ローマ人への手紙9章1〜5節
9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
9:5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
2001.03.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
絶え間ない悲しみ
9章1〜5節
ローマ人への手紙9章から11章までのところで、パウロはイスラエルについて説明している。ある注解書や解説者たちの間には、「この9章から11章までの箇所は、福音の説明としてそれほど必要なものではない。8章の終りからいきなり12章に飛んだほうが自然である。パウロが古い契約の民について話をするためにその神学的議論を中断するのはおかしい。だから、9章から11章は、本来なら8章の終わりから12章の冒頭へと続くはずだった議論に、パウロはある古い説教の概略を後から挿入したのではないか」と解釈している人が少なくない。だから、9章から11章はそれほど重要ではなく、言わば“あとがき”のようなものだと彼らは考えている。この9章〜11章をそのように捉えることは大きな間違いである。この9章から11章の部分はパウロの福音の説明全体において極めて重大なものだからである。パウロは契約的に考えているのであり、この箇所は、神の民イスラエルが契約を正しく理解するためには絶対不可欠なものなのだ。
ローマ人への手紙全体を見渡せば、パウロは1章からずっとイスラエルや旧約聖書のことを話してきている。福音について語るとき、1章の導入のところにもあるように、パウロは、自分が伝えている福音は預言者や律法にある教えと同じものであり、古い契約の教えと一貫したものであり、またその成就であるということを最初から強調している(1章2節など)。1章16節で福音について語り始めるときにも「ユダヤ人をはじめ・・・」と言っている。福音は、ユダヤ人から始まって異邦人にも伝えられることをパウロは最初から説明しているのである。この書簡のどの章も、何かのかたちでイスラエルの民のことをパウロは取り扱っているのを見落としてはならない。
2章でも、ユダヤ人はどうなのかについて長く説明しているし、2章の終りでは、「外見上のからだの割礼を受けても、本当の心の割礼がなければ救いはない。御霊による、心の割礼こそ割礼だ」とユダヤ人に教えて、真の割礼と偽り者の割礼との対比をもって説明している。3章でも、「ユダヤ人の意味は何なのか」を説明している。4章で「義と認められること」について話すときには、アブラハムとダビデを模範にして語っており、アブラハムとダビデの信仰はクリスチャンの基準であると教えている。6章と7章と8章では、パウロはずっと旧約聖書の律法の話をしており、クリスチャンと律法に関する問題を取り上げて、それに答えているのである。
だから、9章から11章までのところでパウロがユダヤ人について話すとき、8章までの話と切り離して別の話をしているのでは決してないのである。むしろ、今まで何回か触れてきたことを、こんどこそ深く説明しなければならないということなのである。ユダヤ人は神の民として祝福されており、契約の約束も彼らに与えられているということを、パウロはずっと説明してきたのである。それでは、ユダヤ人はどうなっているのか、旧約聖書の約束はどうなっているのか、神の民とメサイアとの関係はどうなっているのか。ここでそのところをもっと深く説明する必要があるわけである。特に8章の終りでは、1章からの全体の結論のようなかたちで神の愛を説明し、神の愛から私たちを引き離すものは何一つないことを話したところである。そこでパウロは再び、「それならば、ユダヤ人はどういうことになるのか」という問題に戻るわけである。
神の契約の愛と福音の力の素晴らしさの説明がクライマックスに達したところで、今まで何度も出て来たユダヤ人の問題を、こんどこそ深く説明しようとしているのである。それ故、9章から11章のところでパウロは、「神の民イスラエルとメサイアとの関係はどうなるのか。神の愛から私たちを引き離せるものは何一つないというなら、イスラエルはどうしたのか」という問題を深く取扱っている。簡潔に言うならば、パウロの福音の説明は、「古い契約がキリストにあって成就した」ということを説明するものなのである。その議論の中にあって、イスラエルの民に関する問題は自然に出て来るものである。というのは、イスラエルは歴史的に特別な立場が与えられていたので、パウロの時代の異邦人たちには当時のイスラエルの状態は非常に理解しにくいものであったに違いないからである。
