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    ローマ人への手紙13章導入


    2002.01.20. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    服従せよ

    13章導入

       ローマ人への手紙13章は、新約聖書で最も有名な箇所の一つであり、よく知られているものであり、またよく引用されている箇所である。ここでパウロは、国家に対するクリスチャンの責任について教えている。クリスチャンの政治哲学について執筆する時、ローマ人への手紙13章はその基本となるものである。ここから、私たちは国家をどのように考えるべきか、そしてクリスチャンとして国家に対してどのような責任があるのかの基本について教えられる。勿論、この箇所にすべてのクリスチャンが国家と政府について考えるべきことを網羅して教えているわけではない。国家への服従について、この箇所だけですべてを言い尽くしているわけではない。しかし、基本中の基本がここにある。

       クリスチャンの国家観に関して、この箇所は聖書の中で最も重要な箇所の一つである。私たちは聖書全体から、すなわち創世記から黙示録までに書いてある他のところと一緒にこの箇所を考えるとき、国家と政治について実に広くて深い聖書の考え方が示されると思う。私たちはそこまで深くクリスチャンの政治哲学のすべてをこの日曜日の朝に学ぼうとするものではないが、このローマ人への手紙13章の学びにおいて、その広い基本的なところを思い起こして一緒に考えたいと思うのである。

     

    キリスト者の見方

       導入としてまず、クリスチャンの歴史の中ではどのような考え方があったのか、国家と教会の関係についての考え方にはどのようなものがあったのかを振り返ってみたいと思う。何世紀にもわたって国家についての多様な見方がクリスチャンの間で持たれてきた。昔の時代で最も卓越した影響力あるクリスチャンの考えは、今日では世から消えてしまっている。中世期のヨーロッパで最もよく知られ、人気のあったのは、「王には神のような権利がある」即ち「神授の王権」という考え方であった。中世期のヨーロッパでは、「王の言葉は、神の言葉のように絶対的な権威がある」と考えたり教えたりする人が大勢いたが、そのような考え方は現代では全く見られなくなっている。

       教会歴史には幾つかの異なる考え方があったが、今ではその僅かな断片が特定な教会に辛うじて残っているにすぎない。ローマン・カトリック教会の考え方は昔から「教会は国家の上にある」というものであったが、今日ではその考え方も昔ほどはっきりしたものではなくなっている。その考え方は今日でも全く消滅したわけではないが実践的な重要性は失われている。一方で、英国国教会とルーテル教会ではその逆の考え方になってしまいがちであった。どちらの教会も様々なレベルの為政者が教会の事柄を決定するのを許したという点で彼らをひとまとめにして考えることができる。

       宗教改革時代の歴史を見れば、イギリスでは、例えば王であるヘンリーが教会の指導者を決めていた。王または女王が教会のリーダーを決める権威を持っていたので、「国家は教会の上にある」というものであった。この言い方は少し単純過ぎるかも知れないが、事実そのようなものであった。ドイツは昔は国家と呼ばれる35の領邦と四つの自由市から成る国家連邦であったが、そのドイツのそれぞれの領邦の領主(国主)がカトリック信者であればその領邦は皆カトリックであり、領主がルーテル教会の信者であれば、その領邦の皆がルーテル派の信者であったが、そこでもまた国家が教会の上にあるような決め方になってしまっていた。

       また「再洗礼派」と呼ばれる「アナバプテスト派」というのがあるが、改革時代のアナバプテストは現代のバプテスト派のルーツだとは限らないので、誤解しないためにも敢えて「アナバプテスト」という言い方を使いたい。イギリスの場合、バプテスト派は長老教会から出て来たり英国国教会から出て来たりした人たちであったので、その教理はアナバプテストと同じものではないと言ってよい。アナバプテスト派の見方は、「国家はサタン的なものであり、国家は不可避的に悪であるから、教会と国家とは切り離されるべきであり、無関係でいるべきであり、なるべく国家を避けて生活すべきだ」というものであった。

       私が学んだ神学校の背景はそのアナバプテストであった。ドイツから来たアナバプテストはインディアナ州の北の方に住み着いて、名前は変わってしまったが、明らかにアナバプテストの信仰を背景として持っている神学校であった。その神学校は「軍に入隊してはならない」と教えていた。国家は悪いものなので、国家が行なうこともあくまでも悪いものだと思っていた。それ故、武器を持って国家のために戦うことは許されないことだというのがその基本的な立場であった。

       以上のような三つの考え方が基本的にある。しかし、改革派の信仰はこの三つの考え方のどれとも違うものである。教会は国家の上にあるわけではないし、国家が教会の上にあるわけでもない。また国家と教会は全く無関係なものだということでもない。改革派の昔からある考え方は、「国家も教会もともに神の権威の下にあって、聖書の御言葉に従って歩むべきもの」という考え方である。しかし、組織的には教会と国家は別個のものと考え、今日もそれは変わらない。それは、主イエス・キリストのマタイの福音書の28章の大宣教命令にも出て来る原則であると言えよう。毎回バプテスマを授けるときにこの箇所を読んでいるので、皆さんもよく覚えていると思うが、主イエス・キリストが弟子たちに宣言している言葉である。

    わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

       「いっさいの権威が与えられている」と主は言われる。権威は上から与えられたという話である。主イエス・キリストは受肉されて人となられたが、この世にいたときは、いっさいの権威を持ってはおられなかった。この世では貧しい大工として働いたあと、メサイアのメッセージをイスラエルに伝えたが、その間は「私はメサイアとしてのいっさいの権威を持っている」というような宣言はなされなかった。主は、十字架上で私たちの罪のために死んでくださって、三日間よみに下られ、三日目に死からよみがえって天に昇られたときに、いっさいの権威が上から与えられたということである。復活のメサイアに、いっさいの権威が与えられたのである。そのことを主イエス・キリストはご自分について宣言しておられる。

       その宣言に続いて、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる個人を弟子としなさい」とは言っておられない。新改訳聖書では「国の人々」と翻訳されているが、この原語は「エスナ」というギリシャ語であり、「国民」もしくは「民」という意味の言葉である。「国の人々」という表現だと、個人一人一人が強調される理解になりがちではないかと思う。つまり、ここで直接に「国家」という書き方はしていないが、個人一人一人を全く別々のものとして考えているわけではないし、家族からなるグループに対する働きだけでこの「弟子としなさい」という働きが終わるわけでもないのである。

       勿論、個人一人一人がクリスチャンにならなければ、家族も国民もクリスチャンにはならないし、「民」がクリスチャンになることもない。この「あらゆる民を弟子としなさい」という命令は、「全世界のすべての民が、主イエス・キリストを信じて、主イエス・キリストに従う者となるように働きなさい」ということである。少なくともこれは圧倒的な数を指しており、主イエス・キリストはかなり大きなグループを指して命じておられるということを認識しておかなければならない。続いて主イエスは次のように命じておられる。

    そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

       「世のすべての民が、すべての国が、神の御言葉の命じていることを守るように、彼らを教えなさい」と、主は命じておられる。そういう意味で、「世のすべての民が主イエス・キリストの御言葉を守るように教えなさい」と言われるときに、当然ながら国家は神の御言葉を守らなければならないし、家族は神の御言葉を守るようにしなければならないし、教会もそうしなければならないのである。「あらゆる民が神の御言葉を守るように教える」ということは、最終的に国家をも、会社をも、家庭をも、教会をも、学校をも、社会のあらゆる組織をも、個人をも、義なる愛なる神の御言葉を守るものとなるように導かなければならないということなのだ。そのことを主イエス・キリストはご自分の教会に命じてくださったわけである。

       残念ながら、教会においてこの理解と認識が甚だしく欠けていると言わなければならない。カルヴァン主義の国家の考え方は、この箇所だけからとったものではないが、このマタイ福音書28章の箇所やローマ人への手紙13章を基にした考えである。ローマ人への手紙13章には、「国家は神のしもべ」という言い方があるが、「神のしもべ」の責任とは何か。「神のしもべ」の責任は、神の御言葉を行なうことであり、神に命じられた通りに行なうことである。その箇所も、マタイの福音書28章の箇所も、国家に対するクリスチャンの考え方を教えている。教会が国家を支配するものではないし、国家が教会を支配するものでもない。国家は神のしもべとして神の御言葉を守って支配し、民を導くものでなければならない。家庭も、教会も、自分に与えられた領域において、自分の責任を果たさなければならない。そして、国家、家庭、教会は、社会の諸々の組織の中でそれぞれに特別な意味を持つものだということをしっかり覚えていただきたい。

       社会には学校という組織もあるし、店舗もあるし、会社や社会団体など多くの組織がある。どこかの店に行って買い物をする時に、「ちゃんと食べますか」とか「ちゃんと使いますか」とか問われることはないし、会社も誓いをしてから入ることもない。しかし、国家は誓いを要求することができる。例えば法廷では、裁判官の前に立って「真実のみを言うことを誓いますか」と聞かれて誓いをしなければならないが、その誓いは法的責任を課するものである。その時に、神の御名によって誓うのは正しいことである。国家のリーダーたちも、神の御前で自分の責任を果たすことを誓うが、それは良いことである。

       昔のアメリカでは、聖書の申命記28章のところを開いてそこに左手を置き、右手を挙げて、神のしもべとしてその責任を果たすことを公に誓うというやり方で大統領の職に就いたものである。今日のアメリカでは、聖書を閉じて、その閉じられた聖書の上に手を置いて誓っているが、それは実に今のアメリカの状態を象徴しているやり方だと常々思わされる。そういう意味で、国家には誓いを要求することのできる権威がある。家族にも誓いがある。結婚は、神の御前で誓うことから始まる。誓って結婚するのである。そういう意味で、家庭は誓いに基づく組織である。そして、地域教会も同様に、バプテスマと聖餐式という誓いに基づく組織である。国家、家庭、教会は、誓いに基づく組織なので、他の組織とは区別されるものだと言うことができる。

       地域教会や教団あるいは教会全体には、家庭を支配する権威は与えられておらず、国家を支配する権威も与えられてはいない。ある部分では家庭、教会、国家の領域はオーバーラップしていると言える。つまり、教会の牧師や長老が犯罪を犯したなら、国家はそれを取り扱うことができる。教会で権威ある地位にあるからといって国家がその犯罪を裁くことができないことはない。国家のリーダーが罪を犯せば、教会戒規にかけられることも有り得る。家庭のリーダーも罪を犯せば、教会戒規を受けることになるし、「この教会は良くない」と思えば別の教会に転会してもよいのである。そういう意味で、絶対的な権威が一箇所に集中してあるわけではないし、重複する部分も多少はある。

