ローマ人への手紙12章6〜8節
12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
2001.11.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
聖霊の賜物
12章6〜8節
6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
ローマ書12章のパウロの教えは、来るべき新しい契約と聖霊の賜物に関する広範にわたる聖書の教えに基づいている。12章1〜2節までのところでパウロは、ローマの教会にも、私たちにも、毎週の礼拝において基本的に何をしているのかを教えている。私たちは礼拝に集まるとき、自分を神に「生きた供え物」としてささげているのである。旧約聖書の礼拝制度の本質的なところを私たちも礼拝において守っている。私たちが自分を生きた供え物として神にささげるとき、「私は100%神のものです」と宣言しているのである。自分のために生きることをせず、「自分の欲するところに従って」というような心を捨て、「主よ。あなたの思いのままに、どうか私を導き、御心のままに用いてください」と言って自分をささげるのである。そのことが1節と2節にある。
3節からパウロは、それを教会の生活に具体的に適用して教えている。3節の最初のところで先ず、「自分を高く評価し過ぎないようにしなさい」と命じている。そして、私たちはキリストにあって「一つのからだ」であると言っている。その一つのからだの中には多くの器官があり、それぞれの器官はおのおの違う働きをするものであると教えている。それ故、自分に与えられえた信仰、立場、働き、力などを悟って、へりくだった心をもって神に仕えなさいと、私たちに教えている。「一つのからだには多くの異なる器官がある」と言うとき、クリスチャンの一人一人は神の教会全体のために生きているということを表わしており、更に、信徒が神の栄光のために互いの徳を高めるように、神はそれぞれの地域教会を建ててくださったということも表わしている。
クリスチャンは自分のために生きているのではないということをパウロは他の箇所でも強調して教えている。手はからだ全体のために働くものであり、手だけで独立して自分のやりたいことをやるものではない。目も、耳も、鼻も、口も、脚も全てそうである。教会の場合は、一人一人に与えられている能力や働きがあるが、何のためにそれらが私たちに与えられているのかを知らなければならない。それは教会全体の徳を高めるためなのだ。自分たちが導かれた地域教会の徳を高めるためにそれらは与えられた。
パウロはそのことを話してから、こんどは賜物について6節から話している。その賜物について語っている箇所を読むときに、パウロの時代の教会のためだけに書かれたものもあるし、その全体的な話は今日の時代の教会にも適用できるものである。この箇所では、新しい契約や聖霊については直接言及していないが、パウロはここで預言、指導、奉仕などの賜物について述べており、コリント人への第一の手紙で聖霊の賜物として説明されているのと同じ賜物について述べていることは明らかである。このことは、賜物に関するパウロの議論を新しい契約というさらに大きなテーマと結びつけるものである。
賜物を持つこと
6節からの箇所を一緒に見よう。パウロの説明は、「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので」というところから始まる。コリント人への第一の手紙12章でもパウロは同じことを強調して、御霊が一人一人に賜物を与えてくださったと話している。コリント人への第一の手紙12章では特に奇跡的な賜物について教えている。コリントの教会の人たちが異言を語ることを求めて、それを中心的なものにしてしまったような状態にあったので、パウロはその問題をも取り扱っている。しかし、基本的なポイントは同じである。即ち、神の御霊が私たち一人一人に賜物を与えてくださったということである。
旧約聖書の中ではこのようなことは強調されていない。旧約聖書にはまったくそのようなことが無いとは言えないが、そのことが強調されるような箇所はどこにもない。割礼を受けた一人一人に御霊が特別な賜物を与えるというような話はどこにもない。例えば、天幕を作るとき、特別な働きをする者たちに神は特別な力を与えてくださったという話はあるが、それではその国民全体はどうなのか、民全体に神から特別な働きや賜物や御霊の働きは与えられていたのかというと、あったとは思うけれども、それは直接書き記されていないし、旧約聖書のどこにもポイントとして強調されてはいないのである。
旧約時代、イスラエル全体は神の祭司の民であった。それは出エジプト記19章に書かれている。それで、イスラエル全体を祭司の民と考えるとき、祭司の働きが与えられた者たちにはどのような祝福が与えられていたかを見なければならない。そして、アロンとその息子たちや祭司たち全体がしなければならない働きがあり、また祭司たちに与えられた賜物を見ると、そこには御霊の働きもあるし、賜物と呼ぶべきものも与えられていたのを見る。祭司たちがそうであれば、イスラエル全体もまたそのようなものであった筈である。しかし、イスラエルの民の一人一人に御霊の祝福と賜物が与えられているというようなことは特に強調されてはいない。古い契約にはそのような概念は見られないのである。
