ローマ人への手紙14章5〜12節
14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
14:11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
14:12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
2002.06.02. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
主のために
14章5〜12節
ローマ人への手紙14章でパウロは「強い人」と「弱い人」について話している。先週は「強い人」の意味と「弱い人」の意味について考えた。パウロはここでどのような問題について話しているのかを、全体として紹介した。そして、1〜4節までの基本的なところを一緒に見た。「弱い人」と「強い人」のことについて考えるとき、二つの観点から考えることができるのではないかと思う。
一つは、神学的な問題である。神学的な問題というのは、旧約聖書の律法の中に書かれている食べ物についての教えや安息日の制度全体に関する教えなどに関する問題である。なぜそれらが神学的な問題なのかというと、ある人たちは良心的にどうしても旧約聖書の中で禁じられているものを食べることに罪悪感を感じたり、旧約の安息日の制度を守らなければ神との関係がおかしくなるように思えたりしてしまうという問題があった。そして、それを守らない者がいれば、その者をさばいてしまう傾向があった。
つまりそれは「弱い人」の問題である。神学的な問題についてパウロは、はっきりと言っている。「旧約聖書の安息日の制度は既に廃止されたし、旧約聖書の食べ物についての教えも既に廃止された。だから、そのような事を守りたい人がいるなら、それを守っても構わないが、他の人がそれを守らないからと言ってその人をさばくことは許されません。神学的に言えば、強い人の方が正しいのです」と、パウロは強調して言っている。「客観的に意見としては強い人の意見の方が正しい。或いは神学的には、食べ物や日にちのことに関する理解においても強い人の方が正しい」と、パウロは教えている。強い兄弟は正しい神学を持っていた。
しかし、これは単なる神学の問題ではなかった。そこには、もう一つのポイントがある。それは人間関係のことである。双方に傲慢と罪から来る問題があったのだ。自分が何かを知っているからと言って他の人を見下したり、或いは自分と違う事をしているからと言って他の人をさばいたりする。そのような心の問題が、神学とは別のポイントとしてあった。「弱い人も強い人も、心の問題を持つ傾向がある」と、パウロは指摘するのである。弱い人の心の問題は、自分と違う考えを持つ教会員をさばく傾向があるというものである。強い人の心の問題は、自分ほどには理解のない者たちを見下したり軽蔑したりする傾向があるというものである。
つまり、強い人も弱い人も、ある意味ではどちらも弱い者だと言うことができる。ここで指摘されている「強い」と「弱い」の違いは、食べ物や日にち等についての話であって、すべての事において強い人がクリスチャンとして成長しているとは限らないのだ。強い人が弱い人を見下しているなら、その“強い人”には、クリスチャンとして成長していない面があるのだ。弱い人が強い人をさばくなら、それもクリスチャンらしからぬ事なのだ。だから、神学的な問題とは別に、「心の問題がある」と言える。その二つの観点から、パウロは14章1節から15章13節までの箇所でずっと説明しているのである。
神学の問題だけを取り扱ったのでは足りない。それというのも、兄弟を見下す人をそのまま皆の前で認めてしまうようなことになりかねないからである。「強い兄弟は神学的に正しい。弱い兄弟は考え方を変えなさい」と言うだけなら、弱い者を見下すことが承認されてしまう心配がある。そうではなくて、パウロは神学的な問題を取り扱う中で心の問題をも取り扱う。そして、弱い人に対しては、「あなたの理解は正しくない」とはっきり言う。
ある人たちが言っているように、「あなたの理解のままで構いません。複数の真理があるから、あなたの理解も真理で、あの人の理解も真理なのです。真理は多面的だから、それぞれの理解でよいのです」というようなことを、パウロは絶対に言わない。同時に、「自分の良心に従って行動しなければいけません。良心においていけないと思うなら、それをしいてはいけません」と、パウロは教えている。パウロはその弱い人が今どこまで成長しているかを見て、その心を取り扱うのである。パウロは決して弱い人を見下してはいない。「その変な考えを捨てなさい。速く捨ててきなさい」というような言い方もしていない。
もし強い兄弟が本当の意味で強く、あらゆる点で成熟していたなら、「弱い人を侮ってはならない」という警告を必要とはしなかったであろうし、もし弱い兄弟が真にへりくだって本当に神を畏れる者であったなら、「さばいてはならない」という警告を必要とはしなかったはずである。そういう訳で、パウロは神学の問題と心の問題の両方を同時に取り扱っている。その事を覚えながら14章と15章を見なければならない。
