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    ローマ人への手紙9章4〜8節


    9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。

    9:5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。

    9:6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、

    9:7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。

    9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

    2001.04.01. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    ユダヤ人はどうなったのか

    9章4〜8節

     

       パウロの時代の教会では、毎日の生活の問題は神学の問題にもなった。どういうことかというと、パウロは新しい町に言って福音を伝えに行くとき、まずユダヤ人が集まっているところに行き、主イエス・キリストこそ預言者たちが預言したメシアであることを彼らに話した。それを聞いた当時のユダヤ人は、主イエス・キリストを信じるユダヤ人と、主イエス・キリストを信じないユダヤ人に分裂してしまうのが常であった。しかし、キリストを信じないユダヤ人たちは、ただ信じないだけでなく、激しくパウロの福音に反対した。パウロを追い出したり殺そうとしたりした。最終的にパウロは彼らから離れて異邦人のところに行って福音を伝えた。あるグループはパウロと一緒にそのユダヤ人の集まりから出て、異邦人の交わりに加わった。それで、異邦人の集まりは増えていった。

       しかし、異邦人たちが聖書を読むとき、ユダヤ人がアブラハムの時から神に選ばれた特別な民であり、神の祝福が特別に彼らに与えられていることを知らされる。そのユダヤ人が、今はメシアである主イエス・キリストを殺し、主イエス・キリストの救いの福音を伝えている使徒パウロたちをも殺そうとする。異邦人とユダヤ人が一緒に礼拝をしていたので、いろいろな問題が起こった。即ち、聖書のいろいろな教えについてどう解釈するか、食べ物のことや安息日のことなどについての議論がどんどん起こり、また教会内の人間関係も問題になっていた。そのような状態を目の当たりにした異邦人のクリスチャンたちは、「神の契約の約束はどうなったのか。なぜユダヤ人はこのように神から離れているのか」と思うようになるのも当然のことであった。

       パウロは8章のところで彼らに、「私たちを神の愛から引き離すものは被造物の中には存在しない」ということを非常に深く、そしてはっきりと教えた。クリスチャンになった異邦人の間では、「私たちを神の愛から引き離すものが何もないのであれば、ユダヤ人はどうしたのか。彼らは神の愛から引き離されたのではないのか。なぜそうなったのか。ユダヤ人が神の愛から離れ得るのであれば、なぜ異邦人の私たちが神の愛から離れることがないと言えるのか」という問いが自然に発せられるので、パウロは9章から11章までのところでユダヤ人と神の契約の話がなぜこのようになっているのかを深く説明する必要があった。この質問に答えなければ、異邦人に対して十分に福音を伝えたり神の御計画について語ることはできない。「神のみ恵みの救いの知らせ〔福音)が来た」ことを知らせるためには、神がイスラエルをどのように導いているかを知らせなければならないのである。

       その説明を始めるところで、パウロは9章の一番最初のところでまず、同胞であるユダヤ人たちが救われるためには自分の永遠のいのちさえも捨ててよいという心を持っていることを強く訴えている。ユダヤ人たちはユダヤ人たちで、「パウロはユダヤ人に反対し、ユダヤ人を憎んでいる」と思っていたからである。パウロを捕らえようとするときも、ユダヤ人たちは「この男はモーセの律法と神の神殿に反対している」と言っている。「そうではない」ということをパウロは理解してほしいのである。本当は、心から彼らを愛しており、彼らの救いを心底から求めているということを理解してほしいのである。9章3節には「私の同胞」また「肉による同国人」という言い方が使われている。つまり、人間的に言えば、彼らは親戚だと言っているのである。しかし、そのためだけではない。4節で言っているように、パウロはユダヤ人に与えられている神の契約のことをも考えて、彼らのためにいのちをかけて祈りたいと言っているのだ。

     

    イスラエル人

       イスラエルへの深い思いを表現するときにパウロは、イスラエルが肉において自分の兄弟であることを指摘する(9章3節)。それはパウロがイスラエルに心を留める理由の一つである。しかしそれはその唯一の理由でもなく、最大の理由でもない。彼がイスラエルのためにここまで関心を払う理由は、「イスラエルは何者なのか」を見るときに理解できる。このことについてパウロは4節から5節までの箇所でいくつかの言葉を並べて説明している。

       「彼らはイスラエル人です」と言うとき、パウロは「イスラエル人」の意味は何なのかを明らかにしている。父祖ヤコブが信仰において成長し、神に忠実に従い、守られ、祝福された。そして神はヤコブに顕われて、ヤコブを強めるために彼と格闘した(創世記32章24節以下)。ヤコブが強められて、絶対に神から離れないその信仰を表わしたとき、神はヤコブに新しい名前を与えた。その名が「イスラエル」であった(同28節)。その名の意味は、「神と戦い、人と戦って、勝った」という意味である。つまり、「試練が与えられ、神によって懲らしめられても、決して神から離れない」という意味なのである。握って放さず、神から絶対に離れない。そのヤコブの信仰を祝福して名を「イスラエル」と改めさせたのである。それ故「イスラエル人」とは「イスラエルの子ら」という意味である。「イスラエル」と呼ばれた信仰の人の子孫が「イスラエル人」なのである。その名前だけでも神の大きな祝福を表わしている。

