ローマ人への手紙15章7〜13節
15:7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、
15:9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」
15:10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」
15:11 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」
15:12 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」
15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
2002.07.07. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
異邦人、ユダヤ人、契約の望み
15章7〜13節
7こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。8私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、9また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」10また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」11さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」12さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
今日は、この15章7節から13節までの箇所をみたいと思う。この箇所を見るとき、明らかに弱い兄弟と強い兄弟の問題は、少なくとも部分的に異邦人とユダヤ人という二つのグループの人種的な問題に関わっていることがわかる。異邦人全部が強い兄弟で、ユダヤ人全部が弱い兄弟だとはかぎらないが、何かそのような関係があることは、読んでわかると思う。「互いに受け入れなさい」と言われているのはユダヤ人と異邦人なのだ。そう言ってから、ユダヤ人と異邦人の話に移っている。だから、ユダヤ人の中で食べ物や暦のことについて気にして間違った思いを持って心配している兄弟がいること、そして異邦人の中に弱いユダヤ人の兄弟を見下す者がいることがわかる。
それでパウロは、7節で「互いに受け入れなさい」と命じている。日本語訳では語順が逆になっているが、原語では、まず冒頭にこの命令がある。「互いを受け入れる」ということは、強い兄弟が弱い兄弟を見下してはならず、弱い兄弟は強い兄弟をさばいてはならず、互いを兄弟として愛し合うことであり、パウロはここでそのポイントを話している。これは主イエス・キリストが受け入れてくださったのだから、私たちも互いを受け入れ合おうということなのである。主イエス・キリストが受け入れてくださった者を、私たちも認めなくてはならない。その原則をパウロがここで教えていると理解してよいと思う。彼らが互いに受け入れ合うというその目的のために、パウロは父祖たちに与えられた約束を彼らに思い起こさせており、彼が宣べ伝えている福音は聖書の預言者たちに与えられた神の約束と一致していることを説明している。
パウロは手紙の最初の1章2節からそのポイントを語っており、そこから始まって今このように締めくくっているのである。ユダヤ人もと異邦人はどちらも神の契約の約束をに入れられたけれども、ローマの教会の人々は、それらの約束の成就には不可欠であるキリストの御からだの一致について考えることができていなかった。しかし、メサイアが来られ、新しい契約の福音がその大いなる祝福と共に新しく幕を開けた今、ユダヤ人と異邦人は一つのからだにおいて、共に望みの神にその望みを置き、喜びと平和をもって神を礼拝すべきなのである。
互いに受け入れよ
この最後の奨励の言葉は、この箇所全体の要点を繰り返し述べて念を押している。弱い兄弟と強い兄弟が互いに受け入れないのは、キリストのからだとして全く相応しくないことなのだ。今言ったように、もしキリストがある人を受け入れてくださったのなら、明らかに私たちもそうすべきである。キリストが受け入れてくださった者を私たちは如何にして拒むことができようか。私たちは、地域教会としてこれを原則としていることは皆さんも覚えていると思うが、パウロがこのことに触れているので、ここで少しだけ説明しておきたい。
教会によっては、教会員になる前に、そして教会員になるためには、教会の信仰告白を学ばなければならない。そして、信仰告白を学んだあとで、「はい。私はそれを信じて受け入れます」と告白しなければ、教会員になることはできないという考え方がある。そうすると、例えば、相手をクリスチャンと認めても、教会員としては受け入れていないし、聖餐式にあずかることも許さないことになる。それが広く教会のシステムになっているわけである。昔からの伝統に従っている教会のほとんどがそうなっている。