暦と食物
パウロは14章2節で肉の問題について語り、5〜6節のところで、何が問題なのかという話に戻っている。即ち、5節と6節で、パウロは再び暦のことや食べ物のことについて話している。
ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
ここにはぶどう酒の話は出て来ていないが、ぶどう酒の話は21節で言わばついでに述べている。即ち「肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです」というところで、ぶどう酒のことに触れている。どちらかというと、ここではぶどう酒の話は二次的なことになっているようである。肉を食べることと暦を守ることが話の中心になっている。この二つとも旧約律法を指していると思われる。これは単に文化的な違いの話ではない。極めて宗教的なことである。イスラエルが絶対に守らなければならない定めとして、食べ物についての律法は与えられた。また日にちを守ることについての律法も与えられた。そういう意味で、これは非常に重要な意味を持つ問題なのだ。
「旧約聖書に書いてあることをどこまで守らなければいけないのか」についての意見の違いは、使徒行伝を読めば分かるように、激しい論争になっていた。教会の中にはユダヤ人が大勢いた。「自分たちは当然のこととして律法に書いてあることを守らなければならないし、異邦人たちも、神を信じるならそれを守らなければならない」という意見の人が教会の中に少なからずいた。それは、パウロと使徒たちが真っ向から反対した教えである。しかし、どうしても守らなければ気が済まない人たちがいた。救いと関係なしに、個人的な問題として考える人は、別な次元で律法の問題を考えているわけである。「律法を守らなければ救われない」と考えるのは律法主義であるが、そういう問題ではなかった。
律法主義ではないが、この14章にあるような人たちがいたのである。ユダヤ人で、救われて間もない人で、今まで忠実に安息日を守ってきたし、自分も自分の先祖たちも千年以上もの歴史の中で代々守り続けてきた家系の者にとっては、その習慣と伝統を捨てることにはかなりの抵抗があった。土曜日を礼拝の日として守り、住居の近くにもユダヤ人たちの会堂がある。彼らは七日目である土曜日を他の日と同じように扱うなら、神を敬っていないような気持ちになってしまうのである。まだエルサレムには神殿があった。今までずっと毎週土曜日にそこに行って礼拝を守った。それを守らなければ、どうにも良心が納まらない気持ちになる。「止めてはいけない」という気持ちが強いのである。そのような人に対してパウロは、「メサイアがすべてを成就した今、もはやそれを守る必要はない。もうその義務はない。しかし、自分の良心において、神に対してそれを守らなければならないような心があるならば、確信をもって安息日をそのように守ればよい」と教えるわけである。
まだエルサレムに神殿が存在し、礼拝も行なわれていたというその時代の背景を私たちは思い起こす必要がある。パウロも、弟子たちも、新しい契約の民の指導者たちはまだエルサレムの神殿で礼拝をしていた。安息日である土曜日にはユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に行って礼拝していた。町々の会堂に行っては土曜日の礼拝で一緒に聖書(旧約聖書)を開いて読み、「ここに教師がいれば教えてください」と求められれば、パウロはユダヤ人の間では教師と認められていたので、そこで御言葉を教えたりしたのである。福音を伝えると、ユダヤ人の会堂に分裂が起こって、キリストをメサイアとして信じるグループとそれを拒絶するグループに分かれていった。ほとんどの場合、キリストを信じる者はパウロと一緒に会堂を出なければならなかった。
エルサレムの神殿がまだ破壊されていないので、ある意味で、それは古い契約と新しい契約が重複していた時代であった。パウロも使徒たちも神殿で礼拝していたという事実から、当時のユダヤ人信者たちがユダヤ教の祭りを守る義務を感じたであろうことはよく理解できる。その時期の神殿制度は、まだ神が認めてくださる制度であった。「神殿で礼拝してはいけない」というような教えはなかった。そのような時代なので、ユダヤ人の混乱というものがあってもおかしくはなかった。主イエス・キリストが神殿をさばいて破壊した時に、はじめて古い契約は完全に廃棄されるのである。神殿の破壊とともに、古い制度は100パーセント終わるのである。その時から、いわゆる神殿で行なわれるような礼拝は廃止された。神殿の破壊と同時に、そのような礼拝は、もはやまことの神に対する礼拝ではなくなったのである。
暦を守るという話は、安息日(毎週土曜日)に加えてイスラエルの諸々の祭りを守ることであった。5節を見ると、他の日も同じように安息日として考える人もいたようだが、それもそれでよいとパウロは言う。パウロは、「新しい契約にあっては安息日の暦を守るか否かは神の御前で重要ではない」と、はっきり教えている。正しい心で守ることは可能であるし、また正しい心でそれをしないことも可能なのである。古い契約における安息日の律法はもはや客観的な拘束力はないということである。それで、ある人たちはこの個所を指して、「それならクリスチャンも特別な礼拝の日を定めなくてもよいのではないか。月曜日に礼拝したければ月曜日にすればよいし、水曜日に礼拝したければ水曜日にしてもよいのではないか。いつでもどこででも礼拝してもよいのではないか」と考えてしまうが、パウロの時代の背景をよく理解する必要がある。