       次に「子とされることも」とパウロは言っているが、これは新約聖書の中でよく使われる「養子とされる」という言葉である。子とされる特権もイスラエルに与えられており、イスラエルは国として神の子どもであった。一人一人が神の子どもであるというような言い方はあまり旧約聖書の中には見当たらない。しかし、「イスラエル全体が神の子どもとされた」ということはモーセの時代に明らかにされた。主はモーセにパロの所に行って次のように言うように命じている。

    イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。

       このことは出エジプト記4章22〜23節に記されている。イスラエルは神の初子であり、神の長子であり、神の子どもである。それは「神の養子とされた」という意味であった。彼らは「子とされた」国民であり、神の初子であり、また主の子どもと呼ばれる(申命記14章1節)。彼等は国々の中から選び取られ、特別な地位を与えられるために神の養子とされた民である。

       ローマ人への手紙9章4節に戻るが、次にパウロは「栄光も」と言う。この「栄光も」とは何を指しているのかというと、これは第一にシナイ山に下った神の栄光の雲を指すものである。神の栄光の雲がシナイ山に下り、モーセに十戒が与えられた。その時モーセはシナイ山の上にいて、イスラエルの民はシナイ山の下にいた。シナイ山で神の契約が与えられた後にイスラエルは天幕を作った。そして、その天幕の上にも神の栄光の雲は下り、モーセの十戒がある場所に栄光の雲は下ってきた。天幕は山が横になっているような設計になっており、それはシナイ山そしてエデンの園を表わすものであった。

       神の栄光が下ってイスラエルと共にあることを、その栄光の雲は表わしていた。そして、出エジプトのとき、神の栄光の雲はイスラエルを守り導いた(出エジプト記16章10節、24章16節、40章34節と35節)。更に、ソロモン王が新しい神殿を建てたときにも栄光の雲がその上に下った(第一列王記8章10〜11節)。そして、紀元前587年にネブカデネザルがユダを攻撃してエルサレムの町を破壊するとき、エゼキエルは幻を見たが(エゼキエル書8章〜11章)、神の栄光の雲はエルサレムの神殿から離れて行ってカルデヤの捕囚の民のところへ行ったのである。その意味は「神は、捕囚としてバビロンに捕らわれたイスラエルの人たちと共におられる」ということであった。「神が共にいてくださる」というのが契約の約束であり、契約の本質的なところである。神の栄光の雲がイスラエルと共にあるということは、神ご自身が一緒にいてくださることを表わしていた。他のどの国にもそのように神の栄光の雲は現われていないので、栄光はイスラエルのものであった。それは特別な祝福であった。そのことをパウロはここで思い出させている。

       また神はイスラエルに「契約」をお与えになった。この「契約も」という言葉は複数形が使われている。それは、アブラハムの契約、モーセの契約、ダビデの契約、そして捕囚から帰還したエズラたちに与えられた新しい契約を指しているからである。「契約はイスラエルに与えられている」とパウロは言う。イスラエルは神の契約の民であった。しかし、それだからと言って、イスラエルだけが救われたとのではないということを強調しておきたい。大切なのは「契約の民=祭司の民」ということなのだ。例えば創世記の最後のところで、ヨセフがエジプトに行って福音を伝えたことによってエジプトの人たちが神を信じる者になっていたことを見ることができる。アビメレクがアブラハムと契約を結んだところで、アビメレクたちは神を信じる者になったと見るべきであると思う。

       出エジプト記の最初のところで、「さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった」(出エジプト記1章8節)とあるが、その言い方によって、その時代のパロや指導者たちは神から離れてしまったことがわかる。パロやエジプトの人たちがイスラエルの神を信じたとき、割礼を受けてアブラハムの契約に入ったわけではなかったので、契約はエジプトのものではない。まことの神を知ってまことの神を信じたなら、祝福されて永遠のいのちを受けるけれども、「契約の民」にはなっていないので、エジプトの信者たちは「祭司の民」にはなっていない。彼らは、祭司の民に祝福を求めなければならなかった。

       ダビデの時代には、ツロとシドンは明らかに神を信じる者であり、神の神殿を建てるために金や材木などできる限りの献納を行なった。彼らが信者でないなら、神殿の働きに加わることはできなかったのだ。その人たちは確かに信者になっているけれども、割礼を受けておらず、契約の民にはなっていなかった。祭司の民にはなっていなかったのである。祭司としての契約の祝福はアブラハムの子孫だけに与えられるものである。「アブラハムの子孫のみに与えられる」という言い方をしたけれども、当時は割礼を受ければ誰でもアブラハムの子孫になることができたのも事実である。イスラエルがエジプトで奴隷にされたとき、アブラハムから生まれた子孫だけでなく、一緒にエジプトに行ったヤコブの奴隷たちもヤコブの実際の子らと一緒にエジプトの奴隷となっていた。

