2001.07.15. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
根と枝
11章16〜24節
初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
16節からの箇所でパウロは、「初物が聖ければ、粉の全部が聖い」というところから、根と枝のたとえを用いて神の契約的な救いの御計画を説明している。神はその契約的な憐れみをもってユダヤ人を救ってくださった。新しい契約においてそうであるように、アブラハムの子孫たちに約束された御恵みは、「人間の行ない」という条件に基づいてるのではなく、全く神の愛から来る自由な賜物であった。それが救いである。しかし愛とは、双方向の関係であって、一方は他方に自分自身をささげることが要求されるものである。
イスラエルに対する神の愛は、イスラエルが神御自身を愛することを要求していた。しかるに、イスラエルはその愛を軽んじ、拒んだ。その愛を拒絶したとき、その契約は壊れ、イスラエルは離婚されたのである。ここでパウロが異邦人のクリスチャンたちに思い起こさせているように、古い契約の時代にイスラエルに起きたことはすべて、神がどのような御方であるのか、そしてどのようにして契約にある御自分の民と関わられるのかを教えている。それ故、異邦人のクリスチャンは、自分たちの神との関係が信仰と従順に根差した契約関係にあるのだということを認識し、覚える必要があった。
初物
16節の描写は少々分かりにくい。まず始めに、パウロが根や枝のことを言うとき、何を意味しているのかという問題がある。根はキリストで、枝はクリスチャンということなのか。根はアブラハムで、枝はイスラエルなのか。或いは、その根とは一世紀のユダヤ人の信仰者で、枝はユダヤ人全体を指すのか。もう一つ考えなければならない大切なポイントは、そもそもパウロはなぜここでこの描写を用いているのかということである。「初物」と「粉全部」の話は、このまま旧約聖書に書いてあるとかユダヤ人の伝統として書かれている話ではない。
ここでパウロは「初穂」または「初物」の意味を指して話している。「初物」は全体の代表である。「初穂」は全体を代表するものである。それ故、初物を神にささげるとき、全体を神にささげることを意味している。それで、初穂を聖い物として神にささげるとき、全体も聖い物としてささげることになる。それが旧約聖書における初穂を神にささげることの意味である。ユダヤ人が初物を神にささげるとき、彼らは全体のうちの代表の部分をささげていた(民数記15章17〜21節)。律法が明らかにしているように、神に初物をささげることには特別な意味があった。それは、約束の地、贖いの地の初物であり、その地が産するものは神のイスラエルへの恵みの賜物であったからだ(申命記26章1〜11節)。その賜物の初物を神が受け入れてくださるとき、神はその収穫全体を受け入れてくださっているからである。
私たちも、献金をするとき、自分に与えられた全体の一部分として十分の一をささげるのだが、それは自分の働き全体を代表する物である。それを神にささげるとき、その意味は、「私の人生、私の働き、私のすべては、あなたのものです」ということを告白しているのである。そういう意味で私たちは十分の一の献金を初物として神にささげている。そして、神の祝福を求めるのである。そういうわけで「初物は全体の代表」という原則をパウロはここで話しているのだと思う。
そこで、イスラエルとは何なのかというと、「イスラエルは人類の初穂である」と言える。そして、イスラエルの中で救われた者たちは、イスラエルの完成の初穂であると共に、人類全体の初穂でもある。主イエス・キリスト御自身が「初穂」と呼ばれている。それはキリストの復活を指して言っていることであり、キリストは復活する者の初穂としてよみがえられたのだ。それ故、キリストにある者は、キリストと同じように復活するのである。キリストの復活には、救われた者全体の復活を含む意味がある、とパウロは説明している(コリント人への第一の手紙15章20節)。「人類の中で初穂として救われた者たちは、人類全体の救いを表わしている」という原則を、ここで見ることができると思う。
ここでパウロは、「初穂」は誰なのかということよりも、「初穂」と「全体」との関係の原則を提示しているのだ。「初穂」は、全体を代表するものである。だから、「初物が聖ければ、全部が聖い」のだ。それ故、神はイスラエルを人類全体の初物として救い、そして導いてくださった。それは、人類全体を救おうとしておられるという意味になる。いつも言うように、私が「人類全体」と言うとき、それは「一人残らず」という意味ではない。それはヨハネの福音書3章16〜17節に書いてあるように、神は世(世界)を救うために御子イエスを遣わしたと言っている意味と同じである。この世界が救われるために、神は主イエス・キリストを世に遣わしてくださった。その神の目的は完全に成就されるのだ。パウロは世界の救いを思って「初穂」と「全体」の話をしている。その事を話すときパウロは、最終的に神は人類全体を救おうとしておられることを表わしている。そのことをパウロは32節で、「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」と言っているからである。
