2000.08.20. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
環境を救う
8章19〜22節
ローマ人への手紙8章18節からの箇所で、パウロは未来の栄光について話している。その中で、被造物全体はどうなるのかについて話している。パウロは、「被造物自体」そして「被造物全体」という表現を使っている(21節、22節)。それによって何を話そうとしているのか。これは「創造されたものすべて」という意味でないのは明らかである。つまり、その表現の中には御使いは含まれていない。御使いは、今うめきと産みの苦しみをもって私たちの救いを待っているわけではない。また、悪魔とそれに従う悪霊たちも、私たちの救いを待っているわけではない。そして、クリスチャンではない人たちもその言い方の中には含まれていない。その人たちも私たちの救いを待ち望んでいるとは言えない。
ここで「被造物」と言っているのは、人間以下の被造物のことなのである。つまり、今の人たちが“自然”と呼んでいるところの被造物のことである。それは“環境”とも呼ばれている。その「被造物全体」のことをパウロは話しているのである。この点をはっきり理解するとき、この箇所は、私たちがクリスチャンの世界観をはっきり持たなければならないこと、そして、この世の人たちの言う“自然”とか“環境”についてどのように考えるべきかについて、非常に大切なことを私たちに教えていることがわかる。
その一つとして、まず「被造物」という言葉自体が大切なことを教えている。“自然”という言葉には、「自ら成り立つ」というような意味がある。「自分」と「然り」を一緒にした言葉なのだ。それはまさしく仏教的な考え方である。英語の"nature"という言葉は、いわゆる「自然」とは違う意味の言葉である。もともと英語の"nature"は、性質とか本質というような意味の言葉である。それでも、この箇所は英語で"nature"と訳すよりも"creation"という言葉を使う方が適切だと思うし、日本語では「被造物」という言葉が適切である。そして、世界観は、その言葉の使い方においてもはっきりしてしまうものである。
本当の意味で“自然”即ち「自ら成り立つもの」と呼べるものは、神御自身の他にはないのである。実際のところ日本で「自然」と言うときに、被造物全体を神であるかのように見る傾向がある。「すべて存在するものは自ら存在するようになった」という言わば“自己創造”みたいな考え方は、ビッグバンの信奉者にせよ、もっと仏教的な考え方をする者にせよ、コスモス全体が独立して存在していると考えており、神に依存して存在するものとは考えていない。
「神がすべてを創造し、神がその存在を支え、神がそのすべてを導いておられる」というような概念は、西洋人であれ東洋人であれ、クリスチャンではない人たちにはないのである。だから、「被造物」という言葉を注意深く使うという出発点は極めて大事なことだと思う。本当の意味での「自然」についての考え方は、“自ら成り立つ”という意味での自然は存在しない。それは“神話”である」というのが本当なのだ。いわゆる“自然”という考えは、日本の天照大御神のような太陽の神みたいな神々の話と同じような話なのである。“自然”というのは、神話のような話に過ぎない。このことは、「被造物」について考えるとき、私たちが最初にまず把握しておかなければならない点である。
そして、ここで「被造物」について語るとき、パウロは私たちに所謂“環境問題”についての基本的な考え方を提示しているのである。環境問題についてどう考えるべきかは極めて世界観に基づく問題なのである。クリスチャンではない人たちで熱心に環境問題に取り組んでいる人たちは、おおよそ仏教的な考え方をもってそれをしている。彼らはニュ−エイジ的な考え方をもって活動しているのだが、存在論的に言うならば、ニュ−エイジの考え方は極めて仏教的な考え方なのである。その人たちが“自然”という言葉を使って「コスモス全体」について考えるときに、仏教的な考え方をもって「こうすべきだ」と主張するのである。その考えをもって彼らは政治の政策についても主張する。
だから、厳密に言えば、彼らは宗教的な考え方に基づいて所謂“自然”というものを観てから、その見方に基づいて政治の政策論などについても語っている。それがクリスチャンではない人たちの環境問題の取り組み方なのである。環境について私たちが読むものの多くは、その前提において書かれており、私たちが気づいているよりもはるかに宗教的である。実際、直接はふれないかもしれないが、「自然」について語るとき、人々は最も根本的な宗教的問いの一つ、すなわち「この世界の起源」という問いについてその考えを露わにしているのだ。
“世界”を指すのに用いるまさにその言葉が、世界を神によって創造され、それゆえ神に依存し、神の権威の下にあるものと見るか、或いは、世界を独立した体系として捉え、究極的現実として自ら存在していると見るかを示すのである。クリスチャンは「創造」について語る。或いは、語るはずである。クリスチャンではない人々は「自然」について語る。特にアジアでは、自然が究極的であり、善とは自然との調和を言うと考えている。パウロの見方はそれと根本的に違うものである。
とても興味深いことは、パウロは「創造」というところから始まっている点である。これがクリスチャンの世界観である。被造物について考えるとき、まず「初めに、神がすべてを創造した」というのが一番最初のポイントである。勿論このことは人間が罪を犯したこととも関係している。それ故、「贖い」も関ってくる。
つまり、英語には「罪論」という言葉があるが、「人間論」とか「救済論」とかは全部「環境についてどう考えるべきか」を追求するときには根本的なことなのである。だから、クリスチャンが自分の“環境”について考えるとき、この箇所は、聖書の中で最も大切な箇所の一つである。もちろん、この箇所においても示唆されていることだが、創世記に戻ってこのことを考えなければならないものである。19〜21節を見よう。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