       国家について考えるとき、今説明したローマン・カトリックの考え方や英国国教会の考え方、またアナバプテストの考え等を見るとき、これは明らかに終末論にもつながるものだということがわかる。国家に関する見方は、明らかにその人の終末論と関わっている。アナバプテストの教会は、特に今の時代にあっては、ほとんどが千年王国前説(千年期前再臨説)の立場をとっている。その考えに基づき、「国家の働きは総じて悪であって反キリストの権限に墜ちるものだ」と考え、近い将来、国家は更に悪化していくものだと見る傾向がある。だから、「国家において何かの働きをすることにはあまり意味がない。そろそろ反キリストが現われる。そして、キリストの再臨がもうすぐ来る。だから、国家のために大きな働きをするのは、反キリストのために働きをしてしまうことにつながるから、それを避けなさい」という考え方になってしまう。

       千年期前再臨説の立場をとる人は、反キリストが現われるのを待っている。「反キリストはキリスト再臨の前に現われる」と考えているので、「七年間の患難の時代は未来にある」と思っている。間もなくこの世のすべての為政者たちの力は、神の民を滅ぼすことに専念するようになり、反キリストが全世界を支配するようになる。それだから「政治的な働きは、良い所があるとしても、それは極めて一時的で小さな意味しか持たない」と考えるわけである。

       ルーテル派の教会は伝統として千年王国無説(無千年期説)の立場をとっている。千年王国無説の場合は、単純且つ明らかにアナバプテストのような政治哲学になるとは限らないが、「熱心にクリスチャンの国家を作ろう」とか、「クリスチャンらしい法律を作ろう」とかいう考え方はあまり持たない。千年王国無説の考え方においては、「キリスト教国家」という概念は残すとしても、長い目で見ればサタンが支配するようになり、国家はいずれキリスト教を破壊することを求める反キリスト的な力の手に渡るようになると考えている。だから、「目に見える教会はだんだんと小さくなって弱められて衰弱していくであろう」と考えるので、結局のところ、「国家は、最終的にはサタンの手に堕ちてしまう」という考えになってしまう。

       千年王国無説の立場をとる人の中には、前説のように「七年間の患難時代」と「反キリストの現われ」を信じる者もあれば、そのことをあまり考えない人もいる。しかし、「政治的な働きは最終的に無意味である」という点で両者は一致している。「この世の中における政治的な働きはすべて悪くなっていって消滅してしまうもの」というのがその基本的な考え方になっている。

       現代のアメリカの教会のほとんどは千年期前再臨説と無千年期説であり、その中でも千年期前再臨説の方が無千年期説よりも多い。無千年期説の人たちは何も政治的な働きをしないわけではないし、千年期前再臨説の人たちも何もしないわけではない。しかし、政治的な働きを「神のしもべ」として考えることはしないのである。「政治的な働きは神のしもべとして行なわれるべきものであり、神の御言葉に従って正しく行なうなら、この世に祝福をもたらすことができるものなのだ」というような望みは持たないのである。「歴史の中にあってほとんどの国々がキリストを信じる時代が来るようなことは有り得ない。ある特定の時代で大きな成功を遂げるとしても、全世界がキリスト教になることはない」と、彼らは言う。無千年期説の視点から言うなら、キリスト教政治哲学などというものは贅沢品であって、あれば立派かも知れないが、必要はないのである。

       千年王国後説(千年期後再臨説)の考え方は上述の二つの立場とかなり違うものである。キリストの大宣教命令は明白であって、この世の「国々」はキリストの命令に従う弟子とされるべきである。私たちは、全世界にバプテスマを施し、キリストに従うように全世界を教えるべきである。この千年王国後説の見方が、キリストの大宣教命令に最も合致していると思う。この見解は、昔のイスラエルに見出される祭司職と国家の関係にも非常によく合致している。聖書全体から見れば、千年王国後説の神の御国のビジョンは、教会と国家の間にある関係についての改革派の見解と最もよく合致するのである。それ故、千年王国後説の場合は自然と「最終的に現実の歴史の中でクリスチャンの国家が作られなければだめなのだ」という考え方になる。

       全世界が主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストの御言葉を守り、生活のすべての領域において父なる神の栄光を実際に表わすようにしなければならないのである。主イエス・キリストがマタイの福音書28章で命令してくださったように、「すべての国民」にバプテスマを授け、「すべての国々」が主イエス・キリストの御言葉を守るように教えなければならないのである。理解しやすくするために王の譬えで説明するが、この世の王たちが神の御言葉をよく理解して、それを正しく守り行なうように教えなければならない。その働きが教会の主要な責任である。

       この世の君たちが神の御言葉を守ってその国家を正しく治めるように導いてあげなければならない。その働きによって、複数のクリスチャンの国家がこの世の中に存在するようになる。そして、最終的にこの世のすべての国々は主イエス・キリストを讃美し、キリストの御言葉に従って治めるようになる。政治も、教育も、ビジネスも、すべてそのように行なわれなければならないのである。これは狭い考えではなく、実に広い考え方なのだ。そういう意味で、後説の立場では、政治に関するクリスチャンの考え方について真剣に考える責任があるし、上に立つ者はそれを熱心に求めなければならないことになる。

       「政治」と一言で言っても、政府の諸々のあり方を考えなければならないし、憲法や法律についても考えなければならないし、経済についても考えなければならない。政治、法律、経済は、互いにつながっているものなのである。それを聖書的な観点からどう考えるべきかを真剣に考えなければならない。今朝、「この事についてこの人は何か述べていたかな」と思って幾つかの組織神学の書を調べてみたが、現在ある組織神学の書は「国家」についていっさい触れていないのである。神論、人間論、聖書論、救済論、教会論、そして終末論で終わり、ということになってしまいがちなのだ。