旧約聖書では、むしろヨエルが、「メサイアが来て新しい契約を与えてくださるときに、神はすべての人々に御自分の霊を注ぎ、皆が預言をし、夢を見、皆が幻を見る」と預言しているところを覚えるべきである(ヨエル書2章28〜19節)。その預言は使徒行伝2章で引用されている。そして、使徒行伝2章で引用されている箇所は教会全体に適用されているのである。教会全体に、御霊の祝福が豊かに与えられるという話になっているのである。新しい契約においては、御霊の祝福はもっと豊かに注がれて、質的にも違うし、一人一人にその賜物が与えられ、一人一人に神の御国を建設するための働きが与えられることが非常に強調されているのである。
使徒行伝で強調されていたのは、新しい契約が与えられた(新しい契約が来た)ということであった。そして、一人一人の個人に神の御国のために特別に働くということは、古い契約と新しい契約の一つの大きな違いであることを私たちは認識しなければならない。パウロはそのことを説明しており、主イエス・キリスト御自身も教えていたことである。ヨハネの福音書7章37〜39節にこう書いてある。
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、39イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
39節でヨハネは説明を加えているが、主イエス・キリストは御霊の祝福のことを約束し、預言したのである。主イエス・キリストを信じる者には豊かに御霊の祝福が与えられる。ここで主イエスはエゼキエル書40〜48章に書いてある「新しい神殿」のことを話しているのである。これはまたエデンの園を指しており、天幕をも指しており、神殿制度の象徴を指している。エゼキエル書47章のところで、その象徴的な新しい神殿の真ん中から水が流れ出ていたのをエゼキエルは見た。その水は川となって全世界に新しい水を与え、この川が入る所では、すべてのものが生きるのを見た(47章1〜9節)。エゼキエルは神殿について細かく預言している。そして、主イエス・キリストが預言しておられることは、私たち一人一人が神の神殿となるということである。
それは新しい契約の祝福であり、約束の成就として御霊の祝福が与えられるのである。「御霊の祝福が与えられる」ということを新しい契約において強調するとき、それは「クリスチャンの一人一人に、神の御国のために実を結ぶ働きが与えられた」ということが強調されているのである。古い契約において、イスラエルの時代にあっては、そのポイントはそれほど強調されなかったが、新しい契約においては、それは非常に大きな意味を持つようになる。だから、コリント人への第一の手紙12章でパウロは、御霊の賜物と御霊の働きについて話すし、このローマ人への手紙12章でも同じようにそのことについて教えるのである。
12章6節でパウロは、「与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている」と言っている。その大切なポイントの一つは、「一人一人に、神の御恵みによって賜物が与えられている」ということである。「異なった賜物」が与えられているということは、一人一人に与えられた賜物も働きも違うということである。12章4〜5節でパウロは、からだの比喩を使って教会全体が主イエス・キリストのからだであり、地域教会の一つ一つも主イエス・キリストのからだとして考え、信者の一人一人はそのからだの部分であると説明している。神の御国のための働きは、その大きさにおいても、重要性においても様々である。
先週も話したように、そこでパウロは「一と多」の問題について話している。最終的に神御自身を表わす新しい人類としての教会は、神御自身に似ているものである。神御自身は三位一体なる御方である。存在においては一つであるが、人格において三つであられる。御父も神、御子も神、御霊も神であられる。しかし、それは三つの神ではなくて、唯一絶対なる一人の神なのである。それ故、究極的且つ絶対的なレベルにおいて、「一つ」であることと「多」であることは神御自身において完全に調和している。神は究極的に「一つ」であられて後に「三つ」となられたのでもなければ、究極的に「三つ」であられて後に「一つ」となられたというのでもない。
その三位一体なる神御自身を教会に適用するとき、その意味の一つは、クリスチャンが自分に与えられた能力や働きを最大限に発揮するときであっても、それぞれの部分が他の部分の邪魔となるはずはないというものである。一人一人に与えられた働きを最高のレベルまで成長させてそれを実行するとき、それは互いを助け合うことになるはずである。必ず「一」と「多」の調和があるはずなのだ。しかし、実際のところどうなっているかというと、地域教会においても、普遍的な教会全体においても、この世にいる間の私たちはまだ罪人なので、私たちの罪のためにいろいろ邪魔になったり足をひっぱったりしてしまうことが多々あるのは事実である。しかし、そうであっても、おのおのに与えられた賜物と力を神の御国のために一生懸命用いて働いたことによって互いに邪魔するようなことになるはずはないのである。
では、問題はどこから来るのかというと、3節で言われたとおりである。つまり、限度を越えて思い上がらずにへりくだった心を持って働くことをしないからである。或いは1節と2節にあるように、本当の意味で自分自身を神にささげることをしていないからである。相変わらず傲慢な自分が中心になっている。そのために、私たちは神の御国のための働きにおいて「一」と「多」の調和を見出せない状況に陥ったりしやすいものである。「一」と「多」の調和は神御自身の存在において完全なものとしてある。
