ローマ人への手紙11章11〜15節
11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
2001.07.08. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
ユダヤ人のねたみ
11章11〜15節
このローマ人への手紙11章は難しい箇所で、いろいろと違う解釈があることは先週すでに話した。そして、正しく解釈するための鍵として、26節を通して、どのようにこの箇所全体を考えるべきかを少し見たところである。パウロがここで話している事は、一世紀において既に成就された事であるというポイントも既に説明した。原則的に言えば、「聖書に書いてあることは、聖書を通して解釈することができる」という点に基づいてこの箇所も、そして黙示録も、また他の箇所も解釈されなければならない。「聖書の中で考え、聖書を通して聖書を解釈する」のである。この大原則に立って考察するとき、紀元七十年に神が神殿を裁いて破壊したという事実の重大さを深く感じさせられるのである。
旧約聖書を読むと、ダビデの時代からイスラエルは王国となり、後にその王国は北イスラエル王国と南のユダ王国の二つに裂かれた。北イスラエルはその歴史の最初から、即ちヤロブアム王の時からずっと偶像礼拝を行なって神に対して罪を犯し続けたので、紀元前720年頃に、神はアッシリアによってイスラエルを裁き、北イスラエル王国を破壊した。そのことをイザヤ書の中では、「神である主が軍を送ってイスラエルを裁く」というような言い方で預言している。例えばイザヤ書19章では、エジプトに対する裁きが宣言されているが、「見よ、主は速い雲を駆ってエジプトに来られる」という言い方をしている。では、神が文字通りに「雲に乗って来る」という話なのかというと、そうではない。実際には、神はエジプトに軍を送ってエジプトを裁いたのである。
「雲に乗って来る」という言い方は、神が裁きを行なうことを象徴的に表わす言い方であることを旧約聖書の至るところから明らかに見ることができる。歴史的に見れば、神はバビロンやアッシリアを用いてイスラエル王国とユダ王国、そしてその周りの国々に対して裁きを行なったのである。そして、北イスラエルに対する裁きと南のユダに対する裁きについては、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書など多くの箇所に記されている。エレミヤ書にもあるが、特にエゼキエル書では神殿に対する裁きが強調されている。なぜなら、神殿は神の住まいだからである。神がそこに住まわれ、御自分の御力と御恵みとを表わし給うのである。それ故、その神の住まいをイスラエルから取り除くということは実に大変な裁きなのである。
「神が、御自分の契約の民であるイスラエルを離婚させたので、イスラエルはバビロンに囚われて行く」ということがエゼキエル書に記されている。ホセアもその歴史的な大事件を記録している。イスラエルが神の契約を破ったので、神はイスラエルを離婚させた。その結果、イスラエルは七十年間バビロンの捕囚となって神の懲らしめを受けた。しかし、神は御自分の民を憐れんでくださって、エズラの時代(ダニエルの死の直前)に神はイスラエルをユダに連れ戻してくださって、神殿を再建させた。神は、再建された神殿に住んでくださり、イスラエルは悔い改めてもう一度、神の民として歩むようになった。そのことは、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ゼカリヤ書などで非常にはっきりと預言されていた。
主イエス・キリストが世に来られたその時代は、ちょうどエレミヤやエゼキエルの時代のようであった。イスラエルは再び神から離れ、神に逆らっていた。礼拝においても、日常生活においても、神に対して大変な罪を犯していた。それだから、主イエス・キリストの最後の説教は、弟子たちが建設中の神殿を見てその素晴らしさに感心した時であった。キリストは弟子に、「あなたがたはこの神殿を見ているのか。この神殿をわたしは完全に裁いて破壊する」と言っている。またマタイの福音書24章でキリストは、「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」と言っておられる。つまり、「この世代が滅びる前に、わたしはこれらの事をすべて行なう」と言われたのである。
「雲に乗って来る」という話もその中にある。キリストは、神殿を裁いて破壊した。それによって、イスラエルは神の民ではなくなった。再び70年後に神殿を再建するというようなことはもうないのである。神殿が破壊されて、ヘブル人への手紙にあるように、犠牲制度などもすべて主イエス・キリストにおいて完全に成就した故に、それは最終的な「終り」であった。再び神殿を再建したり、いけにえをささげたりすることはないのである。
