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    ローマ人への手紙12章3〜5節


    12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

    12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

    12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

    2001.11.04. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    新しい社会

    12章3〜5節

    私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

       ローマ人への手紙12章の1節から2節のところは、12章から16章までの教会生活について説明する箇所全体の土台であることは既に説明した。ここでパウロは、クリスチャン一人一人が自分のからだを生きた供え物として神にささげるようにと教えている。これは旧約聖書の全焼のいけにえをキリストの教会に適用した言い方である。自分のすべてを供え物として神にささげるのである。これは特に礼拝において行なわれることであるが、毎日の生活にも適用されることである。私たち自身が生きた供え物として神の御前に出て真の礼拝をささげるのでなければ、この箇所以降の部分で命じられているような生活を送ることはできない。日曜日の礼拝において自分の全てを神にささげるなら、月曜日から土曜日までの毎日を、自分を神にささげたものとして生活を送るはずである。神のものとして自分の人生を生きるのである。

       そのことを1節と2節で話したあと、12章3節から16章の終わり近くまでの箇所でパウロは私たちに、「生きた供え物」として生活することとはどういうことなのかについて細かく教えるのである。いかに生きるべきかということに関してパウロが述べるすべての事柄の中心に、「クリスチャンの生き方は神に対する自己犠牲的なものである」という概念がある。私たちは神の御国と栄光のために生きているのであって、自分のためではないのである。

       先週説明したように、12〜16章までは1章の箇所の対比である。1章でパウロは、ノンクリスチャンたちは神を信じておらず、神の真理に逆らって生活していると言っている。1章のところをもう一度見てみよう。彼らは正しい礼拝をささげないで、被造物を神の代わりに拝んでいる。その悪い礼拝の結果は、その生活において表わされるようになる。

       18節からを見よう。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」というところからパウロの話は始まる。「真理をはばんでいる人々」というのがクリスチャンではない社会全体に対する定義である。そして、21節からを見ると、「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もしない」と言っている。つまり、「正しい礼拝をささげない」というのが罪人のすべての汚れた状態の土台なのだ。「その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった」とパウロは言う。32節までの箇所でパウロは次のように言っている。

    その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

       この箇所全体は当時のクリスチャンでない社会を表わしている箇所であるが、私たちの周りの社会を見ても、実にこれと似ていることに気が付かされる。基本的に感謝せずに間違った礼拝をささげるなら、性的に狂ってしまい、その倫理も家庭生活もどうしようもなくなっていく。社会は、正しい尊敬をはらったり、人を心から憐れんだり、助けたりするような関係ではなくなる。親に逆らう者、約束を破る者、むさぼる者という言い方もあるし、暴力や犯罪は増えていく。性的に堕落して、家庭はだめになり、社会もおかしくなる。それは間違った礼拝の結果なのであり、当然の結果なのだ。

       「間違った礼拝の当然の結果」とはどういうものなのか。間違った礼拝をささげるということは、自分の心の思いに従って礼拝することである。そして、自分の思いに従って礼拝するとき、神はその者を彼の恥ずべき情欲に引き渡してしまわれ、その良くない思いに引き渡してしまわれるのである。その結果、自分の心の悪い思いが生活のすべてを支配するようになる。その中には、恥知らずの心、傲慢な心、逆らう心、悪事を企む心、憎しみの心などの全部が含まれている。それとは反対に、正しい礼拝を真の神にささげるなら、だんだんと神への感謝に支配される人間に成長していくのである。すべてが全く逆なのだ。真の神に対する正しい礼拝をささげない者は、「神を神としてあがめず、感謝もしない」というところから始まるその悪いリストを追うような生活に染まっていくようになるのである。

