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    ローマ人への手紙9章6〜16節


    9:6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、

    9:7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。

    9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

    9:9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」

    9:10 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

    9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、

    9:12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。

    9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

    9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

    9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

    9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

    2001.04.08. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    エサウを憎む

    9章6〜16節

     

       8章の終りのところで、パウロは、クリスチャンに与えられている大きな素晴らしい神の約束について語った。即ち、「神の愛から私たちを引き離すことができるものは、この宇宙の中に、そしてすべての被造物の中に、何一つない」ということパウロは強調して教えた。それを聞いた異邦人たちは、「それなら、どうしてユダヤ人たちは、神の契約の民だったのに、神から離れることになったのか」と考えるであろう。だからパウロはその質問に対して答えなければならない。異邦人の中からクリスチャンになった者にとって、イスラエルと神との関係は単なる理論的な問題ではなかった。神が選んだはずのイスラエルが明らかに神から離れていたのである。なぜイスラエルは神から離れ得たのだろうか。イスラエルが神から離れ得るなら、クリスチャンにも同じことが起こり得ないのだろうか。

       この種の質問への答えは長くて複雑なものにならざるを得ない。そのためにパウロはローマ人への手紙の中で三つの章をまるごと費やしてこのことを説明している。それで、9章から11章までのところでパウロは、「ユダヤ人はどうなったのか、どういうことだったのか」を説明している。これは、福音においては本質的なことなのだ。これは横道ではなく、あとがきのようなものでもない。今までユダヤ人は神の契約の民だったのに、それが主イエス・キリストの時代になると神から離れてしまい、異邦人が神の契約の民になったような状態になっている。いったいどうしたことかというわけである。最初の答えは最も難しいところであった。「神がある人を選んだ」ということ、それが人間にある区別の究極的な源であるとパウロは説明している。イスラエルのすべてがイスラエルだという意味にはならないのだ。神が選んだ者が真のイスラエルなのである。

     

    歴史的啓示

       この9〜11章のところを読むと良く分かるが、福音というものは極めて歴史的なものなのだ。福音を説明するときに、パウロは1章の最初から「福音は(旧約の)預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」と言っているのを忘れてはならない。福音を説明するときに、アブラハムのこと、アダムのこと、ダビデのことを話したりする。そして9章に入って「選び」について説明するときに、創世記の歴史に戻って、歴史の話をするのである。歴史の始まりについての説明は神の導き方の基本を表わすからである。それは、より基本的かつ単純なレベルで語られ、時間が経つにつれてだんだんと複雑になっていく。パウロのローマ人への手紙も同様に、神とイスラエルの関係を説明するにつれて次第に複雑に展開していっている。

       だから、パウロは歴史の最初に戻って説明を展開する。「そのように神が歴史の中でずっと導いてくださったのを見るとき、このことをも理解することができる筈である」と説明しているのだ。パウロはイスラエルと神のことを説明するときに、歴史的に神はどのようにイスラエルを導いたかに基づいて説明する。このようなパウロの説明の仕方を見るとき、聖書の神はどのような御方なのか、そして私たちは聖書をどのように読むべきか、歴史をどのように考えるべきなのかについて、深く教えられるものである。

       他の宗教は聖書のように真剣に歴史を見ることをしない。ヒンドゥー教の神の歌バガヴァッドギーターやイスラム教のコーラン、また古代ギリシャ神話のホメーロスやヘーシオドス、その他のいろいろな宗教の重要な書物を読んでも、そのような深い歴史的な記述がないばかりでなく、歴史に対する深い関心すら見当たらないのである。それらは非歴史的である。比較してみると、その違いは実に顕著である。聖書は歴史を非常に真剣に取り扱っている。聖書の場合、神の啓示の中心は歴史の事実にあるのだ。神御自身が受肉してこの世に来られて、私たちに御言葉を教え、すべての義の模範を与え、私たちの身代わりになって十字架の上で死に、葬られ、そしてよみがえって、天に昇り、御父なる神の右座したもうたのである。

