ローマ人への手紙14章1〜4節
14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
2002.05.26. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
弱い兄弟と強い兄弟
14章1〜4節
ローマ人への手紙14章1節から15章13節までは一つの文脈になっている。この箇所はよく引用される非常に有名な箇所であるが、ここでパウロはローマの教会に混在している二つのグループに向かって教えている。そして、この二つのグループに対してパウロは「強い人」及び「弱い人」というレッテルを貼った。これは新約聖書のほとんどの書に出て来るユダヤ人と異邦人の問題と関わっていることであった。この強い兄弟と弱い兄弟の意味についてまず考えたいと思う。
一般的には、この箇所でパウロが話しているのはユダヤ人と異邦人の信仰の違いではないかと思われている。私も、これはユダヤ人と異邦人の違いであると理解している。14章で特に食べ物のこと、日にちのこと、そしてぶどう酒のことにおいて「強い人」と「弱い人」の意見の違いがあると言っている。事実新約聖書の中に出て来るいろいろな教会内の問題は基本的にユダヤ人と異邦人の問題になっているし、その多くは、古い契約から新しい契約へと移行する過程の中において出てきた問題であった。
なぜ当時のローマの教会に強い兄弟と弱い兄弟の問題が起こったかというと、ローマ帝国のクラウデオ皇帝が紀元40年代の後半にすべてのユダヤ人をローマから追い出したという事情が背景にあった。使徒行伝18章2節に、「クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令した」と書いてある。問題ばかり起こすユダヤ人をクラウデオ皇帝はローマから追い出してしまったが、紀元54年にクラウデオ皇帝が死んで、ネロが皇帝になったときにユダヤ人たちは再びローマに戻ることを許された。パウロがこの書簡を書いたのは、ユダヤ人がローマに戻ってからの時期と思われる。
ユダヤ人がローマから追い出された後の数年間に、ローマの教会は基本的に異邦人が中核になっていた。当然ながら牧師もリーダーたちも異邦人で、人数においても圧倒的に異邦人が多かった。この書簡を書いた時のローマ教会にはユダヤ人と異邦人が混在しており、ユダヤ人が教会に戻ってきたことで異邦人との考え方の違いによる摩擦が目立つようになっていた。特にモーセの律法の諸々の定めに対する考え方の違いが問題になっていたために、パウロは強い兄弟と弱い兄弟について教えなければならなかった。
自称クリスチャンのユダヤ人たちが異邦人のクリスチャンにモーセの儀式律法を守るように強要するとき、パウロは非常に強い語調で彼らに反対し、その相手を犬とさえ呼び(ピリピ人への手紙3章2節)、彼らに対して神の御怒りが下ると厳しく警告している(ガラテヤ人への手紙1章6〜9節)。しかし、ローマの教会に対するパウロの態度はガラテヤやコロサイの教会に対するものとはかなり違うのである。ガラテヤの教会に対してパウロは、4章10〜11節で、「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」と言っている。パウロはガラテヤの人たちの魂の救いを心配すると言っているのだ。コロサイの教会に対しても次のように言っている。
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
コロサイの教会の人たちに対しては、彼らが人間の言い伝えに支配されて駄目になるのではないかをパウロは心配している。しかし、ローマの教会に対してはそのような心配をしてはいない。14章で「弱い人につまずきを与えないように気を付けなさい」とパウロは言うが、自分が弱い兄弟と呼ぶ者たちをパウロは非難していないのである。どうしてこれほどに態度が違うのか。何が違うのかというと、ガラテヤの教会のユダヤ人の問題もコロサイの教会のユダヤ人の問題も、「救われるために、モーセの律法を守らなければだめだ」という話になっているからである。キリストの福音を変えてしまおうとしていたからである。「割礼を受けなければ救われない」と、ガラテヤやコロサイのユダヤ人たちは主張していた。そのユダヤ主義的で律法主義的な考え方がコロサイとガラテヤの教会にあった。
モーセ契約の時代であれば、それは確かにそうであった。紀元前二百年とか、紀元前四百年に生きていたユダヤ人なら、子どもに割礼を施さないなら、それは神に逆らうことであった。また、割礼を受けた子どもが二十歳以上になって「私は祭りには行きません」と言うなら、それは「救われない」という話になるのだ。「私はいけにえをささげたくない」と言うなら、それは神に逆らう以外のなにものでもなかったのである。その時代の人々は古い契約の時代に生きていたので、古い契約に定められた事を守らないのは神に逆らうことであった。しかし、律法のすべてが主イエス・キリストによって成就されて、時代は新しい契約の時代に変わったので、その古い時代のための定めから完全に解放されたのである。
