2002.02.03. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
革命、不従順、権威
13章1〜4節
先週は1節の「権威者たち」という言葉から上下関係について考えたが、上下関係というものは三位一体なる神がどのような御方なのかというところから出て来る考えだということも話した。御父、御子、御霊なる神の人格的関係において上下関係というものがある。神は、人類を御自分の似姿に創造したとき、人間の社会をも最初から上下関係があるものとして創造してくださった。しかし、人間が神に逆らって罪人となってしまったために、人間の上下関係は他にもいろいろな意味を持つようになった。聖書によって教えられる者は、「人間が罪人でなかったなら、政府あるいは国家というものは存在しなかった」とは思わない。国家も、教会も、家庭も、アダムが罪を犯さなかったとしても存在するものである。
そして、パウロはここで政治的な権威について特に教えているが、「国家」と言うべきか「国」と言うべきか、何れにせよ、国の支配者たちの権力は神から与えられたものであり、その権威の座にいる人たちは神によって任命されたと、パウロは教えている。そして、「従いなさい」というパウロの命令は、これ以上強く言うことができないほどに強い言い方で語られている。従って、権威に逆らうことは、神御自身に対して戦いを挑んでいることになるのだ。神は御自身の摂理によって、御自分の代理を務める人々に逆らう者たちを必ず裁きたもう。先週は1節の最初のところについて一緒に考えたが、今日は1節の後半を見てほしい。
立てられた権威
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
ここでパウロは二つのポイントを指摘している。第一に、「すべての権威は神によって存在する」ということである。つまり、権威制度そのものが神によって創造された制度であり、権威を表わす地位そのものが神によって立てられたということである。すべての権威は神によるものである。それ故、国家は、神によって任命された組織だという理解でなければならない。パウロはまずそのことを広いポイントとして話している。つまり、国家というものは、人類の進化の中でただ便宜的に自然発生的に生まれて来たものではないということである。人間が進化するに連れて、「これは便利だ」と思うようになって国家という組織が自然に出来てしまったかのようなものではない。国家は神が与えた組織である。教会も家庭も同様に、神が与えた組織である。その組織は人類の間において権威を持つものである。それは、神が人間の生活を、権威によって組織されたものとして創造されたからである。
私たちがその三つの領域において神の似姿として相応しいものとなるために、権威は不可欠である。そういう意味で「権威は神によって立てられた」と、パウロは広い意味でまず宣言している。「存在している権威はすべて、神によって立てられたものである」と言うとき、当時のローマの教会について考えるならば、「ローマ帝国の支配者たちは神によって立てられたのだ」と、パウロはポイントを絞って具体的に教えているのだ。広い意味では権威そのものが、神によって創造されたシステムである。
そして、第二にパウロは、いま権威の座に着いている人々は、神によって立てられたからその座に着いているのだと言う。「今、ローマ帝国を支配しているネロ皇帝も、神によって立てられたのだ」と、ローマの教会に教えているわけである。付け加えるようにしてそう説明するのは、全体的なポイントとして「神が権威というシステムを作った」と聞いただけでは十分に事柄が理解できないからである。一歩進んで、「今の日本を支配している者たちは、神が御自分の摂理において立てられた権威である」という理解がなければならない。
それ故、二つのポイントにおいて理解しなければならない。「神が権威というシステムをお作りになったということはわかるが、今の支配者たちは駄目だ」とような言い方はできない。その権威のシステムそのものが神によって作られた。即ち神は、政府、政治、国家というものを人類に与えてくださった。そして、それぞれの時代を支配している者たちも神によって立てられたのだということを信じて、それに従わなければならない。そのようにパウロは実際にローマ帝国の支配下にある教会に教えている。実際に国家を支配している者たちは、その権威を神の摂理によって持っている。私たちはその権威にある男女に従うことなくして神に仕えることはできない。「神に仕える」ということは、抽象的でいわゆる“霊的”と言われる類いの事柄ではないのである。
そして、権威者たちは神によって立てられたからといって、その権威を我が物にして何をしてもよいということはない。自分のしたい事をするために任じられたのではなく、支配者はある特定の仕事のために立てられているのだ。権威のシステムも、その権威を与えられた者たちも、ただ神によって立てられているが、その権威について話すとき、パウロは13章4節で次のように言っている。
