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    ローマ人への手紙9章14〜24節


    9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

    9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

    9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

    9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

    9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

    9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」

    9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。

    9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

    9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

    9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

    9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

    2001.04.15. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    パロとモーセ

    9章14〜24節

       旧約聖書の歴史を通してパウロは神の主権を教える。そして聖書の登場人物に対して神の選びがどのように現われたかを述べている。パロについて神がモーセに宣言したことがこのローマ人への手紙9章14節から24節の主題である。8章でパウロは、「私たちを神の愛から引き離すものは何もない」ということをクリスチャンに宣言した。それを聞くとき、当然ながら、特に異邦人の信者たちは「旧約聖書のイスラエルはどういうことになるのか。イスラエルは神の契約の民ではないか。どうしてイスラエルは神の愛から離れることが有り得たのか。どうしてイスラエルは今のような状態になったのか」というような疑問を持つ。そして、パウロに反対する人たちもそのようなことを言うかも知れない。それで、パウロは9章から11章までの三つの章を費やして、イスラエルと神の関係を説明しなければならなかった。その関係を説明することによって、契約に対する神の忠実さがわかるし、神の永遠の不思議な御計画のことも理解することになる。

       それによって、8章で話した神の救いの確かさ、その約束の真実を深く知らされて、救いは神からのみ与えられるということを悟り、素直に神の導きに信頼する者にされるのである。この三つの章で特に神とイスラエルの関係を説明しているが、既に話したように、1章の最初から8章に至るまで、既に何度もパウロはイスラエルについて話しているのである。使徒行伝を読むと、ユダヤ人と教会のことが何度もいろいろな事において出てくる。パウロの他の手紙にもユダヤ人のことがよく出てくる。

       新しい契約の書物(マタイによる福音書から黙示録まで)の中では、イスラエルと教会の問題は中心的なことの一つである。キリストが十字架にかかり、死んでくださり、復活して天に昇られたのがだいたい紀元30年であった。そして、新約聖書は紀元70年の前には(紀元68年頃までに)全部が書かれた。その約40年間、教会にはユダヤ人の信者が大勢いた。そして、ユダヤ教が本当の神の民なのか、教会が神の民なのかが大きな問題になっていた。神殿はそのまま存在していたし、使徒たちもエルサレムに居て神殿で礼拝をしたりしていた。キリストの最後の説教で、キリストはこの神殿に対する神のさばきを教え、神が神殿をさばくとき、御自分がメシアであることが最終的に証明されるであろうと宣言した(マタイの福音書24〜25章)。

       その宣言のとおりに紀元70年の時にローマ帝国はエルサレムを包囲して完全に破壊した。その時以来今日に至るまで、イスラエルは一度もレビ記にあるような礼拝制度を守ることは出来ていない。また、祭司制度に基づいて神にささげるべき礼拝をささげることが不可能な状態が今に至るまで2000年近くも続いている。それによってキリストは全世界に対して、ユダヤ人にも私たちにも、イスラエルが神の民ではなくなったこと、そしてキリストを信じる者はイスラエルも異邦人も一つの新しい民となったことを示しておられる。その「新しい神の民」とは、神の教会である。

       つまり、イスラエルはもはや特別な神の祭司の民としての地位を失っているのである。そして、新しいイスラエルが始まったのだ。新しいイスラエルは、ガラテヤ人への手紙3章に書いてあるように、アブラハムのような信仰を持つ者は、アブラハムの子孫として受け入れられ、アブラハムの子孫として養子にされるのである。それで、主イエス・キリストを信じる私たちがアブラハムの子孫なのである。私たちが新しいイスラエルである。「イスラエルは、血肉によって決められるのではなく、キリストへの信仰によって決められる」ということをパウロは説明している。

       しかし、それは全く新しいことでもないのである。それをパウロは9章からのところで説明するわけである。先週一緒に見たように、パウロは「エサウを憎む」という難しい神学的課題を取り上げた。アブラハムがケトラと結婚する前、彼には二人の息子がいた。イシュマエルとイサクである。イサクは選ばれた者であったが、イシュマエルは契約の民ではなかった。イサクにも二人の子どもが与えられた。エサウとヤコブである。神はエサウを憎み、ヤコブを愛した。神はエサウを選ばずにヤコブを選び、ヤコブに特別な愛を与え、そのような愛をエサウには与えなかった。その事を見るとき、「それでは、神に不正があるのか」とパウロは問う。今日はその箇所を一緒に考えたい。

