2002.01.27. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
従 順
13章1〜4節
1人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。3支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。4それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
この1〜7節でパウロは、「政治的に権威ある人たち」に従うようにと、私たちに教えている。この箇所の教えは、教会史上多くの議論がなされてきた。殆どすべての節が、解釈する人の神学的アプローチやその人の広い神学的前提に基づいてさまざまに解釈されてきた。ここでその一つ一つを取り扱うつもりはない。その多くは重要ではないし、歪んだ解釈も少なくない。注解書を見ると、「この箇所は前後関係に合わないので、オリジナルのテキストではない」と言ったり、ある注解者は「私はこの箇所を憎む」とさえ言っている。また、「この箇所はパウロが書いたものである筈はない」と言う人もいる。なぜなら、この箇所は私たちに、「国家の権威に従わなければならない」ということをかなり強く教えているからである。特に西洋のあるクリスチャンの学者たちは「この箇所は嫌いだ」とはっきり言っている。彼らは、この箇所が国家に関する聖書の教理を宣べていることを否定する。
しかし、この箇所の前後関係は非常にはっきりしているし、パウロが書いたのではない証拠はどこにもない。また、この部分はオリジナルの聖書のテキストには含まれていないという証拠は何もない。ただパウロがここで言っていることを嫌うがゆえに、彼らはこの箇所に反対するのである。注解書等の中で根拠も無しにそのような解釈がなされているのを見て本当に驚かされる。他の聖書の箇所で明らかな教理を踏まえるならば、この箇所にある基本要素を相互に結びつけて考察することは、権威について極めて重要な神学的洞察を私たちに与えてくれるものである。私たちが心に留めておくべきことは、この箇所が、時間をかけ、また慎重に熟考する必要のある箇所だということである。
まず前後関係においてこの箇所を見てみよう。パウロは、12章1節と2節のところで12章から14章までの箇所の導入を語っている。「一人一人が自分を神に捧げなさい」とパウロは教えている。私たち一人一人は、自分を全焼のいけにえとして神にささげなければならないが、「自分を神にささげる」ということは抽象的な気持ちだけのことではない。実際にそれがどんな意味なのかをパウロは具体的に3節からのところで説明している。「自分を生きた供え物として神にささげる」ということには、地域教会の人間関係において極めて具体的な意味があるし、クリスチャンではない人たちとの関係においても実際に具体的な意味があるということを14節からのところでも説明している。これは政治的な権威を持つ人たちに対しても重大な意味があるということを、パウロはローマの教会に説明している。
これはローマにある教会なので、政治のことを考えるのは当然であり、極く自然なことであった。「クリスチャンだから、神に従う」と言い、自分勝手に「これは神の御心だ」と決めつけて欲していることを行ない、「私はこの世のすべての権威と無関係だ。教会の人間関係も社会の中での人間関係も関係ない。私は神のしもべだから、神の御心だけを行なうのだ」というような考えは成り立たない。そのような考えは決して本当の意味でクリスチャンとして神に従うものではない。神に従っているつもりならば、地域教会の中での互いの関係を3節からのところに書いてあるとおりに守らなければならない。それをしないなら、あなたは神のしもべではない。ただ自分勝手に生きているだけの人間なのだ。「クリスチャンではない人たちに対する証しなんか別にどうでもいい」と思っているなら、あなたは神のしもべではない。神に従ってはいない。ただ自分勝手に生きているだけなのだ。そのような考えで生きていながら、「自分は神に従って神の御国を求めている」と思っているなら、それは自分を騙しているのである。「神に従う」ということには具体的な意味があるのだ。神が立てた権威に従うのは、その中の一つのことである。そのことをパウロはローマの教会に教えている。
