ローマ人への手紙15章3〜6節
15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
15:6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
2002.06.30. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
私たちを教えるために
15章3〜6節
ローマ人への手紙15章の1〜3節を先週見たが、そこでパウロはとりわけ強い兄弟に対して話している。簡単に言えば、「強い兄弟こそ主イエス・キリストのようにならなければだめだ」ということがパウロのポイントである。そこでパウロは、教会の中の取るに足らないような問題を取り扱うときの取り扱い方であっても、パリサイ人たちの取り扱い方とどんなに違うのかを明らかにしている。パリサイ人たちの場合、律法主義的に問題を取り扱い、自分たちで定めた律法のルールに従い、それらのルールとの比較などをしてそのルールを守らせようとしかしないような頭になっている。
ある意味で、彼らは官僚的な頭になっていると言ってよいと思う。何か問題があると規則が書いてある書物を出してルールについて永遠に議論し合ってなかなか結論が出ない。それらのルールは、パリサイ人たちや律法学者たちの間でしか語れないものになっていたようである。同時に、それはずるいものであったことを福音書から見ることができる。パリサイ人らはルールを作るときに、自分たち以外の人に対してはかなり厳しくルールを当てはめるが、自分たちに対してはそのルールから逃れる道をいろいろと作ったりしていた。強い兄弟は豚肉を食べることができるが、弱い兄弟はどうしても食べると罪を犯したような気持ちになる。
その問題をどう取り扱うかというと、パウロはパリサイ人がするようにルールを取り出してああだこうだと言って単純で官僚的な方法で取り扱ったりはしない。パウロは、「主イエス・キリストを見なさい」と、強い兄弟たちに言うのである。主イエス・キリストがどのような御方だったかを思い出しなさい。弱い兄弟に対しても同じような取り扱い方をしている。「あなたの心は、神の御前でどうなのですか。神の御前で信仰をもって行なうことができないならば、だめなのです。主イエス・キリストに目を留め、自分の心の中でいけないと思えば、それをしてはいけません」とパウロは教える。まことの生ける神との関係において、弱い兄弟の「食べてはいけない」という考えについての問題を取り扱うのである。
同時にパウロは、強い兄弟の「食べてもよい」という考え方をも取り扱う。そして、客観的に何が正しいのかということも明白に示している。「私たち強い者は」という言い方をしているし、強い兄弟が考えているように「神の御前では、聖い食べ物と聖くない食べ物の区別はない」ということもはっきり言っている。しかし、強い兄弟は、キリストがそうであったように、自分を無にして他の人の益を求めなければならない。キリストのように十字架を負って神に従う歩みをしなければならないのである。それで、強い兄弟も弱い兄弟も、主イエス・キリストに目を留めて互いを愛し合って問題を解決するのである。ルールがこうだああだからと永遠に議論するような解決の仕方ではない。「これがクリスチャンの問題の取り扱い方だ」ということを、パウロの教えから学ぶべきだと思う。
使徒パウロは、旧約聖書には触れずに主イエスの自己否定に倣うように勧めることができたはずである。なぜパウロはその要点を示すために詩篇69篇9節の後半を選んで引用したのだろうか。その答えとして、少なくとも理由の一つとして言えることは、この引用をもって、この後の勧めと励ましを支えるのに十分大きな土台を築こうとしている、ということがあると思う。というのは、次の節が御言葉の神学を、忍耐、励まし、希望の源として示しているからである。忍耐と慰めは聖書の御言葉から来るものだということを教えようとしている。希望は忍耐の心を強くし、聖書からの励ましを深めるのみならず、パウロの勧めの基本的な目的である「心の一致」を導くものなのである。
パウロは詩篇69篇9節の後半を引用して、「これはキリストのことである」と言っている。これはダビデが自分の経験を語っている箇所であるが、ダビデはキリストのひな型であることは既に学んだ。「メサイアのひな型である」という意味は、ダビデの人生にはメサイアを表わすパターンがあるということである。ダビデはイスラエルの王であったが、メサイアもイスラエルの王である。ダビデは神を愛してその御国のために戦い、御国の前進を求めたが、メサイアもそうである。ダビデはエルサレムに住んで神の神殿で礼拝をささげたが、メサイアは新しいエルサレムに住んで神のまことの神殿の中で大祭司として礼拝を導いておられる。いろいろな点でダビデとメサイアは平衡している。