       既に見たように、「エサウを憎んだ」と言うとき、憎しみをもってエサウをいじめたというような意味ではなかった。「愛する」と「憎む」という言葉はここで契約的な言葉として使われている。この認識は非常に重要である。神は一人を特別に愛したが、もう一人をそのようには特別に愛さずに敵として愛した。しかし神は、エサウに豊かな祝福を与えたし、神を知る機会も豊かに豊かに与えた。神はエサウに対して非常に親切であったということも、先週説明したとおりである。しかし、そこには明白な区別があるのだ。「ある者を選び、ある者を遺棄した。それは不正ではないのか」と尋ねる者に対して、パウロは14〜16節で答えている。

    それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

       多くの人はここでパウロの教えにつまずくが、パウロは人間の自由をうんぬんしているわけではない。ヤコブとエサウのケースを見ればわかるように、神が人間を見るとき、人間ははじめから罪人なのである。罪人の状態に対して、憐れむか憐れまないかは神御自身が決めることである、とパウロは話している。実は、主イエス・キリストも同じポイントをある譬え話の中で話しておられる(マタイの福音書20章1〜15節)。

       あるぶどう園の主人が労務者を雇った。初めに、1日働いたら1デナリを支払うという約束で労働者たちを雇った。9時に、また市場で別な人たちを雇った。昼12時ごろと3時ごろにも同じようにした。そして夕方5時に、市場で誰も雇ってくれなかった人たちを招いてぶどう園で働かせた。一日の終りに、最後に雇った者たちから順に賃金の支払いを始めた。後に雇った人たちにそれぞれ1デナリを支払わせた。殆ど仕事もしていない人たちや2時間くらいしか働かなかった人たちにもそれぞれ1デナリを支払ったのである。そして、朝9時に雇った最初の者たちが、「自分たちは一日中働いたからもっと多く貰える」と思って支払いを受けに来ると、約束どおりの1デナリしか貰えなかった。それで主人に文句を言った。

       すると主人は、「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分の物を自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」と答えたのである。自分のお金をもって、ある人には特別な恵みを与える権利はないのか。約束した物はちゃんと払ったのだから、不正は何もない。あの人たちには特別な恵みを与えたいのだ。自分の物をどのように使うかの権利はないのだろうか。ある人には特別な憐れみをかけることは許されないと言うのか。そのような譬え話をもってキリストは教えた。

       それと同じようなことをここでパウロは説明している。神はエサウに対して約束を破るようなことは何一つしていない。エサウに対して神は完全に正しかったし、十分過ぎるほどの恵みを与えた。しかし、ヤコブに対しては、正しかっただけでなく、恵みの上に更に恵みを与えたのである。それでは、神はエサウに対して不公平だったのだろうか。否である。約束どおりに神はすべての正義を守っておられた。しかしヤコブには、正しさを行なっただけでなく、特別な恵みをお与えになった。それは、「わたしは、わたしが憐れもうと思う者を憐れむ」と言っておられるとおりである。それだから、16節でパウロが次のように言う。

    事は人間の願いや努力によるのではなく、憐れんでくださる神によるのです。

       このことが決定的に重大なのだ。「事は」とは、最終的に救いについてのことを指している。つまり、最終的には、神の一方的な御恵みとして与えられるものなのだということをパウロは告白している。これは異邦人にとっては絶対に理解しなければならない大切な真理である。イスラエルが神から離れているのを目の当たりにしたとき、「神の約束は失敗に終わったのか」と考えるのではなく、最初から神がアブラハムを取り扱うときも、イサクやヤコブを取り扱うときも、神の導き方は不思議であり、測り知れないものであり、神は私たちのようにはなさらないのである。アブラハムの息子の中にも、イサクの息子の中にも、選ばれている者も選ばれていない者も最初からいたのである。それによって、人間の血と肉によって契約の継続は決まるものではないということを教えている。

       それは人間の努力や願いによるのではない。それは、すべてを永遠から永遠に至るまでを御支配しておられる神によるのである。パウロは「神がどなたなのか」についての真理を単純明快に述べているのだ。そのことを本当に理解しなければならないのである。つまり、神が絶対的主権をお持ちであると認めないならば、いくら神について述べたとしても、神についてもはや何も語ってはいないということなのである。そのことを本当に理解するなら、素直にすべてを神に委ねて、神に信頼するという結果しかないのだ。それを素直に受け入れることができなければ、神に逆らうことになる。つまり、本当の意味で神を神として信じるかどうかは、このことを知った時に試されるのである。17節を見よう。

     