先週も話したが、マタイの福音書24章のキリストの言葉で明らかなように、神殿に対する主イエス・キリストの裁きは、主イエスがメサイアであることをはっきりと示すものであった。30節に、「その時、人の子のしるしが天に現われる」とある。日本語の訳の語順が少し違うが、ギリシャ語の語順に従えば、「人の子が天におられるというしるしが現われる」という訳が正しい。そして、イスラエルの部族は悲しみながら、キリストが力を帯びて来られるのを見ると言っている。即ち、主イエス・キリストがイスラエルに裁きを下すのを見るのである。神の神殿が破壊されるのを見るとき、イスラエルは、「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去らない」と言われたキリストの言葉を思い起こす筈であった。マタイの福音書24章でキリストが語ったことの成就がいつなのかを、キリストははっきりと話している。
その言い方は確かに比喩的であるが、それはイザヤ書、エゼキエル書、エレミヤ書にあるのと同じ比喩なのだ。そこにあるキリストの表現は全部、旧約聖書にあるような表現であった。弟子たちはユダヤ人であり、旧約聖書をよく知っていたので、主イエスがその言い方を使うのを聞くときに、神殿に対する裁きのことを思い起こすのである。キリストの時代は、エレミヤやエゼキエルの時代と同じような時代であることもわかる。そして、主イエス・キリストがヤハウエなる神として雲に乗って来られてイスラエルに裁きを下すのだということもよくわかるのである。イスラエルの神殿が破壊されたとき、主イエス・キリストはメサイアであること、そしてキリストの言葉はすべて成就したことが、弟子たちにはよくわかったのである。
異邦人とユダヤ人に関するパウロの教えは、キリスト教史における第一世代において神が何をしてくださったかという新約聖書のより大きな枠組みの中に入る。ユダヤ人の問題は、福音書、使徒行伝、新約書簡の主な関心事の一つであった。イエスはイスラエルのメサイアとして彼らの所に来られたが、彼らはこの御方を受け入れなかった(ヨハネの福音書1章11節)。イスラエルの指導者らはメサイアの宣教の働きにことごとく反対した。使徒行伝の中でメサイアの正式な代表である使徒たちがイエスのなさったような奇跡を行なったりしていたが、それはイスラエルのメサイアが本当に世に来られたことを彼らに示すためであった。ヨエルの預言も成就されて、主イエスを通してバベルの塔の裁きが終わったことを表わした。多くの証拠が明らかに示されたにもかかわらず、ほとんどのユダヤ人は心を頑なにして信じようとしなかった。
パウロはその歴史の事実を土台としてもって、自分の時代の事について話しているのだ。その時代は、まだ異邦人とユダヤ人の区別があった時代である。一世紀のその時代において、明らかに二種類の神の民、二つの神殿、神が特別に顧みられる二つの対象、すなわち古い契約の民イスラエルと新しい契約の民である教会とが存在していた。そして、その事実の中にあって様々な問題が持ち上がっていたので、パウロは若い諸教会に宛てた手紙において繰り返しそれらの諸問題を取り扱っている。パウロの時代は特別な時代であった。パウロはエルサレムに行った時にはいけにえをささげていた。いけにえ制度はキリストの十字架と復活によって成就されたのに、どうしてパウロはいけにえをささげるのか。それは、まだ神殿が取り除かれていないからである。神殿が神の家であることは、パウロの時代でも変わってはいなかったからである。
ユダヤ人であるパウロは神殿で礼拝することができた。ユダヤ人と異邦人の区別には、パウロが生きていた時代においてはまだ意味があったのだ。パウロはユダヤ人として神殿で礼拝を行ない、ユダヤ人としていけにえをささげた。そうすることは少しも問題ではなかった。しかし、神殿が破壊された紀元七十年以降は、ユダヤ人も、異邦人も、誰も本当の意味で神が受け入れてくださるようないけにえを実際にささげることはできなくなった。そして、誰もそれをささげてはいないのである。その意味において、古い「イスラエル」はもはや存在しなくなった。祭司の民である「イスラエル」はもう存在しない。「イスラエル」が存在しなければ「異邦人」も存在しないことになる。「異邦人」の定義は、「イスラエルではない民」という意味だからである。
しかし、新約聖書の中では「異邦人とイスラエル人」という言い方を使っている。それは比喩として使っているということは何度も説明したとおりである。「イスラエル」は「神の民」であり、「異邦人」は「神の民ではない人々」であるから、新約聖書では「救われている者」と「救われていない者」とを比喩的に表わす言い方として使われている。ヨハネの第三の手紙7節に、「彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません」とあるが、ヨハネは「ユダヤ人の献金なら受けるが、異邦人のクリスチャンからの献金は受けない」と言っているのでないことは明らかである。それが比喩的な言い方であるのは簡単にわかる。