       カルヴァンの「キリスト教綱要」は違う。カルヴァンは、はっきりと国家に関するクリスチャンの考え方を深く述べている。アウグスティヌスも、クリスチャンが国家についてどう考えるべきかを深く説明している。しかし、十九世紀、そして二十世紀のアメリカの神学者たちの殆どが国家について語らないのである。十九世紀から私たちの時代までのキリスト教の神学者たちは、その時代の課題に対して聖書に照らして考えたり、問題を取り扱うのに聖書を用いたりすることを広く甚だしく怠ってきた。

       私が神学校で学んでいたとき、国家との関係については、ただ「軍に入隊してはいけない」と教えられただけであった。そして、「国家は基本的に悪いもの」とか「反キリストが来ようとしている」というようなことを多く教えられたりしたが、「国家に関するクリスチャンの理論」という類いのものは何も教えられなかった。「クリスチャンは国家についてどう考えるべきなのか」「聖書の観点から見た国家とは何なのか」というような問題を、時間かけて教えることはしなかった。なぜなら、千年期前再臨説の考え方を基本として持っているので、そこに時間をかける意味はないと考えていたのだと思う。

       十九世紀の後説の神学者も、無説の神学者も、前説の神学者も、また二十世紀の神学者たちも、「国家」についてはほとんど何も語らないのである。キリスト教の政治哲学について書かれた書物は極く僅かである。その結果、昨今のアメリカのキリスト教の現状を見ると、「国家についてどう考えるべきか」「法律についてどう考えるべきか」「経済についてどう考えるべきか」などの問題は甚だしく混乱したものになっている。その状態を見て驚く必要はない。約二世紀にもわたって、教会で教えることはないし、神学校でも学びはしないからである。まるでそれらの基準が聖書において教えられていないかのように、その主題は捨て置かれているのである。

       言うまでもなく、世界をキリストの弟子にすることは一世代や二世代で成し遂げられる仕事ではない。今日の世界情勢を見れば、キリスト教の政治哲学を構築することはしなければならない第一の事ではないかも知れない。とは言え、後説の視点は聖書の命令に基づくものであって、教会にとっては避けられない義務である。主イエス・キリストが私たちの主であるなら、私たちには「万物がキリストに従うようになる」ということが何を意味するかを学ぶ道徳的義務がある。それ故、今日もなお、私たちには聖書に立った包括的なキリスト教の政治哲学(包括的な法律や経済への聖書的なアプローチに関するクリスチャンとしての包括的な声明と一貫した哲学)が必要なのだ。

       そういうわけで、前説の見解は総じてアナバプテストの国家論でなければならないわけではないにしても、明らかにそれを招来する考えである。無説の見解には実に無説らしい曖昧さがある。事実上、国家に関するどんな立場も無説に合致し得るものである。「長い目で見れば、国家は必ず悪と化してしまう」ということを覚えるかぎり、その結果に至るしかない。「政治的領域におけるどんなクリスチャンの働きも、現実の歴史においては結局空しいものとなる」という立場を取るなら、他に何を語るにせよ、それは義のために生きることや自己犠牲的な働きを励ます見解ではない。

       後説を信じる者にとって、アナバプテストの観点は明らかに除外されるが、ローマン・カトリックとルター派の見解は単純な理論で排除するわけにはいかない。教会がキリスト教国家を支配するような王国、またキリスト教国家が教会を支配するような国家、そのどちらも考えられ得るものである、と同時に、それらは歴史上に実在した形態なのだ。しかし、現実的に言って、これらの見解は両方とも現代的というよりは中世的な国家形態を前提とするものであった。ローマン・カトリックの見解、そしてルター派の見解は、ともに封建時代の中にあって形成され、立憲民主制よりも封建制度の政治体制によく適合するものである。それだから必ずしも間違っているというわけではないが、私たちに考える理由を提供してくれるものである。

       日本に来て、日本語の学びをしたときに、私を教えた先生たちのほとんどはクリスチャンではなかったが、一緒に学んだ生徒のほとんどが宣教師であった。クラスの中で先生たちは社会のいろいろな事について意見を求めたりした。それに対して、一緒に勉強した宣教師たちの意見は実にさまざまであった。経済についても、社会問題についても、政治についても、何一つ一貫した見解はなかった。すべてが完全にバラバラなのである。なぜそうなのか。皆クリスチャンなのに、どうして経済の問題について全く意見が違うのか。どうして社会問題についてあれほどに考えが違うのか。その問題は当時の私にとっては一つの悩みであった。そのために、クリスチャンの認識論について求めるようになり、クリスチャンの認識論をどう考えたらよいのかを熱心に求めた。そこからコルネリュ−ス・ヴァン・ティルの書物を読んだりするようになった。

       しかし、クリスチャンではない私たちの周りの社会は、キリスト教よりも遥かにバラバラである。そのバラバラの状態は、その世界観の一番究極的なところに基づくものだと思うのである。今の世の中では、「知識は一貫したものであるべきだ」という考え方すらないのだ。「真理は一つしかない」という考えは嘲りの的となっている。「ひとりの神が宇宙万物を創造し、その唯一の神がすべてを一貫した一つのシステムにおいて主権をもって支配し、導いておられる」という考え方は全くないのである。