そうは言っても、今まで古い契約の中に生きていた人々の中にはそう簡単に考え方を切り換えることのできない人たちがいた。頭の中では「食べても良い」と理解できても、どうしても食べたら罪悪感に悩まされる人たちがいた。今まで食べてはいけなかったものを食べると、どうしても罪を犯したような気持ちになってしまうのである。それは「救われるために」という話ではなく、自分の良心の問題であった。新しい契約の時代では、「モーセの律法は守らなくてもよい」というよりは、場合によっては「守ってはならない」ものがあるのだ。つまり、救いの手段として人々に強いてはならないことがあったのである。
そういうわけで、そこには大きな二つの教理の違いがあった。その一つは単に良心の呵責の問題で、もう一つは救われるための条件としてモーセの律法に従うべきだとする問題であった。もう一度言うが、ガラテヤとコロサイでの問題は、「救われるための手段として何が必要なのか」というものであったが、ローマでは信仰による義認は問題になっておらず、福音を危険にさらすようなことではなかった。ローマの弱い兄弟たちは異邦人にモーセ律法への服従を強要してはいない。ただ、「神の契約を守る」ということの定義が、新しい契約においては変わったことで摩擦が起きていた。もはや古い契約のように、日にちや季節の定めや食べ物の定めを守らなければ契約を守っていないということではなくなったのである。そのような違いがあったことをも覚えて、この箇所の意味を考えるべきだと思う。
ローマの教会には、ユダヤ人で本当に主イエス・キリストの恵みのみによって救われたことを信じており、教理としては理解しているのに、豚肉を食べるとどうしても神の御前で汚れたような気持ちになってしまう人たちがいた。「弱い人」とは、そのような心理的な弱さを持つ人たちを指している。たとえば、今までいつも厳しく安息日を守ってきたユダヤ人が、キリストを信じて救われた後でも、旧約聖書が命じているとおりに安息日を守りたい気持ちが残っている場合がある。クリスチャンになっても、急に土曜日の安息日を守ることを止めるのは、彼らにとっては心理的にかなり難しいことであった。
彼らは心理学的にユダヤ人の伝統と律法というくびきから逃れられなかったようである。土曜日を休みの日にして神を礼拝しなければ、まるで神を捨ててしまったかのような気持ちになるのだ。それで、どうしてもユダヤの祭りや安息日を守りたい気持ちになる。肉を食べることについても、旧約聖書には細かい定めがある。旧約律法では、食べてよい物と食べてはいけない汚れた物の区別がはっきりと定められていた。例えば、豚肉は食べてはならない物であった。ここではもっと極端な話になっている。つまりローマのユダヤ人の中にはどんな肉をも一切食べない人たちがいた。異邦人の肉の処理方法からして汚れていると思っていたからだ。
なぜ肉をまったく食べないかの理由については、私たちにはわからないユダヤ人特有の問題もあったかも知れない。例えば、ユダヤ人がクリスチャンに改宗すればユダヤ人の交わりから追い出されてしまうことが使徒行伝やヘブル人への手紙の中にも記されている。ユダヤ人の交わりから追放されてしまえば、ユダヤ教の習慣に従って処理された食肉を買うことができなくなる。異邦人の方法では血がそのままであったり、偶像にささげる儀式をしてから屠殺する等の問題もあった。ユダヤ人が動物をほふる方法と異邦人のそれとでは多くの点で違っていた。ユダヤ人はいろいろな事について細かく気を付けて肉を処理するが、異邦人はそうではなかった。だから、異邦人が処理した食肉は絶対に口にしなかった。それは、自分を汚れから守るためであった。
しかし、クリスチャンになると、ユダヤ人から肉を買うことができなくなってしまった。異邦人が処理した肉を食べることがどうしてもできなかったので、ある人たちは肉を食べることを一切止めて、野菜だけを食べるようになった。それは自分を聖く保つためであった。例えば、ダニエルたちもそれと似たことをしていた。彼らは、王の食べ物やぶどう酒で身を汚すことがないようにと考えて、野菜だけを食べた。ユダヤ人なら、例えばそのようなことをしたかも知れない。ぶどう酒を飲まないのも、そのような意味があったと思われる。誰がどんな方法で作ったぶどう酒なのか、どこから買ったものなのか、というような問題があったのだろう。今でも、イスラエルで作られるぶどう酒は非常に多くの細かい原則に従って醸造されており、それは異邦人の製法とはかなり違っている。昔もそのような事が問題になっていたのではないかと思われる。
ここでパウロが言っている「弱い人」は基本的にユダヤ人であり、異邦人と一緒に食べたり飲んだりすると、今まで神に対して忠実に守ってきた原則を捨てるような気持ちになる人たちである。彼らにとってそれは、神に対して好き勝手にやっているように感じられるのである。神ご自身に逆らっているような思いになる。それがクリスチャンになったユダヤ人たちの良心の問題であった。同時に、少し複雑になるけれども、もう一つの可能性がある。つまり、救われたばかりの異邦人にとっても、聖書はユダヤ人の旧約聖書しかなかったし、友人たちもユダヤ人だし、教会の中心的なメンバーのほとんどはユダヤ人であったので、神に対して自分が本当に変わったという証しのためにも、また自分自身が神に対する心をはっきり保つためにも、「ユダヤ人たちのようにしなければ自分たちの聖さを保つことはできない」と考えてしまうわけである。
