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    ローマ人への手紙8章23〜25節


    8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

    8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

    8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

    2000.08.27. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    希望

    8章23〜25節

    そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望んでいます。

       先週はローマ人への手紙8章20節〜22節の箇所を一緒に見た。神が創造された被造物全体がうめきながら私たちの救いの完成を待ち望んでいる、とパウロは話している。つまり、被造物全体が、創造されたすべてのものは現在異常な状態にあるということを知っていて、この世界が救われることを待ち望んでいるということである。主イエス・キリストの救いの働きは、ただ人類の中の小さなグループが救われるだけだという話ではない。単に新しい人類だけを救うのではない。一人残らずという意味ではないが、人類全体が救われるという話なのである。被造物全体がキリストの贖いにあずかるのである。千年期後再臨説はこの理解に立っている。それは、最終的には被造物全体が救われることになるのである。

       神が創造された世界は、サタンの働きによって駄目にされるところはそういう意味では何一つない。その救いの未来のビジョンについてパウロはここで話している。非常に広く、非常に大きな意味での救いのことをパウロは話しているのである。私たちは、そのような大きな意味で救いを考えなければならない。パウロは、世界観と救いを一緒にしている。つまり、世界全体は救われ、未来において神の完全な救いと神の栄光が完全に現われるのである。終末論と世界観と救済論は、一つの壮大なビジョンを私たちに与えてくれる。そのことを先週一緒に考えた。

     

    御霊の初穂

       23節からのところで「そればかりでなく」と言っているが、被造物が産みの苦しみをしているということを私たちは知っているが、そればかりではなくて、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」と言うのである。驚きを表わすような表現でパウロは話している。あたかも「私たちもうめいている。私たちにも、うめく理由がある」と言っているかのようである。つまり、「私たちは主イエス・キリストにあって救われて神の御恵みを豊かに受けて祝福されているのに、御霊の初穂をいただいているのに、どうして尚もうめく必要があるのか」という含みをもって悟らせようとしているのである。

       文脈からすると、私たちは、「御霊の初穂をいただいているので、うめく」という言い方もできるし、「いただいているのに、うめく」という言い方もできる。どちらの解釈も可能である。どちらの解釈がよいのか、まだ断言できないが、「御霊が私たちに与えられているので、苦しんで待ち望んでいる」と言うとき、それは、私たちが心から未来に望みを持つようにと御霊が私たちの中で働いてくださっているので、望みが強ければ強いほど、今の状態に対してはある意味では満足できないということだと思う。おそらく、御霊の初穂をいただいているがゆえにうめくのである。今の状態がどんなに足りないかを感じるからである。

       これ以上よくなる望みが何もなければ、今に対する不満もないだろう。これよりも良くなることを知り、これよりも良くなるはずだという思いを深く持てば持つほど、私たちはうめかずにはおれなくなるのである。それは、御霊が与えられているので、そうなるのである。「御霊をいただいているのに、うめく」ということは、これほど豊かに祝福されているのに、それでも苦しんでうめくということである。なぜなら、「救いの完成」はまだ与えられていないからである。

       「初穂」とは、収穫の最初のものを指す言葉である。収穫の時、「初穂」は最良のものを意味しているし、「初穂」には「代表的なもの」という意味もある。昔のイスラエルでは、収穫の初穂を神にささげていた。初穂を神にささげるとき、それには二つの意味があった。一つには、神に最良のもののみをささげるという意味がある。もう一つには、収穫のすべてを神にささげるという意味がある。それが神に収穫の初穂をささげるときの意味であった。つまり、それは最良であり、またすべての収穫を代表するものなのである。

       私たちがささげる献金にもその意味はある。十一献金は、自分が得たすべてを代表するものとして十分の一を神にささげるというものである。それだから、「十分の一を神にささげたのだから、残ったものは自分が好き勝手に使ってもよい」という思いでささげるものではない。神にすべてをささげるという意味で献金をしているのである。それこそお金だけでなく、時間も、身も心も、自分のすべてを神にささげるという心をもって、十分の一をその代表としてささげているのである。

       そういう意味で、礼拝の中で正式に献金を行なうことは良いことである。献金は本来礼拝の一部分として考えるべきものである。献金のやり方はともかくとして、その思いは同じであるはずだ。献金は、自分のすべての働きを神にささげることを表わす行為である。自分自身も含めて、自分の人生すべてを喜んで神にささげるという意味で、「初穂」を、あるいは「十分の一」を神にささげるというものである。