この箇所から、創造、堕落、救いという基本的な三つのことが、被造物や環境問題において全部出て来るものだということがよくわかると思う。私たちには、子どもの頃からこの点をはっきり把握することが実に重大なことなのである。環境問題についてはテレビや新聞等でいつも論議されているのを私たちは見ている。環境主義者の運動はしばしば意識的に宗教的な運動であり、しばしば意識的に反キリスト教的である。「クリスチャンは、人間が世界を支配するように命じられていると信じるから(創世記1章26〜28節)、人間を主人と考えているので何でもしたい放題してもよいと考えている」というような意味にとられ、「クリスチャンは自己中心的な嫌な奴らだ」と思われている。だが、それは聖書の教えではないし、自分が何を信じているのかわかっているクリスチャンなら誰一人そのような考えを持ってはいないのである。
先日、ある大学で「環境」というテ−マで話すように招かれたとき、私の前にもう一人講師がいたが、彼は、「クリスチャンはこのように考えている」というようなことを話していた。彼は、クリスチャンの考えについては全く誤解していた。クリスチャンの考えがわからない原因はいろいろあると思うが、その原因の一つを仏教学者である鈴木大拙の書物から見ることができると思う。鈴木大拙は「西洋人はこう考える」と称して、その考えを述べている。西洋人の中には彼の書物を引用して自分の西洋を批判する人もいる。鈴木大拙と同じ考えをもって環境問題を考えている人は少なくないのである。
どういう考え方かというと、ここに鈴木大拙の「禅(Zen Buddhism)」という本があるが、この本はいろいろな仏教関連の記事を集めて鈴木大拙が監修したような本である。この本の中に「禅において自然の役割をどう考えるべきか」というテ−マがある。鈴木大拙は、「西洋の考え方はどういうものか」というところから話を始めている。「西洋の考えは自然と神との対立関係から出発しているということをまず理解しなければならない」と彼は言う。つまり、神は、自分が創造した被造物に対して戦っているというのが西洋人の考えだと言うのである。また、「人間は自然と戦って勝利を得るものだというのも、西洋人の考えだ」とも言う。「例えば、エベレストの登頂に成功すると『私は勝った』と言うし、飛行機を発明したら『私たちは勝利を手に入れた』と言う。西洋人は、人間が自然との対立関係にあって力の争いをしていると考えている」と彼は説明している。
そして言う。「だから、自然と人間の関係は互いに対立していて、互いを破壊しようとする関係にある。人間は理性的且つ合理的であり、自然は非合理的である。人間は、自然を自分に従わせようとするが、自然は最終的に従ってはくれない。自然には自制はなく、自然は盲目で非合理的に動いてしまう。目的もない。そのために、人間は自然と戦わなければ目的に合致するような合理的支配はできない。だから、その対立関係は激しいものである。最終的に、その戦いにおいて自然は勝つであろう。つまり、最終的に宇宙は人類を呑み込んでしまい、人類は消えて無くなるであろう」と彼は解説する。
確かに、普通に進化論の考え方からすればそういうことになる。「そのうち太陽がそのエネルギ−を消耗し尽くすとき、地球に生きている人間は氷になってしまう。だから、人間は地球以外の宇宙のどこかに移住して行かなければ、人類に未来はない」というようなことが、クリスチャンではない人たちの著作の中でよく議論されたりしている。「人間がどんなに戦ったとしても、最終的に自然の方が勝つ」と彼らは考えている。それで、「西洋人の自然についての考えは、そのようなところから来ている」と鈴木大拙は言う。そして、「人間は神とも対立している。自然も神に対して戦っている。人間と自然も互いに対立している。それが西洋の、そしてクリスチャンの考え方なのだ」と彼は言う。
鈴木大拙は、聖書の創造のところに言及して「神が自分以外のものを創造したと言うだけでも、それは対立関係になるしかない」と言って、クリスチャンの考え方を次の七つのポイントをもって説明している。
1)自然は人間に対して敵意を持っている。
2)自然と神の間、そして自然と人間の間には、戦いがある。
3)人間は、友のようにして自然に近づくことはできない。
4)自然は物質的な世界なので、それは利用するためにのみ在る。
5)物質世界は裸の事実だけの非合理的で残酷な世界であり、人間の理性で理解することは不可能である。
6)人間と自然は二元論的であって和解することなく、破壊的である。
7)人間が自然と共存するという考えがない。
第一のポイントでは、「クリスチャンは、自然が人間に対して敵意を持つものとして考えている」と言う。第二のポイントでは、「人間は肉体を持っているので神を求めるとき空腹を覚える。人間はそのような肉体を持つ物質的な存在なので“物質”は人間が神のところに至らないように働いているとクリスチャンは考えている。だから、人間が神に向かおうとするのを、自然は妨げて引き降ろそうとするわけだ。また、肉体からは罪の誘惑が出て来るし、肉体から弱さも出てくる。祈ろうとすると、疲れて寝てしまったりすることになるわけだ」と説明している。
その説明をするとき、鈴木大拙は聖書のマタイの福音書26章41節の「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」という箇所を引用して、「だから、クリスチャンの考えによれば、物質は人間を低いレベルに引き降ろす働きをすることになる」と言う。「そういうわけで、自然と神には対立関係があるが、自然と人間も対立した関係にある。つまり、神は人間に『支配せよ』と命じたので、神の命令に従って人間はいつも自然の上に君臨して自分の力を誇示しようとする存在なのだと考えている。そこが問題の根源なのだ」と彼は言う。「だから、クリスチャンの考えだと、人間は自然といつも戦っていることになる。自然を支配しようとしている。このような、『すべては神の命令からきている』という考え方は実に間違った悪い考えなのだ」と言うのである。