「そうすれば救われる」と思ってるわけではないが、「その方が聖い」と思ってしまうわけである。基本的に「弱い人」はユダヤ人を指していると思うが、ユダヤ教の影響を受けた一部の異邦人がその仲間になっていたということも考えられる。パウロが「弱い」と呼んでいる人々とは、古い契約の時代から新しい契約の時代への移行期に際して困難を覚えていた人々であった。そこで、もう一つ言っておかなければならないことは、すべてのユダヤ人が「弱い人」の領域に入るとは限らないということである。パウロ自身がユダヤ人であった。そのパウロが、「弱い人の考え方は間違っている」と明言しているのである。パウロは「強い人」であった。ユダヤ人と一緒にいるときにはユダヤ人らしく振る舞い、異邦人と一緒にいるときには異邦人らしく振る舞ったと、パウロはコリント人への手紙で話している。
強い兄弟であるパウロは、「弱い人の考え方は間違っている」と明言してるので、誰が神学的に正しいかについては議論の余地はない。だから、「強い人」はみな異邦人で、「弱い人」はみなユダヤ人だとは限らない。「弱い人」の中に異邦人が含まれてもおかしくないし、すべてのユダヤ人が「弱い人」だとは言えない。「強い人」のほとんどが異邦人であったが、成長したユダヤ人の信者もいた。そういうわけで、「強い人」とは、新しい契約の諸原則を正しく理解していた者たちである。
信仰
さて、信仰の話がこの箇所で何度も出て来ているが、「信仰」という言葉の使い方について少し考えておきたい。新約聖書において「信仰」という言葉はいろいろな意味で使われているのは皆もよく知っているところである。例えば、「私たちの信仰」という言い方をするときに、客観的に私たちは何を信じているのかを指しているケースもある。「信仰」は、客観的にクリスチャンが信じる一連の教理の意味で使われたりするし、奇跡を行なう賜物を指す信仰や祈りの答えをもたらす信仰を指すこともある(コリント人への第一の手紙13章2節)。私たちは普通、信仰を「救いをもたらす信仰」として考えるが、ここではその意味の信仰については語っていないようである。
この箇所では、「これは食べてもよい」と思う人の信仰は「これを食べてもよい」という神の御前での確信のことである。これは主イエス・キリストを信じる信仰そのものがどうなのかの話ではない。換言すれば、この箇所で「弱い人」と呼ばれる人の中にも、主イエス・キリストに対する信仰が非常にはっきりしていて、キリストに対する信仰がとても強いと言うこともできるのだ。そして、このような事に関してはよくわかっている「強い人」であっても、主イエス・キリストに対する信仰が弱い可能性もあるのだ。ここで言っている「強い人」は他の点で道徳的ないし霊的に弱いことも有り得る。それ故、ここで言っている強い弱いは、その人の信仰全体に関わる聖化論の話ではない。
確かに、食べ物について心配しすぎたり、安息日などのことについて心配しすぎたりするような弱い兄弟は、他の面でも弱いのは真実であると思う。つまり、ここで言う弱さは、神のことについての理解が未熟なために、道徳性に関わる弱さをも露呈してしまうものなのだ。大人に成りきれない傾向があるということである。しかし、救われたばかりの異邦人は、旧約聖書のイスラエルの律法についてあまり心配したりはしないのが普通である。「土曜日には休まなければいけない」とも思わないし、普通に市場から買ってきた肉を食べたりぶどう酒を飲んだりしても、何も悪いとは思わないのである。そのような異邦人は、この14章の話の中では、救われた次の日にはもう強い人の中に数えられている。
しかし、だからといって、「それなら神に対する信仰も深いはずだ」とか「きよい信仰を持っている」ということにはならないのである。ここでの「強い」と「弱い」の話は、この箇所で扱われている問題に関するものであって、すべてのことに当てはまるものではない。そのことをよく踏まえてこの箇所を読まなければならない。
まちがった適用
それでは、基本的にどういう問題なのか。ここで言っている「信仰」とはどういう話なのか。今話したような理解に立って見るならば、弱い兄弟と強い兄弟について教えるこの箇所はパウロの時代の話であることは明らかである。今日の私たちの教会の中にはユダヤ人はいないし、旧約聖書の律法の安息日のことを守るかどうかを心配する人もいない。それで、「この箇所は私たちとあまり関係ないことだから、別に読まなくてもいいのではないか。はやく次の箇所を見ましょう」ということになるのかというと、決してそうではない。ここでパウロがどのように問題を取り扱っているかを注意深く見るならば、「クリスチャンは互いに対してどのような心をもって交わりを持つべきか」ということが深く教えられているのを悟るはずだと思う。実際、この箇所は今の時代の多くの問題に適用されている。但し、ほとんどが間違って適用されているのが実情である。