       福音を伝えるとき、歴史の事実を語っている。神の教えについて考えるとき、神は歴史の中でどのように導いてくださったかを考えるのである。そういう意味で、イスラエルの歴史を見るとき、神とイスラエルの関係から何を学ぶべきなのかということを、パウロは9章から11章のところで教えるのである。歴史は神の御計画の成就であり、歴史から神の御心を学び、神の契約の導きを学ぶのである。それ故、これは福音において中心的なことなのであって、決して横道とか後書きのようなものではないのである。皆さんはそう思わないだろうが、注解書などを見ると、そのような説明になってしまうものが多いのである。「なぜここで9〜11章が入ってくるのかは疑問だ。理解できないことだ」というような考え方になってしまいがちなのである。

     

    エサウの場合

       「どうしてイスラエルは神から離れたのか」ということを説明するとき、パウロは、まず第一に「イスラエルから出る者がみなイスラエルではない」と説明する。つまり、「真のイスラエルは、肉によるのではなく、神の選びによる」と言うのである。肉によるアブラハムの子孫だからと言って、それでイスラエルだということにはならない。そのことを説明するときにパウロはアブラハムの時代に遡るのである。神の民の歴史の始まりにおいて、アブラハムの子孫がまだ契約の民になってはいなかったのは明白である。

       アブラハムには子どもが二人いた。「アブラハム」という名は「偉大な父」という意味なので、多くの子どもがいるはずだが、彼とサラの間には二人の子どもしかなかった。妻サラが死んだあと再婚し、さらに他の子どもたちが与えられたけれども、「アブラハム」という名が与えられたとき、神はアブラハムに「あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」と言い、「来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる」と言われたのである。「イサクを通して約束の子孫を与える」という神の御計画を神はアブラハムに伝えた。

       しかし、思い違いしてはならないのは、「イサクが契約の子だ」という意味は、「イサク以外のアブラハムの子どもたちは誰も救われていない」ということではないという点である。「イサクが契約の子だ」という意味は、「イサクこそ、祭司としての契約の祝福が与えられるために選ばれた子どもである」という意味なのだ。創世記を読むと、イサク以外にもアブラハムには子どもたちが与えられたことを見る。イシュマエルもその一人である。アブラハムはすべての男子に割礼を与えた。子どもたちはみな割礼を受け、アブラハムから御言葉を教えられていた。何世代か後には、モーセがエジプトから逃れてイテロに助けられた。その時のイテロは明らかに信者であるが、契約の民ではなかった。そのことからも、契約の民でなくても、神を信じる者が至る所にいたことがわかる。

       福音はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫だけのものではなかったのは明らかな事実である。メルキゼデクも、アブラハムの子孫ではなかった。ここでパウロが創世記の歴史を振り返って見るように勧めるとき、「アブラハムには複数の子どもたちがいたけれども、神の契約の約束はただヤコブ一人に与えられた」と言っているのである。その主旨は、「それなら、誰が救われているのか」ということではないのだ。イシュマエルが救われているのかどうかは、断言できないが、信者だったかもしれない(創世記17章19節、21章14〜21節、特に21章20節、25章9節)。天国に行ったときにそれはわかることだ。しかし、エサウについてははっきり言える。エサウは信者ではなかった。なぜなら、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と神御自身が言っておられるからである。

       そして、創世記を見ても明かなことだが、エサウはエサウ以前の時代のすべての悪しき者たちの真似をしていたのだ。例えば、創世記の中で二番目に犯された大罪は、カインが自分の兄弟を殺すというものであった。そのカインと同じようにエサウは、もし可能ならば、間違いなく自分の兄弟ヤコブを殺したであろう。神がヤコブを守り、ヤコブをエサウの前から連れ去ったので、エサウは殺意を果たすことができなかったけれども、殺すことができれば必ず殺したであろう。その心はまさにカインのようであったと言える。そのことを創世記ははっきりと記している。

       また、創世記6章にある「神の子ら」というのはセツの子孫を指しているが、そのセツの子らはノアの洪水のときにクリスチャンではない娘たちと結婚した。ある注解者は「神の子ら」とは御使いたちを指すと言っているが、御使いは人間と結婚することは出来ないので、それは全く考えられない解釈である。セツの子孫たちはクリスチャンではない人たちと結婚し、その人々は自分たちの母親をさいなむ者たちとなってどんどん神から離れてしまったのである(創世記27章46節、6章2節参照)。それが創世記6章の罪の問題であった。エサウの二人の妻ともクリスチャンではない女性であった。そのクリスチャンではない二人の妻はイサクとリベカにとって悩みの種となった(創世記26章34〜35節)。そのようにクリスチャンではない女性と結婚するエサウの行為は、セツの子孫が犯した大罪に倣うものだということを創世記は明らかに記している。