第三のポイントでは、「だから、クリスチャンの考えに立つなら、人間は友達のような思いをもって自然に近づくことはとてもできない」と言って、「なぜなら、クリスチャンの考えだと、それは互いに破壊しあう関係にあるからだ。自然の中には人間を助けるようなものはなく、人間が霊的に成長するために助けるようなものは何一つない」と説明する。そして第四のポイントで言っているように、「クリスチャンは、物質は利用する対象であって、自分の利益のために利用するだけの存在なのだと考えている」と言う。
第五のポイントでは、「そのように西洋の考えでは、物質的な世界は裸の事実だけの残酷な非理性的な世界なので、それを人間の理性や合理的な考え方で理解することはできないものだということになる。ただ、そのあるがままに認める以外に道はないものなのだ。それは裸の事実だけの非合理的なものと考えているのだから」と説明している。6番目のポイントでは、「クリスチャンは、人間と自然を二元論的に捉えているので、互いに敵意の関係にあって互いを受け入れないものだと考えている。それは互いを破壊し合うものだと考えている」と言う。
七番目のポイントで鈴木大拙は少しオ−バ−ラップした曖昧な言い方をしているが、「西洋の考え方からすれば、人間が自然と一緒に調和したり共存するような関係はないようである」と言っている。彼は、「西洋では、人間を自然と同一視するようなことは考えられない。西洋の人々にとって自然と人間とは全く別なものであって、互いに相容れない隔たった関係なのである」と説明している。「西洋人の考えとはそのようなものだ」と、鈴木大拙は説明するわけである。
鈴木大拙の説明を聞いて、「なるほど。これがクリスチャンの考え方なのか」と思う人は私たちの中には一人もいないであろう。「神と人間が対立関係にある」とか「神と自然が対立関係にある」とかいうような考えは全くおかしなものである。「被造物から私たちは何も学ぶことができない」というような考え方もクリスチャンにはない。では、どうしてここまで鈴木大拙は混乱してしまうのかというと、その原因の一つとして考えられることは、西洋で「自然」について考えるとき、所謂クリスチャンと称される人たちの中に啓蒙運動主義的な考え方をする人たちも含まれているからだと思われる。
つまり、クリスチャンであるのに、アイザック・ニュ−トンのような世界観を持って被造物を見てしまうとき、物質を機械的なものとして見てしまい、ただそれを支配して自分の利益のために利用するような考え方をしてしまう人はいなくはない。ここで鈴木大拙が「西洋人の考え」と称しているものは、実はクリスチャンの教えというよりも啓蒙運動主義に近い考え方のことを指しているのだ。啓蒙運動の考えでは、神と人間と自然とは全く別のものとして考えられ、人間と自然の関係は合理的と非合理的な対立の関係になったりする。
いずれにせよ、ここで鈴木大拙が言っていることは全く聖書の教えから離れているものであることは明らかである。聖書は実際に、支配するように召されている私たちと“世界”との関係について多くを語っている。しかし、正しくそれを理解するためには、必ず、世界の創造とエデンの園という人間歴史が始まった最初の場所から始めなければならない。
創造
もともと神が万物を創造したとき、神も人間も被造物も互いに祝福の契約関係にあったということを聖書は教えている。神は、世界とその内にある全てを完全な調和をもって創造された。人間は、神に従って被造世界を支配するものとして創造されたのであり、世界との緊張関係を持つものとして創造されたわけではないし、世界と対立するように創造されたのでも全くないのである。人間は、神の似姿として被造物を管理する存在であるというのが聖書の教えなのである。
だから、地球全体が人間にとっては“庭”のようなものである。「エデンの園」は、アダムが最初に置かれた所であるが、アダムに与えられた責任は、全世界をエデンの園のようなところにすることであった。それだから、エデンの園には秩序があり、美しく、よく設計されており、中心があり、城壁があり、門がある。エデンの園に城壁と門があることをどうして知っているのかというと、アダムとエバが園から追い出された時に、エデンの園の門にケルビムと回る炎の剣を置いてアダムとエバが再び入ることができないように門を封じたことが記されているからである。アダムとエバは頭が悪いわけではないから、城壁が無ければどこからでも入ることができる。しかし、門があって、城壁があって、秩序があって、園の中と外との境界ははっきりしていた。
もともと神がアダムとエバに与えた命令の意味は、アダムが地球全体を正しく管理して、神が与えてくださった可能性を実現させるために働くことであった。それは、地球全体を庭園のような大都市にすることである。つまり、地球全体は、よく管理されたエデンの園のような美しい庭園となるはずのものとして与えられた。世界は確かな目的をもって創られたが、その目的は人間の管理なしには達成され得ないものであった。人間の働きは、神が創造した被造世界の可能性を実現させることであり、これがアダムとエバに始まった人類の歴史的務めであった。
彼らが罪を犯さなかったなら、人類全体は互いの関係においても、彼らが支配する世界との関係においても、調和を保ってこの世界を発展させるために働いていただろう。徐々に人が満ちて、世界はすべての被造物が神の栄光を表わす田園都市となっていただろう。そのことは黙示録を見ればわかる。黙示録の中で新しいエルサレムについて語るとき、その街の真ん中には川があり、木が茂り、それでいて大都市“都”なのである。多くの人々がそこに住まい、門があって、人々はそこを出たり入ったりする。アダムに与えられた働きは、非常に美しい川や樹木や庭園のような世界的な大都市を造ることであった。最初からそれが人間の役割であった。