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです」と言っている。彼らは神に仕える者である。「神のしもべ」というその「しもべ」という言葉は「執事」と同じ言葉である。即ち、神に仕える者のことである。「すべての権威は神が立てた」と言うとき、権威を持つ者は誰に対して責任を持つのかというと、神に対して責任ある者なのである。神に従わなければならない者なのだ。それだから、国家のリーダーたちは「神のしもべ」として働いている。彼らは誰に対して答えるのかというと、彼らを立てた神に対してである。家庭であれば、父親が神によって立てられた権威である。父親は誰に答えなければならないのかというと、神に対してである。家庭を導くことにおいて、父親は神に対して責任を果たさなければならない。そして、教会の長老やリーダーたちも神によって立てられたのであって、神に対して答えなければならないのである。それが「神のしもべ」という言葉の意味である。
それだから、改革派の信仰においては、国家、家庭、教会という三つの組織が神によって与えられていると考えるわけである。「政府のリーダーたちは神のしもべだから、教会の牧師に対して責任をもって答えなければならない」という教えはここにはない。彼らは「神に仕える者」なのである。同時に、教会の牧師たちは、礼拝の開始時間などを政府の承認を得たうえでやらなければいけないという教えは聖書の中にはない。教会の事は教会の長老たちで決めなければならない。父親たちは、警察に電話して「明朝、私は何時に起きればいいでしょうか」と確認する必要はないし、教会の長老に電話して「私は、お昼に何を食べたらよいでしょうか」と承認を得なければならないこともない。国家、家庭、教会の権威は別個の権威組織であって、それぞれに神に仕えるしもべたちなのだとパウロは教えている。
「神のしもべ」と言うとき、「神の命令に従ってその権威を用いなければならない」ということにもなる。「国家のリーダーたちには、神に従う責任がある」とパウロは指摘する。当然ながら、ローマ帝国の時代のネロ皇帝のような人物がこの13章を読めば、「なるほど。良いことが書かれている。クリスチャンは皆、私に従わなければならないのだ」というふうには思わないであろう。「何が神のしもべだ。私こそ神である」と反応するかも知れない。ネロは金貨の中に自分の肖像を刻ませ、自分を神としていた。ローマ帝国の中には「皇帝が誰かに仕える」という考えはない。「人はみな皇帝に仕える」というのが常識であった。だから、これを読むとき、ネロは侮辱されたと思うかも知れない。
「神のしもべ」であるから、悪を行なう者がいれば、権威者はその悪を裁かなければならない。それだから、「もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです」とパウロは言うのである。「権威を神から与えられた者は、神の命令に基づいて善と悪を区別し、悪を悪として裁かなければならない」と、パウロは説明している。国のリーダーたちは神から権威を与えられたけれども、その権威は、悪を裁き、善を祝福するためのものである。彼らは神に従い、神のしもべとしてその権威を持ち、それを働かせなければならない。
4節の最後に、「彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います」とあるが、支配者の大切な役目の一つは、悪を行なう者に対して、神のために復讐をすることである。先週説明したように、13章と12章には大切なつながりがある。12章の終わりの「復讐してはいけません」という命令の意味を正しく理解するためには17節から読まなければならない。
17だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
この12章の終わりの箇所で、復讐について、怒りについて、悪について、パウロは話している。「私たちに対して悪を行なう者がいても、私たちは悪をもってその人に報いることは許されない。また、個人が復讐を求めたり、怒りをもって裁いたりすることも許されない」と、パウロは教えている。13章では、こんどは政府の権威について書いているが、4節でパウロは「悪を行なう者を、怒りをもって復讐する」という意味のことを話している。それは、「悪を行なう者には怒りをもって復讐する」というギリシャ語になっている。彼らには死刑の象徴である「剣」が与えられており、「剣」はその役目を果たすための言わば「正当な暴力」である。「剣を帯びて裁きを行なう」は政府に与えられた権威である。しかし、それは「神のしもべとして悪に対して復讐を執行する権威組織」として神によって立てられたのである。