礼拝に来る人たちの中には奴隷も大勢いたし、安息日は日曜日に行なわれてはいなかった。エペソの教会が夜中12時頃にパウロの説教を聞いていたというような箇所があるが、朝の10時半からの礼拝が長引いたという話ではない。夜集まるしかなかったのである。奴隷たちは、日曜日の朝も働かなければならなかった。それで、自営業を営んでいる人たちが日曜日を休みにして、人々を自分の家に集めて聖書研究会などを行ない、夜になって、奴隷たちも仕事を終えて礼拝に集まることができる時間に礼拝を守ったりしていた。だから、パウロの時代では、他の日を礼拝の日として決めて礼拝していた教会は実際にあったのである。
奴隷たちの場合、一週間の中で休みの日は一日もなかったのだ。一年間の中で何回か休みが与えられることもあったかもしれないし、家族によっていろいろであった。クリスチャンの家庭の奴隷でキリストを信じているなら、一緒に教会に行ったり聖書研究会に参加したりできたであろう。一週間の中でも一日を休みの日としてあげた家庭もあったと思う。クリスチャンではない家庭でも、奴隷に休みを与える家はあったと思う。それぞれが自分の奴隷に対して自分のやりたいようにしていた。
暦については、イスラエルにカレンダーを与えてくださったのは神である。一年間のカレンダー、そして毎日のスケジュールを、神はイスラエルに与えた。旧約の時代、イスラエルはまだ幼児の時代にあるので、天の父がすべてのカレンダーを細かく決めてくださった。一年間の中の休日が全部定められており、一週の中の六日間は働く日と定められていた。太陽が昇るときに朝の礼拝があり、太陽が沈むときに夕方の礼拝が行われた。太陽と一緒に起きなさいというかんじであった。旧約聖書の時代では、毎日、一日のスケジュールも全部与えられていた。早朝に起きて礼拝を行なわなければならなかった。新しい契約の時代ではそれは定められていない。日曜日のスケジュールも与えられていないし、何をするのかも定められていない。
なぜなら、新しい契約の時代では、もはや幼児として扱われるのではなく、大人として自分の責任において決めなければならないものになっているのだ。神の御心が何なのかを求めつつ、自分の知恵で決めなければならない。そう言われたときに、どうすべきなのか。子どもの時に教えられた事を全部捨てて、なるべくそれに逆らい、自分の欲するままに行なえばよいのだろうか。大人とはそのようなものだろうか。決してそうではない。それは、13〜15歳くらいのティーンエージャーの次元の話なのだ。とにかく逆らいたい。反抗したい。独立したい。何でも自分のしたいようにやってみたい。自分は他の人とは違うのだということを、自分にも他の人にも証明したがるような、まだ知恵の備わらない若者の考え方なのである。本当に大人になったなら、子どもの時になぜそのように教えられたのかを考えるはずである。「父は、どんな原則を私に教えようとしていたのか」を、考えるはずだ。そして、その原則をどのようにして自分の生活や行動に適用するかを、自分の現状にあわせて考えるはずなのだ。
そういう意味で私たちは、旧約聖書に書いてあることを、例えば「これは律法だ。あまり興味ない。私は律法主義者ではないから」と言って軽んじるような思いは決してあるべきではない。これは子どもの時代に子どもとして教えるために神がイスラエルに与えた尊い命令である。その中には、大人になっても役に立つ原則が満ちているはずである。例えば、クリスチャンの文化では、一週間の中で一日の休みを与えるのは当たり前のことである。神はアダムを創造したときに、六日間働いて一日休むことをアダムに教えてくださった。基本的に私たちは皆アダムの子孫である。アダムの子孫であれば、肉体的な必要は同じであり、六日間働いて一日休むことは必要なことなのだ。
人間として歩むときに、旧約聖書から学ぶことはたくさんある。クリスチャンの社会なら、奴隷も休むし、動物も休む。旧約聖書で動物に休みを与えるのは、動物も働いていたからである。現代社会では、動物はペットにされて、ほとんど働くことがない。「神から休息を与えられた者は、他の者にも休息を与える」という原則に従ってクリスチャンが生活するように、神は律法を通しても私たちに教えている。クリスチャンのカレンダーがあるなら、クリスチャンの祭りもあるのは良いことである。キリストの誕生は本当は12月25日ではないが、クリスマスという日をもって主イエス・キリストの誕生をお祝いすることには何も問題はない。そうするのは良いことである。イースターの日に祭りのような時を設けても、それ自体は良いことなのだ。クリスチャンの一年間のカレンダーを持つのも良いことである。