ルーテル教会の場合は、例えばアメリカのルーテル教会に行けば、クリスチャンになったばかりの人であれば、すぐには聖餐式にあずかれないのが普通である。聖餐式を受けるためには、一年間、或いは二年間、場合によっては三年間も教理問答の学びをしなくてはならない。教理問答の学びを終了して、「私はこの教理を受け入れ、信じます」と告白してから、やっと正式に教会員になることができる。それが普通なのだ。伝統的に言えば、正式な教会員にならなければ聖餐式にはあずかれないのが普通なのである。しかし、全部がそうだと言っているわけではない。去年、私がアメリカに帰ったとき、母の家の近くにある聖書を信じるルーテル教会に行ったが、「クリスチャンでしたら、どうぞ、一緒に聖餐式を受けてもいいですよ」と言われて、一緒に聖餐式にあずかった。だから、昔と違うように行なっている教会も出て来ているのは事実であるが、原則的にはまだそうではない。
長老教会もそうである。まず小教理問答を学ぶのに一年間、あるいは二年間はかかる。その勉強が終わったときに、「私はこれを信じます」と誓ってはじめて教会員になることができる。それから一緒に聖餐式を受けることも許されるというシステムなのだ。メソジスト教会は昔から比較的ルーズだったが基本的には同じである。私は1973年以来メソジスト教会に行ったことがないので、どのように変わっているか、また今の状態はどうなのかはよくわからない。バプテスト派の教会も、もっと早い時期に教会員になることはできるが、それでも教会員になるには三カ月とか四カ月はかかるのが普通で、それからでないと聖餐式が受けられないようになっている。
いずれにせよ、伝統的な教会のシステムとしては、正式に教会員にならなければ聖餐式が受けられないということもさることながら、「私は、本教会の信仰告白を認め、これを信じます」というはっきりした告白がなければ、教会員にはなれないのが普通なのだ。そのシステムは基本的に間違っていると、私は思う。これは厳密に言って聖書的なシステムではないと思うからである。同じ信仰告白でなければ一緒に聖餐式を受けることはできないというシステムにすると、はっきりとその人はもうクリスチャンだと認めても、正式には「この教会はその人を受け入れることはしない」と言っているようなことになってしまう。
それ故、私たちの教会では、教会員制度のところに書いてあるように、この教会で聖餐式を受けるためには、そして教会員となるためには、何が条件なのかというと、@三位一体なる神を信じ、A主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われることを告白し、B聖書が神の御言葉であることを信じるという告白があれば、即ち、昨日救われたばかりのクリスチャンでも告白できるような信仰告白があれば、ただちに教会員になることができるし、一緒に聖餐式にあずかることもできる。それが私たちの教会のシステムである。つまり、「キリストにある兄弟として受け入れなければならない者は、直ちに受け入れる」という原則を重んじるシステムになっているのである。
使徒行伝の16章で、真夜中にキリストを信じた者はその場でバプテスマを受けたことが記されているが、次の日曜日にはもう教会で一緒に聖餐式にあずかっていたことは疑い得ない事実である。同じ使徒行伝の2章を見れば、バプテスマを受けた人たちは、その日から一緒に聖餐式にあずかっていたのがわかる(2章41〜42節)。一年間とか二年間の訓練のあとでなければ聖餐式にあずかることができないようなシステムは、聖書の中には皆無なのである。当然ながら、昨日救われたばかりのクリスチャンは神学についてはそれほど深く理解していないので、信仰告白を誓わせることを強いるのはよくないと思う。「互いに受け入れることができるように」という原則を私たちの時代と状態において適用するなら、その人が一緒に聖餐式を受けることができるようにするのは最も基本的なレベルで受け入れることなのだ、と私たちは確信している。
パウロはここで、強い兄弟と弱い兄弟がお互いを受け入れ、お互いを認め合うように教えている。互いを兄弟として受け入れ合って、ローマにある小さな集まりの中で互いを主にある兄弟として受け入れて、一緒に聖餐式にあずかり、一緒に礼拝を守って神をほめたたえるのである。当時のローマでは、教会という建造物などはなかったので、あちらこちらで誰かの家に集まっていた。その中にあって、互いをさばきあったり、互いをみくだしたりしないようにと、パウロは教えているのである。主イエス・キリストが受け入れてくださったのだから、その人を受け入れなくてはならない。これが原則である。
その人はキリストのものであって、教会もまたキリストのものである。私たちのものではないし、何かの教団のものでもない。地域教会は、主イエス・キリストのみが主であって、教会はキリストに属するものなのである。主イエス・キリストが受け入れてくださる者を、私たちも受け入れなくてはならない。同時に、同じ原則において反対のことも言わなければならないと思う。即ち、「主イエス・キリストがさばく者を、私たちもさばかなければならない」ということも同じ原則である。キリストが受け入れない者を、私たちも受け入れてはならないのである。ここに、教会戒規と教会のメンバー制度などの最も原則的な要点がそのまま出て来ている。即ち、「キリストが受け入れる者を私たちも受け入れる」という最も基本的な原則である。
7節の日本語の新改訳聖書の訳は、「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いを受け入れなさい」となっている。他の訳をも見てみたい。新契約聖書訳は、「かるが故に神の栄光のために、キリストの我等を受け給う如く、汝等も互いを受けよ」である。また口語訳は、「こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである」となっている。そして文語訳は、「この故にキリスト汝らを容れ給ひしごとく、汝らも互に相容れて神の栄光をあらわすベし」である。新改訳と新契約聖書はだいたい似た訳になっており、文語訳と口語訳は共に少し違う訳になっている。