「救いはユダヤ人にも異邦人にも、ただキリストを信じる信仰を通してのみ、それは等しく来る」と宣言した今、パウロはその説明の中で、ユダヤ人がなぜ福音に背を向けたのかを説明しなければならないところに来たのだ。8章の結論であるその素晴らしい約束の光に当てるとき、いかにして神の契約の民が神の愛から明らかに離れてしまったのかを説明しなければならない。神の愛のうちに安息できることが確かで揺るぎないものであるなら、私たちは彼らがどうなったのかを知らなければならないのである。ローマ人への手紙9章〜11章は、私たちへの警告を含む契約的な言葉遣いをもってこの問いに答えている。
偽りを言わない
その箇所の一番最初のところを今日は一緒に学びたい。9章1節からのパウロの言葉に注目してほしい。イスラエルの話は、イスラエルへの最も厳かな愛の告白から始まっている。パウロは、自分自身の個人的な証しの真実性を、極端としか言い様のない言い方で強調している。
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
最後の「願いたいのです」は、「祈りたいのです」と訳すほうが正しい。ギリシャ語では、「願いたい」と「祈りたい」は同じ言葉であるが、ここでは特に祈りのことを指していると思う。パウロはここで最初から非常に強い言い方をしている。「キリストにあって真実を言い、偽りを言いません」とパウロは言う。それだけでもかなりの強調になる。「キリストにあって真実を言う」と宣言するだけでも、それは誓いのような言い方なのだ。パウロは最初から誓って言うようなかんじで語る。「真実を言う。偽りは言わない」という言い方によってパウロは、これから極めて重大なことを説明しようとしていることを伝えている。もしかすると、聞く人たちの中には疑いを持つ人がいるかもしれないので、パウロは、自分が絶対に真実のみを語ることをはっきり言わなければならなかった。
パウロは更に強調を加えて、「次のことは、私の良心も、聖霊によって証ししています」と言うのである。パウロはなぜ自分の個人的感情に関する証言内容を証明するために、聖霊の特別な証しを主張し、更に自らの良心という第二の証しを加えるのだろうか。どう見ても、多くの人が「パウロの感情は愛とは別なものだ」と考え得るような理由があるはずである。それらの理由とは、パウロの公けの行為、或いはそれらの行為に対する解釈に係わるものに違いない。「私は真実を言っている」と言うとき、パウロは、「私は心において欺きはない。私の心は騙されてはいない」ということを付け加えるのである。
つまり、本当のことを言っているつもりであっても、人は心の中で自分を騙したり、心が混乱していたりするものなので、「真実を言うつもりですが・・・」というような話に成りがちなものである。パウロはそのことを完全に打ち消して、「自分は真実を伝える」と明言する。そして、「御霊と自分の良心がいっしょになって証ししている」とパウロは言う。心の中で変なことを考えたり、気持ちだけの話をしているのではない。「このことを私は強く感じているが、客観的にどうなのかは別の話です」というようなことではないのである。これは神の御霊がともに証ししていることなのである。そして、自分の良心も証ししている。「私の言っていることは、確実であり、真実であり、偽りはない。どうか信じてください」という非常に切実で強い言い方を使ってパウロは説明を始める。
何をパウロはそこまで強く証ししているのかというと、「自分はイスラエルのために絶えず痛みをもって悲しんでいる」ということである。しかし、なぜパウロはこれほどに強く誓うような言い方でそのことを証ししなければならなかったのか。それは、パウロが異邦人に宣教するために遣わされている使徒だからである。パウロは生粋のパリサイ人であり、以前はパリサイ人と一緒になって教会を迫害していた。しかし、キリストの召しによって異邦人に福音を伝える使徒となった。そのために、パウロはどの町に行ってもユダヤ人と争うようなことになっていた。
使徒行伝を読めば明らかであるが、パウロはまずユダヤ人の居るところに行って福音を伝えていた。パウロは、主イエス・キリストのみによって人は救われることを彼らに教え、イエス・キリストは神のメサイアであることを彼らに伝えた。どの町にも、聞いて受け入れる者と受け入れない者がいたが、ユダヤ人と一緒に集まっている異邦人のほうが福音に対して反応する傾向があった。彼らは割礼を受けていないので、正式にユダヤ人になってはいないが、ユダヤ人の神を畏れている人たちであった。福音を聞くときに、特にその人たちがキリストを受け入れた。そして、キリストをメサイアとして信じる者とそうではない人たちの区別がユダヤ人の中に出来てしまい、争いになったりした。