今の時代の所謂「霊的に生きる」という考えを持っている人たちにとっては、「政治の権威に従わなければならない」という話はつまずきとなっている。あくまでも国家の権威は悪いものだと考えるからである。国家の権威は悪魔的なものだと考えてしまうからである。だから、それを無視して生きることこそ霊的にきよい生き方なのだと考えてしまう。特に西洋諸国では、無政府主義的な傾向が人々の心の中に深く入り込んでいる。
映画を見れば、およそヒーローと思われる人は、権威に逆らって何か他の人がやらないような特別な事をしたりして皆を救う人物になっている。映画の中では、自分に言われたことを知恵をもって正しく行ない、権威に従って義務を果して人を救うというような素晴らしい働きの話は皆無に等しい。ある意味で義務を果たすような話もないとは言えないが、それも義務を果たしながら権威に逆らうような話になってしまうのがほとんどである。正しく生きることによってすばらしい働きをしたということをテーマとして取り上げる映画はまず無いのではないか。逆らうことに快感を覚えさせ、逆らうのを素晴らしいこととして描写し、それを勇気として見せ、「逆らうのは義のためだ」と思わせたりする。
パウロの教えはそれとまるで違うものだということを、私たちは知らなければならない。東洋人は、西洋人のようにまず逆らってから従うべきかどうかを考えることはしないと思う。東洋人気質は、どちらかというと、考える以前に従ってしまうようなところがあると思う。ずっと従っていって、最終的にだめとわかったときにはじめて逆らうことになるかも知れない。西洋人はどちらかというと、言われたらまず逆らい、逆らった後で従うべきかどうかを考えるような気質があるように思う。単純すぎる比較かも知れないが、そのような傾向がある。それは両極端であって、パウロの教えはそのどちらでもないと言わなければならない。この箇所の前後関係から13章1〜7節を考えるとき、「自分を神にささげる」ということがクリスチャンにとってどんなに具体的なことなのかを感じないではおれない。それ故、この箇所の最初のポイントは自分を神にささげることの具体的な意味を教えるものだと言ってよい。
もう一つ、前後関係の中で大切なポイントがある。それは12章の終わりにある「復讐」の話である。そこでパウロは敵との関係について話している。「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」とパウロは言っている。「悪を行なった者に対して、自分で復讐してはいけない」という命令について考えるとき、その大切なポイントの一つは、神が復讐を執行する組織を人類に与えてくださったということである。だから、自分で復讐してはならないのである。むしろ「神が権威をお与えになった政府に従いなさい」と教えるのである。神は、政府に、悪を裁く権威を与えてくださったからである。それは、あなたや私に与えられた権威ではない。自分で復讐するなら、それは、神が人類に与えた秩序を目茶苦茶にすることである。「そうする者は裁かれる」と、パウロは言う。
しかし、「復讐してはならない」とパウロが言うとき、「クリスチャンはどんな悪に対しても『どうぞ』と言わなければならない」と教えているわけではない。「神が与えてくださった政府もしくは国家という組織は悪に対して裁きを行なうものだ」と教えているのである。だから、「神に任せる」ということには、「神が権威を与えた国家という組織に従う」という意味が含まれているのだ。これは、問題に直面したときに、「復讐してはいけないのだから、私は警察には電話しない」という話ではない。泥棒が入って盗みをしているなら、それを警察に通知するのは復讐を求めることではない。それは、神の正しい裁きを求めることである。
12章の「復讐してはいけない」という命令について考えるとき、ローマ人への手紙の13章を一緒に考えることが重大なのだ。はっきり言うが、今の時代のクリスチャンは、だいたいが12章で止まっているという事実を指摘しなければならないと思う。「復讐してはいけない。復讐してはいけない。何があってもとにかく復讐してはいけない」と思っている。そうして、13章の1節から7節までに書いてある命令を飛ばして、「愛しなさい」という8節の話にいってしまうのである。
