ローマ人への手紙15章1〜3節
15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
2002.06.23. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
弱さを担う
15章1〜3節
ローマ人への手紙の15章に入る前に、14章の全体的な流れをもう一度簡単に説明しておきたい。14章でパウロは、教会の中での強い兄弟と弱い兄弟の問題について話している。強い兄弟と呼ばれる人たちは、どちらかというと異邦人が多く、弱い兄弟と呼ばれる人たちは、どちらかというとユダヤ人が多かったようだ。弱い兄弟がどんな意味で弱いのか、何につまずいているのかというと、安息日についての旧約聖書の律法全体、そして食べ物の事などにである。彼らはユダヤ教の背景をもって生活してきたので、「それらの定めは今でも守らなければいけない」というような思いを拭い去れなかった。それは律法主義者たちのように「すべての人がそれを守らなければならない」と思っていたわけではないが、自分の良心において「それをしなければ自分は汚れてしまう」という気持ちになってしまうという問題であった。
パウロはその人たちを「弱い者」と呼んでいる。そして、「強い兄弟」とは、旧約聖書に書かれている神の律法(儀式律法を含む)が子どものための古い契約の教えであることを理解していた人たちのことである。新しい契約は、大人の契約である。大人になったら子どもの時に学んだことを忘れるとか捨ててもよいということではないが、子どもが守るように守るということでもないのである。特に旧約聖書の暦のことや食べ物、住まい、衣服等についての教えは、知恵を得させるための定めである。それ故、「大人の状態になったなら、文字通りにそれを守るのではなく、その律法の心を知って生きるべきである」ということをパウロは教えている。そのことをパウロは他のところで詳しく説明している。
それ故、強い兄弟たちは、新しい契約の時代においては、「肉は何であれ食べてもよい」ということを知っている。弱い兄弟は、例えば豚肉を食べるなら、してはならないことをしているような気持ちになる。それは自分の良心の問題なのだ。そして、弱い兄弟は、強い兄弟が豚肉などを食べるのを見ると、「いけない事をしている」と思ってさばくのである。一方で、強い兄弟は、弱い兄弟が豚肉を食べたりしないのを見て、彼らを見下すのである。そのような地域教会の中の二つのグループの摩擦の問題についてパウロはここで取り扱っている。
これは正しく認識すべき大切な箇所なので、数週間かけて繰り返しそのように説明してきた。15章に入ると、このことは基本的にユダヤ人と異邦人の問題と重複していくのがわかる。確かに弱い兄弟の中にも強い兄弟はいたであろう。パウロ自身がユダヤ人なのに強い兄弟であった。また、異邦人の中にも、旧約聖書を読んだときに「自分も旧約聖書の定めに従わなければいけない」というふうに思い込んでしまう弱い兄弟もいたと思う。単純に広い観点から見るなら、弱い兄弟にはユダヤ人が多く、強い兄弟には異邦人が多かったと思われる。
14章の中でパウロは、強い兄弟と弱い兄弟の両方に対して、三つの命令を与えている。これらの命令は、凡そどんな問題にも適用できるほど、クリスチャンの生活には不可欠な事柄を取り扱っている。しかも、パウロの適用は極めてその命令に相応しいものである。最初の命令が「さばくな」という命令である。それは両方のグループに対して言えることなのだ。弱い兄弟が強い兄弟の行なうことを見てさばくのはいけないことだと、ずっと強調されている。そして、強い兄弟が弱い兄弟を見て見下したり侮ったりするのも、別の意味でそれは「さばく」ことになる。弱い者と強い者は、キリストにさばきを委ねるのではなく、それぞれ違ったやり方ではあるが、互いをさばき合っていた。
そこでパウロが強調しているのは、「さばき主はキリストであって、私たちではない」ということである。だから、「さばきを主イエス・キリストに委ねなさい」とパウロは命じている。これが第一の命令である。「さばきを主イエス・キリストに委ねなさい」と命じるとき、それはまさにこの14章に書いてあることなのだ。この命令の意味をしっかり覚えておかなければならない。マタイの福音書7章で主イエスは「さばいてはいけません。さばかれないためです」と教えている。「兄弟をさばくあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのか」と、主イエスは問う。そして、「自分の目の中の梁を先に取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができるようになります」と教えている。
