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    ローマ人への手紙15章14〜21節


    15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。

    15:15 ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。

    15:16 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。

    15:17 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。

    15:18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、

    15:19 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。

    15:20 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。

    15:21 それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

    2002.07.21. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    供え物、誇り、しるし

    15章14〜21節

       パウロは、異邦人を神にささげる祭司としての務めとして自分の働きを語っているが、自分自身について、また自分が行なったことに関しては誇ることを否定する。反対に、キリストについて、またキリストが成し遂げてくださったことについてのみ語るのである。パウロによって行われたしるしと不思議は、神が働いてくださっていることと、彼が使徒として任命を受けていることの証拠であった。しるしや不思議について語ることは、言うまでもなく神が成し遂げてくださったことについて語ることなのである。先週は14節から21節までの全体を一緒に見たが、今日は同じ箇所をもう一度見たいと思う。特にその中で、三つのところについて一緒に見たいと思う。

    14私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。15ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。16それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。17それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。18私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、19また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。20このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。21それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

     

    供え物

       三つのことについて話したいと言ったが、特に16節にその最初のことがある。即ち、パウロの働きは「祭司」としての働きであるという点についてまず話したいと思う。「異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです」と言っている。パウロは、自分の働きが祭司の働きであると説明している。異邦人がパウロの言葉を信じて受け入れるとき、異邦人は御霊の働きによって聖なる者とされ、そのクリスチャンとなった異邦人たちをパウロは神に喜ばれる「供え物」としてささげると言うのである。

       パウロは御言葉を忠実に教え、その御言葉を受け入れる人々を、神への「供え物」だと言っているが、そのように話すことによって、明らかにこれは旧約聖書の祭司制度を背景としてもって自分の働きについて考えていることがわかる。同じようなことをパウロは幾つかの箇所で言っている。コロサイ人への手紙1章28節では、パウロは自分の働きを次のように説明している。

    私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。

       この「立たせる」という言葉の原語は「ささげる」と訳されているのと同じ言葉であり、この文章は文字通りには「キリストにある完全な者としてささげるためです」と訳すこともできる。パウロは、異邦人に対する重荷を持つ使徒として、彼らを神にささげるために、彼らに福音を教えるよう委任されている。彼らを神の御前にささげるために働いているのである。福音を宣べ伝えることによって、パウロは異邦人をきよめる聖霊の働きを推し進めているのである。その神のしもべとしての務めは祭司的なものである。従って、神の御言葉を宣べ伝え、教える責任は、御国の中心であり、特別に重要な意味を持つ働きなのである。コリント人への第二の手紙11章2節でも同じ言葉が使われている。

    私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

       ここで使われている「ささげる」という言葉は、コロサイ人への手紙1章28節にある「立たせる」と訳されている言葉と同じギリシャ語である。そのようにパウロは自分の働きについて話すときに、「御言葉を聞き、それを信じる者たちは、神にささげられる供え物です」と言っている。「牧師たちの働きは聖なる特別な働きであり、普通のクリスチャンの働きはそうではない」というような区別をしてしまう人がいるが、パウロはそのような区別をしてはいない。パウロはめったに自分の働きについて語らないし、「自分は祭司で他の人たちはみな祭司ではない」というような差別的なことは言わないのである。

       パウロは、自分を供え物として述べているが(ピリピ人への手紙2章17節、テモテへの第二の手紙4章6節)、自分を祭司として語ることは殆どしないし、御言葉の奉仕においても祭司の務めとして述べたりはしていない。しかし、それは紛れもなく祭司的な働きなのだ。とは言え、それは他の働きが聖さにおいて低いという意味にはならない。パウロは、「私たち一人一人が良い行ないに歩むようにと、神がその良い行ないをもあらかじめ備えてくださった」と語っている(エペソ人への手紙2章10節)。キリストにあるすべての働きは、神が御自分の御国を建て上げるために用いられる聖なる働きなのである。

       ここでパウロは、自分を神にささげることについて、それを祭司の働きだと言っている。ただ、パウロの言葉遣いを見ると、神により近いとか他の人々よりも聖いというような特別な階級をクリスチャンの間に示唆するようなことはしていないのだ。このことについては、ペテロの第一の手紙2章5節がよく引用されている。

    あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

       「霊のいけにえをささげなさい」という言葉は、「霊的ないけにえをささげなさい」もしくは「御霊的ないけにえをささげなさい」と訳すこともできる。「祭司として、私たちは御霊的ないけにえを神にささげる」とペテロが言うとき、特に礼拝のことについて話しているのである。私たちの祭司としての働きは、クリスチャンとしての礼拝につながる行為なのである。私たちは神の「」であって、私たちは「聖なる祭司」であり、霊的ないけにえを神にささげるために選ばれたのだと、ペテロは言う。パウロも同じようなことをヘブル人への手紙13章15〜16節で話している。

    ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。

       ここでパウロは、献金をささげることもいけにえをささげることであり、賛美し礼拝することも、すべてのクリスチャンが神にささげる「いけにえ」であると言っている。クリスチャンの「くちびるの果実」すなわち賛美は、神を喜ばせるいけにえであり、クリスチャンは神への奉仕としてあらゆる種類の善を行なうべきだと、言っている。「パウロや弟子たちが祭司で、普通のクリスチャンたちは祭司ではない」というような見方は新約聖書の中にはないのである。「牧師たちは特別な意味において祭司である」と言うなら、その意味は、御言葉を教えることによって人々を主イエス・キリストに導くという点において言えることである。

       しかし、キリストを信じた人たちはみな、その結果として自分を神にささげるのである。つまり、すべての選ばれた者たちがキリストを信じて祭司となるように導く、その特別な働きをするのが牧師であると言うなら、それはそうかも知れない。しかし、クリスチャンの一人一人が行なうべき最も根本的な祭司としての働きは、ローマ人への手紙12章1節にある働きである。

    そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの御霊的な礼拝です。

       これが、一人一人のクリスチャンが祭司として持つところの一番重大な働きである。自分自身を生きた供え物としてささげるのである。前にも説明したが、この箇所で「霊的な礼拝」と訳されている言葉は、日本語としては少し変かも知れないが、直訳は「御霊的な礼拝」である。自分を神にささげること。それがクリスチャンの祭司としての最も大切な務めなのである。パウロが福音を伝えることによって異邦人たちが信じて救われたが、その異邦人たちの一人一人が本当に自分を神にささげるとき、パウロはその彼らを励まし、導き、助けるのである。その意味でパウロは、「異邦人たちを供え物として神にささげる」と言うことができたのだ。パウロの言葉をそのように理解すべきだと思う。

       私たちはみな祭司となるために救われ、祭司として自分を供え物として神にささげなければならない者なのだ。そして、祭司として神の御名をほめたたえるのである。祭司として、自分に与えられた賜物のすべてを用いて、神の働きに仕えるのである。祭司として生きるのである。「自分は祭司である」という認識を、すべてのクリスチャンは持つべきであり、「私は献身者です」という自覚を持って生きるべきである。これは、例外なしに、クリスチャンの一人一人が認識すべきことである。そのことをパウロの手紙全体から教えられると思う。

       牧師たちの働きの大切なところの一つは、すべてのクリスチャンが自分を献身者として深く認識するように導き、本当に自分自身と自分の生活と自分の働きのすべてを神にささげることができるように、励まして助けるところにあるのではないかと思うのである。それ故、祭司の地位はすべてのクリスチャンに与えられている。「自分を神にささげる」ということは、恵みを受けたすべてのクリスチャンに要求されることであるし、バプテスマを受けることにおいてもその意味はあったということを思い起こす必要がある。私たちはみな、祭司となるようにバプテスマを受けたのである。もし自分を真に神にささげて、一貫して神への供え物としての人生を歩んでいるならば、私たちの為すことのすべてが神への聖なる礼拝、いけにえなのである。

       日本には「直接献身」という言い方があるが、「すべてのクリスチャンは何かの意味で献身することはするけれども、ある人たちは特別だ」と考えているようである。結局、献身者とそうではない一般信者というようなカテゴリーを設けてしまうのである。そのような区別はとてもおかしな話である。献身者だからと言って御言葉を教えるとは限らない。献身者だから、牧師とか宣教師にならなければいけないのでもない。福音の働き全体のためには牧師になる人は必要であるし、宣教師たちも必要であるのは事実であるが、カテゴリーとして「その人たちは別なものだ」と考えるのは間違いである。「カテゴリーが違う」のではなくて、「召しが違う」のである。神から与えられた働きが違うというだけであって、すべてのクリスチャンは献身者として自分の人生を、神にささげる供え物として送るようにしなければならない。それは12章1節ではっきりと言われている事である。そうしないなら、結局のところ自分のために生きていることになる。罪人は自分のために人生を送り、自分の快楽のために生きることになりがちなのだ。