文節がどこにつくのかの解釈によっても違ってくるし、ギリシャ語の語順のとおりに解釈するのか、最後の文句を最初にもってくるのかなどの解釈によっても少し違ってくるが、翻訳としては両方とも可能である。確かに主イエス・キリストは神の栄光のために私たちを受け入れてくださったことも事実であるから、神学的にはどちらの訳も問題はない。しかし、原語の意味に忠実であるという点で、口語訳と文語体の訳の方が正しいと思う。「心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです」と言って神の栄光を表わす話が6節にあるし、9節には「異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです」という話がある。前後関係の中で、「私たちは神の栄光を表わす」という話が何回か出て来ている点に注目しなければならない。
英語では "glorify"という言葉が繰り返し出て来るが、日本語ではそれぞれ違う言葉に訳されている。6節と9節では「栄光」の動詞が使われており、7節は名詞が使われている。しかし、ここで「神の栄光を表わすように」と言っているのは、私たちが互いを受け入れ合うことが神の栄光を表わすことだと言っているのである。「神の栄光のために」という表現は、「キリストが私たちを受け入れてくださったように」そして「互いを受け入れなさい」というどちらのフレーズにも関わっている。キリストが私たちを受け入れてくださったので、私たちも互いを受け入れるなら、それは神に栄光を帰することになる。これはヨハネの福音書17章の主イエス・キリストの祈りの中にも出てくることだが、教会員がお互いを愛し合って一致を保つなら、それは神の栄光を表わし、神の御恵みを表わすことになるのだ。そのキリストの思いをパウロは7節で話している。
今の時代の教会はいろいろなグループに分裂しているし、いろいろな神学的な違いがある。その事に対してどう考えるべきか、どうすべきなのか、よく議論されるところである。しかし、まずお互いを聖餐式において受け入れるべきである。主イエス・キリストが認める者を、私たちも認めるのである。お互いの教会戒規を認め合い、互いを兄弟として認め合うのである。聖餐式がその妨げとなるようなことは決してあってはならない。だからと言って、信仰告白をできるだけ削って皆に合わせる必要もない。けれども、キリストを信じた者ならば、一緒に聖餐式にあずかることを許すべきである。
それは、兄弟として認め合うことであって、心を一つにして御父なる神を礼拝することである。「あなたたちはまだクリスチャンではない。私たちのグループに正式に入らなければ、クリスチャンとしては認められない」と言って拒むようなことをしてはいけない。神の栄光を表わし、教会の一致を表わすことを求めるべきである。そのことは、まず聖餐式において守られなければならない。聖餐式には、先に言った明確且つ単純な基本的な三つの信仰告白をする者ならば、誰であっても受け入れるところから始めなければならないと思う。そのように行なうなら、私たちは、もっと喜びに満ちて、恵みなる神の救いの栄光を表わすことができると思う。
異邦人とユダヤ人の問題は、毎日の生活のいろいろな事においてぶつかる問題である。実際に、食べ物について、着る物について、暦のやり方についてぶつかるなら、確かに生活を困難にすることも生じてくる。しかし、異邦人とユダヤ人が互いを認め合って一緒に歩むなら、神の御恵みを本当に特別な意味で表わすようになるのである。昔のローマ帝国の中では、ユダヤ人は周りの異邦人と一緒に歩んだりはできなかったのだ。一緒に食べたりもしなかった。異邦人とユダヤ人は一緒に歩むことができないのは、ローマ帝国の中でもよく知られていたことであった。だから、神の教会において、異邦人とユダヤ人が一致した心を持って歩むことができるなら、それは神の救い栄光を大いに表わすものとなるのだ。
私たちの場合は、異邦人とユダヤ人というような問題ではないが、西洋人と東洋人、或いは韓国人と中国人と日本人、或いは北の人と南の人とかの問題があるかも知れない。しかし、バベルの塔のさばきは既に取り除かれて、主イエス・キリストにあっていろいろな文化、いろいろな言葉、いろいろと異なる背景の人々が、一致を持って同じ神を礼拝することができるのである。神の御前に集まり、礼拝において一つの心、一つの声をもって、神を賛美することができる。そういう意味で、神の栄光を特別に表わすことができるものなのだ。教会はそのように、新しい社会であって、神の救いの栄光を表わすものとして立たされており、私たちはその意味でキリストにあって一つの身体、一つの教会なのである。アメリカ人の教会とか、中国人の教会とか、日本人の教会というようなことではない。キリストの教会なのだ。
そういう意味で、すべての教会は原則としては国際的なものであるはずなのだ。実際には場所によって日本人しかいない教会もあるだろうが、それが悪いわけではない。中国人だけの教会であっても、それで悪いわけではない。しかし、原則としては、キリストの教会は国際的なものである。すべてのこの世の分裂を越えて、神をほめたたえることにおいて一致を持つことができるのでなければならない。そして、それは神の救いの栄光を特別に表わすものだということを、パウロはここで話している。このパウロの教えを覚えて、私たちはクリスチャンとして行動しなければならない。これは、クリスチャンの歩みとして極めて大切なことの一つである。そこでパウロは、「神の栄光を表わすようにと、主イエス・キリストが私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いを受け入れなさい」と命じている。