例えば、アメリカで最も頻繁にこの箇所が適用されるケースの一つとして、「クリスチャンはアルコールを飲んでもよいのかどうか」という議論がある。「パウロは、兄弟をつまずかせてはならないと教えており、アルコールを飲むとつまずく兄弟がいるので、飲んではいけない」というふうにこの箇所を引用して教える教会が非常に多い。それは、この箇所の適用としてまったくおかしいものであって、全然パウロとは違う考え方なのだ。そのように適用するならば、いかなる理由であっても「弱い兄弟をつまずかせるものは何であれ取り除かなければならない」ということになる。それはパウロが言おうとしていることではない。ここでは、「お酒を飲むか飲まないか」よりも「この箇所は何を教えているのか」ということに注目していただきたい。
「兄弟にとって妨げやつまずきになることをするな」ということを読むとき、実に多くの人たちが、「それを見て怒ったり、いけないと思ったりする兄弟がいるので、それはすべきではない」と解釈するわけである。それはパウロの教えからかけ離れている解釈である。それに、アルコールを全く拒絶する人たちは、自分たちを弱い人とは思っていないのである。「アルコールは絶対にだめ。飲んではいけない。私は一度も飲んだことはない」と言っている人たちは「自分こそ強い人なのだ」と考えている。禁酒していることを誇り、「私の人生において、この唇は一度もアルコールが入った飲み物に触れたことはない」と言ったりしている。そのように言うことによって、まるで「私は聖い」とでも言いたいようである。
彼らは、「アルコールを飲みたいと思うクリスチャンは、弱い兄弟なのだ」と考えている。飲むのは弱い人、飲まない方が強い人と考えている。それがアメリカの福音派の中で支配的な考え方であった。「であった」と過去形で言うのは、近年になってかなりの教会内に変化が起きていると聞いているので、今現在の実情については断言できないからである。いずれにせよ、パウロがここで言っているのは、「禁酒家は弱い人だ」ということである。「弱い人」の方が「これをしてはいけない。飲むな。食べるな」と強く主張している。ここでは「飲んでもいいし、飲まなくてもいい」と考える人の方が「強い人」なのである。これは多くの福音派の人が考えているのとは逆なのだ。「どちらが弱いのか、どちらが強いのか」ということがほとんどの教会の中でまったく逆に解釈されてしまっている。
そして、この箇所の「つまずき」という言葉の意味も多くの人々によって間違って適用されている。私たちはパウロが言っている「つまずき」という言葉の意味をも考慮する必要がある。「弱い兄弟がつまずく」というのは、誰かがビールやワインを飲んでいるのを見た弱い兄弟が「あの人は悪い、いけないことをしている」と思うことではない。それはつまずきではなく、さばくことなのだ。それに、パウロは弱い兄弟に対してはっきり「さばいてはいけません」と言っているのである。明らかに「弱い兄弟のさばきに合わせて教会生活をしなさい」という話ではない。弱い兄弟に対しては「さばくな」と命じている。ならば「弱い兄弟がつまずく」とはどういうことなのか。それは、自分では「やってはいけない」と思い込んでいることをやってしまうことなのだ。それがこの「つまずき」の意味である。
自分の心の中では「豚肉を食べてはいけない」と思い込んでいる人が、いけないと思っているのに食べてしまうなら、それが「つまずき」なのだ。「つまずき」とは、兄弟が豚肉を食べたりビールを飲んだりしているのを見たユダヤ人が「これはひどいことだ。何という事をしているのか」と思ったりすることではない。自分ではいけないと思っているのに、皆が飲んだり食べたりしているのを見て、「自分もそれを飲んで食べなければおかしい」と思って、「いけない」と思いながらも食べてしまうなら、それが「つまずき」なのだ。神に対して「これはいけない」と思っているのにしてしまうなら、それは信仰の妥協であり、罪である。弱い人が信仰の妥協をしてしまうような影響を与えるなら、それは「つまずきを与えること」になるのだ。人が信仰において妥協する罪を犯すように影響を与えることが「つまずきを与えること」なのだ。
だから、「飲んではいけないと思っている兄弟に、一生懸命飲ませようとしたりしてはいけない」という話なのである。そのように勧めるなら、それは彼が自分の良心を犯して飲むように導くことになる。自分の良心を犯すことを学び始めると、他のことについても同じようにやってしまう危険性が生じてくる。そうすると、神に対する心がおかしくなってしまう。生活全体も駄目になってしまう。そういう意味で、その人の信仰を破壊してしまうことになるのである。だから、パウロが言っているのは、「弱い兄弟がその良心を汚すようなことを行なうように励ますべきではない」ということである。「良い」という確信がないなら、たとえそれが客観的に悪いことではなくても、それをすべきではないのである。