それは非常に激しい感情問題を引き起こすものであったので、パウロは町を追い出されては次の町に行って福音を伝えることを続けなければならなかった。どこに行っても同じことの繰り返しであった。使徒行伝のパウロの働きは最後までそのようなものであった。福音によってユダヤ人の間に分裂が起こり、パウロは次の町へ行くという繰り返しであった。それだから、「パウロはユダヤ人を憎んでいるのだ」と思う人がいても不思議ではなかった。複数のグループが、パウロの言葉を間違って解釈したり、彼を誤解したりした。
テサロニケから追い出された後、パウロはテサロニケの人々に手紙を書いて、神の大いなる御怒りがユダヤ人の上に下っていると言っている。また、主イエス・キリストの最後の説教において、キリストは、ユダヤ人がさばかれることと神殿がさばかれることについて教えている。パウロもそのことについて教えていた。特にパウロは異邦人に福音を伝える使徒であったので、ユダヤ人から見れば、パウロは自分の民を裏切り、自分の民を捨て、どこに行ってもユダヤ人の集まりに混乱を持ち込んでだめにしているように見えた。「パウロはユダヤ人に反対して異邦人のために働いている」と、ユダヤ人は見ていた。
使徒行伝23章12節以降を見ると、ユダヤ人は大勢が徒党を組んで、「パウロを殺してしまうまでは飲み食いしない」と誓い合ったことが記されている。なぜそれほどまでに強くパウロに反対するのかというと、パウロに反対する者たちは、「パウロは神殿に対し、またモーセの律法に対して反対している。パウロはユダヤ教を駄目にしようとしている。あらゆる所で、イスラエルと律法と神殿に反対するように人々をそそのかしている」と思っていたからである(使徒行伝21章28節、24章6節、18章13節、25章8節を参照)。ユダヤ人の観点からすれば、パウロはユダヤ教を裏切り、ユダヤ教を駄目にする者と思われていた。教会の中にいるユダヤ人の中にも律法主義的な考え方を持つユダヤ主義者たちがいて、「パウロの福音は、神の律法から逸脱した福音だ」と主張していた。
その人たちは、キリストを信じる信仰を告白するが、同時にモーセの律法を守るように異邦人の信徒たちに要求していた(使徒行伝15章など)。彼らは、パウロの教えを曲げ、ガラテヤやピリピやコロサイの教会などで問題を起こしたりしていた。「パウロが伝える福音はイスラエルと旧約聖書に反するものだ。反ユダヤ的な考え方を持っている。ユダヤ人に反対し、ユダヤ人を憎んでいるのだ」と彼らは主張した。それ故、ユダヤ人の観点から見ても、クリスチャンの中の律法主義的な考え方をする人たちの観点から見ても、また、未熟なクリスチャンたちから見ても、かなり誤解する可能性があった。
事実そのような誤解は教会の中にもあった。少なくともパウロに反対するユダヤ人たちはそのように主張していた。クリスチャンになったけれども律法主義者の影響を受けた多くの信者たちもパウロの教えを誤解していたようである。パウロの行動を表面的に見るなら、また結果として起こっている争いを見れば、確かにそのように見えたことだろう。しかし、事実は決してそうではない。パウロはユダヤ人に反対しているとか、ユダヤ教を駄目にしたいという思いは微塵もなかったのだ。そのことを、パウロは冒頭で誓って言うのである。
そのような状況の中にあって、パウロはイスラエルの同胞に対する自分の真実の愛を伝えることは実に重要なことであった。もちろん、問題はパウロの個人的な感情のことではなかった。異邦人に遣わされた使徒として、パウロはキリストを代表しており、もし彼が律法と神殿に反対し、ユダヤ人を憎む者であるなら、それが真のクリスチャンの立場なのだと思われてしまうことになる。そうなれば、ただパウロ個人を誤解するということにとどまらず、神の愛と神の御恵みに関する聖書の教えを根本的に歪曲することにもなったであろう。
主イエス・キリストが弟子たちに言ったことを、このパウロの言葉を通してはっきり見ることができる。「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」とキリストは言っている(マタイの福音書10章34節)。また、「地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です」(ルカの福音書12章51節)とある。そして、戦いは自分の身近な者たちとの間にあるということも、キリストは話しておられた。一緒に礼拝している者や同じ家族が、キリストをメサイアと信じるか信じないかで分裂してしまう。そして、強く反対し合うようなことになったのである。