       しかし、ここでパウロは、「御霊の初穂」と言っている。御霊が「初穂」なのだとパウロは言っている。何の初穂かというと、これは「救いの初穂」のことである。御霊の賜物は私たちの救い全体の「初穂」なのである。パウロはここで、御霊御自身の働きのことを話している。「御霊が救いの初穂である」と言うとき、一番素晴らしいところを神が先に私たちに与えてくださったという意味があると思う。からだの完成は後に来るが、まず御霊が私たちに与えられ、御霊が私たちの中に住んでくださるのである。それは、救いの最高の意味を表わしているものである。それはまさに救いの本質であり、神が私たちに与え得る最高のものである。

       御父、御子、御霊なる神は、御自身の中に永遠の契約の交わりを持っておられる。永遠の契約の交わりを表わす表現として、ヨハネの福音書17章のキリストの祈りに表わされているように「互いの中に住みあう」という表現がある。御父はキリストにあり、御父はキリストの中にいる。御父、御子、御霊なり神は、お互いに住みあう関係にある。それは完全な一致を表わす言い方である。神の契約は、御父、御子、御霊の愛の関係に基づくものであり、「お互いに住みあう」という一致があるわけである。

       神が人間を御自分の似姿として創造したとき、人類が、御自分の契約の交わりの中に入るように創造してくださったのである。救いは確かに私たちが想像し得るあらゆる外面的な祝福を含むものだが、それは単なる新しい状況やほかの外面的な祝福ではない。救いはまっさきに契約的愛の回復なのである。そして、それは契約の回復以上の祝福でもある。それは、アダムにあって失われた祝福よりも大きな祝福をもたらす新しい契約の賜物なのである。神は人間を契約的交わりと三位一体の神の愛にあずかるように創造された。その契約の交わりは、人類の創造の最終目的なのである。

       しかしその祝福の完成は、人間が神の御国を建て上げるという任務を果たす歴史の終わりまで与えられることはない。アダムの罪のゆえに人間の神との関係は壊され、人間は神の契約的愛を喜ぶ代わりに、神に敵対するものとなってしまった。アダムとエバが罪を犯さなかったとしたら、人類は増えていって、神の歴史のプロジェクトを完成して、最終的に人類は神との契約において一つとなって、御霊が完全な意味で新しくなった人類の中に住んでくださることになるはずだった。それで、肉のからだから御霊的なからだに“卒業していく”はずであった。そのことをパウロはコリント人への第一の手紙15章で説明していることは既に話したと思う。

       今の私たちのからだは肉的なからだであり、未来のからだは“御霊的なからだ”である。そのことを最初から神は計画してくださった。人類の最終的な祝福の現われは、神と契約的に一つになるというものである。即ち、人類全体が三位一体なる神の契約の交わりの中に入れられるのである。契約において一つにされる。それだから、「新しい人類は神の花嫁である」と言うことができるわけである。

       夫婦は一つとならなければならない(創世記2章24節)というのは、夫と妻の関係は、神と教会の関係を表わすものだからである。それは神と教会の一致を表わすものだからである。教会とは、私たちクリスチャンのことである。そのことを覚えて夫婦とは何なのかを考えなければならない。神はそのように御自分の教会を愛して下さった。神の教会であるということには、それほどに高い素晴らしい意味があるのだ。

       その永遠の救いの最高の祝福とはどういうものかというと、御霊が私たちの中に住んでくださり、私たちは神のうちに住み、契約的に神と一つとされ、互いの契約の一致という三位一体の神の三位格の契約的な愛といのちの交わりに入れられることである。それが救いの最高の祝福なのである。その「御霊の初穂」が、今すでにキリストを信じる私たちに与えられているということをパウロは説明している。私たちは今、その最高の祝福を既に味わっているのである。その最高の祝福とは、神との契約的な愛の交わりのことである。

       勿論、存在論的に人間と神との隔たりは常に無限であり、それは変わらない。救いは存在論的な昇格を意味してはいない。しかし契約的に、救いは神と一つであること、即ち御父、御子、御霊の愛の交わりに豊かに与ることを意味する。三位一体の三位格が互いに住み合い、互いに愛の豊かさを分かち合うのと同様に、私たちも御霊によって住まわれ、またキリストに住むのである。

       相互に住み合うとは契約的なことである。それは制約のない契約的な愛といのちの交わりを意味する。そのような親しく豊かな神との関係に導かれることは、救いのまさに本質である。これよりも高く偉大な祝福は考えられない。しかしこの祝福はすでに御霊の賜物において与えられているのだ。その意味で御霊の賜物は救いの初穂である。御霊は代表の部分である。御霊の賜物は、未来において救いの完成が私たちのものとなることの保証なのである。