現代の禁酒家が、ビールを飲んでいる私を見たからといって、それで彼の信仰が破壊されることはない。それによって飲酒の誘惑を受けることもないのである。影響を受けるよりも、むしろ彼は私をさばくに違いない。「酒を飲むとは、とんでもない奴だ。お前はクリスチャンじゃない」と言って私をさばくかも知れない。その事によってその人自身の神に対する信仰がだめになるような心配はないのである。では、アルコール依存症患者を回復させることについてはどうだろうか。もしそのような人と一緒に飲むならば、私たちは彼を罪に引き戻すことにならないだろうか。そのようなある特定の罪と苦闘している人が再びその罪に落ちるように誘惑されることは実に危険なことである。
しかし、それはパウロがここで話している事柄ではないのである。パウロは、その人が自分の心の中で「いけない」と思いながらも、それをしてしまうことについて話しているのだ。アメリカにはとても厳しく且つ変な考え方をする教会がある。口紅を塗るのは罪、女性が髪の毛を肩よりも短くカットするのは罪、女性がズボンを履くのも罪、マニキュアを塗るのも罪、髪の毛を染めるのも罪、ノンスリーブを着るのも罪、スカートは長くないと駄目というように彼らは考えている。女性は、足首が見えるような短いスカートを履くことは許されない。そのような非常に厳しいグループの中で育った人は、大学に通うようになると、周囲の人たちがその原則をことごとく破っているのを見て非常に辛い気持ちになるようである。
自分の何もかもが周囲の人たちと違うのを強く感じるからだ。それで、結局時間が経つにつれて周りに合わせるようになっていく。その影響を受けていく過程にあって、いつも自分が神に逆らって生きているような罪意識を覚えながらも周りに合わせるようになっていくわけである。結局最終的には、神を捨てて、完全に神から離れてしまう。「皆がやっているから、私もやろう」と思って、自分の良心に逆らって生きることに慣れてしまうのである。それは実に恐ろしいことである。神に逆らい、神に対して罪を犯すことに慣れてしまうのである。罪を犯すことに慣れてしまえば、どんな罪に対しても良心は働かなくなってしまうものなのだ。それが問題なのだ。悔い改めて治るように求めようとしなくなる。彼らは「仕方がない」と心の中で理屈を言う。
皆さんは先週罪を犯したし、その前の週も罪を犯した。今週もまた、罪を犯すであろう。「それはしようがないことだ」という思いになるなら、それこそどうにもならない。真のクリスチャンは、そこで悔い改めて神に立ち返り、神を求めるはずである。神が喜ぶことをしようと、求めるはずである。罪を捨てて戦う心でなければ、どんどん底なしの淵に沈んでいくしかない。どんどん神から離れていってしまうのである。悔い改めて神に戻るなら、私たちはその罪から救われる。しかし、「悪いということはわかっている。罪だとわかっているけど、しようがないではないか」という態度なら、その人に救いはない。
「皆が飲んでいるのだから、私も飲まないわけにはいかない。しようがないことなのだ。毎日、皆は帰りに一杯やっていくのに、私だけ飲まないのはおかしい。罪だとは思うけど、飲まないわけにはいかない」と言うなら、だんだんと信仰からも教会からも離れていってしまう。そのようなビジネスマンがいることを私たちは知っている。酔うことは常に罪である。ここでパウロは罪を避けることについて語っているのではなく、実際は罪ではないことを罪と考える人々について話しているのである。
原則
それ故、「何が罪なのか、何が罪ではないのか」を聖書に基づいてはっきりと定義しなければならない理由の一つがここにある。「人の良心を縛ってはならない」ということである。この原則も、御言葉を教える者たちにとっては真剣に考えなければならないことである。私がクリスチャンになったとき、「喫煙は罪だ」と教えられていたが、その原則を聖書の中に見つけることはできない。煙草をたくさん吸って自分の健康を害して肺ガンになって死んでしまう人のことを思うとき、確かにそれは愚かなことだとは思う。そのような生き方は罪であると、私も思う。しかし、一年間で煙草を一本だけ吸ったくらいでは癌にはならない。それだけで罪だと言えるのかというと、厳密には言えないのである。
誤解しないでいただきたいが、煙草そのものが罪かどうかを話そうとしているのではない。「自分の身体の健康を正しく保ちなさい」ということは聖書の教えとして明らかである。その観点からすれば、食べ過ぎも罪であるし、飲み過ぎも罪であるし、それはむさぼりであって愚かなことだというのは事実である。神に逆らって食べ過ぎた結果ひどく肥え太っている教師が「煙草は罪だ。煙草を吸うな」と説教するなら、それは実におかしな話である。何が罪で、何が罪でないのかを考えるとき、聖書のみが私たちの良心の基準であり、原則となるのだ。「これは罪だ」と言うとき、気を付けて言わなければならない。
「むさぼるな」ということを私たちは毎週告白しているが、食べ物についてもそうなのだ。大変な消費社会に住んでいる私たちは、多くのものにおいてむさぼってしまう可能性がある。コンピューターに対するむさぼりもあるし、車に対するむさぼりもあるし、服装に対してもむさぼりがあるし、何でもかんでも、気を付けなければむさぼる心を持って生活してしまうものである。聖書の箴言の中で特にむさぼる心として警告されているのは、食べ物のことである。