その「さばくな」という話をしているときに、主イエスは「すべてのさばきをやめなさい」と教えているのではない。「まず自分をさばいてから他の人のことを考えなさい」と命じているのである。さばくことを全部止めるなら、犯罪者を取り扱うことも出来なくなるし、地域教会の中の罪の問題をも取り扱うことができなくなるので、そういう話でないのは明らかである。その話のすぐあとで主イエスはさばきについて教えている。パウロは、コリントへの手紙、コロサイへの手紙、またエペソへの手紙の中でも、人の罪を取り扱っている。それはさばきである。「それを止めよ。クリスチャンはそのような生活をしてはならない」と言うのは、さばきなのだ。だから、どんなさばきもしてはならないという話ではない。
パウロは、自分の個人的な意見や好みなどによって人をさばくのではなく、神の御言葉に書いてあることをそのまま適用して罪を取り扱っている。そうするとき、それは自分で他人をさばいているのではなくて、神のさばきを宣言しているのである。神のさばきは御言葉にはっきりと書いてある。「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽りを言うな」「むさぼるな」などは御言葉にはっきりと書いてある。盗む者の罪を取り扱うとき、それは自分が個人的に他人をさばいているのではなく、神がさばき給うことを宣言し、適用しているに過ぎない。
神は、「豚肉を食べなければならない」ということを教えていないし、「食べてはいけない」とも言っていない。だから、弱い兄弟と強い兄弟の問題については、「神のさばきを適用する」という話にはならない。それは、自分の思いや感覚を基準として他人をさばくことになるのだ。そういう意味で「さばいてはいけません」と、パウロは14章で教えるのである。すなわち、「強い兄弟も、弱い兄弟も、みな主イエス・キリストのしもべである。なぜあなたは他人のしもべをさばくのか。さばきを主イエス・キリストに委ねなさい」という話なのである。
二番目の命令は、「愛のうちに歩みなさい」という命令である。互いにさばき合っているローマの教会は、強い者も弱い者も愛のうちを歩まない危険に瀕していた。強い兄弟の行いを不敬虔だと言ってさばくことで弱い者たちは自分の兄弟から離れるように誘惑されるし、強い兄弟は弱い兄弟とその良心のとがめを見下すことによって、弱い兄弟がそのたましいを滅ぼしてしまうような罪を犯すように導いてしまう危険性があった。パウロは、「あなたの兄弟がつまずくなら、あなたはもはや愛によって行動してはいない」と言っている。「兄弟が信仰において駄目になるなら、あなたは愛の道を歩んではいない」と言うのである。特にこれは強い兄弟に対する警告の言葉である。それを簡潔な命令として言うならば、「愛のうちに歩みなさい」という命令である。強い兄弟は弱い兄弟に対して愛を保たなければならないし、パウロの観点から見れば、弱い兄弟も強い兄弟を愛さなければならない。そのように互いにキリストの愛のうちを歩むなら、強い兄弟と弱い兄弟の問題はなくなるはずである。それがパウロの教えているポイントである。
三番目の命令は、「信仰に従って歩みなさい」である。「信仰によって歩む」というポイントは、この文脈において特別な意味を持っている。これは14章の最後のところで教えていることである。このポイントも、特別な意味において考えなければならないものだ。弱い兄弟は、例えば、豚肉を食べれば神の御前で自分は悪いことをしたという気持ちになる。それは良心の問題だということを既に説明した。それで、「豚肉を食べることは、もはや禁じられてはいない」という信仰がなければ、食べてはいけないのである。「神の御前にあって、自分が罪を犯しているというような思いになるなら、食べるな」とパウロは言うのである。信仰をもって行なうなら、それは祝福となる。「いけない」と思いながらそれを行なうなら、自分の良心を殺してしまい、良心は働かなくなってしまう。それは悪いことである。