       12章からパウロはその逆のことを話しているが、それは、神の豊かな御恵みを覚えて、その御恵みに対する感謝の心をもって自分を神にささげていく生活である。それが日曜日の礼拝の本質であり、その日曜日の礼拝の心は毎日の生活のすべてを支配するようになるはずである。即ち、感謝の心に支配されて、自分を神にささげる思いをもって毎日の生活を送るのである。それは1章にある罪人の歩みと完全に逆の歩みである。つまり、「新しい社会の土台は礼拝にある」ということである。12章の1節と2節のところでパウロは新しい礼拝の教えを説いてから、3節からは、新しい社会の歩みについて具体的に教えるのである。1章では「自分では知者であると言いながら、愚かな者となり」と言って、彼らは自分では賢いと思って「神に従わなくてもよい」と考える傲慢な心を持った結果、全部が崩れてしまったことを指摘している。それと正反対のことをパウロは12章3節からのところで言っている。

     

    慎み深い考え方をする

    私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

        ここでパウロは再び「傲慢になるな」という警告を私たちに与えているのである。1章では、傲慢になって、その傲慢な心は「自分には知恵がある」と言って、神の真理に逆らい、「なぜ神に従わなければならないのか。従わなくてもよい」と考えた。そして、実際にその生活において自分を創造した神に従わない者になった。それとは違って、ここでは「へりくだった心を持って、このように考えて生活をしなさい」という話が続く。事実教会の中では、思うべき限度を越えて思い上がった者が問題を起こすのが常である。教会全体がそのような思いを持ってしまうこともある。個人だけでなく、教会全体が傲慢になって問題を起こすことがあるのだ。パウロは自分の手紙の中の多くの箇所で、個人の思い上がりから出て来る問題について話しているし、教会全体の思い上がりから出る問題についても話している。

       ローマ人への手紙の14章と15章はとても大切な箇所である。その14章と15章で実はパウロは具体的にこの教えをローマの教会にある問題に適用しているのではないかと思う。後で14章と15章を学ぶときに解釈等について考えることになるが、今日はその幾つかの箇所を見たい。まず14章3節に、「食べる人は食べない人を侮ってはいけない」という言い方がある。また同10節には、「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか」という言い方が出て来る。当時のローマの教会には、食べてよい物と食べてはいけない物の区別を明確にして、その原則(律法)に従わない者を軽蔑していた人たちがいた。その結果、教会の中には二つのグループが出来てしまった。二つのグループは互いを軽蔑しあうというような問題が起こった。

       それは異邦人とユダヤ人の区別というよりは、旧約聖書の律法の定めを食べ物において厳しく守るべきだと考える人たちと、そうとは思わない人たちの対立であった。クリスチャンになったばかりの異邦人が旧約聖書を読むとき、「これは守らなければいけないことだ」と思う人がいたかもしれないし、パウロのように「新しい契約に入ったのだからもうそれは守らなくてもよい」と理解したユダヤ人もいたかもしれない。だから、単純にユダヤ人と異邦人との問題として考えられるものではないが、これは旧約聖書にある食べ物の律法についての解釈から出た問題だったのではないかと思われる。具体的に考えれば、エビ類や豚肉は旧約聖書では食べてはいけないものであった。だから、エビや豚肉を食べてもよいかどうかということで意見が分かれてしまう。

       使徒行伝10章11節からのところで主はペテロに幻を見せて、あらゆるきよくない物や汚れた動物などが入った入れ物を見せて、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」と言った。ペテロは拒んだが、主は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と彼に言った。それでペテロは、それを食べることには神学的な意味があることを悟った。そして、次の日にペテロは異邦人にバプテスマを授けることになったのである。つまり、異邦人はユダヤ人と同じように神によって受け入れられているのである。何を食べるか、何を食べないかについて、旧約聖書には定められているけれども、その律法は象徴的な意味を教えるものであった。新しい契約においてはその意味が変わったのだということを、神は食べ物を通してペテロに教えてくださったのである。