しかし、もし「あの人はクリスマスを守っていないのはいけないことだ」と考える人がいるなら、それはおかしいことである。アメリカでは、クリスマスとイースターしか教会に来ない人が結構いる。「教会に行ってますか」と聞かれると、「はい。年に二回は行きます」と言うわけである。その日は特別だと考えているわけである。たしかカルヴァンはクリスマスもイースターも祝わなかったようである。その日を強調しすぎておかしなものになっていたので、カルヴァンはそれを止めて、単純且つ純粋な礼拝に戻ることに努めた。クリスチャンのカレンダーを作り、日曜日を休みの日にして、礼拝を皆が来れる時間に行なうのも、それはそれでよいことである。悪いことではない。そして、他の教会がそれを違うようにしているとしても、別に問題ではないのである。
例えば、奴隷が多い社会であれば、夕方に礼拝を行なってもよいのである。日曜日が休みでない国なら、仕事を終えた後で、夕方に礼拝を守ってもまったく問題ではない。クリスチャンが迫害されているような国で、日曜日はあまりにも多くの警官が目を光らせているから、安全のために土曜日に礼拝するとしても、それは何ら問題はないのである。昼間が駄目なら夜に礼拝してもよいのだ。それぞれの地域教会がその置かれた状態において決めればよいことなのである。但し、これは大人の状態の話である。子どもにはそれは許されないことなのだ。だから、旧約の時代ではすべてが定められた通りに行われなければならなかった。大人なら違うのだ。大人ならば、原則を理解したうえで、置かれた状態の中で自分の責任において判断しなければならないのである。子どもの決断は命令に従うものであり、大人の決断は原則に立って自分の責任において行動するものである。
それ故、新しい契約の時代では、地域教会のことは教会のリーダーたちによって決められなければならない。礼拝の日にちも時間も、教会のリーダーたちが決めるものである。私たちの礼拝は日曜日の十時半に始まるが、聖書のどこにもそれは書かれていない。十時から始めても罪ではないし、朝六時からでもよいのだ。「何時に」ということは、教会のリーダーたちに任されている決断であって、それをリーダーたちは教会員の都合などを考えたりして決めている。そういう意味で、新しい契約において日にちの事などが決められていないのは、地域教会は大人としての知恵をもって自分たちの状態をよく考えて、神の栄光を求めて決めるためである。
だから、パウロはここで、「基準はない」とか「礼拝に行かなくてもいい」というような話をしているのではない。また、自分で確信が持てたら何でも良いという話でもない。「自分の良心に従い、確信をもって行ないなさい」と言うときに、パウロは、この言葉を利用してこの世に調子を合わせて歩むことを許しているはずはない。12章でパウロは「この世と調子を合わせてはいけません」と命じているのだ。自分のやりたい事を好き勝手にやって、「誰も自分をさばいてはいけない」と言うなら、それこそ神に逆らうことなのだ。
そして、「客観的な真実がある」ということも変わらない。そのことを是非覚えていただきたい。少し横道になるが、すべてのことにおいて客観的な真実というものがある。その客観的な真実というものは、神ご自身がその基準である。真実は私たちの理解よりも複雑なこともあるし、私たちには理解できないこともある。逆説的なこともたくさんある。だから、「客観的な真実がある」と言うとき、必ずしも私たちが理解できるものとは限らないということを、まず覚えなければならない。
例えば、家庭として金銭を使うことについての客観的な正しさというものがある。家族に入ってくるお金と出ていくお金のすべてについて、私たちは神にさばかれることになる。「何が正しくて何が正しくないのかは、自分自身が決めることだから、客観的な真実というものはない」という話にはならない。とは言え、他の人のお金の使い方をさばく権利は私にはない。「どうしてあの人はあんなに高級車に乗っているのか」と言って他の兄弟をさばく権利は私にはない。その人の主人は私ではなく、神である。事実その人のお金の使い方は間違っているかも知れない。「そういうお金の使い方は間違っている」と心に思うのは構わない。自分を吟味し、自分に言い聞かせ、自分自身が正しく行なうことができるためには、そう思うことは良いことである。但し、もしそれが極端なケースであれば、他の人に話すこともあるかも知れない。
しかし、パウロは「負債を持つな」と教えているので、この箇所は負債の話をしているわけではない。客観的にはっきりした話をしているのである。お金の使い方において、神の御前でさばかれるようなところはあるかも知れない。しかし、兄弟姉妹がお互いをその次元でさばいてはならないのである。けれども、はっきりと罪を犯すようなお金の使い方をするなら、それは互いに戒めあうべきである。そのようなケースは話が違うのである。
またセンスの問題もある。センスの問題も神の御前では客観的なことである。神は豊かにセンスのある御方である。私たちは神の似姿であり、いかなる場合も秩序がないセンスは良くないのである。それは服装についても、ヘアスタイルにしても、家の中も、コンピューターの中も、心の中も、頭の中も、秩序がなければそれは問題なのである。いつの日か、センスにおいて私たちは皆成長するであろう。けれども、センスの問題でお互いをさばき合う必要はないということも覚えるべきだろう。勿論、勧めたり助けたりすることを否定しているわけではない。