       創世記17章を見ればわかるが、アブラハムは、自分の子どもたちだけでなく、しもべたちにも割礼を施して彼らを契約の民に入れていたので、出エジプトのモーセの時代になると、アブラハムの実際の子孫たちとアブラハムとイサクとヤコブの奴隷たちの子孫たちは皆一緒に一つの民「イスラエル」になっていた。それで、エジプトを出るときの「イスラエル人」は、皆がアブラハムの直系の子孫ではなくなっていた。契約に入った者はみな「イスラエル人」となっていた。名前を見ても「黒人」という意味の名もあったし、人種的にも複雑なものになっていたし、家族の背景も複雑になっていた。アブラハムが買った奴隷たち、またイサク、ヤコブがいろいろな所から買い取って奴隷にした人たちが含まれていた。アブラハムもイサクもヤコブも、奴隷たちに御言葉をよく教え、奴隷たちはみな神を信じて割礼を受け、民に加えられていたのである。

       エジプトを出る時に、奴隷たちは皆、自由な者になっていて、一つの民「イスラエル」となっていた。カレブはカナン人であったが、割礼を受けてイスラエル人となり、カナンに入ってカナン人と戦った。ラハブもカナン人の遊女であったのに、神を信じて民に加えられてイスラエル人となった。だから、「アブラハムの子孫」と言っても、外の者が入ることができないものではなかったのだ。そして、「祭司の民に入る」ということは契約の話である。しかし、契約はアブラハムとその子孫に与えられ、信じて割礼を受けた者は皆、養子としてアブラハム契約に入ったのである。そして「契約はイスラエルに与えられた」ということは、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約、そしてバビロン捕囚から帰還した時にエズラたちに与えられた新しい契約のことである。

       「律法を与えられることも」というのは、モーセの律法がイスラエルに与えられたことを指している。神は律法の中で御自分の義と正しい「礼拝」を定義してくださった。「礼拝も」という言葉は翻訳として意味は正しいが、このギリシャ語は文字通りには「仕える」という言葉である。この単語が礼拝の正しい定義を表わしている。「仕えること」=「礼拝」ということは聖書の中でよく出て来る。神に仕えることの中で、礼拝は最も中心的なことである。そして、「礼拝がイスラエルに与えられた」とうことは、直接的には旧約聖書の犠牲制度の話である。礼拝の儀式が与えられたことによってイスラエルは祭司の民として犠牲をささげて、すべての人が救われるよう神に祈り求める働きをするものとして選ばれたのである。「イスラエルが正しく礼拝を守り行なうことによって全世界が祝福を受けることになる」ということがイスラエルの礼拝のやり方の意味あった。

       例えば、仮庵の祭りのときに70頭の牛をささげていたが、70頭の牛をささげるということには、創世記11章に出て来る70の国のための礼拝という意味があった。そのようにイスラエルは神に生贄をささげて、すべての国が神の御恵みを受けられるように特別に祈る責任がイスラエルに与えられていたのだ。その生贄をささげることには、「神がそれらの国々を裁かないように特別な御恵みを表わしてくださるように祈る」という意味が含まれていた。ソドムとゴモラのようなとんでもない酷い町の中に、もし十人の正しい人がいたなら裁かないようにとアブラハムが執り成しの祈りをささげたが、神は「滅ぼすまい。その十人のために」と仰せられたのである(創世記18章32節)。国全体が酷い状態になっても、神を愛し神に仕える者がいて、神に仕えるその働きが神に許されているならば、神はその国を裁くことをなさらずに、御恵みをもってご自分の民の働きが続けて祝福されるように導いてくださる。

       そのことをソドムとゴモラのことから見ることができる。イスラエルが正しく神に仕え、神を正しく礼拝するならば、周りの国々がイスラエルによって祝福されるようになるのである。次にパウロは「約束も彼らのものです」と言っているが、「約束」とは、旧い契約の救いの約束を指すと同時に、これは特にメシアに関する約束を指しており、神の新しい契約の約束のことである。「約束はイスラエルのものである」ということは、それがイスラエルに与えてられて、イスラエルが全世界に対してその約束の証しをしなければならないということであった。

       旧約聖書の中には「証しをしなさい」という言葉がよく出て来る。詩篇の中でダビデは、「私は国々の前であなたをほめたたえます」というような言い方が何回か出て来る。また、異端者であるエホバの証人はその名をイザヤ書から取っている。即ち、「あなたがたはわたしの証人である」と神が言われた箇所を引用して「エホバの証人」と名づけた。それは横道だが、旧約時代のイスラエルに「約束」が与えられ、その「約束」を他の国々に福音として伝える責任がイスラエルに与えられていた。そういう意味で、約束もユダヤ人のものであった。