そこには、アダムと所謂自然との対立というようなことは全くない。被造物と神の対立とか、被造物と人間との対立はどこにもない。アダムには、「戦わなければ世界庭園を造ることができない」というような概念は全くない。プロジェクトは確かに与えられている。頭を使ってしなければならない仕事はある。時間をかけてやらねばならない働きがある。それはアダムが一人で出来るような働きではなかったので、妻エバが与えられ、子々孫々が与えられて、何千年もかけてその大プロジェクトを実現させていくはずであった。最初からそのようなものとして神は世界を管理するようにアダムに命じた。
アダムが罪を犯さなかったなら、人間と被造物との関係には対立とか戦いのようなものは何一つなかったのである。人間同士の間にも戦いはなかったはずである。罪がなくても意見の違いは当然ある。車が発明されたなら、右側通行がよいのか左側通行がよいのかのル−ルについて話し合わなければならない。すべてに選択が必要である。つまり、人間が罪を犯さなくても、国家は必要であるし、全世界を区分けして、それぞれの場所における管理の仕方について話し合って決めていかなければならない。大勢の人が一緒に住めば公害の問題も出て来るし、水の管理もしなければならない。ゴミの処理をどうするかという問題も出て来る。それらの問題はどうしても出て来るが、そのことについて知恵を出し合って話し合わねばならない。そして、意見を出し合っていく中で、新しい発明も行なわれて、問題は解決されていく筈なのだ。
人間が罪人にならなければ、そして傲慢でなければ、問題を話し合いで決め、問題を解決へと導くはずである。被造物を管理する中で、いろいろな細かい問題が出て来るだろうが、そのどれも“対立関係”なんかではないのである。そのことは、考えてみれば皆さんにもよくわかることだと思う。だから、もともと対立関係にあったというようなことは全然ないのである。アダムに支配することが命じられたが、それは知恵と愛と神の御言葉に従って正しく管理するという意味なのだ。もともと「支配」という概念は、人間による抑圧も、被造物による抵抗もまったく暗示していないのである。
確かにアダムは上に立つものとして造られた。人間には管理する責任が与えられている。上に立つということは、下にいるものを世話したり管理する責任があるということなのだ。人間の支配は、従者をその行くべき所に連れて行くために彼らに仕えるリーダーとしての支配であった。聖書の文脈におけるリーダーシップとは、常に「仕えること」を意味しており、決して悪い意味や対立的な関係での支配を意味してはいない。
「管理する」と言うとき、例えば庭がある人は花を植えてその世話をするときに、朝起きて「また今日も敵と戦わなければいけないのか」というような思いをもって、庭に出て花に水をあげたりはしないであろう。管理する者は、それを大切にし、それを守る思いを持ってやるものだ。誰も対立関係だとは思わないのである。「今日はバラの花と戦わなければならない」という思いではない。それを美しく育てるという思いで世話するものなのだ。
但し、私たちは罪の故に呪われた世界に生きているので、汗を流して庭の世話をしなければならないのは事実である。悪い雑草と闘わなければならないということも確かな事実である。美しい花を咲かせるためには、ハサミを使って剪定をしなければならない。切ったり苛めたりしなければ、花は育たない。しかし、誰もそれを対立関係と思ってやってはいない。むしろ、それを育てて楽しむという心を持って、そして、実を結ばせようとしてそれを管理するという心なのである。だから、罪ゆえに呪われた世界に生きているとしても「対立関係にあるのだ」と思っているクリスチャンは一人もいないはずである。
苦しみと栄光
しかし、「ある程度までの対立関係がある」と、言えなくはない。つまり、私たちは、罪のゆえに呪われた世界に生きているからである。創造された時にはすべての被造物には調和があった。アダムが罪を犯した時はじめて、神が定められた人と被造物との間の調和が壊された。罪への堕落後、世界はアダムの支配を拒み、アダムの支配そのものも罪深い独裁に向かっていった。しかし、神と被造物は不調和状態にはない。不調和な状態に陥ったのは堕落の時以来の世界と人間であり、世界と人間との間が緊張状態となったのは堕落後のことである。
ただし、アダムは支配するために世界に対して戦うように召されたのではなく、むしろその逆に、被造物に仕えて神の召しを達成するために、被造物のある特定の部分である“雑草といばら”に対して戦わなければならないのである。被造物自体、人間の堕落のゆえに、異常な状態に陥った。堕落後、被造物は、人間と同様に、癒しと救いを必要としているのである。
神がアダムとエバをエデンの園から追い出した時、「
地は、あなたのゆえに呪われてしまった>/font>」と言われたのである(創世記3章17節)。それ故に、土地はいばらとあざみ等の悪い草を生えさせるものとなった。神に創造された被造物は、もはや喜んでアダムに従うものではなくなったのである。しかし、そこには神と被造物の対立関係はないのである。被造物は、神の側に立っているのだ。被造物は神の側に立って、自分たちを管理する者たちが悪い管理人であることを神に訴えているのである。
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カインが罪を犯したとき、地が神に訴えて叫んだのだ(創世記4章10節)。「神よ。この者は何ということをしているのか。何とかしてください」と、被造物は神に訴えている。神が悪い王と悪い管理人を裁いてくださるように、地は神に訴えているようなものなのである。レビ記18章25節でも、住民の罪のゆえに地が彼らを吐き出そうとすることが記されている。人間の腐敗に対する不満を神に訴えているのである。