そいいうわけで、5節と6節は、客観的なことを否定しているのではない。客観的な基準というものがあることを知るべきである。すべての事について、私たちが日常気にもしないようなことにおいても、客観的な真理というものがある。但し、客観的な真理があるからといって、それが単純且つ簡単に理解できるものだということも言おうとしてはいない。客観的な真理がすべての事においてあるからといって、お互いをさばき合うことができるというわけではない。5節と6節でパウロは、どのような問題なのかについて話している。古い契約から新しい契約に移行する時代なので、何が正しいのか、何が正しくないのかが問題となった。それは今の私たちの時代にはないものであった。
しかし、今日でも、クリスチャンになった時に個人の経験においてはそれに似た経験をする部分もあると思う。つまり、仏教の環境で育った人がキリストを信じてクリスチャンになったときに、場合によっては「これはしてはいけないことだ」と思う事があるかも知れない。その場合も、他の人をさばくのでなければ、自分に限ってならばそれを守っても問題ないと思う。その他の宗教の背景を持った人も同様である。ヒンズー教だった人の場合には実に大変なことになる。そのカースト制度の教えは非常に細かいたくさんの定めがあるので、その背景からクリスチャンになった人にとっては大変な試練となる。場合によっては真っ向から反対しなければならない事もあれば、徹底的にやめさせなければならない事もあるし、「どうぞ自分でよく考えて決めてください」と言えるような事もあるわけだ。
今の時代でも、その移り変わる状態にあるクリスチャンたちは、そのような問題にぶつかることもあると思う。そういうわけで、パウロはここで宗教的な問題について話しているのである。客観的な基準があることは否定していないし、何でも自分の好き勝手にしてよいとも言っていない。クリスチャンはあくまでも、この世と調子を合わせずに、御言葉の基準に立って生きるものであることに変わりはない。その点を忘れてはならない。
本当の問題
食べ物と特別な日に関する問題は、それ自体大した問題ではなかった。もっと深いところに本当の問題があった。7節以降のところでパウロは、「主イエス・キリストのために生きる」という原則について話している。8節でパウロは「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と言っている。これは7節の中にも出てくる原則であるが、「私たちは誰一人として自分のために生きている者はなく、自分のために死ぬ者もない」とパウロが言うとき、それは「クリスチャンである私たちの中では誰一人として自分のために生きるべきではない」と言っているのである。
私たちは、すべてにおいてキリストのものとして生きているはずだ。だから、食べる人も、食べない人も、キリストのためにそうするのであって、どちらも主イエス・キリストに感謝をささげているのである。日にちを守る人はキリストのために守っているのであり、どの日も同じだと考える人もキリストのためにそうしているのである。クリスチャンは、主イエス・キリストに自分の全生涯を捧げている者である。それが中心的なポイントなのだ。だから、「旧約聖書の中に書かれてある儀式律法を守るか守らないか」ではなくて、「自分の人生を主イエス・キリストに捧げているのかどうか」が問われるのである。そのことをパウロは強い人にも弱い人にも言っている。
土曜日を礼拝の日に定めると言うなら、それを本当にキリストのためにそうしているかどうかが問題なのだ。その事を言うとき、弱い人の良心を取り扱っているのである。弱い人に対して、「間違った変な良心を持っていても構いません」とは言っていない。弱い人の間違いをパウロは、はっきりと正している。「もし土曜日にユダヤ人の会堂に行って礼拝を守るなら、キリストのために行なっているかどうかを確認しなさい」と言っているのである。習慣だからとか、迷信や恐れからだとか、皆がやっているからとか、伝統だからとかいうものであってはならない。守るなら、キリストのためにそれを守りなさい。そのように話すことによって、弱い人の変な良心を直してあげてるのである。食べない人も、食べる人も、主イエス・キリストのためにそうしているなら、それは良いことなのだ。
ユダヤ人の間では、豚肉を食べることが一番頻繁に起こる問題であったと思われる。それは旧約聖書の律法の中で命じられていることであった。ローマ帝国では犬や猫を食べたりはしていなかったし、豚肉、馬、エビや貝類等は食べていたが、他には旧約聖書で禁じられているものはほとんど食べていなかったようである。私たちもそれと似た食生活をしている。その中で特に豚肉はユダヤ人にとって問題であった。用心深いユダヤ人にとって、異邦人が処理した肉はすべて避けることが現実的には唯一の選択肢であったようだ。そのユダヤ人たちに対してパウロは、「もしも迷信的な思いを抱いて食べないというのなら、それはだめだ」と教えている。「食べないと言うなら、キリストのために食べないでいなさい」と、パウロは言うのである。