だから、例えばこのようなレベルの問題について考えるとき、「良心が間違ってるとしても、自分の良心に従いなさい」とパウロは教えるのである。誤解せずに聞いてほしい。信仰をもって生きることを教えているのである。前後関係においてパウロは、はっきりと、「クリスチャンにとって食べてはいけない物は何もない」と教えているのである。「その物自体で汚れている物は何一つない」と、はっきり断言している。だから、客観的に言うなら、どうしても豚肉を食べてはいけないという気持ちになる人は、食べなくてもよい。それだけのことである。しかし、隣に座っている異邦人がそれを食べても、その人をさばいてはならない。「自分の良心に従って歩みなさい」と、命じられているのである。弱い兄弟たちは、客観的に言えば彼らの良心は間違っているけれども、それでも自分の良心に従いなさいと言っているのである。
その命令に従うなら、即ち信仰に従って歩むなら、時間が経つにつれて、彼らも強くなり、教会の中には弱い兄弟はいなくなっていくはずなのである。それは今日の教会において表わされていると思う。私たちの中では、いくら旧約聖書を読んだり学んだりしても、「豚肉を食べてはいけない」というような気持ちに悩まされる人はいないのではないか。しかしアメリカの教会の中には、ユダヤ人でクリスチャンになった人たちの中に旧約聖書の食べ物についての律法を守る人たちがいる。その人たちは、「ユダヤ人に対して伝道できるために、それを守らなければならない」という思いを持っているようである。それが賢いやり方かどうかは別として、今の全世界のほとんどの旧約聖書の律法の定めにおいて良心の問題があるのは、そのようなグループしかいないのである。
そういう意味で、良心が間違っていることを明確に指摘することによって、その人たちの良心も信仰を保つことによって正しい方向へと少しずつ変わっていくことになる。「信仰によって歩んでいないときはいつも罪を犯している」ということは一般原則である一方、この文脈において強調されている点は、目の前にいる弱い兄弟の問題に関わることである。「それぞれが自分自身の良心において納得しているとおりに行ないなさい」という命令は、「自分のしていることについて神の御前に確信を持たなければならない」という意味である。私たちが申し開きをしなければならないのはこの御方であるからだ。
稀なケースではあるが、良心が間違って命じるとき、それに逆らわなければならないことも有り得る。それは、自分の良心と神の明確な命令とが矛盾するときである。例えば、私の古い知人で、「日曜日の朝起きたときに、教会に行きたい気持ちがないのに、それでも教会に行くなら、それは偽善的なことだ。偽善的な礼拝をささげたくないから、行く気にならない時には行かない」と私に言った人がいた。彼の偽善者についての定義は違っていた。そして、教会に行って礼拝をささげることの意味に対する考え方も違っていた。その時、私は彼に、「たとえ行きたくない気持ちがあっても、神の御前に出るべきだ」と言って、教会に行くべきことを彼に説明してあげた。
そのような少し変な考えの人がいて、朝起きて「今日は行きたくない。行けば私は偽善者になる」と思っているとしても、私たちは彼に対して「あなたの気持ちがどうであっても、これは神が命じたことであり、すべきことであるので、ただ神の命令に従って歩むことこそあなたの良心の最も深いところでなければなりません。だから、神の御前に出て、礼拝をささげましょう」と言ってあげなければならない。その場合は、自分の思いがどうであっても、すべきことを正しく行なうべきである。そして、自分の気持ちを、その成すべき事に従わせるようにしなければならない。自分の思いを神の御言葉に従わせるのである。例として不十分かも知れないが、これは実話である。
それゆえ私たちは、神にさばきを委ねて、互いにさばくことを止めなければならない。そして、愛のうちに歩み、信仰に従って歩まなければならない。そのようにパウロは強い兄弟たちと弱い兄弟たちに話している。問題は、弱い人たちが、強い人たちの行なっていることを見て、自分の良心に反してそれを真似してしまい、自分の良心を殺してしまい、その良い事を行なうことによって神から離れてしまうことである。豚肉を食べることは良いことなのだ。その良いことを「いけない」という思いを持ってするとき、良心は麻痺してしまって、その“良い事”を行なうことによって神から離れてしまう。そのようなことのないように、パウロは警告の言葉を与えている。14章で教えている強い人と弱い人の話は、まとめればその三つの命令に要約することができる。即ち、「キリストのさばきの座を覚えて生活せよ」「愛のうちに歩め」「信仰に従って歩め」である。この14章の教えをしっかり覚えて、15章に入りたいと思う。15章1〜3節を見てほしい。