また、ダビデはその正しさのゆえに悪をなす者らに憎まれたのである。なぜサウル王はダビデを憎んだかというと、ダビデの方がサウルよりも正しく、ダビデの方が神に愛されていたからである。サウルはそれを見て強く感じて、耐えられなかったので、ダビデを殺そうとした。それはダビデの経験であるが、罪の世界の中にあっては誰でも真に正しく生きようとするなら似たような経験をするだろう。しかし、ダビデの経験は特別なものであって、メサイアを表わすひな型として与えられた経験であった。
ヨセフや他の預言者たちや正しい王たちも、自分の人生において不思議な導きが与えられて、当時の人たちには理解もできなかったような目的をもって、彼らの人生を通してメサイアを表わしていた。ヨセフは兄弟たちによって奴隷として売られてエジプトに行き、死んだ者のような状態に置かれて、そこからよみがえったかのようにして王の右に座る者となった。ヨセフがそのことを経験したとき、「ああ、きっとメサイアもこのような経験をなさるのだろう」というようには考えなかったと思う。しかし、ヨセフは、自分は神のしもべであって、神が特別な目的をもってこの経験を自分に与えてくださったことを悟っていた。そのことをヨセフは創世記50章のところで兄弟たちに話している。
ダビデもそのことを十分に知っていた。そして、自分の人生において特別な意味のある試練が与えられるとき、自分がメサイアを表わす者として立てられているということを、ある程度まで悟っていたはずである。それで、ダビデの詩篇を引用するとき、パウロは、「実は、これはキリストのことなのだ」と説明するわけである。それは御言葉に対する主イエス・キリストの読み方とパリサイ人たちの読み方との大きな違いを表わしている。ルカの福音書24章を一緒に学んだが、そこで主イエス・キリストは弟子たちに、旧約聖書全体からメサイアについて書いてある事柄を説明したことが記されている。聖書のすべての箇所からメサイアについて、すなわちご自分について教えたのである。
主イエス・キリストが旧約聖書を読むとき、旧約聖書のすべてのストーリー、旧約の律法、旧約聖書の詩篇と箴言、他の詩の教えや預言の書、それらすべてがメサイアについて書いてあるということを弟子たちに教えてくださった。それ故、パウロたちも旧約聖書を読むときには、ただ単にダビデとかヨセフの物語として読むことをせずに、メサイアについて書いているものとして読むのである。その書かれたすべてのことが、主イエス・キリストの生涯において完全に成就した後では、もっとわかりやすくなっていたのも事実である。
主イエス・キリストが旧約聖書を教えたのと同じように、パウロはローマの教会に旧約聖書を教えている。それだから、この詩篇を引用して「これはメサイアについて書かれたことなのだ」と教えるのである。この詩篇69篇9節の引用は、異邦人とユダヤ人を御言葉の相続人として一つにする働きをしているのだ。詩篇を読むときに、キリストに目を留めなければならない。そして、キリストがどのような御方であったのかを悟り、私たちも同じようにしなければならない。そのことをパウロは3節で話してから4節の説明に入っている。
私たちを教えるために
4節でパウロは、「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです」と言っている。ここでパウロは強い兄弟についてしか話していないわけではない。1節から3節までは強い兄弟について話しており、4節の「私たち」という言葉は「クリスチャン」という意味であるが、前後関係において強い兄弟について話していることから離れているわけではない。このあとで異邦人とユダヤ人の話が出てきて、神が異邦人を救ってくださることについて話している。教会の中の弱い兄弟のほとんどがユダヤ人であったが、強い兄弟の中にもユダヤ人はいた。しかし、異邦人はだいたい強い兄弟であるはずなのだ。「聖書は私たちのものだ」と言うとき、当時の社会的な状態を考えれば、ローマの教会での「私たち」は、殆どが異邦人であった。ユダヤ人は教会の中では少数であった。だからパウロが「私たち」と言うとき、これはユダヤ人を指しているのではない。クリスチャンを指しているのだ。聖書は私たちクリスチャンのために書かれたのである。
そのことを言うとき、「なんだ。当たり前のことではないか。なぜそんなことを強調するのか」と思うかも知れないが、当時のことを想像してみる必要がある。当時は、聖書と言えば旧約聖書しかなかった。ローマの教会はローマ人への手紙を持っていたが、福音書がもう有ったとしても、新約聖書の全体はまだ書かれている途中の状態にあった。そのときに「聖書」と言えば旧約聖書のことであったのだ。しかし、旧約聖書はユダヤ教の書物であった。ユダヤ教の書物であり、すべてがユダヤ人によって書かれ、ユダヤ人が千五百年以上もかけて守り続けてきた書物であった。ユダヤ人が「これは私たちのものだ」と思うのは当然であり、その認識は非常に深かった。そこでパウロは、「いいえ。違います。そうではないのです」と異邦人に説明している。