       だから、エサウを見るときに、「この男はカインのような者であり、セツの悪い子孫たちのような者であり、神の契約を軽んじる者だ」ということがわかるのである。それらのことから、エサウはクリスチャンでないことがはっきりとわかる。ローマ人への手紙9章で、神が「わたしはエサウを憎む」と言うとき、少しも不思議ではない。エサウは事実、歴史的に最悪な人間たちに倣って生きたのだ。神がエサウを憎むべきでない理由があるだろうか。

       そして、ヤコブは、神の御恵みによって、生まれる前から神に愛されていた。二人が双子としてまだ生まれてもいない時に、神は母リベカに、「弟ヤコブの方が選ばれており、兄エサウは選ばれていない。兄は弟に仕えるようになる」ということを伝えたのである。歴史的にどちらが契約の約束の子になるか。これは永遠の救いにつながっていることなのである。

       そういうわけで、エサウとヤコブの違いは神の永遠の選びによるのだということをパウロはここで説明する。ヤコブの子孫の全部が本当のイスラエルではなく、神が選んだ者だけが真のイスラエルとなる。そのことをパウロが説明するときに、「今の時代のイスラエルは神の特別なさばきを受けているのだ」ということが理解されるのである。「すべての時代で約五割くらいの人は神から離れるであろう」というような話ではない。主イエス・キリストの時代のイスラエルは特別に神に裁かれているということは、キリストもよく取り上げていたことであった。その時代がどのような時代なのかをキリストは繰り返し話していた。

       バプテスマのヨハネは葡萄酒を飲まないので非難される。こんどは、キリストは罪人と一緒に葡萄酒を飲むから非難される。何をしてもとにかく非難された。それで、キリストは、間違っているのはパリサイ人たちの考え方なのだということを厳しく指摘し、譬え話の中においてもその時代がどのような時代なのかを説明しておられた。キリストは次のように言っておられる。

    それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。(マタイの福音書23章35節)

    それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。私は言う。この時代はその責任を問われる。(ルカの福音書11章50節)

       神に特別に裁かれている時代のイスラエルについてパウロは説明しているが、最終的にすべてのことは神の選びによるのであり、神の永遠の御計画と神の導きによるということを教えている。そのことをクリスチャンは理解しなければならない。「今の時代のイスラエルは特別に神にさばかれているのだ。なるほど、だからこんなに多くのユダヤ人がキリストを信じないでいるのか。だから、この時代では、神の契約の民は捨てられたかのような状態になっているのか」ということが異邦人にも理解できるようにパウロは説明している。

       そこで、ヤコブとエサウのことを考えるときに、二人が生まれる前に「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と神が言っておられるのは多くのクリスチャンたちがつまずくところである。そして、「最終的に神の導きによるのであり、神の選びによる」ということを聞くときに、またまた多くのクリスチャンたちは頭が痛くなってつまずくのである。神の主権と選びについて考えるとき、一つには、人間の理解の範疇で考えるなら、歴史的な順序は神の契約の思いにはないということはわかると思う。つまり、神はある時にそのことを考えて、御父、御子、御霊が一緒に相談して意見を述べ、その時からこのようになったというようなことではない。

       私たちは、神が契約を与えたことについて一応論理的な順番を考えることはできる。時間的な順番ではなく、論理的な順番として、次のように考えることができると思う。神はまず万物を創造することを決定された。そして、アダムが罪を犯して堕落し、それによって人類が神から離れてしまうのを許すことを決定された。なぜここで「許す」という言葉を使うのかというと、それが神とは係わりのないことだというのではなく、悪と善について神の主権を考えるとき、その二つの導きは全く平衡しているものではないからである。「平衡している」という言い方も理解しにくいかもしれないが、人間の身体のように右左がだいたい同じというのと同じ意味である。私たちの身体は、右と左が平衡している。神が善を行なうように導くのと、悪を行なうのを許すのは、そのような平衡したものではない。