何が罪で、何が罪ではないのかを考えるとき、聖書に従って定義することが大原則なのだ。牧師や教師たちは、人々の良心に、聖書に要求されていない不必要な規則を強要してはいけないのである。むしろ肯定的に「神の栄光を最大限に表わすために、私はどうしたらよいのか」ということを真剣に求める心を育てるべきである。そこが問題なのだ。いろいろなルールや規則などでその良心を縛るのではない。「これはいけないのか。それなら、ここまでやったらどうなのかな?」と思っているなら、その人は既に弱い兄弟の領域にいるのである。弱い兄弟は、「ここまでだと駄目なのか。それじゃ、あと一歩だけならばいいのかな。あと何センチで駄目になるのかな。これくらい足を引っ込めればいいのかな」というようなことを一生懸命考えているなら、その人は弱い人なのである。
時間においても、心においても、思いにおいても、「どのように神の栄光を表わすことができるのか」という一点を熱心に追い求めている者は、強い兄弟である。広い意味でその人は強い兄弟という話になる。つまり、成長したクリスチャンなのである。自分の弱い良心を他の人を裁く基準にするような傾向がある弱い兄弟に対して、パウロは「さばいてはいけない」と命じている。これが弱い兄弟に対する原則である。
パウロはここで、多くのルールを守る人が強い人で、そのルールをどうしても破ってしまう人は弱い人だというような話をしてはいない。しかし、今の時代のこの箇所の適用のほとんどがそのような解釈になっている。「決してそうではない」ということをもう一度ここでしっかりと認識してほしい。むしろ、主イエス・キリストの栄光をいつも心から求めて、聖書のみに従って判断し生活を送ることができる兄弟こそ強い兄弟なのである。弱い兄弟は、いつも原則とか諸々の定めについて心配しすぎたりして、「どこまでやってよいのか、どこまでやってはいけないのか」のレベルでしか生活できない。ここで、パウロがはっきり語っているポイントを忘れてはならない。即ち、「強い兄弟は弱い兄弟を見下してはならない」という原則である。強い人の傾向は、弱い人を見下すところにある。「あの愚か者が。土曜日はもう廃止されたのだ。神殿はもう二千年前に破壊されてしまったのだから、なぜ土曜日にこだわるのか」と思ってしまうわけである。
私はそのような人に実際に会ったことがある。彼は二十歳の頃にクリスチャンに改宗したユダヤ人だが、どうしても豚肉を食べることができなかった。豚肉を口に入れると汚れた気持ちになってしまうのだと言う。私たちも、猫の肉のサンドイッチを出されたらどうだろうか。気持ち悪くて、きっと喉元を通らないのではないか。口に入れようともしないのではないか。ユダヤ人にとって豚は気持ち悪いだけでなく、実に汚れている動物なのだ。その汚れの気持ちがあまりに強烈なために、どうしても豚肉を食べることができない。土曜日になると彼はイスラエルのいろいろな儀式を自分で守ったりする。更に、パリサイ人たちが作った律法をも守っていた。それは、神殿が破壊された後のイスラエルの二千年の歴史の中で新たに作られた数々の儀式であるが、それらを守らないと罪意識に責められると彼は言うのである。
あまりに度を超えていると思った私は、その人と激しく何時間も議論をした。「別にあなたに守ってくれとは言わない。あなたは異邦人だから守らなくてもいいが、私は守らなければいけないのだ」と彼は言う。そして、他のユダヤ人に対して彼は「あなたはユダヤ人だから、それを守らなくてはならない」と言うのである。それは大変な間違いである。彼は弱い兄弟であって、その事においては愚かで間違っているのは事実であるが、他の人にそれを教えたり強いたりしないかぎり、それはそれで構わないのだ。もう一度言うが、ここでパウロは、「弱い人の考えが完全に間違っている」と断言しているのである。
新しい契約においては、どの日も同じであり、ぶどう酒を飲んでもよいし、肉を食べてもよいのである。「私はそのことを確信している」と、パウロは使徒として言っている。即ち、「それ自体で汚れているものは何一つない」ということをパウロは確信しているのである。客観的に飲んだり食べたりすることには何ら問題はないのである。それを問題にする弱い人の考え方がおかしいのだ。けれども、「その人たちを見下してはいけない」とパウロは命じている。「見下す」とは、侮ること、軽蔑すること、軽んじること、さげすむことである。「見下してはいけない」とは、その人たちを愛して、その人たちがクリスチャンとして成長するように助けなくてはならないということである。
それにしても、「私はあの人よりもクリスチャンとして成長している」と思って、「自分は強い兄弟だ」という認識を持つとき、私たちは傲慢になってしまいやすいものである。人を軽蔑して見下す心は傲慢な心である。その心はキリストの心ではない。私たちが弱いからといってキリストが私たちを見下すなら、一人残らず立つことはできないであろう。だからパウロは、「見下す心は、傲慢な汚れた心である」と、強い人たちに教えている。