もっと具体的に言うと、去年の9月11日にイスラム教過激派がニューヨークのツィンタワーとワシントンDCのペンタゴンを同時テロで攻撃した未曾有の事件が起こったが、日本の福音派の新聞を見ると、「復讐してはいけない」「復讐をやめよう」という話ばかりであった。これはクリスチャンとして実に愚かでどうにもならない反応である。確かに個人が復讐することは聖書で禁じられている。個人が「復讐だ」といって飛行機に乗り、どこかイスラム教国に飛んで行ってモスクを攻撃するのは絶対にやってはならないことである。しかし、「政府も復讐してはいけない」と言うなら、ローマ人への手紙13章の1節から7節まではいったい何のためにあると言うのか。政府は悪を裁くために神から与えられた「神のしもべ」なのである。
いろいろな国の政府を神は与えてくださった。それぞれの国家には、その国民を守る責任が神から与えられている。それ故、「復讐してはいけない」という命令と、13章の「政治を司る者たち(政府の権威者たち)に従いなさい」という命令には、絶対に切り離してはならない重大な関係があることを決して見落としてはならない。その聖書の教えを理解するなら、復讐すべき組織が正しい意味での復讐を求めるのは、ほめるべき行為なのだということがわかる筈である。しかし、復讐を求めてはいけない者がそれを求めるなら、それは神に逆らって罪を犯すことになる。クリスチャンとして、これは実は小学生のレベルの知恵であるはずなのに、今の時代のクリスチャンたちは、その点をまるでわかっていないと言わなければならない。
付け加えて言わなければならないが、「では、アメリカ政府がやっていることはあれで問題ないのか」というと、勿論そうではない。私はアメリカの弁護をやっているのではない。アメリカがやっていることについては、考えたり批判したりすべきところがあるとしても、それとはまた別の話である。短絡的に「クリスチャンは復讐してはいけません」と言って、政府に手紙を書いて「復讐しないでください」と訴えるのは実に滑稽なことであって、それは決して聖書の教えに基づいた反応ではない。
それは、子どもたちが殺され、残酷な連続殺人事件が立て続けにあって、その犯人が捕まったときに「復讐してはいけません。復讐をやめましょう。愛しなさい。あなたの敵を愛しなさい」と言うのと同じで、全く間違った反応である。それは実にどうにもならない愚かなことなのだ。それはただ自分たちの情感に従って訴えているのであって、聖書の原則に従ってはいない。私たちはここで、パウロが教えていることをその前後関係からしっかり理解しなければならない。即ち、第一のポイントは自分を神にささげること、そして、第二のポイントは正しい復讐を求める組織を神が人類に与えてくださったということである。その二つのポイントがここの前後関係において重大なことである。
権威
13章1節の箇所を一緒に見たいと思う。この最初の短い文章は、普通と違って、ギリシャ語と日本語の言葉の句の順番が基本的に同じになっている。「人はみな」という言い方で始まっているが、この最初の表現はへブル語的な言い方であり、「すべての魂は」という意味になる。へブル語の「ネフェシュ」という言葉は「魂」とも「人」とも訳される言葉であり、人のすべてを指している。パウロはここでギリシャ語でへブル語的な表現をしているわけだが、この「人はみな」という言葉が最初に来ると強調の意味になる。即ち、このように「一人一人は」あるいは「すべての魂は」と言うとき、「例外はない」と言っているのは明白である。「すべての魂はみな、こうしなければならない」と言っているのである。
ギリシャ語の語順は、「すべての魂(人)/自分よりも高い権威者たち/従順であれ」となっている。つまり、「神が定められた権威者たちに対する従順において例外があってはならない」ということを、ローマの教会は理解しなければならない。「上に立つ権威」という日本語は直訳的な表現で問題ないと思うが、ここでパウロは明らかに政府の権威を指していることを理解しなければならない。日本語では表現困難だが、原語でこの「権威」という言葉は複数形が使われている点に重大な意味がある。それだから、最初のところで私は「政治の権威を持つ者たちに従いなさい」という表現をしたわけである。