    モーセに対する憐れみ

    聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

       パウロはアブラハムとヤコブの話をし、次にモーセの書に書いてあることについて話してからパロの話をする。ここで、話はモーセとパロの時代に移っている。モーセに対して神が「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と宣言したことには歴史的に非常に大切な意味がある。つまり、モーセに対して憐れみが与えられたことは極めて重要なことであった。モーセは乳児の時に本当ならパロの布告によって他の乳児と一緒に殺されたはずであったが、モーセの母がモーセを小さな“箱舟”のようなものに入れてナイル川に漂わせ、モーセを神に委ねた。その小さなかごには「タールが塗られた」と書いてあるが、その「タール」という言葉は、実はノアの箱舟について記されているのと同じ言葉なのである。

       これは普通どこにでも使われるような言葉ではなく、ほとんどその2箇所でしか使われていない言葉である。それ故、文学的に見れば明らかにモーセはノアのような者として母はモーセをナイル川に流したということであった。パロはユダヤ人のすべて男の子を殺すように命じたが、ナイル川に流して神に委ねたときに、なんとパロ自身の娘がナイル川でその美しい乳児を見つけて自分の家に連れ帰って育てたのである。モーセは、パロによって死刑宣告を受けたようなイスラエルの男の子の一人であったが、神はモーセを特別に憐れむことをお決めになったのだ。そして、パロの家でモーセは高貴な者として成長した。

       モーセは大人になり、40歳の時に、再びパロに殺されるはずだったのが、その時も神が守って死の危険から逃れさせてくださった。80歳の時に、神に遣わされてイスラエルを奴隷から解放して自由にするためにエジプトに戻り、直接パロと対峙しなければならなかった。「パロ」とはエジプトの王の称号であり、そのパロは最初に乳児のモーセを殺そうとしたパロとは別のパロであった。パロに会うときに再び殺される危険があったが、神はモーセを守ってくださった。モーセの人生は、生まれた時から死ぬ日まで、ただただ憐れみを受ける120年であった。神はすべての危険からモーセを守り導き、彼が神に仕えることができるように、またイスラエルを救うことができるようにしてくださった。

       しかし、なぜモーセなのか。なぜ他の子どもではなく、モーセを選ばれたのか。なぜモーセ以外の子どもはパロの命令によって殺されたのか。なぜアロンが選ばれたのか。答えはただの一つに尽きる。「神がモーセを憐れむとお決めになり、イスラエルの指導者としてお立てになると決められたから」である。神はそのための賜物と祝福を与えるためにモーセを選ばれたが、それは他の誰でもなく、ただモーセに与えられた。なぜなのか? この類いの疑問に対して私たちが考え 得る究極的な答えはとても単純なものである。「それが神の御心だったから」と答えるのみである。それは、神の御心が気まぐれだということではなく、神の御心を越える目的や意味は存在しないという意味である。気まぐれどころか、神の御心は永遠に変わらないものなのである。神の御心は、神によって造られた私たちにとって絶対的である。それ故、ローマ人への手紙9章15節が出エジプト記33章19節の引用であることを強調しなければならない。そこで神は次のように仰せられた。

    わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。

       これは、神が人に憐れみを与えない権利を持つという意味ではない。神は、御自身が与えたいと思う者に憐れみを与える権利を持っておられることを意味しているのだ。憐れみ深いことは神が普通になさることであって、「憐れみ」は神の御名でもある。名前は憐れむ者の本質を表わす。神はそのように御自分の御恵みを千代にまでも保たれる御方なのだ(出エジプト記34章7節)。このような神は他になく、神はいつくしみを喜びたもうのである(ミカ書7章18節)。

       憐れみが神の自由な御心によるものである限り、「事は、人間の願いや努力によるのではなく、憐れんでくださる神による」のである。再度言うが、この点は実に重要である。憐れみを与えるかどうかをお決めになるのは神である。そして、「人間は神の憐れみを必要としている」ということが前提である。つまり、人間は罪の中に墜ち込んでいるものなのである。

     

    パロ

       モーセは最も憐れみを受けた人物の一人であったが、パロはその反対であった。モーセがパロに神のことを語るとパロは自分の心を頑なにしたことが出エジプト記に書いてある。モーセと対立するのはあパロである。出エジプト記に「パロが自分の心を頑なにした」と書いてある(出エジプト記7章13節、22節、8章15節、19節、9章7節)。しかし、神がパロの心を頑なにしたとも書いてある(9章12節、10章1節、20節、27節、14章17節)。それ故、パロに対する神の取り扱いとモーセに対する神の取り扱いが全く違うものであったことがはっきりとわかるのである。パロとモーセの究極的な違いはどこにあるのかというと、「神の御計画なのだ」とパウロは言う。そのことを言わないならば、「今のイスラエルはどうなったのか、なぜこのようなことがあるのか」という問いに対する説明は不可能となる。そして、神を神として考えることもできなくなるのである。