       この世における最高の祝福は何なのか。クリスチャンではない人たちの観点から見ても似たようなことになると思う。クリスチャンではない人たちの中でも、「何が最高の祝福か」と問われたとき、「お金だ」という答えにはならないであろう。貧しい者はお金を欲しがるのは事実である。お金を持っていることは、持っていないことよりも良いとは、誰もが思うことである。しかし、お金持ちであっても、悲しみと苦悩の中にあって貧しい人の生活を見て羨んでいることも少なくないのである。「自分たちの中には愛がない。愛が冷めている」と感じるなら、いくらお金があっても少しも満足できないであろう。それだからと言って、「もうお金はいらない」とは言わないかも知れない。「お金は欲しいけれども、それだけでは駄目だ。愛が欲しい」と、ほとんどの人は言うのである。

       愛されているということが、この世では最高の祝福なのだ。愛されており、人をも愛することができる、そのような活きた愛の関係をもつことができることこそ、本当の、そしてこの世では最高の祝福である。貧しくても、本当の愛があれば、貧しさは大きな試練にはならないのである。愛が無ければ、貧しさは深刻な問題となる。普通の生活をしていても、愛があれば、普通以上の満足を持つことができる。愛があれば、祝福された心を持つことができる。お金があって、しかも愛の関係もあるなら、それこそ恵みを人々に与えたい心が起こってくるのである。自分に与えられたものを、どこまで自分で食い尽くすことが出来るかを考える気持ちにはなれないはずである。

       この世の人であっても、愛されて愛することができるなら、その本当の活きた愛の関係を持つなら、それが最高の幸せだと思う人はいくらでもいる。そして、愛の無い人たちは、お金や資産があればあるほど、空しさを感じて悲しみに暮れるのである。私たちは救いの保証として御霊の初穂を頂いている。既に、その契約的な愛の交わりに入れられているのである。御霊の初穂に代表される未来の祝福とは、私たちのからだの贖いである。未来において私たちは、今は想像できないようなやり方で神の救いのいつくしみを表わす栄化されたからだを受けるのである。

     

    望みによって救われる

       私たちには御霊の初穂が与えられている。その意味について、パウロはローマ人への手紙5章で話している。5章5節を見てほしい。

    この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

       御霊が私たちのうちに住んでくださるということは、特に、神が私たちを愛しておられることを御霊が私たちの中にあって証ししてくださるということである。つまり、これは「福音」である。これは福音の基本なのである。神が私たちを愛して主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、キリストは私たちの罪を贖うために十字架の上で死んでくださり、そしてよみがえられて、賜物として永遠の救いを私たちに与えてくださったのである。そのような大きな愛をもって神は私たちを愛していてくださる。御霊は、その証しをしてくださる。御霊は「初穂」なのである。

       「救いの初穂である」というのは、御霊は、神の絶対なる愛の証しを常に私たちに与えてくださるところにつながることなのである。神との真の契約の交わり、即ち真の愛の交わりが私たちに与えられている。これが、救いの最終的で最も素晴らしい最高の意味である。人間の愛は素晴らしいものである。しかし、なぜ人間の愛が素晴らしいのかというと、自然にそうなったのではなく、人間は神の似姿だからである。だから、人間の愛は素晴らしいものではあるが、それを神から切り離して考えるならば、その愛も取るに足りないものとなるのだ。

       「ここに永遠の意味がある」という確信を持って愛するならば、人間の愛も深く感じられるものとなる。しかし、現代人は「愛も化学的な現象なのだ」と言うようになってきた。「愛の感情は化学的な現象である。偶然に生まれた宇宙の中にあって人類も偶然に進化してきたものである。その人類の偶然の進化の中に“愛”という化学的な現象がある。それは、脳の中の何かの化学反応による現象である」と定義するのである。だから、「その化学的な活動がある間、人間は愛を感じるのだ」と言う。それで、その化学反応が減少すると、愛の感情も減少する。いつかそれは消えて無くなっていく。死ぬとき、人は土に戻るので、愛も消えてなくなるということになる。

       それであれば、愛は、化学の授業で勉強する対象に過ぎなくなるのだ。「どの化学元素のどんな働きなのだろうか」という話になる。化学的に定義できればそれで満足するなら、人間の愛は素晴らしいものではなくなり、化学的な現象に過ぎなくなるのである。何と空しい思いであろうか。愚かなことだ。そのような理解で愛を求めると言うのか。永遠の愛なる神が私たちを創造してくださり、私たちを愛してくださり、十字架にかかって死んでくださるほどに愛してくださったのである。私たちのその創造主なる神の似姿として互いを愛し合うので、愛には意味があり、愛には素晴らしい永遠の意味があるのだ。そのことを知るとき、人間の愛は素晴らしいものとなる。非常に足りないとしても、それは素晴らしいものとなるのである。