       まず、神は善を行なうように導くとき、神が一方的に働いてくださる。信仰を持つように導き、信じる力を与えてくださる。ヨハネの福音書6章44節で、「御父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの所に来ることはできない」と主イエス・キリストは言っておられる。聖書の中には、「御父が引っ張ってくれなければ、誰も罪を犯すことはできない」というような教えはない。悪を行なうために引っ張られる必要はない。私たちが勝手に罪を犯してしまうのだ。しかし、善を行なうためには、神の引っ張りが必要なのだ。悪の場合は、神が許すなら、私たちは自然に罪人としてその悪を行なうのである。神が積極的に御霊の働きをもって人間が罪を犯すようにさせることはない。善を行なうように神は御霊を与えて、人間を導いてくださる。それは一般恩寵においても同じである。

       クリスチャンではない人たちが良い行ないをするとき、そこに神の積極的な働きがあることを知らなければならない。私たちの場合も同じである。罪人は、自分の思いのままに生きることが出来たならば、とんでもない混乱状態になるものだ。地獄はその状態である。だから「地獄に行く人間は自分の思いのままに生きる」ということは、ある意味で言えることだ。自分を憎み、隣人を憎み、神を憎んで生きている。その憎しみの心、自己中心の心、その愚かさは100%あらゆるところに出てくる。そこには悪に対する神の御霊による妨げがもはやないので、その罪の思いや愚かな思いは燃え上がり、神を憎んで互いを憎む思いもはっきりしてくる。

       だから地獄には社会というものはない。社会は成り立たないのである。赦しあうこともない。交わりも有り得ないのだ。罪人が全く罪人の姿を現わして生きるとき、互いを殺し合おうとすることはあっても、互いに交わりを持ったり助け合ったりはしない。この世の中でクリスチャンではない人たちの中にもその心があって愛らしい思いがあるのは、神の御霊の祝福による恵みによることなのである。罪人の罪を神が制御していてくださるからである。ちょっと横道に入ったけれども、神は、人間が罪を犯すのを許容することを決定したもうたのである。

       次に、罪人になった人類について考察しなければならない。つまり、神は、神の御怒りの下にあって神から離れて行く人類をご覧になり、御自分が選んだ者をキリストへと引き寄せてくださるのである。論理的な順序としてそのように考えることができる。「神の怒りの下にある」というのは至極当然のことである。神が罪人を憎むのは当然のことである。愛される方が当然ではないのだ。頑なな罪人が愛されることこそ実に特別なことなのだ。人間が罪を犯すとき、自分の自由意志をもって犯しているのかというと、100%そのとおりである。「少しは神の方にも責任はある」というような考え方や教えは聖書の中には一切ない。「でも、神の永遠の御計画があるではないか」と言う者がいるなら、「その通りです」というのが答えである。

       「神の御計画だと言うなら、どうして100%罪人の責任だと言えるのか」と尋ねるなら、「神がそのようにおっしゃっているし、聖書にそう書いてあります。神の全く完全な御計画と罪人の自由意志は、私たちには矛盾するように見えるとしても、それは矛盾ではありません。私たちの理解を越えることはたくさんあるのです」と答えれば十分である。理解できないとしても心配はいらない。私たちには理解できない事は幾らでもあるのだから。私たちの理解によって世界が回っているわけではないのだ。私たちは神の御言葉である聖書に書いてあることを信じて、その真理の上に立つときに安堵するのである。

       「なぜ自分はクリスチャンになったのか」と思う者は、それが神の御恵みによったのだということを知りなさい。「どうしてあの人はクリスチャンにならなかったのか」という質問に対する答えは、「それは100%、いや120%その人の責任です」である。誰でも主イエス・キリストを求めることはできる。神は天の門を開けて招いておられるのだ。御自分の御子を与えて、招いておられる。「さあ。渇いた者は、来て、飲みなさい」と言って神は招いておられるのである。招かれていない者は一人もいない。天の門は5時になったら閉まるようなものではない。24時間、完全に開かれている。いつでも、求める者は入ってよいのである。罪を認め、悔い改めてその門から入ればよい。その道は、険しいというものでもない。どうして罪人はその門に入らないのか。それは100%その罪人自身の問題である。その頑なな罪の心が問題なのだ。