実は、旧約聖書はユダヤ人の書物で、新約聖書はクリスチャンの書物だという考え方は、今日に至ってもクリスチャンの中でそのような考え方がよく出てくるが、断じてそうではない。旧約聖書は主イエス・キリストについて書かれた書物なのだ。キリストを信じてキリストに従って生活を送らない者には、旧約聖書の真理は通じないのである。「持っている」と主張しても、本当の理解がまったくないのである。キリストを信じなければ、旧約聖書はその人の書物ではない。エホバの証人は聖書の教えを否定しながら自分勝手な宗教のために聖書を利用している。モルモン教もそうである。キリストを信じないので、聖書はモルモン教のものではない。エホバの証人のものでもない。盗んで自分たちの欲のために利用しているだけであって、それは彼らのものではないのである。
それと同じように、イスラム教の教えにおいても、教理としてモーセ五書と詩篇と福音書は御言葉の中に含まれるということになっている。同時に、それらはみなクリスチャンによって駄目にされた書物なので、もう本物を持つことができなくなったからコーランを正典とすると言っている。一応聖書の背景を認めるような教理は持っている。聖書から借りて、聖書に反する宗教を作るというものである。そういう事もあるが、聖書を本当に自分の書物として持つ人たちは、キリストを信じて聖書のすべてにおいてキリストに目を留め、キリストについて学ぶのである。聖書全体が主イエス・キリストについて書いているということを聞いて、当時のローマの教会の人々は強いショックを受けるくらいな思いでそのことを深く感じたはずなのだ。
「昔書かれたこの聖書のすべての言葉は、あなたのためである。あなたを教えるために書かれたのである。あなたがキリストを信じるようになるために書かれたのである」とパウロは言う。祭司たちのためではない。聖書はキリストを信じる者たちのものであって、キリストを拒むユダヤ人の学者や律法学者に属してはいない。たとえユダヤ人の律法の専門家たちが聖書に関する多くの事実をローマの異邦人よりもはるかによく知っていたとしても、彼らのために書かれたのではない。当時エルサレムにはまだ神殿が存在していた。いけにえも旧約聖書で命じられたとおりに守られており、イスラエルはまだ定められた祭りを守っていた。それなのに、「その人たちのための書物ではなく、聖書はあなたたちの書物です」とパウロはローマにいる異邦人に言うのである。
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです」という言葉を読むとき、3節の御言葉の引用の仕方をよく覚えて読むべきである。つまり、「私たちを教えるために書かれた」ということは、「これは主イエス・キリストご自身が中心となっている書物なので、これは私たちクリスチャンの書物である」ということなのだ。そのような意味でこの箇所を読まなければいけないと思う。内容としてあまりに多くがユダヤ人に関わっているために、中心的なメッセージがキリストご自身であることを悟るまでは、その旧約聖書を自分のものと主張するのに躊躇する異邦人もいたであろう。しかし、キリストが私たちのものなら、キリストの御言葉も私たちのものである。古い契約の歴史は、この世が待ち望む“女の裔”、アブラハムとダビデの子として生まれるはずの“子孫”であるキリストに集中している。
律法の中心もキリストであった。犠牲制度はキリストの完全なる犠牲がささげられるのを待ち望んでいたからである。司法律法と社会のための律法は公義と正義の基準を示しているが、その基準もキリストが最も完全に体現してくださった。箴言が定義する知恵とは、他の誰よりもソロモンの“完全な息子”とはいかなる者なのかを描写していた。詩篇と預言の書は、予型と幻と直接的な約束とによってメサイアの到来を預言していた。このように、旧約聖書の御言葉のあらゆる部分で、あらゆる点で、キリストは中心であられ、この御方が中心であるがゆえに、聖書はまず第一にキリストを信じる者に属するのである。恐らく、詩篇69篇の引用には他の意味もあるだろう。例えば、ユダヤ人専門家が無視することによって自らの身に破滅を招いたのはちょうどこのような節ではなかったか。彼らがメサイアを殺したのも、このような預言を正しく理解しなかったためではなかったのか。
それ故、聖書全体が私たちのために書かれてあり、それは私たちを教えるために神が与えた御言葉である。父祖の物語すべて、イスラエルの律法、預言と詩と箴言は、私たちのものである。パウロは強い兄弟と弱い兄弟の問題を取り扱うときに、ついでに、「昔から御言葉に書いてあることは私たちを教えるために書かれたのだ」と教えるのである。ローマの異邦人の教会が旧約聖書を自分のものとして持ち、そこに書かれてある真理を真剣にクリスチャンとして求め、主イエス・キリストについて書かれた書物としてその真理を熱心に求めるようにと、パウロは励ますのである。