それだから、パウロは16節で比喩を使って説明している。この16節の一番よい解釈は、この後に続く「根と枝」の話への簡単な導入と見る解釈だと私は思う。だから、類比を示すというよりは原則を説いているのである。即ち、大切な初物のささげものという基本概念をパウロは説明しているのだ。「初物が聖ければ、全部が聖い」と話した後で、「根が聖ければ、枝も聖いのです」と言う。後者は木の譬えである。詩篇1篇3節でも、「正しい者は、水路のそばに植わった木のようだ」と言っている。今日交読した詩篇52篇にもそのような言い方がある。詩篇だけでなく、他にも旧約聖書にはこの言い方が比喩としてよく使われている。主イエス・キリストがパリサイ人たちと話しているときに、「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです」と言っておられる(マタイの福音書12章33節)。つまり、「根本的なところが良ければ、全体も良いはずだ」とキリストも教えている。
実が悪ければ、木そのものが悪いのだ。それと似たことをパウロはここで話している。「根が聖ければ、枝も聖いのです」と言っている。これが基本的な原則である。そう話してから、パウロは24節まで木からの譬えで話をしている。木の譬えを通して、異邦人とユダヤ人のことを説明している。この箇所の「木」と「枝」の関係は、生物学的な比喩ではあるけれども、いわゆる生物学的に考えているわけではないのは明かである。生物学的に言うならば、いろいろな問題がある。例えば、自分が栽培した木の枝を切断して野生の枝を持ってきて接ぎ木するようなことは誰もしない。普通は、栽培された良種の木の枝を野生の木に接ぎ木するのだ。パウロの話は逆さまになっているので、「これは普通の農業のやり方ではないな」ということに誰もが気が付くはずである。また、枝を切って捨ててから、もう一度同じ枝を取ってつなぐことも、誰もしないことである。
だから、パウロはここで比喩を使って話しているけれども、それは文字通りに人々がやっているようなものでないことがわかる。誰もやらないようなことを比喩として用いて説明しているのだ。何を言っているのかというと、この「木」と「枝」の話は、内容的には契約の話をしているのである。生物の話ではない。もし、生物の話であるならば、機械的な関係になってしまうはずだ。つまり、枝には倫理的な責任はないのだ。枝が良いか悪いかを言うとき、文字通りの木の話ならば、「この枝は罪を犯したので悪くなった。だから私はこの枝を切って捨てよう」という話にはならない。だから、木の譬えを使っているが、考えていることは「契約」である。契約関係を、木の比喩をもって説明しているのだ。「パウロは農業のことを知らなかったから、こんな事を言っているのだ」という話ではない。17節と18節の説明を見よう。
オリーブの木
17もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、18あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
パウロは、「イスラエルの中のある者が折られて、異邦人がイスラエルにつがれた」と言っている。オリーブの木の描写は類推である。パウロはさかのぼってオリーブの木に関する旧約聖書の律法に触れているわけではないし、知ったかぶりの園芸学的な解釈をするならパウロの要点を全く見逃してしまう。「オリーブの木」はイスラエルについて頻繁に用いられた象徴である(エレミヤ書11章16節、ホセア書14章5〜6節、ゼカリヤ書4章3〜12節等)。なぜなら、それは約束の地における主な祝福の一つであり、オリーブの木の油は特に天幕や神殿に用いられたからである(エレミヤ書27章20節、レビ記24章2節、申命記6章11節、同8章8節、第一列王記6章23節、31〜33節)。それ故、「オリーブ」はイスラエルを指しており、「野生種」は異邦人を指している。
異邦人はあくまでも野生の木であり、神がカナンの地に植えて栽培した木はイスラエルである。その神の契約の民の「根」はアブラハムであり、アブラハムの契約のことである。しかし、アブラハム契約とはどういうものだったのか。創世記の中で神がアブラハムに与えた契約は最初から、「アブラハムの子孫イスラエルだけが救われて、全世界はどうでもよい」という約束ではなかった。創世記12章3節はその約束の結論のところだが、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と言っているが、それだけでは終わらずに「それによって」という含みを持って「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と神は約束しておられる。
ただ、ある者は祝福されて、ある者は呪われるというところでは終わらないのである。「すべての民族がアブラハムによって祝福される」というのが、最初に神がアブラハムに約束してくださったことなのだ。そのアブラハム契約の成就についてパウロはここで説明している。即ち、新しい契約がイエス・キリストによって与えられ、イスラエルはこのように用いられて、福音は異邦人の方に広められ、異邦人とイスラエルの完成がなる。「その時、新しい契約の時代は完全に到来し、福音は全世界に広められて行って、最終的に人類は新しい人類になる」ということをパウロは指している。