       しかし、それは、神の愛に基づいているので素晴らしいという話なのである。永遠の愛をもって愛されているので、素晴らしいのである。そのことを知っているのに、喜べないと言うのか。そのような永遠の救いの初穂をいただいていることを本当に知っているのか。その永遠の救いの最高の祝福とは、永遠に神の愛の祝福を味わうことなのである。そのことが在る程度まで与えられており、決して失うことのないものとして与えられているのである。それでも感謝しないのか。喜べないと言うのか。

       だから、救いの「初穂」を言うとき、まずその最高の祝福は既に私たちに与えられているというのが第一の意味である。その最高の祝福とは、神との契約的な交わりに入れられているということである。「初穂」のもう一つの意味は、先ほど献金などの例で既に説明したけれども、それは「すべてを代表する」という意味である。つまり、救いにおいては初穂は保証を意味している。未来において完全に与えられる。だから、喜びと感謝をもって期待できることが保証されている。これで終りなのではない。前菜が出されて、まだお腹は満たされていないのに、それで食事が終わるのではない。これからも続けて祝福が与えられるのである。「初穂」はその保証である。

       すべての救いが完全なかたちで与えられるということを御霊は私たちに確信させてくださる。その救いの初穂である御霊が与えられている私たちは、その両方の意味にあって「希望」を持つものである。神に愛されているという事実はまさに大いなる「希望」である。「初穂」が与えられたということは、もっと更に豊かに与えられるということの保証である。

       私たちの心の中の「うめき」とはどういうことなのかというと、完成していないのでうめくわけである。そのポイントにおいては、「与えられているのに」であっても「与えられているので」であっても変わりはない。完成していないことを私たちは毎日感じている。痛いほど感じるものである。神に愛されていることを覚えて感謝するとき、自分が神の愛に対してどんなに応えていないかを感じないはずはない。「これほど愛されているのに、自分の心はまだ自己中心的で、こんなに汚くて、こんなに足りない」と思うはずである。そして、自分の罪の重さは「うめき」となって出て来る。

       ジャン・バニヤンの「天路歴程」の中で、律法を聞いたときに自分の罪の重荷を認識させられ、律法を聞けば聞くほど重荷が重く感じられていくという話がある。その人が福音を受け入れた時に重荷は卸されて自由にされたという比喩が語られている。ある意味でそれは言える。福音を聞いてキリストを信じて解放を体験するのは事実である。同時に別の意味もある。これはローマ人への手紙7章の話になるが、罪から解放されると同時に、福音を聴いてその素晴らしさを知ったために、更に深く罪の重さを知らされるのもまた事実である。

       パウロが、ローマ人への手紙7章14〜25節までの箇所で話しているように、クリスチャンだからこそ、罪の苦しさと重さを深く感じるのである。その重さは、福音から来るものである。御言葉を聞くことによってそれは来る。神にこれほどまでに愛されているのを知っているので、本当ならば正しく生活を送って神の栄光を豊かに表わしたいのである。それなのに、どうしてもそれができない。「この死ぬべきからだから私を解放してくださるのは誰なのか」とパウロは叫ぶのである。神を愛しているからこそ、罪の重さを感じるのである。だから、そういう意味で「うめく」のである。自分の罪を見るときに、悲しんで、苦しんで、「どうか神様。この哀れな私を救ってください」と叫ぶのである。その祈りは、救われた当初よりもずっと熱心で切なる祈りとなる。

       そういう意味で、天路歴程を書き換えてみるのも良いだろう。福音を聞くと、荷は重くなってしまった。その重荷はずっと重くなり、歩けば歩くほど重くなる。そのように書き換えたとしたら、解らなくなってしまう人も出て来るかも知れない。しかし、ジャン・バニヤンが言っていることも事実であるが、別の観点からの比喩もあることを覚える必要がある。

       このパウロが言っている「うめき」は、もちろん個人の救いの問題に限ったことではない。前にも見たヨハネの福音書11章で、主イエス・キリストが死んだラザロとその周りにいる人たちの状態を見て深く悲しまれたことが記されている。キリストは、罪と死の影響をご覧になられて、他の者たちのことで苦しんでおられたのである。私たちも同じである。クリスチャンの兄弟が罪を犯したときに、私たちは苦しみを覚える。クリスチャンの兄弟が、本当ならここまでできるはずなのに、すべきことをせず、成長せず、可能性を実現させることができないのを見て、私たちの心は苦しむのである。これは、神の教会全体においても同じことが言える。