       主イエス・キリストの譬え話の中に、種を蒔く人(四つの土)の話がある。最初に道端に蒔かれた種は、すぐに鳥が来て食べてしまった。御言葉を聞いても受け入れないので、サタンが来て御言葉を持ち去ってしまうのである。次の二番目と三番目の土は、偽物のクリスチャンを表わしている。二番目の薄い岩地に蒔かれた種は、根が無いために枯れてしまった。最初はすぐに受け入れるけれども、困難や試練が来ると耐えられなくて離れて行ってしまう人のことである。三番目のいばらに蒔かれた種は、いばらの中に落ちて、いばらが伸びてふさいでしまい、実を結ばなかった。それは、御言葉を聞いてはいるけれども、いつも世の事でわずらったり、世の快楽に夢中になって、結局は離れていってしまう人のことである。

       これは実際によくある話であって、私たちは本当に気を付けなければならない。試練に耐えられないという信仰も、富みに耐えられない信仰も、どちらも偽物の信仰なのである。結局は御言葉から離れてしまう。「自分を神にささげたものとして生きる」と言うとき、神のしもべとして自分を考え、神のしもべとして人生のすべての事を決断する心を告白しているのだ。

     

    誇り

       そのように、パウロは自分の働きを祭司の働きとして認識してすべての事を行なっていることを、私たちは見ることができる。パウロほどの賜物も、パウロほどに大切な働きも、私たちにはないのは明らかである。だからと言って祭司ではないわけではない。だからと言って、神に喜ばれないわけではない。自分を本当に神にささげ、自分に与えられている働きを神の御国のために行なう者はみな、パウロと同じように祭司の働きをしていると考えるべきである。そして、祭司の働きについて考えるとき、次のような大切なことがある。15章17節のところで、パウロはこう言っている。

    それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。

       神に向かって祭司らしく歩んでいるのなら、自分や自分の行為について誇るところは何一つないはずだ。ここでなぜパウロは誇りの話をするのか。それは、多くの人たちがパウロの働きに反対しているからである。パウロの働きに反対している人たちに対して、パウロはいろいろな箇所で、自分は使徒であることを証明しなければならなかった。ここでも同じような雰囲気があるように思う。「私はキリスト・イエスにあって誇りを持っている」と言った後で、19節では、「また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました」と言うのである。

       ここでパウロは、エルサレムから始まっていろいろな所で福音を宣べ伝えたことを話している。コリントの箇所ほど激しく自分を守らなければならないような話ではないが、コリント人への第二の手紙のところでもパウロは、誇ることとしるしのことを一緒にして話している。コリント人への第二の手紙12章11節と12節を見てほしい。

    私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。

       「私は愚か者になりました」と言っているが、少し前の9節でも「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言っている。パウロは自分の働きについて説明しているのである。コリントの教会の中でパウロは激しく反対されており、偽使徒だとさえ言われたりしていた。それでパウロは、キリストにある自分の働きは何なのかを説明しなければならなかった。パウロの本心は、自分を誇るようなことは話したくなかった。「自慢話をするのは愚か者のすることだ」と言っているのである。だから、このように言うことによって、パウロは、自分を誇っているのではなく、使徒としてキリストの代表として歴史の中で12人しかいない特別な働きをしている者として、その働きを説明しているのである。

       自分の働きに対して人々が反対するならば、それはキリストの御名が汚されることになるので、「私はキリストの福音を正しく伝えています。私は、本当に主イエス・キリストの使徒として相応しく働いています。この事を話さなければならないのは、恥ずかしいことです。しかし、キリストの栄光のために、私は愚か者になって話します。それはあなたがたが無理に私をそうさせたからです」と、言わなければならない立場に置かれたていたのである。ローマの教会の場合は、そこまで激しく自分の働きを弁護しなければならない状態にはなかったが、それでも、「私は恵みを受けて、異邦人のためにキリストに仕える者とされたのです」と言って、「キリスト・イエスにあって誇りを持っている」ということをはっきりと説明している。

       パウロはその書簡の中で誇りについては多くを語っている。その殆どが否定的な話になっているが、誇りについて肯定的に語っている箇所はみな、キリスト御自身、またキリストが彼のうちに、また彼を通して成してくださったことについて誇っているのだ。自分の良い行ないを誇るのは、ユダヤ人とその宗教の特徴であった(ローマ人への手紙2章17節、同23節、4章2節)。また、ローマ人への手紙1章30節を見ると、そこではパウロは、別のギリシャ語を使ってはいるが、誇ることを最悪の罪と関連づけている。パウロは15章18節で次のように言うのである。