       そういう意味で、新しい契約においては、豚肉を食べてもよいことが原則なのである。エビも食べてもよいのである。しかし、今まで一度も豚肉やエビを食べたことのないユダヤ人にとっては、どうしてもそれを口に入れることができない人もいただろうし、異邦人の中で旧約聖書をよく勉強した人は、「食べてはいけない」という思いに支配されてしまう人もいたかも知れない。その食べない人たちは、食べている人たちを見て「彼らは敬虔ではなく、いけないことをしている」と思って見下す。反対に、食べる人たちは、食べない人たちを見て「未熟な人たちだ。わかっていない」と言って見下す。互いを見下すようなことになると、地域教会として新しい社会の根本的なところをだめにしてしまうことになる。

       だから、12章の最初のところからパウロは14章と15章に出て来る問題を取り扱うための土台を築いていくようなステップを踏んでいるように思われるのである。そこでパウロはまず、神の御恵みに対する応答として、礼拝を正しくささげることを命じている。3節でパウロは「思い上がってはいけません」「高ぶってはいけません」と言って、信者の心を取り扱うのである。教会全体の中にそのような問題が実際にあったからである。

       聖書の他のところでは、教会全体というよりも個人の問題を扱っている箇所がある。例えばテモテへの第一の手紙では、信者になったばかりの若いクリスチャンに按手してはいけないと教えている。軽々しく誰にでも按手してはならない。つまり、軽々しく人を教会内の地位につけてはならないとテモテに警告しているのである。高慢が非常に罪深くて危険なものであるがゆえに、これはとても大切な教えである。若いクリスチャンは、高慢になって悪魔の誘惑に堕ちてしまう危険があるので、彼らが悪魔と同じさばきを受けるようなことにならないために忠告しているのだと、パウロは説明している。人を知るには時間がかかる。特に、キリストとその御国のために教会を正しく牧するためのへりくだりを備えた人物であるかどうかを見極めるには、更に時間がかかるものだ。いろいろ賜物があるからと言って簡単に教会内の地位を与えてはならないのである。これは聖書の教えである。

       他の箇所では、実名を挙げて「この人とこの人は教会の中で復活を否定している。私はこの人たちをサタンに引き渡して神の裁きを求める」と言っている箇所もある。ヨハネの第三の手紙の中では、デオテレペスという人物が出て来る。その人はいつもリーダーになりたがっていたことをパウロは暴露している。今日でもこのような人が教会で問題を起こすことはよくある。デオテレペスは、使徒であるヨハネにも逆らい、ヨハネを受け入れようとしないほどに傲慢になり、教会の中で問題を起こす人間になっていた。これは他でもない神に逆らうことである。それ故、へりくだった心を持って本当の神を正しく礼拝するということは、新しい社会の土台である。よくよく気を付けなければならない。自分の限度を超えて思い上がったりすると、地域教会だけでなく神の教会全体さえをも乱すことになる。パウロは、異教的な考えを持ち込んだり、空しい欲望を追求したりして教会を分裂させる者たちを取り扱ったりしたことも記されている。

       実際に今日の教会はどうなっているのかを見ると、「クリスチャンたちは思い上がっている」としか言いようがない状態になっているのではないか、と思うのである。つまり、傲慢になっており、いろいろな分裂や分派が教会の中にあり、神のみこころよりも自分の決定の方を重視することが少なくない。分裂について言えば、必要な分裂もあるけれども、あってはならない分裂もある。神の御言葉を忠実に守り、へりくだった心で神のみこころを求めて歩むよりも、この世に調子を合わせたり、自分の欲や都合に合わせたりして歩む傾向が非常に強いのである。今の時代は、教会全体がそのような状態の中にあると思う。このような時代だからこそ、一層へりくだった心を持って、何が神に喜ばれることなのかを真剣に求めて正しく神を礼拝することが要求されており、それは重大なことなのだと思う。

       12章3節のところに戻って、新しい社会の教えの適用について続けて一緒に考えよう。パウロの最初の勧めは、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います」という言い方で始まる。なぜこのような言い方で始めるのかというと、パウロはこれから教会の人たちの一人一人には、おのおのに与えられた恵みと賜物があることを悟らせようとしているからである。この認識はクリスチャンにとって不可欠である。パウロは、自分が教会に対して使徒の権威をもって教えるとき、それは神から与えられた恵みであり、自分もその教えに従っている者であると言っているのだ。つまりパウロは、「私がここであなたがたに命じるのは、それは自分が何か特別な者で他の者よりも優れているからということではありません。神が私に特別な恵みを与え、特別な責任を与えてくださった。私はその責任を果たす者としてあなたがた一人一人に言います」と言っているのである。そこからパウロの話は始まる。