       日本の教会の現状を見て悲しまないだろうか。御言葉の教えにおいてもどんなに足りないか。世界各国との比較からすれば、日本の教会はお金が無いわけではない。しかし、そのお金をどう使っているかというと、福音派のロックコンサ−トのために巨額な使用料で大きな施設を借りたりする。クリスチャンたちに献金させたりしてそのようなロックコンサ−トを開催し、バンドの人たちを儲けさせたりしている。何しているのかわからないような状況は日本だけでなくアメリカや他の国々にもある。見ていて悲しいかぎりである。それだけの人間を動員することができるのなら、どうしてもっとよく福音を伝えることができないのか。それだけの資金を使うのなら、どうしてもっと良い教育システムがないのか。どうしてもっとよいかたちで福音の働きを福祉施設などで実行したりできないのか。実に弱くて足りないのである。見ていて悲しいはずである。

       そのような足りなさとか罪や愚かさのために悲しむだけでなく、中国やイスラムの教会を見て、その迫害されている状態を見て悲しむはずである。中国全体の祝福を一番熱心に求めているのはその迫害されているクリスチャンたちなのである。どうしてその人たちが迫害されなければならないのか。これは異常な状態である。そのことも悲しむべきことである。

       そういう意味で、自分を見ても、周りを見ても、教会やクリスチャンの足りなさを見ても、教会への迫害を見ても、この世の罪を見ても、悲しくなってうめくわけである。すべてが神の意図しておられる祝福の豊かさからあまりに隔たっている。神に立ち帰ってその御言葉に従いさえすれば、今ただちに楽しむことのできる部分的な祝福からも実に実に遠く隔たっているのを見るのである。それが今の状態であり、それはうめくべきものである。

       「御霊の初穂」が私たちに与えられているので、私たちは、どうあるべきなのか、そしてどんなに素晴らしいものに成り得るかを知っているはずである。それだから、現状を見て悲しみ、そしてうめくのは当然のことなのだ。人間がただキリストを信じるならば、人間の歴史から貧困、病気、戦争、無知、不潔などを事実上消し去ることができる。この世はいまだ、成り得るもの、成るべきものになってはいない。私たちはこの世を変えるために働くけれども、神が働いてくださって世を変えてくださるのを待ち望むこともしなければならない。神は、私たちを通して、私たちのうちにあって働いてくださることを私たちは知っている。

       「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、こころの中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」とパウロは言っている。「私たちのからだが贖われることを待ち望む」とあるのは、個人の救いと教会全体の救いを待ち望むことである。「私たち」とあるので、自分だけのことでないのは明らかである。私たちは教会全体の救いの完成を待ち望んでいる。

       「救いの完成」のことを、ここでは「からだの贖い」と言っている。救いを過去のこととして私たちは「既に贖われた」と言うことができる。新しく生まれ変わって御霊の祝福が与えられている。それは過去の事実であるが、同時に、「救われつつある」という言い方もできる。御霊が私たちの中に住んでおられて、私たちの中にあって働いて主イエス・キリストに似た者に変えてくださる。それは、言わば現在進行形の話である。更にまた、未来の救いというものもある。その救いとは、「からだの贖い」である。

       私たちのからだはまだ贖われていない。アダムから相続したからだをもって今生きている。このからだの贖いは未来にある。からだも完全に神の救いの祝福を受けて、御霊的なからだになって神の栄光を真に表わすことができるようになるのである。それは未来のことである。そのことを「子にしていただく」という表現でパウロは話している。英語の方が日本語よりも意味がはっきりしている。英語では "adoption" と訳されている。日本語でこの箇所を「養子」と言えば変な感じになるが、英語もギリシャ語もはっきりと「養子」という言葉なのである。

       私たちのからだの未来の贖いがギリシャ語では「養子」と呼ばれていることは注目すべきことである。「養子」という言葉は、神の最愛の息子たちとして私たちが享受する高く上げられた地位を指しているのである。「養子の完成」が「からだの贖い」なのである。つまり、救いの完成とは、私たちが神の養子の完成を受けることなのである。クリスチャンは皆、神の養子とされた子どもである。神の契約の祝福をそのように与えられて神の子どもとされている。しかし、そのことの完成はまだ未来のことなのである。