       進化論は、どちらかというと多神論的になりがちなものであり、また汎神論的なものにも成り得る。つまり、「一」が究極的だという考えにも成り得るし、「多」が究極的だという考えにも成り得るものである。しかし、「一」が究極的だと考えて汎神論的になった場合は、区別は無意味なものとなる。それを一貫して毎日の生活の中で行なうことはできない。物事にはあくまでも区別があるからである。しかし、そのように考える彼らにとって区別は無意味なのだから、区別されているものの一貫するところについて真剣に考える必要はないのである。一貫した知識のシステムを求める必要はない。どうせ区別には最終的な意味はないからである。

       それで、実践的なレベルでどうなるかというと、一般の大学では、社会学部の人間観は心理学部の人間観とは異なっているという現象が生まれてくる。生物学部に行くと、またその人間観は少し違う。電子工学に行けば、人間についての考え方はまた全然違うものになっていたりする。歴史学を学ぶ中での人間観もまた違っている。一つの学部の中でも更にバラバラということになってしまう。私は心理学を専攻したが、フロイト派の先生もいたし、ハーバード大学のB.F.スキナーの行動心理学の考え方に立つ先生もいたし、カール・ロジャースの心理学の先生もいた。同じ心理学部の中にありながら、「人間とは何か」という根本的な点で考え方が全く違うのである。

       B.F.スキナーは、「人間には魂はない」と明言する。「行動だけが問題なのだ。行動に対して罰と祝福を与えさえすれば機械的に変えることができる」と考えた。ジグムント・フロイトは、「いや、人は五歳までに全部が決まってしまい、その後では何も変えられない」と言う。ロジャースは、「変えられるけれども、解決は自分の心にある。基本的に人間はすばらしい存在なのだから、その人の心にその人の答えのすべてが含まれている。それをその人が心から取出すのを手伝うだけだ」と言う。若者たちが心理学部に入ると、クラスにより、先生により、その世界観も人間観もまるで違ってしまうのだ。現代の知識はそこまでバラバラなものになっているのである。

       その知識がバラバラになってしまう世の中でクリスチャンも育っているので、キリスト教もその影響を受けている事実は否定できない。それで、クリスチャンもかなりバラバラになっている。「唯一絶対なる神が、すべての知識の唯一の基準として御自分の御言葉を与えてくださった」という立場をとって、その土台に立って考えることにおいてさえ一致が見られないのが現状である。今の時代のほとんどの福音派は、「御言葉の中には、救いについての基準はあるが、他の知識についての基準はない」という立場なのである。それだから、例えば政治について考えるときに、「御言葉に従ってどう考えるべきかは問題ではない」という話になってしまう。

       「自然法」という言葉をローマン・カトリックも好んで使い、今日でも自然法に関する学術論文を次々と出しているが、「自然法を基準にして何が正しいのか何が正しくないのかを考える」と言うなら、クリスチャンとクリスチャンではない人たちは同じ基準を持っているということになってしまう。「聖書は、ただ救いについて教えているだけだ」と言うなら、「なぜ神は、救いだけについて教えるためにこれほど分厚い本を与えられる必要があったのか」と、問いたくなる。おおよそ今の福音派は、救いについて教えようとするとき、僅か十ページ足らずの小さなトラクトを配ることにとても熱心である。「これさえ知ったら救われます」というような話になりがちである。「それならば、どうして神はトラクトを配ってくださらなかったのか」と言いたい。

       神の御言葉であるこの聖書は、私たちが考えるべきすべてを網羅した完全で唯一の基準を与える書物である。すべての事に関わる詳細な解答が書かれているわけではないが、唯一の基準を与えて、そこに立って他のすべての事について考えることができるように、聖書は永遠に封印された書物として与えられている。政治の基本は倫理である。政治の問題は基本的に殆どが倫理のことなのだ。今の世で政治の実践を考えるなら、殆どのケースで倫理について考えなければならない。「聖書の中には政治のための基準はない」と言うなら、それは「聖書には倫理の基準がない」と主張することになる。

       それ故、「聖書の中には政治や国家のための基準はない」という考えは、基本的に、完全に、明らかに間違っていると言わなければならない。「国家は善を行なうべきである」と言うなら、善の定義はどこにあるのか。「善の定義は聖書のみにある」というのがすべてのクリスチャンの立場であるはずだ。聖書は神の啓示であって、その中で義なる善なる神が私たちに善を教えてくださる。

       クリスチャンの間にあるもう一つの考え方がある。それは、「人間が罪人にならなかったなら、国家というものは無かった筈だ」という考えである。つまり、「アダムとエバが罪を犯さなかったなら、家庭と教会は存在するだろうけど、国家は必要なかった」と考える人たちがいる。「最初に国家の権威が与えられたのはノアの時代であるが、死刑を宣告するものとして国家という権威が与えられた。罪を犯さなかったなら、死刑を行なう必要はないし、罰する必要はないし、戦争する必要もない。そうであれば、国家というものも必要ない」という考え方がある。

       そうだとは思わない。聖書のモーセの教えを見れば、たとい人間が罪人でなかったとしても、社会として定めなければならない事柄もその中に含まれている。罪を犯さなかったとしても、最終的にアダムとエバは何を作るべきだったかというと、その最終目的は「新しいエルサレム」なのである。つまり、「」である大都市を建設することが目標なのだ。「大都市は悪しきものだ。田舎のようにきよくはない」という考え方は聖書にはない。アメリカにはそのような考え方はあるが、聖書の中にはない。ヨハネの黙示録の中では、大都市は、天の都の概念を私たちに与えるものになっている。