そういうわけで、エルサレムとその神殿が紀元七十年に破壊されるまでの約40年の期間、曖昧な状態があって、その曖昧さが問題の源となっていた。その期間はいわば移行期であった。しかし、神殿が紀元七十年に破壊されると、イスラエルが神に裁かれたことが全世界に明らかになった。その相続は他の者に与えられたのである。その時以来、この世における教会の地位は全く異なったものとなった。この大きな歴史的・神学的背景を認識し、これら全体的なポイントと枠組みをしっかり覚えてローマ人への手紙11章のところを読むならば、パウロが教えている意味を理解することはさほど困難ではないのではないかと思う。そして、この基本的な認識無しに勝手に解釈するなら、とんでもない解釈になりかねないのである。
異邦人とねたみ
11節に戻るが、そこでパウロは、イスラエルは完全に倒れるために躓いたのかというと、「絶対にそんなことはない」と言っている。
では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
パウロは異邦人に説明している。パウロは異邦人に遣わされた使徒である。パウロの宣教の働きは、何よりも異邦人に対する働きであった。そして、異邦人に遣わされた使徒としての働きをパウロは誇りに思っていた。異邦人に福音を宣べ伝え、パレスチナの外の広い世界へ福音を広めるようにパウロは神から任じられていた。パウロは主イエスの弟子の中で異邦人の所へ行った唯一の者ではなかったが、その中で最も重要な者であった。ローマ帝国の異邦人の間での彼の働きは、西方教会を設立することになった。しかし、彼にはもう一つの目的があったのである。パウロは、彼が福音を伝えたすべての町で、異邦人が聖霊の特別な賜物を受け、病が癒され、主イエスをメサイアと呼ぶようになることで、ユダヤ人に「ねたみ」を引き起こしたのである。
パウロはパリサイ人であったし、イスラエルの中の有名人であり、生粋のユダヤ人であった。そのパウロが「私は異邦人に福音を伝えるのを誇りに思っている」と言うのを聞いて、異邦人は驚いたであろう。なぜ誇りに思っているのかというと、自分のその働きによって、あるいはもっと多くのユダヤ人が救われるかも知れないからである。つまり、「同胞のユダヤ人のために」という強い思いも同時に持っていたのだ。勿論、最終的にユダヤ人が救われるためだけではない。異邦人が救われることをパウロは心から求めて、そのために働いている。しかし、異邦人が救われることによって、ユダヤ人が「ねたみ」を覚えて福音に耳を傾けるようになり、もっと多くのユダヤ人が救われるであろうことをパウロは望んでいるのは疑い得ない。そのことをパウロは13〜14節で話している。
13そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。14そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11節、そしてこの13節と14節はどういう話なのかというと、使徒行伝の中でそれを見ることができる。使徒行伝を見ると、パウロはまずユダヤ人の所に行って福音を伝えている。そこでしばらくイエス・キリストのことを話すと、そこから追い出されてしまう。何人かのユダヤ人と、割礼を受けていないがイスラエルの神を礼拝している異邦人たちがパウロと一緒にユダヤ人の所から出て、異邦人の所に行った。異邦人の所で聖書を教え始めると、大勢の異邦人が集まってきた。しかし、パウロはパリサイ人であり、ユダヤ人である。ローマ人への手紙1章で言っているように、パウロが伝えている福音はすべて旧約聖書からの言葉なのだ。パウロはメサイアについて話している。それを聞いた異邦人たちはメサイアを信じた。
そして、ヨエル書に書いてあるように、イスラエルに与えられる筈だった御霊の祝福は異邦人に与えられて、異邦人たちが異言を語り始めたのである。異言を語るのも、興奮して訳の分からない事を無秩序に語るのではなく、いろいろな国の言葉で神の御名をほめたたえるというものであった。それは使徒行伝に書いてあるとおりである。「これはイスラエルに対するしるしである」と、コリント人への第一の手紙14章で説明している。イスラエル人が異邦人を見ると、病人は癒され、異言を語り、奇跡が行われ、死んだ者が生き返るのを見て心が騒いだ。イスラエル人はイザヤ書に記されていることを知っている。即ち、メサイアが来たなら、盲目な者は見えるようになり、足萎えが歩くようになり、病気の者は癒され、死人は生き返ると書いてある。それはメサイアを表わすしるしなのだ。
そして、使徒行伝を見ると、実際にそれがキリストの弟子たちによって行なわれているのだ。勿論、福音書の中では、キリストが来たときに、キリストはそのような奇跡を行なったことが記されている。しかし、キリストが天に昇られた後、使徒たちがメサイアの代表であることが明らかにされるために、使徒たちはその同じ奇跡を行なったのである。キリストが預言しておられた通り、弟子たちはキリストよりも大きなわざを行なうのである。即ちキリストがマタイの福音書14章12節で、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」と預言した通りであった。
