クリスチャン・ホームがホームスクールを決断し、実行する場合、ただ単に子離れできずに可愛い子どもをいつまでも手元に置いておきたい、悪質ないじめや非行仲間から守ってあげたい、或いは、現体制下での様々な悪や危険から逃避するという否定的なものではなく、むしろ、積極的に、肯定的に教えてあげたいものがあるのです。そこで、現行の学校制度、この異教社会の現状では、まだまだ不充分ながらも、「ホームスクール」が現実的な解答だと思って皆さまも始められたわけですね。では、その“どうしても我が子に教えたいもの”とは何でしょうか。言うまでもなく、天地の創造主、永遠なる三位
一体の神とその永遠の書、御言葉の教えなのです。それで、今日のテーマが「聖書と教育」なのです。
神論から人間論へ
神論
神はこの書を通して、何を知らせようとしておられるのでしょうか。まず、御自身について啓示されておられます。聖書的に正しい「神論」を子どもたちに教えることからキリスト教教育は始まります。
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1:7)
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9:10)
極めて簡潔ですが、以下にまとめてみました。
1)神は創造主なる神である。全知、全能、永遠なる神は無からことばだけで万物を造られました。
創1:1; 伝12:1; イザヤ45:5-7; ヨブ38:1ff. (創造主)
ヨハネ1:1; ヘブル11:3; 詩33:6 (全知)
出6:3; 創17:1; マタイ19:26 (全能)
詩90:1-2; 黙1:8 (永遠)
2)その創造主神は、唯一の神であることを私たちは教えられています。これは教えられなければ分からなかった真理でしょう。
申6:4; 4:35, 39; ネヘミヤ9:6-7; ヨハネ17:3; 1コリント8:4,
6
3)そして、その唯一の神は三位一体なる神である。これも神御自身が啓示してくださらなかったなら、知り得なかった真理です。三位
一体なる神は愛なる神であり、契約の神です。
愛 1ヨハネ4:8; ヨハネ15:9-10, 12
契約 詩89:34-35; 111:29; 出34:5-6f., 10, 14-15, 27
(アダム契約--創1:26-28; 2:16-17、ノア契約--創9:9-17、アブラハム契約--創12:1f.;
15:18; 17:1f.、ダビデ契約--IIサムエル7:5-29、回復契約--ホセア2:18-23、新しい契約--エレミヤ31:31f.)
4)創造主神とは、万物の支配者、絶対的主権を持って御自分が造られた万物を統べ治める方です。王であり、義をもってさばく裁き主でもあられます
(1ヨハネ4:18)。多くの無神論者、進化論者は神の義なる裁きを恐れて、神を否定しています (1ヨハネ4:18; ヘブル9:27)。
黙1:8(2-11); 4:2-20:15 (4:8; 14:7; 15:3-4; 16:9);
IIペテロ2:9; 3:7; ローマ14:10, 12; 詩110:6
5)創造主は聖なるお方です。神のみが聖く、神に属する者・物も聖なのです。全ての被造物から完全に超越しておられるが
(詩139:6, 17-18; イザヤ55:8-9a; 詩145:18)、心へりくだった人とともに住みます (イザヤ57:15;
詩138:6; 黙21:3)。
イザヤ6:3; 黙4:8; 14:4; Iヨハネ1:5; レビ19:2; Iペテロ1:16;
詩99:1-5, 9; 111:9; ヨブ36:26
6)創造主、神には永遠の御計画と目的があります (伝3:11, 14; ローマ11:34)。
私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。(エペソ3:11)
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。…みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(エペソ1:4-5,
9-11)
その計画とは、人間による、義なる御国の建設なのです。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
(創1:26-28)
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて…(黙21:1-3f.)
Iコリント15:24; エペソ1:14; ルカ4:43; 8:1; マタイ4:23; 9:35;
マルコ1:14-15; 使20:25; 28:31; マタイ6:33
そして、歴史、人類史における究極的な目的とは、神御自身のみに栄光を帰することです。Soli Deo
Gloria!
エペソ1:6, 12, 14; 詩115:1, et al.