       それ故、「新しいエルサレムは、園である大都市」という言い方ができると思う。大都市が最終的な目的であるのなら、大都市の中で人間が土地を売買したりするルールがなければならないし、色々な交通手段があれば、そこでもルールが必要である。多くの人々が集まって生活するときに、いろいろな規則や定めが必要なのは当然のことだ。そういう意味でも、国家のようなものはなければならない。人間が罪人でなくても、家族間や企業間でのいろいろな誤解や問題がないわけではない。罪人でなくても、人間は限られた存在であることに変わりはない。

       いつも言っていることだが、アダムとエバが最初にニンニクを手にした時、最初からどう食べるのかがわかっているわけでなく、いろいろと試さなければならない。試して学ぶのである。そうする時、いろいろな間違いも当然ある。間違ったり、誤解したりする。それは個人においてもグループにおいてもそうである。だから罪人でない者たち同士であっても、一緒に話し合って知恵を出し合って規則を定めなければならない。それによって問題を避けなければならない。詳細な資料はここにはないが、確かアメリカでの事だったと思うが、車がまだ全国で二台しかなかったときに、その二台が事故を起こしたというエピソードが残っている。いずれにしても人間にはルールが必要であることに変わりはない。そういう意味でも国家は不可欠である。クリスチャンは国家について、また政治について、経済や法律などについて、あまり深く考えない。その傾向は特に十九世紀から二十世紀において顕著である。

       これは西洋では啓蒙運動のときからの事だと言ってよい。啓蒙運動は十八世紀から始まり、それが一般の人々にまで浸透したのは十九世紀のことであった。その悪い影響が世紀をまたがって一般の人々にまで及んでいった。その影響は二十世紀においても衰えずにずっと続いた。聖書をすべての領域から追出して、「宗教は心の中だけで行なえばよい。公然と持つ知識のすべては神とは無関係である」と考えた。だから、「物理学を研究しているときに、神が万物を創造したかどうかについて語ってはならない」「生物学について話すとき、人類と他の動物の間には神によって定められた基本的な違いがあるかどうかについて議論してはならない」「宇宙の始まりについて語るときに、宗教について触れるな」と言うのである。宇宙人についてなら話してもよいが、神が創造したと言うことは許されない。それがアメリカの大学の基準になっている。

       言い方が少し単純過ぎるけれども、その傾向が非常に強い。私の大学時代は、神の名は、神学のクラスをも含めて如何なるクラスにおいても口にすることは許されなかった。「本当に神を信じている」と言おうものなら、もうバカにされて嘲笑されたあげくに「黙れ」と怒鳴られてしまう。神学についての学びもあったけれども、それは、「誰が何を信じているのか」という話だけであって、神について、聖書について、真剣に考えることはしない。どのようなグループがどのような考え方を持っているのかという比較や説明で終わるものであった。歴史について考えるときに、「神が歴史のすべてを支配しているかどうか」という質問を出すだけでも頭からバカにされて相手にされなくなる。そのような質問に真剣に答えようとする者は誰もいない。啓蒙運動以来、「すべての知識の基準は人間の頭や心の中にある」という考え方があらゆる領域において浸透し、それが現代の大学における基本的な考え方になっているからである。

       その結果、すべての知識はバラバラになってしまった。クリスチャンもその影響を深く受けている。聖書に戻って、聖書に従って考え、唯一絶対なる神がすべてを創造したことを覚えて考えるのでなければ、私たちの知識はバラバラのままなのである。クリスチャンは、たとい罪人にならなかったとしても、大きなグループとしてどのように生活を一緒にすべきなのか、社会の中の権威、ルールを決める権威などについてよく考えなければならないと思う。

       しかし、私たちは罪人なので、なおのこと罪を罰するための法を皆で持たなければならない。そのために犯罪とは何なのかを定義しなければならない。罪と犯罪の区別を明確にしなければならない。「戦争は、いつ、誰に対して、どのように行なうべきなのか。或いは絶対に行なうべきではないものなのか」ということを真剣に考えなければならない。私たちの時代は、それらの事を神の御言葉の基準に照らして真剣に考えようとはしない。それはとても悲しむべき事実である。

       しかしながら、西洋の法律は基本的にはクリスチャンに自由を与え、家族に自由を与えるものである。その基本は十世紀の国々に対するローマン・カトリックの影響に基づいたものである。中世期(十〜十一世紀)のキリスト教はローマン・カトリックしかなかったのだが、その事については、ヘラルド J. バーマンという人が西洋の法律の歴史を書いた「法と革命」という長い書物の中で説明している。バーマンは、「キリスト教の十字架についての考え方が当時の法律全体に大きな影響を与えた」と述べている。神は義なる裁きを行ない、正しい罰を与え、主イエス・キリストが私たちの身代わりとなってその罰を受けてくださったことによって、私たちは救われる。キリストを信じる者の罪はキリストの十字架の死によって赦され、神は私たちに罪の罰を要求せずに、キリストにおいて私たちの罪に対する罰を執行された。その贖いの教理が、ヨーロッパの法律全体において大きな影響を与えたのは事実である。それは不思議なことであり、実に興味深い史実であると思う。