    私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。

       つまり、「キリストが私を通してなさったことのみを誇りとして話します」と言っているのである。自分のことを話すのではなく、キリストが自分を通して行なってくださったことしか語ろうとはしないのである。この17節と18節のところから大切な教えを引き出すことができると思う。即ち、「祭司の誇りはキリストにある」ということである。すべてのクリスチャンは何かの意味で祭司である。つまり、「自分に与えられた人生の時間、能力、働きのすべては、神に仕えるものとして与えられている」ということを考えるとき、自分が行なうすべての事を、神の御名をほめたたえる祭司として考えるのである。

       祭司として、また神に仕えるしもべとしてそれを行なったという認識があるなら、後に「これは私がしたことだ」と言って誇るはずはない。神に自分をささげる働きとして行なったのであれば、後で自分の自慢話をするはずはないのだ。これは、箴言の中にも原則として教えられていることである。即ち、「自分のことをほめるな。他の人に自分のことをほめさせよ」と警告している(箴言27章1節と2節など)。それは良い習慣と知恵の根本的なポイントなのだ。自分の口で自慢話をするな。このことは、クリスチャンの文化としても育て上げなければならない大切な原則であると思う。

       イギリスのシェークスピアの時代に、シェークスピアは「ヘンリー五世」という劇を書いた。本当にヘンリー五世がそう言ったかどうかは、歴史的に調べればわかるかも知れないが、私はまだ調べてはいない。その劇の中で、アジンコートの戦いの結果の知らせを受けたヘンリー五世は、「これは神の御業である」と考え、「軍の中で、フランスに対する今日の勝利を誇って語る者は誰であれ必ず死刑に処す。今日の戦いの栄光は神のものである」という命令を下して、「ノンノビス(Non Nobis 、詩篇115篇1節を歌ったもの)」を歌うように命じたのである。実際のヘンリー五世がどうだったのかは別として、シェークスピアは明らかに「これは神のわざだ」と宣言している。これはクリスチャンの姿勢として実に相応しいものである。

       私たちが本当に「神のわざだ」と思っているのであれば、神のみを誇り、栄光を神のみに帰するはずである。もし何か価値あることや優れたことが達成されたと感じたなら、その賛美は神にささげられることこそ相応しいのである。「パリサイ人たちは自分を誇り、人に誉められることを好む」とキリストは言っている。それ故、パリサイ人の受ける報酬はこの世に限ったものであり、後に神に喜ばれて認められるようなことはないのである(マタイの福音書6章1〜18節)。自分の働きを自分のものとして誇ってしまえば、その賛美は神から取り去られて自分のものとなる。そのようにパリサイ人に倣って自分を祝福するなら、祝福はそこで止んでしまうであろう。

       祭司としての働きは、神のみに栄光を帰する働きである。それというのも、祭司としての働きをするとき、それが普通の会社での仕事であれ、福音を伝える働きであれ、家の中の働きであれ、それを成功させてくださるのは主なる神であることを認めて、神の御恵みとして受け、へりくだった心を持って受けるなら、神に感謝をささげて神を賛美せずにはおれないはずである。

       これは、地域教会としても実に実に大切なところである。クリスチャンとして毎日の生活を送るということについて考えるなら、この三鷹福音教会よりも気楽な教会はいくらでもある。お葬式や法事などについてそんなに深刻に考えずに無視する教会はいくらでもある。社会の流れに逆らって歩もうという話もしなくてよいし、クリスチャンの生活もほどほどにして送ればそれでよいような教会は十分にある。私たちの教会では、「自分を生きた供え物として神にささげなさい」と言われるし、毎週聖餐式を守らなければならない。つまり、毎週罪をはっきり告白し、罪を捨てて、自分を神にささげる誓いをしているのだが、そのような事をしなくてもよいような教会はいくらでもあるのだ。

       なぜ、三鷹福音教会に来ているのか。なぜ、この教会で神を礼拝するのか。人によっていろいろあると思うが、その一つは、一緒に福音の働きをしようとしているということではないかと思う。一緒に神の御国のために働こうとしているのである。その働きが祝福されて、地域教会として強められ、地域教会として土地と会堂が与えられ、地域教会として成長して、次の世代が忠実に神に従って歩むようになれば、それは誰のわざなのか。誰を誇り、誰を誉めるのか。誰に感謝をささげるのか。どのような誇りの話をするのか。そこが問題なのだ。