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 (Iコリント10:31)
人間論
少し余談ですが、立花隆の『ぼくはこんな本を読んできた』というのがありますが、そこで印象に残ったところが二つあります。東大文学部仏文科を24才で卒業、文芸春秋に入社し、「週刊文春」に配属され、その2年後には社員会報に「退社の弁」を寄稿して会社を辞め、翌年27才で東大文学部哲学科に学士入学し、その翌年から言論活動を始めるのですが、その「退社の弁」でこう述べています。
ぼくが、知りたいと思うただ一つのこと、ぼく自身とはいったい何者であるのか、ぼくとぼく自身とはいかに関わりあっているのか、ぼく自身と他者はいかに関わりあっているのかということ、それを知るためにぼくは本を読みつづけ、生きつづけてきたはずだった。それを知ることは、決して単なる思惟によっては果
たされないだろうし、研究によっても果たされないであろう。
おそらく、耐えざる生の営みの中で、見ること、考えること、することの三つを繰り返しフィード・バックすることのうちに、ある日精神的な飛翔をとげられる時が来、すべてが直感のうちに把握することができる日がくるにちがいないというのが、ぼくの生活を支えてきた期待であり信念だった。(164-165頁)
それから約30年後の1995年に出版した同書に、医学用語で「見当識」ということについて書いています。「病院で、患者の意識レベルがどんどん低くなっていったときに、それがどのくらいのレベルにあるかを判断するために」3つの質問をするそうです。「ここはどこですか」「あなたは誰ですか」「いまいつですか」。それらに対し、次のようにコメントしています。
実は、この三つの見当識に対する答えというのは、人類が人類史の総体をかけて、なんとか探り出そうとしてきた目標そのものなんですね。本質的な意味では、その答えはいまだ得られていない。得られないからこそ問い続けて、どんどん知的欲求を膨らませていく結果
になったわけです。この三つの質問に、本当に深いレベルで答えようとしてきたことが、われわれのすべてのサイエンス、文化、文明というものをつくってきた原動力になってきたのではないかと思います。(29-30頁)
実にあの知的巨人、立花隆でさえも、この根本的な問い「人間とは何か、自分とは何か」に対しては無知であるのです。しかし、神は聖書を通
してすでに教えてくださっています。この世で一生の間、迷い、さまよい続けたりすることのないように、人間とは何なのか、自分は何者か、正しい人間観を子どもたちに教えなければなりません。
一言で言うなら、人間とは、「神の似姿」に造られた者、ということが言えます。ゆえに、当然、正しい神観なくして、正しい人間観をもつことはできません。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創1:26-27)
人間が神の似姿である。その意味するところを簡潔にまとめてみました。
1)創造主神に似た者として造られた人間に、完全なるオリジナル性は皆無ですが、神の被造物からから真似をして、何やらいろいろと造ったり作りたがったりします。芸術性を問うとき、一つには、その作品の独創性が評価されます。
2)絶対主権者、支配者であられる神に似た人間とは、神のような主権をもってはいませんが、神の下にあって、万物を治める支配者です。後に、選ばれ召され贖われた者はキリストと共に永遠に支配します。
創1:26, 28; ローマ5:17; 詩8:4-8
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(黙22:5)
3)全知で三位一体なる神に似せて造られた人間には、動物などとは全く異なり、「ことば」(言語能力)
が与えられています。それにより、人間は、思惟、思考、理解し、知的探求もでき、万物を統治、管理することもできるのです。文化、文明を築き上げることもできたのです。現代文明、コンピュータ技術、インターネットなどでは、ことばを用いるので、互いにより正確に知性的なコミュニケーションをとったり、人格的な交わりをもつことが可能なのです
(cf. ヨハネ1:1; ヘブル11:3; 詩33:6; 119:25, 1-176)。
4)三位一体の神に似た者である人間とは、個人であると同時に人類あるいは特定の社会に帰属する存在です。
個人の個性とは、その人独特の性格、人格、情緒、感性、知性、出身、教育・教養、思想、物の考え方、あるいは、その人の体格、体質、顔立ち、表情、声の質、喋り方、立居振舞い、様々なくせ、特技、などを全部一緒にしたもの、と言えるでしょう。しかし、その個人としての人間性とは、その人に与えられた自由意志とその人の神に対する信仰に見ることができると思います。ところで、この自由意志とは、神の自由自在性から来ています