そして、「根」と「枝」のことを話すとき、これは「ある枝が切り落とされた」という話になっている。「根が聖ければ、枝も聖いのです」とあるが、これは契約の話であって、イスラエルはその不信仰によって枝として切り落とされて、捨てられてしまったのだと、パウロは説明している。「根は聖かったけれども、枝は悪かった」のだ。聖い筈なのに、神の御恵みを拒絶し、神に逆らい、不信仰になった。だから、捨てられたのである。「根が聖ければ、枝も聖い」というのは、そこから始まっており、最初から祝福で始まっているということである。祝福か、呪いか、どちらになるのかわからなくて、中立的なところから始まったというのではない。ゼロのところに立って、プラスになるのかマイナスになるのか見てみよう、ということではない。全くプラスのところから始まっているのだ。
16節からは、イスラエル全体が聖くされる立場にいたということが主要なポイントになっている。彼らはみな神のためにきよめられており、ユダヤ人の出発点は神との契約の中にあった。オリーブの木は植えられ、その根は聖かった。こうして、イスラエルに生まれたすべてのユダヤ人が聖かったのである。ユダヤ人にとって約束の地に住んで神の契約の祝福を味わうことは、古い契約においてエデンの園に住んでいのちの全き祝福を味わうことと限りなく近いものだったのだ。それ故、アダムとエバがそうあるべきであったのと同じように、契約の民は神に忠実でなければならなかった。彼らは神の愛に愛をもって応答しなければならなかったのである。問題は、彼らがそうしなかった点にある。ユダヤ人と神との関係は契約的な関係であり、愛を要求する関係であったが、彼らは、神の愛と御恵みを拒絶し、契約に対して甚だしく不忠実であった。それだから離婚されたのである。
根が聖く、枝も聖い、その枝は初めから聖いものだった。しかし、神の御恵みを捨てて、神に逆らったので、枝として切られた。これは契約関係における裁きである。根が聖いから、自動的に機械的に枝が聖いというような話ではないのである。神に逆らって神の御恵みを失うことは有り得ることなのだ。人が神との契約に入っていて、その契約関係を破るなら、捨てられる。それがユダヤ人に起こったことである。だからパウロは、「接ぎ木された枝であるという立場にあぐらをかいていてはならない」と異邦人に警告している。救いは主御自身に信頼するところから来るのであり、主の愛に対する心からの応答から来る。パリサイ人のように、自らの伝統を誇って喜ぶ者たちは、神の寵愛を失うのである。
しかし、このことは選ばれた者が選ばれていない者になってしまうという意味だろうか。否である。ここで問題となっているのは、見かけ上は契約の中にいる者たちのことである。選ばれた者が誰なのかを御存知なのは神御一人である。私たちがなすべきことは、人々をその外面に表われた告白と行ないによって取り扱うことなのである。その観点から見れば、ある人は契約の一員となり、ある者は後になって契約を拒絶することはあくまでもあるのだ。神の御恵みを捨ててしまうなら、枝は切り落とされて捨てられることになる。だから、パウロが「接ぎ木」について語るとき、これは契約の話だということが、見ればすぐにわかると思う。異邦人たちは神の御恵みによって接ぎ木された。それによって彼らはその木の一部となり、根と他の枝を持つようになった。アブラハム契約の祝福が異邦人にまで及んだのである。
ここでパウロがイスラエルについて話していること、そして異邦人について話していることは、簡単に言えばこういうことである。つまり、神が愛と御恵みを与えてくださるときに、それを軽んじ、見下し、それを何でもないかのように軽く受けて、自分はそれを受けるに相応しい者であるかのように当然と思って受けるなら、それは大変なことになるということである。神に愛されていることを喜び、それに対して正しく応答すれば何も問題はない。本当の契約関係は愛の関係であって、愛の関係とは、お互いを愛し合ってお互いを祝福しあう関係なのである。不信仰とは、その愛の関係を破壊するものである。神はイスラエルを愛し、イスラエルに豊かな御恵みを与えてくださる。しかし、その愛を信じなければ、愛の関係は断たれてしまうのだ。
ちょうどアダムとエバと同じである。サタンはエバに「神はあなたを愛してはいない。神は、あなたが豊かになることを恐れているのだ。だから、神はあの木から食べるのを禁じたのだ。神はあなたに祝福を与えたくないのだ」と囁く。その時、エバは自分勝手に何が祝福なのかを解釈した。「自分が欲するものが手に入らないのなら、それは神が祝福を与えないことだ」という考えもとんでもない思い違いである。神が与えるものはすべて、私たちにとって祝福である。神が与えないなら、それは私たちにとって祝福ではないからなのだ。神の愛を信じるなら、そのことを私たちは知っている筈である。
神の愛を信じているなら、「今、この木の実は私たちには与えられていないのだから、それを求めるべきではない。欲してはならないものである。神が、食べてはならないと言われたのだから」と考えるはずなのだ。神が「食べてはならない」と仰せられたなら、「食べないことがベストなのだ」ということなのだ。それだから、神の愛を信じて歩むなら、何も問題はないのである。しかし、イスラエルはそうしなかった。荒野に入ると、「これがベストだと言うのか」とイスラエルは言う。「エジプトにいたときの方が、食べ物はおいしかった。食べたいものは何でもあった。それなのに私たちをこんな荒野に連れ出して、食べるものは毎日同じ決まった一種類の物しかない。いやだ。耐えられない」と叫ぶ。