私たちは、この世にいる間に成すべきすべての事を成し終えるわけではない。また、この世で自分の賜物を100%全部活かせるわけではない。この世では、働きを始めただけに過ぎないのである。つまり、一人一人には自分に与えられた恵み、能力、働きがあるが、それは永遠に続くものとして与えられているということを、覚えなければならない。この世での働きは、物事のほんの始まりに過ぎないことを覚えるべきである。
この世の中にあってクリスチャンとして生きるということは、天の御国に生きることの入り口に立つほどのことに過ぎないのだ。この世の中に生きることがすべてではない。この世の人生で終わるのではない。そういう意味で、私たちは自分の働きについて考えるとき、どうしても成し遂げることのできない部分があるのを感じるし、実現できない部分がある。始めることすらできない事だってある。変に誤解されると困るので気を付けて聞いてほしいが、「それらについてはそれほど心配しなくてもよい」という言い方ができると思う。
今朝は詩篇90篇を交読したが、私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年という時間が与えられている(詩篇90篇10節)。その短い人生において、自分が成し終えたいと思うことの全部を終わらせることはできない。しかし、忍耐をもって、喜びをもって、ベストを尽くして出来るところまでやればよい。残ったところは、天において無限の豊かな時間の中で継続できるという事実によって私たちは慰めを受けるべきである。私たちに与えられている聖霊の賜物は死によって失われることはない。私たちは主の御許にその賜物を携えて行くのである。与えられた賜物は永遠の実を結ぶために与えられたのである。天国に行った後で急に失業者のようになって無為に永遠の時を過ごすわけではない。私たちは永遠に賜物を活用して神に仕えるのである。成長も永遠のものである。私たちには、そういう意味で永遠の希望がある。働きは、この世の中で終わるものではないのである。御国に行っても、黙示録22章に書いてあるように、主イエス・キリストのしもべたちは永遠に主イエス・キリストに仕えるのである。
そのことをしっかり覚えなければならない確かな理由がある。今シェークスピアについてのプロジェクトのためにいろいろと本を読んでいるが、ある書物の中でキリスト教に非常に激しく反対している一人のプリンストン大学の哲学者が、「クリスチャンが信じるような天国に行きたいと思う人はいないであろう」という言ってその理由を説明している。「クリスチャンは天国に行くと、雲の上に座って歌ばかり歌っている。そのような所へ、誰が行きたいと思うだろうか」と言って、中世期の漫画のようなものを引用してクリスチャンの天国について批判している。勿論、そのようなことは聖書のどこにも書かれてはいない。天国には社会があり、働きがある。今私たちに与えられている恵みや賜物を私たちがこの世でどのように神の栄光のために用いているかを、裁きの日にさばかれるけれども、もっと大きな働きが私たちに与えられることになるのだ。自分が世にあって不忠実で無責任に生きたところがあれば、それは取り扱われて、それに応じて御国での働きが与えられる。神の裁きの前に立つ私たちを、神は祝福してくださって、完全な者としてくださり、そこから働きは続くのである。もっとよい働きが私たちのために備えられている。
ある人は「御国では音楽を書く人はいるのか」と問うが、答えは「はい」である。バッハも、その音楽の働きは全然終わってはいないのである。やりたい仕事はまだまだ沢山あったのだ。天国に行ったバッハは何もしないのかというと、そうではない。バッハは続けて更に素晴らしい音楽の働きをするし、今もそれをしている。音楽だけでない。私たちには新しい人類として各々に多くの異なった働きが与えられている。勿論、御国に行った後の細かいことについては今想像できないし、復活のからだが今の朽ちるからだと違うということも確かである。しかし、この世で神の御国のために始めたその働きは、永遠に続く働きなのである。そういう意味で、実に大きな素晴らしいこととして、御霊を与えられた新しい人類として、私たちは神の御国のために実を結ぶように働くのである。今始まった働きに終わりはない。これは永遠に続くのである。働きの楽しみは天国においては更に豊かなものとして十分に与えられるのだ。
エデンの園の呪いのゆえに、この世では汗を流して働かなければならない。先の詩篇90篇10節にも、「私たちの齢は・・・健やかであっても八十年。しかもその一生は労苦とわざわいです」と書いてある。人間は、罪人でなかったなら苦労というものはなかったのである。そういう意味で、「働き」は汗を流してしなければならないものではなかった。しかし、罪人となった人間は、苦労して働き、そして死ななければならないものとなった。しかし、キリストにあって贖われた人々は、新しい人類として、永遠に神の御国のために喜びに満ちて働く者に変えられるのである。細かいところはわからないが、御国で私たちは、神を喜ぶとともに、物を作り、芸術を楽しみ、黙示録では祝福として食べ物を食べることについても書いてある。新しい永遠の社会においては、働くとき、もっともっと自分に与えられた特別な賜物を活かすことになるのだ。
自分に与えられた特別な能力と働きをもっと活かすと同時に社会の全体的な調和というものをはっきりと感じるものとなるのである。自分を殺して調和を保つということではなくて、自分を活かすことによって調和を深めていくのである。この世では罪人同士の交わりなので、「自分を殺して」ということには複雑な意味がある。パウロはコロサイ人への手紙で「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい」と言っている(3章5節)。それは自分の罪のことであるが、罪ではない部分においても、自分を否定しなければならないところはいろいろ出て来るものだ。しかし、御国では自分を活かすことによって皆を祝福するようになる。そこには自分を活かしたり殺したりしなければならないような矛盾はない。