       次に「先祖たちも彼らのものです」と言っているが、「先祖」とは、特にアブラハム、イサク、ヤコブと、12部族の族長となったヤコブの12人の息子たちを指している。ヤコブの12の息子たちは、イスラエルの十二部族の族長となり、息子たちの名がそれぞれの部族の名となった。例えば、マナセの子らと彼らのために働いていた奴隷たちは、エジプトにいた時に「マナセ族」となった。他の部族も同じである。だから、「先祖も彼らのものです」と言うとき、「アブラハム、イサク、ヤコブは私たちの先祖である」ということになる。そのように言えるということは、彼らの信仰を受け継いでいるということであり、信仰において彼らが先祖だからである。それ故「私たちの先祖はこの人たちです」と、人間的な誇りではなくて、神の民としての誇りをもって言えるのである。

       そして、私たちもまた「私はアブラハムの子どもです」と言うことができるのだ。そのことをパウロはガラテヤ人への手紙3章で説明している。表面的には皆さんはアブラハムの子孫には見えないかも知れないが、「主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者は皆アブラハムの子孫である」と、良い意味でそう言うことができるのだ。つまり、私たちも信仰の祖先を尊敬し、祖先から受け継がれてきた純粋な信仰を大切にする者なのである。私の場合、先祖はスコットランドの野蛮人であったから、「あなたの先祖は誰ですか」と問われたとき、昔の野蛮人の服を身に着けてスコットランドのいろいろな伝統を守らなければならないのだろうか。決してそうではない。私の場合には確かにスコットランドやドイツの血も混ざっているけれども、別にスコットランドやドイツを軽蔑するわけではないが、「私の先祖は、アブラハム、イサク、ヤコブです」ということを深く認識させられるのである。

       私たちは、創世記を読むとき、また聖書全体から学ぶときに、「これが私たちの信仰の家族です。これが私たちの家の伝統です。私たちの家族はここから始まっている」という認識を持って読むべきである。この家族に養子とされたのだということを、私たちも認識すべきなのだ。それだからパウロは「先祖たちも彼らのものです」と言うのである。最後に、最も大切な単語をパウロは使っている。即ち「キリスト(メシア)」である。パウロは、「また、キリストも、人としては彼らから出たのです」と言っている。メシアも、アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、ダビデを通して与えられたのである。これはイスラエルの歴史における最も大きな働きであり、務めであった。メシアを世に与える民としてイスラエルは選ばれ、歴史の中でその働きを担った。

       イスラエルの最も大きな存在理由は、イスラエルを通してメシアがこの世に来られるという点にあったのだ。イスラエルの律法、契約、祭司の儀式などすべてがメシアを指し示すものであり、それらはメシアにおいて成就されたものである。このことをパウロが言うのは、イスラエルにどんなに大きな祝福が与えられているのかを異邦人が知るためであり、パウロがユダヤ人に反対するとかユダヤ人に与えられた約束を軽んじるとかいうものではないことを彼らが知るためである。主イエス・キリストがイスラエルを通して全世界に与えられたということが、イスラエルにとっての一番の特権であり、最も大きな祝福であった。「メシアは、イスラエルを通して全世界に与えられている」と、パウロは言っているのである。イスラエルは、メシアが来るための大きな役割を果たしている存在であった。

       5節までは、9章から11章までの箇所の導入である。パウロは、9章の導入の言葉を、キリストの御名を讚える言葉で結んでいる。「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」とパウロは言う。口語訳を見ている人がいたら驚くと思うが、この5節後半のところの口語訳は新改訳とはぜんぜん違う訳になっている。新改訳の脚注にも別訳があるが、「万物の上にある神はとこしえにほめたたえられるべき方です」とある。この脚注にある訳は口語訳に近いものになっているが、「主イエス・キリストは、ほめたたえられるべき神です」とは訳さずに、「神は、ほめたたえられるべき御方です」というような訳になっている。なぜそのような翻訳になるのかというと、「なぜパウロは、ここまで大胆に『主イエス・キリストは万物の上にいます神』と言うのか。それはちょっとおかしいのでは・・・」と考えるからである。

       日本語では「このキリストは」とあるが、ギリシャ語原文にはその言葉はない。しかし、この言葉を入れないと日本語の場合は文章として成り立たないという文法的な問題がある。このギリシャ語の文章は長くて関係代名詞を追っていくようなものになっている。英語で言えば"who"という関係代名詞がこの文章で使われている。その関係代名詞は文法的にキリストを指しているのは十分に明らかである。しかし、ギリシャ語としては、その関係代名詞は前のものを指すよりも、独立して成り立つことのできるものになっている。それだから、文法的に言えば新改訳の方が自然な訳だと言えるが、現代のリベラルなクリスチャンたちの中には、ここまではっきりと「このキリストは万物の上におられる神である」と言うことには少し抵抗がある人たちがいる。彼らは自分たちの神学的観点から見て、「そのように解釈することは困難だ」と思っている。そして、「文法的には、その関係代名詞から新しい文章が始まることは十分に有り得る」という解釈をもって、そのように独立した文章として訳しているのである。「その関係代名詞はキリストを指すものではない」という解釈に立って翻訳したわけである。