メニューは一種類しかなかった。毎日、マナだけが与えられた。「いやだ。つまらない。肉が欲しい」とイスラエルは不平を言う。神の愛を信じない故の叫びである。「これは今のあなたがたにとってはベストである」ということを認めない。水がないと、また逆らう。「これがない。あれがない」と言っては逆らうのだ。それがイスラエルの反応であった。神の愛を信じたなら、感じ方は全く違うのである。「自分の置かれた状態は大変だ。荒野はいやだ」と、ある意味では思ってもかまわない。辛いことは辛いのだから。そこで別に自分を騙す必要はない。辛いことを辛いと感じるし、大変なら大変だと思ってもいい。しかし、神を信じるなら、「神が与えてくださったこの辛い状態は、今の私にとってはベストなのだ」と信じて、素直な心で受け止めることができる筈である。そうするなら、その辛い状態から学んで成長することができる。
「嫌だ」ということが結論であれば、それは神の愛を信じないという意味になる。そして、「私はこのような状態から学ぶつもりはない。私は成長するつもりはない」という宣言になるのだ。「自分には辛くて大変だけれども、今これは、自分が受けるべき分である。これは神が私を愛して与えてくださった状態なのだから」という理解なら、それは少しも問題ではない。荒野でのイスラエルの場合、「これも、あれも、大変だ。私は嫌だ」ということが結論になってしまったのだ。だから、神を恨み、モーセを恨んで、毎日ブツブツ言って逆らい続けた。それ故、神はイスラエルに対して憤って裁きを与えた。イスラエルは神の愛を信じていない。神の力も知恵も信じていない。神の支配を信じていない。だから、どんなことでもつまずいてしまう。
パウロの時代のイスラエルも同じであって、不信仰であった。そして実に傲慢になっていた。傲慢と不信仰は常に一緒にあるものだ。つまり、神がある状況を与えて、「これは今のあなたに必要であり、あなたにとってベストです」と言ってくださるときに、「違います。そうではない。私が欲しいのはこれです。これがベストです。私が欲しているあのベストを与えてはくださらないのですか」と言うとき、自分の解釈と知恵に信頼しており、神を信頼してはいないのだ。「私は自分のことをよく知っている。神は御存知ではないのだ」という傲慢な心になっている。そして、逆らう心を持つようになる。それが当時のイスラエルの状態であった。「不信仰」以外の何ものでもなかったのだ。
「メサイアが欲しい。どうかメサイアを与えてください」とイスラエルは熱心に求めた。今でもイスラエルでそう祈っている。彼らの祈りに答えて神がメサイアを与えると、「違います。主よ。この男ではない。私たちが欲しいメサイアはこの人ではない」というのがイスラエルの反応であった。「ナザレの大工なんかいらない。私たちが欲しいメサイアはこういう者でなければいやだ」というのが、イスラエルの神に対する答えであった。それは実に傲慢な態度であり、神の愛に対する拒絶である。そのように、イスラエルは神の愛を捨てて、自分の基準に従うように神に要求するのである。それを熱心にやっているので、宗教的に素晴らしいものに見えるのだ。「神よ。神よ」と熱心に祈っているが、自分たちの都合のよいようにやっているだけである。自分の要求に神が従わないなら、喜べない。それがイスラエルの不信仰である。
それ故、「枝として切り捨てられる」とパウロが言っているのは、不信仰の話であり、傲慢の話なのである。20節でパウロは異邦人に、「彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っている。高ぶらないで、かえって恐れなさい」と言っている。強調しておきたいが、不信仰の問題と傲慢の問題は一緒になっている。どちらも、神の愛を信じていないということに尽きるのだ。だから、ローマ人への手紙8章28節がどれほど大切な真理なのかを覚えずにはおれない。即ち、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」というのが神を信じる者の告白なのだ。「ほとんどのことは益だが・・・」というのが私たちの普通の考えではないのか。
また「益としてくださる」という告白も実に重要なものだ。「何とかなる」とか「あまり大きな損にはならないだろう」とかいうふうに私たちは考えてしまいがちだが、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロは私たちの信仰について話しているのだ。そういう意味で、心から全く神に依り頼んでいるならば、たとえ辛い状態の中にあっても、私たちの心には平安があるはずだ。大変でも、荒野の中を歩くとしても、神を信じるが故に平安な心を持って生きることができる。
目の前にアナク人のような巨人しかいない。その人たちと戦えば絶対に勝ち目はない。しかし、神が「戦いなさい」と言うときに、神を信じて戦うのである。「あの大きな城壁の町を滅ぼしなさい」と神は言い給う。「どのように戦ったらよいのか。誰が私たちのために戦ってくれるのか。何か特別な武器でも与えてくれるのだろうか」とイスラエルは心に思ったかも知れないが、そのようなものは何もない。神が勝利を約束したその戦い方は驚くべきものであった。主の命令はヨシュア記6章2〜5節に記されている。
見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。