私たちには、神の御恵みによって与えられた素晴らし働きがある。それは御霊の働きであり、御霊の祝福である。それはこの世で今始まったが、それはこの世で終わるものではなない。だから、心配せずに、今出来ることを、力と知恵を尽くして行ない、この世の人生で終わらせなかった部分があっても、その働きは続くことになるというふうに考えてよいのではないかと思う。次にパウロは、6節の後半から8節でいくつかの賜物について話している。
預言する、教える、勧める
6bもしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
まず、「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい」というところから話は始まっている。「信仰に応じて」という翻訳になっているが、原語では「信仰のアナロギア」という言葉である。「アナロギア」は、英語では「アナログ」という言葉だが、「信仰の基準にしたがって預言しなさい」という翻訳の方がよいと思う。「信仰の基準にしたがって預言しなさい」と言っても、その信仰が主観的な話なのか客観的な話なのかの違いもある。特に預言について考えるとき、それは客観的な話をしているのではないかと思う。ここでパウロは、モーセが申命記18章15〜22節で預言者について話したのと同じことを話していると思われる。モーセは次のように書き記している。
あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。・・・主は私に言われた。「・・・わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。
預言は、今まで神が与えた啓示と矛盾することは出来ない。それだから、「今までの既に与えられている基準に従って正しく預言しなさい」とパウロは話しているのである。預言についてコリント人への第一の手紙でパウロが話している箇所を幾つか見たいと思う。12章28節をまず見よう。
神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
ここで賜物は、その重大さの順になっており、教会における地位の順になっている。この中で異言を語る賜物が最後になっている。なぜなら、教会の中でそれはさほど重要ではないからである。パウロがローマ人への手紙12章で挙げている七つの賜物のうち三つは、広い意味による適用も可能ではあるが、特に教会の牧師と長老の職を指すものである。他の四つは慈善の働きに関わる職と思われる。そして、神の御言葉を教えることに関連した先の三つの賜物のうちの一つである「預言者」の賜物は、少なくとも御霊の賜物の厳密な定義に従って理解するなら、明らかに今日では廃止されているものである。神の御言葉を宣言するという預言の賜物は最大限に尊ばれる賜物であった。預言者という賜物は、使徒職と同様、初代教会の時代に与えられている特別な賜物であった。
その当時、新約聖書はまだ書かれておらず、使徒たちはいろいろな所に行っては新しく教会を設立する働きをしていた。使徒職と一緒に預言者の賜物もその時代に与えられていた。預言の賜物が与えられていた人たちは神の御言葉を語ったり書き残したりした。ここで預言者について少し認識しておく必要があると思う。預言者が世に現れたのはどのような時代だったのだろうか。旧約聖書を見れば明らかだが、新しい契約が与えられるときに預言者もまた与えられたということがわかる。どの時代にも大勢の預言者が至る所にいたというものではなかった。神の命令に従って預言を語り、聖書を書き記したり、未来の神の導きや定めについて教える預言者の存在は、旧約聖書の時代にあっても稀であった。
モーセの時代の後、ヨシュア記や士師記の中では目立って記されてはいない。サムエルが生まれた時代、預言する者はどこにもいないかのようであった。ダビデの王国を築き上げる時代にサムエルという預言者が与えられた。その後の王国の時代には、預言者は全然いないわけではないが、非常に少なかった。神の御言葉を王に教える責任は基本的に預言者に与えられていた。しかし、北イスラエル王国の終焉のとき、また南のユダ王国の終焉のときにも、多くの預言者が与えられ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者が与えられて、旧約聖書の多くの預言者の書が書かれた。エズラの時、新しい契約の時代が始まるときにも、預言者がいた。
そして、主イエス・キリストが世に来られて、古い契約の時代が終わろうとしていた時に、バプテスマのヨハネが現われて預言するのを見て人々は驚いた。「預言者が現われた。これは普通ではない。新しい時代が始まるのだ」と、誰もが思ったのである。バプテスマのヨハネと主イエスが預言者として働き、続く使徒たちの時代にもある人々に預言者の賜物が与えられて働いたのである。そして紀元七十年に、預言のとおりに神はイスラエルの神殿を裁いて破壊し、その時から完全に新しい契約の時代が始まった。神殿の破壊とともに古い契約の時代は完全に終わったことが明らかにされた。古い契約時代が終わると同時に、預言の賜物も終わった。預言の賜物はもう止んだのである。紀元七十年までに新約聖書のすべての書物は完成され、封印されたからである。