為政者の支配が剣をもって行なわれるかぎり、それは否定的な働きのようではあるが、その本質は悪を罰することにある。それは見かけほど否定的なことではない。なぜなら、悪を罰することは社会の基盤を守ることだからである。「復讐」という言葉を使うと、日本語では若干の問題があると言われている。「復讐」という言葉は、人間が行なうときには悪いことのように解釈されがちなので、「復讐」よりも「報復」という言葉の方が適切だという指摘を受けたが、いろいろな意見があるかも知れない。とにかく、パウロが復讐について話すとき、「個人が復讐を求めてはならない。復讐は神がすることだ」と言っているのである。
しかし、「神が復讐をする」と言うとき、それは最後の審判の時に限った話ではないのは明らかである。確かに、悪に対する完全な復讐もしくは完全な裁きは最後の審判の日を待たなければならないのは事実である。しかし、歴史の中で、神は御怒りをもって神の復讐を執行する組織を立てられた。それが国家である。それ故、法廷で裁きを行なうとき、法廷は国家の権威に立って、例えば殺人を行なった者に対しては復讐をしなければならない。安易に赦すようなことがあってはならないのである。神のしもべとして、神の御怒りを表現しなければならず、神の復讐を適用しなければならない。そのようにパウロは教えている。それ故、国家は義なる神によって立てられており、国の基本的な責任と働きは悪を裁くところにあるのだ。「悪を裁く」というとき、ただ単に否定的なことしかしていないように思われがちだが、決してそうではない。悪を裁くことによって善が栄える環境を与え、それを保つのである。
これは極めて積極的で肯定的なことなのだ。悪を裁いてそれを取り除くなら、その悪を許さない場所において善が栄えるようになる。政府にとって、これは実に重大な役割だと言わなければならない。経済的に栄えない国々の問題を見ればよくわかると思う。例えば、偽りを語って契約を守らなくても国がそれを取り扱わないならば、「嘘は方便」というよりも「嘘こそ方便」というような社会になってしまう他ないのである。嘘がはびこり、ビジネスの契約を守らなくても済まされるというなら、当然社会は栄えないのだ。政府が正しく悪を取り扱って裁くならば、契約を結ぶ人たちが誠実に契約を守って働く社会になる。それは実に簡単な例だけれども、社会全体として見るとき、それくらいのことでも実に重大なポイントなのだ。
「盗んではならない」という命令が十戒の中にあるが、神はその適用を細かく説明しておられる。「ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない」とある(レビ記19章35節)。つまり、売る時のはかりと買う時のはかりは全く同じでなければならない。昔の商人たちは、1キログラムの穀物を売るとき、その1キログラムのはかりを実際の分量よりも少し軽くしてはかっていた。それで、1キログラムと言って売る量が実際には900グラムで、代金は1キログラム分を請求したものである。買う時には、また別のはかりを使う。例えば、1キログラムと刻まれているが実際は1,100グラムあるはかりを使って穀物をはかる。それで1キログラムの代金を支払って1,100グラムの穀物を仕入れるわけである。それを売る時には、900グラムを1キログラムと称して売る。そのように売りと買いの双方を欺いて、上乗せされる利益の他にその200グラムの鞘によって暴利をむさぼるのである。「それは盗むことである」と、モーセの律法は説明している。誰がそれを裁くのかというと、国家がそのような行為を裁かなければならないのだ。
そういう意味でビジネスの細かい部分に至るまで監査の目を光らせなければならない。国が毅然として諸々の悪を裁くなら、善を行なわなければ成功しない環境が作られることになる。善を行なうことによってのみ成功できる環境の中では、どのようにして成功するかというと、「他の人に仕えることによって栄える」という原則が支配するようになる。お互いに仕え合うことによってのみ祝福を得ることができる。だから国家は、悪を正しく裁くことによって人間が互いに仕え合う環境を作り出すことになる。国家が悪を裁かないなら、互いを騙しあったり、互いを傷つけあうようなことを許す社会にしかならない。悲しいかな人間は罪人なので、容易にその方向に向かってしまうのである。だから、悪を裁くという国家の責任は実に大であり、あまりにも重大なことなのである。国が神の御言葉である聖書から知恵を得て悪を定義するなら、義をもって悪を裁くことができる。そして、その国はますます栄えることができる。そういうわけで、国は神のしもべであるがゆえに、悪を裁くものでなければならない。