これが勝利の戦い方なのか。ただ町の城壁の周りを一日に一回まわって、七日目には七回まわってからラッパを吹いてときの声をあげる。それだけか。そんな戦略があるのか。それで城壁は崩れて、勝利するのか。人間的に言えば、まったく無意味なことをするように言われたのだ。しかし、無意味に思えるとしても、神の御言葉を信じてそれに従ったとき、信じられないほどの完全な勝利が与えられるのだ。ポイントは明かである。そのすべては、「わたしを信じて、わたしに信頼しなさい。わたしの愛を信じなさい」ということを神はイスラエルに教えておられるのだ。子どものレベルでそのことをイスラエルに教えてくださった。
私たちはもう子どもではないので、そのような子どものレベルで教えられはしない。完全な御言葉が私たちに与えられ、御霊の祝福が旧約聖書の時代のイスラエルよりも遥かに豊かに与えられている。大人として私たちは、御言葉からそのポイントを学ぶべきなのだ。エリコの戦いは私たちのために記録されているものである。エリコの戦いの歴史を正しく読むならば、それは私たちに与えられた私たちの先祖たちの歴史なのだ。私たちもヨシュアたちと一緒に学んでいる筈なのだ。私たちもイスラエルと一緒に紅海を渡って、エジプトが裁かれるのを見た。そういう意味で、契約の関係は愛の関係であって「神の愛を信じなさい」というのが大原則なのだ。神の愛を本当に信じたのなら、イスラエルのように切り捨てられることはない。そのことをパウロはここで説明している。
そして19節で、「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう」とパウロは言う。これは異邦人の傲慢な心に対する警告の言葉である。これはちょうどモーセが申命記7章から9章のところでイスラエルに話していることと同じことである。そこでモーセは、「自分が神に選ばれたのは自分に何か特別な良さがあったからだと思ってはならない」とイスラエルに警告している。即ち、「あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかったものであるが、神があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖アブラハムに誓った契約を守るために、神はあなたがたを御自分の宝の民としてお選びになったのだ。だから、傲慢になるな。特別に祝福されたと知るとき、むしろ恐れる心を持ちなさい。そして感謝の心を持ってその愛を受けなさい」とモーセはイスラエルに言っている。
同じようにパウロも、「それこそ神の愛を受けるのに相応しい態度である」と説明しているのだ。実にその通りである。「イスラエルは不信仰のために捨てられたが、あなたがたは信仰によって立っている。だから、高ぶらないで、却って神を恐れなさい」とパウロは言う。何を恐れるのかというと、自分の罪と自分の愚かさである。これほどの尊い素晴らしい愛を神はイスラエルにお与えになった。イスラエルはそれを正しく受け止めることをせず、むしろ逆らってそれを捨てた。それ故、イスラエルは神の厳しい裁きを受けることになったのだ。「私もイスラエルのように愚かな者です。私もまたそのような愚かな道を行くことがないように守ってください。私は心から神の愛を喜び、神の愛に信頼します」というのが、「へりくだった心」なのだ。その心を持って、神に信頼し、神に従いなさいと、パウロは異邦人の信者たちに教えている。
「イスラエルが傲慢になって神の愛を信じないときに神がイスラエルを裁いたのであれば、当然、神は私たちをも同じように契約的に取り扱うであろう」と、パウロは厳しく言う。つまり、「イスラエルの歴史を見れば、神の契約的な導き方がわかる」ということなのだ。神の契約的な導き方をイスラエルの歴史から教えられて、「神は私をも同じように導き、そして取り扱い給うのだ」ということを私たちは悟らなければならない。愛を正しく受け入れずに逆らうなら、捨てられることになる。その原則は絶対に変わらない。そのことをイスラエルの歴史から学ぶべきだと、パウロは言う。キリストによってアブラハム契約の祝福が異邦人にも及んだが、アブラハムの木に接ぎ木されたという事実を誇りや傲りの機会としてはならないとパウロは警告している。むしろ反対に、神のいつくしみと厳しさを思うとき、接ぎ木されたという事実は、接ぎ木された者を「恐れ」で満たすはずなのである。
しかし、この前後関係において「恐れ」とは何を意味するのだろうか。これは、不合理な恐怖でないことは確かである。奴隷根性におちいって卑屈になるという話でないのは明らかである。「恐れる」とは、ふさわしい謙遜をもって感謝に満ちることを意味しているのだ。神の特別な御恵みを一方的に与えられたことを覚えて感謝するのである。その特別な立場は、自分の行ないと知恵によって手に入れたのではないことを一時も忘れないのである。高慢になって自分には知恵があると思い込むことこそパリサイ人の罪であった。それはモーセがイスラエルに警告した罪であった(申命記7章7〜11節、9章4〜6節以下)。
神がイスラエルと結ばれた契約は、いわゆるビジネスの“コントラクト”というようなものではないことがよくわかると思う。北のイスラエルと南のユダに王国が分裂したときに、約200年間経ってやっとイスラエルに裁きが下された。北のイスラエルは、ヤロブアム王の時から一度も正しい礼拝をささげていなかった。どうして神は、直ちにイスラエルを捨てなかったのか。どうして直ちに裁きを下さなかったのか。それは、悔い改める機会を与えるためであった。何度も預言者をイスラエルに送り、神は大いなる忍耐を持ってイスラエルを求めてくださった。愛には忍耐が伴うということがコリント人への第一の手紙13章にも書いてあるが、夫が家に帰った時に、妻が夕食を作るのに失敗したのを見て、怒って「もう離婚だ」と言う筈はない。夫が事業に失敗したのを見て、妻が「もう離婚よ」と言う筈もない。愛には忍耐が伴う。