それ故、黙示録22章で、「もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」という警告が与えられたのである。完結された聖書正典が教会に与えられて、旧約聖書の神殿制度が廃止されて、全く新しい契約の時代に入った。神の神殿を、神御自身が裁いた。そこに非常に大切な意味があることを認識しなければならない。その時、旧約聖書を読んで一般に考えられるような「預言者」はもういなくなったのである。それは紀元七十年のことである。
しかしパウロの時代にあっては、「使徒」と「預言者」の働きは教会にとっては非常に重大なものであった。そして「第一に使徒」であり、預言者は使徒の次に来るものであった。コリント人への第一の手紙の中でパウロは12章で御霊の賜物について話してから、13章では、愛は賜物よりも大切だと強調し、14章でまた賜物の話に戻っている。コリント人への第一の手紙14章1〜5節を一緒に見よう。
1愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。2異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。3ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。4異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。5私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。
ここでパウロは、皆が預言することを熱心に求めるように勧めているが、広い意味での「預言する者」もいたと思われる。「預言すること」と「預言者であること」は、そういう意味で区別されなければならない。預言するからと言って預言者とは限らない。「預言する」とはどういうことだったかというと、3節にあるように、それは「特を高め、勧めをなし、慰めを与える」働きなのである。人が理解できる言葉をもって人に向かって話すものなのだ。そのような広い意味において言えば、「皆が預言する」と言っても間違いではない。
しかし、狭い意味での預言の働きはどうなのかというと、それは聖書の完成とともに止むものである。使徒の職も同様に、今日ではすでに廃止されたものである。それ故パウロはエペソ人への手紙2章20節で、「教会の土台は使徒と預言者である」と説明している。教会は使徒と預言者の上に建てられているのである。即ち、教会の土台を据える時代は既に完成して終わっており、今は、その土台の上に建物を築く時代なのである。使徒の時代も預言者の時代も終わったのである。この認識をもって聖書を理解することは非常に大切である。この点が曖昧だと、多くの間違った解釈が生まれてしまうからである。
三番目の賜物として、「教える人であれば教えなさい」とパウロは言う。教える賜物は、エペソ人への手紙4章に「ある人を牧師また教師として、お立てになった」とあるように、それは主に牧師の働きを指していると思う。そこには、使徒、預言者、伝道者、牧師または教師を、キリスト御自身がお立てになったと書いてある。この「伝道者」とは、御言葉を携えて至る所で地域教会を築き上げる働きをする者のことである。伝道者というのは、大きな伝道集会を開いたりして、説教だけをして、地域教会を築くことをせず、地域教会にもつながらないような者のことではない。そうしてよいのか悪いのかの問題はさておいて、パウロがここで話している「伝道者」の意味にはそういう者は含まれていない。どこかへ行って地域教会を築きあげるのが伝道者の働きなのである。
最後にパウロは「牧師」と言っている。「牧師=教師」とエペソ人への手紙4章11節にあるので、牧師の根本的な働きは「教える」ことだということがわかる。そのことをパウロはエペソ人への手紙でも言っているし、コリント人への第一の手紙と第二の手紙でも教えている。牧師にとって一番大事な仕事は御言葉を教えることである。それなら、普通の教会員は御言葉を教えるのか教えないのか、教えるべきか教えるべきでないのか。よく知られているコロサイ人への手紙3章16節のところを見ればそれは明らかである。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
私たちには、お互いに教えあい、お互いに戒めあう責任と働きがある。すべてのクリスチャンは何かの意味で教える働きをすることが期待されているのは事実である。それはただ座って講義するようなものではなく、聖書の御言葉を開いて教えることができるようでなければならない。クリスチャンになってまだ数カ月とか一年や二年しか経っていない人の場合は当然まだ受ける側になるが、時間が経つにつれて、聖書を開いてアドバイスできるようになるはずである。
「クリスチャンとしてこの事はどう考えるべきでしょうか」と聞かれて「聖書のどこかに書いてあったと思ったけど・・・こうだと思うんだけど・・・」と言って、相手が「それはどこに書いてありますか」と聞くと、「それは知りません」と言うのでは、あまりよくないのである。全然わからないと言うよりかはよいが、それは成長したクリスチャンとは言えない。実際に聖書を開いて教えることができるようにならなければいけない。そのことをパウロはここで私たちに求めている。「豊かに御言葉を自分の心の内に住まわせる」という言葉で始まっている。つまり、聖書の御言葉を暗記したり、その教えを心に刻んだりするところから始まるわけである。ヘブル人への手紙5章を見てほしい。12節を一緒に読もう。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