例えば、ペテロが歩いていて、ペテロの影がかかる者は癒されたり、町々から大勢の病人や汚れた霊につかれた人たちが連れられてペテロの所に集まったが、一人残らず癒された。また、ペテロの一度の説教で三千人が信じてその場でバプテスマを受けたりした。ユダヤ人たちはそれを見て、そしてパウロが「イエスがキリストである」と教えるのを聞くと、怒り狂ったのである。「イエスはメサイアではない」と叫ぶ。しかし、信じた異邦人たちが御霊に満ちて異言を語ったり、癒されたり、生活のあり方も大きく変わっていく、その祝福されている異邦人を見るとき、心の動揺は隠せなかった。
異邦人たちが聖書を熱心に学び、そして聖書からイエス・キリストのことを語っている。異邦人が聖書を学び、アブラハムの神を喜んでいるのだ。そのことはユダヤ人らを悩ませた。イザヤ書53章や詩篇22篇などに書いてある御言葉を、異邦人が証ししているのである。それで、ユダヤ人たちの怒りはますます増大していった。もっと強くねたみを感じるようになった。その実際に使徒行伝において成就が見られるとおりのことを、パウロはこの11章で話しているのである。
どこまでユダヤ人がねたみを感じたかというと、あるユダヤ人のグループはパウロを殺すまでは断食を敢行すると誓ったほどである(使徒行伝23章12節)。思うに、その人たちはパウロを殺せなかったので、断食して死んでしまったのではないか。そこまでユダヤ人はパウロを憎んだ。パウロはイスラエルの中ではあらゆる意味で著名な人物であった。クリスチャンを殺す役目を喜んで引き受けたユダヤ人の若きリーダーであった。その際立って目立つユダヤ人の指導者であるパウロがクリスチャンになって、ローマ帝国のいろいろな所を旅してイエス・キリストの福音を伝えているのはユダヤ人にとってはとんでもない恥であった。事もあろうに、パリサイ人の中でも偉大であった人物が命がけで異邦人に福音を伝えているのだ。それは目立って仕方がないことであり、目の上のたんこぶであった。その点においてもユダヤ人は極度のねたみを感じていた。
しかし、実に神は無視できない証しをパウロの身においてなされたことを私たちは見るのである。神は、最も偉大なパリサイ人の一人を奇跡的に救ってくださったのである。迫害者が伝道者に変えられたのだ。そのことをパウロは証ししている。何度も言うが、パウロの証しと熱心なキリストへの献身は、ユダヤ人らにはこの上ない恥であった。ところで、前説の立場を取るディスペンセーショナル主義者たちは、この箇所を今の時代に適用している。正確には「今」とは言えないが、私がクリスチャンになったのは1971年で、その翌年に、「1948年にイスラエルがまた独立国家を樹立したので、その世代においてすべてが成就されるから、1981年から患難時代に入り、キリストの再臨は1988年になる」という説教を聞いて興奮したのを私は覚えている。しかし、今の時代にこの箇所を適用するならば、「では、異邦人が救われれば救われるほど、ユダヤ人はねたみを感じる」ということになるのだろうか。そんなことはないのである。今の時代のユダヤ人は、異邦人が救われるかどうかについてはあまり関心がないのだ。
アメリカ在住のある有名なラビが本を出版したが、その中で彼は「もっとクリスチャンが増えたらよいのに」と言っている。その理由は、大都市に住んでいて犯罪が急増しているからだと言う。「クリスチャンになればおとなしくなってくれるのだから、早く皆がクリスチャンになればよいのに。そうすれば治安も良くなり、町も安全になる」と言うわけである。「アメリカの犯罪の問題が深刻なのは、クリスチャンが少ないからだ」と、そのユダヤ人の指導者が言っているのである。イエスに改宗するのは異邦人がするはずのことだと考えているのだ。もしもイスラム教徒がクリスチャンになったらパレスチナのユダヤ人は大喜びするだろう。それは戦争や紛争の減少を意味するからである。「異邦人はクリスチャンになった方がよい。ユダヤ人の場合はまた話は別だ」と彼は考えているのだ。それが現代の“ユダヤ人”の考えであって、ねたみなど持つべくもないのである。「世界の安全のためには、異邦人らはどんどんクリスチャンにでもなったらいいのだ」と、彼らは思っている。
パウロの時代はそうではなかったのだ。ユダヤ人の偉大なリーダーである筈のパウロが、「イエスはメサイアである」と宣言しているのである。それは、ローマ帝国が十字架の極刑によって殺したユダヤ人の大工の話をしているのだ。ピラトは、イエスの死刑の執行に際して、十字架の上に「これはユダヤ人の王イエス」という罪状書きを掲げさせたのである。ユダヤ人の怒りは絶頂に達していた。その男を指して、パウロは「この御方こそメサイアである」と言うとき、ユダヤ人の怒りは更に募った。その一方では、救われた異邦人たちが、ヨエル書に記されてあるとおりに特別な御霊の祝福を受けているのである。キリストを信じて救われた異邦人の所に集まった病人たちが一人残らず癒されている。異邦人がメサイアの約束を受けたという御霊の証しがはっきりとそこにある。