ここで「権威」と言うとき、前後関係から明らかであるように、パウロは政治つまり政府の権威の話をしているのである。日本語でこの言葉は「権威者たち」と訳す方が正しい。複数形であるということが極めて重大なポイントだからである。「上に立つ権威者たち」という表現をするとき、政治の視点から見て誰を指しているのかというと、国家の最高権威者たちと同様に地域の権威者たちのことである。現代の適用として言うなら、これは中央政府のリーダーたちの権威について話しているのである。裁判制度の上に立つ裁判官たちも含まれるし、地方政府のリーダーたちも含まれる。中央政府や地方政府の代表として働く消防署や警察も当然含まれる。複数形であるということは、そのように、上に立つ複数の者たちがいることを意味しているのは明らかである。勿論「官僚に従いなさい」ということも含まれる。それはすべて「政府の権威を持つ者たち」という話になる。
「法律を守りなさい」と言うとき、具体的に言うなら、それは「法的権威を持つ者たちに従いなさい」という話なのである。「法律を守りなさい」ということと、「権威を持つ者たちに従いなさい」という表現には微妙な違いがあるのは事実である。「上に立つ政治或いは政府の権威を持つ者たちに従いなさい」と言うとき、具体的にその人間に対して従いなさいと言っているのである。パウロが複数形で語っているという事実には、他にも重要な意味合いがあるが、それらについては別の機会にお話したい。ここでまず注目しなければならない大切なことは、「私たちには、神が国家という領域において私たちの上に置いてくださった権威者たち全員に従う責任がある」ということである。
従う
続く「従うべき」或いは「従いなさい」という言葉も興味深い言葉であり、クリスチャンとして考えるときに重大な意味があると思う。「従う」と訳されているギリシャ語は実に大切な言葉である。この「従う」という言葉の日本語的な微妙なニュアンスを私は知らない。日本語の「服従」という言葉と「従う」という言葉と「言うとおりにする」という言い方には微妙な違いがあるように思える。現代の英語訳でこの言葉をもっと単純に表現すると
"obey" という言葉になる。それは「言うとおりにする」という意味である。つまり、「命令されたことを行ないなさい」というような意味になる。新約聖書の中でパウロは、政府や支配者たちに服従するように、テトスへの手紙3章1節でも教えている。
あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。
ここでパウロは「服従」と「従順」の両方の言葉を使って命じていることに注目してほしい。この最初の「服従し」という言葉はローマ人への手紙13章1節にある「従う」と同じ原語である。そして「従順で」というのは "obey"という言葉であり、「命じられたことを守り行ないなさい」という意味である。それ故、支配者たちや権威者たちに従わなければならず、同時にその人たちの命令を守らなければならない。同じようなことだけれども、13章1節の「従うべき」という言葉は「命令を守る」とか「言われたことを行なう」というだけの意味ではない。「命令を守る」という言い方だと、概念としてはかなり意味の狭いものになると思う。
新約聖書の他の箇所で「命令を守りなさい」と翻訳できる言葉は二つほどあると思うが、この言葉のギリシャ語を文字通り日本語に訳すなら「自分を下に置く」という意味である。これは「自分を他の人の下に置く」という意味の言葉なのだ。つまり、「相手が自分の上に居る」ということを意志をもって認めることなのである。だから「従う」という日本語のニュアンスが適当なのかどうか、私には判断しかねるところである。英語では "be subject
to" という言い方になる。「命令を守る」というニュアンスも含まれていないわけではないけれども、それよりもずっと広い意味なのだということを是非理解していただきたい。「他の人が自分の上に立っている」ことをしっかりと認めるのである。当然、心の姿勢や態度をも含むものである。同時に、単に人の態度に限定してしまうこともできない。
私たちはこの言葉を神学的に深い意味のある表現として見なければならない。「命令を守ること」と「自分をその権威者の下に置くこと」の違いを説明するにはあまりにも単純な譬えだが、例えば、言われた通りに行なってはいるが、心の中ではその者を嫌い、「嫌だ」という思いを抱きつつ、逆らう心を持ちながら、それでも言われたことを行なっている人はどうだろうか。心の中で逆らっていようといまいと表面では言われたことをしている。それは「命令を守っている」ことになるのではないか。命令を守ってさえいれば問題ないと、人は思うだろう。しかし、パウロが言う「自分をその者の下に置く」ということには、心の態度も要求されるのである。場合によっては、命令を文字通り守るよりも、「その人のために真に正しいことを行なう」ということにもなるのである。