お互いを赦しあうのでなければ、夫婦関係は成り立たないし、親子関係も成り立たない。子どもが罪を犯したらすぐに窓から投げ出すなら、子どもの数はずっと少ないに違いない。罪人がお互いを赦しあうことによってのみ、関係を続けることができるのである。神は、私たちの罪を赦し、繰り返し赦してくださって、愛と忍耐をもって私たちを導いてくださっておられる。イスラエルに対してもそうであった。では、どうしてイスラエルは最終的に裁かれることになったのかというと、繰り返し繰り返し与えられた神の憐れみと赦しに対してすら感謝しないでこれを無視し、あくまでも逆らい続けたからである。積極的に神を憎むようになり、その命令をことごとく歪曲し、神の忌み嫌うことをのみ行なう。もう赦す意味すら無いところまでイスラエルは悪くなってしまったのである。赦しても直そうとするどころか、もっと悪しきことを神の前に行なう。繰り返し繰り返し赦されても感謝するどころか、神の言葉を決して聞こうとはせず、預言者が黙るように迫害し、最終的に預言者を殺すのである。それほどに彼らは、神の名を利用しながら、神を憎んでいた。もう裁きを下す以外にはないところまで堕落していたのである。
そのイスラエルの状態は、主イエス・キリストが「ぶどう園の農夫たち」の譬え話で説明したとおりであった。主人は繰り返ししもべを送ったが、彼らは主人のしもべを嘲り、迫害し、殺した。主人は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と言って、息子を遣わしたところ、農夫たちは、「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか」と言って、息子をぶどう園から追出して殺してしまった(マタイの福音書21章33〜43節)。この話はイスラエルの状態を暴露したものであり、実に狂った考え方を持っていた。「ぶどう園の主人は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまう」と主イエスは話している(マルコの福音書12章9節)。
主イエス・キリストはまたマタイの福音書23章27〜28節で「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」と叱っておられる。これらはイスラエルについての話なのだ。神から与えられたものの中には辛い事もあるし、喜ばしい事もある。問題は受けとめ方である。正しく受け止めるなら、すべては益であり、すべては良いのである。その受け止め方とは、神の愛を信じることである。「これも神の愛から出たもので、愛なる神が与えてくださるものだ」ということを、イスラエルは信じない。
子どももそのようなものではないかと思う。実に美味しくない物をお母さんが出してきて「飲みなさい」と言う。その物の名は「薬」と言う。実に美味しくない。昔の薬は今のものよりもずっと苦いものだった。薬草などを煎じて飲んだりして、実に飲みにくいものだった。苦いままで子どもに飲ませたものだった。「飲みなさい」と言われると、飲まなければならないけれども、吐き気がするほどにそれは美味しくない。或いは注射もそうだったと思う。昔の注射は今よりも針が太くてもっと痛かった。今は注射技術もよくなって、あまり痛くないようにやってくれる。子どもに「お注射するからね」と言うと、子どもたちはもう泣き出して、「嫌だ。嫌だ」と叫び出す。親の知恵と愛を信じてそれを受けようとはしない。しかし、癒されて祝福されるためには、親が与えるものがベストだということを信じなければならない。その時、嫌だけれども、親を信じて受けるのが、良い子どもの反応である。
何なのかはピンと来ないかも知れないが、愛から与えられたことを信じて、「お父さんとお母さんは私を愛している。だから、この薬をくれるのだ。これがベストだ。これを飲めば良くなる」と、信じて飲めばよいのだ。それだけなのだ。信じて従うことが求められているのだ。こんな話を聞いて大人たちは笑うかも知れないが、私たち大人もちっとも変わりはないのだ。大人の場合は、「薬」が違うだけの話である。一瞬で終わるようなものではなく、大人の場合は“五年間の薬”や“十年間の薬”を飲まなければならない。しかし、本質的な事は子どもの場合と何も変わらないのである。神の愛を信じてそれを受け入れるなら、すべてが違ってくる。それだけの話である。信仰とはそういうものである。
イスラエルは荒野の中にいても、神を信じることができなかった。私たちの誰も荒野を歩いたことはないが、歩いてみたらよかろう。大変だというのは確かだが、毎日同じ食べ物が同じ時間に決まって与えられるというのは、ある観点から見れば辛いと思うかも知れないが、別の観点から見れば、これほど便利な話はないのではないかと思う。買い物に行かなくてもいいし、お献立やレシピーを考えなくてもよいし、準備の必要もない。何を食べるか決まっており、何時に何を得るかも決まっている。簡単に済むのだ。必要があれば、ブツブツ言う前に祈ればよいのだ。神は、彼らに何が必要かは御存知であるし、祈り求めれば、岩から水が流れ出るのだ。イスラエルは信じて祈れば、すぐに答えられた筈なのだ。