       このことから、使徒としての地位はただ神の特別な恵みによって与えられていることをパウロが認識しているのは明らかである。彼は使徒である。教会の歴史の中で、使徒たちは教会全体の土台なのである。厳密に言えば、土台は主イエス・キリストである。しかし、エペソ人への手紙で「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と書いてある。「使徒と預言者という土台」の上に教会は立てられるのである。パウロたちには特別な地位と権威が与えられ、特別な働きと賜物が与えられていた。それ故、パウロは教会に対して、神の代表として命令を与える責任がある。「恵み」とは、神がパウロに与えた働きの恵みのことである。神が与えたその恵みによって、教会に命じるのである。その「恵み」に従って教会に語るのである。

       そうであれば、私たちはパウロが語ったことを、神がそのしもべを通して語られたものとして受け入れなければならない。それ故、この言葉には、「これから私が言うことを、気を付けて聞きなさい」という意味が強調されていると言える。自分に与えられた賜物のすばらしさを深く感じるとともに、聞く人々に「これは重大なことですから、心して聞きなさい」と言っているわけである。神への感謝を表わすとともに、自分の名によって語っているのではないことを明確にしている。つまり、パウロの言葉は神が与えた権威に基づいて語られているのである。そういうわけで、自分がこれから言うことに対して真剣に耳を傾けるように求める言い方でパウロの話は始まっている。

       「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」とパウロは言う。すべてのクリスチャンが神の御国における自分の立場をわきまえるべきだと言っている。神が私たちに恵みを与えて、私たちを贖い、私たちを高く上げられたのは、それによって私たちを傲慢にさせるためでもなく、思う限度を越えて思い上がらせるためでもない。この日本語訳は、言葉の順番が変わっているためにニュアンスも変わってしまっているのではないかと思う。原語の語順は、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。むしろ、慎み深い考え方をしなさい」という順番になっている。

       「思い上がってはいけません。慎み深い考え方をしなさい」と言って、信者の一人一人が自分自身について考えるように勧めている。そして、神の御国のための自分の働き、教会の中での自分の働きにおいて、「自分のことを高く評価しすぎるな」と言っているのである。おのおのには神から与えられた働きがある。一人一人には、神から与えられた恵みがあり、賜物がある。「私に与えられた働き、恵み、賜物は、実にすばらしい。皆が私を認めなければいけない」と言って思い上がってはならない。へりくだるように勧めているのだが、特に自分に与えられた働きや賜物や恵みに対する考え方においてへりくだるようにパウロは命じているのだ。「特にそのことについて、慎み深い考え方をしなさい」と言っているわけである。

       この命令には難しいところもあると思う。他の人を見るときに、その人には賜物があるかどうか、どこまで能力があるのかなどを見分ける力が自分にはあると思ってしまう傾向があると思う。実は、人を見て人を量るのは賜物の一つであると言ってよいことなのだ。企業が採用のための面接を行なうとき、僅かな時間の面接で、その人がどのような人物なのかを見定めて、役に立つか立たないか、会社のどの部署に適する人材なのか、或いは不必要な人間なのかという判断を下す。それは実に大変なことである。それは一種の賜物だと言わねばならないと思う。しかし、日常生活の中で私たちはある程度そのようなことをしなければならないのだ。他の人を見て、判断しなければならない。どのレストランが美味しいか、どんな洋服がよいのか、高いのか安いのか、買うべきか買うべきでないかなど、たくさんの事について判断しなければいけないのと同じように、人間についても判断しなければならない。そして、自分についても判断しなければならない。