キリストに倣う
1私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。2私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。3キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
ここでパウロは、強い兄弟に対して、これまで以上に深い教えを与えている。これまで以上にキリストに真摯に従うように命じるのである。14章の最初のところでは、どちらかというと弱い兄弟に対して「さばくな」というポイントが強調されていた。だんだんとパウロの教えは、強い兄弟に対する強調が目立ってくる。そして、「私たち力のある者は」と言っている。はっきりとパウロ自身は自分が強い兄弟の側に立って話していることを明らかにしている。同時に、自分を強い兄弟と自負する人たちに対して、パウロは、「あなたは本当に強いのか」と問いかけて、訴えているように思う。強い兄弟と弱い兄弟が争っている問題は実にくだらないレベルの低い問題であった。豚肉を食べるか食べないか。土曜日を休みにするのかしないのか。日曜日に礼拝はするが、土曜日をまた安息日として守りたい。或いは一年間の中のいろいろな祭りを守るべきかどうか、というような実に低いレベルでの争いであった。
強い兄弟も弱い兄弟も、ある意味で共に信仰においては足りない者である。神に目を留め、神の栄光のみをひたすら求めるということにおいて、双方とも弱い者であった。「あなたは強いのか。食べ物について深い理解があると言うのか。このことについて、あのことについて、他の人よりも知っていると言うのか。それならば、強い人の意味とは何なのかを説明してみよ。そのことを一緒に考えてみようではないか」というふうにパウロは語りかけているように思うのである。「力があると言うのか。では、何のために力があると言うのか」と、全教会に問いかけている。そして、それは「力のない人たちの弱さをになうためである」とパウロは言う。そのためにこそ力は与えられているのだ。
単純な例だが、仮に身長190センチで体重300 キログラムの筋肉ばかりの人間がいるとする。何のために彼にそのような身体が与えられているのかというと、人をいじめるためだろうか。そうではなく、弱い人を守り、他の人を助けるためなのである。特別な力が与えられているなら、それは他の人を助けるためであり、人を守るためである。普通の学校に行った人ならわかると思うが、小学生なのに16歳くらいの体つきのいじめっ子がいて、人をいじめたりすることがよくある。自分が強ければ、弱い者を見下してしまうものなのだ。
兄弟の中で兄である者はよく聞きなさい。あなたは弟たちや妹たちよりも図体が大きいが、それはなぜなのか。どうしてあなたは他の兄弟たちよりも力ある者なのか。それは小さい兄弟たちを守るためなのである。いじめるためではない。他の人よりも自分の方が強いなら、それは、自分よりも弱い人を助けるためなのだ。子供たちの間でも同じことである。なぜあなたは兄なのか。兄として生まれなくてもよかったのではないか。兄として生まれ、一番力があるのは何のためなのか。それは他の兄弟を守るためなのである。しかし、自分よりも小さい者をいじめる人がいる。それは実に罪の深いところである。実に悪しきことなのだ。その心は実に汚いものになっている。
「力ある者は、力のない者たちの弱さをになうべきだ」ということは、「何かの意味で力が与えられているなら、その力には責任がある」ということなのだ。他の人よりもあなたは頭が良いのか。それはすばらしいことだ。それ故に、あなたの責任は重いということになる。どんなことであっても、特別な祝福は特別な責任を意味するものだ。それは、自分よりも弱い者を助けるために与えられている。絶対に見下すためではないし、さばくためではないし、いじめるためではない。自分に何かの力があるならば、或いは何かの点において他の人よりも優れているならば、弱い者を憐れんで助けるべきである。それが本当に力ある者の歩む道だとパウロは言う。