福音についての理解が足りないためにこの問題が教会の中に起きていた。なぜ福音についての理解が足りないのだろうか。なぜ福音を喜ぶ心が足りないのか。それは、旧約聖書に書いてあることを悟っていないからなのだ。メサイアはどのような御方なのかを、旧約聖書を知らなければわからないのである。「私は主イエスをメサイアとして信じます」と告白することにはどういう意味があるのか。そのことを悟るようにパウロは励ましている。そのためにパウロは14章と15章で、強い兄弟と弱い兄弟に御言葉を教えているわけである。続いて4節の後半でパウロは、「それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです」と言っている。
忍耐と励まし
旧約聖書に書いてある教えを正しく受け入れる者は、「忍耐と励まし」を受ける。旧約聖書に書いてあることは私たちのためである。御言葉の目的は、私たちに忍耐と堅忍、慰めと励ましを与えることである。旧約聖書の教えを理解するなら、必ずや「忍耐」を得、「励まし」を受ける。「忍耐と励まし」を受けることについて旧約聖書の教えから考えるなら、いろいろな箇所からそれを考えることができると思う。御言葉は昔の時代を生きた神の民の堅忍について語り、私たちに堅忍を教えてくれる。私たちは、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデのような、大いに苦しみ、しばしば妨害され、そして滅ぼされさえした人々を繰り返し見る。それでも、私たちはそれを読んで励ましを受けるのである。
例えば、預言者の書を読んでどのように忍耐と励ましを受けるかというと、イザヤ書、エレミヤ書、ダニエル書などでは、イスラエルに対して預言するときに「今は大変なとき」と言い、「神のさばきが、あなたがたの上にくだる」と宣言している。「今は大変なときだけれども、神が私たちを愛して私たちを救ってくださるから、主に信頼して、待ちなさい」と彼らは語っている。それは耳に優しくて聞きやすいメッセージなのかというと、とんでもないのである。ダニエルはまぼろしを見たときに、気分が悪くなって、耐えられなくなって倒れたのだ。ダニエルは、そのまぼろしの内容を好んではいなかった。それは自分が考えていたような救いではないからである。
ダニエルはメサイアを待っていた。七十年間も待って、その七十年間が終わって救いが来ると思っていた。ダニエルはイザヤ書を読むとき、そこでクロスがメサイアと呼ばれているのを見て、クロスがユダヤ人をカナンにもう一度導いてくれると思っていた。「ユダヤ人はカナンに戻り、エルサレムを再建する。それが救いではないか」と思った。ところが神はダニエルに、「歴史はバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国と続き、ローマ帝国のときに約束のメサイアは来る」と言い、それを細かくダニエルに啓示した。ダニエルはまぼろしを見る度に、「これを見て私は病気になった」「私は力を失った」「この幻によって私は苦痛に襲われた」「そのとき私は意識を失って倒れた」「私はひどくおびえた」という言い方を何回も記している。「必ず救われるから、五百年待ちなさい」と言われてダニエルは力を失ってしまう。
その五百年間はどうなるのかというと、苦しみが続くと言うのである。「五百年間苦しんだ後に救いは来る」というのが預言者たちのメッセージであった。そこに忍耐と励ましがある。「救いは必ず来るが、五百年間待ちなさい」と神は言う。励ましを信じるなら、忍耐をも受けることになるのだ。その苦しみの中にあって、神ご自身が共にいてくださるのである。苦しみの中で、神は不思議な導きをしてくださる。預言者たちはそのことを預言し、それが神に信頼する者たちにとっての忍耐と励ましとなっている。モーセの律法の中でも忍耐が教えられており、励ましがある。結局のところ、いけにえ制度も預言的なものとして与えられていた。繰り返し繰り返しそれを行なうとき、それはどんな意味なのかを考えなければならない。
即ち、メサイアが来る日まで、そのようないけにえをささげ続けなければならないのである。それを行なうことによって、メサイアが来るという約束を覚えて、待ち望むのである。メサイアが来る日まで、与えられた暦を守るようにイスラエルは命じられていた。メサイアが来る日まで、イスラエルの国家は神のすべての定めを守り行なわなければならない。律法のすべてがメサイアご自身を表わすものであったと言える。「旧約聖書の律法は一時的なものとして与えられていた」ということをパウロは説明しているが、それはパウロが書かなければ誰にもわからないような事ではなかった。モーセたちも自分たちに与えられた犠牲制度が一時的なものだということを理解していた。それが預言的なものであることもわかっていた。
旧約聖書の人々は、待っていたのである。忍耐をもって約束のメサイアを待っていたのである。メサイアは必ず来るという励ましを律法によって与えられ、「神はあなたの罪と咎を赦してくださる」ということを教えられ、いけにえをささげる度に神は彼らに励ましを与えておられたのだ。「罪を悔い改めてください。神はあなたを捨てず、あなたの罪を赦してくださる。神を待ち望みなさい」と、励ましてくださるのである。罪の赦しの約束と励ましは、律法の中で繰り返し与えられている。