食べない人は、その思いを、「主よ。私はどうしてもそれを食べることに抵抗を感じます。食べたら、あなたに対して悪いことをしているように感じるのです。それ故、主よ。私はあなたのために、これを食べません」という思いに変えなさい、と教えているのだ。そのように祈って、それで食べないでいるなら、それは主イエス・キリストに目を留めているのであって、他の兄弟をさばく気持ちになることもないはずである。そして、「本当は食べても良いのだ」というポイントをもだんだんと感じるようになるはずである。なぜなら、主にあってはすべての物はきよいからである(20節)。パウロはその弱い兄弟の良心を直してあげているのだ。
良心の基準は旧約聖書の律法ではない。良心の基準は人の目でもない。人の目を気にしているためにそうするのは良心ではない。「皆が見てるよ。見られてるよ」ということが問題なのではない。「主イエス・キリストが私を見ておられる」ということが問題なのだ。「主イエス・キリストがこの事を見てどう思うだろうか」と考えるべきである。スーパーや電車の中でよくお母さんたちが子どもに「ほら、皆が見てるでしょ」と言っているのを聞くが、誰が見てようと関係ないのである。いつもそのように言ってると、子どもにとってそれが倫理の基準になってしまう。つまり、皆の目を恐れるような子どもに育ててしまうことになるのだ。人の目は少しも問題ではないのだ。主イエスが見ておられるということを教えるべきなのだ。「主イエスに目を留めて、主イエスがどう思うかを心配しなさい」と、教えるべきである。そのようにパウロは、弱い人にも強い人にも教えている。
強い人も、変な意味で自由を考えて「何でもしてよいのだ」と思うなら、それもどうにもならない愚かなことだ。常に主イエス・キリストのために食べる、そして飲むのである。「私は特別な日にちを守らない」と言う人も、キリストのためにそうしなさい。当時のユダヤ人も、クリスチャンに改宗した人は、「今日は土曜日です。私も私の先祖も今まで千年以上も土曜日にはあなたを礼拝してきましたが、クリスチャンとなった私は、もうこれをしなくてもよいことがわかりました。この日を守るよりもむしろ私は、今日よく働いて、日曜日に休んであなたの安息日を守ります。今日は働く日としてあなたに捧げます」という祈りをささげることは十分に考えられることだと思う。問題はあくまでもキリストのためにやっているかどうかである。
ここでパウロは一番深い原則について語っているのである。皆さんは今日、なぜ教会に来たのか。キリストのために来たのだろうか。本当にそのように主イエスに告白できるだろうか。そこが問題の核心なのだ。明日あなたが会社に行くとき、キリストのために行くのだろうか。主のために仕事をしているだろうか。起きるのも寝るのも、キリストのためだろうか。テレビを見るときも、キリストのために見てるのだろうか。変な誤解をしないでほしい。私は、それができない事だとは思わないのである。交わりも、キリストのためにしているだろうか。私たちにとって、人生の根本課題は「主のために生きているか否か」ということに尽きるのだ。
本当に自分自身や周りの環境を神の御国という観点から見ているだろうか。自分の金銭、時間、賜物を、主とその御国のために使っているだろうか。実際は小さな事柄が突如として山のように見えてくるのは、たいていの場合、自分自身の目的や意見に没頭しているときである。だから何であれ、「キリストのためにやっているのか」ということが問題なのだ。その点において、私たちは自分の心をさばく必要がある。
これは自分をさばくときの最も大切な基準の一つである。「私は主イエス・キリストのためにこれをしている」という確信がないならば、「それをするな」という話になる。信仰から出ていないなら、それは罪だからである(23節)。クリスチャンの人生のすべては、神にささげる生きたいけにえとして送るものでなければならない。パウロは12章1節で、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの論理的な礼拝である」と言っているが、その心が問われるのである。「主のためにしなさい」ということが原則なのである。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
この信仰の確信を持ってクリスチャンは生きなければならない。そのように生きる時、クリスチャンの心は感謝で満たされるはずである。なぜなら、私たちはパウロが9節で言っていることを知っているからである。パウロはこのように説明して教えている。弱い兄弟が主のために節制し、強い兄弟が主のために食べるなら、彼らは主の御前で一つとなるであろう。はっきりとキリストに焦点を合わせるならば、暦のことも食べ物のことも二次的なものとなる。二次的な事柄は、私たちの目が第一の事柄に焦点を当ててないときに問題となるのである。これは弱い兄弟においても強い兄弟においても共通の問題なのである。9節でパウロが言っていることに目を留めよう。
キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
