2002.02.10. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
税を納め、敬いなさい
13章5〜7節
5ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。6同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。7あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
ローマ人への手紙13章でパウロは、政治的権威に関するクリスチャンの見方について幾つかの根本的な課題を提示しており、三週間に渡ってその広い意味について見てきた。社会が健全であるためには上下関係が重要なのは明白なことであるが、意外なことに、パウロは政府において権威が与えられている人たちを「神のしもべ」と教えている。「私たちは、政府に対しても、神が与えた他の権威に対しても、尊敬の心を持ってその権威に従うべきである」と教えているのである。偶像礼拝と邪悪に満ちた当時のローマ帝国においてさえそうでなければならないと言っている。
この教えは、国家や為政者たちが神によって与えられた契約的組織であることを立証するものである。それは家庭や教会と同様に、社会の中で特別な地位を持つものとして見做されるべきなのだ。ビジネスのリーダー、教育者、医者、弁護士などもみな社会の中で重要な地位を占めており、広い意味においては神のしもべと呼ぶことができよう。しかし、神を無視して歩むノン・クリスチャンの医者やビジネスマンには何も特別な権威は与えられていない。家庭と教会と国家には、信仰の有無によらず、また自分の働きの性質を認識していようといまいと、神の御前に特別な地位がある。
さて、人類には三つの契約的組織が与えられていると聖書は教えている。それは政府(国家)、教会、そして家庭である。それらは、神が与え、神が作ってくださった組織である。例えば家庭における一夫一婦制も親子の関係も、神の創造の時から設立されたものである。神は人類をアダムとエバに創造した。即ち、一人の男性と一人の女性を創造してくださったのだ。そして、その二人は一心同体の夫婦となり、その夫婦によって子どもたちを与えてくださった。親子の関係は最初からそのように神が定めたものであった。家庭に権威を与えたのは神であるから、子どもたちが自分の父と母に従うとき、それは神に従っているのである。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神に対して逆らっていることになる。
父と母は、子どもたちに対して不公平な裁きをしたり、虐待したり、悪いことをするなら、神の代表としての立場を汚し、子どもに対して罪を犯すことになる。そして、子どもはそのような親を見るとき、神に対して誤解を持ったり、疑ったり、神に逆らう者になったりする。父と母が正しくその権威を用いないなら、子どもを神に逆らう者となるように導くことになる。親が悪い支配をするとき、子どもたちを悪に導くことになる。エペソ人への手紙6章4節でパウロは、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と父親に命じている。その意味は、「悪い支配をするなら、支配の権威に立つ者は支配される者に悪い影響を与えることになる」ということである。
これは教会においても同じことである。教会の長老たちと教会全体の組織は神が与えたものである。神が与えたものなので、教会員は自分の教会の長老たちに対して尊敬を払わなければならない。私たちの教会は子どもが多いが、父親と母親たちは自分たちの足りなさを十分に感じている筈である。失敗もするし、どうしていいのかわからないこともある。間違った判断をしてしまったこともある。父と母は、自分が導いているところにおいて失敗することがある。しかし、自分の子どもたちに教えるときには、モーセの十戒を引用して「父と母を敬いなさい」という命令を繰り返し教えなければならない。それを教える時にはきっとこう付け加えるだろうと思うが、「お父さんは尊敬を受けたいからこのことを教えているのではない。これは、あなたの為に教えているのです。あなたが私を尊敬することを学ばないなら、あなたが害を受けることになるのです。私は尊敬されたくて仕方がないのではない。私のような足りない父親ではあっても、あなたが父である私を尊敬しなければ、あなたが駄目になるのです」と、父母は子に教える筈である。