「年数からすれば教師になっていなければならない」とは、すべてのクリスチャンに対して言われていることである。皆が、教えることができるようにならなければいけない。どういうことかと言うと、母親は自分の子どもたちに御言葉を教えるし、父親は自分の家族や子どもたちに御言葉を教えるのである。教会の中でも教会の子どもたちを教える者もいるし、クリスチャンではない周りの人たちに御言葉を開いて教えなければならない時もあるだろう。年を取るにつれて自然と家族の中では勿論のこと、職場や近所の人たちの中からもアドバイスを求められる機会は多くなる。その時に、御言葉をもって答えることができるようになれば、良い教師として働くことができる。正式な教師の立場を持っているかどうかをパウロは問題にしていない。「年数からすれば教えることができるようになっているはずだ」と言って、「それなのに、どうして教えることができないのか」と責めている。
続くローマ人への手紙12章8節でパウロは、「勧めをする人であれば勧めをする」と言っている。「勧める人」と「教える人」の賜物はどう違うのかというと、それほどはっきりした区別はない。預言者の働きも、勧める者の働きも、教師の働きも、どれも似たような働きである。賜物として三つになっているが、どれも教えることと関係している賜物である。教えることにおいて、ある人は教師のように主に指導と教育に力を注いで教え、ある人は勧めと励ましに特に力を注いで教える。この賜物は、特に人々を励ましたり勧めをしたりするものである。ところで、ギリシャ語では、「励ます」という言葉と「慰める」という言葉と「勧める」という言葉は、すべて同じ言葉である。だから、翻訳するときに、「慰める」或いは「勧める」或いは「励ます」のどの言葉がよいのかを判断する場合、その文章の前後関係でわかるものである。新改訳聖書では「勧める」となっているが、「慰める」或いは「励ます」という意味も一緒に考えて、この言葉を少し複雑な意味を持つものとして捉えてほしいと思う。
奉仕する、分け与える、指導する、 慈善を行なう
話が少し前後するが、パウロが述べている残りの四つの賜物はすべて、日々の生活にも事欠いている人々に手を差し伸べることに関係していると思われる。7節でパウロは預言者について話した後、「奉仕であれば奉仕し」と言っている。この「奉仕」と訳されている言葉は、「執事」と同じギリシャ語である。執事は、人に仕える働きをする者である。ここで「与えられている賜物が奉仕であれば、一生懸命しっかり奉仕すればよい」と言うとき、ある人には特別に奉仕する賜物が与えられているということがわかる。パウロは自分の働きについても「奉仕」と同じギリシャ語をよく用いて話す。特にパウロはいろいろな教会を巡って献金を集め、その献金をエルサレムの教会に持って行くことを何年間もかけて行なっていたが、その働きをパウロは「奉仕」と呼んでいる。そして、有名なエペソ人への手紙4章11節からの箇所でも同じ言葉が使われている。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためである。
「奉仕の働き」をするのは「聖徒たち」である。預言者や使徒や牧師の働きは、その「聖徒たち」を整えて「奉仕の働き」をさせるためのものである。整えられた聖徒たちが奉仕の働きをするのである。そういう意味で、「奉仕の働き」はクリスチャンであるすべての聖徒のものであり、ローマ人への手紙12章で述べられていることよりも多くの働きを含む意味の広い言葉である。一言で言えば、それは「仕えること」である。すべてのクリスチャン一人一人は、何かの意味での奉仕をしているはずである。
クリスチャンなら誰でも、「私は御国のためにこれをしている」という働きがあるはずである。それは私たち一人一人に求められている。それは、「キリストのからだ」の特を高めるための働きであって、クリスチャンなら誰もがしているはずのことなのだ。しかし、パウロが敢えて「奉仕の賜物」と言うとき、それは普通の人よりも特別に奉仕の働きができる能力が与えられた人を指していると思う。その賜物には、能力をも含めた条件があると言わなければならないと思う。
8節からのいくつかの言葉は、教える賜物としての「教師」とか「牧師」とは違う働きについて話している。即ち、「分け与える人は惜しまずに分け与える」という話になっている。7節にある「奉仕」はこれよりももっと広い意味の働きを指しているが、「分け与える人」の働きは、金銭を与えたり、住む場所を与えたり、食べ物等を与えたりする働きのことである。その働きのためには、自分にそれだけの財力や資産がなければ与えることはできない。しかしパウロはテモテへの第一の手紙6章17〜18節で次のように教えている。
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
つまり、「特に金銭的な富が与えられた者は、人々に分け与える働きをしなさい」とパウロは言っているのである。金銭的な富が与えられたのは、自分一人でそれを食いつぶすためではなく、神の御国と栄光のために使うものとして与えられたのである。だから、「その資産やお金をどのように神の御国のために使うかをよく考えて、普通の人たち以上に分け与える働きを熱心にしなさい」と、教えているのである。その中にあって、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」と、パウロは言う。「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」という言い方は、祝福が与えられたとき、神が豊かに与えてくださったものを正しい意味で楽しむべきだと言っているのである。