       「神はエサウを憎んだ」と言っているのは、「エサウは天の門に入りたかったのに、神が門を閉めて『わたしはあなたを憎んでいるから、来るな』と言って入れてくれない。可哀相に」という話ではないのだ。エサウは招かれていたのに、拒絶したのである。敬虔な父イサクは、彼の幼い時から彼に御言葉を教えたので、神の御言葉をいつも聞いていた。カインとアベルの話も幼い時から聞いて知っていたのに、カインの真似をした。セツの子孫のことも聞かされていたのに、その悪い子孫の真似をした。ノアの子どもたちの話を聞くと、その悪しきところを真似したのである。ロトの話を聞くと、ロトの悪いところを真似する。エサウは御言葉を知らないわけではない。父イサクは、ノアの洪水の時に生きていたセムから直接に洪水の話を聞いていた。その話をイサクはエサウに話した。彼は、ノアの洪水という神の大いなる裁きを直接経験したセムが父イサクの時まで生きていたのだから、彼もノアの洪水に非常に近い時代に生きたので、そのさばきの意味をよく知っていたはずである。

       神はその啓示をすべてエサウに与えたのに、エサウはことごとく拒絶したのである。神が拒絶させたのではない。エサウは、恵みを豊かに与えられたのに、その心は頑なに神を拒絶した。エサウは他の人たちよりも多くの恵みが与えられていたにもかかわらずとことん逆らったのだ。エサウの場合、父親は少し弱かったようだが、母親は実に立派な信仰を持った強い母であった。知恵があり、思いやりがあり、聖書の中でこれ以上すばらしい母親はほとんどいないと言ってよい。そのような母親が息子エサウを愛して熱心に教えた。そのように豊かな御恵みを与えられたエサウが「憎まれた」と言うのはどういうことか。ヤコブと比較してその永遠の選びのことについて語るなら、「憎まれた」と言うのもわからないわけではない。

       しかし、最初から御言葉も何も教えられず、祝福も一切与えられず、人生で笑う日すらなかったというような同情すべき話では決してないのだ。初めから、恵み、恵み、恵みばかりがエサウには与えられていた。いったいそれが「憎まれる」ということだろうか。いくら恵みを与えられても、エサウは感謝しない。神の愛に対して応答もしない。そしてその恵みのすべてを軽蔑していた。いただける物は何でもエサウはちゃっかりと頂戴しておいてから、まるで与えられるのは当然であるかのよう振る舞ったのである。感謝もせず、神をも敬わず、すべて自分の物だと考えた。この箇所を読んで、「エサウは神にいじめられた」というような読み方をしてはならない。それどころか、とんでもない御恵みを豊かに豊かに与えられていたのである。エサウは神を憎んで捨て、「神はいらない」という道を積極的に自分で選んだのである。

       エサウが神から離れるように強制した者は誰一人いない。私たちは、パウロがここで述べていることにつまずいてはならない。「神はエサウを愛した」ということも付け加えておくべきなのだ。神は御自分の敵をも愛し給うたのである。確かに神は「わたしはエサウを憎む」と言われた。しかし、決してエサウをいじめたわけではない。何一つ不公平はなかった。神はエサウを愛し、また違う意味で憎んだと言える。そういう意味で、神は、クリスチャンではないすべての人を憎みたもうのだ。クリスチャンではない人たち全体が神の裁きの下にある。だから、彼らに向かって福音の招きをするのである。「罪を悔い改めて、その罪を捨てて、主イエス・キリストを信じなさい。キリストを信じて、神の救いを受けなさい」と、彼らに福音を伝えるのである。

       「すべての不信者は神の憎しみの下にある」と言うときに、別の意味において、「すべてのクリスチャンではない人たちには神の愛が注がれている」ということも言わなければならない。説明が複雑だと思うかも知れないが、皆さんはもう大人であるから、大人として語りたいと思う。主イエス・キリストは「あなたの敵を愛しなさい」と命じているが、「敵と呼ぶなら、愛してはいないのだ」と短絡的に考える人がいるだろうか。「愛していれば敵ではない」と、普通なら考えるわけだ。「敵を愛しなさい」ということは、当然そこには憎むことも含まれているのだ。「敵である」ということが前提となっているが、「敵であっても愛さなければならない」とキリストは命じている。