       今私たちには、御言葉に対して忠実に歩むモデルの教会になりたいというビジョンが与えられている。それは、祭司として真剣に働くという話に他ならないのだ。「他よりも私たちの方がいいのです。見てください」という意味ではないし、「私たちは成功した。見てください。あなたがたもこのようにすれば成功できますよ」という話ではないのだ。「神の御恵みをこのように与えられた」という話なのである。そういう意味で、成功すれば成功するほど、へりくだっている心になるはずなのだ。私たちは、神の栄光のみを求めて、他の教会に対して証しをする祭司としてこの日本で特別な働きができるかどうかを考えるとき、まず私たちは、自分が神に対して忠実に従うかどうかということが試されるのである。

       神に忠実であり、その御言葉に従順であるなら、この小さな群は成長して大きくなり、10年後、20年後、私たちの子どもたちが私たちよりもしっかりした信仰をもって神に仕えているのを見るであろう。その実を結んで、はっきりした証しを立てることができるようになった時に、それを「神の御業」として証しすることができるのだ。そのような祝福を受けたとき、どのように誇るかは重大なことである。それは実に大きなことなのだ。

       何かの意味で成功することは、神を証しする機会なのである。もし私たちが自分自身を神にささげ、その働きを神のために行ない、神の祝福がその働きのうえに注がれるなら、その時、神にのみその誉れと賛美をささげることこそ、ふさわしいのだ。そうするなら、私たちの成功は神のいつくしみの証しとなるのだ。正しさも、善も、すべての良きことは、主からのものである。パウロは、「私は他のすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の御恵みです」と言っている(コリント人への第一の手紙15章10節)。私たちは、地域教会としても、この妥協の時代にあって神とその御言葉に忠実であろうとしている。もし神が祝福してくださって、私たちが働きにおいて成功するなら、自分自身を誇ってはならない。自分自身を誇ることは、自分と自分に与えられた働きにとって、それは死を意味するからである。

       アメリカでは何でも、方法論の話になる。どんなことでもすぐに“方法論”というような本を出してしまう。「霊的な心を持つための12のステップ」とか「成功するための五つの条件」或いは「成功のための七つの条件」といった具合にである。私たちはそのようなものを出すつもりはない。「三鷹福音教会の成功の七つの条件」というタイトルを掲げて、まるで自分たちが偉くなったかのようなつもりになるなら、そこでお終いなのである。それでは、何も祭司として行なってはいないということになる。祭司としてすることは、神にささげて、神が祝福してくださるなら、「このことができたのは、ただ神の御恵みによるのです」と告白することである。そして、それが証しとなるのである。

       「神がこのように教えてくださり、このように守ってくださり、このように導いて祝福してくださった。神の御名にこそ栄光あれ。私たちは神を喜び、神のみを誇ります」と言って神を礼拝するなら、見る人たちは、神を求めるようになるのだ。人に目を留めるのではなくて、人々は、神に目を留めるようになるのだ。「見なさい。三鷹福音教会の成功を」と誇るなら、人々は三鷹福音教会を求め、三鷹福音教会を誉めてしまう。私たちの働きは決してそのためにあるのではない。私たちは、一つのからだとして共に働く地域教会として、祭司であることと、誇りのことを、パウロと同じように考えなければならない。そのことを、この箇所を通して教えられていると思う。祭司は、神に仕え、神に自分の働きのすべてを忠実にささげるので、神の御業のみについて誇るのである。19節のところに三番目のことがある。

     

    しるし

     また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。

       ここでパウロは、自分が使徒としての特別な働きをしていると説明している。自分には使徒としての資格があり、使徒として働き、使徒として教えていると言っているのである。先に見たコリント人への第二の手紙の12章12節で「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです」と言っているが、パウロは明確に彼の使徒職をあらわすしるしと奇跡について話している。「私には使徒としてのしるしがあり、奇跡と不思議と力あるわざによる証しがある」と言っているのだ。聖霊が自分を通して成し遂げてくださった「しるしと不思議をなす力」について語っている。

       「使徒としてのしるし」という表現は、聖書の奇跡に関して重要な事柄を示しており、使徒であることを証明するための特別な「わざ」を指している。ここで私たちは、なぜ使徒にはしるしや奇跡の力があったのかということについて考えなければならない。しるしは常に契約と関係がある。創世記を読むときに、創世記の時以来、神が私たちに契約を与えるときには、契約と共に契約のしるしをも与えてくださったのを見ることができる。創世記9章のところで、神はノアに契約のしるしとして「」を与えられた。それは、神が虹を見るときにご自身の契約を覚えてくださるというものであることを、神はノアに教えてくださった。神はこう仰せられた。

    わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。

       「」は、「契約のしるし」と呼ばれている。そして創世記17章では、「割礼」が「契約のしるし」と呼ばれているのである。「しるし」という同じへブル語は、モーセがエジプトで多くの奇跡を行なったときにも使われるている。それは、神が自分をイスラエルの子らに遣わしたこと、そして自分はパロをさばく神のしもべであることの証拠として行なった奇跡について用いられている言葉である。それはギリシャ語の七十人訳が「セメオン」と訳している言葉であり、新約聖書でパウロが使っている「しるし」という言葉、あるいはヨハネの福音書の中で何度も使われている「しるし」という言葉と同じものである。つまり、「契約のしるし」と「奇跡のしるし」とは、同じようなものなのだ。

       言い換えれば、「奇跡」は「契約のしるし」の一つの種類なのである。「契約のしるしの一つの種類」という言い方はどういうことなのかというと、神は新しい契約を与えてくださるときに、或いは契約のさばきを行なうときに、「しるし」を与えてくださるのである。それで、パウロたちの奇跡、そしてエリヤやエリシャが行なった奇跡は、ただ私たちを驚かせるような事をしているのではなくて、「契約のしるし」としてその奇跡を与えて、契約のさばき或いは契約の更新の時を示してくださっているのである。それ故、誰が神の代表なのかがはっきりとわかるように、その者に特別に契約のしるしを行なわせるのである。

       主イエス・キリストが行なった奇跡を見るとき、はっきりと同じことを見ることができる。主イエス・キリストが行なった奇跡は、ランダムに誰にでも癒しを与えたり、誰でも復活させたりするような奇跡ではなかった。イスラエルが祭司の国民として悔い改めて神に戻ることができるために行われた奇跡であった。祭司として汚れた状態になるような病を、キリストは癒してくださった。そのことは福音書において明らかである。例えば、らい病の人間は汚れているので祭司としての働きをすることはできない。汚れた者は神殿に入ることは許されない。

       ヨハネの福音書5章で三十八年もの間病気で伏していた人間を、主イエスは癒してくださった。その人は癒された後、宮に入ることができるようになったことが記されている。病気を患っている間は神殿に入ることは許されないので、神殿の外でずっと癒しを求めて待っていたのだ。盲目の者も神殿に入ることはできない。長血をわずらっている女性も神殿に入ることはできない。それが律法の定めであった。それ故、主イエス・キリストは、イスラエルを汚れたものと看做して、これを癒し、もう一度祭司の働きができるように奇跡をもって清めてくださる。メサイアが癒す病は、イスラエルが神殿に入ることを妨げる病であった。

       だから、キリストの奇跡は、明らかに契約のしるしとしての奇跡であった。第一に、イザヤはメサイアが神の民を癒されるであろうと、前もって告げていた(イザヤ書35章)。第二に、メサイアがもたらすと言われる特別な種類の癒しは、約束の地から汚れた者が取り除かれるという癒しであることが預言されていた(イザヤ書35章8節)。使徒たちの奇跡も、イエスがメサイアであられるという事実を証言するしるしの奇跡であり、また彼らがメサイアの代表であることをイスラエルにも異邦人にもはっきりと証明するためのしるしであった。そのことをパウロはコリント人への第二の手紙のところで話しているし、ヘブル人への手紙2章4節でもそのことを説明している。

    そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によって証しされました。

       これは使徒たちの働きについて話している、ということは1節から読めばわかると思う。3節で「この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し」と言っている。「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によって」、使徒たちが神のしもべであることを証ししてくださったのである。奇跡や不思議なわざは「契約のしるし」として与えられているのであって、奇跡には確かな意味がある。神の契約の働きについての特別な意味があるのだ。

       聖書の歴史について注意深く熟考すれば、しるしや奇跡があった時代は稀だったことに気付くであろう。奇跡は年から年中ある出来事ではなかったのだ。モーセの時代に奇跡があり、エリアたちの時代にまた奇跡があり、そしてキリストの時代に多くの奇跡が行われた。けれども、すべての時代にいつでも奇跡があったわけではないのだ。ダビデは神に祈り、神はダビデに答えてくださった。今の私たちから見れば、神はダビデの祈りに対して奇跡的に答えてくださったということがすぐにわかる。しかし、ダビデ自身およびダビデと一緒にいた軍人たちには何も見えなかったのだ。いわゆる「しるし」としての奇跡はなかったのである。