       神がパロをそのような者として立てたのは、パロを通して御自分の力を示すためであると書いてある。どういうことかというと、神は十回にわたってパロとエジプトを裁いた。最初の三つの裁きはイスラエルにも同じ懲らしめとして裁きは与えられ、イスラエルもその裁きを受けた。第四から第九までの裁きは、イスラエルとエジプトがはっきりと区別されて裁かれている。十回目の裁きは、「エジプト人であれイスラエル人であれ、神が命じたとおりに羊をほふってその血を自分の門につけるなら裁かれない」というものであった。エジプト人とかイスラエル人とかの区別はない。誰であれ、羊をほふってその血を門の二本の柱と鴨居に塗らなかった者は裁かれたのである。

       最後の裁きは、イスラエルかエジプトかではなく、贖いの血によって守られているかいないかだけが問題であった。それで、エジプトを出たときにはいろいろな国の人々が一緒に出たことが記されている。彼らはイスラエル人ではなく、エジプト人や他国人をむ含む集団であった。彼らは、イスラエルの神を恐れる者たちであり、自分の門の柱と鴨居に羊の血を塗って救われた者たちであった。その十回の奇跡的な裁きによって神は御自分の御名の栄光と力を表わされた。御自分の力をなぜ特別にパロを通して表わすのかというと、当時のエジプトは全世界の中では最も力ある国の一つであったからだ。その当時のエジプトに対して裁きを行なったことにより、全世界に対してイスラエルの神こそ真の神であることを表わすためであった。

       パロは“ラー”(太陽)の息子と考えられていた。昔のパロについての考え方は、日本の天皇についての考え方に非常に似たところが沢山あった。アステカの大祭司と王も同じようなものであった。アステカも太陽を礼拝し、アステカの王は大祭司で太陽の子と考えられていた。アステカとエジプトの場合、太陽の神は男であったが、日本の太陽の神は女神であった。とにかく、昔の宗教にはいろいろな神がいた。ナイル川もエジプトの神であったので裁かれた。アブやカエルも神だったので裁かれた。太陽も彼らには神であったので、神は太陽をも裁いて光を放たないようにされた。そして、パロの長子は太陽の子ということなので、その長子も神の裁きによって殺された。それはパロとエジプトに対する最後の裁きであったが、神はパロに悔い改めの機会を十分に与えたということも言わなければならない。

       つまり、最初の裁きは軽いものであったが、だんだんと重くなる。それでもパロは絶対に従わないということであったので、最終的な最も重い裁きが下されることになった。それによって神は全世界に御自分の力をお示しになった。つまり、エジプトの神々がことごとく裁かれ、奴隷たちが皆、歩いてエジプトから出たのである。そして、紅海では海が分かれて渇いた地となってイスラエルの民を渡らせた。そのことは当時の全世界の知るところとなったのである。昔のエジプトは、北アメリカとも交易関係にあったことが考古学者の発掘によって明らかになっている。発掘によって古代フェニキアの多くの物が出土している。北アメリカの東の方にも多く発見されている。パロとモーセの時代は紀元前千五百年くらいだが、そこまでではない紀元前千年頃の出土品の石に出エジプト記の言葉が刻まれている。それはソロモン王の時代のものだと考えられている。

       昔からエジプトは海上においても多くの国々と交易していた。中国にも行っていたし、紀元前五百年頃の釈迦牟尼の時代にはユダヤ人のいろいろな交易の町々がインドにもあったので、釈迦牟尼はユダヤ人とも話をしていたであろう。古代人は自分の国に閉じこもってどことも交流がないようなものではなかった。それ故、エジプトのパロに対する神の徹底した裁きのニュースは直ちに全世界に伝えられていった。その情報が伝わると、カナン人たちは非常に恐れたということも記されている。エジプトで何が起こったかを知っていたからである。カナンにいたラハブが知っていたということからもその事実は明らかである。イスラエルの神はこのような裁きを行なう神であるということを、中国や他のアジアの国々の王たちも知っていた。

       およそ文化があり、王が支配し、交易している町があるすべての所にこの裁きの事は伝わった。そういう意味で、その知らせは全世界に広まったというのは旧新約聖書に書いてあるとおりである。その裁きを行なうことによって、神は古代の人々に、御自分こそ真の神であることを知らせたのである。それも福音を伝えることであった。当時の世界の最も力ある者を裁き、この世の神々を完全に裁き、それによって真の神が誰なのかを世に示し給うたのである。そのように神は、パロを御自分の名を全世界に示すための器として立てられたのだ。神に逆らう者として用いられ、神に逆らうパロを通して全世界に神の憐れみは告げられたのである。18節を見よう。

    こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

       18節になると、前にエサウとヤコブの話で「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言っているポイントがモーセとパロの歴史においてもう一度、そしてもっと深く語られているのである。「神は、御自分の御怒りをあらわすために、ある者を立ててその心をかたくなにされる」という言い方になっているのである。これはどういう意味なのだろうか。

       ここに誤解してはならないことがある。「パロは一生懸命に神の憐れみを求めて、神に従いたかったのに、その柔らかいパロの心を神が頑なにしたので、可哀相なパロは駄目にされた」というような話では断じてないのである。先週も話したことだが、よくこのような箇所を読んで聖書に反対する人たちがいる。そして、彼らの見方とはそのようなものなのだ。同じ単純な例えを言わせてもらうが、これは、閉ざされた天国の門の前でパロは懸命にそこに入ろうとしているが、門のところで神は「いやいや。もっと頑なになりなさい。もっと心を頑なにしなさい」と言ってパロを追い返してしまったというような話ではない。天国の門は大きく開かれている。アブラハムやペテロがそこで門を守ってるわけではない。

       門は開かれていて、入りたい者は誰でもそこから入るようにと招かれている。「誰でも渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」と黙示録22章17節に書いてあるとおりである。自由に、入りたい者は入りなさい。問題は、罪人の方がみな嫌がって逃げているということなのだ。罪人はみなその門からは入りたくないというのが問題なのだ。入りたくないで神から一生懸命逃げようとしているその罪人の中で、神はある者を憐れんでくださり、他の者は自分の行きたい道を行くままにしたもうのである。これはちょうどローマ人への手紙1章にあるとおりである。1章18〜32節の箇所を思い出してほしい。そこに記されていることは、神が人の心をかたくなにされる過程である。その過程では、人が罪の中にあることが大前提なのだ。18節は次のように言う。

    というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

       「不義をもって真理をはばんでいる人々」は、「ある人々」ということではなく、人類すべてを指している。罪人に対して、神の怒りが天から啓示されている。「罪人」とは何か。「罪人」とは、「あらゆる不敬虔と不正をもって真理をはばんでいる者」のことである。続く19〜24節も読んでほしい。

    なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

       人があくまでも神の啓示を否定するがゆえに「弁解の余地はない」のである。人が心を頑なにして罪を捨てようとしないので、神は、彼らを彼らの心の欲望のままに汚れに引き渡したのである。28節にも、「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡された」と書いてある。こうして神は、罪人を不自由にしていた良心の拘束を取り外し、罪人が自らの意志によって選んだ道を歩むことをお許しになる。これはまさに神がエジプトのパロになさったことである。その結果、パロの反逆はますます酷くなっていった。

       パロの心を頑なにしたということをその方法において考えるとき、真っ白な心を持っていたパロが神を一生懸命求めたのに、ペテロに蹴飛ばされて天国の門に入ることができず、追い返されてしまうというような話ではないのだ。パロは実に汚れた心を持って神に逆らっている。それに対して神は、「どうぞ、あなたの心の思いのままにしなさい」と言いたもうのである。それ故覚えなければならない。神が私たちの罪に対して抵抗してくださるとき、それは実に大きな憐れみなのだ。思いのまま何でも自分のしたいことをしろと言われた時には、破壊の道を歩むしかない。それこそ、他の人々だけでなく、自分をも破壊するようになる。それが何よりも大変な裁きである。神はパロに対してそのように行なったと考えてよい。神はそのような方法でパロに対する裁きを行なったと言うとき、最終的に事はパロによったのかというと、否である。最終的にはすべてが神の御手にあるのだ。

       ただ、神が御自分に逆らっているパロの心を彼自身の汚れた思いに引き渡されたのか、それとも素直なパロに汚れた心を与えたのかという、その違いは実に大きいのだ。しかし、最終的には、神がすべてを計画されたのかというと、そのとおりである。すべてを神が主権的に導いたのかというと、そのとおりなのである。「だから今のイスラエルはどうなっているのかを見るときに、神の御計画全体について考えなければならない」と、パウロは当時のユダヤ人にも異邦人にも言うのである。「神は御自分の計画において何をなさっているのかを見なさい。神の真実を疑うとか、神の計画に失敗があったとかいう話はどこにもないのである。イスラエルの罪も最終的には神の御計画の中にあった。では、罪の責任は誰にあるのかというと、イスラエルにあるのだ。そのこともパウロは更に説明している。9章19節以降を見よう。

     