「剣を帯びる」ということは、国が与えることのできる最高の罰を表わしている。最高の罰とは死刑である。肉体に対する死刑は最高の罰であり、人間はそれ以上の罰を与えることはできない。だから、国は人の魂に対しては何も影響を与えることはない。国は、悪を裁くという責任において、死刑を行なわなければならない場合もある。それだから、剣は国の権威の象徴である。そのこともこの箇所で教えられている。善と悪を区別し、悪を裁く。「そのような権威のシステムが神から与えられていて、私たちはそれを尊び、その権威に立つ者たちに従わなければならない」と、パウロは私たちに教えている。3節を見てほしい。
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
支配者は、良い行ないをする者には恐ろしいものではない。悪を行なうときに、恐ろしい存在なのである。そして、「善を行なうなら、支配者かあらほめられる」と言っているのは、支配者のもう一つの役割を示唆していると考える人たちがいる。つまり、この箇所から「支配者には肯定的な役割がある」と言うわけである。「支配者たちは善を行う者をほめる」と書かれているが、ここでそれが政府の重要な機能として述べられているのだろうか。また、この言い方には、善を行なう人々への経済的手当ての給付が含まれているのだろうか。これは、善を行なった者たちを懸命に探し出して、為政者たちがいろいろな形で彼らをほめなければならないという話ではないと思う。聖書の中では、為政者がある人々やグループを評価したりほめたりするためにその権威を用いるようなケースは極めて少ないので、これを「肯定的な役割」と言うことはできないと思う。
しかし、確かにどの社会でも、善を行なう者をほめるものである。昔の日本でも、今の日本でも、アメリカでも、中国でもそうだが、社会に貢献する行ないをした者を政府が表彰したりして公けにほめたりする。だからといって、そのために特別な官僚の部署を設けて、いつも表彰する対象を探し回ったりしてまでやる必要はないと思うのだが、社会にとって大きな益となる事を行なった人をほめるのは当然のことだと思う。しかしパウロが言いたいのは、「政府の役割は悪を裁くものだ」ということであり、「善を行なうなら、裁かれたりすることなく、正しい者と見られ、感謝されるであろう」ということに留まると思われる。さて、悪を裁く権威を持つ政府に対して私たちはどうすべきかというと、答えは「従わなくてはならない」である。では、従わない場合にどうなるかというと、答えは2節にある。
革命を起こしてはならない
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
1節の結論はこの2節で引き出されている。政府という権威を持つ組織を立て、摂理によって支配者たちを任じられたのが神であるなら、それに抵抗し逆らう者らは確かに神御自身に逆らっているのである。そして、逆らう者は裁きを招くことになる。これは「革命の権利は絶対に認められない」ということである。法的に立てられた正当な権威に反旗をひるがえすことは、神の御怒りを自らの上に招くことになる。このパウロの言葉を聞くとき、私たちは旧約聖書のいろいろな箇所を思い起こすはずである。
その一つは、四十年間荒野をさまよったイスラエルの話である。それは、いわゆる国家という話ではないが、神はリーダーとしてモーセとアロンを立てた。イスラエルは繰り返しモーセとアロンに逆らった。モーセとアロンに対して逆らうイスラエルは、誰に逆らっていたのかというと、神御自身に対して逆らっていたのである。神が立てた権威に対して人間が逆らうなら、それは神御自身に対して逆らっているのである。この点を私たちはしっかりと心に刻まなければならない。荒野のイスラエルの場合、立てられたモーセは預言者で、実に知恵と心のあるリーダーであった。にもかかわらず、彼らは逆らい続けた。
しかし、ダビデの例もある。サウルは自己中心的で偽クリスチャンであった。サウルは神から離れただけでなく、神の祭司たちをも殺し、魔法使いからアドバイスを求めたりもした。実にどうしようもないリーダーであり、どの観点から見ても、サウルは従いたくなるような王ではなかった。それでも神から任命を受けたダビデでさえ、決してサウルに逆らうことはしなかった。サウルは「神に油を注がれた者」だからである。その権威は神が与えたものなので、ダビデはその権威に尊敬を払っていた。それ故、ダビデは自分から直接手を下すことはしなかった。逆らったなら、裁かれる他ないのだ。ダビデは徹底して従いとおした。
ここでパウロは私たちに、神が立てた権威に逆らう者は、「自分の身にさばきを招きます」と言っている。その裁きは、国家を通して与えられる場合もあるし、神の摂理において別の方法で裁きが与えられるかも知れない。「神が立てた権威に対して逆らうことは、実に大きな罪なのだ」ということを、パウロは私たちに教えている。「そのような者は、裁きを免れることはない」と、パウロは言うのである。