ユダヤ人は窮地に追いやられていた。異邦人が救われれば救われるほど、強いねたみを感ぜずにはおれない時代だったのである。そして、パウロは、自分の異邦人ヘの宣教には二次的な意味があることに気づいた。そこには、ユダヤ人たちに、彼らがイエスにしたことを再考するように促す意味があったのだ。イエスとは誰であったのか。なぜこの御方は忘れ得ぬ存在となったのか。そのことを彼らに尋ねさせたのである。異邦人の救いは、神によって頑ななユダヤ人を御自身の元へ立ち返らせるためのものなのである。
このパウロの話は明らかに一世紀に属するものであり、教会の最初の世代に限定されるものである。一世紀の神殿の破壊以来、ユダヤ人と教会の関係はパウロの時代の関係と違うものとなった。キリスト教とは、新しい宗教、ユダヤ教とは異なった宗教である。キリスト教の観点から見ても、神殿の破壊に関する主イエス・キリストの預言の成就は、神の契約の民としてのイスラエルの歴史が終焉したことを意味した。イスラエルは、多くの国々の中の一つに過ぎなくなったのである。
そして私たちは、一つの明らかな事実に目を留めなくてはならない。即ち、神殿が破壊されて新しい時代に入ったとき、奇跡や異言の賜物はもう過ぎ去ったのである。それらの特別な賜物は、その特別な期間においてのみ不可欠であり大きな意味を持つものであった。キリストの昇天から神殿破壊までの四十年間の意味というものは実に重大なものだったのである。イスラエルの完成、そして古い契約の完成、異邦人の完成がその期間の中で成就されたのである。十字架でキリストは罪に対する裁きを行ない、よみがえって天に昇られて神殿を裁いて破壊したときに、古い契約は完全に永久に終わったのである。そして、新しい契約の時代が始まった。神殿がまだ残っている間は、古い契約と新しい契約は混在しているような状態になっていた。それがその四十年間の状態であった。それ故パウロは12節で、そして同じポイントを15節で、繰り返し話している。
完成
12もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
15もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
つまり、「イスラエルの完成は世界にとってのよみがえりである」とパウロは言っているのだ。それでは、パウロがここで言っている「イスラエルの完成」とは何であろうか。「イスラエルが捨てられたのが世界の富であれば、彼らが受け入れられるのは、どんなか素晴らしいことか」と、パウロは言う。ヨハネが黙示録の中で長いページを割いて述べているのはこのことである。エルサレムの神殿が裁かれたとき、「キリストの教会のみが神の民である」ということを、イスラエルは明白に全世界に伝えることになるのだ。
今日の私たちの周りは、本当の意味においてはあまり宗教的なことに気付かない世界になっているが、昔のパウロの時代はそうではなかったことを私たちは知っている。例えば、バビロンがある国と戦争して勝利を得たときに何をするかというと、その国の神殿にあった偶像を全部バビロンに持ち帰って、バビロンやその周りの町に安置したりする。つまり、他の国に勝ったとき、自分の神が勝ったと考えるわけだ。そして、その敗戦国の神々を自分の神の所に連れて来て安置すれば、敗戦国がバビロンに上納金を払ったりするのと同じように、その国の神々はバビロンの神に仕えることになると考えるのである。
イザヤが笑ってばかにしていることだが、バビロンは自分が危なくなると、周りの偶像を全部バビロンに持って来くる。そうすればもっと力を持つようになるし、バビロンを守ることができると考えた。昔のバビロンやアッシリヤなどの大帝国はそのようにしていた。ペリシテ人もイスラエルの神の契約の箱を奪ったときに、それを彼らのダゴンの神の神殿に安置したところ、翌朝、主の契約の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。ペリシテ人はダゴンを元に戻したが、その翌朝、また主の箱の前にダゴンはうつ伏せに倒れており、しかもダゴンの頭と両手は切り取られて胴体だけになっていた。恐れたペリシテ人たちは、神の契約の箱をイスラエルに送り返したのである。そのように、昔の世界は今日と違って非常に宗教的に敏感な世界であった。
中国のキリスト教の歴史について最近知られるようになったことだが、使徒トマスによって福音はインドに伝えられ、更にインドから中国に伝えられた。三世紀から四世紀の頃にはかなり福音は広まってキリスト教は成長し、七〜八世紀頃の中国ではヨーロッパよりもクリスチャンが多かったと言われている。そのように全世界に福音は広まった。そして今も続けて広まっている。そのことをパウロは言っている。即ち「死者の中から生き返る」と言っているが、それは新しい契約の福音の救いの力が表われるということを話しているのだ。