契約
8節のところでパウロは、「異邦人とユダヤ人が一緒になるのはアブラハムの契約に基づくことであって、それはすべての旧約聖書の約束において語られていることである」と説明している。「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために」というところから始まるが、ここは「キリストは、神の真実をあらわすように」と訳す方がよい。ギリシャ語では「アレーセイア」という言葉が使われている。この言葉は一般的に「真理」と訳されているが、ここでは神の真実または誠実をあらわす言葉として使われている。神はご自分の約束を必ず守ってくださる。神は、ご自分の契約を守る神である。それ故ここは「神の真実をあらわすように」と訳す方がよいと思う。
「主イエス・キリストは、契約の神の真実をあらわす者としてこの世に来られて、ユダヤ人に仕える者となった」とパウロは話している。しかし、「ユダヤ人のしもべとなった」と言うとき、「割礼のある者のしもべとなられた」という言い方をするのである。「割礼のある者のしもべとなった」ということは、アブラハムの契約を指す言い方なのだ。割礼はアブラハムに対する契約の約束のしるしであった。それはヘブル人に最初に与えられた契約であり、パウロが引用する他の契約のすべての約束の土台なのだ。「割礼のある者」とは、「アブラハム契約の継承者のしもべとなった」という意味であって、「アブラハム契約のためにこの世に来た」というような言い方である。
新約聖書の冒頭、即ちマタイの福音書1章1節に、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてある。そこから新約聖書が始まっている。アブラハムの契約の成就のために、ダビデの契約の成就のために、主イエス・キリストはこの世に来てくださった。そのことは新約聖書のいろいろな箇所において宣言されている。パウロもここでそのことを話している。「割礼のある者のしもべとなられた」という言い方をするとき、「主イエス・キリストはユダヤ人のしもべとなり、イスラエルのしもべとなった」という話になるが、周知のとおり、主イエス・キリストはガリラヤとユダヤとサマリヤを巡っておられたが、ユダヤ人が住んでいるパレスチナから離れたことがないのである。ほとんど異邦人に話すこと話しかけられることもなかった。キリストの働きは、徹底的にイスラエルの家の失われた者たちに向けられていた。
「主イエス・キリストはユダヤ人のしもべとなった」と言うとき、実際にキリストはその受肉の時から、イスラエルに来られたのであって、異邦人の所に来られたのではないという事実をパウロは述べているのである。ヨハネも「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と言っているが、主イエスは30歳になり、バプテスマを受け、祭司としての働きを始められたとき、ユダヤ人に御言葉を教え、ユダヤ人を癒し、ユダヤ人にご自分をメサイアとして示されたのである。それゆえ、「キリストはユダヤ人のしもべとなられた」のである。この言い方をするとき、その前後関係の中には深い意味がある。
「主イエス・キリストがへりくだった心をもって私たちに仕えてくださったように、私たちも互いに対してへりくだった心をもって仕えなさい」ということを、パウロは15章で教えており、前の箇所もその前提をもって話している。主イエス・キリスト、神の御子、メサイアが、実に割礼ある者のしもべとなられたのである。それは主イエスご自身がが弟子たちに話してたことであった。このことを話すことによってパウロは、メサイアのへりくだりと自己否定の御恵みを指し示しているのである。私はマルコの福音書10章42〜45節の箇所を何回も引用しているので、皆さんもその箇所をよく知っていると思う。そこでは弟子たちが、誰が偉くなるのかについて口論していた。イエスはその弟子たちを呼び寄せて、次のように言われた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
「クリスチャンの中で偉くなりたい者は、仕える者になりなさい。先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と命じておられる。イザヤはキリストのことを「主のしもべ」と呼んでいるが、神に仕える者は、神の民に仕えなければならない。キリストが来たのも、「仕えるため」であった。しかも、その「仕える」ということは、多くの人を贖うために、自分のいのちを与えるということであった。主イエス・キリストは、ユダヤ人のしもべとなられた。それはユダヤ人に仕え、最終的に自分のいのちをもユダヤ人のためにささげたのである。そのことをマルコは話している。
もちろん、それはユダヤ人だけのためではなかった。主イエス・キリストはご自分の民のために死んでくださったのである。「キリストは、割礼のある者即ちユダヤ人のしもべとなられた。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためである」とパウロは言う。この「保証する」という言葉は、「確立する」或いは「成就する」と訳すこともできる。「先祖たちに与えられた約束を確立する」という言い方をするとき、その先祖とはアブラハム、イサク、ヤコブのことである。アブラハム、イサク、ヤコブのことを、ここでは「父たち」という言い方になっているが、彼らはイスラエルの父たちであって、これはアブラハム契約の話をしているのである。