前に、「悪を行なう原則はここで見る以上に広い意味を含む」と言ったが、この箇所の教えも同じように、かなり広い意味を持つ原則だということを是非理解していただきたい。人間社会で言うなら、権威に立つ人は何によって立つのかというと、その権威に従う者によってのみ立つことができると言ってよい。つまり、イスラエルがダビデに逆らうと決めたとき、ダビデはもうおしまいなのだ。その時には、自分に忠実に従う者たちを引き連れてエルサレムから逃げ出すしかないのである。「我こそ神が立てた権威者だ」と強がって叫ぶなら、その場で殺されるだけで終わりなのだ。
国を目茶苦茶にするのに、どれくらいの数の人が政府に逆らえば可能なのかというと、社会の1%ほどの人数で十分なのだ。1%が反逆者となるなら、国家は破壊されてしまうのだ。考えてみればわかることだ。例えば日本の人口が一億二千万なら、その1%は120万人になる。120万もの人が一緒に立って政府に逆らうなら、たちどころに政府は倒れてしまうであろう。実の話、今の日本やアメリカに対して、もし訓練された千人ほどの人が協力して周到な計画を持って逆らうなら、国は間違いなく大変なことになるのだ。周到な計画でなくても、目茶苦茶に逆らえば、国は大変な混乱に陥るであろう。だから、小さなテロリストのグループであっても、国家に対して実に容易に大きなダメージを与えることができるのだ。
昨年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ事件は、僅かな人数でアメリカ全体及び全世界の経済にどれほど大きな影響を与えたことか。経済的な直接的なダメージ以外にも、飛行機や建物や殺された人々のことだけでなく、アメリカはいろいろなシステムを根本から変えなければならなくなり、莫大な資金をいろいろな事において使わなければならなくなった。それはただ数人の実行犯が協力して国家に逆らっただけの事なのだ。それが何千人、何万人だとしたら、政府は成り立たなくなる。毎日の生活のすべてを軍人によって支配しなければだめということになる。
私がオハイオ大学で学生であった1970年頃、千人足らずの学生が大学のリーダーたちに逆らって暴動を起こした。学生の総数は約二万人で、キャンパスにいる学生の数は13,000
〜15,000人であった。その中の数百人或いは千人ほどの者が暴動を起こしたために、国は軍を投入して町中のすべての所に銃で武装した兵隊を配置して学生たちを包囲し、「すべての学生は、24時間以内に大学から出て家に帰りなさい。従わない者は直ちに逮捕する」と警告したのである。そこまで軍によって威圧し、町中を軍でいっぱいにして学生たちを追い返さなければ支配できないのである。そのように武装して命令を出さなければならない状態であった。町全体の中で千人足らずの人が暴動を起こしただけの事だったが、そのために武装した軍隊が制圧のために出動しなければならなかったのだ。ケント・ステート大学では一人の学生が射殺され、アメリカ中の大学は次から次へと閉鎖された。実際に暴動した学生の数は、学生の総数からすれば実に僅かな数でしかなかったが、それだけで権威は成り立たなくなるのだ。
権威の下にある者が権威に従うことによってシステムは成り立っているのである。従うべき者たちが意志をもって逆らうなら、もうおしまいなのだ。何も出来なくなる。しかし、暴力を持って立場を保持しようとしても、決して長くは保てない。従う者がそのシステム全体を保つのだ。それ故パウロは「従うべき権威に従いなさい」と命じるのだと思う。「上に立つ権威者たちに従いなさい」と命じ、更に権威に立つ者には「このように権威を保ちなさい」と教えている。そのようにパウロはいつも従う者から話を始めている。
それ故、聖書の中では、「革命」という罪は、権威を不正に使う罪よりもずっと重い罪になっている。権威を悪く使うのは確かに罪である。それが軽い罪だと言っているわけではない。ただ、革命はそれよりも重い罪だと言っているのである。なぜなら、革命を起こすと全部が目茶苦茶になって、改善しようとする問題よりも大きな問題を新たに作ってしまうからである。シェークスピアの「リア王」の劇の中でそのことが巧みに表現されている。細かいところは思い出せないが、権威に逆らうことについて、「足りない所を治そうとして、良い所の多くを失う」という言い方があったと思う。権威者の施政が不十分だと思うと、人は逆らおうとする。しかし、逆らうことによっては不十分さが改善されるどころか、却ってシステム全体が崩れてしまい、良い所も失われてしまい、初めよりもずっと悪い状態に陥ってしまうことになる。