       もう一つ、二十世紀において明白にされたことは、家庭に関する法律が社会全体に対してどれほど大きな影響を与えたかということである。神に逆らっているアメリカの同性愛者たちは法律を変えようとして躍起になっている。「一夫一婦制はキリスト教の教理である。自然法でもないし、他の宗教の考えでもない。明らかにキリスト教は自分の考え方をアメリカに押し付けようとしている。しかし、“宗教と国家”は別々でなければならない」と彼らは主張するし、それが現代アメリカの基本的な考え方になっている。しかし、昔のアメリカの考え方は「“教会と国家”は別」というものであった。それは、「一つの教団若しくは一つのクリスチャンのグループが国家を支配してはならない」という考えから出たものであるが、「国家はクリスチャンの国家である」という認識をも合わせ持っていた。ところが今はそうではない。今のアメリカでは、「宗教は国家と別々にしなければならない」というのが基本的な考え方になっている。

       宗教と国家を別々にするとはどういうことか。例えば、アメリカの法律がイスラム教に対して差別的である。イスラム教では複数の妻を持つことが許されている。そうであれば、アメリカにいるイスラム教の信者には宗教の自由は与えられていないわけである。アメリカでは四人の妻を合法的に持つことは許されない。モルモン教に対してはもっと差別的である。なぜなら、モルモン教では四人までという定めもなく、何人でも妻を持ってよいことになっているからである。モルモン教の創始者ジョセフ・スミスは神の命令と称して一夫多妻を行ない、十代の若い娘を次から次へと妻にし、人の妻をも自分の妻にしたりして、十数人の妻を持った。モルモン教は、アメリカの法律の下では自分たちに宗教の自由はないと訴えた。ユタ州がアメリカの州となるためには一夫一婦制を州の法律にしなければならなかった。

       つまり、「聖書に基づいたクリスチャンの法律がなければだめ」という国の規定があったのだ。そういう意味で、彼らにとっては押し付けられた法律だったというのは事実である。「同性愛者同士は結婚できない」というのは聖書の教えであり、クリスチャンの考え方なのだ。複数の妻、あるいは複数の夫を持つことは法的に許されない。それも聖書の教えである。家庭についての考え方は、聖書に基づくものでなければならず、法律においてそれは実に重大なことなのである。それは、今のアメリカが経験しているところである。誰が夫なのか、また誰が妻なのかは、保険契約や相続の問題にもつながるものである。財産や相続を取り扱う法律はすべて家庭の定義につながっているものになっている。

       そのことは日本において特にはっきりしていると思う。私はクリスチャンではない日本の人々によくこう話している。「あなたはもう半分クリスチャンですよ。もう、表面的にはクリスチャンなのです」と。今のクリスチャンではない女性に「あなたの父はあなたを売る権利を持っていますか」と聞けば、「何言ってるの。変な人」と言われたりするに違いない。しかし、今ではあまり知られていないようだが、1948年頃までの日本では、父親が自分の娘を売る権利があったのは事実なのだ。そして、第二次世界大戦までは、実際に娘たちはよくよく売られていた。吉原だけでなく、外国にも多くの日本の娘たちが売られて行った。アジアの売春婦たちの殆どが日本人の女性であった。

       すべての親たちが貧しくて仕方なく娘たちを売り飛ばしていたわけではない。当時の手紙の記録が残っているが、父親と母親は家を改造してもっときれいな家に住むために娘を売ったりしたのである。日系アメリカ人のミキソ・ハネという歴史学者が昔の手紙や記録などからそのような事実を集めて出版しているが、「親が自分の娘たちを売っていた」と聞いても、現代の日本人は誰一人信じないのではないか。日本が昔そのような事をしていたとは、今の殆どの若者は知りもしない。聞いて唖然とするほかない。

       日本人の家庭についての考え方は戦後大きく変わり、今の日本は思想において一夫一婦制である。そして、一夫一婦制に反するようなことをすれば、おかしいと思われたり、後指を差されたりするであろう。キリスト教の結婚についての考え方が法律になっている。誰でも勝手に財産を相続したり、勝手に保険金を受け取ったりすることはできない。一夫一婦制に基づく家庭は法的に重大な意味を持つものになっている。「聖書に従って善と悪を定義するかどうか」というようなレベルの話であっても、それは実に重大な意味を持つ話であって、アメリカでは今その議論が盛んになってきている。日本でも、今の段階ではそれが法の前提となって社会が維持されている。その基準がどれほど大きな影響を戦後の日本社会に与え、そしてどんなに大きな祝福を日本に与えたかは測り知れない。

       そういうわけで、ローマ人への手紙13章を通して、かなり広い視点に立って、私たちはクリスチャンとしてどのように考えるべきなのかを一緒に考えなければいけない、と思うのである。千年王国後説の考え方と国家等についての考え方は一緒になっている。両者は切り離して考えるものではない。そして、創造主なる神が万物を創造し、万物を一貫したシステムとして主権的に導き支配しておられるということもその考え方の前提となっている。私たちがそのシステムの中で正しく行動するために、すべての知識の基準として、神は私たちにこの聖書を与えてくださった。その基本の基本である聖書の御言葉に立つだけでも、まるで革命的な事をしているかのように思われてしまうのだ。私たちを創造してくださった神の御言葉を信じてすべての事を御言葉に立って考えなければならない。