「また生きられた」は「よみがえられた」ということである。主イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、そしてよみがえってくださった目的は、「私たちの主となるため」であった。「主となるために」と言うとき、それは「メサイアとなるために、また王となるために」という意味である。私たちは、救われたときに、この世から神の御国に移されたのである。御国には、私たちの主がおられる。そこでは、私は主ではない。個人一人一人は自分の主ではないのである。キリストが主である。キリストは、キリストを信じるすべての者の主であり、王である。
私たちは主のために生き、主のために死ぬ者である。「主イエス・キリストは私たちの主となるために十字架上で死んでくださり、そしてよみがえられた」と告白するとき、「贖われなければキリストのものになることはない」と告白しているのである。主イエス・キリストはご自分を無にして、ご自分を否定して、私たちのために死んでくださり、よみがえってくださった。それは、私たちを罪と死から贖ってご自身のものとするためであった。そして、「主のものとなった」ということは、「キリストに自分の人生のすべてをささげるものとなった」ということである。それ故パウロは、10節から12節のところでその原則に立って最終的な結論を次のように語っている。
キリストのさばきの御座
それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
「主のために生き、主のために死ぬ。食べるにせよ、食べないにせよ、すべてを主のために」と言うとき、パウロは最終的に「私たちはみな主にさばかれるのだ」ということを教えているのである。だから私たちには、他の人をさばいたり、弱い人を侮ったりする権利はないのである。その人をさばくのは主なる神である。神は、私をもさばきたもうのである。私の問題は何なのか。私の問題は、「さばき主の御座の前に立つ日にどうなのか」という問題である。それがクリスチャンにとって究極的な問題である。兄弟をさばき、兄弟を侮り、兄弟を軽んじることは、主イエス・キリストによって私たち皆がさばかれるという事実を忘れることである。「隣の人はどんな服を着ているのか、何を食べてるのか、何時に起きてるのか、何をしているのか」というのは最終的には私の問題ではない。
しかし、パウロは、私たちがさばきをすべて放棄すべきだと言っているのではない点に留意していただきたい。神がご自分のさばきを宣告しておられる事に関しては、私たちは、その仰せに従って兄弟にそれを告げるべきである。隣人である兄弟が明らかに聖書に書いてある罪を犯したとき、その人に話す機会が私たちに与えられたなら、私たちは神の御前にあってその人に悔い改めを勧める義務がある。神がご自身のさばきを明らかに宣告しておられる事柄を躊躇してさばかないなら、それは神の御心が明らかでないのに性急にさばいてしまうことと同じくらいに厚かましいことなのである。
しかし、神が明白な基準を与えてないところにおいては、私たちはすべてのことが明らかになる日まで、主を信頼して待てば良いのである。いわゆるセンスの違いや宗教的な個人的な思いや気持ちの違いのために兄弟をさばいてはならないのである。しかし、今の時代では考えにくいところもある。先週も話したアメリカの田舎のバプテスマ教会の例が一番わかりやすいと思うが、女性が口紅をぬると罪、女性が髪を短くするのも罪、ズボンを履くのも罪、スカートも足首を覆うくらいに長いものでないと罪になる。そのような考え方は聖書にはないものであり、客観的に言えば実におかしいことである。罪意識を感じるなら、しなければよいのである。自分の良心を神の御前に置いて、自分が正しいと確信していることだけを行なわなければならない。
そのポイントは、「私は神にさばかれる」ということを心配して事柄を決めるということである。「神の御前で、時間についても、思いについても、口から出す言葉についても、私は主のさばきを受けることになる」ということを常に覚えなければならない。主イエスは恐ろしいことを言っておられる。マタイの福音書12章36節を見てほしい。
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
「むだなことば」とは、あまり深く考えもせずに、つい口から出てしまう言葉、怒った時に出てしまう言葉、ふざけている時に出してしまった言葉などである。軽率に思慮もなく口から出た「あらゆるむだなことば」について、私たちは神の御前でさばきを受けることになる。これは裁き主なる主イエス・キリストご自身が言っていることである。「私たちは皆、すべての事について神にさばかれる」ということを心配すべきである。その事を知っているなら、私たちには、隣人がどうのこうのと心配する余裕などないはずである。自分について心配しなければならないところは十分過ぎるくらいにあるのだ。「私はさばかれるために主なるキリストの御前に立たなければならない」というこの不可避な現実について時間かけて真剣に考えるなら、すぐに他の人をさばくという私たちの傾向は弱まるはずだと思う。