同じように、足りない長老たちであっても教会員たちは尊敬しなければ「だめ」ということなのだ。同じ原則なのである。長老たちは足りないものである。私たち三人の長老はいろいろな点において判断が甘かったり、間違ったりするであろう。だからと言って尊敬しなくてもよいというわけではない。神が任命してくださった政府についても同じ原則が適用される。神が政府という組織をお造りになり、政府で働く人たちをパウロは「神のしもべ」と呼んでいる。本当ならローマ人への手紙13章を気を付けて読んでくれるならば、政治家たちや官僚たちも「そうか。私たちは神に仕える者なのか」ということを悟らされ、その認識をもって「真の神を恐れる心をもって正しく支配しないなら、私は裁かれる」ということに気付くはずなのだ。彼らはその責任から逃れることはできない。政治をつかさどる者たちは、自分たちが神の特別なしもべであることを認識し、その恐れを持たなければならない。それは政治家と支配者たちの責任である。しかし、ここでパウロは、神が任命した組織とその中で権威をもって働く者たちに対して、尊敬を払い、彼らに従うべきだと教えている。
そのように三位一体なる神は人間社会に基本的な組織を与えてくださった。あくまでも上下関係があるものとして与えてくださった。その上下関係を壊すなら、何一つ良いことは無い。悪いことにしかならないのだ。共産主義について先週少し話したが、共産主義の政治よりも独裁政治よりもずっと悪い状態がある。それは無政府状態である。無政府状態こそ一番悪い状態なのである。「独裁政治が良い」と言っているのではない。「無政府状態よりはよい」と言っているのである。
神を恐れて義を行ない、毅然と悪を裁く、そのような政府が一番良い政府である。しかし、その政府は何によって支えられるのか。先週も話したが、教会も政府も、何によって支えられているかというと、人々が尊敬をもって従ってくれることによって支えられるのである。13章5節でパウロは、「ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです」と言っている。その意味は、今も言ったように、「神が設立した組織なので、神に対する恐れ、神に対する信仰、神に対する愛と忠実をもって、神が与えた権威に従うべきだ」ということである。
「たまたまこの状態になったのだから、仕方がない。従うしかない」というのではない。「これは神が与えた状態なので、神に信頼して、神を恐れて、神に対する感謝をもって、神が立てた権威者に従います」というように考えなさい、とパウロは教えている。「良心のためにも」とはそういうことなのだ。「支配者を恐ろしいと思うのは、悪を行なうときです」とパウロは言っている。恐れのゆえに従う人がいる。「盗みをしたいけど、捕まったら大変だからやめよう」という動機でやらないのではだめなのだ。「盗んではならない」と神は命じておられる。「神がそう命じているので、私は盗まない」というのが正しい動機である。「神がこのように教えておられるので、私はそれに従います」というのでなければおかしい。神に対する思いを持って、神が立てた権威者たちに従うようにパウロは命じているのだ。
必要悪ではない
従って、国や地域の政治的権威に対する従順は、ただ単に仕方がないので人間の“しきたり”に合わせるというものではない。西洋というよりも特にアメリカには、政府に対し、政治に対し、「それは必要悪だから」という思いを持ってしまう傾向がある。日本にもそう考える人がいると聞いている。英語では"necessary
evil"という言い方になるが、「それ自体良いこととは思わないが、必要なことだから、仕方がない」という感じで政府の事柄について考えてしまう傾向がある。
クリスチャンも例外ではない。あまりにも多くのクリスチャンが、政府をあたかも単なる必要悪であるかのように考えてしまっている。しかし、それは絶対に聖書の教えではないのである。それを考えるとき、第一サムエル記8章や今朝交読した詩篇82篇などが思い起こされる。特にアメリカではクリスチャンたちは政府の圧政について警告している第一サムエル記8章10〜18節を好んで引用している。第一サムエル記8章は、イスラエルが王を求めたのに対して、サムエルはイスラエルに警告を与えたという有名な箇所である。まず4〜5節を先ず見てほしい。
そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
「王を立ててください」という要求が問題なのではない。「ほかのすべての国民のように」と言うところが問題なのだ。イスラエルがそのように求めたことに対してサムエルはがっかりしたことが6節に記されている。そこでサムエルは、その事について主に祈っている。7〜9節で、神はサムエルの祈りに答えて次のように仰せられた。
主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
「王の権利を彼らに知らせよ」と訳されているが、「王の権利」という訳にはやや問題があると思う。しかし、サムエルの祈りに対して神が「イスラエルはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのである」と答えている点に注目すべきである。イスラエルは、いつも自分たちに与えられているリーダーたちを敬わない。エジプトを出た日からずっとブツブツ言うばかりであった。「モーセでは駄目だ」と言い、「アロンも駄目だ」と言う。実にイスラエルは、その後に与えられたリーダーたちをも「駄目だ。駄目だ」と言うのである。