ローマの教会の中で、異邦人たちはすべての点でユダヤ人よりも優れているとは限らない。食べ物について強ければ、霊的なことについてもよくわかるわけではない。いわゆる強い兄弟が自分の力を見て傲慢になるなら、15章1節を読むとき、「もしかしたら、私は強い兄弟ではないのかも知れない」という気持ちになるかも知れない。強いのは良いことだ。すばらしいことである。しかし、そこには責任が伴う。弱い者たちを助ける責任があるのだ。そのようにパウロは強い兄弟たちに対して言っている。強い兄弟は弱い兄弟のために戦い、助け、そして導く筈である。
これは全教会に適用される原則である。強い者が本当の意味で成長した強い者であるなら、そして彼らが本当に弱い兄弟たちよりも理解があるのなら、その理解がより大きな責任を伴うものであることを彼らはわかっていなければならない。ここに「真の意味で強くなりなさい」という、強い人たちへの命令がある。弱い兄弟が死ぬ日まで弱い場合もある。死ぬ日まで、いつも強い兄弟たちに助けられて生きる場合がある。いつも強い兄弟は弱い兄弟を荷物のように背負って行くようなことにも成り得るのだ。しかし、それでよいのである。力が与えられたのは弱い者を助けるためなのだから、ひたすら助けてあげればよいのである。弱い兄弟も、自分が強くなって他の兄弟を助けることができるようになるのを求めなければならないのは事実である。
ジャン・バニヤンの「天路歴程」という本があるが、バプテスト派の信仰に立って書かれたそのストーリーは極めて個人主義的なものになっており、日曜日の礼拝や家族の話などはみな物語から外されてしまい、個人だけが神を求めて歩むような話になっている。しかし、バニヤンは「天路歴程・第二部」を書き、クリスチャンの妻と子どもが天国への旅に出かける話を続編として出した。その中に、強い兄弟が何人か出て来て、いつも弱い者を助けており、それによって弱い者も守られて無事に天国にたどり着く。そういう意味で、その第二部の内容にはもっと教会の姿が表わされていると言える。力が与えられているならば、弱い者を助ければよい。力のある限り、そうすべきである。そのためにこそ力が与えられているからである。
力は神からの賜物であり、弱い兄弟の弱さを担うために与えられているものである。力と祝福には必ずそれ相応の責任が伴うことを覚えよう。神学において何か特定の事を理解することには、本当の意味であまり大きな知恵を必要とはしない。教会の歴史を顧みるとき、道徳的に未熟な人たちもカルヴァン主義神学の教理や正しい聖書的終末論について確信しているのを見る。自分勝手で自己中心的な人であってもキリスト者の学者になり得るのだ。特に、学問が聖書の知恵よりも世俗的な知恵の模範に従っており、主イエス・キリストとともに心へりくだって歩むことよりもデータを把握することに重きを置いている時代は尚更そうである。
パウロが強い兄弟たちに語っている知識は、それに従って生きる責任を与えるものである。理解において成長するとき、これは考えなければならない一つの危険性である。このような知識は、よりいっそう神を畏れる者となるように要求する場に私たちを置くものである。何事においても、理解が増すことには特別な喜びがあるものだ。だが、理解するという祝福もまた重荷を伴うものなのだ。理解を得た者は、その真理の光の中を歩まなければならない。その真理を日々の生活に適用し、まず自分を、そして兄弟たちをも神の取り扱いの下に連れて来なければならないのである。
次に、「自分を喜ばせるべきではありません」とパウロは言う。ここでパウロは少し違うポイントについて話している。既に言ったように、祝福が与えられたなら、責任も与えられたのだ。だから、「自分を喜ばせるべきではない。私たちは一人一人、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきである」と、パウロは言う。「隣人を喜ばせる」というのは、隣人の罪の手助けをすることでないのは当然のことである。その人の徳を高めることを行ない、その隣人が神の御前で益となるように助けることなのだ。「喜ばせ、徳を高め、益となるようにする」という三つのことは一緒に考えなければならないことである。
強い兄弟が自分を喜ばせるような生き方をしてはならない。強い者が学ぶべき不可欠の真理とは何か。彼らが学ぶべきことは、「何かの権利があるからと言って、それを行使しなければならないわけではない」という点である。その意味をパウロは3節ではっきりと説明している。「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです」とパウロは言う。主イエス・キリストでさえ、自分を喜ばせることはしなかったのである。もしご自分を喜ばせることを考えたなら、私たちを救うためにこの世に来られることもなかったのだ。しかしキリストはむしろ、私たちのためにご自分を否定してくださった。