       しかし、「このキリストは」というのは確かに少し意訳的ではあるが、意味としては間違っていない。「キリストは神である」という主張は直接的命題である。前後関係において、これは重大な主張である。しかし、なぜパウロはここで「キリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神である」ということを強調するのかというと、この後の9章から11章までの話は、「主イエス・キリストは万物の上におられる神としてイスラエルをこのように導きたもうたが、イスラエルはキリストを信じなかった」ということを説明するものだからである。イスラエルを救ったのはイエス・キリストである。古い契約の時代においてイスラエルを導いてくださった神は他でもないこのイエス・キリストである。そのことをしっかり理解するようにパウロは求めているのである。

       この議論は神学について話すときに牧師間においてもたびたび出て来るものであるが、「イスラエルは御父を信じているけれども、御子と御霊を信じてはいない」と言う人もいる。しかし、福音書を読めば、「御子を信じない者は御父をも信じていないことになる」ということが教えられている。パウロはここで、「万物の上にあるキリストは神である」と言ってから後、神がどのようにイスラエルを導いてくださったかを話す。つまり、「今までイスラエルを導いてきたのはキリストである」ということになるのである。イスラエルがキリストを信じないということは、旧約聖書の中で御自分の栄光をあらわしてくださった神を信じないことなのである。先祖の時から自分たちを導いてくださった神を信じていないのだ。主イエス・キリストを拒絶するなら、アブラハム、イサク、ヤコブを選んでくださった神を拒絶することになるのである。また、それは出エジプト記の救いの神を拒絶することなのだ。

       キリストは、イスラエルを導いてくださった神である。キリストは、アブラハムに現われた神であり、モーセに現われた神である。同じ主イエス・キリストが旧約のすべての時代を通してイスラエルを導いてくださった御方である。そういう意味でパウロは、「キリストが万物の上にある神です」と宣言するのである。聖書の中で、三位一体の神(御父、御子、御霊)は御自分のそれぞれの位格にあって違う働きをなさっているのを見ることができる。御父はすべてを創造し、御子は御父を表わし、御霊は御言葉を私たちに解き明かし、御言葉を私たちの心に刻んで理解を与えてくださる。

       そのように三位一体なる神の働きは分けられているが、旧約聖書では、神は火や雲を通して御自分をイスラエルに現わしておられた。そのすべての現われは、実は主イエス・キリストであったとパウロは言うのである。新約聖書の中にもそのような言い方があるが、それはクリスチャンなら普通に理解していることである。だから、「キリストは万物を支配しておられる神である」とパウロが強調して言うとき、「イスラエルがキリストを拒絶するときに、イスラエルは、初めから自分たちを救い、守り、導いてくださった御方を信じないことになるのだ」と言っているのである。

     

    イスラエルから出る者がみな

    イスラエルなのではない

       このような大いなる祝福が与えられているイスラエルは、どうして神から離れているのか。もしイスラエルが約束も契約も与えられ、神の子どもとして養子にされたのであれば、なぜイスラエルが神から離れることが有り得るのか。これはいったいどういうことなのか。そのことをパウロは以下の11章までの長い箇所で説明している。そして、その問いに対する最も難しい答えと思われることからパウロは説明を始める。即ち、「イスラエル人のすべてが選ばれているのではない」、そして「契約を信じないで神から離れてしまう者たちは祝福を失う」とパウロは説明する。また、「イスラエル人のすべてが神から離れて神に捨てられたのではない」と説明している。

       9章と10章と11章の中でパウロはイスラエルと契約との関係を説明したり、これからイスラエル全体が救われるのだということを説明したり、救いは神の選びによるものであって肉によるものではないということを説明したりする。その長い説明の中で、イスラエルの今の状態は何なのかを、特にその時代の人たちに慎重に説明しているのである。実のところ、教会の中では、ルターやカルヴァンの注解書などを読んでみると、「ユダヤ人はどうなのか」ということについてはそれほど考えない傾向がある。というのは、そのことは、それほど自分たちの問題にはなっていないからだと思われる。ユダヤ人がいないわけではないが、聖書を読むときに「ユダヤ人はどうしたのか」というようなことを考えてはいなかったのだ。

       十七世紀から十八世紀の時に、ローマ人への手紙の11章を読んで、「ユダヤ人に福音を熱心に伝えてユダヤ人が救われたなら、全世界が救われるであろう」と考える宣教師の運動が改革派の千年王国後説を信じる人たちの中にあったことが知られている。そして二十世紀になり、ユダヤ人はパレスチナに戻り、イスラエル国を再建し、今では毎日のようにユダヤ人とイスラム教の国々は摩擦を繰り返している。「いったいユダヤ人はどうなっているのか。ユダヤ人と神の関係は何なのか」という疑問は、今の時代の教会の方が二〜三百年前の教会よりも気にしているのだ。今の方がもっと真剣にユダヤ人の問題を考えている。その基本的な質問に対してパウロはローマ人への手紙9章〜11章で答えている。