ローマ帝国のユダヤ人の中にあってその問題を一番引き起こしていたのはパウロであった。パウロが福音を宣べ伝える所はどこでも争いが起こり、分裂が起こった。昔のローマ帝国の時代のクリスチャンたちに反対した者たちは、クリスチャンについて三つのことを基本的に言っていた。第一に、「クリスチャンは無神論者である」と言う。なぜそう言うかというと、クリスチャンには偶像がないからである。どこにも偶像はないし、偶像の前にお辞儀をすることもしない。「だから、無神論者なのだ」と非難された。
第二は、「すべての人間を憎んでいる」という非難であった。どうして「クリスチャンはすべての人間を憎んでいる」と言うのかというと、祭りに行かないからである。祭りに参加しないのである。周りの人が皆一緒に祭りをしているのに、クリスチャンは参加しない。だから、「皆を憎んでいるからだ」と言うわけである。「協調性がない。社会性がない。この人たちは皆に逆らい、皆を憎んでいるのだ」と非難される。
第三は、「クリスチャンは、人を食べている」と言われていた。これは、聖餐式に対する誤解から来る非難だが、「クリスチャンは、密かに人の肉を食べ、血を飲んでいる」と思われていた。それにしても、ローマ帝国の時代には、周りの人々の方こそまだ人間を生贄としてささげるような礼拝を実際に行なっていたのである。それはともかくとして、「無神論者で、すべての人間を憎んでおり、秘密の礼拝をして人間を食べている。それがクリスチャンだ」という昔のクリスチャンに対する非難の記録を見るとき、私たちは苦笑するしかない。しかし、周りの人が真剣に自分についてそのように非難し、その噂がどんどん広まって人々の信じるところとなっていくとしたら、それは本当に大変なことだと思うのである。
それだから、クリスチャンがどれほど憎まれたかは想像に難しくない。パウロについても、パウロに対する最もひどい攻撃は偽りであった。偽りの証言をして皆を扇動することは容易に出来た。「あいつはユダヤ人を憎んでいる。皆を憎んでいる。問題ばかりを起こしている。神殿を破壊しようとしているし、モーセの律法に反対している。私たちの礼拝も何もかも駄目にしようとしている。あれはサタン的な人物だ」と、パウロに反対する人たちは激しく訴えていた。
それ故、パウロはローマの教会に話すとき、「絶対に誤解があってはなりません。神の御前で、真実のみを語ることを誓います。私は自分を欺いてはいない。御霊も私と一緒に証ししてくださっている」と、そこまで強くユダヤ人に対する愛を訴えなければならなかったのである。そうでなければ、信じてくれないような状況があったに違いない。
2節で、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と言っている。パウロには、肉による兄弟たちのための「大きな悲しみ」と「絶えない痛み」があった。キリストを拒絶するイスラエルは、この使徒の深い心の痛みの源であった。パウロは主イエス・キリストと同じように、悲しみもあるが、同時に喜びにも満ちていた人であった。痛みがあるが、感謝もある。本当に主イエス・キリストのような心を持っている人であったことを、ここで見ることができる。
主イエス・キリストは弟子たちに「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と言われた(ヨハネの福音書15章11節)。同時に、主イエス・キリストは、イザヤ書53章3節にもあるように「悲しみの人」と呼ばれていた。キリストは涙を流してイスラエルのために祈られたことが、マタイの福音書の終りに記されている。主イエス・キリストはイスラエルのことを深く悲しんでおられたが、パウロも同じように自分の同胞であるイスラエルのために苦しんでいた。同胞に対する深い愛がそこにある。同時にパウロは、本当に喜びと感謝を持っている人であった。
その二つは矛盾しないということを私たちは知らなければならない。パウロの悲しみと心の痛みは、自分の都合のよいように事が運ばないからではない。楽しくないこともあったのは事実であろう。飢えたり、迫害されたり、憎まれていたのだから。自分が始めた教会がどうなるのかを心配したり、その信仰の成長のために深い痛みを覚えつつ祈っていた。まさに産みの苦しみを、パウロは教会に対して味わっていた。子を産むような苦しみを心に抱いて、パウロは教会のために祈り、そして働いた。