アブラハムの契約は、神がアブラハムとイサクとヤコブに、創世記の中で何回も繰り返し約束として与えている契約である。その約束を成就するために、主イエス・キリストはこの世に来られたのだと、パウロはここで言うのである。主イエス・キリストは、その約束を成就するため、確立するために、この世に来られたのである。メサイアの究極的な奉仕は、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」であった。そして9節からのところでパウロは、旧約聖書のいろいろな箇所を引用する。これらの引用はすべて、異邦人がアブラハムの契約の成就に関わっているということを示すものである。
ここで、気が付くだろうと思うが、ローマ人への手紙の最初の1節から7節のところで、パウロは、「旧約聖書に書いてある預言者たちが約束した福音を私は伝えています。キリストによって私は恵みと使徒の務めを受けました。それは、神の御名のためにあらゆる国の人々(即ち異邦人たち)の中に信仰と従順をもたらすためなのです」と言っている。例えば4章のところでは、アブラハムの話、そしてダビデの話をしている。そして、「異邦人もこのように救われる」ということを説明している。ずっとローマ人への手紙の中で、アブラハムの話やダビデの話、旧約聖書の預言者たちの話が繰り返し出て来ている。異邦人とユダヤ人の問題もたくさん出て来る。その中でパウロがずっと前提として据えていることは、「旧約聖書の中に異邦人の救いの約束がある」という事実であった。
今や、主イエス・キリストが来られて十字架上で死んでくださり、そしてよみがえられた。その目的は、ユダヤ人だけを救うのではなくて、全世界を救うためなのである。「異邦人もユダヤ人も救われるのです」ということを、パウロはローマ人への手紙の中でずっと説明している。だから、教会の中の問題について話しているときに、パウロはアブラハム契約のところに戻るのである。摩擦となっている問題は、なんとも情けないことに、食べ物のことであった。本当はつまらない問題なのだ。しかし、そのような問題を考えるときにも、神の約束の御恵みを考え、キリストが受け入れてくれたことを考え、そして、これはアブラハムに与えられた約束の成就なのだということを説明するのである。
その原点、その最も深いところから、パウロは問題を考えるわけである。アブラハムの契約についてパウロが指している箇所は、ユダヤ人も異邦人もよく知っていたはずの箇所である。私たちの教会では、日曜学校の先生たちも子どもたちもよく知っていると思う。創世記の12章から、神はアブラハムに契約の約束を与えるが、それは旧約聖書の中では特にアブラハムとイサクとヤコブのストーリーの中で繰り返し与えられる約束であった。神がアブラハムに与える契約は1〜3節のところにある。
あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
ここで、「アブラハムの名が祝福となる」とある。そして、「アブラハムを祝福する者を神は祝福し、アブラハムを呪う者を神は呪う」と言うのである。アブラハムに与えられる祝福は、アブラハムだけにとどまらずにもっと広く与えられるものだということも明らかである。本当は、これを読むときに、呪われる者と祝福される者の両方がいることに目を留めるはずである。どうしてアブラハムを呪う者がいるのか。アブラハムは神によって選ばれたしもべではないか。「アブラハムを呪う者と、アブラハムを祝福する者」と言うとき、創世記の3章15節に書いてあることが思い起こされる。
読者は、ここで神がアダムとエバに与えた約束を思い起こすはずである。それは、神が蛇に対して呪いを宣言したときに与えた約束である。「蛇の子孫とエバの子孫の間に敵意を置く」と神は仰せられた。そして、蛇の子孫とエバの子孫の戦いはずっと続き、蛇の子孫は最終的に負けることになる。この話はアブラハム契約の中で繰り返し出て来ている。それ故、戦いの話が出たり、敵の話がいつも出て来たりする。「アブラハムの敵」とは、ユダヤ人の敵だとか国家間の戦いにおける敵というような政治的レベルの話ではない。アブラハムは神の祭司であり、神のしもべであった。アブラハムの敵は神を憎む者なので、アブラハムを呪う者を神は呪い給うのである。同時に、アブラハムを祝福する者は、アブラハムを神の祭司として認める者であるから、神はその者を祝福し給うのである。これはエバの子孫と蛇の子孫について言われたことである。
そして、このアブラハムに与えられた約束の最後の部分は、文法的にも約束の頂点となっている。即ち、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という約束である。「すべての民族は祝福される」と言うのである。アブラハムに与えられた祝福は全世界に広まるものなのだ。これは蛇の子孫とエバの子孫の戦いのことである。「その戦いはエバの子孫の勝利に終わる」ということを約束するものである。パウロはローマ人への手紙15章で「先祖たちに与えられた約束」と言っているが、繰り返し繰り返し出て来る約束はみなここに基づいているものなのだ。15章や17章などの箇所で何度もアブラハムの契約の約束のことが記されている。
