における人間の働きは、ただ「歴史が終わったから、それを捨てて、新しいスタ−トをしましょう」という話ではないということだ。その完成した状態が栄光化されて永遠の天国になるのである。
人間の行ないや歴史での働きは、神の永遠の御国においても用いられるところがあるということである。その永遠の栄光は今の歴史とつながっている。だから、「被造物全体が、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」と言うことができるのである(23節)。宇宙全体が、歴史の終りに捨てられるということではないからである。捨てられるのではなく、栄光化されるのである。
しかし、栄光化された状態は現在の状態とは違うものだと言うこともできる。「同じだ」と言うこともできるし、「違う」ということも言える。キリストの復活したからだについて書いてあることを見ればわかることである。弟子たちがキリストを見たときに、それが主イエス・キリストであることがわかるし、同時にその栄光のからだは復活前のからだとはぜんぜん違うからだであることもわかる。そのことは、被造物全体についても個人一人ひとりについても言えることなのである。私たちには、そのような永遠のビジョンが与えられており、自分たちの働きはそれにつながっているという確信も与えられているので、このようなビジョンを持って働くのである。そのように生きるようにと、パウロは私たちを励ましているのである。
神の栄光とその御国のための働きをするとき、苦しみにあうだろう。悲しいこともあろうし、大変なこともあろう。しかし、それらは私たちにとっては「取るに足りないもの」なのだ。「その最終的な結論に目を留めて歩みなさい」と、パウロは教えている。望みを持って生きるのである。その望みは朽ちることのない絶対的な望みである。その望みに生きるとき、それこそ信仰を持って生きることなのだ。今は目には見えない事柄である。しかし、永遠の意義のある絶対的な望みを神が与えてくださったので、信仰をもって、そこに目を留めて歩むのである。
ローマのクリスチャンたちは間もなく本格的な苦しみに遭おうとしている。その苦しみの中で彼らは「何のためにこの苦しみに遭っているのか。なぜ苦しまなければならないのか」を考えるとき、その永遠のところに目を留めなくてはならないのだ。実際に、十代のクリスチャンの女の子たちや男の子たちが、ローマの競技場で、口にするのも辛いほどに残酷で屈辱的な仕打ちを皆の前で受け、最終的に動物に引き裂かれたり食べられたりして殺されていったのである。まるでゲームを楽しむかのようにして大変な数のクリスチャンたちが殺されていったのである。それは、ローマの教会が耐えなければならない苦しみであった。
自分の目の前で10歳とか12〜13歳くらいの自分の子どもが殺されていく。人々からは「あなたが像におじぎしないから子どもが殺されるんだぞ。ばか者」とけなされたり、バカにされたりする。目の前では、猛獣に食いちぎられて食べられている我が子の姿がある。見ているローマの人たちは皆笑って拍手したりしている。そのような苦しみに遭うローマの教会に対してパウロは、永遠のビジョンに目を留めるように励ますのである。自分の子がそのように虐待されて死ぬことに、いったいどういう永遠の意味があるというのか。肉の目でその望みを見ることはできない。
子どもたちが無事に成人し、結婚して多くの孫たちも与えられて、祝福がいっぱいに見えるのなら、確かに千世代まで祝福されて多くの子孫に恵まれて御国のために働くに違いないと思うことができるであろう。そのような祝福の続きであれば、「だから御国につながるんだ」と思うであろう。多くの愛する子どもたちが僅か10歳とかティーンエージャーくらいでローマ人に弄ばされて殺された当時のクリスチャンの子どもたちの名前すら私たちは知らないのだ。何人かの記録が残ってはいるが、他に何万もの子どもたちが殺されている。その名も知られずに。それが、どのように神の御国の栄光につながるのかは、目には見えないけれども、まさしくそれはつながっているのである。
その人たち一人ひとりが血を流したことによってローマ帝国は倒されたのだ。その子どもたちの血も、迫害されて殺された多くのクリスチャンたちの血も、ローマ帝国を倒すために流されたのである。福音の勝利のために彼らの血は流されたのだ。神の教会の基礎を硬く据えるために、彼らは自分の生命を犠牲にしたのである。個人としての犠牲ではその目的を果たすことはできないが、何万人、何十万人、何百万人のその一人ひとりの信仰と働きがなければ、大きな結果をもたらすことにはならないのだ。