同時に、この人は明るくて喜びに満ちている人間であったことが、パウロの他の手紙を呼んでもよくわかると思う。ピリピで迫害されて牢屋に投げ込まれても、そこで感謝して神を賛美していたのである。大きな深い悲しみが絶えず心にあったパウロは、実に主イエス・キリストに似た者になっていたことがよくわかると思う。もし最愛の同胞が神から離れ、神に逆らい、罪の中に迷っていているのを見たなら、誰が痛みを覚えないだろうか。そして、パウロがイスラエルの拒絶のゆえに苦しんだのなら、キリスト御自身はイスラエルの拒絶を当然嘆き悲しんでおられたのである。
そのパウロやキリストを見るときに、「今の私たちの心はどうだろうか」と思わずにはおれない。周りの人たちが救われていないことについて、私たちはそれほど深い悲しみを覚えていないのではないか。それほど苦しんではいないのではないか。同時に、御言葉に対する喜びも感謝も実に浅いのではないか。私たちの場合、悲しくなる時とか苦しくなる時というのは、生活の問題があるからではないのか。「大きな苦しみがある」と言うとき、それはたいがい失業したとか、結婚できないとか、愛する者が死んだとか、経済的に大変な状態にあるとか、病気とか、癌になったとかの問題があるという話になってしまうのではないか。
それらも確かに苦しいことであって大変なのは事実である。しかし、周りの人たちが救われていない状態に対して、私たちの心はどうであろうか。かなり鈍いのではないか。「どうして日本は主イエス・キリストを信じないのか。どうしてこんなに長いこと福音が伝えられていても救われないのか。どうしてこの国は聞く耳を持たないのか」と思って悲しまないのだろうか。心は痛まないのか。日本の人は礼を重んじるので、福音を伝えても怒ることはしない。ただ丁寧に「ああ、そうですか。そういうふうに考えるんですか。おもしろいですね」と言うけれども、それでだいたい話は終わりになる。不親切なことも言わないが、興味も持たない。自分のことについて反省することも特にしない。真剣になって神のことを考えることがないのである。
実際に大学生や若い人たちに、「あなたは何ものですか。本当にあなたの先祖はサルだったんですか。あなたは、偶然に生まれて、偶然に死ぬ。それだけのものですか。あなたの人生には何も意味はないのですか」と話しても、「へえ。そんなふうに考えたことはありません。へえ。それって、面白いですね。あの、では、失礼します」と言って去ってしまうのである。もう少し年取った人の場合は、笑ってごまかして別の話をしたりする。真剣に聞こうとはしないのである。
ヨーロッパ人やアメリカ人に話すと、相手は怒って反撃して来る。つまり、言っているポイントがよくわかっているからである。日本ではポイントすら通じないことが殆どである。何もわからないし、わかろうともしないのが普通なのだ。経済的に大きな試練が来ない限り、深い事は何も考えてはくれないのかも知れない。同胞のこのような状態を見て、私たちは悲しんでいるだろうか。福音がこの国で広まらないことについて、心の中に痛みを感じているだろうか。それとも、その状態に慣れてしまったのか。「それは仕方ないことだ」と思っているのだろうか。しかし、それが日本の哲学なのだろう。「仕方がないですね」で、何もかもすべて納得してしまう。
しかし、私たちも同じ哲学の持ち主なのだろうか。神が祝福してくださらなければ何も変わらないのは事実であるが、私たちの祈りはどうなのかは問われなければならない。本当に、真剣に、日本の救いを求める心を持っているのか。この箇所を読むときに、そのことを深く感じないではいられないのである。私たちは、パウロのようには喜んでいないし、パウロのようには悲しんでもいない。その「大きな悲しみ」が、私たちの中には無いのではないか。「絶えない痛み」はないのではないか。
ほとんど私たちはそれを考えもしないで生きている。それが私たちの現実なのだ。実に鈍い心を持っている。「御国を第一に求める」ということを、言葉としては覚えていても、本当に心において、これほどに、悲しみと痛みを覚えるほどに同胞の救いを求める人はどれほどいるだろうか。そういう心を持つ人がどんなに少ないか。これは私たちの間でもそうであるし、教会の歴史においてもそうだと言わなければならないのではないか。
キリストから引き離される