       しかし、どのように自分自身を知り、自分に与えられた限度を知ることができるだろうか。試行錯誤しながらある程度は判断できるだろう。しかし、どうやって自分を知るかという問題よりももっと重大なことは謙虚な心を持つことである。私が若い時に見たある昔の映画で、どんな映画かはもう完全に忘れたけれども、その映画の中で忘れられない一つのセリフがあった。それは、「自分の限度を知ることは知恵である」というようなセリフであった。どんな意味かなと、その若い時に思ったことを覚えている。今は、そのとおりだと思う。自分の限度を知ることは知恵である。自分の限度を知らなければだめなのだ。自分には何ができるのか、何ができないのか、何をすべきか、何をすべきでないのか、何をやってみるべきか、何をやってみてはいけないのか、知らなければならないものである。

       聖書の訳では「自分の限度」という言い方をしているが、これは「限界」というような意味の言葉である。自分の限界を悟らなければならない。そのことをパウロは教会の中のこととして話している。「自分の限界を知る」ということは、まずへりくだった心を持つことである。しかし、自分の限界を知るまでには、いろいろ試したり、失敗したり、経験を踏まなければならない。神は私たちの経験を通して教え、私たちがへりくだるようにされる。問題は、教えられることを私たちが喜ぶかどうかである。私たちは、神が語られるのを喜んで聞いているだろうか。そういうわけで、へりくだった心をもって自分の賜物や働きについて考えるように、パウロは勧めている。

       次に原語では「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じなさい」と言っている。確かに文章の中では、「神が一人一人に与えてくださった信仰の量りに応じて自分を評価しなさい」という意味になるので、日本語の文法からしてそう訳すことに問題があるわけではない。しかし、順番としてこの言葉は最後に来ている。そのポイントは、結論として、「神が皆に信仰の量りを与えてくださった」ということである。その「信仰の量り」とはどういうものなのかを考えるとき、「ある人には信仰がたくさんあって、ある人には信仰が少ししかないことを知りなさい」という理解は間違いである。「各自に与えられた信仰の量に応じて自分を評価する」というように考えるなら、信仰が強い人は信仰の弱い人を見下すような話になってしまって、14章と15章の教えの逆のことになる。

       パウロが言っているのは、「キリストにある信仰そのものが量りだ」という意味だと思う。「信仰が沢山あるのか、少ししかないのか、その信仰の大きさに応じて考えなさい」という話ではない。信仰があること自体が量りなのだ。もっと砕いた言い方をすれば、「クリスチャンらしく」というような意味なのだ。「信仰の量り」と言っているので、「信仰」が基準なのである。「信仰を持つものとして自分の限界を知りなさい。思い上がってはいけません」と言っているのだ。「慎み深く考える」とは「信仰の量り」に応じて考えるという意味である。

       「一人一人」また「おのおの」という言い方をするのは、私たちの一人一人が皆クリスチャンであり、神から信仰を与えられた者だということだ。各自に「量り」が与えられているのだ。だから、神から信仰を与えられた者として謙虚な心をもって事柄を考えるべきである。他の人を見ても、自分と他の人との関係を見ても、それぞれに神から信仰が与えられていることを認め、その信仰を正しく持つことが「量り」なのである。この量りによって私たちは慎み深く考えることができる。つまり、クリスチャンらしく考えることなのだ。強調して「おのおの」と言っているので、一人一人が信仰を持つということは、神に仕える働きをも与えられたということだと思う。

       そのことについてはパウロは後で話している。一人一人に信仰が与えられたことと、働きも与えられたこととは確かにつながっているのだ。信仰そのものを正しく持つことが量りなのである。この量りを重んじ、この基準を覚えて、神から与えられた賜物と働きとを吟味するのである。それに応じて考えるのである。即ち、慎み深い考え方を持ち、自分の限度を越えることをせずに、へりくだった心を持ちなさいと、パウロはクリスチャンの一人一人にそのように命じて、励ましを与えているのである。このようにして、信仰の量りはへりくだりを生み出すのである。パウロの説明は続く。4〜5節を見よう。

     