そういう意味で、神と被造物には何一つ対立関係はない。むしろ、被造物全体は、罪人である人間の悪を神に訴えているという関係なのである。それで、ときどき気持ち悪くなって罪人の上にお腹から火を吐き出してしまう。或いは、熱を出して震えて地震をもたらす。また、嵐や洪水をもたらしたりする。これら「地」の活動はすべて、神の側に立つ被造物が人間の罪に対して訴えていることの範疇において考えてよいものである。「地」は、アダムの罪のゆえに、そして私たちの罪のために、呪われたものとなった。だから、現在のような「地」の諸々の現象はある。
病気も同じこととして考えてよい。すべての病がそうだと言うわけではないが、細菌やバクテリア等の微細な生物がからだの中に入って問題を起こしたりするわけである。だから、病気も、被造物の間の関係がおかしくなってしまっている現象なのだと言える。寄生虫などはもともと人間の中に入って人間を殺してしまうようなものとして創造されたはずはないし、他のバクテリアのような非常に小さな生き物も、人間の敵として創造されたのではない。からだの中に何もバクテリアが居なければ、それこそ死んでしまうのである。だから、バクテリアなどは良い役割を果たすものが多いことが知られている。
もともとヴィ−ルスのような生き物は良い役割を果たすはずのものであった。人間が堕落した時に、突然変異のような裁きがエデンの園の後に与えられて、良い植物であったはずのものが有害なものになったり、もともとトゲがなかった植物がトゲを持つものになったのではないかと思われる。もともと獅子は人間の友のような動物であったが、人間の罪に対する裁きとして猛獣となった。ネコ科であることには変わりはないが、人間に害を及ぼす“猫”に突然変異したと言ってよいと思う。
今私たちが見ているいわゆる環境や動物や自然は、実は、これは本来あるべき姿ではないのだ。私たちは今、狂ってしまった状態を見ているのである。ヴィ−ルスも、寄生虫も、バクテリアも、動物たちの関係も、植物も、大地も、すべて狂ってしまった状態にある。そのどれも神の創造の最初の目的に合致しているものではない。人間の罪のために、人間も世界も呪われてしまった。大地は畳われてしまった。だから、その呪われた世界が基準とは成り得ないのである。その狂ってしまった状態を見て、それを基準と考えることはできない。呪われた状態を見て、「これは自然だから、こうでなければならない。これが基準なのだ」という考え方はまったく狂っている。
「どうあるべきなのか」を知るためには、この呪われた状態の被造物を見るのではなくて、創造主である神の御言葉を見なければならない。創造丞の御言葉を基準としなければならない。そして、御言葉に従って被造物を救ってあげなければならないのである。人間の罪のゆえに呪われてしまった被造物を、私たちはこんどは神に従うことによって救ってあげなければならない。
もともとエデンの園の中で与えられた役割は「管理」であり、発展させることであった。「救う」という役割は無かったし、必要ではなかった。悪い草木は無かった。神のことばに従ってそれを管理し、導き、育つように助けるのが人の役割であった。しかし、今はそうではない。世界は罪のために呪われているから、“娼然”と“環境”は狂ってしまっている。狂っているので、私たちは計画をもってそれを救う役割を果たさねばならないのである。それが環境や自然に対するクリスチャンの考え方なのである。ただ単に“利用する”という考えではない。
そういう意味で、“自然”に対するクリスチャンの考え方は非常に積極的なものであるはずなのだ。救わなければならない。では、どういう意味で救うのかというと、悪い草を除去して燃やし、良い植物を育てるのである。乾いた砂漠に水を導き入れて砂漠を実を結ぶ場所に変えるのである。昔、イリノイ州や隣のインディアナ州はほとんどが沼地であったので、農業には不適なところであった。蚊が多くてマラリア等の病気も多く、どうしようもない所であった。昔のクリスチャンたちがそこに移住して、木々を切り倒し、沼地を広大な農地に変えたことによって、そこは現在世界でも最も優良な農地の一つとなったのである。それは、人間が環境を造った例の一つである。それは、被造物に対して人間に与えられている責任である。「救う」ということなのだ。
もう一つ面白い記事を見たが、アメリカの五大湖の周りは巨大な原生林に囲まれていた。放置された森林に落ち葉が深く堆積し、雨が降るとその水が腐葉土化した落ち葉の中に染み込んで酸を発生させ、その水が湖にどんどん流れ込んで魚や水中の生物を殺してしまう現象が続いていた。つまり、酸性雨が自然発生したかのような現象になっていた。その昔に、開拓者たちが森林を切り開いてそこに移住するようになると、魚たちがまた増えて娼然環境は改善されたのである。人間がそこに住み、土地を管理すると、土地はその可能性を実現していくようになるのだ。人間が管理しなければ、砂漠化したり、環境は荒んでしまって却って悪いものになったりする。被造物は、最初から人間の管理を必要とするものとして創造されたのである。
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しかし、アダムの罪の堕落の後にすべてが呪われてしまい、こんどは人間の管理だけではなくて、人間がその被造物を救わなければならないものになっているのである。それを救うためには人間も分散しなければならない。もともとアダムがエデンの園に居た時にも、ただエデンの園に座って管理することではなかった。アダムは子孫を増やし、全世界に出て行って、それぞれに与えられた管理の場所を神の栄光を表わすように管理するというものであった。それがクリスチャンの考え方なのだ。だから、人間が増えていき、各自に自分の場所が与えられ、その場所をよく管理し、その場所の可能性を最大限に実現させていくことが、人間に与えられている働きなのである。