       だから、「敵」に対する愛があるわけである。それは「妻を愛しなさい」というのと当然意味が違う。「子どもたちを愛しなさい」というのもまた意味が違う。「父と母を愛しなさい」というのも意味が違う。「兄弟を愛しなさい」というのも意味が違う。兄弟愛ということで斉藤さんが私を愛してくれているのは信じるが、だからといって毎日私の子どもたちの世話をしてはくれないのだ。食事を作ってくれないし、本も買ってくれない。しかし、兄弟愛はちゃんとあるのだ。

       敵を愛する愛を考えるとき、人間の罪の本質を考えなければならない。人間の罪の本質は、神を憎むことである。神を憎むことが罪人の本質的な問題なのだ。この罪とかあの罪というのではなくて、神御自身を憎むことこそが問題なのだ。それゆえ「敵対する=敵意を持つ」ということをパウロは8章31節で言っている。敵対関係にあるのだ。神と神を信じない者は敵対している。しかし、神は敵をも愛してくださる。敵を愛するとき、ちゃんと敵だということもわかっている。「わたしはエサウを憎む」と言われた神は、エサウに対して何一つ恵みを与えないのではない。豊かに恵みを与えた。「敵」と言うとき、「恵みも愛も何もない」という意味ではないのである。愛の話は、聖書の中では複雑なものだというのは事実である。

       「ヤコブを愛した」と言うのは、憎むべき罪人であるヤコブを前提として言うことなのだ。「ヤコブが可愛いから愛した」という話ではない。「ヤコブはエサウよりも性格がいいから愛した」という話でもない。「ヤコブの方がおもしろくて楽しいから愛した」というようなことでもない。神は、憎むべき罪人であるヤコブを愛することを、彼が生まれる以前に決定したくださったのだ。そして、一方的に愛して、一方的に恵みを与えてくださった。ヤコブがどうして救われたのかというと、それは100%神の御恵みであった。では、エサウはなぜ救われなかったのか。「それは100%エサウの責任だ」という言い方もしなければならないと思う。

       では、最終的にどうなのかというと、「すべては神の永遠の御計画による」のである。そして、神の御計画は、複雑で、不思議で、私たちの理解をはるかに越えるものである。歴史は神の御計画の成就であるが、すべての歴史の中の事実は単純な公式とかパターンで決定されているわけではないということも覚えなければならない。そういうわけで、エサウとヤコブの歴史を通して、「パウロの時代のイスラエルはどうして神から離れているのか」ということをパウロは説明している。パウロは、「最終的にこれはすべて神の不思議な導きによるものである」ということを教えている。これは私たちがどうしても理解しなければならないところなのだ。これは非常に重大なところである。8節を見てほしい。

    すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

       私たちは、何か自分の肉や行ないによるようなことで神の子どもになったのではなくて、神の御恵みと約束の働きによってのみ、神の子どもとされたのである。神の契約の約束によって、神の子どもとみなされるのである。そのことをよくよく理解しなければならない。そう説明してからパウロは、アブラハムへの約束の御言葉を引用して説明する。ことは神の選びによるのである。神がヤコブを愛し、エサウを憎んだのである。14節以降で、パウロは更に深く説明を加えていく。

     

    神の聖定の論理的順序

    それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、ことは人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

       ここでのパウロの話も、罪人は神から離れていくものであることを前提にしている。罪人は神を憎み、逆らい、敵対するものである。それが前提としてあって、その罪人に対して、神は「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」のである。つまり、人間は神のあわれみを必要とするということが前提なのだ。神は創造してくださり、アダムの罪を赦してくださり、そして罪人となった人類に対して、神は御自分のあわれむ者をあわれみ、御自分がいつくしむ者をいつくしんでくださる。そのような論理的な順番がここにはあると思う。私たちが神のあわれみを強制的に取るのではなく、神の方が一方的にそれを与えてくださって救ってくださる。そのことをパウロが強調しているのは、私たちが本当の意味で感謝の心をもって神の御名を正しく礼拝するようになるためである。