だから、本当にパウロのようなリーダーを教会のために求めずにはおれない。カルヴァンはそのような御国を本当に第一に求めるような心を持っていた、実に珍しい、実に素晴らしい教会のリーダーであった。そのような者が教会に与えられるよう願い求めずにおれない。そのような模範が欲しい。叫びたくなるほどに、そのことを深く感じさせられるのである。しかし、私たち一人ひとりが本当に御国を第一に求めるならば、たといその求めるところがカルヴァンほど大きくないとしても、御国を真剣に求め、御国のために生き、キリストのために生きる心を持つならば、神の祝福を見るであろう。
このことを思うとき、その心が私たちにどんなに欠けているか、どんなに私たちは未熟なのかを感じないではいられない。パウロが「私は悲しんでいる。心に痛みがある」と言うとき、その悲しみと痛みはパウロの最も祈りたいところにおいて表われている。それもまた実に驚くことである。このような箇所を読むとき、恐怖を覚えるほどである。パウロは、「許されるなら、ここまで祈りたい」と3節で言っているが、その心を瞑想するとき、恐れを覚えて震えるほどである。3節で、パウロはイスラエルに対する自分の関心の深さと真摯さとを最大限に表わしている。
もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
これは、永遠の呪いの話である。キリストから引き離されて、永遠の地獄に行く話なのである。「もし、許されることならば、私はそこまで祈りたい」とパウロは言うのである。恐るべき言葉である。パウロは、祈りたいが祈れない祈りを述べているのである。先にも言ったように、殆どの翻訳は「願いたい」となっているが、このギリシャ語は「祈りたい」と訳すほうがよい。新約聖書においてこのギリシャ語が登場する七回のうち(使徒行伝26章29節、同27章29節、ローマ書9章3節、コリント人への第二の手紙13章7節と9節、ヤコブの手紙5章16節、ヨハネの第三の手紙2節)、はっきりと「願う」という訳が好ましいのは使徒行伝26章29節のたった一箇所だけであるが、そこでもある人たちは「祈る」と訳している。
この言い方は、モーセの祈りを指すものであるが、これを「願う」と訳すと、パウロがここで、イスラエルの民のためにモーセがシナイ山でささげた次の有名な祈りを示唆しているという事実がぼかされてしまう恐れがあるので、ここはやはり「祈りたい」と訳すべきであると思う。モーセの話に入るのに、まず、パウロは実にキリストと同じような心を持っていたということを覚える必要がある。主イエス・キリストは人間であると同時に神であられるので、十字架上で死んでくださった時、その短い時間の中で私たちの罪のすべての問題を解決してくださることができた。そして、永遠に呪われることにはならなかった。
しかし、その間、キリストは神に捨てられ、無限の裁きが主イエスの上に下されたのである。そして、無限な裁きを私たちの代わりに受けてくださった主イエス・キリストは、神から引き離されて、実際に永遠の罰を受けてくださって呪われた者となってくださったのである。主イエス・キリストが呪われた者となってくださった故に、「呪ってください」と祈ることは私たちには許されないことである。私たちは、その点においてはキリストと同じになることは許されないし、不可能なことである。しかし、パウロは、主イエス・キリストのように、「私は、ユダヤ人の身代わりとなって死んでもよい。そのためになら神から引き離されて呪われた者となってもよい。もし、許されるならば・・・私はそう祈りたいのです」と言っているのである。パウロはそれほどまでにユダヤ人の同胞のことを思っているのである。
さて、この祈りはモーセにおいても見られることである。パウロはモーセの祈りをも覚えて言っているのだと思われる。出エジプト記32章を見てほしい。モーセが山で神から律法を受けているときに、アロンとイスラエルは自分たちのために偶像を造った。アロンはイスラエルに、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言って、その前に祭壇を築き、翌朝早く起きて全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを備えた。「全焼のいけにえ」はすべて燃やして神にささげるが、「和解のいけにえ」は自分たちも食べるので、大きな宴のようなものが礼拝の最後のところで行われたということであった。
「そして、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れた」と書いてある。「戯れた」という言葉には淫らな意味が含まれている。即ち、民は偶像礼拝をし、酔っぱらって大騒ぎをしていたのである。まさにそれは異教の礼拝であった。そして、7節で、神は怒って次のようにモーセに仰せられた。