モーセの場合、モーセを非難する者たちの方こそ駄目だということは簡単にわかると思う。アロンは実際に大変な失敗をしたので、非難されても仕方がないであろう。しかし、それは罪人の常なのだ。「これも駄目。あれも駄目。あの人もよくない。この人もよくない」と、言うのは簡単なことである。他人を批判するのは難しいことではない(正しい批判をもって相手の徳を高めることは、また別の話である)。リーダーたちの足りなさや欠点を見つけるのは難しいことではない。教えられなくても誰にでもできることだ。イスラエルはずっと逆らい通しであった。「わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった」と神は言っておられる。
それは二つの事において表わされている。私たちは荒野の中のイスラエルからその原則を見ることができる。神が立てた権威に対して逆らうことが偶像礼拝にもつながっているのである。その事は何度も、荒野のイスラエルにおいても、他の時代のイスラエルにおいてもはっきりと表われている。ここでイスラエルが「周りのすべての国民と同じように、私たちも王が欲しい」と言うとき、「神の命令に従って生きるよりも、この世の王のような人物が欲しい」と言っているのだ。それに対して神は、「王がどのような者になるのかをイスラエルに知らせて、厳しく警告しなさい」とサムエルに言う。10節から18節までのところを見てほしい。
そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
つまるところ、「イスラエルがこの世の国々のような王を求めるなら、神は、この世の王と同じような王をイスラエルに与えるであろう」ということを説明しているのである。先に触れた11節の訳の問題だが、新改訳では「あなたがたを治める王の権利」と訳されているが、この訳は少し違うと思う。ここで神が言っておられるのは「権利」の話ではない。新共同訳も「権能」と訳しているが、これは「権能」の話でもない。英語では「このように支配する」としか訳されておらず、原語は「王はこのようなことをする」である。口語訳と文語訳では「ならわし」という訳になっているが、その訳の方がよいと思う。口語訳では「あなたがた治める王のならわしは次のとおり」とあるが、それがポイントである。権利でも権限でも権能でもない。これは警告なのである。警告するところで権利の宣言はない。「こういうことになる」という警告の言葉なのだ。
王たる者は、自分に与えられた支配の地位と権威を悪く使ってしまう傾向があり、当時の周りの国民はまさにそうであった。この箇所は、「その状態がイスラエルにももたらされる」という厳しい警告であった。今日交読した詩篇82篇でも、「国をさばく者たちが正しいさばきをせず、孤児や貧しい弱い者たちを助けず、悪者の側に立つような支配をしている」と、ダビデが神に訴えている。それ故、確かに王や権威者たちが悪い者となって、極めて悪い影響を社会に与えてしまうことは十分有り得ることだ。そのことを警告する聖書箇所はたくさんある。それらが書かれたのは、そうならないように諭して教えるためである。
確かにイスラエルは王を求めたことによって自分の上に問題を招いたし、サムエルは「そのような中央集権の政府を持つことは彼らにとって重荷となり、いずれ神の助けを叫び求めるようになる」と警告したのも事実である。しかし、だからと言って、政府というもの自体が悪であると考えるなら、我々は早まった結論を下しているのである。このことを覚えて、私たちは「政府はどうあるべきか」ということを学ぶべきである。真剣にそのことを考えるのは良いことである。しかし“必要悪”という思いに走ってはならない。権威者や支配者のことを、パウロは「神のしもべである」と言っている。神のしもべなら、神の律法を守ることによって国民を助け、救い、裁く責任がある。それがローマ人への手紙13章の教えである。
しかし、第一サムエル記の8章の箇所だけが強調されてはならない。聖書には第一サムエル記の8章しかないわけではないので、その反対のことを教える個所も見なければならない。政府の危険性に関して警告する箇所のほかに、聖書には性的誘惑や支配者のもてなす食事等の危険性について警告する箇所もある(箴言23章1〜3節)。アルコールについて聖書を引用するとき、箴言の中にある「酒を飲む者はこうなる」というような警告の箇所しか引用しない人が多い(箴言20章1節、21章17節、23章20〜21節、31章5節、etc.)。確かにそのような箇所はある。それを読んだ彼らは、「お酒は危険なものだ。悪いものだ。だから警告されているのだ」と言う。同様に、「セックスも危ない。だから警告されている」と言う。