その良い例が共産主義である。共産主義の国は基本的にそのようなものであった。パウロのこの教えは、社会の発展に関する共産主義の理論を明確に非難するものである。共産主義は、人間が経済的に発展するにつれ、世界の労働者たちは一致団結していき、その足かせを解く時が必ず来ると考えた。彼らは自由は暴力によって勝ち取るものだと信じていた。彼らにとって革命は、社会的進歩の合法的手段であるばかりでなく、歴史的に必然であるところの手段であり、人間社会の最も発展した形態に到達するための不可欠な手段であった。これ以上に、人間社会および人間の権威に対する正しい関係についての聖書的概念と原則に真っ向から反発するイデオロギーを想像することは困難である。
特に十九世紀末のロシアはひどかった。スターリンの時代は、想像を絶するほどに悲惨なものであった。そのために、革命を思想として教える共産主義については、昔からクリスチャンとしては反対しなければならないものであった。革命を行なうことによって救いや解放を得るというような原則は絶対に許されないものなのだ。人はみな、従うことによって問題を解決すべきである。権威に従い、善を行なうように、パウロは教えている。長い目で見れば、それこそこの世に良い影響を与えてこの世を変える方法なのだ。そのようにパウロは私たちに教えている。反抗の罪は甚だしく破壊的である。反対に、従順は秩序と祝福を保つものである。多くの観点から、神を畏れる敬虔な人々の従順は、指導者たちの支配よりも社会に益をもたらすものである。
圧制への抵抗
この箇所でパウロが話していることの意味が実に広いものだということをずっと説明してきた。しかし、悪を行なうリーダーであっても、どんなに悪い支配者であっても、それが権威に立つ者であれば、ただ黙って従えばよいのだろうか。聖書には悪い権威に対する抵抗についての教えは全く無いのだろうか。そうではない。まさにこの箇所でパウロはその抵抗のための土台を据えているし、最も基本的な原則を指し示す旧約聖書の有名な箇所をパウロは忘れてはいない。パウロは聖書の他の箇所で教えている原則をここで廃止しようとしているわけではない。
基本的に二つのポイントがある。「神のしもべ」と言うとき、「国家のリーダーたちは神の権威の下にある」ということは明らかである。神御自身こそ究極的な権威である。この真理は、権威の非合法的乱用について最も基本的なルールを表わしている。「国家のリーダーに逆らうとき、私たちは神に対して逆らっている」と言ったが、そうであれば、国家のリーダーに従う時、それは神に従っているのである。それによって、間接的に明確な原則が導き出される。即ち、「国家のリーダーが神の命令に逆らうような命令を与えるとき、それに従うことはできない」ということになるのだ。神が私たちの上に据えられた権威に従うことは、単に彼らの言うとおりにすることではない。同時に、義を守るために止むを得ず外面的には不従順に見える行為をとる場合においてすら、私たちは、その権威を表わす地位とその権威が代表している者に敬意を表わす態度を保つことはできるし、またそうすべきである。
先週も見たが、その典型的な例としてダニエル書の話がある。ネブカデネザルは偶像礼拝をするように命じた。即ち自分の像を拝むように命じたとき、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは「私たちはその命令に従うことはできません」と言った。その命令を行なうことはできないが、「革命しよう」とも言わないで、ネブカデネザルに十分な尊敬を払いつつ、その命令に従うことはできないと告げたのである。その結果、死刑を言い渡されたが、死刑が執行されたとき、神は燃える火の中にいる彼らを救ってネブカデネザルを叱った。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴにとっては、神の権威が第一であり、神のしもべの権威は神の下にあるものであった。彼らは、「人間よりも神に従うべきである」という原則に忠実であったのだ。それ故、神のしもべが神に逆らう命令を発する場合は、尊敬の態度を保って「いいえ。私はその命令を行なうことはできません」と答えるほかない。
権威は神に逆らうために与えられるものではない。権威の座にある者が誰であろうと、神に従わないように私たちに命じる場合はいつでも、その権威に抵抗する義務が私たちにはあるのだ。しかし、それは暴力的な革命を意味するものではない。抵抗する時の心の態度が問題なのだ。新約聖書の使徒行伝の中にも同じことが出て来る。神殿の権威者であるパリサイ人たちはパウロたちに「説教するな。イエス・キリストの名によって福音を語るな」と命じた。それに対して使徒たちは、「人に従うより、神に従うべきです」と答えている。その時も弟子たちは権威に立つ者に対して尊敬を払っていた。自分がどんなに勇敢に逆らうかを見せびらかすような態度はいっさいとっていない。「私たちは神に従わなければなりません」と、丁寧に正しく説明しているのである。そのことが使徒行伝の5章に出て来る。