「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」
主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」
ここで神は、イスラエルの罪があまりにも忌むべきものであるのを見て怒り、イスラエルを滅ぼして、もう一度モーセから新しく始めようと仰せられた。つまり、ノアの洪水の時に全世界を滅ぼしてノアから新しいスタートをされたようなことをモーセに対して行なうということである。このイスラエルは昔のノアの時代の人々と同じように汚れた者たちなので、神は、全部を滅ぼしてモーセから新しいスタートをしようと言われたのである。その時に、モーセは執成しの祈りを神にささげている。11〜13節がその執成しの祈りで、14節からはその祈りに対する神の答えである。
今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」
また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」
すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。
これに対してモーセは、神に契約の約束のことについて訴えて、「どうか、憐れみをもって民の罪を赦してください。イスラエルのためでなく、御自分の御名の栄光のために、赦してください」というような祈りをささげたのである。神はモーセの執成しの祈りを聞いてくださって、民の罪を赦してくださった。それで、モーセは山を下り、イスラエルが行なっていることを自分の目で確認し、十戒の石の板を山のふもとに投げ捨てて壊した。民が造った金の偶像の子牛もを焼いて粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた(20節)。翌日になってモーセは民に、「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう」と言って、もう一度山を登り、民の罪を贖うために主のところに戻った。そして神にこう申し上げたのである。
ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。
ここでモーセは、「私はイスラエルの身代わりになって死んでもよい。彼らが赦されるためには、自分は呪われてもよい」と言っているのだ。「自分がいけにえになる」と言っているのである。モーセは、イスラエルの代わりに自分を神にささげ、もし民の罪が赦されないならば、身代わりに自分をその罪の贖いとして受け入れ、自分を罰してくださるようにと、神に求めている。ここでモーセは主イエス・キリストの心を表わしているのを見ることができる。そして、神は次のようにモーセに答えられた(出エジプト記32章32節)。
わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。
モーセに対する神の答えは、「誰を書物から消すかは、私が決めることである。あなたはそれについて祈る権利はない。これはあなたの祈りを越えることである」というものであった。しかし、モーセがそのような心を持ったこと自体が駄目だと言っているのではない。ポイントは、そのような祈りは客観的に言って許されないものだということである。仲保者として自分を犠牲としてささげることはモーセには許されなかった。「メサイアであるキリストのみが身代わりとして罪の罰を受けることができる。あなたにはその資格は与えられていない」と神は言っているのである。
パウロもそれと同じである。パウロの時代は既にモーセのことがあった後なので、このような祈りが許されないものだということをパウロはよく知っていた。だから、「許されるならば、私はモーセのように祈りたい」という意味で言っているのである。「モーセと同じような心をもってユダヤ人のために祈りたい」と言っているのである。パウロもモーセも、主イエス・キリストのような心をもって神に祈り、民のために自分が代わりに呪われてもよいと言う。パウロの場合も、モーセの場合も、言っていることは永遠の地獄の呪いの話なのである。それは実に恐ろしい話である。モーセとパウロはキリストの心を分かち合ったのである。