だから、「キリストのためにこれをします」という確信があるなら、喜んでそれをしなさい。確信が持てないなら、それはすべきではない。確信をもってあなたの出来ることを「主のために」しなさい。そうするなら、主イエス・キリストのために生きる思いは深められ、自分は主イエス・キリストのものだという確信、思い、心が深められる。「今日の事、今日の会話、今日行なったことについて私たちはさばかれる」ということを毎日覚えて歩むべきである。勿論、言うべき事を言わなかったことについてもさばかれる。心の中の会話についてもさばかれるのだ。キリストこそ私たちのさばき主である。そのことを覚えるなら、二次的な事柄や重要ではない事柄に関して自分と異なる見解を持つ人との人間関係において、私たちはもっとへりくだるに違いない。
そういう観点からすれば、「さばきが怖い」というのではなくて、自分は主イエス・キリストの御前にあって、本当に主イエス・キリストのために生きているかどうかを心配しなければならないのである。それが自分にとって最大の関心事でなければならない。「神は怖い裁き主だ」と思っているなら「私の主」という思いになってはいないのだ。「キリストは私の主です」と告白するとき、「主イエス・キリストのために私のすべてをささげたい」という思いであるはずなのだ。「キリストは私のために死んでくださって、よみがえってくださった、私の救い主です。すべてを私に与えてくださり、永遠の愛をもって私を愛してくださった。そのキリストの愛に、私は応えたい」と思うはずである。何を主イエスにささげることができるのか。自分のすべてである。それがローマ人への手紙12章の結論であった。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
そこから最後の部分が始まっているのだ。これが前提なのである。神に自分のすべてをささげた者として生きるのである。14章の弱い兄弟と強い兄弟について話すときにも、ある意味ではそのポイントに戻っていると言える。自分を神にささげなさい。神はご自分の民をおさばきになることを知れ。あなたは主の御言葉を守り行ないなさい。そこに目を留めなさい。そして、キリストの御前に立つ日のことを考えなさい。主イエス・キリストの御前に立つそのさばきの日のことを本当に考えるならばどうなるかというと、もっとよくお互いを愛し合うことができるようになると、パウロは教えている。
ペテロの第一の手紙4章8節でペテロは、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」と言っている。「多くの罪を覆うからです」とペテロが言うとき、それは互いが愛し合うことによって互いを赦しあうことである。なぜ互いを赦し合えるのかというと、クリスチャンは、自分がどんなに赦されたかを深く知っているはずだからである。自分はどんなに赦されたかを知れば知るほど、お互いを赦しあうことができる。主のさばきの日に目を留めるならば、他の人の罪を重く考えたり、他の人のセンスの問題や意見の違いを重く感じたりしないはずである。むしろ、「私は主のために何をすべきなのか」をもっと考えて一生懸命に求めるはずである。そして、もっと深い兄弟愛をもってお互いを赦し合うことができるはずである。パウロは、14章4節でこう言っている。
しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
主イエス・キリストのしもべを愛し、互いを励ましあって、キリストに目を留めて歩むようにパウロは勧めている。自分を本当に主イエス・キリストにささげる生きた供え物として人生を送りなさいと教えている。そういう意味で、パウロはどのような問題を取り扱うにしても、キリストの十字架に戻り、主のさばきの日に戻るのである。最も根本的な、最も大きな、最も深いところに、常に戻るのである。「このような神にさばかれる。このような実にすばらしい愛が与えられている。だから十字架に目を留めて、キリストに目を留めて、歩みなさい」というところにいつも戻るのである。そのことをパウロは私たちに教えている。
聖餐式もそのために与えられている。毎週私たちは、主イエス・キリストに戻り、十字架に戻って、「私は主イエス・キリストのものです。主イエス・キリストに私のすべてをささげます」という心を新たにするのである。神は喜んで私たちの罪を赦してくださる。そのために主イエス・キリストの十字架を表わす聖餐式を私たちに与えてくださった。
聖餐式を与えるたびに、神は私たちにご自分の愛を注ぎ出してくださる。「わたしはあなたを愛して、わたしの独り子イエス・キリストをあなたに与えました。このパンと、このぶどう酒は、キリスト・イエスご自身が与えられたことを表わすものです」と、神が私たちに語っておられる。パンを受け、ぶどう酒を受けるとき、私たちは主イエス・キリストご自身を受け入れるのである。「受ける」という意味には、「神の愛に応えて自分を神にささげる」という意味が含まれている。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2002年6月2日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com