       私たちも神に祈るが、今でも神は奇跡的にその祈りに答えてくださることは確かにある。神は神であられるので、いつでも神はご自分の御心のままに行ないたもうのである。その御力の前にあっては、自然法の居場所はないし、神の御心を限定するものは何一つ無い。しかしながら、「契約のしるし」という意味での奇跡は、聖書の中でも極く僅かしかないのだ。全人類のおよそ六千年の歴史の中で、奇跡が行われた時代というのは僅かであり、それもせいぜい数十年続くだけのものであった。それは、契約が新しくされる時(契約の移行期)、そして契約のさばきがくだされるときにだけ、与えられたものなのだ。

       「契約のしるし」は、祝福であろうと呪いであろうと、神の契約的御臨在を証明するものであった。それで、主イエス・キリストと弟子たちが行なった奇跡も、新しい契約が与えられたことを証しするものであった。それは、弟子たちが宣べ伝えている御言葉がメサイアである主イエス・キリストによって与えられたものであり、弟子たちはメサイアのしもべとして忠実に御言葉を語っていることを証明するためのしるしであった。主イエス・キリストが神の御言葉を完全に成就したことを証明するための「しるし」なのである。それ故、今日の私たちの時代にあってしるしの奇跡を求める者がいるなら、その者はキリストのしもべではない。キリストは、「しるしを求めるこの時代は悪い時代です」と言って、しるしは求めるが、御言葉を受け入れない当時のパリサイ人たちを叱っておられる。また、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」とも言っている(ヨハネの福音書4章48節)。

       ルカの福音書16章で主イエスは、ある金持ちとラザロの話をされた。ハデスの苦しみに耐えられずにその金持ちはアブラハムに、「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と言った。それに対してアブラハムは、「彼らには御言葉があるのだから、それに聞き従えばよいのだ」と答えますが、金持ちは、「いいえ。もし誰かが死からよみがえって彼らの所に行ってあげたなら、彼らは悔い改めて信じるでしょう」と言う。アブラハムは「いいえ。もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と答えている。つまり、「御言葉を信じないなら、たとえ復活した人間の証しがあっても、決して信じない」ということである。

       奇跡を要求するものは悪しき者である。「奇跡を見なければ、私は信じない」と言う者は悪い者である、と聖書は言う。そして、奇跡というものは、神の御言葉と一緒でなければ、はっきりした証しにもならないのである。キリストは、マタイの福音書24章のところで「多くの惑わす者が現われて、人々を惑わすであろう。彼らは大きなしるしや不思議なことをして見せて、選ばれた者たちを惑わそうとする。選ばれた者たち以外は騙されるであろう」と、警告を与えている。悪魔も奇跡的なことを行なうことができるのだ。だから、奇跡を見て「これだ。これに間違いない」と決めることができるとは限らないのである。ただ力ある業を見たから信じるのは、あまりにも浅はかである。神は、特別に定まった時にのみ、特別に契約的な意味を持つ奇跡を行ない給うのである。それは、神が、「契約のしるし」として与えるものであり、神の御言葉の真実を証しする「しるし」なのである。

       パウロたちはキリストの使徒として選ばれた者である。人類の全歴史の中にあって、最も祝福された尊い働きをする者として選ばれたその十二人は、御霊の力によってしるしを行ない、そのしるしをもって自分たちがメサイアの力によって神の福音を伝えていることを証明しなければならない。御言葉のメッセージとともにしるしがあるのだ。旧約聖書に書いてあることを忠実に伝えているところに、それらのしるしは成り立っている。「しるし」と「聖書の御言葉」、その二つが一緒になって一つの証しとなるのである。だからパウロは、「しるしと不思議をなす力によって福音を伝えた」と説明するのである。

       そのことについては、誤解がないためにもう一度言うが、私たちはどんな事について祈っても良いし、病気の時に長老のところに来て、長老たちに油を注いでもらって祈ってもらうのも良いことである。神は私たちの祈りを聞いてくださる御方であり、御心ならば癒してくださることを私たちは確信している。神は今も、どのような事であれ、御心のままに行なうことができるからである。しかし、それは「しるしの奇跡」ではないということを、私たちは理解しなければならない。また、それは奇跡として証明できるものではないが、それはそれで良いのである。神は、私たちの祈りに答えてくださる神であり、どんな事であれ、私たちは信仰をもって神に祈り求めるべきである。そして、祈りの答えを受けたとき、その答えを神からのものとして受けなければならない。

       パウロは人を癒したけれども、パウロが自分の病について神が癒してくださるようにと三度も祈ったのに、神は彼を癒したまわなかったのである。主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」とパウロに答えておられる。そのような答えもあるのだ。その答えを聞いたとき、パウロは、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と言って、心から従ったのである。