その例としてはリベカの話を思い出してほしい。夫であるイサクはリベカの上に立つ権威者である。ヤコブとエサウが生まれたとき、神は明らかにリベカに、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」と仰せられたのだ。つまり、兄のエサウではなく、弟のヤコブが選ばれた者であり、契約の祝福はヤコブのものとなるという約束であった。そのことは当然イサクにも伝えられていた。しかし、イサクは神に逆らい、祝福をエサウに与えることを決めてしまっていた。それを知ったリベカは、イサクがそのような大きな罪を犯すことがないように、何とかしなければならないと思った。その時のリベカは、正しい意味で自分の上に立つ夫イサクに従っているのである。
どのように従ったかというと、イサクを騙して、夫イサクが神の約束通りに神が選んだヤコブに祝福を与えるように知恵をもって働いたのである。「ヤコブがずる賢く自分で全部を企てて兄を出し抜いた」というような話ではないのだ。リベカが、真に自分の夫に従う行為として、夫を騙すことによって夫が罪を犯さないように導いたという話なのである。それは厳密には「従っていない」ということにはならない。しかし、「命令を守って、言われたとおりを行なう」ということにもならない。「命令を守りなさい」という言葉の意味を狭く考えるなら、「リベカは命令を破っている」という言い方だって出来るかも知れない。しかし、正しく従うという意味では、彼女は実に忠実に夫に従っているのである。
彼女はイサクの最高の祝福を求めているのだ。神の御恵みが、夫イサクにも家族全体にも与えられるようにリベカは働いたのである。そういう意味で、「従う」とは、ただ単に言われた通りにすることではない。「私は言われた通りしただけです。責任は私にはない。責任は向こうにある」という話ではないのである。ここで皆さんは、「さっきから当然すぎることを、いつまで話すのか」と思うかもしれないが、決してそうではない。実際に、若いクリスチャンにキリスト者の生き方を教える多くの書物の中で、「妻は自分の夫に従いなさい。たといそれが罪であっても、黙して従いなさい。責任は命令を出した者の方にあるのです」と教えているのである。「とにかく、何でもかんでも言われたら、従いなさい。それが聖書の教えです」と考える人がいるが、断じてそうではない。
パウロの言い方は「ただ命令通りにしなさい」というような狭い意味ではなく、もっと広く、そしてもっと深い意味の従順について教えているのだ。「全き心において自分を権威者の下に置かなければならない」と教えているのである。しかし、場合によってはリベカのように、上に立つ者の祝福を求めるためには、その人の考えとは異なることをしなければならない場合もあるのだ。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴたちは、偶像礼拝を命じたネブカデネザル王の命令には逆らったけれども、ネブカデネザル自身に対しては従ったと言える。彼らにはネブカデネザルの権威を駄目にしようとする思いは微塵も無かったし、心の中で傲慢になって逆らったわけでもない。アメリカではよく若者たちが傲慢になって、逆らうことに快感を覚えて大胆に「絶対にやらないぞ!」と叫んだりするが、そのような事ではなかった。ネブカデネザルに対して尊敬を払い、従う心をもって「私たちはあなたのその命令を守ることはできません。しかし、あなたに従って死刑を受けます」というように答えたのである。