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バングラデッシュは世界で最もすばらしい農地を所有する国であるが、バングラデッシュではそれを農地として使わずに簡単に収穫できるアサ(Hemp)を栽培した。昔はアサでロ−プを作ったりしたが、現代では誰もアサを使わなくなってしまった。それでもバングラデッシュでは政府から援助をもらって尚もアサを栽培し続けており、農地に切り替えようという努力をしようとはしない。国の経済が駄目になると世界銀行から借金したり国連からの援助をもらったりして農家に与えている。援助を状けた農民は、誰も使わないアサをその最高の農地を使ってどんどん作り続けているのである。
野菜を食べる習慣がないために、人々はいろいろと奇妙な病気にかかったりしている。餓えて死ぬ人も多い。何という皮肉か。世界でも屈指のすばらしい農地を持っているのに、それを使わず、人々は餓えているのである。人々が極度に貧しくて深刻な問題を抱えているのは、単に場所が大変だというような話では決してないのだ。実は、罪人が、娼分に与えられているものを正しく管理していないということが問題の最大の原因なのである。
全世界に人が増え過ぎて人類が滅んでしまうということは絶対にない。正しく管理するならば、食料は作ろうとすれば十分過ぎるほどに作ることは出来るのだ。今現在ある農地だけでも、しっかり管理するならばそれは十分に可能なのである。人間は、砂漠を田園に変えることができる。荒野を素晴らしい農地に変えることができる。地球に与えられた可能性をもっともっと実現して、素晴らしい場所にすることができる。そして、それこそ人間に与えられている役割なのである。そのことをパウロはここで私たちに教えている。
この箇所を読めば、被造物が救いを待ち望んでいるということがわかる。「救いを待ち望んでいる」というのは、その「最終的な救い」を待ち望んでいるということである。人間が罪人でなくなるとき、人類は正しく動物を導き、正しく管理するようになる。だから、「被造物は、正しく管理してくれる“王”を切に待ち望んでいる」というような比喩になっている。そして、「被造物が虚無に服した」とあるが、ギリシャ語の「虚無」という言葉は、目的を果たさない状態を指す言葉である。これは、もともと与えられた目的を果たさないという意味である。
パウロは、創世記のスト−リ−と被造世界の基本的な聖書的見解を明らかにしているのである。つまり、人間を祝福するためにそれらは創造されたのに、その目的を果たすことができずに、人間を呪い、人間を訴えなければならないものになっている。なぞ訴えなくてはならないのかというと、人間は罪人となったからである。神に逆らい、目的を果たさないで破壊をもたらすものとなっているからである。「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方による」と書いてある(20節)。「服従させた方」とは、神のことである。神が地球を呪われたのだ、ということをパウロは話している。だから、「>font
color="#AF0000">虚無に服した」とは、「呪われた状態になった」ということに他ならない。それは被造物による選択ではなく、アダムのために被造物も呪われてしまったのである。
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しかし、「望みがある」とパウロは言う。つまり、神は、「アダマ」を呪われた。「アダマ」とは、へブル語の「土地」という言葉である。その名によっても、アダムとアダマはもともと調和した関係にあったことがよくわかる。アダマを呪った時に、神は畳いとともに望みをも与えてくださった。その望みとは、メサイアが与えられるというものである。メサイアがサタンに対して勝利を得るという約束が与えられたのである。メサイアが来ることは、被造物にとっても望みであることをパウロはここで教えている。言い換えるなら、世界はイエスがもたらされた救いに加わっているのである。これは私たちが期待すべきことである。
どういう意味かというと、エデンの園に戻って考えればすぐにわかる。そして、これは千年期後再臨説の考え方にもつながることであるし、クリスチャンの世界観全体にもつながるものである。サタンは自ら罪を犯し、人間にも罪を犯すように惑わしたが、それによってサタンは勝利を獲ただろうか。否である。キリストがサタンに対して勝利したもうたのである。それと同じ意味において、もともと人類に与えられた目的を人類は果たさないことになるのだろうか。否である。人類は最終的にその目的を果たすことになるのだ。メサイアの導きと祝福によって、それを果たすようになるのである。被造物は最終的に虚無に服するのだろうか。否である。サタンが与えた影響のすべてをキリストが取り去って被造物全体を救いたもうのである。だから、キリストの救いの中には被造物も含まれるのである。
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被造物はサタンの誘惑と罪によって呪われたが、キリストの救いによって贖われるのである。救われて、新しくされるのである。もしサタンの誘惑が人間や被造物の最終的な破滅をもたらすことができたとしたら、サタンは神の裏をかくことに成功していただろう。しかし、神はこの世界に御娼分の御子を遣わされ、サタンの業を台無しにされた。こうして、イエスがサタンを打ち破られたことは、被造世界もまた贖われなければならないことを意味している。「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご娼分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです」と、コロサイ人への手紙1章19〜20節でパウロが書いている通りである。
しかしながら、人間の贖いと同様に、被造世界の贖いにも段階がある。私たちはイエスが十字架上で死なれた時に決定的に贖われた。それは私たちがキリストを信じる時に、バプテスマによって私たちに正式に適用される。私たちは聖化の過程を通して徐々に罪から救われていく。私たちは、キリストの栄化された御身体のような復活の身体が与えられる歴史の終わりの時に、最終的に罪から完全に救われるのである。キリストの十字架による救い、聖化、最終的な決定的な救いという段階がある。被造世界もこの三つの段階で救われる。この世はパウロがコロサイ人への手紙で記したように、イエスが十字架上で死なれた時に救われた。それは、パウロがこのローマ人への手紙8章21節で説明しているように、神の子たちが栄光のうちに現われる未来の時に、ともに完全な救いを受けるのである。