       今既に神の子どもであることには違いはないが、今の私たちを見てすぐに「あの人は神の子どもだ」ということはわからないのだ。あなたが外を歩いていて、他人があなたを見て「あっ。この人は神の子どもだ」とわかるわけではない。天皇の子どもなら宣伝も行き届いているし、写真もマスコミ等で掲載されているので、誰にでもすぐにわかる。「天皇」とは、天の麗しい者という意味であるが、私たちこそ真に天の麗しい者の子どもなのである。しかし、その麗しさはまだ十分に湧き出ていないのである。

       未来において私たちのからだが贖われる時、私たちは真に天の麗しい者の子らしく神の栄光を表わすものとなるのである。私たちは、その時を待ち望んでいる。その時には、私たちを見るだけで神の子どもだということが誰にでもわかるようになるのである。被造物にもそれがわかるようになる。そのことを私たちは「待ち望んでいる」のである。

       「待ち望む」ということだが、25節でパウロは「私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます」と言っている。それが、真に待ち望む姿である。聖書の中の「望み」は、「そうであればいいな」というような軽い話ではない。確信して、そうなることを心から喜び、神の約束が果たされるのを熱心に待つのである。クリスチャンは、神の救いの完成を熱心に待ち望んでいる。

       勿論、これは御霊の初穂をいただいているので、私たちの中におられる御霊の働きによると言うこともできるが、「私たちは、この望みによって救われている」のである(24節)。つまり、福音の救いの約束は今のレベルの救いの約束ではなかったのである。キリストを信じればある程度までは良くなるけれども、年老いて結局は死んで終わるようなものではない。福音の救いの約束は全くの完成の約束なのだ。私たちは神がキリストにあって私たちのために成し遂げてくださった御業を信じ、神の御言葉に信頼するのである。

       「永遠のいのち」の意味をよく考えてみるならば、「神との契約の交わり」や「贖われたからだ」などはすべて「永遠のいのち」という言葉の中に含まれているものだということがわかるはずである。私たちは、そのような大きな完成の約束を与えられて救われているのである。そういう意味で、救いははじめから「望む」ものなのである。今すぐに100%与えられるわけではない。「永遠のいのちが与えられて救われる」というのが福音の約束なのだ。その望みによって私たちは救われているのである。更にパウロは24節で説明している。

    目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

       つまり、今すでに救いが100%完成したものとして与えられているとすれば、もう望むことではなくなっているのである。食卓にすべての料理がすでに置いてあるならば、「あと何が出てくるか」などと望んだりはしないのである。一品ずつゆっくり出て来るならば、次に出て来る料理を望みながら食べていくことになるのだ。聖書の中での譬えはよく食べ物の話になるので、そのように考えても少しも変なことではない。おかしく聞こえるかも知れないが、私たちは宴会に招かれているのである。結婚式の宴会が黙示録にある救いの完成なのである。

       そういう意味で、すべてが目の前に見えているかたちで与えられているならば、さらに望むことはなくなるのである。私たちは世界の救いも自分自身の救いもまだ見ていない。それだからパウロは、私たちが「望みによって」救われている、と言うのである。救いは未来に来る。まだ全部が与えられてはいないので、まだ完成が未来にあるので、望むのである。これは極めて当たり前の話なのだ。望むならば、それはまだ与えられていないことなのである。なぜこんな当たり前の話をするのかというと、もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、「忍耐をもって熱心に待つ」からである。

       ここに二つの強調すべき大切なポイントがある。まず「忍耐」という言葉については前にも話したが、忍耐はただ我慢するということではない。ただ耐えることだと考えてはならない。聖書で言う「忍耐」はもっと肯定的な意味であり、「堅忍」のことなのである。「堅忍」という言葉には、もっと積極的に頑張って歩み続けるというような意味がある。「忍耐」という言葉には、自分に降りかかることに対して受身的に耐えるような意味があるとすれば、「忍耐」という日本語は少し不適切かも知れない。この「忍耐をもって」という言い方は、積極的に、最後まで、疲れもせず、ぶつぶつ言わずに、喜んで、戦っていくという意味として理解しなければならない。

       「忍耐をもって待ち望む」ということは、「まだ与えられていないことについて驚いたりするな」ということである。うめいてもよいが、「うめく」というのは、神に祈って悲しみや苦しみを神に訴えるということなのだ。それはぶつぶつ不平をならすこととは根本的に違う。出エジプトのイスラエルは荒野の中にいてまだ完全な救いは与えられていなかったが、彼らは待ち望むのではなくて、「今欲しい。今すぐに与えよ」ということを要求したのである。彼らは「今与えられなければ、もういやだ」という心を吐き出したのである。それはとんでもないことである。