       ローマ人への手紙を細かく切って学んでいくのもよいことだと思うが、座ってこれを一通の手紙として読み通すことも大切なことだと思う。ローマの教会がこの手紙を受け取ったとき、日曜日に集まって初めから終りまでを一気に読んだ筈である。普通に読めば二時間くらいで読める手紙である。その当時のクリスチャンは自分のコピーを持っていなかったので、誰かがそれを読み上げて、皆はそれを聞いた。また手で書き写して写本にしていろいろな所に送って、他の信者たちにも読ませた。例えば、パウロがコリントにある教会に書いた手紙も、コリントのクリスチャンがそれを一字一句丁寧に書き写して、写本を皆に送ったのである。教会はそのようにして御言葉を分かち合っていた。

       そして、パウロがコリントに書いた手紙がローマの教会にも送られてくると、ローマでは「今週は、コリントに書かれた手紙が届きましたので、これを朗読します」と言って、礼拝でその全文を一気に読み上げたのである。コリント人への第一の手紙も二時間ほどかかるだろう。それで、礼拝はかなり長いものになっていたと思われる。パウロの時代はどうであったかわからないが、少し後の時代では、教会には座る場所もなかった。床は石が敷き詰められているような場所で、そこに2時間でも3時間でも会衆一同は立って礼拝したことが知られている。エズラの時もそうであった。驚くべきことは、エズラはモーセ五書を朗読したのである(ネヘミヤ記8章1〜12節)。民はそこに立って、熱心に聞いて理解したと記されている(同7節)。創世記から申命記まで読むにはもどれほど時間がかかったであろうか。それを思うと、今日の私たちはかなり気楽にやっていると言える。

       この9章のところではまだ結論には至っていない。結論は11章にあるのだ。その結論は、神の御名を賛美するところで終わっている。今、私は神の選びについて話しているところだが、本当に神の選びを理解する心とは、神の御前に跪いて神の御名をほめたたえる心なのだ。選びの話を聞くと、頭が痛くなったり、傷ついたり、哲学的な喧嘩をするようであってはならない。ひざまづいて神を喜び、御名をほめたたえるべきなのだ。どこであれ、聖書の中で選びについて書いてある箇所は神への礼拝に終わっているのだ。

       選びの論理的順序を正しく理解するなら、選びの教理の意味もよく理解できるはずである。エペソ人への手紙1章でも神の選びと主権について話しているが、そのことを礼拝の中で、神の御名を祝福する中で話している。詩篇にも多く出て来るが、すべて神への礼拝に結ばれている。ローマ人への手紙9章から11章も、礼拝に終わるものである。神の御名を賛美するところで終わるのである。それが普通であり、クリスチャンの当然の反応でなければならない。「選びを理解した」と言うなら、「神は、あわれもうとする者をあわれみたもう。一方的に神は私に御恵みを与えてくださった。その神の御名をほめたたえます。主に感謝します。アーメン」と言わずにはおれない筈である。

       モーセの話から、エズラの話から、そしてパウロの話から、そのことがよくわかると思う。16節で、「したがって、ことは人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」と言うとき、言い換えれば、「神は神なり」と言うことなのだ。「最終的に神がすべてのすべてを完全に御支配したもう」というのが「神」という言葉の意味なのである。「支配もせず、心配して何とか頑張っている」というような神は神ではない。すべては神から出でて、神が完全に主権的に支配しておられる。神は神だからである。

       神学者は神の聖定の順序について議論するけれども、これは時間的な順序ではない。永遠の神において、人間が認識する意味での「時間」というものはないのである。神は、ある日に何かの作業をし、翌日に別の作業をしなければならないというような制約の下にはおられないのだ。神の聖定は永遠である。時間を超越したものである。とは言え、論理的順序を考えるというなら、それは可能である。既に言ったように、聖書が選びに言及するとき、「もともと罪人であった人々の中から救われる者が選び出される」という前提がある。つまり、何か中立的な人間集団があって、その中からクリスチャンと永遠に滅ぶ者たちとに分けられているわけではない。両者とも中立ではなく、例外なしに、はじめから同じ罪人なのである。神が人間を罪人ではなくて中立的な存在として見做す論理的な段階があるとか、中立的なグループがあってそこから滅びに至る者とそうでない者とを選ぶというものではない。