こういった警告は、性行為そのものが必要悪だとか、食物やアルコールは必要悪だと教えているわけではない。大食いは偶像礼拝につながる一つの形態であるのは事実だが、だからといって、美味しい食物を楽しむことが悪だという意味にはならない。実は、祝福はすべて危ないと言えば危ないものなのだ。食べ物についての警告が箴言にあるから「では、食べるのをやめよう」というような運動は教会史にはないと思う。すべての祝福はある意味で危険なものだ。水を飲みすぎて死ぬ者もいる。食べ物が美味しすぎるために、食べ過ぎて病になったり、死ぬ者もいる。食べ物も危ない。お酒も危ない。お金も危ない。すべての良いものは正しく受けないなら危ないものなのだ。
神は犠牲制度を命じられたが、その中で、ユダヤの人々は御馳走を作り、和解のいけにえで彼らのものと定められていた部分であるロースト・ビーフと小羊の肉を食べながら、ぶどう酒や強い酒を飲むように命じられていた。神は御自分の民が御自分の御前で楽しむことができるように、香ばしいかおりをも創られたのだ。しかし、すべての良きものは悪用され得るものである。テモテへの第一の手紙6章9〜10節でパウロが次のように警告しているではないか。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
では、金銭は悪いものなのだろうか。いいえ。「金銭がすべての罪の根だ」とは言っていない。「金銭を愛することがすべての罪の根源だ」と言っているのである。これは偶像礼拝の話なのだ。どんなものに対しても、私たちは偶像礼拝のような心を持ってしまう危険はあるのだ。どんな良いものでも、むさぼる心でそれを求めるなら、それは偶像礼拝になる。だから聖書の中で警告される必要があるのだ。「警告されているから、そのもの自体が悪いものだ」という理解は全くおかしいのである。問題は心にある。神に対する心が問題なのだ。警告するのは、それを悪く使うならどんなに危険なものかということを教えるためなのである。
理想的ではないリーダーたちへの従順
政府について考えるとき、当然その足りなさや間違いに気が付く筈である。私たちは民主主義的な時代に生きているので、政府を批判することが許されている。投票によってリーダーを変えるシステムになっているので、公然と議論をして、何が正しいのか何が正しくないのか、その方法でよいのかよくないのかについて議論したり話し合ったりする。それは良いことと思われており、またすべきことと思われている。民主主義とはそういうものである。投票は権利であるとともに責任でもある。特に地域社会の中で、すべきこととすべきでないこと、正しいことと正しくないことを議論し合い、識別力を持って考え、更に地域にとって良いことを求めていくのは、良いことである。
しかし、リーダーたちは足りないのも事実である。期待されるリーダーが選ばれても、その人もまた足りないのだ。ダビデも足りなかったし、ソロモンも足りなかった。ペテロでさえ教会のリーダーとして足りないところがあったのだ。足りなくない者は一人もいないのである。その足りない人間を尊敬できなければ、あなたは神に逆らう人生しか送ることはできないであろう。子どもたちも、「自分たちの親は足りないから、尊敬できない」と思うなら、神に逆らう以外に道はないのである。「教会のリーダーたちは足りない」と思うなら、教会を変えてもよい。転会することは罪ではない。しかし、どんなに教会を変えても、どのような教会に行っても、また誰の下に置かれても、「あの人は足りない。あの人は駄目だ。彼も足りない」と言ってばかりいるならば、「足りないのはあなただ」ということになる。何が足りないのかというと、何よりも神に対する恐れが足りないのである。あなたがリーダーになったら、あなたは足りると言うのか。そんなことはないのだ。
私たちは権威あるいかなる地位に就いている人でも、私たち自身と同様に欠点や弱さをもった罪人なのだという事実を認めなくてはならない。国家に劣らず、家庭でも、また教会でも、私たちは相応しくないリーダーたちにも自分を従わせなければならない。その相応しくない人々こそ、神が私たちに与えてくださった掛け替えのない人々なのである。だから、「足りないリーダーであっても尊敬できなければだめだ」という原則は、政府においても、教会においても、家庭においても、何ら変わりはないのである。理想にほど遠いから尊敬できないと言うなら、あなたこそ神に逆らっているのである。それだから、この点において私たちは本当に気を付けなければならない。
「尊敬を払う」ということについては、家庭の中でも、教会の中でも、国家の中でも、そのやり方は違うものである。場所によっても尊敬のやり方は違う。大統領に選ばれた人に対しては、アメリカでは決まった言い方がある。その決まった言い方をすることによって、大統領に対する尊敬は必然的に含まれる。教会によっては、牧師を「先生」と呼ばなければならないと考える教会もある。そのような教会に行けば、牧師を「先生」と呼んでよい。しかし、この三鷹福音教会ではそのように呼ぶ必要はない。むしろ「先生と呼ばないでください」と私はいつもお願いしている。それはこの教会の言わば「ならわし」である。家の中で父親をどう呼ぶのかも、その家庭によって違うものである。「父上」と呼ぶ家なら、そう呼べばよい。自分の父と母に対しては、父と母が教える習慣に従って尊敬を払うべきだと思う。