    陶器師と粘土

    すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 

       「もしすべては神の御計画によるのであれば、どうして神は人を裁くのか。神の計画のとおりではないのか」と言ってパウロに反対する人たちがいた。そして、これと同じ質問を今の時代の西洋人たちも聖書の話を聞くときに好んで持ち出すのである。その点が現代になっても何も変わらないとは、実におもしろいことではないか。もし神の御計画がすべてを支配していると言うなら、なぜ神は人間の罪を裁くのか。事の決定は究極的に神の御手のうちで行われることが本当なら、人は如何にして神の決定に反応できると言うのか。誰が神の意志に逆らえるのか。これは知的にも霊的にも真面目な問いではないのだ。20節にあるパウロの答えを見よ。 

    しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。 

       「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか」という訳になっているが、日本語訳が十分に強調すべきことが強調されているかどうか私にはよくわからない。日本語訳では最初の「しかし、人よ」で文章が切れている。そこで文章を切ることによって、日本語訳はギリシャ語の語順とだいたい同じになる。切らずに訳せば、これが文章の最後にいったりするのかも知れない。しかし、「人よ」と言っているが、このギリシャ語 "anthropos" は、「あなたはただの人に過ぎない」という意味である。人がちりに過ぎず、ただの被造物に過ぎないということを思い起こさせようとしているのだ。「自分が人間に過ぎないということを認識しなさい」と言っているのである。

       「あなたは人間に過ぎない。そして、あなたを裁く御方は、神である。自分が何者なのかを悟りなさい。また、神がどなたなのかを悟りなさい」とパウロは言う。つまり、違う表現で言うなら、「あなたには神を裁く権利もなければ知恵もなく、理解も何もない。なぜあなたは神に逆らい、神を裁こうとするのか」というのがパウロの答えである。決して「人間に責任はない」とは言わない。人間が罪を犯すとき、その罪の責任は100%人間の側にある。だからと言ってそれは神の計画に含まれていないのかというと、否、それはすべて神の御計画の中に含まれているのだ。では、人間の罪はどのようにして神の御計画の中に含まれていて、しかも同時に人間の自由な責任によるのかというと、二つのことがどのようにシンクロナイズしているのかは私たちの理解を越えることなのだ。その二つがどのようにして一緒に動いているのか、私たちには理解できない。

       すべてが神の御計画のとおりだというのは全くその通りなのだが、同時に、今日私たちがここにいるのは自分の選択によるのであって自分で来ようとして来たのも事実である。「絶対、教会には行かない」と言っていたのに、何かに引っ張られていつのまにかここに来てしまったということではないのだ。更に、朝食で何を食べたのかも、私たちの自由な選択によったのは事実である。何事であれ、私たちは自分の自由な意志によって生きている。そして、自分の選択に対する責任は自分のものだということは、皆が痛いほどわかっていることなのだ。同時に、それらは神の御計画のうちにあったのである。

       主イエス・キリストの十字架の下で、キリストの衣を誰が取るかでくじ引きがなされたが、その事は遥か昔に書かれた詩篇22篇に預言されていた。主イエス・キリスト御聖誕の約千年も前に、メシアが殺されるときにそのような事が起きると、詩篇には文字通り預言されていた。しかし、ローマ兵たちは十字架にかかっているキリストの下で何かに強いられてそれをしたのではない。何か変なことが起こったという話ではない。彼らは自由な意志でキリストの衣を欲しがり、それをくじ引きにしたのだ。また、「彼の骨は一つも砕かれることはない」ということも同じ頃に書かれた詩篇34篇にあるが、ローマ帝国の兵隊はキリストの死期を速めるために足の骨を砕こうとして近づいたが、キリストが既に死んでいるのを見てその骨を打ち砕かなかった。それも何か変な光があったとか、何かそれを禁じる声が聞こえたとかいうようなことではなかった。その兵隊は自分の意志でそれをしなかったのだ。

       神の支配と人間の自由意志は一緒に動いている。どうして一緒にそれがシンクロナイズされて動くのかは私たちにはわからない。しかし、そのような実に細かい事柄においても、神の御計画どおりに事が成っていると同時に、ローマの軍人は自分の意志でやりたいことをやっただけなのである。その事実を私たちは見て取ることができる。それ故、自分の犯した罪を神の責任にする人たちは、心の中では、それが自分の責任においてしたことだということは十分に分かっている。それでも「神のせいだ。神の責任だ。神が悪いのだ」と言っているのは、真剣にそう言っているのではなく、ふざけているのだ。