22章で、アブラハムがイサクを神にささげたときにも、神はイサクを受け入れてくださった。つまり、殺さなくてもよいと申されたのである(創世記22章9〜12節)。その時、神はアブラハムの信仰を認めてくださって、もう一度アブラハムに契約の約束を与えている。イサクにもその約束を与え、ヤコブにも与えた。それで12章1〜3節までに書いてある約束が、繰り返しアブラハムとイサクとヤコブの話の中に出て来るのである。それは彼らの物語の中心的なポイントなのだ。そのように主なる神は、アブラハムとその子どもたちをご自分の祭司の民として選んでくださった。けれども、アブラハムの話も、イサクの話も、ヤコブの話も、全部異邦人との関わりがある点に注目しなければならないのである。
彼らの物語の最後に、ヨセフによって、神の民の祝福はエジプト全国に与えられることになった。異邦人もエジプトに来て食べ物を受けた。ヨセフは、国々に神の御恵みを与えるような立場になったのである。そのことは、創世記の最後の部分を見るときに非常に明らかにされている。ヨセフは主イエス・キリストのひな型であった。ヨセフはある意味で、死んで、よみがえって、パロの右に座して支配し、全世界に祝福を与えた。それと同じように、キリストは十字架にかかって死なれ、よみがえって、神の右の座に着座され、神の祝福をすべての人々に与える者となられたのである。だから、その先祖たちに与えられた約束をここでパウロは話しているが、それらの箇所を思い起こすのは、神の約束を信じる者にとっては極めて自然なことであった。
それ故、主イエスがしもべとして来られたのは、神の真実のゆえであった。それは、父祖たちへの約束を保証し、成就するためであった。これはまさしく福音の中心である。キリストは世に来られ、アブラハム契約を成就されたのである。今や全世界のすべての民が、神が誓われたとおりに、アブラハムを通して祝福されるのである。パウロはその約束が繰り返されている箇所をリストアップするかのようにして引用している。8節ではアブラハムを指し、9節ではダビデから引用している。9節を見よう。
引用聖句
また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」
アブラハムに与えられた約束は、異邦人のためでもある。そのことをパウロはこの9節の最初のところで説明しているが、今まで述べたことがこの背景にあることがよくわかると思う。そして、9節の後半で言っていることは、ダビデの言葉の引用であるが、これは第二サムエル記22章50節と詩篇18篇49節の箇所のことだろうと思う。両方の詩は同じものであり、ダビデがサウルと敵から救い出されたときの神への賛美を繰り返しているものであり、ダビデが書いた最後の詩篇であったと思われている。ダビデは、「それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います」と歌っている。
ダビデは、死ぬ間近のところで、すべての敵に対して勝利を得たときに、この詩篇を書いた。「主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った」と記されている。「サウルとすべての敵」という言い方は、ダビデの人生の中のすべての戦いの中で、サウルとの戦いが最も大変だったことを表わしている。そのダビデの詩篇の中で、ダビデは敵に対して勝利して祝福を得、「私は異邦人の中で神の御名をほめたたえる」と歌うとき、ダビデは二つの契約の話をしているのである。22篇全部を読めばわかることだが、神は第二サムエル記の7章のところでダビデに約束を与えてくださった。それがダビデの契約である。しかし、神は、ダビデを守ってくださり、祝福してくださり、すべての敵に対して勝利を与えてくださったことによって、ダビデに与えた契約の約束を守られたのである。
そして、ダビデはアブラハム契約のことをも指してこの詩篇を歌っている。これは重要なポイントである。この旧約の背景は明らかにアブラハム契約とダビデ契約の両方を示唆しているのである。「主なる神はアブラハムに与えた契約を守り、そして私に与えてくださった契約を守ってくださったので、私は異邦人の中で神の御名をほめたたえる」と、歌っている。「先祖たち」と言うときに特にアブラハムを指し、パウロが最初に引用している箇所はダビデの契約のことを話している。アブラハムの契約とダビデの契約がこの箇所の背景にあるわけである。
10節は申命記32章43節を引用して、「また、こうも言われています。『異邦人よ。主の民とともに喜べ』」と言っている。申命記32章はモーセが死ぬ前に書いた長い歌である。そのモーセのさばきの詩篇の最後の43節の初めのところで、「諸国の民よ。御民のために喜び歌え」と言っている。口語訳では、「国々の民よ、主の民のために喜び歌え」と訳されている。モーセも、アブラハムの契約の成就について歌っているのだ。その申命記32章でモーセは、詩と歌をもってイスラエルに神の誠実を思い起こさせ(1〜4節)、その移り変わりやすさのゆえにイスラエルを罪に定め(5〜18節)、彼らの罪に対する神のさばきについて警告し(19〜35節)、そして彼らに回復の時が来ることを約束している(36〜43節)。最後の43節でモーセは結論に至るのである。
これは神がなさったことを繰り返し語る詩であるが、同時に預言的であり、意味深いことに、異邦人が御民と一緒になって神をほめたたえるところで歌は終わるのである。次に、ローマ人への手紙15章11節でパウロは、「さらにまた、『すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ』」と、詩篇117篇を引用している。詩篇117篇は最も短い詩編なので、全部を読みたいと思う。
すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。