だから、「強い」とはどういう意味なのかというと、「他の者よりもキリストに似た者になっている」ということなのだ。特別な祝福が与えられているのである。他の人よりも力があると言うなら、クリスチャンの場合、それは「主イエス・キリストに近い」ということに他ならない。そうであるなら、「キリストがなさったように、あなたもしなさい」ということになる。キリストはご自分を喜ばせることはなさらなかった。私たちを喜ばせてくださったのである。そのことをパウロは私たちに話している。
キリストが十字架の上で私たちの罪のために死んで下さったのは、ご自分を喜ばせることではなかったのだ。「わが父よ。できることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と主イエスは祈っておられた(マタイの福音書26章39節、マルコの福音書14章36節)。自分を喜ばせるためなら、十字架の道を行かなかったであろう。しかし主イエス・キリストは御父を喜ばせるため、そして私たちを救うために、十字架上で死んでくださった。そういう意味で、「主イエス・キリストは私たちを喜ばせた」と言うことができる。マルコの福音書10章のところで、弟子たちが、誰が偉くなるかについて口論したときに、主イエスは次のように彼らに教えられた(10章42〜45節)。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
主イエス・キリストは十字架上で私たちの罪のために死んで下さった。それは、私たちに仕えることであった。強い御方である主イエス・キリストは、私たちの弱さを担ってくださったのである。私たちの代わりに、その重荷を負ってくださり、私たちの罪の贖いを成してくださった。それが強い兄弟の本当の意味なのだ。パウロはその同じポイントをピリピ人への手紙2章で話している。恐らくパウロはこれと同じことをいろいろな時にいろいろな教会で教えたのではないかと思われる。箇所によっては非常に詩的に書かれており、昔の教会で賛美の歌にもなっていたと言われている。ピリピ人への手紙2章3〜8節を見てほしい。
3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
この日本語訳はおかしいということを以前に話したことがあるが、「自分よりもすぐれた者と思いなさい」ではなく、原語の意味は「自分よりも大切だと思いなさい」というものである。主イエス・キリストは私たちを見て、私たちをご自分よりも大切だと思ってくださった。ご自分よりも私たちの方が優れていると思っているはずはない。能力においても正しさにおいても愛する心においても、主イエスはすべてにおいて私たちよりも優れているのは明らかである。だから、自分の方がはっきりと能力があるのに、「隣人は私よりも優れた者だ」と無理して考えなければならないという話ではない。しかし、「隣人の方が自分よりも大切だ」と思うことはできる。
それ故、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」とパウロは言うのである。そして、キリストの模範を私たちに明示するのである。神であられる御方が、ご自分を無にして、私たちに仕える姿をとり、人となられて、ご自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われた。他の人を自分よりも大切だと考え、他の人のことを顧みる心、そのような思いはキリストのうちに見られるものだと、パウロは言う。キリストは、天にあるご自分の栄光を取っておいて、私たちを顧みず、助けなくてもいいとは思わなかった。ご自分を喜ばせようとはされなかったのである。私たちの方が大切だと思ってくださり、天の栄光を置いておいて、この世に来てこの世に人間となって来てくださり、人間として歩み、従順の模範を示してくださり、十字架の死に至るまで、ご自分を無にしてくださった。私たちを大事だと思い、私たちの罪の罰までも受けてくださった。