       そのように立つとき、私たちはクリスチャンとしてとても広い見方を持たなければならない。聖書を学べば学ぶほど、考え方が狭くなってしまってはならない。聖書を真剣に学ぶがために、何も考えなくなるというものではない。神の御言葉である聖書を学べば学ぶほど、「これも考えなければならない。あれも学ばなければならない。これも求めなければならない」ということになっていく筈なのである。全く一貫したシステムであるので、この事について考えれば、ずっと向こうにあるあの事にも必ずつながるわけである。そういう意味で、どんどん考え方は広くなる。「A」を考えれば「Z」まで行ってしまう筈なのだ。A・B・C・・・X・Zに何もつながりがなければ、Aを考えるだけで終わってしまう。Zまでのつながりが何もないなら、一つの事だけ考えればそれでおしまいなのだ。聖書の人間観は、政治観、経済観、文学、音楽など、すべてにつながっている。政治についての考え方は、文学についての考え方や生物についての考え方につながっているものである。

       そのことを知るとき、クリスチャンとして、文学も政治も生物学も物理学も数学も、そのすべてを一貫して考え求めなければならない。そして、神御自身はそのすべての中心であることを覚えなければならない。政治について考えるにしても、文学を考えるにしても、「三位一体なる神がその中心である」ということを知るなら、すべての知識は礼拝につながる筈である。神は、面白くもない退屈な学者ではない。神は義なる御方であり、美しい知識を持っておられ、真理であり、その知識は無限である。その神と語るのは実に面白くて楽しい。その神を知れば知るほど、その美しさと、面白さと、知識の深さに圧倒されて興奮せずにはおれなくなる。それこそ、本当の意味で何かを学び、知ることである。私たちは、驚くべき知恵と秩序をもってこの宇宙万物をお造りになったその神御自身のすばらしさに圧倒されて、神を礼拝し、神の御名を賛美するに至るのである。それこそ、本当の知識を持つことなのである。

       パウロはコリントの教会に、「知識は人を傲慢にする」と警告した。知識だけ持ったのでは、人は傲慢になる。特に若者はよくよく耳を開いて聞いてほしい。傲慢に終わる知識は、別な言い方をすれば「それは本当の知識ではない」のである。知っている“つもり”かも知れないが、そのような人は真の知識を持ってはいない。本当の意味で「知った」のであれば、神の御前にひれ伏して、恐れて神の御名を賛美するであろう。本当の知識は、神の御前にへりくだった心を与えるものなのだ。本当に「知っている」のであれば、神御自身を愛する心が深められるはずである。砕かれた魂を持つはずである。私たちはクリスチャンとして、ローマ人への手紙13章だけでなく、他の聖書箇所を学ぶときにもそのような見方を持って学ばなければならないが、ローマ人への手紙13章はクリスチャンの世界観において実に広いところを私たちに教えている。それ故、広い見方をしっかり持ってからこの箇所を一緒に考えたい。そう思って、今日はその導入について話した。

       法律も、政治も、すべては主イエス・キリストの十字架につながる。それは先ほど話したとおりである。政治は、まず倫理について考えなければならない。罪と犯罪の区別をしなければならない。罪を取り扱ったり、犯罪を取り扱ったりしなければならないものである。もし国のすべての人がクリスチャンになって、毎週神の御前に集まって礼拝をささげるときに自分の罪を心から悔い改めるならば、犯罪の問題は基本的に無いはずである。

       ひどい話だが、実際に昔のロシアの皇帝とドイツの女王は一緒に話し合って、ドイツの農民をロシアに送って町を作ることを計画し、ロシア政府がどのようにその計画を支援するかを約束しあった。ドイツの農民は農業において非常に高い技術を有していたからである。その人たちがロシアに移住して、ロシアの人々に農業の模範を示すはずであった。しかし、実際にドイツの農民たちがロシアに行ってみると、完全に無視された上に最悪な土地を与えられ、その土地までの途方もない長い距離を歩いていかなければならなかった。着いた所はどうにもならない荒廃した最悪の土地であった。もう戻ることはできないので、数百年間もそこに残ることになった。そこに残ったルーテル教会のドイツ人たちは、絶対に農業は不可能と思われたその不毛の土地を開拓して農業をやりあげ、自分たちの町を作った。

       その町は約二百年もの間、犯罪はいっさい無い。町の人々は毎週そろって礼拝に集まり、盗みも殺しもなく、裁判になるようなことが全くない。小さな農村ではあるが、「犯罪」は、言葉としてはあっても行ないとしては二百年間も皆無であった。「罪がない」とは言っていない。たまに嘘や争いはあったと思うが、その歴史は「犯罪無し」の歴史である。多少の誇張や誤解があるとしても、そのように誤解され得るほどに良い町なのである。「全世界がそれと同じ状態に成り得る」と、私は思う。そして、皆さんも思うはずである。私たちのような凡人たちが毎週礼拝に集まって、心から自分の罪を悔い改め、神を恐れ、神の御言葉を真剣に求めるなら、基本的に社会の中に犯罪は無いはずなのだ。

       そういう意味で、罪を悔い改め、自分の心から罪を捨ててしまうなら、そして社会全体がそうするとしたら、それはどんなに大きな事なのかを深く考えさせられると思う。私たちは毎週、礼拝の最初のところで罪の告白をしている。それはただ単に言葉を習慣的に読むのではなくて、心から罪を告白し、自分の心を洗いきよめて、罪を本当に捨て、感謝の心をもって聖餐式を受けるなら、私たちは、個人としても、家庭としても、地域教会としても、必ず成長するであろう。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2002年1月20日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章15〜21節

    ローマ人への手紙13章1〜4節 (1)

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