旧約聖書のストーリーも同じである。アブラハムは自分の国から出て、神に従った。海辺の砂、空の星の数ほどの子どもたちが与えられるという約束を神は与えてくださった。名前も神によってアブラムからアブラハムに改名された。アブラハムとは「多くの国民の父」という意味である。しかし、年老いても子どもは与えられなかった。人に会って自己紹介をするとき、毎回、「私は多くの国民の父と申します」と紹介しなければならない。「そうですか。お子さまは何人ですか」と聞かれたら、「一人もいません」と答えなければならなかった。やっと一人与えられ、だいぶ経ってからやっと二人目の子どもが与えられたが、その状態は何十年も続くのである。名前と実体があまりにも違っていた。アブラハムの名前と実際の生活は逆説的であり、多くの試練に遭わなければならなかった。アブラハムの人生は楽しいばかりのものでは決してなかった。
ヤコブの人生はもっと苦しいものであった。パロの前に立ったときヤコブは、「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません」という証しをしていることからも、その人生が大変だったことがわかる(創世記47章9節)。「あなたはクリスチャンですよね。クリスチャンの人生とはどんなものですか」と聞かれて、「人生は短くて苦労ばかりです」と答えるならどうだろうか。しかし、パロの反応は「私もクリスチャンになりたい」というものだったのである。その箇所をよく考えてほしい。旧約聖書のストーリーを読むとき、忍耐を学ぶことになるのだ。
何十年間もアブラハムは信じて待った。そして、やっと長男イサクが与えられると、神は「その子どもをいけにえとして私にささげなさい」と要求したのである。驚くべき要求であるが、アブラハムは素直に「はい」と言ってイサクをささげるのである(創世記22章)。その試練を通して、アブラハムは更に忍耐を学んだのである。ヨセフはずっと奴隷にされて苦しい状態に置かれていた。その状態から救い出されて祝福されたとき、自分をエジプトに売った兄弟たちが現われて助けを求めた。兄たちはエジプトの宰相がヨセフだということを知らなかった。その時にヨセフは神のご計画を悟って、知恵をもって兄弟たちの悔い改めを確認してから、喜びに満ちて兄弟たちを祝福し、家族を大飢饉から守ったのである(創世記37章、同39〜47章)。何のために長い年月を苦しまなければならなかったのかということが、ヨセフは最後になってわかったのである。
今の時点ではわからない。今の時点では、ただ大変でしかない。今は、どうみても苦しみしかない。そう思っている人は聖書に記された人々に目を留めよ。ダビデの苦しみのすべてが正しさを行なったための苦しみなら、耐えやすかったであろう。「正しさを行なったからこの苦しみがある」ということはっきりしているなら、それは耐えやすいと思う。ダビデはとんでもない罪を犯し、その犯した罪が死ぬ日まで尾を引いたのだ。何歳で罪を犯したかというと、恐らく30代の半ばであったと思われる。ダビデは70歳まで生きたのだから、人生の半分を自分の罪のために苦しまなければならなかったのだ。私たちもそうであるが、歳を取れば取るほど、自分の罪の深さと愚かさがわかるものである。
50歳になっても、20年前や10年前に犯した罪の重圧が毎日毎日重くのし掛かって来る。それだけでなく、後にダビデはまたまた愚かなことをしてしまうのである。即ち、イスラエルとユダの人口を数えさせたことで神に対して罪を犯してしまう(第二サムエル記24章)。またアブシャロムの取り扱いにおいても間違いを犯したり、愚かなことをしてしまったりした。一回だけの罪のためだけでなく、何度も自分の罪と愚かさのために問題を起こしてしまったのだ。ダビデは私たちと同じように罪人に過ぎなかった。そのためにダビデは苦しまなければならなかった。しかし、その堅忍によって、最後には救い出されて祝福を受けたのである。
そのダビデのストーリーを読むとき、私たちは真の忍耐を教えられる。そして、自分が愚かであっても、罪を犯したとしても、悔い改めて立ち上がり、神の赦しと祝福を信じて前に進むのである。それしかないのである。神は私たちに試練を与えるが、実際に助けてくださり、ねんごろにあしらい、最終的には祝福してくださるのだ。ダビデのストーリーを読むときに、クリスチャンなら励ましを得るはずである。
ダニエルのストーリーはどうだろうか。罪を犯したわけではないが、二十歳になる前に宦官にされて、死ぬ日まで奴隷なのだ。一生結婚はできない。それは自分で選んだような道ではない。バビロン帝国の中にあって働かされ、実に大変な日々を送ったし、政治的な陰謀のような戦いに巻き込まれたりもした。刑務所に投げ込まれてライオンの餌にされようとしたこともあった。結婚はできなくても、少なくとも王の側近として楽することができたというような話ではない。毎日毎日とんでもないプレッシャーの中に置かれており、世界で最も力ある帝国の中の最も政治的に戦いの激しい中で、外人のユダヤ人なのに、神に忠実に従う者がいたのである。