それ故パウロは、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」と言って、私たちが復活のからだを受けるとき、被造物全体もまた栄光を受けて贖われるのだということを話している。それは最終的にどういう意味なのかは完全にはわからないけれども、恐らくこうではないかと私は思う。即ち、失われたもののすべてが取り戻されることになるであろう。最終的に贖われた状態になるとき、子どもたちも大人の状態になるが、トラノザウルス・レックスに乗って遊ぶことにもなるのではないかと私は思うのである。
つまり、神が創造された被造物のすべてが取り戻されるのだ。絶滅してしまった動物も、最初に創造された良い状態において取り戻されるのではないかと思う。サタンの誘惑とアダムの罪によって最終的に失われたままになるものは一つだにないであろう。だから、被造物全体が人間の救いとともに贖われるのである。人類が最終的に救いを完全に受けるそのとき、被造物全体も一緒に救われることになる。
全体的なポイントとしてパウロはここでそのように教えているけれども、その細かい意味については話していない。トラノザウルス・レックスも新天地にいて、人間と仲良く共存するようなことになるかどうかについては別に違う意見を持つ人がいても一向に構わない。しかし、人間が罪を犯したことによって最終的に失われるものは何一つない。「虚無に服したのは被造物自身の意志によるのではないので、望みがある」とパウロが言っているとおりである。
もしアダムが罪を犯さなかったとすれば、トラノザウルス・レックスはもともと創造されたものの中にいたわけだが、地が呪われる以前のトラノザオウルス・レックスは、人間を食べたり殺したりするような獣ではなかった。最初に創造された時は、ヨブ記に出て来るような恐ろしい恐竜ではなかった。最初に創造された状態はどんなだったか、そしてもともとどういう生き物であるべきだったか。それは、最終的な救いのときに完成されて、そのようなものになるのではないかと思うのである。
それまでのしばらくの間、被造物は祈るかのように「うめく」のである。その間、キリストにある新しい人類であるクリスチャンたちは、神が園においてアダムに与えられた最初の召しを成就するべく召されるのである。パウロが十字架における私たちの贖いと私たちの最終的な栄化を被造世界の救いに結びつけるとき、彼は明らかに私たちの現在の聖化もまた、現在の被造世界における神の御国の実現に結びつけている。この結びつきは、被造物が、ちょうど私たちが祈るように祈り、最終的な目的が実現するまで「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と述べることによって更に明らかにされている。
パウロはそこで救いについて話すとき、主イエス・キリストの完全な勝利について話しているのである。どんなことにおいても、三位一体なる神は負けることもなければ失敗もしない。それで、私たちは被造物を見るときに、その被造物に対する責任があることを知り、それを救う責任もあることを悟るのである。私たちは、人類の救いのために働くのと同様に、被造世界の救いのためにも働くように召されている。しかし、それは所謂環境保護者たちが言っているような意味で救うのとはまるで違うことなのだ。その人たちが「環境を救う」と言うとき、人間の影響から救うという意味で言っている。「自然な状態は良い。そのあるがままの状態がよいのだ。自然が基準だ」という考え方なのである。だから、人間は少ない方がよいのだと考えている。人間が多くいればいるほどだめになるという考えなのだ。
私たちクリスチャンはそれと全く逆に考えている。人間はもっと多くいた方がよいと考えている。もっと産んで増えた方がよいと考えている。そして、人間は被造世界をよく管理すべきだと考える。それを正しく管理することによって有益で美しい所にする。そういう意味で「救う」のである。確かにそのあるがままにするのが良い場合もある。それは庭園の一つのあり方として考えられるものである。沼地を保護して美しさを保つのも、それはそれで構わない。しかし、自然保護主義者たちの考えはもっと極端なものであり、「人間は悪くて、自然が良い。自然に合わせるべきだ。人間も自然の一部分である。自然が基準であり、自然のままがよい」と考えている。決してそうではない。世界は、野放しにされる時にではなく、人間が正しく管理して支配する時に救われるのである。
というのは、被造物そのものがもはや“普通”ではないからだ。さらに根本的には、被造世界は人間を離れて“自然”であるようには決して創造されなかったのである。世界は人間の宮殿として創造されたのであり、最初から、その完全な発展は人間の働きに掛かっていた。世界が虚無に服し、滅びの束縛の中でうめいている今、それは人間の働きをいよいよ多く必要とするのである。人間が任された場所を正しく管理するとき、その場所は神の御国の実を結ぶものとなる。そのことは申命記28章やレビ記26章を見ればよくわかる。イスラエルが正しければ、雨は時にかなって降り、地を潤し、豊作が与えられる。イスラエルが悪を行なえば、農地は荒れ地となる。詩篇107編にもそのことが書いてある。33節から38節までを見よう。
主は川を荒野に、水のわき上がる所を潤いのない地に、肥沃な地を不毛の地に変えられる。その住民の悪のために。主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水のわき上がる所に変え、そこに飢えた者を住まわせる。彼らは住むべき町を堅く建て、畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得る。主が祝福されると、彼らは大いにふえ、主はその家畜を減らされない。