       望んでいるものであれば、今はまだ持っていないものなのだ。今日悔い改めて家に戻っても、あなたは完全な者になりはしない。今週もまた罪と戦わなければならないのだ。いろいろなことにおいて自分も足りないし相手も足りない。人は欠点だらけなのだ。救いの完成はあと五分すれば与えられるという話ではない。嫌なことがある。大変な試練がある。苦しみがある。戦わなければならないことは山ほどあるのだ。それを「いやだ」と言う者は、愚かな子どもなのだ。当然いやなことはある。当然戦わなければならない。当然、完成は今持ってはいないのである。これは「堅忍」の話なのである。堅忍しなければならない。耐え忍ばなければならない。戦わなければならない。

       「望みをもって歩む」ということは、向こうまで行かなければ、向こうにあるものを手に入れることはないということなのだ。だから、堅忍が必要なのだ。「堅忍しなさい」という日本語は変かもしれないが、「堅忍をもって熱心に待つ」のである。パウロは、クリスチャンは堅忍するところの忍耐をもって待ち望むものなのだと教えている。忍耐をもって、積極的に努力し、積極的に戦って、約束の完成を待つのである。クリスチャンは、望みをもって生きるものなのである。

       望みによる救いとは、私たちが忍耐強くなければならないことを意味している。私たちは救いの完成を今は持ってはいないし、また持つことができないことを知っている。それは未来にやって来るものである。願いのすべてをまだ見ておらず経験していないという事実に驚いたり、落胆したりすべきではない。

       もう一つのポイントとして「忍耐をもって熱心に待ちます」とパウロは言う。この「熱心に」という言葉を見落としてはならない。これは極めて重要な言葉としてここで語られている。「熱心に待つ」ということは、真に望むことなのだ。本当の意味で望むことなのだ。ただ、「いつかそうなるだろう」というような思いではない。「よほど変なことでもない限り、2001年の1月1日は来るであろう。その前に世界は終わらないだろう」と思うようなものではない。それは当然来るものだとは思っても、熱心にそれが来るのを待ち望むわけではない。熱心に自分の誕生日を待つわけでもない。子どもたちの中には誕生日を熱心に待ち望んでいる人もいるかも知れないが、それは熱心に待ち望むようなことではない。

       ばかばかしい話だが、アメリカ人は小さい頃熱心にクリスマスの日を待ち望んでいた。神と関係なしに、プレゼント欲しさに待ったものである。だから、私たちはクリスマスをプレゼント交換のような日として持つことはしないのである。クリスマスはプレゼントがもらえる日だと思うのは大間違いである。しかし、アメリカではそうだった。子どもはこぞってサンタクロ−スが来るのを待っていた。一ヶ月前とか二ヶ月前からもうそわそわして何も手につかなくなって、クリスマスの日を熱心に待つわけである。「君はどんなプレゼントが欲しいの」とか聞かれたりするし、指折り待つことになる。勿論、これは大学生の話ではなく、幼稚園くらいの子どもの話であるけれども、デパ−トに入ると、もうサンタクロ−スの所に行きたくてたまらなくなるのだ。そのように、私も幼い頃は熱心にクリスマスを待ち望んでいた。それが来るのを心から楽しみにしていたのである。まったく馬鹿げた話なのだが、自分の経験の中で、そのように何かを熱心に待ち望むような経験は確かにある。

       しかし、主イエス・キリストの栄光の現われを私たちは待ち望んでいるだろうか。熱心に。そのことが常に頭にあるだろうか。ないのではないか。本当に熱心に待ち望むことについて考えるなら、どんなに私たちの心が足りないものかは明らかである。今の毎日の生活の中の不満ならば十分に持っている。「大変だ。大変だ」と、毎週何回も言う。確かに大変なことはある。しかし、今足りないのは事実である。

       私たちの場合、うめきは上手にできているのではないか。100点満点がもらえるほど上手にうめきができる。しかし、そのうめきは、待ち望むことにつながっていないので、そういう意味で表面的なかたちだけの100点満点になっている。それでは、本当の意味でのうめきとしては零点でしかないのだ。本当の意味でのうめきは、熱心に待ち望むことにつながれたものであって、うめきはキリストの栄光が現われるのを待ち望むことになっているので、それは本当のうめきになる。私たちは、神の栄光が現われることを心から熱心に待つのである。

       そのようにパウロは、ここでクリスチャンの望みについて話している。結局のところ私たちは、そこまで望んでいないし、そこまで真剣に考えてもいないので、それは、私たち自身の神との交わりのレベルの低さを表わしていることになるのではないか。御霊との交わりが深ければ深いほど、神の御国の栄光を求める心も熱心になるし、同時に、この世の状態がどんなに足りなくどんなにあるべき姿ではないのかを深く感じて、キリストの栄光の完全な現われを熱心に待ち望むようになるはずなのだ。