ここで興味深いのは、「すべての国々」に対して、「エホバをほめたたえよ」と異邦人に訴えていることである。イスラエルに対する神の真実と契約の忠実のゆえに、イスラエルの神を全世界の人々に示して、「神をほめたたえなさい」と、礼拝に招いているのだ。なぜ主なる神をほめたたえるのかというと、「その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る」からである。「その恵み」というのは紛れもなく契約の話である。「恵み」と「まこと」という言葉が使われているが、これはギリシャ語の「ハセッド」と「エメス」である。この二つの言葉は、神の契約の真実を表わすものである。
神は誰に対して契約を守っておられるのかというと、「私たちに大きい」と言っているのである。「私たちに」とは誰のことか。直接的にはユダヤ人のことである。ユダヤ人は、全世界の人たちに「神は私たちに対してその契約をこれほどに完全に守ってくださっているので、あなたがたもこの神をほめたたえなさい」と訴えるのである。それが異邦人の賛美の根拠のように見えるが、実のところ、それはアブラハム契約の光に照らして瞑想するときにこそ、実に相応しいものとなるのである。神がユダヤ人に対する契約を守ってくださるとはどういうことなのかというと、神の祝福が全世界に広まるということなのである。それ故、このような論理になるのである。
最後の引用は12節にあるが、パウロはイザヤ書11章10節を引用して、「さらにまた、イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける』」と言っている。イザヤ書11章は、最初の1節からの文脈全体が明らかにメサイア預言になっている。メサイアはダビデの家系から生まれ(1節)、メサイアは神を喜び、義なる裁き主となられ、その地には平和を(3〜9節)、異邦人には救いをもたらされる(10節)。「このように神はダビデの家族にメサイアを与えてくださる。そしてメサイアは正しいさばきを行なう」ということをイザヤはずっと説明しているが、その最後のところで「異邦人に祝福が与えられる」と言っているのである。
異邦人の話の後に、「ユダヤ人をすべての地から集める」ということについてイザヤは述べている。つまり、続けて国々の中に散らされていたイスラエルの残りの者たちをメサイアが来て救ってくださること、そしてユダとイスラエルを再び一つとしてくださることについて語っており、このイザヤ書の11章は明らかに、そのままメサイアの預言なのである。メサイアは、父祖たちへの約束を成就し、自らの罪のゆえに弱められて国々に分散させられて南北に分裂したイスラエルの民は、すべての国々と同様に、悔い改めに導かれて戻ってくるのである。それがイザヤの預言であった。それ故、なぜこの箇所をパウロは引用したのかは明らかである。この箇所は、「メサイアはこのように、異邦人にも救いを与えてくださる」という約束が明らかに宣言されている箇所だからである。
ユダヤ人を国々から集めて救いを与え、異邦人にも救いを与えてくださる。そのことをメサイアの預言としてイザヤは述べているのだ。つまり、当時のイスラエルの人たちが異邦人たちを見下して、異邦人と一緒に歩まないということがどんなに相応しくない事なのかを悟らせようとしているのである。それはアブラハムの契約を否定する行為になるのだ。またダビデの契約をも否定することなのだ。旧約聖書の中で繰り返し繰り返し出て来る「神は全世界を救い給う」という約束を全く否定する行為なのである。ユダヤ人は何のために選ばれたのか。それは全世界に祝福を与えるためである。では、私たちは何のために選ばれたのかというと、同じように、私たちが神の御国を求めて神の御国のために働き、それによって全世界に祝福を与えるためなのである。その意味もここに含まれているわけである。
望み
そのようにパウロは多くの旧約聖書の箇所を引用して、「ユダヤ人も異邦人も、メシアなる主イエス・キリストの御前で、一つの心を持って互いを受け入れて、声を合わせて主なる神を礼拝すべきである」ということを話すのである。これらの聖句リストによって、神は御自分の契約を守られる神であられるという事実をローマの人々に思い起こさせているのである。この事実は、私たちの希望の土台である。ローマ人への手紙の1章の最初にあるように、福音は、旧約聖書に書かれた約束なのである。そして13節にパウロの祈りがある。
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
「異邦人はメサイアに望みを置く」という言い方がイザヤ書にある。それ故パウロは、「どうか、望みの神が」と祈るのである。「望みの神が、あなたがたをこのように祝福してくださるように、私は祈ります」と言っているのである。ずっとアブラハムの時から契約の約束が与えられていて、イスラエルはアブラハムの時からパウロの時代まで約二千年近くもその約束の成就を待っていたのだ。メサイアが来たとき、その約束の成就は始まった。「成就は始まった」というのは、パウロの時代においても、後の時代においても、まだ全世界が救われるまでには至っていないからである。しかし、メサイアが来た時に、その成就は始まった。異邦人の救いの門が開かれたのだ。