       「どうか、神さま。このようにしてください」と祈っても、「いいえ。わたしはそれをしません」と神は答えるかも知れない。「それでは答えにならない」と言ってはならない。それも神からの答えなのだ。断るのも答えの一つなのである。その病は、神の御計画の中にあって意味があるものなので、神は「その弱さをもってわたしに仕えなさい」とパウロに言ってくださったのだ。その答えをも、神からのものとして受けるべきであって、それが答えならば、自分の病気も神から与えられた働きとして考え、その試練に耐えて戦わなければならないものだと思う。神が癒してくださらなければ、それは自分の人生において、自分に与えられた働きと関係あるものとして受け入れて、がんばるのである。その試練をも通して神の栄光を表わす生活を送るのである。

       今の時代には「しるしの奇跡」は与えられていない。今日、奇跡として主張されているもののほとんどは神の栄光のためというよりは見世物でしかない。完全な御言葉が与えられているのに、その御言葉に留まることをせずに奇跡を要求するのは良くないことである。そのように言うとき、もう神は奇跡をなさらないという意味ではない。「神は、もう祈りに答えてはくださらない」ということを教えようとしているのではない。神は確かにご自身の御旨通りに奇跡を行ない給うのだ。神はいつでも、御自分の御心のままに不思議なことを成してくださる。現に私たちが救われたのも、奇跡に他ならない。御霊の特別な働きによって、私たちは奇跡的に救われたのである。御霊が私たちの罪深い石のような心を変えてくださらなければ、私たちはキリストを信じる者にはならなかったのである。

       しかし、今日行なわれている不思議なわざは、しるしの奇跡ではない。神は、ノンクリスチャンたちの「自然法」という概念を当惑させるやり方でクリスチャンの祈りに応えてくださるが、それは「契約のしるし」の奇跡ではない。キリストの来臨以降、もはや契約の変更はないからである。しるしの奇跡は契約の移行期に属するものだということは、聖書全体において明らかである。そういうわけで、ローマ人への手紙15章の箇所で言っている奇跡としるしの話は、使徒としての働きと切り離して考えることのできないものであることを、覚えていただきたい。

       しかしながら、地域教会として福音の働きのために祈りをささげるとき、本当に私たちはへりくだった心をもって神に求めなければならないと思う。敢えて言うならば、私たちは神に、奇跡を与えてくださるように祈るものである。すべては不思議を成す神の御手にあるからである。私たちは祈りをささげ、神の御旨が成るように求めるのである。神の主権的支配は、今も使徒の時代と変わらないことを私たちは知っている。だから、私たちは主に信頼して、大胆に祈り、そして信仰をもって神が与えてくださる答えを受け入れるべきである。私たちは、本当に神の御前にへりくだった心を持たなければならない。これは大いに強調されるべきところである。

       へりくだった心をもって神が御恵みを注いでくださるように祈り求めなければならない。忠実に、自分に与えられている働きを、祭司としての自覚をもって行ない、まず自分を神にささげるのである。自分に与えられた働きを、感謝にあふれて行なうべきである。それが祭司の心であり、祭司の働きなのだ。私たちはみな祭司として主に仕えるものなのである。祭司の民であるイスラエルが、ブツブツ言いながら荒野を歩いたために、荒野で殺されたのは私たちへの警告であると思う。感謝の心をもって神に仕えることこそ、まことの祭司の姿である。

       私たちもまた、感謝をもって神に仕え、神に栄光を帰し、神の御恵みを誇り、神の御業を誇り、真にへりくだった心を持つ地域教会となることができるようにと、神は私たちに聖餐式を与えてくださった。聖餐式のとき、私たちはクリスチャンの原点に戻るものである。「私には何をする力もない。すべては全く主イエス・キリストの御恵みによって与えられたのだ。私の救いは100%主イエス・キリストの御業によるものである」と、私たちは告白するものである。

       「私の行ないが1%くらいあって、キリストは残りの99%をしてくださった」というような証しは、キリストを否定するものでしかない。「キリストが99%をしてくださったことを感謝します。でも、私のあの1%がなかったら、その99%も100%にはならなかったでしょう。その1%は小さくない」というような証しを、私は実際に聞いたことがあるが、それはキリストを否定することなのだ。聖餐式のとき、「神が私を、御恵みをもって救ってくださった。すべては神の御業のみによったのです」ということを覚えて、私たちは神との契約を新たにするのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けよう。

     

    ――2002年7月21日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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