私たちは日本に住んでいる。この日本では百年間も福音が伝えられているのに、あまり広まらないのを見て「どうしてなのか」と思ったりする。その理由については以前に話したと思う。二十世紀の初めのアフリカでは人口の5%が何かの意味でクリスチャンであったのが、今は50%が何かの意味でクリスチャンになっている。これは歴史的に見れば実に大きな変化である。これらの史実は教科書には出てこないものだ。中国のクリスチャンの人口は今日では日本の全人口よりも多くなっていると言われている。一人一人がすべて真のクリスチャンではないとしても、クリスチャンの数は着実に増えている。韓国も30%と言われており、シンガポールも最近の調べでは30%に達したと言う。アジア諸国で聖書信仰は増えており、ロシアにおいても、アフリカにおいても南米においても、増えているのである。
決して福音の力が弱くなっているのではない。「もう、この世は強くてクリスチャンは弱い。キリストの再臨はいつなのか。いつ携挙の時は来るのか」と言って待つしかないようなことではないのである。「いのちの力」「よみがえりの力」が新しい契約において表われる。「教会」のみが「神の民」である。他に神の民はいない。エルサレムの神殿が破壊された時にそのことは明白になった。そして、福音は異邦人の中にあってどんどん増えて行った。今も増え続けている。そして、クリスチャン個人の成長(聖化)もそうであるが、急成長する時もあるし、足踏みしたり、スランプのような時もある。しかし、はっきりと生長を続けているのである。
それと同じように、教会全体の成長の程度は時代によって違うのも事実である。罪に落ちてだめになった時代もあったし、悔い改めて神に立ち返った時代もある。ちょうど今朝は詩篇51篇を交読したが、この詩篇は、ダビデがバテ・シェバと罪を犯したことについてナタンがダビデを叱責した時に、ダビデは悔い改めて書いた詩篇である。間もなく子どもが生まれようとしていたので、約一年間、ダビデは罪を悔い改めていなかった。姦淫を犯したイスラエルの王ダビデは、一年間も悔い改めようとしなかった。そのような時は個人においてもあるし、そういう時代は教会全体においてもある。教会が、殺人や姦淫のような罪に落ちてしまう時代もあれば、悔い改めて神の御前に戻る時代もある。そして、教会は続けて成長していくのである。ここでパウロが話しているのは一世紀の時に成就された事だということを覚えるとき、使徒行伝とヨハネの黙示録、そしてこのローマ人への手紙11章に書いてあることは、一貫したものとして理解できると思う。
さて、「イスラエルの完成」とは何か。それは、古い契約時代に完全な終焉をもたらすその救われるべきユダヤ人の完全な数のことである。先週も話したように、「イスラエルの完成」は、黙示録の中では「144,000人」という比喩的且つ象徴的な数として書かれてある。「イスラエルの完成」とは、その黙示録にある「144,000人」のユダヤ人という象徴の成就である。だから、「144,000人の救い」は「イスラエルの完成」を表わす比喩である。そして、黙示録7章でヨハネは、イスラエルの完成について話してから、7節で、「見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた」と証ししている。誰にも数えきれないほどの群衆がキリストの前に立って神を礼拝していたのをヨハネは見たのである。
紀元64年にエルサレムの神殿が完成したが、完成の僅か七年後にそれは完全に破壊された。この驚くべき史実は何を意味するのか。同じ紀元64年からネロ皇帝の教会に対する激しい迫害も始まった。文字通り七年間の患難時代であった。その時に多くのユダヤ人が救われ、多くの異邦人も救われ、「イスラエルの完成」があり、「異邦人の完成」があり、神殿の破壊は古い契約の完全な終りを告げたのである。黙示録7章に書かれてある患難は、その迫害の七年間のことであった。パウロも同じ頃に死刑にされたが、パウロの心にあった思いは、ユダヤ人の救いと異邦人の救い、そして神殿が裁かれて新しい時代が来ることであった。つまり、神に選ばれた者たちの最終的な「完成」となる数の人々の救いがこの世にいのちをもたらすことになると、パウロは言う。「その新しい時代は、福音のよみがえりの力が完全に表わされる時代になる」ということをパウロは説明しているのだ。それによって、教会が唯一の神の民であることが公に示されることになるのだ。
神殿の終焉によるイスラエルの終焉は、神のイスラエルに対する最終的な離婚となった。同時にそれは、神がキリストの教会と結婚されたことを公然と宣言することでもあった。パウロがコリント人への第一の手紙13章で話したとおりに、聖霊の特別な証しの賜物、即ち奇跡、癒し、預言、異言などは止んだが、聖霊の御力はいかなる意味においても減少することはない。それどころか、聖霊はメサイアの唯一の真のからだである御民の上にさらに大いなる祝福を与えたのである。キリストにある新しい神の民への完全なる移行は、キリストの十字架上の御業の成就、そして復活の成就を意味していた。神が一つの世代をかけてその移行をもたらされたその事実は、他でもない神の御恵みの証しであった。神がイスラエルに対して忍耐強くあられて、彼らが主イエス・キリストに立ち帰る機会をもう一度与えられたからである。そして、それは完成され、新しい時代が始まった。