神が人間を創造したので、人間に水が必要なことぐらいは御存知である。忘れたわけではない。イスラエルが信仰を持って祈り求めるように導き、教えて、訓練を与えておられるのだ。これは子どもを取り扱うレベルでのことなのだ。信仰をもって「神さま。水がありません。どうぞ、助けてください」と祈れば、与えられたのである。それだけのことなのだ。イスラエルは、必要あれば跪いて神に求めればよかったのだ。衣服は四十年間毎日着てても駄目にならなかったのだ。そのような服を私も欲しいと思う。一度買えば、後は考えなくてもよい。素晴らしいことではないか。靴もそうだった。何も悪くならないのだ。見方によれば、これほど便利な事はないのではないか。そういう意味では荒野と言っても、本当に何から何まで守られていたし、それほど辛いことでもなかったと言える。信仰を持って神から受けるならば、祝福であることがわかる筈であった。そうすれば、何事も問題ではなくなる。
人類歴史において、今日の私たちを見るならば、どの時代の人間もその祝福の大きさに驚くであろう。食べ物も住まいも衣服も、とにかく豊か過ぎてどうにもならないような時代に生きている。荒野のイスラエル人よりもずっと大きな祝福を得ているのに、同じようにブツブツ言って生きてしまう傾向がある。それは神の愛に目を留めて生きていないからである。高ぶって、愚かになり、神の愛を信じていない。「そのようなことがないように」と、パウロは話している。「私は祝福を受けるべき者だ。もっと豊かな祝福を受けるべきだ」と考えてはならない。相応しくないのに与えられたのである。心から感謝して受けるべきなのだ。「傲慢になるな。イスラエルのように傲慢になるなら、あなたも切られるのだ」とパウロは異邦人のクリスチャンに警告している。高ぶってはならない。傲慢になってはならない。信仰の心を持って神の恵みに対して正しく応答しなさい。それが全体のポイントである。
この箇所から、私たちにとってもう一つ適用すべきところがあると思う。ここでパウロは「根」と「枝」の話をしている。当時の異邦人にとっても大切なことだが、私たちにとっても重要なポイントである。アブラハムたちが「根」であって、私たちはそこにつがれた「枝」であるならば、私たちの先祖、私たちの家族、私たちの歴史とは、聖書に書いてある歴史だということになる。私の先祖は昔のドイツ人とかイギリス人とか中国人とかではなく、アブラハムが私の先祖である。アブラハムは私の父である。モーセは私の先祖であり、ダビデが私の先祖である。私たちはアブラハムの子孫であり、その子どもである。私の歴史や文化、私とこの世とのつながりはどこにあるのかというと、聖書のイスラエルにあるのだ。だから、イスラエルの歴史が聖書に書かれているし、神がどのようにイスラエルを取り扱ったかが細かく書かれてあるのだ。それは、私たちの家族の歴史だからである。
パウロはコリント人への第一の手紙の中で、旧約聖書に書いてあることは異邦人のためなのだと言っている。コリントの教会は異邦人の教会である。旧約聖書は、そこに書いてあることを学ぶことによって私たちが正しく契約の子どもとして歩むことができるためにあるのだ。私は20代の時にはあまり先祖たちのことには興味なかった。祖母たちがその話をすると、「ああ、またその話か」と思ったりした。しかし、50代になって、最近は先祖のことを聞きたいという気持ちになる。それでも、百年前の家族については知っている人はほとんどいないのだ。写真や記録はあっても、細かい話は知らないのが普通だ。三百年前のお爺さんはどうだったのかと聞かれて、答えられる者はいない。五百年前のなら、どこに住んでいたかさえ知らないのではないか。千年前の先祖はどうなのか。
しかし私たちは、そういう意味で、お爺さんであるアブラハムがどういう人物で何をしたかを知っている。私たちはアブラハムの家に養子にされた者である。「私たちは、アブラハムの子どもたちです」という認識を持たなければならないのである。養子にされた者は、その養子とされた家で育てられ、教えられ、その家の習慣や伝統を学び、その家の服を着て、その家を継ぐのである。昔であれば、家族によって服も違っていたし、部族毎の服装も違う。異邦人の服はまた違うものであった。アブラハムの時代にアブラハムの家に養子にされたとしたら、服も変わることになるのだ。女性も、申命記の中でイスラエルに養子にされることが記されているが、髪を剃り落とし、服も捨てて新しい服が与えられる。新しい髪が生え出てくるということは、新しい人生が始まるという意味であった。男性の場合は割礼を受けてイスラエルに加えられた。私たちもキリストにあってアブラハムの家に養子にされた者であり、アブラハムが私たちの先祖である。
それ故、アブラハムの子どもとしてどう生きるべきかを考えるときに、先祖たちを見るのである。アブラハム、イサク、ヤコブたちを見て、モーセの律法から私たちの家族の伝統や習慣がどのようなものなのかを学ぶのだ。それは律法を読めば、詳しく書いてある。私たちは積極的に私たちの家族の文化を求めて、それを学び取り、それを今の私たちの時代に原則として適用するのである。私たちは、昔の服装を着たり豚肉を食べるのを禁じたりというような文字通りの適用をするわけではない。原則を適用するのである。それが本当の意味で受け継ぐということになるのだ。そのように、文化的な背景、そして家庭としての背景が、先祖であるアブラハムたちを通して与えられている。私たちの「根」はそこにあるのだ。そのことを深く確信し、心から慕い求めるのでなければ、真の意味での良い働きはできないのだ。