逆らうなら、それは神に逆らうことなのだ。その原則はここで明らかである。政府に従うとき、私たちは神に従っているのである。それが最終的なポイントである。この世のどの権威であれ、それに従うとき、それは神に従っていることになる。神に従う心を持って生きるなら、子どもたちが「私は神に従いたい」と言うなら、「父と母に従いなさい」という話になる。この世にあって神が与えた権威に従うことによって、私たちは神御自身に従うものなのだ。同じ原則において、「権威ある者が神の命令に背くような命令を出した場合は、その命令に従ってはならない」ということが原則になるわけである。パウロの命令から間接的にその原則が導き出されるのは明白だと思う。
もう一つ考えておかなければならないことがある。1節でパウロは「上に立つ権威者たち」と言っており、「権威者」が複数形で語られていることについては既に話したが、もう少しその点について考えたいと思う。複数であるということは、神のしもべとして権威を持つ人たちの一人一人が、各々その立場にあって権威を働かせるものだということを意味している。そのために、時折、権威を持つ者たちの命令が異なってくることがある。A氏の命令とB氏の命令が違ったものになる。そのような場合、どちらに従うべきかを考えなければならなくなる。その時私たちは、どちらが神の命令を守っているのかを注意深く見て考えたりしなければならない。御言葉の知恵をもって判断しなければならない。
実際の歴史の中では、私がよく知っている例として、アメリカの独立戦争がある。それを「アメリカ革命」と呼ぶ人もいるが、いわゆるアメリカ革命と呼ばれるものは「革命」ではなかった。どういうことかというと、アメリカの東部13州はそれぞれにイギリスの王と直接に契約(勅許)を交わした植民地として、直接国王の下にあり、自治権を持つ州政府のようなものであった。13の州は、イギリスの議会とは全く契約関係を持っていなかった。王との勅許の中には政治構造のすべてが記されていた。そこへイギリスの議会が税金を要求してきた。王から直接に権利を授かっていたアメリカのリーダーたちは決議のうえでイギリスの議会に対して、「我々はあなたがたと何ら法的な関係は持っていません。従って、議会に税金を治める義務もありません。私たちの税金は私たちがこの地で使います。あなたがたには支払いません」と、13州で権威を持つ者たちが、英国議会で権威を持つ者たちに答えた。英国議会がアメリカに税金を課す法的権威があるとは思わなかったからである。
その結果、イギリス議会は服従を強要するために軍を派遣したが、アメリカの指導者たちは戦うことを決議し、自分たちで軍を作って自分たちを守った。合法的な権威に従ってそうしたのである。アメリカの独立戦争を2〜3分で説明することはとても単純すぎるけれども、基本的にそのようなものであったと考えなければならない。つまり、何も正しく権威を持っていない者たちが大勢集結して「やらない」と決めて権威に対して目茶苦茶に逆らったというような話ではないのである。正式に権威を授かったリーダーたちが、「私たちはイギリス議会に対して税を支払う義務はない。もしも議会に対して税金を支払わねばならないと言うなら、私たちは議会に私たちの代表を送る権利があるはずだ」と主張したのである。
イギリス議会の中にも「そのとおりだ」と支持する人たちがいた。エドモンド・バークはその一人で、彼は「フランス革命についての省察」等の著作の中でフランス革命を深く批判した人物として有名である。ハラルド・ラスキはエドモンド・バークについて、「バークは政治家が必ず身につけるべき政治的英知の不朽の手引きである。彼から学ばない政治家は、海図を持たずに航行する水夫も同然である」と称賛している。エドモンド・バークはアメリカ独立戦争とフランス革命という激動の時代に政治家としても影響を与えた人物であるが、その彼がアメリカの独立戦争を支持し、フランス革命を弾劾した。つまり、フランス革命とアメリカ独立戦争はまるで異質のものであったということが彼の鋭い批判によって明らかにされている。
イギリス議会の著名なリーダーの一人であった彼が言っていることは実にそのとおりであったと考えてよい。そうであれば、イギリス議会に従わなかった人々は、権威に逆らったのではない。彼らは知恵をもって、与えられた権威に従って行動したのである。アメリカ独立戦争は、イギリスでは「長老教会戦争」とも呼ばれていた。長老教会のリーダーたちは、「イギリス議会は間違っている。私たちはそのよくない考えに従うのでなく、アメリカにいる権威者に従うべきです」と考えたのである。
そういう意味で、複数の権威者がいるときに、そしてその命令が対立しているときに、私たちは、どちらに従うかを選択しなければならない状態に置かれる。複数の権威からの命令が矛盾するとき、私たちは人よりも神に従わなければならないからである。