だからパウロがここで要求していることは、表面的で機械的な行為としてただ命令を守るというような話ではない。「従う」という言葉は、新約聖書の中でよく使われているが、パウロの手紙の中でこの「従う」という言葉は全部で28回使われている。どのような事について使われているのかというと、例えば「妻たちよ。自分の夫に従いなさい」という箇所がある(エペソ人への手紙5章22〜24節、コロサイ人への手紙3章18節)。先のリベカの例も、その適用として極めて適切なものだと思う。また「子どもたちよ。両親に従いなさい」という箇所もある(エペソ人への手紙6章1節、コロサイ人への手紙3章20節)。教会員が長老たちに従うように命じる箇所もある(コリント人への第一の手紙16章16節、ペテロの第一の手紙5章5節)。先に見たテトスへの手紙3章1節のように「権威者たちに服従しなさい」という言い方もある。つまり「国民は国家の指導者たちに従うべきです」と言っているのだ。また、「しもべたちよ。自分の主人に服従しなさい」という命令もある(テトスへの手紙2章9節、エペソ人への手紙6章5節、コロサイ人への手紙3章22節)。
つまり、教会と国家と家庭の権威全部について「従う」という言葉は使われているのだ。「従順」は、神が定めた契約の組織である教会、国家、家庭のすべてに関わることなのである。簡単に言うなら、「三位一体なる神御自身の中に上下関係があるので、契約の組織においてもその原則は表わされる」というところに戻るのである。パウロはコリント人への第一の手紙15章28節で、「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです」と語って、三位一体における従順について述べているが、私たちはそれを聞いて驚くことはない。御子の御父に対する従順は、私たちの神に対する従順、そして他の人間のさまざまな権威に対する従順の模範なのである。
御父、御子、御霊なる神の人格の関係においてはっきりした上下関係がある。御父は御子に命令を与えるし、御子は御霊に命令を与える。「御子は御霊を遣わす」という言い方があるので、御霊は御子に従うものであることがわかる。三位一体なる神の上下関係を考えるとき、もちろん御父である神は間違った命令を出すことは有り得ないので、命令を守ることと従うことには何一つ矛盾がない。しかし、御子の従順は、心において御父に尊敬を払わず、愛もなく、ただ命じられたことをするだけというものでは決してないのである。心も行ないもすべてが完全に一貫している。私たちは三位一体なる神の似姿に造られているので、人間関係においても上下関係というものがあくまでもある。そのことがこの箇所に反映されていると言ってよいと思う。
「権威に従わなければならない」ということは、私たちは社会として三位一体なる神の似姿なので、権威というものがあり、権威に従うということがあるのだ。そういう意味で、新約聖書全体の中で「従う」という言葉がどう使われているかを知るなら、パウロはここで私たちに、「クリスチャンとして三位一体なる神の御栄光を、神の似姿として、神が立てた政府との関係においても表わしなさい」と言っていることがわかる筈である。従順とは、契約的な責任なのである。
自分の上に立てられた権威に従うということは、神の似姿に創造されたものらしく振る舞うことである。その権威を敬い、その権威を支えることは、御父と御子キリストとの関係に倣うことなのである。公的な領域における権威への従順は、家庭や教会に立てられた権威に対する従順と同様に、究極的には人間を通して神御自身に従うことなのであって、決して単に人間に対する服従ではない。同時に、神が定めたもうた権威に逆らいながら神には従順であることは有り得ない。そのように考える者は自分を欺いているのである。
「三位一体なる神において見ることができる上下関係」に言及するとき、もう一つ付け足して言わなければならないポイントがある。エペソ人への手紙5章22節にあるポイントに注目していただきたい。これは、無責任でだらしがない、そして聖書をあまりよく知らない悪い夫たちが最も好む個所である。聖書の中でこの箇所しか知らない男性が大勢いる。そこでパウロは、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」と命じている。聖書の引用をするときにこの箇所しか頭にない男性は少なくない。けれども、確かにこれは聖書の御言葉である。このエペソ人への手紙の箇所を読むときに私はいつも「21節からの箇所を強調しなければならない」ということを繰り返し言っているつもりだけれども、そこから読まなければならない。命令は「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」というところから始まっているのである。