(申4:45; 出3:14)。動物は一度に大量が造られましたが、人間は一人ずつ、独立した人格として造られました (創1:20-25;
2:7-25)。しかも個人名が与えられました (創3:17-20)。神は「土地のちりで (hmdahNm)」、最初の「人を (odahta)」形造られる
(創2:7) 前から人をアダムと呼ばれ (創1:26, 27)、そしてその後それがそのまま人類の代表者としての個人名 (創3:17;
ローマ5:14)、アダム (oda) となりました。
しかし、人間は孤独な存在としては造られてはいません (創3:18f.)。アダムとエバはペアとして夫婦として造られ、最初のクリスチャン・ホーム
(家庭) を始めました。ことばを用いて、人格的、知的に交わり、愛し合い、共に同じ目的のために、同じ目標に向かって助け合い、御国の同労者、契約の共同相続者として造られたのです。まさに、人間社会の本来あるべき姿でした。
5)三位一体の神に似た者として造られた人間は、心を尽くして、神を愛し、人を自分と同じように愛すべきです。それは、神の契約を守り、神の命令を守ることに他なりません。
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29-31)
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。…神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(Iヨハ
ネ4:19, 21; cf. Iヨハネ4:8; ヨハネ15:9-10, 12, 17)
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(Iヨハ ネ5:3)
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。(Iヨハ
ネ5:1-2; cf. ヨハネ14:15; 伝12:13)
6)聖なる神は、人間に聖くあれ、と命じています。思いにおいても行ないにおいても、聖い神に向かって、神に喜ばれるように生きる、聖い生活をもって、御前を歩むよう要求されています(cf.
ヤコブ3:17; ガラテヤ5:22-23;
マタイ5:8)。
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。(Iペテロ1:16)
7)永遠なる神は、また人の心に永遠への思いを与えられました。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝3:11)
人間には肉体もたましいも与えられています (伝12:7; マタイ10:28)。肉体は「土地のちり」から成り立っており
(創3:19; 詩90:3; 103:14)、たましいは、神のいぶきが吹き込まれたその人の“いのち”です (創2:7)。しかし、罪のゆえに、人は死ななければなりません
(創2:17; 3:19; ローマ5:12f.; ヘブル9:27)。が、それはかの日に復活し (Iコリント15:35-56)、キリストにある永遠のいのちをいただいている者は栄光のうちにキリストと共に生き、共に永遠に治めるようになります
(ローマ8:10-24, 30; Iコリント15:20-28, 39-49, 52-56; II テモテ2:11-12; 黙22:5)。
…しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。…神のなさることはみな永遠にかわらない。…
それに何かをつけ加えることもそれから何かを取り去ることもできない
(伝3:11, 14)。
ゆえに、人は神を恐れ、神に信頼し、神の命令を守って生きることが最善であることを悟るべきなのです
(伝12:13)。
神論・人間論から歴史観へ
正しい神観あっての正しい人間観。間違った神論からは当然間違った人間論しか産まれてきません。世の中の宗教を考えてみて下さい。八百万の神々、多神論、汎神論からはどのような人間論が産み出されるでしょうか。人間の、あるいは人間社会の全ての問題の解答も、この二つにかかっています。人間がVoyager号を宇宙のかなたへ飛ばそうが、書物を何冊読もうが、自力では求めても得られない一番大切な真理を神は聖書を通
して人間に啓示してくださったのです。