聖書のストーリーを読むとき、忍耐を教えられ、最後まで耐え忍んで神に信頼することを学ぶのである。どのようにして神が救ってくださるかはわからないが、最後まで神を信じて待つことを学ぶのである。目を開いて見よ。神はヨセフを捨てただろうか。モーセを捨てただろうか。ダビデを捨てたのか。ダニエルを捨てただろうか。決して捨てはしないのである。これらのストーリーは、基本的に同じ方法で、慰めと励ましを与えてくれる。私たちは自分には理解できない試練や困難に直面する。神が何をなさっておられるのか、なぜなさっているのか、私たちには見えないのだ。時には諦めるように私たちは誘惑される。しかし、昔、神に忠実であった男女の模範は、神がその不思議な摂理により、必ず目的をもってそのことを成していることを私たちに思い起こさせてくださるのである。
これらのストーリーから、神の方法が“普通”ではないことを私たちは学ぶ。その名を不思議と呼ぶ御方なのだ。思い掛けない方法で働かれる神なのである。同時に、その誠実は、私たちを裏切ることがない。ご自分を信じる者には、御言葉を通して忍耐と励ましを豊かに与えてくださる。私たちは律法からそれを受け、預言者の書から受け、箴言から受け、詩篇から受け、歴史書からも受けるのである。
希望
だから、身をもって学んだパウロは、「それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです」と言うのである。忍耐と励ましは希望を生み出す。メサイアが世に来ることを、神はアダムとエバに約束してくださったが、いつ来るのかというと、四千年も待ってから来たのである。約束によって、忍耐と励ましを神はアダムとエバに与えてくださった。希望を持って生きる者となるためである。神は一度もご自分の約束を忘れたことはない。一度もご自分の民を裏切ったことはない。希望を持って生きるのである。
そのようにパウロはローマの教会に話している。ローマの教会にとって、希望は忍耐と慰めとともに最も重要なテーマであった。聖書の御言葉を本当に学ぶことは、希望を持って生きる者となるためである。希望を持つことについて、パウロは最後のところで非常に強調していることに皆さんも気付いたと思う。即ち13節で、パウロは次のように祈りをもって話すのである。
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
「望み」が非常に強調されているのがわかると思う。このようにパウロが教える理由の一つには、兄弟同士の争いが励ましを殺すものだからである。それこそがっかりするものであり、心が沈んでしまうものである。強い兄弟と弱い兄弟が教会の中で互いにさばき合うなら、そしてつまらない喧嘩が絶えないなら、どれほど励ましを失うことか。兄弟の間の仲たがいほど落胆させられることはないからである。それによって、「何が教会だ。何が神の民だ。何が救いだ」というような気持ちになるなら、もうおしまいなのだ。
ヨセフの兄弟を見てみよ。人を殺したり、自分の兄弟をも殺そうとしたり、実に大変な家族であった。兄弟喧嘩どころか、殺人に至るまでの兄弟喧嘩のような話なのだ。その中でヨセフは、最後まで神に望みを置き、信じて、忠実に神に従った。忠実に従った結果、投獄されたのだ。もっと苦しまなければならないことになった。そこでもまた忠実に神に従うのである。望みを失わず、信仰に硬く立って、神と共に歩んだ。それによって“よみがえらされて”王の右に座って支配する者となり、広い深い意味で神に仕える者になることができたのである。それ故、死を通して行かなければ、訓練は足りない。「たとい、死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです」と詩篇23篇4節にある通りである。
そのことをヨセフは自分の人生を通して深く悟ったはずである。死んだ者でなければ、よみがえることはできない。それで、死んだ者としての道を歩んだヨセフは、神によって高く上げられて、神に仕えることができる者となった。ヨセフたちは、「望みをもって歩んだ」のである。
ローマの教会では、強い兄弟と弱い兄弟が、教会の中でいろいろなつまらないことで争っていた。その彼らがまず学ばなければならないことは、主イエス・キリストに目を留めることである。主イエスに目を留めて、問題について考え直すべきである。そして、自分の心を神の御前で正す必要があるのだ。強い兄弟が、弱い兄弟の心について「こうしろ。ああしろ」と言って正すことはできないのである。弱い兄弟も、さばくことによって強い兄弟の心を変えることはできないのだ。自分の心に対して責任を持たなければならないのである。自分の心を神の御前で正しく保つことこそ、まずしなければならないことなのだ。