その人に向かって話したり、その人について話したりするとき、批判するときであっても、尊敬を払うべきである。実は、クリントンに対しては、尊敬を払いながら批判することは私にはとても難しかった。そして、私自身行き過ぎた点もあったと思う。問題がある場合、その地位に対して尊敬を払いながらも、言うべき批判は言わなければならない。そのところをしっかり守ることが重大なことなのだ。パウロも使徒行伝の中で行き過ぎたことがあった。大祭司だとは知らずにその人を叱ったときに、側の者が「あなたは神の大祭司をののしるのか」と言ったので、パウロは「私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書いてあります」と言って謝罪しなければならなかった場面がある(使徒行伝23章1〜5節)。言い方が問題なのだ。その地位の人間に対しては、たといその人が罪を犯して悪いことをしたとしても、どのように言うかが問われるのである。尊敬を払いながら言うのと、対等であるかのように言うのでは話は違うのだ。そのことが使徒行伝でもそのまま記されている。これは神の命令であることを私たちは恐れをもってしっかりと覚えなくてはならない。
私たちは、神が立てた権威に対して尊敬をもって歩まなければならない。確かに政治家たちが大変な権威を持つときに、彼らはそれを曲げて悪く使ってしまう傾向がある。父親も母親も大変な権威を神からいただいているが、それを悪く使ってしまう危険性がある。長老たちにも神から与えられた権威があるが、それを悪く使ってしまう心配はある。誰であっても、地位が与えられて権威に立つときに、権威を正しく使うかどうかは試されるところである。「自分に神からの権威が与えられたということは恐ろしいことである」ということを、父親と母親たちは思うべきである。「私は父だから、やりたいようにやる」とか「私は母なのだから、やりたいようにやる」というものではない。
権威は神から与えられている。そして、責任も神から与えられている。これは恐ろしいことなのだ。これは長老たちにしても同じであり、政府のリーダーたちも同じように考えるべきである。政府に従うべき私たちは、神に従う者として、神に対する恐れを表わす者として、神が立てたその権威に従わなければならない。しかし、第二サムエル記23章1〜7節を見てほしい。ここにダビデの最期のことばがある。ここに、なおざりにされている政府についての見解が示されている。
これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。よこしまな者はいばらのように、みな投げ捨てられる。手で取る値うちがないからだ。これに触れる者はだれでも、鉄や槍の柄でこれを集め、その場で、これらはことごとく火で焼かれてしまう。」
これはダビデの最後の詩であるが、「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ」とダビデは歌う。ダビデは義なる王を朝の太陽にたとえている。良く治める者は、どれほど大きな祝福を自分の国にもたらすかを歌っているのである。すばらしい王、すばらしい国家リーダーたちは、どんなに大きな役割を果たしていることか。どんなに素晴らしい役割を国のために果たしてくれることか。だから、政治そのもの、あるいは政府そのものが悪いという思いはそこには全く無い。義をもって治める者は、朝の太陽のように上るのである。
同じように、悪い父親は家庭に対してどれほど害を与えることか。そして、良い父親はどんなに大きな祝福を家庭にもたらすことか。悪い牧会者たちは、どんなに悪い影響を教会に与えることか。良い牧会者はどんなに大きな祝福を教会に与えることか。「権威を持つ」ということは、「人々に祝福を与えるため」であって、人に祝福を与える「光」でなければならないのだ。政府もそうである。第二サムエル記23章でダビデはそのことを歌うのである。「剣を帯びている」政府のリーダーたちは「神のしもべ」である。国の権威者たちは“義のしもべ”となる特別な機会が与えられている。彼らは社会に祝福をもたらすことができる。
そのようなビジョンや目的を持つリーダーがあまりにも少ないという事実を見るとき、政治を忌み嫌うのではなくて、義なる政府を求めて祈る動機を与えてくれる筈なのだ。そのしもべが良くないしもべであるとしても、それは神のしもべであって、あなたのしもべでもなければ、私のしもべでもない。私たちにはそのしもべを蹴飛ばしたり追出したりする権利はない。しかし、そのしもべの主人である神に訴えることはできる。切実な祈りをもって天にいます主人に訴えることが私たちには許されている。けれども、直接そのしもべを裁くことはできない。このことについては新約聖書のユダの手紙8〜9節のところを見てほしい。そこには驚くべきことが書かれている。
それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。