       選びの教理は難しいかも知れない。しかし、これは聖書において明白に啓示された教理である。実は昨日、ある人から電子メールで「私はクリスチャンになったユダヤ人ですが、あなたの終末論の話はひどいものだと思う」と非難された。つまり、彼らは私たちのホームページを見ているし、読んでくれているのだ。「ユダヤ人はどうしてこのような状態になっているのか」ということを、私たちの時代のクリスチャンはもっとよく考えてみるべきだと思う。そして、インターネットを通してユダヤ人たちにもっと福音を伝えることができるのではないかと思うのである。いろいろなクリスチャンのグループの中には、特にユダヤ人に伝道しようとする人たちが増えている。千年王国前説の立場からそれをしている人が多いと思うが、ユダヤ人が救われるとはどういうことなのかを、今の時代の人たちはもっと真剣に考えるように導かれているように思うのである。

       そういう意味でこの箇所のパウロの話は三百年前の教会だけにでなく、私たちにとっても大切なことなのだ。どうしてユダヤ人はこのような状態にあるのか。その質問に対するパウロの最初の説明は6節からのところにある。「しかし、神のみことばが無効になったわけではありません」とパウロは言う。なぜそう言うのかというと、契約が与えられて、栄光も、約束も、礼拝も、律法などもイスラエルに与えられているのに、彼らは神から離れてしまったからである。「・・・どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と言うのが本当なら、どうしてイスラエルはこうなっているのか。パウロの答えは、「神のみことばが無効になったわけではない」である。続いてパウロはこう説明している(6b〜8節)。

    なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

       ここでパウロは旧約聖書に書いてあることを指して説明している。御言葉が無効になったわけではなければ、御言葉からイスラエルはどうなっているのかの説明ができるはずであり、そして説明しなければならない。パウロはここで、「では、アブラハムの子孫としてアブラハムのところに戻って見てごらん」と言っているようなものである。アブラハムの子孫のすべてが選ばれた民に含まれるのではないことは、イスラエルの歴史の初めから明らかであった。例えば、アブラハムにはイサクとイシュマエルという二人の息子がいたが、イサクだけが選ばれた。今のアラブ人の先祖であるイシュマエルを見よ。基本的にアラブ人は皆イシュマエルから出ており、ユダヤ人はイサクから出て来た。

       アラブ人にもいろいろな部族があって、七世紀頃に広まり、アラブのいろいろなグループは昔のバビロン人やアッシリア人と混ざって今日に至っている。今のイラクは昔のバビロンとアッシリアだけでなく、アラブの諸部族とも混ざっている。ペルシャ帝国が今のイランだが、イランもある程度アラブの諸部族と混ざっている。基本的にペルシャ人とアラブ人は別な部族であって合わないものであることは、昔から何ら変わっていない。古代エジプト人は今ではほとんど消えてしまっている。コップティックの教会が古代エジプト人だったと言われており、今のエジプト人はほとんどアラブ人であり、イシュマエルの子孫である。

       イシュマエルとイサクの違いは何なのかというと、二人ともアブラハムの子孫である。イサクは約束の子であったが、イシュマエルはそうではない。まずパウロは、「アブラハムの子孫だからといって皆が神の子どもではない」ということをアブラハムのところに戻って説明する。「イスラエルの子らが神から離れてしまった」ことについて説明するときに、「契約の子どもたちの中には、選ばれている者と、選ばれていない遺棄された者の両方がいる」ということをパウロは説明する。イシュマエルも割礼を受けていたし、アブラハムの家のすべての者は割礼を受けていた。しかし、約束の子どもはイサクであってイシュマエルではないのである。続いて、イサクに子どもが与えられることについてパウロは話している(9〜13節)。

    約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます」。このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちはまだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

       このように、「アブラハムの子孫であり、イサクの子孫であり、割礼をも受けた者たちの中に、神が選んだ者と選ばれていない者がいる」ということをパウロは説明している。「肉による子孫がみな神の民とは限らない」ということを、パウロは一番最初の創世記のストーリーから説明しているのである。「神の御言葉が無効になったわけではない」ということは、御言葉に書いてある通りに今の歴史も続いているということなのだ。「ユダヤ人はそのところを忘れている」とパウロは指摘しているのである。

       以前にも話したが、「アブラハムが地獄の門のところに立って、割礼を受けた者が地獄に落ちないように守っている」と、パリサイ人たちは思っていた。「割礼さえあれば絶対に地獄に落ちることはない」というような考え方があった。アブラハムの子孫はみな自然に救われると考えられていた。「その考え方は間違っている」と、パウロは指摘する。「最初からそれは明白なことではないか」というふうにパウロは説明していくわけである。パウロは、神がアブラハムを選んだその最初のところに戻って、「神の選びによって事は成る」と教えている。そして、「神は、子どもが二人だけという簡単且つ明瞭な事例をもって、原則を示して教えてくださったではないか」と、パウロは説明しているのである。「それだから、今の時代のイスラエルも同じである。アブラハムの肉の子孫の中には、選ばれている者と選ばれていない者とがいる」とパウロは説明する。一見して、「イスラエルは神に捨てられた」と思ってしまいがちだが、それは、エサウが捨てられたときに愛から切り離されたわけではないのと同じことなのだ。