ピリピの教会の人たちはローマ帝国の国籍を持っている人たちなので、どんな罪を犯しても十字架の死にはならない。十字架の死は、奴隷とローマ帝国の国籍を持たない者たちに対する最も残酷な拷問の死だからである。自分たちには絶対に有り得ないその死刑に至るまでも、主イエス・キリストは彼らのためにご自分を卑しくしてくださったのである。ピリピの教会の信徒たちには、それがわかったはずである。そのように、主イエス・キリストはご自分を喜ばせるためにこの世に来られたのではない。そのキリストを信じるが故に、私たちは自分をクリスチャンだと告白しているのである。クリスチャンであれば、主であり救い主であるキリストが歩まれたように歩むはずである。クリスチャンは、キリストのあとに従って歩む者なのだ。主イエス・キリストの真似をする者である。
この御方を信じ、その大いなる愛を悟るなら、私たちはこの御方が歩まれた道を歩むはずである。即ち、救いに至る神の御恵みがこの世において広まるために私たちは自分自身を否定するのである。それ故、「自分を喜ばせてはいけない」と、パウロは言う。何が良いのか、何が神の御国において正しいのか、何が他の兄弟にとって祝福と成るのかを真剣に考えて、それを行なわなければならない。たとい、何を食べるのが正当か、どの食物は食べてはならないものなのかというごく日常的な領域においても、キリストに似た者となるという責任を自らに課すことなくしては、キリストに関する成熟した知識を持っていると主張することはできないのである。
自己中心的な思い、自分にとって何がいいのかばかりを考え、自分を楽しませるような思いを中心にして歩むなら、それはクリスチャンではない。簡単に言えば、それはアメリカ的な世俗的な思いだと言ってよいと思う。実に個人主義的で、「私は、私のしたいことをする」と言う。そのように強い兄弟が自分の権利を主張するなら、教会の中の関係は崩壊していくであろう。キリストの教会においては、強い兄弟は弱い兄弟を助けるものである。それは主イエス・キリストが示してくださった模範であり、強い者は自分を無にして弱い兄弟を助けるべきである。
ローマ人への手紙15章3節の後半で、「『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上に降りかかった』と書いてあるとおりです」と、パウロは詩篇69篇9節を引用して説明している。それはダビデが自分の経験について話している箇所であるが、それはメサイアがどのような御方になるかを言い表すものであった。ダビデも、神の御国にすべてをささげたために、神に対するそしりを自分の身に受ける状態に置かれていた。「主イエス・キリストもそうであった」と、パウロは説明する。パリサイ人たちは主イエス・キリストをあざけり、侮蔑し、苦しみを与え、ついに十字架に付けて殺したが、実のところパリサイ人たちは神ご自身を憎んだのである。
主イエスはヨハネの福音書8章で、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」とパリサイ人たちに言っておられる。また、「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたは私を愛するはずです」とも言っておられる。御父を知らないので、御子をも知らない。同様に、御父を憎むので、御子をも憎むのである。主イエス・キリストがそのように、私たちのために十字架上でそしりを受け、私たちのために死んでくださったこともそうだが、この箇所の最後のところは御父と御子の関係をも指していることに注目すべきである。キリストは御父を喜ばせようとしておられた。御父を喜ばせるために、ご自分のいのちを私たちのためにささげてくださったのだ。
つまり、三位一体なる神はその人格的関係において、御父も、御子も、御霊も、ご自分を無にして相手の祝福を求めておられるのである。私たちは、神の三つの位格の間にある完全なる愛の関係を見ることができる。私たちに対するパウロの命令は、その三位一体なる神のうちにある人格的な愛において示す自己否定の延長であることを私たちは理解する必要がある。なぜ神は、私たちを愛するときに、ご自分を無にして、ご自分を卑しくし、へりくだって、私たちをご自分よりも大切なものと思ってくださるのだろうか。それは、御父と御子と御霊の人格的な愛の関係において常に行なっていることなのである。