    からだ

    一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

       一人一人に信仰が与えられたので、一人一人は主イエス・キリストのからだの中に入れられた器官となった。そして働きの話が続く。「信仰の量り」と言うとき、確かに後の働きにもつながっている。信仰を持つこと自体が量りであり、それが各自に与えられている。自分の限度をわきまえて高ぶらなければ、キリストのからだを分裂させる有害なうぬぼれに陥ることはない。その事について考えるとき、パウロは「からだ」について考えるのである。からだ全体の中にあって、私たち一人一人はその器官である。キリストの教会は、キリストのからだなのである。それは「一つのからだ」なのである。あたかも実際の人体に多くの異なる器官があるのと同じように、私たちも大勢いるけれども、主イエス・キリストにあって一つのからだであって、その中にはたくさんの器官がある。

       私たちの一人一人には神が計画された機能が備わっている。各器官は独自の機能を持ち、他の器官が肩代わりすることはできない。確かにある部分は他の部分に比べて重要な働きをすると言えるが、各部分が特別な働きを持っていることに変わりはない。私たちは、からだ全体という観点から、その一つの器官として置かれた場所と働きを悟る必要がある。そして、その働きができることを神に感謝すべきである。教会全体のことを考えるとき、地域教会の一つ一つがそのからだの器官であるという考え方もできるが、一つの地域教会としてからだを考えるとき、私たちは自分がその中にあって一つの器官なのだということを認識すべきである。その一つの教会もキリストのからだであって、私たち一人一人はその中の器官である。

       一人一人の働きは全体の益となるためのものである。それで、思い上がって、自分の限度を越えて自分の働きを考えてはならない。そうするとき、或いはそうしようとするとき、からだ全体は狂ってしまって害を受けることになる。からだ全体に益を与えるはずの器官が害を与えることになってはならない。そういうことにならないように、パウロはここで自分を正しく評価することについて教えている。慎み深いさばきをもって自分を正しくさばくことにはいろいろな意味があるが、一つには、キリストのからだにおける自分の地位を悟ることを意味する。なぜなら、教会はキリストのからだであって、一つ一つの地域教会はキリストの普遍的なからだの地域的な現われだからである。それ故ここでは、地域教会をキリストのからだとして考えることと、教会全体を主イエス・キリストのからだとして考えることが求められている。

       そのことはコリント人への手紙の中で扱われている。パウロは地域教会であるコリントの教会について語るときに、「あなたがたはキリストの教会です」と言っているが(12章27節)、エペソ人への手紙やこのローマ人への手紙の箇所ではその同じ言い方を教会全体についても話している。「キリストのからだ」という言い方は、その両方に適用されるものである。しかし、「主イエス・キリストのからだである」と言うとき、私たちはこの世にあって主イエス・キリストを代表するものだという意味もあるし、教会は新しい社会であることもそれによって表わされている。

       アダムにある社会、即ち古い社会はローマ人への手紙1章のところにある。神は最初から人間を御自分の似姿に創造してくださった。単に個人としてだけでなく、人類全体もまた神の御姿のあらわれとして創造されたのである。それで、人類は三位一体なる神を表わす社会として創造され、人類は神の愛と神の義と神の善を行なって表わすものとして最初から造られたのである。個人一人一人においてだけでなく、社会もそれを表わすはずであって、そこには特別な意味がある。神御自身が三位一体なる御方として“社会”をなしているおられ、人類はその三位一体なる神の似姿である。人類全体は、契約的な一致をもって互いを愛し合い、神の栄光を表わす歩みをするように創造されたのだ。