私たちは何も大きな働きをしてはいないし、したくてもできもしないけれども、一人ひとりが神の約束を信じてその永遠の望みを熱心に求めることが非常に重大なことなのだ。そして、この世の中における人生の意味はその永遠のところにあるのだという認識が大切なのである。それを覚えていないと、ただこの世に押し流されて、この世的に生きてしまうしかない。この世にあって私たちが求めるのは神の御国であり、神の義である。私たちはこの世のことを求めてはいない。この世の誉れを得たり、この世の富を得たりして、「ああ、よかった」と思うようなものではないのだ。それよりもはるかに尊いものを求めているのである。
そのことをはっきり覚えて歩むときに、この世の誘惑に対して本当に強くされるのだ。その永遠の望みをしっかり抱いて歩むとき、苦難や試練に対しても強くなる。結局の話、私たちが望むところは小さすぎるのだ。そういう意味で、信仰も小さい。ビジョンの捉え方も小さすぎる。御国に対する思いも心もあまりに小さすぎるのだ。だから、今のこの豊かさの中に生きているのに、感謝は足りないし、自分を憐れんだり、自分の苦しみについて考えすぎている。御国のビジョンが心に深く刻まれているために自分もそのために働けるように祈り求め、自分を犠牲にして働き、自分をささげて実を結ぼうという熱心さが、私たちには欠けている。実に足りないものだということを深く感じさせられる。永遠の神の栄光、永遠の御国の栄光、永遠のビジョンの素晴らしさを深く感じていないので、他のところにおいても足りなくなってしまうのである。
誤解してはならない。後説(千年期後再臨説)は、この世の中のための働きをすると言っているのではない。永遠の神の栄光を求めているのである。永遠の御国を求め、そのためにこの世の中で実を結ぶことを求めているのである。そのための歴史の働きが完成したときに、卒業して永遠の神の御国に入るのである。私たちが望んでいるところは、主イエス・キリストの栄光が完全に現われることである。御自身において、御自分の民において、被造物全体において、そして神に逆らう者らへの裁きにおいて、神のご栄光が完全に現われるのを望んでいるのである。その時まで、新しい人類の漸進的救いと歴史における神の国の実現のために、私たちはキリストのからだとして働くのである。
キリストの歴史的働きが完了してはじめて、歴史は最終的に歴史後の頂点を迎えることになる。私たちは家においてであろうと、職場または教会においてであろうと、今の働きがどのように神の御栄光の最終的実現に関っているのかを具体的に見ることはできない。私たちにできることは、心において、自分の生活がより一層神の真理の御言葉に調和することを持続的に求めることである。そして、日々の生活において、また神が私たちに管理するようにと委ねた領域において、改善していくことを求めることである。
私たちは、一つ一つの小さな働きが永遠の意味を持つ大義に貢献するものであることを知っているので、神の御国の前進のために祈り、求め、働き続けることができるのである。「御国におけるキリストの御栄光」というビジョンにおいて考え、またそれによって動機づけられることを学ぶとき、私たちは成熟への途上にあるのだ(マタイの福音書6章33節)。
その歴史全体の意義を覚えて自分の毎日の歩みを一緒に考えるとき、私たちは、神御自身の大きさと歴史全体の大きさと自分とのつながりを考えることができる。毎週聖餐式を行なうのも、その点においても非常に意義あることである。聖餐式を行なうとき、永遠なる神御自身が永遠の愛をもって私たちを愛してくださったことを覚えるのである。それだから、小さな思いや小さな心をもって聖餐式の意味を考えることはとても出来ない。
このような超越なる神御自身が私たちを愛してくださって、私たちを招き、私たちに主イエス・キリストを与えてくださる。私たちを愛してくださる父なる神が、御自分の御子を惜しまずに私たちを救うためにこの世にお遣わしになり、十字架上で主イエス・キリストを通して私たちの罪を完全に裁いてくださった。神がそのように私たちを愛してくださり、私たちに主イエス・キリストを表わすパンと葡萄酒を与えてくださる。それは、神が喜んで私たちの罪を赦し、喜んで私たちを受け入れ、喜んで私たちを守ってくださることを表わすものである。その慰めと励ましを私たちは必要としている。
そして、聖餐式の時、私たちは絶対なる神に目を留め、その大きなビジョンを思い出し、歴史の大きな意味を思い出すのである。このちっぽけな自分が、その永遠の意味のある大きなビジョンのために救われたということを覚えるのである。その働きに参加するように招かれたのだということを思い出して、神の御国のために生きる心を新たにするのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2000年8月13日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
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