このような神なるお方がこの天と地と人間を創造され、人類史において、御自分の永遠の御計画を実現なさろうとしていること、そしてその御計画の歴史における展開を聖書に見ることができます。聖書にはストーリー性があるのです。つまり、聖書は、人類史を一つにつなげた歴史物語です。この物語には初めもあり、終わりもあります。そして神の永遠の目的もあります。この物語を貫いて、主語は神御自身であり、主要登場人物は神の選ばれた民とその敵どもです。私たちが、聖書を人類史の物語の書としてとらえたとき、そこに人類史の目的と目標が見えてきます。神の永遠の御計画が歴史においてどのように、神の選ばれた民を中心に、そしてキリストの教会、召された人々を中心に展開してゆき、歴史の目的が成就されるのかが見えてくるのです。歴史の目指す目標が人間による義なる御国の建設、また人類史の究極的な目的が神に栄光を帰することであるならば、それが、そのまま個人史の目的・目標でもあるべきでしょう。そして、また、それがそのまま教育の目的、目標となるべきでしょう。
聖書を一つの体系として子どもたちに教える一つの方法は、それを歴史物語、人類史物語として教えることです。そのような聖書的歴史観をもつ子どもたちは、それぞれの時代、それぞれの地にあって、人々がいかに生きるべきか、また、自分たちがこの時代、この地にあっていかに生きるべきかを願わくば、悟ることができるようになるでしょう
(cf. I歴12:32; 伝9:11-12; 3:1f.)。
キリスト者としていかにその人生を全うすべきか。主からの召命と賜物をいかに受け止め、受け入れるのか。あるいは現代社会がかかえ込んでいる諸々の課題、問題に対して、その解答、解決の方向性をどこに求めるのか。これらの問いに対し、全ての答えを、神の永遠の御計画、歴史の目的、目標に沿って、求めていくことができるのです。
というわけで、次世代に聖書を教えるには、具体的な細かいノウハウ以前の了解を必要とします。
1)第一に、聖書はキリスト教教育の内容の中心であるべきです。
すべての学び、学問分野の前提、基盤、基準、原則となる神論を常に中心に置き、神論から人間論を説き教え、そして歴史観を教えます。神第一、御国第一の歴史観です。聖書を人類史の営みとしてとらえるのも一つの体系的アプローチです。
2)しかし、聖書は教育の目的ではありません。
いくら聖書の内容を学んだとしても、もし神御自身がぼんやり、うっすらの存在になったり、神を自分の視野の中心にとらえることができなかったり、あるいは見失ったりするなら、また、神の似姿としての自覚がおぼろげになったりしたのでは、聖書を学んだことにはなりません。聖書物語を学んでも、神の歴史の目的・目標から、自分史の目的・目標がそれてしまったのでは、本当に学んだということにはなりません。教育の目的とは、単に、一人ひとりの個性を伸ばし、才能を引き伸ばし、名を挙げ、良い収入を得て暮らしぶりが良くなり、生活が楽になり、好きなことをして人生をなるべく楽しむ、ということでも決してないはずです。キリスト者にとって、教育の目的とは、神、我が造り主を正しく知り、正しく礼拝し、神を愛し喜び、神に従い仕え、御名に栄光を帰することに他なりません。神が見えてくるほどに、自分も社会も世界も歴史も見えて来るのです。
3)教育の目標とは、子どもたちが、御国再建という歴史的大事業のために働く御国の働き人となることです。
個人レベルでは、子どもは幼いときから義の訓練を受け、成人してキリスト者人生を御国建設のために生産的に全うすることができるように備えられます。
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)
家庭レベルでは、御国の縮図としてはキリスト教社会の最小単位であるクリスチャン・ホームの中で、親の権威と保護の下に、親の愛、家族愛に育まれ教えられつつ、クリスチャン・ホームの家庭人としての責任、在り方を学び、訓練を受けつつ、次世代のクリスチャン・ホームを担うことができるように備えられます。
地域教会レベルではどうでしょうか。地域社会としてキリスト教社会の縮図に一番近いのが地域教会です。そこでは、聖日合同礼拝においては、聖餐式を中心に賛美と祈り、みことばの宣教があり、その他、聖徒の交わり、洗礼、結婚式、葬式、教会戒規が実施され、主にある兄弟姉妹と共にその地域にあって聖書の真理をかかげ
(Iテモテ3:15)、光となり塩となる (マタイ5:13-14) 役目を果たします。御国の同労者として働き、キリストのからだを建て上げ、地域教会の使命を共に全うします。
さらに、国家規模で、あるいは世界規模で、キリスト教文化・文明が築き上げられることを目指します。
4)教育の方法についてはここではふれないことにしますが、後ほどホームスクールのカリキュラム作成についての中間報告があります。
最後に結びとして一言。
本ホームスクール研究会としましては、クリスチャン・ホームの次世代が御国の働き人にふさわしく教育、訓練され、成長できるように、クリスチャン・ホームが互いに、そして地域教会とも協力し合って、ホームスクールの内容と目的、目標、その方法などを確認し合いつつ、さらに確実なものにしていきたいと願っていますので、皆さまの今後の働きに大いに期待しております。