       それで、パウロは、ふざけている者に対しては、気を付けて哲学的な説明を丁寧に100頁も書いたりはしない。「あなたはただの人間に過ぎないのに、神に逆らって、神を裁こうとするのですか」と言うのである。それがまさしくその人の心の問題だからである。その心をパウロは鋭く取り扱う。御言葉を聞くときに逆らう心をもって聞くので何もわかっていないということが問題なのだ。そのような異議を申し立てる者に対してパウロは、その質問の背後にある心に対して答えるのである。相手は愛なる義なる絶対者なる神である。そして、形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるのだろうか、とパウロは問う。神が私たちを造ったので、当然すべての事柄を決める権利は創造主である神にある。神は神であられるので、神が私にこのような能力しか与えなかったなら、私はそれに対して文句は言えない。否、寧ろ、感謝しかないのである。

       「もっと能力が欲しかった。別の時代に生まれたかった。別の名前がほしかった。アメリカ人じゃなくて、フランス人に生まれればよかった。もっと足が長かったらいいのに」などなど、何でもかんでも罪人は不平を言うことができる。しかし、それを言う権利があるのだろうか。むしろ自分に与えられたものを見て、感謝しなさい。それは神から与えられたのだ。そのことを悟って感謝するのが正しい応答である。しかし、この神に逆らう者たちは、「なぜ神は私をこのような者に造ったのか」と言ってはばからない。もし逆らう人間が、「神は神です。神に言い逆らうあなたは何者か」と言うパウロの言葉を聞いて、「そうか。私は創造主に対して逆らっているのだ。創造主は、創造する時に御自分の意のままにどんな被造物でも造る権利がある。確かにそのことを認めなければならない」と理解するとき、その逆らう心はもう消えているのである。

       逆らう心が消えるとき、人は自分の創造主を信じて救われる。もはや選ばれているか選ばれていないかの問題は関係なくなるのだ。なぜなら、神の選びと計画は、私たちが一生懸命考えればわかるというものではない。その事については「誰が選ばれているのか、誰が選ばれていないのか」と考えるのではなく、「神の完全な御計画がある」ということを信じるのである。そのことを知るとき、事が成るか成らないかは自分の理解にはよらないということがわかる。それ故、神に信頼して委ねることができる。どうなっても、そして自分の理解を越えるような大変な問題にぶつかるときも、神には完全な御計画があるということを知って、素直に神に委ねて信頼して従うことができるのである。自分の思いや煩いや心配事によって信仰が壊されて駄目になるというのではなく、神がすべてを益となるように導いて助けてくださることを信じて歩むのである。

       父なる神に信頼する素直な心を持つなら、それが信仰の心であり、救われる者の心である。「周囲の者はみな私よりも優れている。私よりも祝福されている。どうして私はこうなのか。不公平だ。私は大変だ」と言ってはならない。創造主なる神は、被造物を御自分の思いのままに造り、そして御自分の完全な御計画に従って導きたもうのだ。その絶対なる神を信じて、逆らう心を捨てて素直になったとき、人は救われる。その時、自分はどうのこうのとか、あの人はどうのこうのとか、選びはどうのこうのとかいう問題は全部消えてしまう。そのようにパウロはこの問題を取り扱っているのではないかと思う。

    陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

       つまり、パロのような者に対して実に神は豊かな寛容をもって忍耐をもって取り扱ったのである。しかし、最終的にパロは神のすべての親切と忍耐を地に投げ捨てて、その寛容をことごとく軽んじた。神はそのようなパロを歴史に与えて神の怒りの器とされたのである。それが神の御計画の中にあったとしても、ただ人に過ぎず、被造物である私たちは、神の御計画に対して逆らうことがどうしてできようか。人間と土の違いは、神と人間との違いと比べれば、ほとんど違いはないのである。

       神は永遠にして絶対なる無限なる御方である。創造主である。神は万物を無から創造した。人間も、土のかたまり(粘土)から何かを造るとき、陶器師は自分の造りたい作品を自由に作ってよいのだ。それは誰でも認めていることだ。それならば、創造主である神がその絶対的な権利を私たちに対して持つのは当然なことではないか。恐れつつそれを認めて受け入れるとき、私たちの逆らう心は消えているのだ。そして、喜びと感謝をもって神を礼拝する心が生まれてくる。喜んで「神は神である。私の主である」と告白する心に変わっているのだ。23節を見よう。

    それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

       最終的にすべては、神が私たちに憐れみを与えて栄光の祝福を与えてくださるためである。そのためにも、神はパロのような者を立ててくださった。それは確かに恐るべきことであり、確かに私たちの理解を越えることである。確かに、全部を細かく説明しようとしても、説明できないところがあるのは事実である。しかし、神が神であられるなら、それは問題とはならない。神に信頼し、神の愛と義を信じるかどうかだけが人間にとっては問題なのだ。それに逆らう罪人にどれほどの愛があり、どれほどの正しさがあると言うのか。自分の心はそんなにきよいのか。実は、そのことは自分が一番よく知っているはずである。自分の胸に手をあてれば、自分の罪と心の頑なさを知らない人はいない。そのことで自分を欺こうとしても無駄である。罪を裁こうとしておられる神は、義と聖と愛に満ちておられる。自分の方が悪いのは、罪人が皆わかっていて逆らうのである。

       これは実にアダムと同じことなのだ。神がアダムに現われて「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と聞いたとき、アダムの答えはすべての罪人と同じものであった。「あなたが私のそばに置いたこの女が・・・」と言うのである。まず神のせいにしている。「あなたがこのような状態を作らなければ、私は罪を犯さなかったでしょう。あなたが、この女を、私に与えたから・・」と言う。へブル語では非常に失礼な言い方になっている。自分は被害者だと言いたいのだ。それは全くの偽りであるし、神に逆らう心を一層よく表わしている。その時以来、罪人の心は何も変わっていない。最終的に自分の問題を全部、まず神のせいにするのである。そして意識的に周囲の人のせいにする。

       「世界の中で素直できよくて親切で善に満ちている者は私だけだ」と、罪人はみな出来ることならそう言いたいのである。そのような思いが心の深みのどこかに潜んでいる。釈迦牟尼もそのようなことを言っていた。「自分だけは悟りを開いた者だ」と言うのである。そして、悟ったことといえば、「なぜ人間に悪があるのかというと、宇宙のせいだ」と言うのである。つまり、形而上学的な答えなのだ。宇宙が悪いので人間はこのようなものになっていると釈迦牟尼は考えるのである。「それを悟ったとき、そこから解放される。そして、それが救いになる」と考えるのである。結局のところ、「神のせいだと悟ったときに解放される」というような救いの方法になっているのだ。

       横道になってしまったが、罪人は、宗教においても哲学においても、自分の自己中心な思いにおいても、「神のせいだ。あの人のせいだ」と言おうとして、結局のところ自分の罪を悔い改めることはどうしてもしたくないのだ。その為にはあらゆる方法や口実を編み出すのに長けている。それでことは複雑になる。神の主権を受け入れない者の本質的な問題は、神の御前でへり下ることを受け入れない傲慢にある。自分や周りの者が知的探究者なのだと信じ込ませることができたとしても、実際のところ彼らの問題は心の問題であって知的な問題ではない。神は神であられる。神は、御自分が創造したものすべての上に主権を持っておられる。

       パウロの答えを聞いて、素直に神の御前にへり下り、その救いの招きを受け入れる者は、悪意をもって質問したはずなのに、その答えによって救いへと導かれ、神を喜ぶ者に変えられるという皮肉なことになるかも知れない。本当は、ことは非常に簡単なのだ。自分の責任を100%認めて、“エバ”のせいにせず、神のせいにせず、自分の罪を素直に認めて、悔い改めて自分の救い主キリストを信じればよいのだ。これより簡単な道はないのである。ところが罪人にとっては、素直に自分の罪を認めて神の赦しと憐れみを求めることがとても難しいのだ。他人のせいにする方がよほど簡単に思えるし、すぐにそうしてしまう。そこに罪人の心の問題があると思う。

       そのためにも神は私たちに聖餐式を与えてくださった。聖餐式のときに私たちは、はじめに主イエス・キリストを信じた時のように、自分が罪人であることを認める。「罪人だったけど、今はもう良くなった」という話ではないのだ。「私は罪人です。私は罪を犯し、私の心にも罪はある。私は愚かで、あなたの御恵みを必要とします。どうか、神さま。この罪人を憐れんでください」ということを、聖餐式を受けるときに、行動において神に祈り求めるのである。それ故、聖餐のパンと葡萄酒を受ける前に、静かに祈りをもって自分の罪を悔い改めて、神を信じ、神の赦しを求めるのである。そして、キリストに従う心を新たにして、聖餐式を受けるのだ。

       このことは礼拝において重大なことである。これは出発点に戻ることでもあるが、これは礼拝の本質である。「私は100%、救いを、あなたから与えられました。あなたが私を求めてくださり、あなたが私を一方的に愛してくださった。すべてはあなたから与えられたのです。私はへりくだって、素直にそれを受けます。すべてはあなたの恵みから出たことです。私は喜んでそれを受け入れます。そして、あなたに信頼します」と、告白するものである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を行ないたい。

     

    ――2001年4月15日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙9章6〜16節

    ローマ人への手紙9章22〜29節

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