パウロは、メサイアに目を留めて、「神は、契約を守ってくださった。我等の主は、望みを与えてくださる神であられる」と言っているのだ。御自分の誠実をもって救いの約束を与えてくださる神は、「望みの神」であられるのだ。ローマの教会は、ローマ帝国の中にあっては実に小さな存在であった。パウロの時代では、わずかな人しか救われていなかった。ローマ帝国とユダヤ人は、これからキリストの教会を殺そうとしている。当時はそのような時代であった。そのことをキリストも教えていたし、パウロも教会に教えている。その中にあって「望みの神」を信じて、福音を伝え、そして戦うように励ましている。信徒たちが、今から遭遇する大変な試練の中で、はっきりと「望みの神」に望みを置くのでなければ、毎日の歩みさえもできなくなるのである。これから試練に遭うことをパウロはずっと教え、キリストのために殺される時こそ、私たちは神にあって守られるのだということを8章でも教えている。
パウロの祈りは、「あなたがたが、あまりがっかりしないように」とか「失望からあなたがたを守ってくださるように」というようなものではいない。「あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たしてくださるように」と祈っているのだ。これは大変な違いである。「聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」という祈りなのだ。彼らが、喜びと平和に満ちた者となるように、パウロは祈っている。これは特別な御恵みを求める祈りである。パウロも、ローマの信者たちも、自分たちが試練に直面するであろうことを知っていたからである。そして、確かに平和と喜びに満ちている者として、ローマ帝国の時代のクリスチャンたちはその試練を受けたのだ。ある者たちは血を流し、ある者たちは投獄されようとしていた。死ぬ者たちも少なくなかった。そのような近未来の見通しを視野に入れたうえで、神を信じるがゆえに持つところの「すべての喜びと平和」に満たされるよう、祈っているのだ。
彼らは神の約束を真剣に受け止めたからこそ、望みにあふれることができたのだ。今日の私たちの教会の中では、誰かが信仰のために死ななければならない状態に陥るようには見えない。パウロの時代には、大変な時代が来るということをクリスチャンの誰もが知っていた。それを知っている中で、喜びと平和の心を持つだけでなく、喜びと平和の心に満ちて歩むのである。これは、信仰による喜びと平和である。神が与えてくださる喜びと平和がなければ、このローマの信徒たちが喜びと平和を持つことは不可能であったと思う。「すべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によってさせてくださいますように」とパウロは祈っている。
恐れる理由がはるかに少ない私たち、そして神に信頼する理由においては決して劣らない私たちには、その約束に立ち、望みにあふれるべき更に大きな理由があると思う。どうか、神が、私たちに神を喜ぶ聖霊の力と御霊の平和を与えてくださり、それによって私たちが神のうちに真の安息を得ることができるよに祈らずにはおれない。いったい「望みにあふれる」とはどういう思いなのか。神の御国のために生きるけれども、自分の周りにそれが見えて来ないときに、何を思うのか。クリスチャンの人口が1%にもならないこの日本について思うとき、何を私たちは思うのだろうか。その1%以下の中のまた何%がクリスチャンなのかという問題もあるのだ。実に少ないのである。
「望みの神」に信頼し、そこに望みを置き、そして神ご自身が私たちに望みを与えてくださるのでなければ、とても日本の救いのために祈ることはできない。日本の救いのために求めるのではなくて、ただ自分たちがあまりがっかりしすぎないようにと、神に助けを求めるだけなのではないか。真に神に望みをかけているのでなければ、そのような祈りしかできないと思う。私たちは「望みの神」を信じて福音を述べ伝え、日本の救いのために祈り求めるべきである。どのように神は働かれるのか、誰をどのように用いるかについては、神に委ねればよい。ローマ帝国も大変な試練を経なければならなかった。ローマ帝国が救われるようになるには、大変な時間がかかった。日本は、何時までにどのように救われるかは私たちにはわからないが、神に委ねて、「望みの神」を信じて、忠実に自分の分の務めを果たすのである。
そして、私たちの信仰が、後に続く人たちにとって基準となり模範となるように、私たちは本当に神に望みをもって働かなければならない。そのようにして、私たちは望みを次の世代に引き継がれるのである。主にある望みの証しを立てるのである。そのような者にならなければいけないと思う。神が私たちを望みであふれさせてくださり、落胆したり勇気を失ったりせずに、神の御国とその栄光のための働きに自分自身をささげることができるように、祈りたい。アブラハムの契約の神、すべての国民を祝福することを誓って約束してくださった神に、望みをかけて、この日本で私たちは働くのである。そのために私たちは選ばれ、立てられたのである。望みに溢れる者として、私たちも昔のローマの教会のように神に仕えるべきだと思うのである。
聖餐式のときに、私たちはその望みの土台に戻るのである。主イエス・キリストが十字架上で罪のために死んでくださり、そして葬られた。死んでくださって葬られただけでなく、キリストはよみがえってくださり、神の右に着座された。私たちは、その神の右の座に着かれた主イエス・キリストの働きを覚えて聖餐式を受けるものである。聖餐式の中には、望みの約束があり、復活した主イエス・キリストの力が約束として与えられている。その約束が与えられていることを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2002年7月7日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com