キリストに目を留め、本当に主イエス・キリストを愛して、主イエス・キリストに倣うのである。それによって正しく歩むのである。キリストに目を留めるとき、がっかりしたりはしない。忍耐を持って励まされて歩むことができる。「神に目を留めて歩むとき、望みをもって生きることができる」ということをここでパウロが話すとき、問題自体がつまらないものだということもあるが、同時に、ローマの教会はこれから大変な試練に遭うということもローマ人への手紙では前提になっている。パウロはいろいろな教会に警告している。主イエス・キリストの最後の預言の言葉を簡単に言うと、それは、「この世代が死ぬ前に、ローマ帝国が来てエルサレムの神殿を完全に破壊します。その試練の中で、クリスチャンたちも想像を絶する苦しみに遭います。その苦しみのあまりに信仰を捨てる者もいます」というものであった。
主イエスは、オリーブ山での最後の説教の中でそのことを教えているが、そのさばきの日の到来をもパウロは示唆していた。その主イエス・キリストの説教の内容は新約聖書のすべての書物の中にいろいろな形で出て来ているので、当時の皆が認識していたことだったことがわかる。大変な試練の時が来ようとしていた。大変な苦しみが来る。「それは四十年以内に来る」という預言をキリストご自身から受けたのである。パウロがこの手紙を書いたときには、もっと時は近づいていた。13章でも話したが、明らかにパウロはそのことを意識している。11節でパウロは、「私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいている」と言っている。「メサイアのさばきの時は近づいている。それはクリスチャンにとって試練の時になる」と教えている。
ローマ帝国全体がそろそろ深刻な数多くのさばきによって激しく揺すぶられようとしていた。そして、キリストの教会は、イスラエルを除けば、他の誰よりも苦しむはずであった。特にローマの教会は大変な時代に遭遇しようとしていた。そのような時に、取るに足りないちっぽけな試練の中でがっかりしたりして、こんど大きな試練が来た時に耐えられないのではどうしようもないのである。小さい試練も、大きい試練も、原則的には同じように取り扱うべきである。まず主イエス・キリストに目を留める。そして、自分の心を正すのである。神を信じて正しく歩みなさい。そうすれば、あなたは他の人々にも救いを与える器となるかも知れない。
「他の人たちはキリストに目を留めていない」と言って人を指さすな。他の人の問題ばかりを考えてはさばき、忍耐もせずに、がっかりして望みを失ってしまうなら、誰をも助けることはできなくなるのだ。助けるためには、まず自分の心を神に御前に正しく保たなければならない。ローマの教会はこのことを深く学ぶ必要があった。目の前に、実に大きな試練が近づいているからである。たくさんの人が信仰のために殺されることになる。したがって、過去において同様の試練に直面した聖徒たちの模範は、歴史の大いなる試練の時代に突入しようとしているローマにとって特別な関わりがあったのだ。とりわけ、苦しむ神のしもべメサイアの模範は、ローマの人たちに希望を与えたに違いない。「望みをもって歩む」という生き方は、信仰のゆえに殺される時には特に適用されるものである。メサイアが耐えられた迫害、苦しみ、死、その行き着いたところは神の右の座に高く上げられることであったからだ。苦しみは必ずしも神の御怒りのしるしとは限らない。それは勝利の備えともなるものなのだ。
これらの教えによって、ローマの教会は、教会内の問題を正しく考え、正しく取り扱うことを通して、忍耐強くなり、希望を保つことができるように励まされる必要があった。教会の祝福のために働き、一生懸命に子どもたちを神の御国のために育てたのに、その子どもたちがまだ小さいうちに、目の前で殺されていくのを見なければならないことになるのだ。そのような試練の中にあっても、「今までの人生の働きは何のためだったのか」と疑うようなことをせずに、尚も望みをもって、そのような試練の中にあっても耐え忍ぶのである。ローマの教会は実際にそれを経験しなければならないことになるのである。聖書から忍耐と励ましを得て、希望を持って歩むわけだが、5節でパウロはこう祈っている。
同じ思い
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
パウロは忍耐と慰めの神である御方に祈っている。この「忍耐と励ましの神」は、13節で「望みの神」と呼ばれている。私たちが御言葉から忍耐と励ましを受けることと、神ご自身が忍耐と励ましの神であられることが、明らかに平衡しているのである。御言葉は神のことばであるし、神ご自身から励ましと忍耐を受ける方法は御言葉のみにある。神は、忍耐と励ましを、御言葉を通して私たちに与えてくださるのだ。「キリスト・イエスにふさわしく」というのは、キリストに目を留めて歩むことであり、主イエス・キリストに従う者としてふさわしく歩むということである。それは、「一つの心を持つ」ということである。「互いに同じ思いを持つ」のである。