この短い箇所で、人間と被造物との契約的関係をよく見ることができる。人々の悪のために、呪われた地はその呪いをもっともっと表わしてしまうものとなる。洪水や地震が多くなり、火山が爆発したりして、荒れ果てた所になり、何も役に立たない所になってしまう。それはその場所に住む人たちの罪のゆえである。反対に、神を恐れて神の戒めを守る生活をする者たちの場所は祝福された所となる。神が、砂漠の地を水のわき上がる所に変えてくださるのである。
だから、環境問題について考えるとき、神を正しく礼拝して、神の命令を守っているかどうかがどれほど重大かを知らされる。神が、その被造物を通して私たちを祝福し、被造物を通して私たちを呪いたもう。被造物は完全に神の側に立っているのである。神に導かれて私たちを祝福し、また呪う。神に従うとき、創造された目的を果たそうとするとき、神はその環境を祝福してくださる。それ故、環境問題には契約的な面があることを知らなければならないのである。
私たちには、神の命令に正しく従って管理する責任が与えられている。そのような、非常に広い意味を持つ救済論をパウロはローマ人への手紙8章で話している。私たちの責任は、全人類が救われるように働くところだけに止まらないのである。私たちに与えられている責任は、もともとアダムとエバに与えられた働きが最終的に果たされて、歴史が完成されるというものなのだ。アダムとエバに与えられた責任は私たちにも与えられている。そういう意味で私たちは、すべての人がクリスチャンとなるように働き、神が創造したすべての被造物が創造された本来の意味を成就するように働くのである。そのことを私たちはこの箇所からはっきりと見ることができる。
救済論とは、それほどに広い意味をもつものなのである。これは千年期後説にもつながる教えである。私たちの毎日の仕事のすべてがこのことに関っていると言ってよい。自分に与えられていることを正しく管理することによって神の栄光を表わすのである。それこそ神に対する正しい礼拝である。そして、それは神が私たちに与えてくださった被造物に対する責任の中にも含まれることである。毎日を、明日は今日よりも質の高い働きをして質の高い管理をするように働くのだ。それがすべて正しい意味での救いに含まれることなのだ。救いは、これらすべてを含むものなのだということをパウロは説明している。
パウロは、「私たち自身も、被造物と一緒にうめきながら救いを待っている」と言っている。つまり、この世に生きている間は、苦しんで救いを待っているというのである。だから今、完全ではないことに驚いて不満を抱いたりするのもおかしいことである。完全になるように働いても、完全にはならないことがわかっているので、うめく。不完全である私たちはうめきながら生きるものなので、汗を流すときに驚く必要はないのだ。最終的な救いの時まで、私たちは苦しみながら真剣にその救いを求めるものなのだ。人間が正しい働きをすればするほど、呪いを感じる部分が減少されるのも事実だが、この世にあっては、それが完全になくなることはない。苦しみがあるのは当然だと思って耐えるべきである。そして、最終的な救いを求める心を失ったりしてはならない。諦めてはならない。
このように、パウロは救いについて語るとき、非常に広い考え方を持っていることがよくわかるのである。個人がキリストを信じればそれで十分だというのではない。私たちは、神の救いについて考えるとき、このような大きなビジョンと見方を持って考えなければならないものだと思う。全体的に言えば、聖書を信じているクリスチャンの多くは、個人が救われることばかりを考えがちである。それは所謂バプテスト派の考え方であるが、福音派全体がバプテスト派的だという言い方ができると思う。信じて、告白して、バプテスマを受ける。すべてが個人の救いから始まり、個人の救いに終わってしまいがちなのである。そうであってはならない。神は、地域教会、家庭、国家までが最終的に救われることを約束している。すべての国々が神の御名を賛美するようになることが黙示録にも書いてある。それは、人間の救いだけに終わるものでもない。地球全体、被造物全体が救われる。そのような広い世界観を持って生活を送らなければならない。
私たちは、心においてそこまでの広い世界観を持つ必要があるのだ。神の救いの広さ大きさを本当に心において味わいつつ働くべきであると思う。どんなに大きなビジョンを求めて歩んでいるのかを覚えさせられるとき、私たちは励まされて成長させられていくのである。そして、もっともっと求めるように強められて導かれていくはずである。それ故、被造物や環境についての聖書的見方は、人間が他の人間と、他の被造物の祝福も求めて活動するという見方なのである。
聖書は人類と被造物全体の救いを約束するゆえに望みを与えるものである。新しいアダムであるキリストは包括的な契約的勝利を世にもたらされ、その勝利が歴史上で具現するために働くことが神の民としての私たちの働きである。これは、私たちの職場、家庭、教会における働きの全部が神の救いの御計画と御国の建設につながっているということを意味している。私たちの毎日の働きは、その大きなビジョンを祈り求めて、神が御自身の栄光を私たちを通して示してくださるという望みのうちになされるべきである。
聖餐式のときに私たちは、主イエス・キリストの救いの働きを覚えてこれを行なうものである。主イエス・キリストの救いの働きは、罪によってこの世に入ってきたすべての影響を取り除き、贖うものである。そのことを覚えて、その働きの大きさを喜び、感謝をもって聖餐式を一緒に受けたいと思う。神の救いの御業の偉大さと素晴らしさを思い、その中で神が私たちを愛してくださっており、大きなビジョンと大きな目的をもって生きるという祝福を与えてくださっていることを感謝して、一緒に聖餐式を受けたい。
――2000年8月20日――