西洋の教会の基本的な問題を何度も話したことがあるが、自分たちの先祖について考えるときに、イスラエル+ローマ+ギリシャと考えてしまうところに問題がある。混ざった文化の背景になってしまうのだ。例えば、今のアメリカのほとんどの長老教会の建物を見ると、建築的に言えばギリシャ文化なのだ。中は真っ白でシンプル、そしてコリント遺跡の柱ような飾り柱がデザインとして使われている。教会の外にはポーチがあってコリント式の柱が使われている。そしてほとんどの建物はレンガ構造である。だから、見ればすぐに「これは長老教会だ」ということがわかる。
ルーテル教会の場合にはステンドグラスの窓があって、マルティン・ルターの絵があったりしてずいぶん長老教会とは違う設計になっている。長老教会のデザインは、非常にローマ的且つギリシャ的なものなのだ。どうしてそれがキリスト教だと言えるのか。音楽のあり方についても、聖書に書かれてあることを大切にしてそれに従ってやろうという思いではなく、それぞれの教会は自分たちの伝統でやっている。それもとんでもない話である。私たちの伝統は、聖書に書いてあるとおりのものでなければならないのだ。今の自分の家族の伝統や自分の地域教会の伝統を見て、それが聖書と食い違っているなら、即刻変えればよいのである。そういう意味で、常に改革を求める心を持って歩むべきなのだ。
しかし、基準は聖書であっても、私たちの気が付いていない事が沢山あるので、改革の精神を持って少しずつ成長していくものなのだ。そうすれば、性格は変わっても、基準は変わらないことになる。性格や雰囲気などにおいてはそれぞれ異なる特徴があっても、それは問題にはならない。性格や個性の違いがあることは悪いことではない。神はすべてを同じようには創造されなかったのだ。しかし、倫理と原則においては基本的に同じなのである。どうして区別できるのか。そして、どのように心からそれを求めることができるのかというと、その「根」のところから学ばなければならないのである。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、そしてキリストとパウロの時代もそうであるが、「聖書全体を唯一の基準としてもって自分を変える」という心を持たなければならないのである。これは実に大切な認識なのだ。
「私は日本人です」「私はアメリカ人です」「私は長老教会です」というような話ではない。「私はクリスチャンです。私はアブラハムの子孫です。イエス・キリストに属する者で、キリストに従う者です。すべてを、主イエス・キリストに属する者らしく行ないたい」という心を持って歩むのである。それが神を信じる生き方であり、神の愛を信じる歩み方である。その事は、このローマの人たちにとって大切なことであったし、私たちにとっても大切なことだと思う。それだから、日本人、アメリカ人、韓国人、中国人などの区別なしに、皆がキリストにあって心の一致を持ち、一つの教会として歩むことができるわけである。私たちは皆、アブラハムの子孫なのである。主イエス・キリストに属する者なのだ。その認識を、他のどんなことよりも遥かに高く持っていなくてはならないのである。
他の事が全部無意味だと言っているのではない。自分の家族の歴史や系図も知りたいし、それはそれで良いことだと思う。無意味ではないが、比較できるものではないということである。それらは第一ではないのだ。第一に重要なことはあくまでも第一であって、二次的なこととは比較できないものなのだ。二次的な事柄はあくまでも二次的でしかない。その認識を正しく持っていなければ、何も改革できない状態に陥ってしまう。それ故パウロは異邦人に「傲慢になってはいけない」と警告するのである。「あなたがたの根がどこにあるのかを覚えて、神がどのようにイスラエルを取り扱われたかを見なさい。あなたも同じように取り扱われるからです。旧約聖書の律法をよく読んで、よく考えなさい。そうすれば、神は同じ原則をもって私たちをも取り扱うことがわかります」と言っているのである。
自分の救いはただ御恵みによったのだということを忘れ、神の御前に御恵みに対する心からの感謝をもって歩まないならば、私たちはその関係を根本的に変質させてしまうことになる。実質的に、神の愛を拒み、そして自らの善を根拠としてもって自らの立場を主張しているに過ぎない。その罪の故にユダヤ人が切り捨てられたのなら、神は異邦人にも同じことをなさるであろう。傲るなかれ。ただ主を恐れなさい。
聖餐式のときに、私たちはその原則のところに戻るのである。原則の根本は、神が私たちを愛して主イエス・キリストを私たちに与えてくださったことにある。そして私たちは主イエス・キリストを受け入れるのである。聖餐式のときに私たちはそのことを告白するものである。聖餐式において私たちは、「感謝して神の愛を受け入れる」という出発点に戻るのである。出発はバプテスマである。バプテスマを受けたときに私たちは神の愛を受け入れ、主イエス・キリストを信じて神の所有となったのだ。聖餐式はそこに戻る儀式である。
そこに戻るとき、「主よ。私はあなたの愛を信じます」ということを告白する。そして、神は御自分の御子を私たちに与えてくださる。そのパンと葡萄酒を受け入れるとき、神の愛を受け入れ、御子を受け入れるのである。私たちは、聖餐式の度にそのことを繰り返し告白し、感謝をささげるのである。神の愛を信じるところに戻るのである。これは実に重大であり、これは礼拝の中心である。この聖餐式が私たちに与えられているのは、実に実に大きな祝福だと私は思う。神の愛を喜んで聖餐式を一緒に受けたいと思う。
――2001年7月15日――