「三位一体なる神が互いに従い合う」という大切な部分がその21節のパウロの命令に反映されている。私たち皆が従順になるように命じてからはじめて、妻たちや子どもたち、しもべたちについて従うことを語るのである。カルヴァンがこの箇所を指して、「政治家たち、王たち、或いは夫たち。どの契約の組織においても権威を持つ者は誰であれ、ここから考え始めなければならない」と強調しているのは実に当を得た指摘である。
人間の生活のこういった側面がいかに神御自身を反映しているかを考えるとき、主イエス・キリストが語られた多くのことが思い起こされる。私たちの主は、御父に完全に従い、また喜んで従った。それだけでなく、「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです」と私たちに教えている(ヨハネの福音書5章22〜23節)。ここに私たちは、三位一体の御父・御子・御霊が互いの栄光と尊敬を求め合うという原則を見るのである。
自分を無にして、相手の祝福と栄光のために生きるのである。御父・御子・御霊のそれぞれの仕え方は違うけれども、各々が他のために仕えるという事実は人間の歩みと社会のための模範である。「自分には権威が与えられている。だから皆に従順を要求することができる」という話では断じてないのだ。「私には権威があるから、私に従いなさい」と言う話ではない。マルコの福音書10章42〜45節のところで主イエス・キリストは説明している。
あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
異邦人の支配者は服従を強いる。そのために人々を抑圧する。権威を手に入れると下の者たちを抑圧するのである。「あなたがたの間では、そうであってはならない」と主イエスは命じておられる。どうすべきかというと、「仕える者になりなさい」と言っているのである。「皆に仕える者になれ」と言うのである。仕えることこそ、正しい意味で権威を持つことなのだ。権威が与えられたのは、人々に仕えるためなのである。権威が与えられるということは、とても大変なことなのだ。
無責任で奔放な生活をしたいと思うなら、王になるな。リーダーになるな。しもべになった方が一番無責任でいられるからだ。しもべの方が一番気楽なのだ。奴隷にはほとんど責任は無いし、何をやってもその責任は大したことにはならない。王が少しでも間違いをすれば、国全体がどうしようもないことになる。すべての決断において王は国全体の状態を熟慮しなくてはならない。自分勝手な気持ちに従って考えたり行なったりすることは許されない。それをするなら、とんでもない罰が国全体に下ることになるのだ。「権威を正しく持つ」ということは、「よく仕えること」なのである。その意味で、「互いに従いなさい」と命じられている。
だからパウロは、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と命じてから、夫婦について、親子について、奴隷と主人について、教えるのである。そのすべては「互いに従い合う」という話なのだ。これは国のレベルにおいても同じことである。クリスチャンの王、クリスチャンの政治家、クリスチャンの裁判官、クリスチャンの警察官などは、人々に仕える心をもって働くのでなければならない。御父、御子、御霊なる神のところに戻って考えるならわかる筈である。御父が御子に命令を与えるとき、それは御子を愛し、御子を祝福し、御子の栄光を求めて命令を与えるのである。御子は、命令を受けたとき、御父を愛して、御父の栄光のみを求めて、喜んでその命令を守るのである。互いに仕え合い、互いを愛し合い、互いの栄光を求め合うのである。そういう意味では、御父は御自分を無にして御子の栄光を求めておられるのだ。御子も、御自分を無にして御父の栄光を求めている。そのような関係こそ人類にとっての理想的な関係なのだ。
上下関係において権威が与えられている者たちはすべて、他の者に仕える心が無ければ駄目なのである。同時に、従う者も、仕える心をもって従うのでなければ駄目なのである。「でも、あの人だって権威がないから、私も無くてもいいんだ」というような話は無いのだ。「政治家たちはクリスチャンではないから、私は彼らに従わなくてもよいのだ。私は何をしてもいいのだ」という話は無い。「夫は間違っている。あまり賢くはないから、従わなくてもいいんだ」という話は無いのである。上に立つ者が足りない者であっても、従わなければならない。それは止むを得ない状態である。どこまで足りないかによってもっと判断に知恵が必要となるのは事実であるが、原則は少しも変わらない。それもまた神の摂理によるということを私たちは覚えなければならない。