そこまで、パウロはイスラエルを愛し、イスラエルのことを思っているのだ。自分が犠牲になってもよいと思って誓いの言葉で彼らに対する愛を訴えているのである。これは普通の愛ではない。パウロは、背信のイスラエルの身代わりになって死ぬことさえ厭わないのだ。モーセとパウロの心は、キリストの罪人に対する自己犠牲の愛にまで至ったのである。しかし、これは内容としてはあまりにも極端な話であって、永遠の死と永遠の滅びという裁きを意味している。これもまた、そのような祈りが実際には許されないことの理由である。
そこまで自分を犠牲にしてイスラエルの救いを求めたいと誓って言うということは、実に深い意味のある訴えであり、これは主イエス・キリストの心である。主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって死んでくださった愛の心である。同胞が救われるためなら、自分は呪われてもよい。そのために主イエス・キリストは人となって世に来てくださり、十字架の上で私たちの罪のために死んでくださった。神の永遠の怒りと罰を受けてくださったのである。成長したクリスチャンとはどのような者かというと、ローマ人への手紙8章にあったように、「キリストに似た者」なのである。
「なぜ日本は救われないのか」ということについて語るとき、幾つかのことが言えよう。偶像礼拝や伝統との妥協という問題もあるし、次世代教育の問題もある。そして、パウロのような心を持つクリスチャンがあまりに少ないということも言える。私たちの祈りの足りなさ、私たちの心の足りなさのために、福音は日本やアジアで広められないでいる。この9章の箇所を読むときに、私たちはそのことも認めなくてはならないと思う。本当に、私たちの祈る心、そして神の御恵みを求める心が深められなければならない。その責任のところを考えなければならないのではないか。私たちは他者の身代わりに地獄に落ちましょうと申し出ることができない。ただキリストのみに、他者の身代わりとなって死ぬ資格があったのだ。そして、神のみが、誰が救われるのかをお決めになることができるのだ。しかし、自分が呪われることさえ厭わないほどに自分の同胞を愛するその愛を持つことは禁じられていない。
本当に御国を求める心を持つ人間とはどのようなものなのかを、パウロのことを通してはっきり見ることができたと思う。ここに、成長したクリスチャンとはどのようなものかが表わされている。そして、それは十字架にかかってくださった主イエス・キリストと同じ心を持ち、失われている者への愛を分かち合うことなのだということも知っていただけたと思う。このような愛をこの地の人々のために持つ者が私たちの間にもっと多くいたなら、おそらく日本は今ごろ違った国になっていたであろう。もしかすると、この地を福音がまだ勝ち取っていない理由の一つは、このような愛を持って祈る者が私たちのうちに少なすぎるからなのかも知れない。どうか主が、肉による同国人を愛するクリスチャンの指導者をもってアジアを祝福してくださるように祈りたい。
しかし、いかにして私たちはパウロのように成長することができるのか。それは、キリストについて更によく学ぶことによるほかない。主イエス・キリストは私たちのことを思い、私たちを愛してくださった。ご自分を犠牲としてささげることによって神の愛を深く表わしてくださり、私たちを励まし、力を与えてくださる。キリストは、私たちがどんなに弱い者なのかをよく御存知であったし、私たちのことを完全に知り尽くしておられる。それにもかかわらず、私たちを愛し、私たちの身代わりとなって十字架の上で死んでくださり、そしてよみがえってくださった。その主イエス・キリストの愛を覚えて、主イエス・キリスト御自身を求めること、それも私たちの成長の道である。
自分の足りなさばかりを考えていたのでは成長はしない。自分の足りなさを考えるだけなら、もっともっとがっかりするだけで、どこか穴に入ってそこに座って「早く死にたい」というような気持ちになるほかないのではないか。私たちは主イエス・キリストに目を留めるのでなければならない。主イエス・キリストの愛と御恵みに目を留めるのである。私たちは自らの生活の焦点を主なるキリストに当て、主イエス・キリストを心から喜び、感謝をささげるように教えられている。神の愛への感謝において成長するにつれ、私たちはその愛を持つようになり、それを他社と分かち合う能力においても成長していくのである。そのように生きることによって、私たちは少しずつキリストに似た者になっていくのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。
――2001年3月11日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com