地位の低い為政者たちも神のしもべとして立てられており、権威者である。その為政者たちも神に対して責任を負っている。そのような時、クリスチャンは識別力をもって、どちらの権威が正しいのか、どちらに従うべきかを判断して、選択して従うほかない。権威に従うという原則の意味をぜひここで理解してほしい。権威を与えられた者たちは、王の下に立つ者の場合は、王が正しくない事を行なっているときには、自分は与えられた権威において違う事を行なわなければならない。たといそれが自分の命を失う事になるとしても、不正に加担してはならないのである。「私はその命令に従うことはできません」と言って、別の命令を発しなければならない。「自分も神のしもべだから」という問題になるわけである。
権威を持っている者たちは、ただ他の権威者たちに言われた通り行なうのではないケースがあるわけだ。それ故、複数形で「権威」について命じていることには深い意味があり、重大なことなのだ。そして、「実際の法律はどうなのか」「その権威者にはどのような権限が与えられているのか」などの細かい話になっていくわけである。そういうわけで、パウロがここで複数形を使ったことの意味について昔から多くの論議がなされている。そして「権威者同士が矛盾した場合にどうするべきなのか」という点がカルヴァン主義者たちの政治哲学の中における大切なポイントとなっている。「悪い政府、罪を強要する政府、人々を抑圧する政府を取り扱う原則はここにはないのか。ただ従うしかないのか」というと、明らかにそうではないということをここに見ることができると思う。
そういう意味でローマ人への手紙13章1節から7節の箇所は、聖書の中で私たちに基本となる考え方を広く与えてくれるところである。ここに書いてある原則は、私たちの日常生活全体において広く鳴り響くものであり、社会全体を変え、社会全体を決めるような大きな意味を持つものである。書いてあるのは僅か7節だが、人々が本当に権威を敬い、命令に従い、善を行ない、そして国家が善と悪の区別を義なる神の御言葉を基準としてもって悪を裁くなら、実に祝福された社会となるのだ。今朝読んだ詩篇81篇にあるように、「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう」と、神は言われる。神は最良の小麦を御自分に従う民に食べさせてくださる。これは約束を伴った原則なのだ。
その重大な原則についてパウロはこのローマ人への手紙13章で教えているが、私たちの毎日の生活において「国の命令に従う」ということを考えるとき、税金を納め、道路交通法を守り、犯罪を犯さない等、ごく当たり前なことしか頭に浮かばないだろう。法律を守るなら、国家とは直接的な関わりはほとんどないはずである。教会の権威も家庭の権威もそれと同じ原則なのだ。従う者が尊敬の念をもって権威に従うなら、システム全体は成り立ち、そして祝福されるのである。従うべき者が従わずに逆らって問題を起こすなら、システム全体は成り立たず、よく機能しなくなる。
導く者が知恵をもって導くことが要求されるのは当然であるが、国家と同様に家庭でも、父と母がいて、三人とか五人の子どもがいるなら、その中の一人の子どもが何かにつけ逆らって協力しないなら、その家庭の秩序を保つことは非常に困難となるのだ。一つの家庭の中で、従うべき者が従ってくれなければ、システム全体は機能しなくなる。これは国のレベルにおいても原則は全く同じである。ここで抽象的な話をしているのではない。家庭でも同じ原則であり、教会でも同じ原則なのだ。それだから、「従いなさい」という命令でパウロの強調は始まっている。正しい権威に従いなさいと教えている。
「従わないなら、神に逆らっているのだ」とパウロはローマの教会に言っているが、この命令は私たちに対しても語られているのだ。逆らってしまうなら、それは神に逆らうことなのだ。だから、本当に一人一人がへりくだった心をもって神御自身に従う者として毎日の生活を送らなければならない。どのグループに入っているにしても、従順をもって周りの人々の祝福を求めるべきである。権威に逆らって革命的な行動をとろうとするなら、周りに対してとんでもない悪い影響を与えることにしかならない。
私たちは罪人なので、どの領域においても、へりくだった心を持ち、従う心を持って、素直に神から与えられたリーダーたちに従うことがなかなかできない。その事のためにも神は私たちに聖餐式を備えてくださったと言える。私たちは神の御前で、神から聖餐式を与えられて、神との契約を新たにする。この時に私たちは、本当に心から自分の罪を悔い改めて、神御自身に目を留め、神から与えられたリーダーたちに従い、喜んでともに「神の御国のために実を結ぶ働きをしよう」という心を新たにするものである。その心を持って一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2002年2月3日――