その新しい時代とは、私たちの時代である。教会の時代である。第一世代に注がれた御霊の御力は、私たちにも与えられている。私たちが住んでいる地は、罪に打ち勝つ神の御恵みと福音の力とを見ることを必要としている。この地はまた、サタンと偽りの宗教によって未だ支配されている地である。このような地は何によって変化をもたらすのだろうか。それは私たちを通して働く神の御恵みのみによるのである。主イエスは、ヨハネの福音書7章で新しい契約の祝福について宣言している。そのところで主イエスは、今の時代の意味と祝福について私たちに教えている。7章37節からのところである。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
このことを語ったとき、主イエスは当時のユダヤ人がこれを聞いてどのように考えるかをよく知っておられた。文字通りの意味に考える人は勿論いない。心臓から川が流れ出ると思う者はいない。「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」というのはエゼキエル書47章に書いてあるとおりのことなのだ。エゼキエルは幻の中で象徴的な意味において神の神殿を見た。その神殿の真ん中に神の王座があり、そこから川が流れ出ており、その川の水が流れて行く所ではすべての生き物は生き返った。このことは更に遡ってエデンの園の話につながるものだ。エデンの園から水が湧き出て四つの川となって全世界に水を与えていた。エデンの園は神の住まいであり、神がアダムとエバと共にその至聖所の中に住んでいたのだ。そこからいのちの水が湧き出ている。
エゼキエルの幻では、「神殿から川が流れ出ている」と言う。神殿はエデンの園が更に発展した状態を象徴的に表わしている。しかしここでキリストは、私たち一人一人が神殿となることについて話している。クリスチャン一人一人は神の住まいとなり神殿となる。クリスチャン一人一人に御霊の力が与えられると、主イエスは言っている。御霊が私たちの内に住むとき、それは「いのちの力」となるのである。古い契約は「死の契約」であった。古い契約の場合、死体に触れれば汚れた者となった。それでいろいろな洗い清めをして、その夜まで待たなければ汚れは除かれなかったのだ。その洗い清めを繰り返し行なわなければならなかった。いつも、何かの形で汚れてしまうものだった。それが古い契約である。
古い契約には「いのちの力」はない。死が勝利を得ている状態にある。毎朝晩いけにえをささげなければだめだったのだ。毎年、何度も、祭りを行なっていけにえをささげなければならなかった。それをしなければ裁きを受けることになる。だから古い契約は死の裁きの下にある契約であったが、新しい契約は「いのちの契約」である。古い時代の神殿を壊して取り除いて、まったく新しい契約が与えられたということは「いのちの契約が来た」ということであり、よみがえりのいのちが神の新しい民である教会を通して表わされるのである。主イエス・キリストが御霊の祝福について語るとき、私たち一人一人に与えられているいのちの御霊のことを話しているのだ。その御霊が私たちに与えられている。
「いのちの水が私たちから湧き出る」ということは、「御霊によって私たちが周りに対して影響を与える者となる」ということなのだ。キリストの教会は周りにいのちの影響を与えるようになる。自分の心の中で水がグルグル回っているというようなことではない。奥底からいのちの水が「湧き出る」のである。私たちから、福音の影響が周りの世界に対して与えられて行く。そして神の御恵みが世に広まっていくということなのだ。福音の勝利の力のことを、主イエスはエゼキエルの幻とエデンの園の比喩を使って話しているのだ。「私たち一人一人が御霊の住まいである」と言うとき、キリストは「いのちの力」について話しているのである。39節でヨハネは、キリストの言葉を次のように説明している。
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
キリストが栄光を受けたとき、すなわち御国の王として天の王座に座し給うたとき、ヨエルが預言したとおりに神は新しい契約の祝福を教会に与えてくださった。それによって教会は、いのちの力、福音の力、よみがえりの力を持つものとなった。それが私たちに与えられている。これは単に大昔の物語ではない。同じ御霊の祝福が私たちにも与えられており、私たちが神の御言葉を守り、祈りをささげ、正しく歩むなら、周りの人たちに大きな影響を与えることになるのだ。神の御国を正しく求めて歩むなら、私たちはこの日本で勝利を得ることになる。そして、神の福音はもっと広まって行くであろう。それは実に喜ばしいことである。力が限りなく増し加えられる話である。だからクリスチャンは、喜んで神の御言葉の真理を確信して、感謝に満ちて歩むべきである。