天使の頭であるミカエルは、悪魔との戦いにおいても、直接悪魔を叱ったりすることはできないのである。悪魔はもともとケルビムの中で最も高い地位が与えられた者であって、ミカエルはそういう意味で悪魔を直接叱るよりも、「主があなたを戒めてくださるように」と言わなければならない。8節では、「悪い者たちは権威ある者を軽んじる」とあるのに、御使いの長であるミカエルは、悪魔に与えられた権威さえも尊んでいるのである。悪魔の邪悪に対して、叱って当然のことについても、敢えて罵ったり裁いたりせずに、「主があなたを戒めてくださるように」と言うのである。
この意味がわかってもらえるだろうか。よく理解していただきたい。「私のリーダーは悪魔です」と言わなければならないにしても、権威に対しては相応しい言い方というものが要求されるのである。批判として口にしてはいけない言い方と、口にしてもよい言い方があるのだ。そこにはやり方がある。正しいやり方と正しくないやり方の区別というものがある。革命的なやり方は許されない。尊敬を保ちながら、相応しい言葉をもって批判すべきところを批判しなければならない。
私たちの上に立てられたリーダーたちについて、あまりに文句や悪口を言い過ぎてるならば、よくよく気を付けなければならない。それは、御自分の祝福を出し惜しみにしていると神を責めていることになるからである。それは、エデンの園でアダムとエバが犯すように誘惑された罪に他ならない。「神はもっと大きな祝福を彼らに与えることができたのに、自分勝手な理由でそれを与えずに取っておいたのだ」というのがサタンの誘惑の真意であった。
荒野のイスラエルもこれに似た態度を繰り返し露呈していた。神に信頼し、神の方法が最善であることを信じるのではなく、自分を知恵ある者としているのである。そのような者らは、神の導きが自分の思いと合致しなければ、すぐにつぶやくのである。その思いは心の中にあって増長し、神の摂理に逆らうようになる。彼らは、神が立てた“相応しくない”――と言っても、実際にはかなり優れた――リーダーたち、モーセとアロンを拒んだ。しかし神は、モーセとアロンを拒むことは神御自身を拒むことであると仰せられたのである。
良心と税金
5節に「良心のためにも、従うべきです」とあるが、これは、「いかなる権威であれ、権威者を見るときには、その後に神が立っておられることを覚えなければならない」ということであり、その人が悪を行なっているのであれば、尊敬を払いつつ、神に訴えるべきである。民主主義では次の選挙の時に他の人が選ばれるように働くということにもなるだろうが、その場合はあくまでも一時的な権威に対するものであって、父や母の権威とは違うわけである。子どもたちが投票運動を起こして父親を他の人に置き換えることはできない。全然話が違うのだ。だから、父親や母親に対しては、払うべき尊敬を払いながら、「主よ。どうか父と母の成長を助け、導いてください」と祈るほかない。子どもたちよ、是非ともそのように祈っていただきたい。
そういうわけで、「良心のために尊敬をはらう」ということには、「神が立てた権威は本来は良いものである」という前提がある。彼らは朝昇る太陽のような権威者に成り得る者なのである。豊かに祝福を下の者に与えることができる立場にある。政府がなければ、国家は決して成り立たない。悪い者や強い者たちが奪い合い、正しい者はいつも被害者になってしまう。あちらこちらで悪をなす者たちは相集まって、殺したり、盗んだり、やりたい放題その欲に任せて悪行のかぎりを尽くすことになる。実際に歴史の中には、場所によってはそのような状態に陥ってしまう時代もあった。「悪いことがしたい」という思いを持たない人たちは皆、とんでもない被害者になってしまう。政府があるからこそ、私たちは今日のような生活を続けることができるのだ。特に日本にいる私たちはそうである。
不満はあるかも知れないが、アメリカ、日本、西欧諸国などは、人類歴史のすべての時代の中で最も祝福された状態の中にある。経済的にも、政治的にもそうである。どうしてこのような経済が成り立っているのかというと、法律や裁判制度や政府の官僚のあり方などが機能しているからである。「足りない所がたくさんあるではないか」と問うなら、答えは「その通り」である。「もっと良くなるのだろうか」と問うなら、答えは「ずっと良く成り得るはず」である。私たちは、与えられている状態を感謝しつつ、もっと良くなるように熱心に神に求めるべきである。ブツブツ言うだけで良くなることを求めることはできない。ブツブツ言うだけでは何一つ良くはならない。
与えられたことを感謝を持って受け止めるなら、本当の意味でもっと良くなることをも求めることができる。感謝なきところに真の成長と発展はないのである。それ故パウロは、単に政府が与える罰を恐れるという理由からではなく、「良心のためにも、従うべきです」と教えている。もし政府のリーダーたちが神によって立てられていることを知っているなら、もし彼らが神のしもべであることを――彼らが知っていようがいまいが――知っているなら、これらの権威者に対する私たちの従順は神ご自身に対するものである。足りないからと言って従わないなら、自分を駄目にすることになる。