       もし、アダムが罪を犯す聖定の前に選びの聖定があるとすれば(あくまでも論理的な順序としてだが)、どの人間も罪人としては扱われないはずである。罪を犯すのは選ばれた後だということになるからだ。しかし、聖書は、人間を罪から救うように神が人々を選ぶ、と教えている。だからパウロは、「神は、憐れもうと思う者を憐れみ・・・」と言う。その言い方からも、神は人間を罪人と看做していることは明らかである。罪人でなければ憐れみを必要とはしないのである。だから、「父が引き寄せないかぎり、誰もわたしのところに来ることはできない」というヨハネの福音書6章44節のキリストの言葉もよく理解できるわけである。神が私たちを求めてくださる。しかし、私たちは神を求めようとしない。私たちは罪人であって、神の招きを拒絶する。神が私たちを見つけてくださったという理由以外に、私たちが神に近づくことができた理由はあり得ない。だから、選びを理解するとき、恵みを理解するのである。その時こそ、本当に神をほめたたえることができるようになるのだ。そして、その恵みを他の人にも示すことができるようになるはずである。

       聖餐式を行なうときに、私たちは「自分は選ばれているのか選ばれていないのか」を心配するのではなく、キリストに招かれて、その招きに対して「はい。まいります。どうか御心がかないますように」と言えば十分である。そのように招きを受け入れる者こそ選ばれた者である。選ばれているかいないかを心配したりして、「はい」と答えることが自分に許されているだろうかという変な考えを持つべきではない。神は招いておられる。躊躇してはならない。神の招きを信じなさい。その愛を信じて素直に受け入れなさい。いろいろな疑いをもって、「神の招きが、本当に自分に与えられているのか」などというようなことを考えること自体おかしいことである。

       私たちには理解できない領域に入ろうとしても、それで理解できるようになるとか明白になるというものではなく、ますます混乱してしまうほかない。そして、自分を破壊してしまうような混乱に陥ってしまうだけである。神が招いて下さり、神が与えてくださるなら、素直に受ければよいのだ。いろいろな事を心配したり考えたりするのではなくて、神が与えるままに、感謝をもってそれを受けて、神に信頼すればよいのである。主なる神が私たちを愛してくださるのだ。「それは、敵に対する愛ではないのか」と心配する必要はない。「たとい私が敵であっても、その私を神が愛してくださる」ということを信じるならば、もはや敵ではなくなるのである。

       心の敵意は取り除かれて、神の御恵みを信じて、聖餐式を受けるのである。繰り返し繰り返し神は私たちに御自分の御恵みのしるしを与えてくださる。聖餐式を与えるのは長老たちではなく、神御自身である。長老たちは神に仕える者として私たちの手にパンと葡萄酒を渡してくれるが、神から主イエス・キリストのからだと血を表わすパンと葡萄酒が与えられる。神が与えてくださるものを私たちは素直に受け入れるのである。それが聖餐式を正しく受けることである。「相応しいか、相応しくないか」を思うなら、罪を悔い改めないでいるなら、それは相応しくないということになる。聖餐式にあずかる者は、「私は罪人です。どうか神様、私の罪を許してください」と祈って、自分の罪を捨てて神の約束を素直に受けるのである。それが聖餐式の正しい受け方である。

       「私はまだ90%しかきよくなっていない。100%きよくなければ私は聖餐式を受けるには相応しくない」というような話ではない。ほとんどの人は99.9%汚れているが、それほど深く理解していないし、自覚もしていない。それが私たちの状態である。悔い改めて、神の御恵みを素直に受け入れるということであれば、神は私たちをキリストにあってきよい者として受け入れてくださる。そして、御恵みを受けたなら、それが100%神から与えられたものであることをはっきりと覚えるべきである。「神の方から私を求めてくださり、神が私を見つけてくださって、私を導いてくださったので、私はこのように御恵みを受ける者となったのだ」ということを覚えて、心から感謝して聖餐式を受けるのである。それこそ、神の選びを信じる者として正しく聖餐式を受けることだと思うのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2001年4月8日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙9章4〜8節

    ローマ人への手紙9章14〜24節

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