よく話すことであるが、ペンテコスト派は神学において間違っていると思うし、異言の考え方においても間違っている。異言は紀元七十年以前の四十年間において特別に与えられた賜物であり、その移行期の時代のための特別なしるしであったと私たちは信じているが、彼らは今でも異言を信じている。しかし、ペンテコスト派の正しいところもある。それは、「喜んでいる」という点である。彼らが喜んでいることは間違いない。福音を信じているなら、どうしてがっかりしたりして、笑顔もないような生活をするのか。よみがえりの力が私たちに与えられているというのに、その力をどこに隠しているのか。それが私たちの考えなければならないところである。
御霊が与えられ、真理の御言葉が与えられ、圧倒的な勝利を信じ、真の望みから来る安らぎを持って、神の契約の祝福が必ず与えられるという確信を持って正しく歩んでいるだろうか。溢れるばかりに感謝しているなら、溢れ出た感謝の心は周りに影響を与えずにはおれないはずである。溢れ出て来ないのなら、周りを潤すことはできない。少しばかりであっても、溢れ出ていなければ、周りに影響を与えることができないのは当然である。感謝に満ちているのでなければ、そして、喜びに満ちているのでなければ、何も影響を与える力はないのだ。感謝と喜びに満ちていなければ、それは周りと何ら変わらないのだ。
よく「頑張りましょう」とか「頑張ってね」と互いに声をかけたりするが、「頑張る」ということには良い意味も確かにある。しかし、ただただ耐えてばかりいて感謝と喜びがない生活を送っているのなら、それは神の御霊による新しいいのちを持つ者の生き方ではない。御霊が与えられていることを認めないのか。御霊が与えられた私たちは、神の民なのだ。神の御国のために生きているのである。それだから、神から永遠の祝福が与えられいることを覚えて歩むのである。朽ちないいのちを持つ者らしく歩むべきである。それがクリスチャンらしい生き方である。
「私の状態がどんなに大変か、あなたは知らないのです。だから、そのような事が言えるのです」というように答える者は誰か。あなたの信仰はどこにあるのか。あなたを贖ってくださり、万物を御支配しておられる主イエス・キリストに目を留めなさい。パウロのことを思い出しなさい。パウロとシラスは逮捕されて、鞭打たれて投獄されたとき、夜中まで牢屋の中で喜びに満ちて神を賛美していたのである。私たちの中にはそれほどの迫害を受けた人はいないであろう。「私は今、本当に大変なんです」と言っても、明日食べる物があるかどうかを心配するほどではない。「明日、刑務所に入れられて、信仰のゆえに迫害を受けるだろう」というような心配は、日本に住んでいる私たちにはない。今与えられている祝福の中で感謝できなければ、どのように状態が変わろうと、あなたは感謝できないであろう。
感謝というものは、神を信じて、神に目を留め、神の主権を信じて喜び、「今の私の状態は、主イエス・キリストが与えてくださった状態である。今の状態を感謝し、ヨブではないけれども、全部を失った時にも感謝するのである。事は神によることを知っているからであり、神が永遠の愛をもって愛してくださっていることを確信しているからである。今の状態で感謝できないと言うなら、どんなに状態が変わろうと、あなたは感謝できないであろう。御霊の力が与えられている私たちが、なぜ感謝に溢れていないのか。なぜ感謝できないのか。どうして喜びに満ちていないのか。これは信仰の問題なのだ。どこに目を留めているのかの問題である。神の御恵みに対する感謝に満ちているなら、また御霊の御力によって祈るなら、そして神の戒めに対して従順に生きるなら、私たちは本当に神の契約の真実が表わされるのを見るであろう。そして、この地もまたキリストに立ち帰るのを見るであろう。
「そのために神は私たちに聖餐式を与えてくださった」と言うこともできると思う。聖餐式の中心は感謝である。自分の罪のために苦しむこともあるだろう。周りの罪や問題について悲しむこともあるだろう。会社の状態や病のことなどで悲しんだり心が痛んだりすることもあろう。そのようなことが何もないということではない。その中にあっても、クリスチャンは、永遠に変わることのない喜びと感謝を持つことができるのである。それらの苦悩や悲しみに勝って余りある感謝と喜びを、私たちは持つことができる。それは、キリストの十字架の愛に対する感謝である。しかし、罪人なので、それを忘れてしまう傾向がある。そのために、私たちを愛してくださる神は、私たちに聖餐式を与えてくださった。
聖餐式を受けるとき、私たちは自分の罪を神に告白し、悔い改めて、神の契約にあって心を新たにする。しかし、聖餐式の中心は感謝であるということを忘れてはならない。神への感謝を新たにするのが聖餐式なのだ。だから「ユーカリスト」と呼ばれており、主イエス・キリストが二度の感謝の祈りをささげて弟子たちにパンと葡萄酒を与えてくださったように、私たちも感謝して聖餐式を受けるものである。そして、主イエス・キリストに目を留め、感謝の心を新たにする。感謝に満ちて、自分を神にささげる。それが聖餐式の中心であると思う。今日もコリント人への第一の手紙11章を一緒に読んで、その感謝の心を備えて、聖餐式を受けたい。
――2001年7月8日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com