金銭的な祝福を、何かいけないことかのように思うべきではない。世界にはビル・ゲイツのような大変な資産家がいることは誰もが知っている。彼がどのような考え方を持っているのか、私にはわからない。彼のお金は、自分で全部使い果たそうとしてもとても使い果たすことができないほどに巨額なものである。そのような資産家たちは、彼らのお金をどのように使うべきかに困っているようである。それほどの富が与えられたなら、当然「私は、人々を助けるためにこのお金をどのように使ったらよいのか」と、考えるはずだ。
だからと言って、「億万長者たちはメルセデス・ベンツに乗ってはいけない。それは贅沢だ。それは悪いことだ」とは思わない。「それくらいのお金が与えられたなら、どうぞベンツを楽しんでください」と思うのである。しかし、同時に、「自分に与えられた富をもって極力人々を助けるようにしなさい」ということも言わなければならない。そのような意味でパウロは、「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置きなさい」と命じているのである。裕福な者には分け与える責任がある。しかし、それは与えられたものを楽しんではならないというわけではない。神が豊かに与えて楽しませてくださるのだ。そのように教えるパウロはまたこうも言っている。エペソ人への手紙4章28節を見よう。
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
富んでいる金持ちに対しても、盗みのような事をしている人に対しても、パウロは特別な命令を与えている。「盗むようなことをしている人は、直ちに盗むことをやめて、今までの盗みの償いとして、一生懸命に正しい仕事をし、骨折って働き、施しの働きをしなさい」と、命じている。
ローマ人への手紙12章に戻ってパウロの次の言葉を見よう。「指導する人は熱心に指導しなさい」と命じている。この言葉は、「分け与える」と「慈善を行なう」の間に位置していることに注目していただきたい。新約聖書の中で「指導する」という言葉はよく牧師や長老の働きとして使われている。また、父親の働きについてもよく使われている。その両者とも「かしら」と呼ばれている。父親も指導する者であるし、牧師や長老も教会で指導者である。しかしここでは、施しの働きと慈善の働きを指導することについて話していると理解すべきである。
というのは、使徒行伝6章を見ると、そのことが教会の中の一番最初の大きな問題になっているからである。使徒行伝の6章では、教会の中のやもめに対する配給がなおざりにされていたために、人々は使徒たちに苦情を申し立てた。働き自体が大きくなりすぎたために、その働きを指導する者が不足していたからである。それで使徒たちは、施しの働きをする者たちを新たに選び出して、彼らを慈善の指導の働きに当たらせた。これは使徒行伝の時代の教会の中で一番最初の大きな問題として取り扱わなければならないことであった。それ故パウロは、「分け与えること」と「指導すること」と「慈善を行なうこと」という三つの働きを一緒に考えるように教えているわけである。その意味をもってこの順番で書いたのではないかと思うのである。
慈善の働きのための指導は細かくて、面倒くさくて、大変なものであるのは確かである。それを熱心にやらなければ、使徒行伝6章のような問題が起こることは避けられない。教会の中の慈善の働きは大きな働きである。この働きは新約聖書の中で非常に強調されている。それ故、その働きを指導する人たちの役目はとても重要である。ところで、この「指導」というギリシャ語には「マネージメント」、即ち、経営管理とか管理運営という意味がある。だから慈善の働きというものは、しっかりした管理運営をもって熱心に行なえば実を結ぶことができるものだと言ってよいと思う。
次にパウロは「慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい」と命じている。慈善を行なう人は、絶対に悲しみながらしてはならない。「喜んでそれをしなさい」とパウロは命じる。命令として言うのは祝福するためである。慈善の働きには特に喜びの心が要求される。日本語では「喜んでしなさい」という訳になっているが、英語ではこのギリシャ語をそのまま使った「hilarious」という言葉になっている。「hilarious」という言葉には、大笑いする、陽気な気分になる、爆笑する、浮かれて騒ぐ、というような意味がある。日本語でそう訳したのではとても良い翻訳にならないのはよくわかる。ただ、この原語には、日本語の「喜んでしなさい」という以上の意味があるということを是非知っておいていただきたい。新約聖書では、この言葉はこの箇所でしか使われておらず、これに似た言葉も他で一回しか使われていない、特別なものなのだ。「hilariousの気持ちをもってそれを行ないなさい」と言っているのである。
これを普通の英語の言葉で言い換えれば「cheerful」という言葉になるが、陽気で、心からの、物惜しみしないで、喜んで、機嫌よく、という意味になる。これには老人や病人を助ける働きも含まれているが、これは看護婦さんが普通にやっていることだと思う。そのような訓練を正しく受けたのかも知れないが、病院で看護婦がいらだってたり、怒ってたり、気分の優れない顔をしてたり、敵意でもあるかのように振る舞うなら、入院患者にとっては本当に辛いことになる。もう死にそうになっている気持ちの患者は、看護婦たちが不親切であれば、それこそ最悪である。がっかりしてもっと辛くなるに違いない。しかし、殆ど例外なしに病院で働く看護婦たちは明るい顔で快く応対してくれる。