弱い人に言っているのは「さばいてはいけません」である。強い人に言っているのは「見下してはいけません」である。問題は何なのか。主イエス・キリストにあって互いを受け入れ、互いを励まし合い、愛し合い、互いの徳を高め合っているかどうか。そこが問題なのだ。それをしていないかぎり、心においても、言葉においても、思いにおいても、行ないにおいても、どちらも罪を犯しているのである。弱い兄弟の罪はさばく罪であり、強い兄弟の罪は軽蔑して見下す罪である。パウロは、弱い兄弟と強い兄弟が互いにどのような心を持つべきかを教えているのである。
それで、宗教的な思いで「これをしてはいけない」という気持ちを持つとき、或いはどうしても「これは汚れている。これをしたら神との関係がおかしくなってしまう」と思うなら、誰もその人にそれを強いてはならないし、勧めてはならない。同時に、その人の信仰が教会の基準となることもない。しかし、どんな弱い人であれ、主イエス・キリストを救い主と信じ、三位一体なる神を信じ、聖書を神の御言葉と信じているなら、その人は私たちと共に聖餐式を受けることはできるし、私たちの教会の会員になることもできる。使徒行伝の中では、キリストを信じた者はその場でバプテスマを受けている。勿論その翌日からその人は教会員なのだ。
私たちの教会員になるためには、私たちとすべての信仰告白において一致してなければならないわけではない。キリストを唯一の救い主として信じ、三位一体なる神を信じ、聖書を神の御言葉として信じるなら、その信仰告白によって私たちの教会員となることができる。教会員になったばかりでは投票権はまだ与えられないが、一緒に礼拝し、ともに聖餐式にあずかることができる。アルミニアンの信仰であっても千年王国前説であっても、アルコールを飲んではいけないと深く思う人であっても、肉を食べない人も、私たちの教会員になることはできる。
繰り返すようだが、アルコールを飲むことが罪だと思っている人がこの教会員になった場合、「つまずきを与えてはいけない」ということで、何でもその人の信仰を基準にしなければいけないのかというと、勿論そうではない。そのような人に対してはむしろ、「聖書の中では、ぶどう酒を飲みなさいと書いてある。少なくとも聖餐式のぶどう酒は飲むべきです」と、はっきり教えてあげるべきである。聖餐式のぶどう酒をグレープジュースに変えるのは、聖書の基準を外して別の基準を持つことになるのだ。ヨーロッパや他の地域ではお酒を飲んではいけないという考え方は基本的にはないが、アメリカのバプテスマ教会ではアルコールは禁じられている。ぶどう酒をグレープジュースに変えて聖餐式を行なうなら、それは聖書に書かれてあることを止めてアメリカのバプテスマ教会のその間違った考えを基準に人間が決めた伝統を守ることになるのだ。
そういう意味で、聖餐式のぶどう酒は飲むべきぶどう酒なのである。他の時には、飲みたくなければ別に飲まなくても構わないのだ。聖餐式の時でなければ、「皆が飲んでるから、自分も飲まないといけない」という気持ちを持つ必要はないし、「飲んではいけない」と思う人に勧めることもないのである。これはぶどう酒やビールの話だけでなく、食べ物に関しても、映画に関しても、テレビに関しても、髪のスタイルに関しても、服装に関しても、何においても同じ原則として適用されるものである。教会の公式な立場は、肉を食べ、ぶどう酒を飲むことが許されており、安息日の律法はクリスチャンに課されてはいないというものである。ただし、強い兄弟は弱い兄弟を見下してはならないということを忘れてはならない。
14章1節に、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」とパウロは命じている。日本語の「さばいてはいけません」という訳は少し意訳的であるが、この言い方自体が難しい表現になっている。「彼の意見について争ったりするためではなく」或いは「彼の意見に反論するためではなく」というような意味である。しかし、「さばいてはいけない」という日本語訳は意訳として一番はっきりしていて分かりやすいと思うが、そこまで「さばくな」という強意の言い方にはなっていない。「その人の意見について喧嘩したり、論争したりしてはいけない」と言っているのである。
強い兄弟が弱い兄弟を受け入れるとき、「では昼食の時に話そう」と言って、一緒に座ると、まずその弱い人の意見を攻撃するかのような話になりがちなので、「そうしてはならない」と、パウロは忠告しているのだ。「弱い兄弟を受け入れなさい」というのは「軽蔑するな」ということである。しかし、文字通りに「さばくな」という表現は弱い兄弟に対して繰り返し言われている言葉である。そして、「弱い兄弟を受け入れて、その人の意見について言い争ったりしないように」と言っても、基準をその人に合わせることではない。教会の公けな証しは弱い兄弟の良心ではない。弱い兄弟は、自分の良心の命ずるところを個人的に実践すればよい。彼は、主のために自分の良心に従わなければならない。さもなければ自分の魂を滅ぼすことになる。