       エサウは最初から選ばれておらず、遺棄されている者であった。「では、なぜ神はエサウを憎んだのか。神が、最初からエサウを憎んだというのは、ひどいではないか」と問い迫り、それを非常に大きな問題として考える人たちがいる。そのことを私は昔の牧師に尋ねたことがある。その牧師の答えは、「私はここにもっと大きな問題があるのを感じる。『神はヤコブを愛した』と書いてある。それこそ驚くべきことなのだ。エサウを憎むことは何ら不思議ではない。義なる神が罪人を憎みたもうのは当然なことだからである。罪人であるヤコブを愛してくださったことこそ、本当に不思議なことなのだ。あなたの見方の方に問題があるのです」というものであった。

       実にそのとおりである。神が罪人を憎むのは、「神は義しさをもって悪者らを裁く」という意味ではごく当然な正しい取り扱いをしているのである。神を憎んで神に逆らうその罪人の中から、神は愛をもってある者を御自分の子どもに選んでくださったことの方こそ、驚くべきことであり、不思議なことなのである。そして、そう見る方が正しいのだ。このように契約の歴史の始まりの箇所から見れば、アブラハムの肉の子孫すべてに契約の祝福が与えられるという保証はないということは明らかである。パウロが究極的な説明を加えているように、契約の祝福はアブラハムの肉の子孫であることによるのではなく、また割礼やその他の特別な行ないによるのでもない。契約の民に入ることは、神の召し・選びによるものなのである。

       このことは、一般的な問題に対する答えとしても非常に重大なことである。なぜなら、神に選ばれた者は誰一人として神の愛から引き離されることはないからである。私たちがここで子どもたちや子孫のことについて読むとき、「では、自分たちの子どもはどうなのか」ということも考えるはずである。今朝交読した詩篇37篇はそのポイントをよく表わしていると思う。昔のイスラエル人はヤコブやアブラハムのことを読んで、「二世代も続くとやっぱり50%の子どもたちは離れて行くものなのだな」というような原則をそこから得たわけではない。パウロもここで、「50%が離れて行き、50%が残った」という話をしようとしているのではない。一番明白な出発点に立つときに、原則があらわれるということなのだ。聖書が示す原則に立って考えなければならないが、すべての肉の子孫が自然に救われるとは限らないということが原則として示されている。

       詩篇37篇の中でも、正しく子どもたちを教えて神の栄光を求めるならば、基本的に子どもたちが救われるということが書いてある。そして、すべての子どもが救われるとは限らないのもまた事実である。しかし、信者の子どもたちが救いに入れられることを期待して子どもたちにバプテスマを授けるとき、子どもたちをクリスチャンと見做して育て、聖餐式も与えて、彼らを神の契約の子らとして育てるのである。それが正しい取り扱い方である。アブラハムもイサクもヤコブもそのようにしていたし、旧約聖書の信者たちもみな自分たちの子どもたちに割礼を施して神の契約の子どもと見做して育てたのである。私たちもそうである。

       どちらかというと、新しい契約では約束はもっと強いものになっていると考えてよい。というのは、コリント人への第一の手紙7章にも出て来るが、古い契約では、汚れたものに触れるた人は汚れた者となり、その人が他のきよい人に触れると、そのきよい人も汚れた者となる。「汚れは自然に、そして非常に簡単に速やかに伝染して広まっていくものである」というのがモーセの律法の中の汚れについての教えである。「汚れは罪と死の象徴」として教えられていた。それが古い契約であった。しかし、コリント人への第一の手紙7章を見ると、古い契約とは反対の原則が出て来る。そこで考えられている状態は、夫婦の一人がクリスチャンで、もう一人はクリスチャンではない状態である。クリスチャンは御国の聖さを伝える者であることが教えられている。新しい契約では、汚れではなく、聖さを移すのである。

       つまり、新しい契約では、私たち一人一人が神の神殿となり、ヨハネの福音書7章にあるように御霊が私たちの中に住んでくさだり、御霊が泉となって私たちのうちから湧き出て来るのである。それがキリストの約束であった。主イエス・キリストは、復活して天に昇って約束の御霊を私たちに与えると約束してくださった。「そのように特別な意味で御霊が与えられるまで、そのことは起こらない」と、ヨハネがはっきりと教えている(ヨハネの福音書4章14節、14章16〜17節、同26節、同16章7〜8節、同13〜15節)。その時まで、御霊の力はまだそのようには与えられていないので、御国の影響を与えるよりも、汚れの影響を受けないように気を付けなければならなかった。それだから、イスラエルという国土が与えられて、そこで神に仕えたのである。新しい契約の時代になるまでは、汚れの影響を受けないように他の国々と区別されて、自分たちの場所で汚れを受けないような生活を送るようにしていたのがイスラエルであった。