ここで、「私たちの上に立つ権威者たちの誰もが皆足りないのだ」とはっきり言わなければならないが、クリスチャンではない国家のリーダーたちの中には、心が汚くて、人に仕えることなど考えもしないで、人を利用することしか考えない人も沢山いるが、そういう人にも従わなければならない。パウロがこのローマ人への手紙13章を書いた時、ローマ帝国を支配していたのは暴君ネロだったのだ。その人よりも汚くて、その人よりも程度低くて、その人よりも心の無い、死刑にすべき人間は恐らく世の中にはいないだろうと思われるほどの人物である。アドルフ・ヒットラーは二十世紀で最も有名な悪者と思われている。実は、スターリンはそれよりも悪しき人物だったと言って間違いはないだろうと思うが、とにかく、史上最たる悪党たちを競わせれば、ネロは彼らと互角に競える人物であるのは間違いない。ローマ帝国の頂点に立っていたのはそのネロである。「あの汚い奴には従わなくてもいい」という言い方は聖書にはない。しかし、その人物は実に実に悪党中の悪党であった。そのような時代の真っただ中にあって、「権威者たちに従いなさい」と、パウロは私たちに要求するのである。
従う者が正しく従うなら、上に立つ悪い者を倒すことになる。従うべき者が逆らうなら、自分だけを滅ぼすことになる。正しく権威に従うことによって悪者を倒すのである。主イエスはこの世に来て何をなさっただろうか。イスラエルの上に立つリーダーたちの皆が悪しき心を持ち、偽りを語り、殺人もする。やもめのお金をかすめ取り、孤児を顧みようとしない。実にどうにもならないリーダーたちであった。それでも、主イエスはその権威者たちに従った。マタイの福音書23章のところで主イエスはメサイアとして彼らを叱責している。しかし、その時も、説教の中では、その人たちに従いなさいと教えているのである。「その人たちの真似をしてはならないが、彼らがモーセの座を占めているので、その命令に従いなさい」と主イエスはイスラエルに教えている。
主が望むのであれば、一瞬にしてローマ帝国をも滅ぼすことはできた。「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」とキリストは言っておられる(マタイの福音書26章53節)。ローマ帝国を潰すことはキリストには容易なことであった。旧約聖書の時代に、実際にそのようなことをなさったのだ。アッシリア王国がエルサレムを攻撃したとき、御使いの軍勢は一夜のうちにアッシリヤの陣営で十八万五千人を打ち殺し、人々が翌朝起きて見ると、皆が死体となっていたことが記されている(第二列王記19章35節)。軍を失ったアッシリヤの王はしっぽを巻いて逃げ帰ったのである。いつでもキリストはローマ帝国を滅亡させようと思えば簡単にできたのだ。しかし、本当の意味でローマ帝国を裁くためには、最後までその権威に従い、実に十字架の死に至るまで従い通されたのである。
私たちは他の人の血を流すことによって世界を変えることはできないということを知るべきである。神に従って、真にへりくだった心をもって義の道を歩み、正しく歩むことによって変えるのである。たとい自分の血が流されることになるとしても、服従に徹するのである。義をもって従うことによってこそ、上に立つ者を変えることができるのだ。パウロが「上に立つ権威に従いなさい」と言うとき、「受身になって、頭も心も空にして、とにかく言う通りにしなさい」という話はしていない。世界を変える者は、権威に従うことをしなければ、とても世界を変えることはできない。
私たちは毎週、聖餐式を受けるときに、神に従うという心に戻って、自分を吟味し、自分の罪を捨て、本当に神の御国を第一に求める心に戻るものである。神の御国を求め、心を尽くして神の栄光を求めるのである。心から神に従う誓いを新たにするのである。神が私たちに与えてくださった権威者たちに従うことを、この時に覚えたい。私たちに与えてくださった働きを喜んで行なうことを具体的に誓うのである。その誓いを新たにして、聖餐式を受けたい。
――2002年1月27日――