5節で「良心のためにも、従うべきです」と言ってからパウロは、6節で「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです」と言っている。つまり、国が良い者を祝福して悪い者を裁くために、私たちは税金を納めているのである。だから「納めなさい」ではなく、「納めている」と言うのである。税金を国家に納めるのは、国家が悪を裁くことができるためである。悪を裁くことによって、良い行ないができる環境を守るためである。その環境を守るなら、良いものは必ず育つのだ。悪い草を取り除けば、良い木は実を結ぶようになる。
税を納める目的について諭してから、続いてパウロは「彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです」と言う。実は、税務署で働いている人たちも神のしもべなのだということは、痛くても、覚えておかなければならない事実である。取税人は神のしもべなのである。パウロの時代にあって、その事を言うのは実に大変な話であった。日本においても、税金を徴収する働きをしている人たちが何か法を破って、取り過ぎたり、変に取ったりすることが全く無いとは言えない。しかし、それは目立ってある事ではない。毎日のように新聞に記事が載るほどのことはない。しかし、昔のイスラエルでは、取税人たちは、定められた税金の額以上のものを取ればそれは自分のものになったので、取税人たちは出来るだけ多く取ろうとして、多くの悪事を働いたものである。
罪人と取税人は、聖書の中でもいつも同列に置かれているほどである。それこそ、ヤクザとか売春婦と同一レベルに並べられる人たちであった。新約聖書に取税人の頭のザアカイという人の話が出て来る。ザアカイが木に登って主イエス・キリストを見ようとしていた時、主イエスは彼の名で「ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われた。彼は喜んで主イエスを迎え、立って「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」と言った。その言葉からも、当時の納税システムには深刻な問題があったことがわかる。不正に取った額は生半可なものではなかったのだ。
そのような状態の中で、パウロは、「取税人も神のしもべだ」と言うのである。私たちの時代は当時よりもずっと公平な納税システムになっている。面会する官僚によって毎年納める税額が変わるようなこともない。大学受験の子どもがいるかどうかによって税額が違ってくることもない。だから、私たちの時代で税務署の役人たちを「神のしもべ」と考えるのはローマ帝国の時代より難しいわけはないと思う。私たちは彼らに敬意を払い、必要以上に払うのではないが、払うべきものを払わなければならない。政府の権威者に税を納めるのは、その社会がうまく機能するために必要な保護を提供し続けるためには絶対不可欠である。税金は国家を支え、そのリーダーたちが神のために奉仕するのを支えるものなのである。
先にも話したように、圧政的政府は悪であるが、無政府状態ははるかにひどい悪である。ただ単に無政府状態の悪に対する恐れから政府に従って税金を納めるなら、それは「恐れのゆえに従う」という一形態になるだろう。政府が社会に仕えるものであることを知るがゆえに、私たちは、敬意を払って税金を納めるべきである。しかし、そのことをすぐに忘れてしまいがちだと思う。続く7節でパウロはこう命じている。
あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐れるべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。
これは特に政府について書かれていることなのだ。金銭だけでなく、敬意と恐れを払うようにパウロは要求する。注解者の中には、この「恐れるべき者を恐れよ」という命令を、「敬うべき者を敬え」という命令から区別する人がいる。彼らは、「恐れ」は政府の上下関係における頂点に立つ人々に対するもので、「敬意」は地位の低い為政者たちに対するものと考えて区別している。その解釈は正しいかも知れないが、いずれにせよ、金銭的に払うべきものを払うことに加えて、私たちは政府や政府を代表する警察や消防署などのリーダーたちに対して敬意を払うべきであることに違いはない。
「恐れること」と「敬うこと」の区別は何なのかを考えるとき、昔からギリシャの教父たちの間で言われていることは、「王を恐れ、王のしもべたちを敬いなさい」ということであった。税金と貢ぎ(みつぎ)の違いが明確でないのと同じように、恐れなければならない者と敬わなければならない者との区別もそれほど明確ではないと思う。しかし、神が立てた政治的な権威に対して尊敬を払わなければならない。