       しかし、新しい契約の時代にいる私たちは、それと反対に、すべての国々の中に入って行って、全世界でキリストの福音を宣べ伝えるのである。新約のクリスチャンは、パンの中のパン種のようである。パン全体に対して影響を与える者として活かされるのである。そういう意味で、契約の約束は、新しい契約においてはもっと強いものなので、クリスチャンの家の子どもたちが神を求めて神の御国のために生きる者となるのはとても自然で普通のことなのだと考えてよいと思う。同時に、旧約聖書にも出て来るし新約聖書にも出て来るが、私たちが自分の契約の責任を果たさず、子どもたちを正しく御言葉に従って育てないならば、契約の祝福を失ってしまうことも有り得ることを覚えなければならない。それ故に、聖書はそのことを強調して深く私たちに教えるのである。クリスチャン家庭に与えられている子どもたちは、契約の祝福として与えられたのであり、正しく育てるならばほとんどが救われると考えるべきである。それが普通であるはずなのだ。

       十九世紀の頃、アメリカの長老教会でこのことは大きな問題となった。「子どもたちのことをどう考えるべきなのか。子どもたちを育て、子どもたちにバプテスマを与え、子どもにも聖餐式を受けさせるべきかどうか」などについて何十年間にもわたる長い論争があった。結局、南北戦争の時代になって、長老教会も他の教会も分裂してしまった。しかし、南の教会では、バプテスマの解釈においては、子どもに与えるバプテスマと大人に与えるバプテスマの意味は違うものであった。そして、子どもたちをクリスチャンとして認めなかった。そのことは彼らの神学においてはっきりと出て来る。北の方はそれと違い、子どもたちにもバプテスマを与え、子どもたちをクリスチャンとして認めていた。けれども、聖餐式を子どもに与えるところまでには行かなかったのである。

       そして、今のアメリカの長老教会では、聖餐式について多くを議論し合った結果、私たちのように子どもも一緒に聖餐式を守る教会はまだ少ないが、例えば、5〜6歳の子どもに「主イエス・キリストを信じますか」と尋ねて、その子どもが「はい」と答えれば、それを信仰告白として受け入れて聖餐式にあずからせるような教会がどんどん増えている。「バプテスマを受けたので、聖餐式にあずかる祝福は当然与えられるものだ」というふうには、まだ考えていない。「信仰告白をしなければだめだ」と言う。しかし、4歳でも、信仰告白すれば聖餐式にあずからせる教会が今増えてきている。それでも、バプテスマと聖餐式についての考え方はまだ一貫してはいないようである。

       しかし、神がクリスチャンの夫婦に子どもを与えてくださり、その子どもに私たちがバプテスマを授けるということは、普通ならばその子どもを契約の祝福を受け継ぐ者として認めてそうするはずである。私たちは真剣に子どもたちのために祈り、真剣に子どもたちを御言葉をもって育て、そして最終的に救いが神の選びによるということをも認識しながら、子どもたちを育てなければならない。そのことを、自分たちに適用して考えるとき、この9章から教えられると思う。神の愛は永遠の昔から神の選びをもって始まる。つまりヤコブに与えられたような神の愛は、ヤコブ自身のあり方や行ないによるのではない。それは神の永遠の選びによるものであった。私たちの慰めは、「神に選ばれた者は永遠に守られ、神の約束を確かに相続する」という点である。旧約の時代からずっとそうであったのだ。

       私たちは毎週一緒に聖餐式を行なっているが、受ける者はみな一人一人クリスチャンとして受けるものである。父親と母親たちは子どもたちに聖餐式の意味をしっかり説明する責任があることも覚えなければならない。私たちの理解には足りないところがあるのは確かだが、そのところを気にしすぎる必要はないと思う。子どもたちに聖餐式とはどういうものなのかをよく教え、聖餐式を受ける心の準備をするように助けなければならない。両親からも、そして日曜学校でも、その意味が正しく教えられるのは大切なことだと思う。

       聖餐式を受けるとき、長老たちは神の代表として、主イエス・キリストのからだを表わすパンとその血を表わすぶどう酒を与える。それは神が代表者を通して私たちに与えてくださるものであり、神が御自分の御子を私たちに与えてくださったことを象徴において表わしている。神が私たちを愛して、私たちを救うために御自分の御子を与えてくださったことを、私たちは聖餐式を受けるときに感謝をささげて祝うのである。私たちは、神御自身からそのパンをいただき、そのぶどう酒をいただくときに、「私はキリストを信じます。キリストを受け入れます」ということを行動において表わしているのである。食べて飲むことによって、自分の中にキリストを受け入れるということを行動において表わしているのである。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年4月1日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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