       そして、アダムとエバは、罪を犯した瞬間に、互いの関係はだめになった。最初に生まれた二人の息子たち(カインとアベル)も、一人は正しく、一人は悪い者であった。その悪い者は正しい者を殺してしまった。そして、アダムから生まれてきた人類全体はあまりにも罪深くて神に逆らうので、創世記6章のノアの時に全部裁かれて、ノアから新しい人類を造らなければならないことになった。新しい人類は、その罪が最悪な状態にならないようにと、神は裁きを与えて人間の寿命をだいたい七十歳、健やかであっても八十歳と定められた。アダムの時からノアの時までの人間の寿命は六百歳から九百歳であったが、悪者がそれだけ長く生きるなら、三百歳とか五百歳になった時にはとんでもない邪悪な人間になるであろう。ノアの時代、世界はそういう人間で満ちていた。滅ぼす以外に救いはない状態であった。それで、神を恐れるノアとその家族だけを救って、神は新しい始まりを人類に与えた。それもまた繰り返し裁きを与えなければならないものであった。

       しかし、新しい契約が与えられたときに、主イエス・キリストは十字架上で古い人類のために死んでくださり、そしてよみがえってくださり、よみがえりの新しいいのちである御霊を御自分の教会に与えてくださった。当時の教会に異言を語る賜物を与えたのは、特別な期間での宣教の働きのこともあるが、教会にあって「バベルの塔の裁きは終わった」ということの宣言であった。「ここには新しい人類がいる」ということを世に表わすためであった。食べ物も変わり、異邦人もユダヤ人も一つのからだとなる。これは新しい人類の始まりだということを使徒行伝の中でずっと宣言されている。主イエス・キリストは最後の説教で、新しい人類が始まったその決定的で最終的な表われは神殿に対する裁きだと教えている。神殿が破壊され、神殿制度が破壊されることによって、古い契約のすべて、即ちアダムから始まったエデンの園の象徴のシステム全体は終結したという宣言がなされたのである。そのことを主イエス・キリストはマタイの福音書24章と25章で教えている。

       新しい人類が始まった。その新しい人類とは、復活して天に昇った主イエス・キリストのからだである。キリストは頭で、私たちはそのからだの部分であり気管である。その認識を持って、次のステップを踏むのである。即ち、その認識を持って、神に仕えるのである。まず、私たちは新しい人類であることを認識しなければならない。ローマ人への手紙1章にあるあの古い人類ではなく、新しい人類である。その新しい人類は、新しい歩みをしなければならない。この世と違う歩みをしなければならない。そして、この世と戦わなければならないものである。その戦いはどこから始まるのかというと、自分の心の中からである。先ず、へりくだった心をもって神に感謝するのでなければ、何も戦えないのだ。神に感謝し、正しく神を礼拝するところから戦いは始まるのである。

       心の中で、神に礼拝をささげ、神に感謝をささげ、へりくだった心を持つところから歩み始めるなら、他のどんな問題に対しても解決する道が与えられる。解決できない事が皆無だと言っているのではない。つまり、神が解決してくださるまで待つしかない問題もあるが、神に信頼して感謝の心を持つなら、待ち望むことができる。我慢しながら待つということではなく、感謝しながら待つのである。あまりにも邪悪なサウル王に追われたダビデは、サウルが死ぬまで待つしかなかった。神がサウルを裁くまで待たなければならなかったのだ。ブツブツ言ったり、泣いたりして待つのだろうか。ずっとサウル王が死ぬように祈りながら待つのだろうか。ダビデはそうではなかった。神にすべてを委ね、信頼し、その間に自分のやるべきことが何なのかを求めて、すべてを神に感謝しながら待っていたのだ。それ故、祝福されたのである。そのダビデも、感謝を忘れたときに罪を犯してしまったことを忘れてはならない。

       新しい主イエス・キリストのからだであることを認識する者は、各自に与えられた賜物をもって互いに仕え合うように命じられている。それがキリストにあって築かれる新しい社会の土台である。一人一人はそのからだの器官であることをはっきりと認識しなければならない。「器官である」ということは、自分が独立した個人で自分のために生きているのではないということなのだ。一人一人には異なる働きが与えられている。だからパウロは、「ひとりひとり」という言い方をすると同時に「一つのからだである」と言っている。つまり、「一」をも「多」をも、同時に強調しているのである。