「互いに同じ思いを持つように」ということは、「皆が強い兄弟のように考えなさい」とか「弱い兄弟の思いを認めなさい」というようなことではなく、主イエス・キリストと同じような思いを持つことなのだ。自分を否定して他の人の益を求める歩みをして、神の栄光を求めるのである。その思いを皆が持つならば、つまらない問題の全部がなんとか解決されるに違いない。取るに足りない問題が解決されない一番の理由は、主イエス・キリストと同じような思いを持たないところにあるのだ。6節を見よう。
それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
私たちは、「互いに同じ思いを持つ」べきである。主イエス・キリストのように、自分を無にして互いの祝福を求め合うのである。心を一つにして、声を合わせて、神を賛美するのである。礼拝において、本当に神を礼拝する心を一緒に持つということは、私たちの一致するところである。その一致を失ってはいけない。教会の一致をパウロはここで求めている。ここでパウロが求めている一致は、強い兄弟と弱い兄弟を隔てている問題において妥協することでないのは明らかである。強い兄弟も弱い兄弟も、自分の考え方を相手に押し付けようとしないかぎりは、異なった意見ややり方があること自体は容認できることをパウロは既に述べている。また、パウロは神学的に強い兄弟が正しいことを明確にしており、それでも、弱いものたちにそれを強いてはならないことを教えている。
では、パウロがここで言っている一致とは何か。それは、キリストにある一致であり、キリストに似た者となることから生まれる一致のことである。ローマ人はみな、キリストがご自身を否定して人となってくださったときに持っておられたその同じ心を持つ必要があったのだ。十字架の姿勢を学び、その自己否定において主イエス・キリストに従う必要があった。それというのも、私たちはみな、共に神を礼拝する者とされたのである。ここにある表現はとても興味深いものだと思う。「主イエス・キリストの父なる神」という言い方をしている。翻訳としては正しいと思うが、ギリシャ語の書き方は少し違う。
それはともかくとして、パウロは前の箇所で、三位一体なる神の第二位格が、ご自分を低くして人間となられて、私たちの罪のために十字架上で死んでくださったことについて話しているが、御父をキリストの神と呼ぶとき、私たちはそのように救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストを覚えて、父なる神をほめたたえるのである。それ故、パウロは、「主イエス・キリストの父なる神」という言い方をするのである。これは特に、この世での主イエスの人生を、とりわけ十字架のことを思い出すように導く言い方ではないかと思う。そして、それはまさに私たちが覚えなければならないことなのだ。「受肉したキリスト。ご自分を否定してくださって十字架にかかってくださったキリスト。この主イエス・キリストの神を一緒にほめたたえましょう」という意味を込めて、パウロは私たちに教えているのだと思う。
ローマの教会の信徒たちが自己を否定する謙遜において一つの心を持つなら、彼らは礼拝においても一つの心を持つようになる。真の交わりを妨げる分派や争いがなかったなら、共に神に栄光を帰することができるようになるであろう。強い兄弟と弱い兄弟がともに、キリストに目を留めて、一つの心を持って、本当に心から神を礼拝するようにと、パウロは勧めているのである。すべてのクリスチャンが、他の人の祝福のために生きる者となり、主イエス・キリストの御前に一つの心、一つの思いをもって、霊とまことをもって神を礼拝する者となることをパウロは求めている。
そのことを話すとき、御言葉の意味のすべてはキリストに焦点を合わせていることをパウロは明らかに教えている。そして、旧約聖書を読むとき、キリストがすべての中心なのだと教えている。それを本当に学ぶなら、忍耐を持って、励ましを受けて、最後まで望みを失わずに、神の御国を求めて歩むことができる。そして、神を正しく礼拝することもできるようになるのである。これをパウロは、強い兄弟に対する励ましの言葉としてまとめているのだと思う。
私たちは皆、主イエス・キリストに目を留めて歩むために、どうしても特別な助けを必要とするものである。本当にキリストに目を留めて、自分の罪を捨て、主イエス・キリストに従う心を新たにしなければならない。そのために神は私たちに聖餐式というものを与えてくださった。聖餐式を行なうとき、私たちは自分の罪を捨てて、神に従う決心を新たにするものである。「私は神に望みを置きます。私は神に従います。私は、心を新たにして神の御心のみを行ないます」と、聖餐式のときにコミットメントを新たにするのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2002年6月30日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com