民主主義的な政治の場合は、リーダーたちが悪ければ、それを批判し、そしてもっと優れた別のリーダーたちが与えられるように働きかけることは正しい事であって、何ら問題ではない。また、あまりよい仕事をしていない現職の上司に敬意を表しつつ、同時に彼に取って代わる人物を支援することによってより良い未来を求めて働くことも、一貫してないことではなく、何ら問題はない。但し、正しい心を持ってそれをすべきである。その点が私たちにとって問題なのだ。権威を保ち、「権威に対して尊敬を払う」ということは、その人間自身を尊敬できないとしても、その地位に対して尊敬を払い、正しい態度をもってその人と接しなければならないということになる。
「良心のために尊敬する」ということは、あくまでも神の主権的な支配を覚えて生きるということになる。神の主権を告白するのは簡単だが、神の主権を毎日の生活全体において本当に信じて、その信仰に従ってすべての事を行なうのは簡単ではない。大災害があると、福音派の中からも「神さまも、大変でしょうね」というような言い方がよく出て来る。「それは神がなさった事だ」とは、誰も言いたくないのだ。無論、軽い気持ちで「これは神がなさった事だ」と単純に言うことは私もしたくない。誤解を招くかも知れないからである。しかし、最終的には、それを神の裁きとして受けなければならないのも否定できない事実なのだ。
洪水も、地震も、戦争も、竜巻も、まずい食事も、すべては神から与えられた状態である。すべてを支配しておられる主権者なる神が今日与えてくださった頭痛、神が与えてくださった今の財政問題、経済問題、大きい問題でも、小さい問題でも、神の主権を覚えてそれらを神から来たものとして受け入れなければならない。そうでなければ、神の主権を本当に信じてはいないことになるのだ。神の絶対主権について語ったり告白したりするのは非常に簡単である。しかし、今日ある状態のすべてを素直に神から与えられたものとして、心からの感謝をもって受けとめて生きているかというと、かなり疑問である。しかし、それこそ本当の意味で神の主権を信じることなのだ。すべてを神からのものとして受けとめて生きるのである。これはクリスチャンにとって基本的な理解である筈だ。
政治のリーダーたちに対しても、教会のリーダーたちに対しても、家庭の中でも会社の中でも、それは少しも変わらない。「私は、自分が神の御手の中にあることを本当に信じます。すべてを神が御支配しておられ、導いておられ、私は神に対して責任ある者です。すべての事を神が与えてくださるものとして素直に受け入れます」という信仰をもって生きているだろうか。その点について、例えば政府や為政者に対する考え方においても自分を試すことができるのではないかと思う。
「神がだいたいのことを働かせて益となることを、私たちは願っています」というような信仰告白は聖書の中にはない。それはクリスチャンの告白ではない。「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロが言うとき、国や政治のことにおいても、また私たちの毎日の生活のすべての状態においても、神に感謝をささげて歩むように私たちを励ましているのである。感謝がなければ、社会の改革は有り得ない。
感謝のない心は破壊的な心であって、何も作り上げることはできない。そのような心を捨てなければならない。私たちに対する神のいつくしみに心を留めて、神に対する溢れる感謝に満ちているのでないなら、私たちはいかにして御父なる神が与えてくださる訓練を祝福として受けることができようか。神の愛を信じないで不平の日々を送っているなら、荒野に導かれたなら私たちはどうするだろうか。感謝の心をもって生きるなら、私たちは日々を生産的に生きることができる。感謝がなければ、実に破壊的な者になってしまう。クリスチャンは、神に対する感謝に満ちて歩む者なのである。
そのためにも私たちは、毎週日曜日に集まるとき、主イエス・キリストの十字架に対して感謝の心をもって神に礼拝をささげている。神は私たちを愛して、御自分の御子を私たちに与えてくださった。ローマ人への手紙8章に書いてあることを思い起こしていただきたい。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
永遠にして最高の祝福を神は私たちに与えてくださった。神は、最高の祝福を与えたあとで、他の小さい祝福を与えるのを惜しむだろうか。エデンの園でサタンは「神はケチな御方なのだ」と言ったが、実はほとんどのクリスチャンがその事を信じている。「ええ。何を言っているの」と思うかも知れないが、あなたの毎日の感謝の程度を見てみなさい。私たちの感謝はどこにあるのか。「神は、今日も最高の祝福を私に与えてくださった」ということを本当に信じているかどうかは、どこまで感謝にあふれているかによって表わされるのだ。
「感謝のところに戻る」と私たちは言う。それは、「神が私たちに主イエス・キリスト御自身を与えてくださったことを深く覚え、感謝の心をもって、もう一度その出発点に立って今週の歩みをします」ということである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けよう。
――2002年2月10日――