だから、「あなたは、神の御前で、自分の良心に従ってそうしなければならないと思うなら、是非そうしてください」ということでよいのである。自分の良心に従って歩むように励ますのである。それが強い兄弟の弱い兄弟に対する態度でなければならない。どうしてそう断言できるのかというと、それがパウロのしていることだからである。14章でパウロは、弱い兄弟の間違いを指摘している。それは、強い兄弟が弱い兄弟に話すときの模範である。神の御前でそれを守るべきと思うなら、それを守りなさい。自分の良心を犯して何かをするならば、それは罪になる。「信仰から出ていないことは、みな罪です」とパウロは23節で言っている。そういう意味でその弱い人がそれを守るのはよいことである。しかし、それは客観的には基準とはならない。それを基準にして強い兄弟をさばくようなことがあってはならない。そのようにパウロは弱い兄弟に対してはっきりと言っているのである。
そういうわけで、聖書に従っている強い兄弟の信仰が教会において基準となるのだ。弱い兄弟が何でもその強い兄弟に無理して合わせなければいけないということではない。ユダヤ人のように土曜日に安息日を守らなければならないから休みたいと言うなら、休めばよい。肉が汚れていると思うなら、食べなくてもよい。ぶどう酒を飲んではいけないと思うなら、聖餐式以外のときは飲まなくてもよい。それがパウロの教えの要点である。そういう意味で、強い兄弟の信仰は地域教会の基準である。
例えとして言えば、アルミニアンの信仰を持った人がこの教会に来て一緒に礼拝を守ろうとするならば、私たちは心から受け入れるべきであって、その兄弟を軽んじてはならない。確かにその人の考え方は客観的に間違っている。それでも、喜んで受け入れてその人の信仰を励まして成長するように助けるべきである。私たちの教理を聞いて怒って出ていってしまうかも知れないが、それはまた別な話である。その人が怒るのを恐れて教えの基準をその人に合わせなければならないのではない。あくまでも聖書のみが私たちの唯一の基準である。
弱い人たちは「へえ。客観的に強い兄弟の方が正しいと言うのか。飲んだり食べたりする方が強くて正しいと言うのか。私たちの方が弱いと言うのか。あのユダヤ人を裏切ったパウロが、何という事を言うのか」と思って、ユダヤ人の方に行くかも知れない。パウロは教えをその人たちに合わせていないからである。教えは、はっきりしている。地域教会のやり方をその弱い人の信仰に合わせることはしないのである。それはしてはならない事なのだ。だから弱い人に対しては、「あなたは自分の良心を神の御前で守っているので、私はそれを尊敬します。私も同じように神に仕えているのですから、あなたもそれを認めてください」と言うのである。そのように考えることができると思う。
全体的なパウロの話のポイントは、主イエス・キリストのような心を持ちなさいということである。特に強い兄弟に対して「主イエス・キリストの心を持ちなさい」と言っているのだ。弱い人に対しては、「キリストがその人の主人なのだから、あなたにはその人をさばく権利はありません」と言い、強い人に対しては、「キリストがそうであったように、弱い兄弟のことを思いやり、助けてあげなさい。主イエスはご自分の権利を全部捨てて私たちのために死んでくださった。そのキリストに倣って、あなたも弱い人を受け入れなさい。彼らを軽蔑してはいけません。彼らを助けなさい」とパウロは教えるのである。このポイントはどの時代であれ、またどの教会の問題であっても、弱い兄弟と強い兄弟の枠組みには入らないような問題であっても、変わらないものである。
主イエス・キリストが私たちを受け入れてくださったのだから、私たちも互いを受け入れなければならない。主イエス・キリストがご自分を無にして私たちを救ってくださったので、私たちも自分を無にして他の人を助けることができるはずである。地域教会としての基準は聖書のみである。クリスチャンは誰であれ、聖書の基準を守るべきである。他に基準があってはならない。しかし、たとい意見の違いがあるとしても、弱い兄弟も強い兄弟も、心からお互いを愛し合って神の栄光を求めることこそ大事なのだ。常に私たちはそこに戻るのである。常に初めの愛に戻るのである。
私たちの問題は、簡単にキリストの思いから離れてしまうところにある。主イエス・キリストがどのような心を持って私たちを愛してくださったか、どれほど大きな犠牲を私たちのためにささげてくださったかを、私たちはすぐに忘れてしまう。聖餐式を受けるときに、感謝をもって受けるようにと私はいつも強調しているが、それは、主イエス・キリストがどんなに私たちを愛してくださったかを覚えてそのキリストの心を求めることである。キリストに目を留めなさい。私たちは、キリストに似たものとなるために救われたのである。
「主イエス・キリストはこのように私に恵みを与えてくださった。主イエス・キリストはこのように私を愛してくださった。だから、私も兄弟を受け入れます。私も兄弟の罪を赦します。だから、私は主イエス・キリストを慕い求めます。その御国とその義を心から求めます」という思いを、私たちは聖餐式のときに、繰り返し繰り返し新たにして誓うのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2002年5月26日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com