知る人ぞ知るけれども、看護婦の仕事は実に重労働なのだ。危険、汚い、きついとかいう3Kの類いなのだ。その中にあって常に清潔で、笑顔で、真剣で、もう死ぬかも知れないような患者に快く話しかけたり世話したりするのである。自分自身には大変な問題があっても顔に出さず、いつも明るく振る舞わなければならない。それが看護婦にとっては何よりも大変なことなのかも知れない。しかし、それは病床に苦しむ患者にとっては実に大きな意味を持つことなのだ。大きな励みとなるのだ。施しをする者、そして人を助ける者は、いらいらして不機嫌であってはならないのである。いらいらしたり怒ったりしてやるなら、やらない方がよいのだ。快く、明るく、喜びの心をもってやるなら、少しくらい下手であっても許される。その明るさと笑顔が人を慰めて癒すからである。
私が以前、一度病院で血液検査をしたとき、看護婦がなかなか血管に注射針を入れることができないで、何度も何度も刺されたけれども、その看護婦はとても明るかったので、こちらも何とか耐えることができたのを覚えている。その明るさ自体が、人を励まし、慰めを与え、健康のための特効薬なのだ。その忍耐と機嫌は、慈善を必要とする状態にある人々にとっては実に大切な働きなのだ。そういう意味で、「慈善を行なう者は喜んでそれをしなさい」というパウロの勧めにはとても深い意味があると思う。
これらを整理するなら、御言葉を教え、人を助けるという、二つのカテゴリーに分けることができるものだと思う。預言、勧め、教えなど、教師として働く部分と、施しをして慈善の働きを指導し、慈善の働きを実践する部分である。「奉仕」は、そのように人を助けるようなことになるが、その二つのカテゴリーに分けて語るとき、ある人たちは、「その働き自体は御霊の特別な賜物がなくても出来るのではないか」と思うかも知れない。クリスチャンではない人たちも同じ働きをしているように見えるからである。確かにその賜物自体は、ある意味で大きな話ではない。どれも単に一つの仕事として見るならば、平凡で、ありきたりの働きばかりに見える。パウロは何か奇跡的な働きについて語っているのでもなければ、偉大なことを成し遂げるようにと言っているわけでもない。
しかし、ここにある賜物をもって神の栄光のために労する教会と信者の働きはすばらしいものであり、永遠の意味を持つ働きである。が、これらは日々の小さな働きの繰り返しにすぎないのも事実である。私たちの働きを特異なものにしているのは、その働きの目的、私たちを動かす動機、そしてその働きを聖いささげ物としてささげることができるようにしてくださる御霊の力なのである。新しい契約において与えられた御霊の祝福が、私たちの全生涯を聖い良きものに変えてくださるのである。御霊の働きは、何か抽象的なものではないのだ。何か、雲の上に座ってただグレゴリアンチャントを歌っているような者のために与えられるものではない。御霊の働きは、毎日の生活の中の具体的な事柄を、神の御国のために行なうために与えられるものなのである。御霊の力に寄り頼んで毎日の生活を送るとき、それは御国のために実を結ぶものとなるのである。
私たちは家庭内にあっても、教会の中にあっても、神に仕えるしもべの心をもって実を結ぶ者でなければならない。御霊の力をもって皿を洗い、御霊の力をもってつまらないような仕事をも忠実に、そして喜んでするのである。御霊の力をもって、真剣に神の御国のために実を結ぶことを求める。毎日の生活のすべてにおいてそのように努めるならば、ローマ人への手紙1章の偶像礼拝の社会とは正反対の社会を築くことになるのだ。偶像礼拝の結果である暴力、性的な問題、盗み、偽りを語るなど、そのリストとは全く逆に、互いに仕え合う社会を築くことになる。その違いは極めて著しいものである。
そのように、「まず自分を生きた供え物として神にささげて、毎日の生活のどんな些細なことにおいても、喜んで神の御国を求めて行ないなさい」と、パウロはここで私たちに教えているのだ。神への愛と感謝と祈りをもってささげるものはすべて、聖いささげ物として神は受けてくださり、用いてくださるのだ。
日曜日の礼拝において、私たちは共に集まり、神に自分をささげ、聖餐式において神との契約を新たにすることを毎週行なっている。いつも、この聖餐式が礼拝の中心であることを強調しているが、この時に、自分の足らないところや罪について、神の御恵みを求めて神との契約を新たにするのである。そして、神の御国のために人生を送る決心を新たにする。その意味において、私たちは聖餐式においてバプテスマの決心に戻っているのだ。
バプテスマを受けた時、自分を神にささげたのである。自分は神の所有であり、神の御国のために生きることを誓ってバプテスマを受けたのである。バプテスマを受ける時、私たちは主イエス・キリストに対する信仰を告白したのだ。バプテスマには、神が一方的に私たちに祝福を与えるという意味も含まれている。水を注ぐという行為は、神が天から私たちに御霊を与えてくださることを表わすものである。今日私たちは聖餐式の前にバプテスマを行なうが、共にその意味を覚え、洗礼式の後で聖餐式を一緒に守りたいと思う。
――2001年11月11日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com