       何かを望むということは、その事柄について期待の姿勢を持つということである。それについてよく考え、求め、私たちが“期待”と呼ぶある種の緊張やそわそわした気持ちをもってそれが来るのを一心に待ち望むのである。私たちにキリストの到来やこの世における神の栄光の現われに対するそのような期待がないのなら、どうして私たちはそれを望んでいると言えようか。

       したがって、聖書の文脈における「望み」は、世界がよりよくなり、さらに祝福を楽しむことができる、というような曖昧な願いを表現するものではない。「望み」とは、神が本当にその御言葉にしたがって完全に成し給うという揺るぎない確信に根ざした熱心な期待なのである。希望と信仰は余りに深くつながっているので、私たちはパウロと共に、「望みによって救われている」と言い得るのである。

     

    希望と聖餐式

       毎週、聖餐式を行なうときに、その待ち望むところに私たちは戻るものである。この時に、神の救いの御恵みと慈しみを継続的に思い起こさせられる。キリスト教世界観の根本課題とクリスチャンの生活の実践的な事柄のすべてが聖餐式に関わっているのである。聖餐式を受けるときに自分の罪を告白して悔い改めて、私たちを愛し救うために御自分の御子を与えてくださったことに対する神への感謝を新たにしているからである。そうすることによって、私たちは唯一まことなる神、キリストにある私たちへの契約の愛、御言葉における御自身の啓示、そして御自身の教会における御霊の働き、また教会を通して私たちの中に注がれている御霊の働きを認めているのである。私たちは、パウロがコリント人への第一の手紙11章で言っているように、キリストが再び来られる日まで、これを繰り返し行なうのである。

       聖餐式において私たちは、私たちの望みをも告白している。主が来られる日まで、私たちは主の死を告げ知らせるのだとパウロは言う。主の晩餐は、少なくとも私たちが今守っている形式においては、それは一時的なものである。救いがまだ未来にあることを知りつつ、私たちは自らの罪を告白し、神の赦しを求め、キリストにあるその救いの愛のゆえに神に感謝をする。これを行なうとき、いつか聖餐式を行なう必要がなくなることを私たちは望んでいる。

       聖餐式は尊いものであるが、罪を悔い改めて契約を新たにするものである。私たちは、もはや罪を告白したり悔い改めたりして契約を新たにする必要がなくなる日が来るのを待っている。赦しを求める必要のない純粋な心をもって神に感謝をささげる日が来るのを、私たちは楽しみに待っているはずである。聖餐式を守るときに、そのことを待ち望んでいるはずである。

       聖餐式は祝福であって、喜ばしいことであるので、私たちは聖餐式のときにただ罪を悔い改めているだけではない。罪を悔い改めるが、主イエス・キリストの十字架を覚えて感謝をささげて聖餐のパンとぶどう酒を受けている。キリストへの感謝こそ中心なのだ。けれども、今は、罪人が、罪を悔い改めなければならないものとして感謝をささげているのである。そういう意味で、聖餐式において救いを感謝して神の御恵みを喜ぶとき、その中には、完全な救いが与えられてこのからだが贖われるのを熱心に待ち望む部分があると言える。

       信仰と希望を聖餐式において継続的に新たにすることは、私たちの心を新たにするためには不可欠なことだ。私たちは被造世界と同じように、広い神の救いのいつくしみというビジョンをもって、神のすばらしい愛と恵みの光の中を生きるべきである。私たちは永遠に生きるように召されている。主の晩餐は私たちの生活が新たにされ、キリストにあって方向が正されるために、これらの超越した真理に直面する場所に私たちを連れ戻すのである。クリスチャンの望みをもって生きるということは、喜びに満ちて、神が御自身の約束を必ず守ってくださるを確信して、永遠のために生きることなのである。

       聖餐式の時、結局自分は何ものなのか、何のために生きているのか、自分の人生の意味は何なのかを、神の御前で考えることになる。罪を悔い改めて主イエス・キリストに従う心を新たにして、自分の人生の意味は主イエス・キリストのみにあることを確認するのである。自分のすべてを主イエス・キリストにささげることを誓い、御国を第一に求めることを喜ぶその契約の決心を新たにするのである。これらのすべてには、救いの完成の望みを新たにする意味が含まれているものとして考えなければならないと思う。そのことを覚えて、聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年8月27日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章19〜22節

    ローマ人への手紙8章26〜27節

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