御父はご自分の権利を主張して、御子に対し、また御霊に対して厳しい命令を出して、「わたしの方が上だから、黙ってわたしに従いなさい」と言って異邦人のようなやり方をするわけではない。御父、御子、御霊なる神は、お互いを愛しあい、ご自分を無にし、ご自分を否定して、相手を祝福しておられる。御子がご自分を否定して御父の栄光を求め、御霊がご自分を否定して御子と御父の栄光を求めているのと同じように、御父もまたご自身を否定して御子と御霊を祝福される。互いに自分を否定し、互いを祝福し、互いの栄光を求めることは、三位一体なる神の契約の愛において本質部分なのである。常に三位一体なる神はその愛を保つ神であられるので、その神が私たちを愛してくださるときに、常に同じような愛を表わしてくださるのである。
主イエスは常に御父を喜ばすことを成しておられた(ヨハネの福音書8章29節)。御父の御心を行なうことが主イエスの食物であった。私たちを救うために天からおりて来られたことの意味が、ご自分の思いを行なうためではなく、ご自分を遣わした御父の御心を成し遂げるためであったからである(ヨハネの福音書5章30節、6章38節)。主イエスが語られた一つ一つの言葉(ヨハネの福音書12章49〜50節)と、その成された一つ一つの行ない(同5章20節と36節)は、御父の御心のみに従って成された。主イエス・キリストは十字架上で、御父のそしりを受け、御父を喜ばせようとして、私たちのために死んでくださった。そのことを指してパウロがここで語るとき、私たちは神ご自身の愛を知っているのであれば、その模範に倣おうとするはずである。すなわち、自分を否定して、相手の祝福を求める心を持つはずである。それは主イエス・キリストが私たちに対して行なったことであるし、御父に対しても同じ心を表わしておられる。
そういうわけで、強い者はキリストの愛の道を歩むように命じられている。主イエスが十字架上で私たちの罪のために死んでくださったとき、御父を憎む者たちのとがめをご自分の上に負われたが、そのとき、最も究極的なかたちにおいてその愛は表わされたのである。メサイアであるキリストが、神に対する人間の反抗と憎悪という重荷を負ってくださったのと同じように、神の民である私たちも自己否定的な愛をもって歩むように命じられている。すなわち、私たちは神を憎む者たちのそしりに耐えることができなければならないということである。また、もし神の御国に自らを敵対させる者たちのそしりに私たちが耐えなければならないのなら、本当の意味で神の御国に対して戦うつもりはないのにそうなってしまっている未熟なクリスチャンのそしりにもまた耐えることができなければならないのである。
私たちはキリストの愛をもって互いに耐え忍ぶべきである。それは、神が私たちを赦してくださったことを信じるところから生じる義務なのである。だから、力があって強いと自負するなら、「私は偉い。私は自分のしたいことをする。私にはそれができるのだ。私は他の人よりも優れている。私は特別だ。私に従いなさい」という異邦人のような思いを持ってはならない。そのような思いではなくて、主イエス・キリストのように、人に仕える心をもって歩むのである。力があるならば、弱い兄弟の弱さを担うべきである。この箇所を読んだ強い兄弟たちは、きっと自分の弱さを教えられたに違いないと思う。このようなところにおいて、私たちはみな、実に足りない者であると思う。主イエス・キリストの十字架の愛を見るとき、私たちは自分の罪と愚かさに直面するのではないか。
パウロは、教会の中の食べ物という些細な問題について話すとき、ここまで深く、すばらしい神ご自身の愛について話すのである。キリストの十字架の愛について話している。実にちっぽけでくだらない問題にぶつかったときも、そこが出発点となるのだ。「そこに目を留めて、信仰によってその小さな問題をまじめに考えなさいと」と、パウロは私たちに教えている。毎週の聖餐式の目的は、十字架の下に戻って主イエス・キリストの愛を覚えることである。このときに私たちは、神がどのような御方なのかを思い出して、感謝をささげて自分の心を正すのである。
何が重大なのか。何が大きな問題なのか。何が小さな問題なのか。その区別を正しくして、本当に神の御前で正しく歩むことができるために主イエス・キリストの十字架を覚えて、感謝の心を新たにするのである。聖餐式の目的はそこにある。正しく聖餐式を受けるなら、十字架が中心的な思いとなって感謝の心にあふれるようになるはずだ。そして、私たちは毎日の生活において正しい基準に立って歩むようになるはずである。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けよう。
――2002年6月23日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com