       神御自身の一と多の調和は完全である。従って、神の栄光を人が正しくあらわすとき、人の社会もまた契約的な調和を持ったものとなる。新しい社会は三位一体なる神を表わす社会であるがゆえに、それは主イエス・キリストのからだである。そのことを言うとき、一人一人に与えられた特別な働きと特徴と異なる賜物、そして多種多様な性格や能力は互いに摩擦を起こすのではなくて、むしろ全体として調和したものとなるのである。先に見たように、手には手の特徴があり、その特徴は足の特徴とは違うものだ。手の特徴が足の特徴と同じなら、手として機能することはできない。手と足は違うものだ。足も、足として機能するために大切な特徴が与えられている。そのことをパウロは、コリント人への第一の手紙12章で教えている。自分に与えられた働きが他の者の働きと違うのは当然のことである。それだからと言って、自分は大変だとか、或いは自分は他の人よりも偉いと思う必要はない。自分に与えられた働きを、感謝して行い、からだに益となるようにベストを尽くせばよいのである。からだ全体に役に立つように、へりくだった心をもって歩むのである。

       3節から5節までの箇所は、それに続く命令の導入である。そのポイントは、キリストにあって救われた私たちは「新しい社会」だということである。新しい社会として正しく歩むことができるために不可欠なことは、へりくだった心をもって、信仰が神の御恵みによって与えられたことを認め、働きも神から与えられたことを認め、「自分は主イエス・キリストのからだの一つの器官であり、その新しい社会の一つの器官として、神の栄光を表わすように生きる」という思いを持って自分の人生の歩みを考えることである。

       地域教会として与えられた最も大切で意味のある働きがここにあるかも知れない。つまり、千年後には誰も私たちの働きを覚えていないかも知れない。千年も待たなくても、忘れられてしまうかも知れない。しかし、千年経ってもカルヴァンの働きは覚えられているし、アウグスティヌスの働きも忘れ去られることはない。アウグスティヌスの働きからはもう既に千年以上経っている。千五百年経っても、人々はアウグスティヌスが書いた書物を真剣に勉強している。クリスチャンではない人たちさえも、大勢がアウグスティヌスの書物を学んでいるのである。私たちの働きはそれと比べれば実にちっぽけなものだと思う。

       しかし、私たちの小さな働きにおいて何が重大かというと、私たちが書いた書物ではないだろう。私たちが作る教会堂も千年以上も続くようなものは建てられないだろう。五百年後に、世界中から人々が来て「ああ。ここが三鷹福音教会なんだ」と感激してくれるようなことはまず無いだろうと思う。では、私たちはどのようにして神の栄光を表わすのか。それは、私たちが自分の思うべき限度を越えないで、自分たちに与えられた働きが何なのかを真剣に考え、へりくだった心をもって新しい人類として日々を正しく歩むことではないか。自分に与えられた領域にあって神の栄光を求め、神の栄光を表わすのである。神の栄光が表わされているなら、それは「からだ全体」に益となり、残る実となる。

       アウグスティヌスの本が読まれるのは、神の栄光を表わす信仰の書物だからである。そこから私も神の栄光を表わすように学ぶことができるのである。私たちは今ここで自分たちに与えられた小さな働きにおいても、神の御栄光が表わされるように、感謝をもって、へりくだった心をもって神に信頼して歩めばよいのだ。ここで、神の栄光を求めて、互いに仕え合うのである。それこそ残る実として私たちに与えられた働きの一番大切なところではないかと思う。感謝の心を持たず、へりくだった心を持たない者は、神に仕えることはできない。感謝の心無しには真の礼拝をささげることもできない。感謝の心がなければ、親としても子どもとしても正しく歩むことはできない。何も正しくできないのである。「感謝もせず」とうのが1章に書いてあるすべての罪の始まりなのだ。その反対が、感謝の心をもって自分を神にささげることである。

       毎週の礼拝において、主イエス・キリストのからだと血を表わす聖餐式を受ける部分は重大である。この時に、はっきりと神への感謝の心に戻って、神の御名を賛美するのである。そのことを覚えて聖餐式を一緒に受けたい。

     

    ――2001年11月4日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章2節

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